連載小説
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思い出
 無数のカモメの鳴き声が船の甲板の四方八方から聞こえてくる。
 きっと誰かが餌を投げてくれるのを当てにしていて、船と並走しながら待ち構えているのだろう。
 
 白く塗装された船体に日光が反射して眩しい。
波のせいで安定感のない甲板の上では、潮風が僕の横っ面にぶつかってきて少し煩わしかった。

 船のステージでの母さんの演舞のリハーサルは滞りなく終わり、あとは演舞の時間を待つだけだった。
 といっても演舞自体は昨日母さんが夜中に練習していたらしいので、リハでやることは実のところ場当たり程度しかなかったのだけれど。
 
 というか母さんに同伴したものの、そもそもこの船の中で僕自身にやることなどほとんどないのだ。せいぜい母さんの挨拶回りに付き合うくらいである。 今回のイベントも普段の島での行事と比べれば、厳粛な雰囲気など皆無だ。全く持って素人相手、観光客向けの些細な出し物程度でしかない。

 僕はポケットから携帯電話を取り出して時間を確認する。演舞の本番まであと20分ほどある、それまでは特にやることがない。

 僕は風を背にして、船の進行方向と反対側の海を眺めていた。
船の手すりに両肘をついて船の下の方を見ると、スクリューから大量の白い泡と青緑色の海水が放出されている。その泡を見るだけでどこを船が通ったのかが一目瞭然だ。
 その2つの色が混じったラインは青い空と藍い海の境界線に向かって線路のように遠くまで続いていた。
 ラインは船から離れると段々と消え去り元の青色の海に戻っているが、よく目を凝らして見ると光の加減でおぼろげながらわかる。


「またここにいたのね」

 脇にある階段の辺りから女性の声が聞こえる。聞き覚えはないが、船に乗るたびに僕が甲板のこの場所に来ることを知っている人物はそう多くない。
 そろそろ話しかけてくるかもとは思っていた。既に警戒態勢は準備ができていたので驚くことはなく、僕は答えを返す。

「ここ、お気に入りだから」
 
「ふーん…」

 つまらなそうに糸井楓香は階段を上りきり、肩まであるブロンドの髪をおさえながら僕の傍まで寄ってくる。
 すると彼女はそのまま僕の隣で、両肘をついて僕と同じポーズをとった。
僕は少しだけ、肘を引いた。

「とりあえずさ」
 そっけないような、催促をするような微妙なニュアンスで彼女は言葉を投げかける。

「…なに?」

「…元気、だった?」

「はぁ…」

「はぁ、ってなによ。つれないわね」

 返答に困るのも当たり前だろう。親族の挨拶ならさっき船に乗る前にしたし、つい最近まで君のことなんて忘れていたのに何を言うことがあるのか。

「ほら、昔…色々あったし、…積もる話でも、なんてね」

 楓香はもごもごと口を動かしながら探るような感じに言葉をつづけた。
 
 正直語るような積もる話があるかといえば、無い。10年以上音信を取らなかったのだ。あの頃はもう二度と会わないと思っていたのだから積み重なるというより、埋もれていたという方が正しいと思う。

今日だって昨日のタガネの件がなければ、ここにはいない。

「…まぁ、それなりには。何も考えずにぼぅっとしてたら時間が過ぎていった感じ、楓香のことも昨日まで忘れてた」

 素直に頭に浮かんだ言葉を僕はそのまま告げる。ここでごまかしたところであの出来事、彼女に乱暴をされた事実が消えて無くなるわけでもない。
 あと、一応昔はそれなりに仲がよかったのだし、今さら社交辞令を言うようのもなんだか変だなと思ったからだ。
 
「そっか。まぁ…一度は忘れられたのならよかったわ、ずっと覚えていたら、嫌だろうし」

 それっきり彼女は妙に納得した顔で目を伏せて、手すりに突っ伏す。
彼女の碧い瞳の視線の先には、船のスクリューが轟音を立てている。僕も同じようにそれを見つめる。
 
 しばらくの間、僕の耳には風と船のスクリューの轟音しか入ってこなかった。


……。


 どれくらい経ったのか、5分程度のような気もするし30分以上たった気がしないでもなかった。船の下から際限なく泡が繰り出されているのをみていると、時間の流れが時々わからなくなることがある。

「継と会わなくなって、もう何年前になるんだっけ?10年?」

 何を話すべきか、何も言わないべきか。僕がそんな風に考えていると、彼女がふいにそう切り出してきた。

「…小5くらいだった、はず。だから…7年かな?細かく覚えてないけど」

「そか。ふふ、懐かしいねぇ。その時の継はまだ、この手すりに肘が届かなかったのにね」

「…うん」
 楓香は手すりをつつぅと指でなぞる。
それを横目に、また僕は視線を足元の海へと下ろす。

 懐かしい、か。そんな綺麗な言葉は聞こえがよすぎる。


 彼女と再会して一時間ほど、僕の頭の中から彼女と一緒に過ごしてきた思い出が泥の中の砂金のように少しずつ浮き上がってきた。

 結果としてはいい思い出ではなかった。
もちろん話したり、一緒に遊んでいる時は本当に楽しいと思っていた。
 夏休みに祖母の家に帰る度に僕は彼女と出会い一緒に過ごしていた。一緒に川遊びをしたり、ゲームをしたり、トンボやセミを捕まえたり、花火をしたり。一年に数日しか会えなかったのが、彼女と過ごした時間は甘いスイーツのように心地よく、僕も心のそこから楽しんでいたのだ。
  


 しかし、彼女は時折僕の理解できないことをしてきた。

 それは楓香の部屋に招かれるたびに行われた。

 初めてしたのは幼稚園の年長の頃、彼女は僕のシャツやズボンの中にするりと手を入れてまさぐってみたり、自分のスカートの中に僕の手や顔を奪って擦り付けてきたのだ。
 
 まるで何かが取り付いたみたいだった。
 
 最初は僕も抵抗したが彼女の腕っぷしはかなわなかった。彼女は無理やりいうことを聞かせようと僕の髪を引っ張り、小さな可愛らしい手で僕の脇腹を引っ掻いた。今の彼女のような朗らかな態度からは想像できないほどの豹変ぶりだった。どうあっても彼女はその行為をしたかったらしく、次第に僕は抵抗をすることをやめた。

 その行為の本当の意味はしばらくずっと理解できなかった。
ただ、その行為を子供の自分がまだしてはいけないということにだけは気づいていた。

 本当は、その行為について何も知りたくなかった。
 彼女の手が僕の股間に触れるたびに、布越しの彼女の身体に触れるたびに、
気持ちがいいと思ってしまう理由も。自分のペニスが排泄以外の用途があるということも。
 そして、彼女が幼いながらその用途に気が付き、それを僕としたがっていたということも。いつからか僕自身も、心のどこかでそういったことに答えたがっていたということも。

 本当はやめて欲しかった。
 でも、それを拒否したら、彼女に嫌われてしまうかもしれない。
彼女と二度と抱き合うことができなくなってしまうかもしれない。

 それは嫌だった。生まれたての煩悩に惑わされながら、僕は幼稚園から小学5年まで彼女との情事を繰り返していたのだ。

 僕は最初、彼女のことを親友だと思っていた。きっと一生の友達になると、心のそこから信じていた。

 そこに男女の関係だから、そういう生き物だから、なんて考えは全く無かったんだ。

 きっとその行為よりも、大切なものがあると信じていたのに。

「…ねぇ、どうして急に顔を出したの?」

 船の下をみつめたまま、遠慮なしに楓香は問いかけてくる。
 昔から変わらない。さっぱりした性格の彼女だけど、僕もそうやすやすと全てを答えられるわけではない。
 
「いや、まぁ…ちょっと現実逃避をしたくてね」

 何の説明にもなっていない一言だけを僕はポンと彼女に放り投げる。彼女にタガネや魔物の話をしたところで納得するとは思わない。
 きっと都市伝説を本気で信じる変な男として、彼女の青い瞳の奥に刻まれてしまうだろう。

「逃げるためにわざわざ逃げていたところに来るなんて、なんだか破綻している気もするけど」
 
「…僕もそう思う」

 皮肉のこもった彼女の言い分に悔しくも心の底から納得してしまった。
今の僕の行動は全く持って理にかなってない。なぜここに来ているのか、僕自身ですら意味が分かっていない。

 それに、今まで僕に避けられてきた彼女にそれを言わせるのが、少し申し訳なかった。
 
「なにか、あったの?」

「別に。ただ、自分の都合で行動するのが…嫌になったのかも」

彼女は黙ったまま、僕の顔を見る。僕は楓香の顔には応えなかった。

「…自分のしたいように動くのは悪いこと?」

「分からないよ、そんなの」

 不意に肺が詰まるような窮屈な感覚に襲われるが、それでも僕は構わず言葉を続ける。

「でも、その人の、その相手の気持ちを考えずに、自分と相手の損得だけを押し付けるのは、間違っていると思うんだ」

言ってから少し後悔した。
 僕は別に言い訳をしに来たのではないだろうに、そう頭の中の隅で僕の冷めた理性が自嘲気味に呟いていた。
それに、なんとなく彼女を責めるようなニュアンスになってしまった罰の悪さもあった。

「…そう、そうかもね」
 楓香はほんの少しだけ哀しげに微笑むと、風に乗せて髪の毛をかき上げる。


また沈黙。

だけど、今度は短めだった。またしても楓香が先に口を開いた。

「…継。魔物って知ってる?」

 思った以上にその言葉に反応してしまったようだ。僕は彼女の顔を凝視してしまった。
 彼女と思いっきり目があってしまう。彼女はくすりと微笑むと、コバルトブルーの瞳が僕の顔をがっちりと捉えてくる。その海のように澄んだ瞳に見つめられると、なんだかタガネのことまで見透かされているみたいだった。

「…あ、いや、知ってる、ほんの少しだけど」

 しどろもどろに答えると、彼女は微笑みを崩さずに返事を返す。

「そう。私も詳しくはないけどね」

 楓香は手すりからさっと手を放すと、揺れる船の上を軽快に歩き、傍にあった塗装の剥がかれたベンチに勢いよく腰かける。

「魔物の図鑑とかに都市伝説みたいな話は沢山あるけど、アレって本当のことだと思う?」

 楓香は世間話のようにさらりと言葉を返してきた。
だけど、腑に落ちない。なぜここでそんな話をするのだろう。僕がタガネに会ったことを知っているはずがないのに、なんでよりによってそんな話を?

 まぁ、仮に知っていたとしてもだ。
ここでいきなり「昨日会った、だから真実だ」などと言うつもりはなかった。
何か意図があるような気がしたが、とりあえずは無知を装うことにした。

「さあね。実際のどこにいるのかも分からないし、魔物に直接会ってみたら信じられるだろうね」

「ふふ、それはそうね」

 そう、魔物にあってみなければ魔物のことなんて分からない。
僕だってそうだった。随分都合のいい話だと思って信じてこなかった。
 でもタガネに会ってから、それらは本当のことなのだと理解できた。
タガネに犯されてから魔物という生き物の存在を知ったのだ。彼女がどういう風に生きているのか。その末端を。

でも…。


「でも、会ってみたって、語ってみたって…分からないことも、あるわ」

 一瞬、彼女と言葉が重なったのかと勘違いした。
後から自分の唇が動いていないことに気付き、彼女の顔を見る。

 だが自分の中での意味は理解できても、彼女の中でのその言葉の意味は分からなかった。僕は少しためらいながらも聞いてみる。

「…どういう意味?」

 しかし、彼女は首を軽くゆっくりと横に振る。
座ったばかりのベンチに軽く手を打ちつけて、すくっと立ち上がる。

そして、その勢いを乗せたまま、僕の胸元まで顔を近づける。

「なんでも、そのうち話す。話せるだけ、ね…」
 
 彼女の吐息と、妙に蠱惑的な囁き声に一瞬身体が身構える。
今になって、7年という月日は彼女をかなり女らしい体つきに変えていたことに気づかされた。
「そ…そう」
口が震えて、そんな間抜けた声しか出なかった。

「そんなに身構えないでよ。あの頃より成長しているんだから、少なくとも身体はね」
 クスクスと笑うと、話はおしまいとばかりに、彼女はくるりと踵を返した。

「ねえ、継」

こちらを見ずに、楓香はぼやくようにつぶやいた。

「…なに?」

「あのときはごめんね。でもね…」

彼女が振り向く。そこにある顔にどこか見覚えを感じた。

「でもね、最初は、本当に…あなたが好きだっただけなのよ…」

 悲しみと恥ずかしさと、いろんなものが混じったような微笑み。
顔つきはまったく似てないのに、その顔は僕に昨日のタガネを思い出させた。

楓香はそれだけ告げると顔を隠しながら、階段を駆け下りていった。

 僕は彼女の突然の告白に動揺していた。






…わけではなかった。そんなことは7年前からとっくに気づいていた。


 小学生5年の頃のあの日、彼女と結合した時から。いや、もっと本当は前から。

その日、いつもの彼女の部屋で、僕は押し倒されて服を剥がれ、そして彼女は僕の身体に跨った。

 いつもの抱き合うだけ、触りあうだけとは違うことにはすぐに気づいた、その時の楓香は何か、決定的な一線を越えようとしていた。


――こんなのじゃない、違う――


 あの時、血の滴る彼女の秘部が僕の目に映った瞬間、真っ先に僕の頭に浮かんだのは否定だった。
 その頃には僕だって男女の関係というものを若干知り始めていたわけで、彼女のことをそんな風に思ったこともあった。彼女の方も、なんとなく僕を好意的に見てくれていることに気付いていた。

でも、そうじゃない。

 僕が最初に望んでいたのはそういう関係でも、そういう行為でもなかったはずだった。
 もっと純粋で、宝石のように輝かしく美しい関係を信じていたのだ。

だけど彼女の両足の間から染み出した血は、僕らはしょせん男と女、そんな関係はあり得ないということを僕に分からせようとしている気がした。

 僕は男としての自分を受け入れられなかった。
それを認めてしまったら、欲しかったものを失ってしまうような気がした。
 でもそんな僕の感情を差し置いて、彼女の秘部は決して僕を離さなかった。

 僕も逃げ出せなかった。
 マグマのように煮えたぎる下腹部の欲求に耐えられず、結局最後までその行為にあらがうことができなかった。
 それは決定的な敗北だった。何に対してはうまく言えないが、それはもう認めてしまったようなものだった。


 だから、その日から僕は彼女と会うことをやめた。

 綺麗だと信じたものがなくなってしまうのを、それ以上見たくなかった。
だったらいっそのこと、見えなくしてしまえばいいと思った。

 僕は自分の都合で、僕は楓香との行為を否定し、楓香との記憶を生き埋めにし、楓香との関係を捨てたのだ。
 
 そして今も、彼女のせっかくの告白を冷めた視線でそれを受け止めている。そんな自分自身が大嫌いだった。

 きっと楓香も、僕が会わなくなった理由にきっと気づいているはず、それでも、ああやって拙くとも、今さらな話であっても、最初にあった気持ちを口に出してくれたのだ。
 なのに、僕はまだ変わってしまったものを、友情だったものを受け入れられずにいる。

 一方で、タガネは十数年もの間、魔物ゆえの性に悩みながら生きている。
生きるために、食事のために男と交わることに動揺し、不安定ながらも生きている。
 
 だが、僕は目の前の性欲でそれを裏切った。性欲に飲み込まれる悲しみを知っていたはずなのに。
 気持ちだけはまるで物語の主人公になったかのように、ただ彼女を救う気なだけでいた。

 そうだ。僕はいつだって、こうして自分の都合を考えるんだろう。

嫌いだ、そんな自分が大嫌いだ。

 僕はさっきまで楓香が座っていたベンチに腰を下ろす。
耳に届くのは相変わらずの船の轟音と風の音だけ。

 太陽のほうを向いたまま、僕は目を軽く閉じる。
瞼越しの視界が真っ赤に染まる。
動物とさほど変わらない色の、赤い僕の血液が透けて見えた。



 
15/07/13 01:26更新 / とげまる
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■作者メッセージ
なんか常にテンション低いですねこの小説…

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