♥冬が終われば
甘い匂い。
ふわふわした甘い匂いが、頭をふわふわにさせてくる。
ダメになる匂いだ。堕落して堕落して、ゆるゆるになっちゃう匂いだ。心が穏やかになって、鼻の下が伸びて、顔面の筋肉がストライキ起こして、全身に力が入らなくなって、とにかくダメになる。
でも、いまでは自制は必要なくなった。はるさんを思いっきり抱きしめて彼女に埋もれても問題なくなった。だって、
「俺は……やった……」
「うんうん、よくがんばりました。えらいねー……」
死に物狂いの奮闘で、どうにかこうにか志望校のボーダーラインより上に入ることが出来たんだから。そうして合格した。ギリギリだけど。
詰め込みと一夜漬けと反復学習と、やれるだけのことをやって、本当にどうにかこうにかした。そのために、はるさんに甘える回数さえも出来る限り減らした。
つらかった。勉強は嫌いじゃないって思ってたけど、嫌いになってしまうくらいにつらかった。はるさんがいなかったら病んでたかもしれない。彼女の笑顔と温もりと、そばに居てくれることが心強かった。
「しあわせ……」
「いっぱい噛み締めてね。鷹見くんの好きなだけ」
ベッドに座った彼女の柔らかいお腹へ、すりすりと頭を押し付けるように腰回りを抱き締める。はるさんは少しも嫌がらず、ただ微笑みながら頭を撫でてくれる。なにもかもがどろっどろにほどけてしまいそうだ。頭がばかになる。幸せには中毒性があるってことは、もう身に沁みて理解してしまった。
吐息が深くあふれていく。なんで幸せなときってこう、深呼吸しちゃうかな。ベッドの上で横になってるだけでもそれなりに幸せだけど、いまはその上はるさんの膝枕がある。俺だけで世界が救えそうなくらいに幸せエントロピー増大中。
はるさんのお腹に密着した耳から聞こえる、彼女の胎内の拍動。これも幸福感の原因の一つかな。すごく落ち着くリズム。
「よしよし……がんばったがんばった」
「もう死んでもいい……」
「よくないよー、もー」
冗談だけど、ここで死んだら未練なく成仏できそうなくらいに幸せだ。
はるさんから与えられた、いろんな幸せ。これで少しは報いることができたかな。どうだろ。まだまだ彼女からもらったものは返せてないし、返しきれないかもだけど。ていうか現在進行形で貰ってるもんな。
でも、とにかくよかった。清々しい気分だ。いまはただ、はるさんの温もりが曇り一つなく受け止められる。
「……ほんとに液体になりそう」
「え、スライム?」
「ちがうけど……しあわせすぎて、スライムになりそう」
「ふふっ、スライムインキュバスになっちゃうのかな」
つんつん、とはるさんの人差し指が俺の緩んだ頬をつついてくる。スライムだったらするっと飲み込んじゃうんだろうな。俺はまだまだスライムになれそうにない。そもそも人間だし、男だし。
頭がふわっふわしてる。スポンジケーキだ。はるさんの匂いがホイップクリームになってしまった。もう自分がなに考えてるかよくわからなくなってきた。
「あ〜〜〜〜……動きたくない……ずっとはるさんの身体にひっついて過ごしたい」
「おトイレ行けなくなっちゃうから、ずっとはだめだなー」
「じゃあ、ほとんど……」
「ふふ、ぼんやりしてるなぁ」
だって、それが許されるから。今日くらいは。
自分を追い詰めて勉強して勉強して、そうしてようやくセンター試験を乗り切って進路が定まって、一段落したんだしさ。
きっとこれからもいろいろなことが壁として立ち塞がってくるだろうし、逃げずに立ち向かわなきゃいけない。逃げたとしても、はるさんはただ微笑みながら許してくれると思う。でも、逃げたら自分が追いかけてくる。お前はダメな奴だと自分が叫んでくる。それはもう嫌だ。
俺は、はるさんが大好きだ。はるさんも大好きだと言ってくれた。彼女とずっと一緒にいることに決めたし、彼女を幸せにすると誓った。彼女に嘘をつくのは絶対にしたくない。――きみににあう、ぼくになりたい。
……とかなんとか、かっこいいことを並べてもはるさんに甘えてるわけだから説得力がない。こんなもんだ。完璧超人にはなれないっす。
「ぎゅーってしてるのもいいけどねー」
「ん?」
「……しなくていいの?」
「……んー」
こうやって向こうから催促してくるの本当卑怯だと思う。どっちつかずの曖昧な返事をしてしまうのは、ちょっとだけでもかっこつけたいからだ。断る理由なんてないんだけどな。
する前の雰囲気も好きだ。まったりしていて、お互いに身体も心も絡み合って、一つになる前の緩んだ空気。もうちょっと味わっていたい。今日の俺は贅沢したい気分。
はるさんは少しだけ困ったような、満更でもないような表情で俺を優しく見下ろしてくる。うつ伏せにしていた身体を動かして仰向けになり、はるさんの顔を見上げる。目が合う。
「もうちょっといちゃいちゃしよっか」
「ん……」
互いに見つめ合うだけで、彼女にはなんでもお見通しだ。
室内灯の光がはるさんの表情を照らして、人とは違う肌色に浮かんだ人と同じ微笑みが網膜に焼き付いていく。目を細めて恋人を見つめる優しい視線は、彼女だけじゃなくて俺もしてると思う。
「鷹見くんは初めてえっちしたときのことって覚えてる?」
「……すごい恥ずかしいんですが」
「ふふん。忘れてたらブルー・スリーの刑だったよ」
「一応聞くけど、どんなの」
「空気椅子でー、両腕を前に伸ばしながら両肩と両膝に水入りのコップ乗せるやつね」
「ああー……俺映画見てないんだけど、アレはなんでああしてたの」
「さあ?私も見てないからねー」
こいつ。
こういうときに舌をぺろりと出しながらごめんねと謝るのは彼女のいいところだ。脱線した話を元に戻すきっかけになる。ただ呆れただけとも言う。
「初めてしたときねー、ずっとドキドキして緊張して、いやな初体験になったらとか思っちゃって怖かったよ。鷹見くんに捨てられたらどうしようとか。美人は三日で飽きるとかね」
「……そんなの、俺もそうだよ。いつかはるさんに見限られるんじゃないかって、いまでも怖くなってる」
「ふふ……二人とも、答えは明白ですなぁ」
そっと、愛おしげにはるさんの手が頬に触れてくる。伝わってくる熱は、あまり感じない。もう俺の頬は暖まってるから。はるさんも。
「別の意味でも、ドキドキしてる。毎日毎日、鷹見くんと一緒にいるとね。目で追っちゃう」
「だからいつも目が合うのか……」
「そういうことだねー、ふふふ」
似た者同士だ。だから、視線が重なれば心が通じる。そんな甘くとろけた日常のよくある風景。
はるさんは少しだけ腰を浮かせて、座り直す。慣れたもので、彼女が少しだけ腰を浮かせた時点で邪魔にならないように頭を離す。すぐにはるさんの太ももに着地するんですが。
「二人一緒に過ごして、じわじわと時計の針が進んでいくーみたいに思ってたけど……もう、半年以上経ってるんだよね」
「初めて会ったのが五月の……第四週かな」
「うん。あっという間だったね?」
「あっという間だったなー」
時の流れる早さは不定だ。
早くなったり、遅くなったり。時間を忘れて、という言葉が当てはまりすぎた半年間だった。勉強、はるさん、勉強。学生としては健全なのかもしれない。不純異性交遊、なんて言葉はここ半世紀で教科書送りになってる。
「鷹見くんといると、一瞬で一日が過ぎていくんだもんね。すぐおばあちゃんになっちゃうよ」
「そのときは俺もおじいさんかな……ハゲたらやだな」
「えー、かわいいよー」
「ふさふさでかっこいいおじいさんのほうがいい」
「あー、それもいいね」
未来像か。彼女と出会うまでは、ろくに見えていなかったものだ。なんとなく大学に行って就職して恋人ができて結婚して子どもができて……っていう、よくある道筋をピントのずれた視界でしか見えなかった。
大学は決まった。就職したい業種も決まった。お金が溜まったら結婚式をするし、新婚旅行だって行く。はるさんのおかげで、自分の人生ってやつにようやくピントが合わさった。くっきりと見える気分は、案外悪くない。
旅行、……旅行、か。
「またなにか企んでる?」
「また、ってなに……べつに変なことじゃないよ」
「そう?いたずらが好きだからなー、ゆうくんは」
あ、呼び方が変わってる。
「……いまからしようかな。いたずら」
「おー、むらむらきちゃった?ふふ」
「それははるさんの方でしょ」
「んふふー……あ、ねえねえ。ゆうくん」
呼び止められて、半ば起こしかけた身体がまた横たわる。肘で身体を支えようか迷ったけど、結局は彼女の太ももの上に頭を落とした。
「その、さ。そろそろ、さん付けやめよっか」
「え、あ――」
「癖になっちゃってるよねー。他人行儀は良くないぞー」
これまでずっと、この呼び方をしてた。はるさん、はるさんって。だって、彼女は俺を引っ張ってくれる。助けてくれる。迎えてくれるから。
そうして、彼女を呼ぶときにはさんを付けるのが基本になっていた。直そう、とは一欠片も考えてなかったんだ。
「私はゆうくんの恋人だよ。これまでもそうやって振る舞って、これからだってそうしていくよ。あなたのおよめさん。わたしのおむこさん」
「……はる」
「呼び方たった一つだけど、ちょっと寂しかったんだよね。ゆうくんと隣同士で手を繋ぎ合って、ずっと前からの友達みたいに呼び合いたいな」
そう言いながら、彼女は俺の手を優しく取る。俺よりもちょっとだけ小さくて細くて、ずいぶん頼りがいのある手。でも、前よりは引っ張れそうな気がした。
すとん、と何かが落ちた。たぶん、俺の背中に括りつけられていた重りだ。
「はるちゃん」
「おっ、その呼び方って目上の人からしかされないんだよねー。新鮮だ」
「はるっち」
「んー、私のともだちがしてくる呼び方だね。親しみあるね」
「はるはる」
「かわいいねー。なんで二回繰り返しちゃうんだろうね?」
「はる」
「ん。ゆうくん」
しっくりきた。確かにもう、さんはいらないよな。
彼女の匂いは、もう彼女のものだけじゃなくなっている。リビングや浴室、俺の部屋、枕とシーツ。すっかり染み付いて、ずいぶんと経った。
何回も、そういうことをしてきた。二人でどろどろに溶け合って、確かめ合ってきた。
それでも俺は彼女に敬称をつけずにはいられなかった。彼女と添い遂げる約束をしてから、半年くらい経ってるのにな。変なところで真面目に考えてしまう。
区切りがついた。唐突だけど、でも彼女が望むならそれがいい。今日限りでさん付けをやめよう。これからは俺だって彼女の手を引っ張っていきたい。……いけたらいいな。ちょっと自信がない。なんだかんだ言っても彼女に助けられることが多いんだろうな。
だけど、これだけは声を大にして言える。
「大好きだ」
「……私は、人間じゃなくてデーモンだよ?いいの?」
「人間だからデーモンだから、じゃなくてはるが大好きなんだ」
「ふふ、その言葉が聞きたかった!なんてね。ふふふ……」
はるは喜色満面に顔を近づけてくる。彼女の誰よりも美しい顔で視界がいっぱいになり、彼女しか見えなくなる。そんなの、ずっと前からだ。いまさら気にすることじゃない。
片手がこちらの頬に添えられ、更に頭を近づけてくる。はるの背中に手を回しながら目をつむり、少しだけ顎を上向けてされるがままになる。はるは触れ合うだけの優しいキスがお好みらしかった。
「んふ……この体勢だとちょっとだけやりにくいね。ほら、お寝んねの時間はもう終わりですよー」
「はなれがたい……」
「もー、騙されないぞー」
彼女自身も立ち上がりながらぐいぐいと俺の肩を持ち上げられ、はるの膝の上でうだうだ管を巻く行為を強制的に中断させられる。
たまにしか見ないけど、こうして軽々と男一人の体重を肩から持ち上げることができたりされるとやっぱり人間とは違うなぁと思わされる。膂力も知恵も人間より上なのがデーモンなんだ。ただ、その上位者ゆえの能力どれもが俺のためにしか振るわれないだけで。
無理やり立たされたのにまた寝っ転がるような小学生並みの構ってムーブをするつもりはないので、大人しく服を脱ぐことにする。汚しても洗濯すれば意外ときれいさっぱり行為跡なんか消えちゃうもんだが、心情的に服を汚したくないわけで。着たままはたまにやるからこそいいものだ。
セーターを脱いで畳んで置いて、シャツを脱ぐために下を見て。
「へへ〜♥」
「え、ちょ」
はるが勝手にベルトを外してズボンを下げようとしていることに気がついた。彼女が床に腰を下ろしていると、長身なはるの眼前にちょうどこっちの股間が来る。すぐに彼女のしたいことに気づいた。
ただ、気がついても止めることはできない。
「がばぁー!おー、相変わらずいいモノ持ってるねー♥」
「や、汚いってちょっと……!」
「まだ言ってる。ゆうくんは汚くないってば。この子も私とキスしたがってるし」
実際、それはそうだ。今まで彼女にフェラチオしてもらったことはないし、断ってきた。泌尿器を子作りのためには使えても、口に含ませるなんてのはばっちいからダメだ。そんなところを口に含ませるなんて、と。
でも、期待してしまう。持ち上がってしまう。彼女の目の前に、急速に元気になりつつある一物が晒される。
「口ではそう言ってても身体は正直ですなあ♥」
「言いたかっただけでしょそれっ、ステイ!ステイ!」
「ワンちゃんじゃなくてデーモンだよー、ふふっ♥ あったかぁい……」
背中に生えたデーモンの羽を最大限広げてこちらを捕まえ、逃げることもできない。彼女の手が半勃ちのモノに触れ、愛おしげに頬ずりなんてする。瞳に愛欲を湛え、口元に喜悦を歪ませながら。
背筋がぞわぞわとささくれるような錯覚。誰よりも愛して止まない恋人から自分のソレを愛でられる光景は、否が応でも興奮するものだった。こんなグロテスクなものなのに。
おまけに、
「ちゅっ♥」
「ぅ、わ――」
つやつやした唇で、鈴口とキスするなんて。ますます下半身に血流が集まってくる。たったこれだけで臨戦態勢だ。はるの笑みも更に深まり、ハートの形の何かが彼女から発散されていく幻覚も見える。俺がインキュバスになりつつあるのか、それともただの飛蚊症か。
「たまたまも触っていい?」
「……乱暴にしなければ」
「気になってたんだよねー、この子♥」
断れそうになかった。完全に向こうのペースだ。
片手で竿を握りしめられながら、もう片方の手で玉袋を掬い上げられる。急所を完全に明け渡して、人質を取られてる気分だ。この状態じゃ、どんなお願いされても断ることができない。潰すとかの方向はダメです。
おー、とか、わー、とか興味津々に矯めつ眇めつする彼女。つまんだりひっぱったりもんだり、楽しげに股間で遊ばれる。ちょっと気持ちいいのが悔しい。
「ぷにぷにしてるんだねえ……おもしろいなぁ」
「そんなしみじみと言われても……」
「だってー、ねぇ?この子がいっぱいがんばって美味しい精液作ってくれてるんだーって思うと、すっごくかわいいよねー♥」
「そんなもんかなぁ……」
まあ、本人が満足ならいいことだ。
「くんくん……ふはぁ♥」
「え、なにその顔」
「えっちな匂いで頭がくらくらしてる顔〜……♥」
フレーメン反応かなにかか、色艶のある息を吐きながらしきりに匂いを嗅ぐはる。エロい表情だ。目を細めてうっとりして、欲望を隠そうともしてない。
卑怯だ。こんな表情までされたら、口はダメだなんて言えなくなる。これもやっぱりはるの計算のうちなんだろうな。逃げ道はなかった。
「んふー……びくびくして、切なくって震えちゃってるねぇ……♥」
「……そいつは正直者が取り柄だから」
「えらいえらい♥ じゃあ、お望み通りにしてあげよー……♥」
くぷ、とはるの唇の中へ亀頭から少しずつ飲み込まれていく。すぐに腰をひっこめそうになって、それも察知していたのか彼女の翼が腰を抑えて逃げさせない。
なんだこれ、なんだこれ。彼女の口内に包まれていくだけで、突き抜けた何かがびりびり痺れる。声にならない声が出る。これが喘ぐってことか。恥ずかしいとかは二の次で、いまはただ与えられる快楽に理解が追いつかない。
「はぷ……んふ、もっろこえらひて」
もごもご言いながら、どんどんと肉茎を飲み込んでいく。そんなにやって苦しくないの、と聞く前に彼女の口内でぬるりと舌が蠢いて身体が跳ねる。
自分の急所が温かいものに包まれてる。それは本来挿入される場所よりも熱くて、舐めとかそうとしてくる。裏筋を這いまわったかと思えば、カリ首を沿って滑って、亀頭をキャンディのように舌で転がす。舌の挙動一つ一つが存在を確かめる動き。脳が沸騰していく。息が漏れ出る。なんだ、これ。
快感の電流が止まらない。オーバーロードしそうだ。
「んぐ……ちゅ、むぅーっ♥」
「っ、それやばっ……!」
今度はゆっくり頭を引きながら、けれど唇でしっかり茎を挟んで皮を引っ張って、ぎゅうっと絞り上げてくる。皮は神経が集まってる場所だ。そんなものを唇で引っ張られたら、あまつさえそれがカリ首の辺りで渋滞を起こしたら。
射精感が高まってくる。鈴口から先走りが出ていく感覚がより明確に限界近いことを知らせてくる。当然、それが彼女に伝わらないわけがない。
「んぷ、ふふっ♥ 思いっきり出してね……♥」
淫靡に微笑み、再度口内に収めていく。ただ、今度は目的が違う。明らかに搾り取りにきてる動きで、竿を愛でてくる。
先端から根本までねっとりと包み込んでいったかと思えば、すぐにまた先端まで引いていく。竿全体に唇が吸い付いて離れず、口内では舌が舐め回してくる。唾液が一筋口唇から漏れ溢れ、でもはるはそれを拭わずにただ顎が上下させる。
心のどこかで侮っていたんだと思う。口でしてもらうのは気持ちよさそうだけど、まあ普通にセックスするほうが気持ちいいでしょ、なんて。その考えがまるきり否定された。搾取的で圧倒的で、ある種無慈悲な口愛撫。末端神経がじわじわ痺れていく感覚。歯を食いしばっても耐えられるものじゃなかった。
普段のセックスよりもかなり早く、あっけなく射精してしまう。
「んぐっ、ご、んぷ♥ んく、んくっ、んふーっ♥」
脈動しながら精液を吐き出して、彼女の喉に送り込んでいく。視界がちかちか明滅して、耳の中で膜が張られたみたいに音が遠くなっていって、それでもはるが精を嚥下していく音はやけに鮮明に聞こえた。
舌の動きで裏筋を撫でて射精を促す傍ら、次々吐き出される精液を飲み込んでいくはるのスマートな青喉。笑ってる。ご満悦顔だ。
数回の大きな波のあとは、尿道に残ったものしかなかった。ただ、射精が終わったからって彼女はそこで終わりにはせず、鈴口に唇を当ててちゅるちゅると吸い尽くす。あるいは労いのキスなのかもしれない。
「ふぅー……美味しかった♥」
「どこであんなテク覚えてきたの……」
「え?えーと……そのー……」
はるは歯切れ悪く恥ずかしげに、おもちゃで、とだけ答えた。
お、おもちゃか。おもちゃってのは、つまりアレだろう。ゴムだったりシリコンだったりする、アレっぽい形のやつ。それで練習したのか。なんのために、ってのは野暮だな。
口淫で乱れたはるの髪の毛を手櫛で梳いてやりながら、ついでに頭を撫でる。彼女は抵抗せず、照れくさそうに微笑む。
射精した後特有のちょっとした身体のだるさはあるけど、同時に目の前の恋人への愛情も沸き出してくる。
「美人は三日で飽きるって言うけどさ」
「ん?うん。私クールビューティでしょ。どやっ」
「三日経つ前に惚れ直してるから、飽きが来ないのかな」
「……そういうのはダメだってば。ボケ殺しっていうんだよもう……ばか」
彼女の扱いだって手慣れたものだ。思ったことを、思ったままに告げる。茶化すのは防衛機構みたいなものみたいで、あんまり深刻じゃなければついついしちゃう癖らしい。
照れ隠しにそっぽを向いてるはるを可愛らしく思いつつ、こっちも屈んで目線を合わせる。顔を近づける。精液臭いなんてことはなかった。魔物娘は精を吸収して生きるから、まるごと消化するのかもしれない。もっとも、口淫あとのにおいがしたからってキスしなくなるような潔癖症じゃないから、どっちだって構わない。
「ごめんって。こっち向いて」
「……そうやってねー、ちゅーすれば許してもらえるとか思ってるでしょ」
「思ってる思ってる。はる、キス好きだから」
「うー……正解」
半ばやけくそ気味に、彼女は顔をこっちに向けて小さくキスする。
いまはこれで許してあげる、って言ってる表情だ。苦笑しながら、ベッドに腰掛けて窓の外に目を向ける。月は雲に隠れて伺うことはできない。暗い夜だ。
「深夜から雪が降るんだっけ」
「うん。天気予報通りならね」
「暖房はつけっぱなしにしておいた方がいいかな。すぐ冷えそう」
「だね。私はゆうくんだけ居れば暖かいけど」
「寒いものは寒いでしょ」
「そりゃねー」
来年はもっと大変な寒い思いをするだろうから、いまのうちに慣れておかないとな。ああ、そうだ。予定のこと、話さなきゃ。
真正面に座ってきたはるに目をやり、彼女の絹織物みたいな髪をいじくる。男の髪は脂っぽいのに、女の子の髪はどうしてこうさらさらするんだろうか。不思議だ。
「次の土曜日、部屋探しに行こうか」
「ここから大学行くわけにはいかないもんね。どういうところがいいかなーって目星つけてる?」
「あんまり。はると住めて、防音で、お風呂がついてればいいかな」
「あー、魔物オッケーなところって最近ようやく増えてきたくらいだから、案外少ないかも」
「なんとかして見つけるよ」
なんとしてでも、が正しい。彼女なしの生活っていうのが考えられない。
大学に通いだしたら、バイトと勉強の両方をがんばらないといけない。一人だったらささくれ立つに決まってる。
「ふふ……ゆうくんは偉いね」
そう言って、はるが抱きしめてくる。肌と肌が触れ合う。あれ、いつの間に脱いだんだ。さっきまで服を着てたと思ったのに。そんなどうでもいい疑問も、彼女の熱と匂いですぐに霧散する。どうでもいいよな。
こうして不意にもたらされる彼女からの甘さは、俺の身体の主成分になってる。呼吸とか食事とか睡眠とか、そういった類の必要性。だけれどこれは、もっともっとと求めてしまう中毒性を持ってる。だって、幸せだ。
「べつに……偉くないよ。ほとんどはるのおかげだし……」
甘えだ。甘やかしてほしい、君を求めさせてほしい。それだけ。
なんの意味もない、答えのわかりきった問答。
でも、
「えらいよ。私はゆうくんの背中を押しただけだから」
――ほらね。
意味のない、けれど二人の間にだけは意味がある。これもある種の性行為みたいなものなのかもしれない。子作りするだけの行為は予定調和的で、ほとんど意味が無い。でも、行為をしてる二人の間では意味がある。
愛を確かめる。俺もはるも、寂しくて足りなくて、こうやって取り戻そうとしてる。愛してほしい。愛させてほしい。褒めてほしい。認めさせてほしい。
ほらね。繋がった。
「辛くなったら逃げればよかった。そうしなくてもきっとなんとかなる、っていうのはゆうくんもわかってたよね。でもゆうくんは逃げなかった。ちゃんとやり遂げたね」
完璧な答えだ。耳元で奏でられる、俺のためだけに特化した俺を鼓舞する言葉。きゅっと抱きしめてくる温かいそれが伝播して、ふわふわになる。
「……ありがとう」
「どういたしましてー」
ありがとうって言葉は便利だけど、込めることのできる感情も多すぎる。言葉は難しいものだ。シンプルイズベスト、か。
「はる」
「んー」
ちょっと躊躇ってから、
「……大好き」
「私も大好きだよ、ゆうくん」
こういうことをすぱっと言えるきざったらしさは、生憎持ち合わせていない。でも、大好きって言葉に込められる感情はだいぶ少ない。変化球を投げる器用さもない俺は、こうしてストレートで行くしかないし、それを彼女は望んでる。
「大好き。愛してる。私だけの人、私しかいない人」
「はる……」
言い切って、彼女は唇を合わせてくる。
言葉を重ねるだけ安っぽくなると言うけど、だからってどうやって他の言葉に置き換えればいいのかなんてことは誰も教えてくれない。それに、言葉が安くなったとしても思いの価値は変わるわけじゃない。何度も、何度でも思いを伝えたい。そうするだけの価値がある言葉だ。
そうだ。俺には君しかいない。褒めてくれる人も、認めてくれる人も、愛してくれる人も。寂しかった、足りなかった。いまは違う。
「……ふふ。私たち、いままで何回ちゅーしたかな」
「数えてないよ。起きたときとか寝る前とか、暇なときは何回もしてるし」
「ゆうくんが元気出るおまじないだからね。私も元気出る」
「バカップルだよなぁ」
「それ言っちゃうー?」
共依存だなんだって言われても否定出来ないと思う。互いが互いに頼りすぎてる。一度失ったらまともに生活できなくなりそうなくらい。でも、もうただの恋人関係じゃない。
彼女の左手が右手と重なり、青色の肌と人肌の縞模様ができる。前と違うのは、ハートが絡み合ったような紋章が輪になって互いの薬指の基節を一周していること。俺は右手薬指に、はるは左手薬指に。
「いつ見てもいいね、これ。ニヤけちゃうね」
「そうだね……」
生涯契約。またの名を、婚姻契約。どの指に現れるかは人によって違うらしいこのルーンは、破棄することが不可能な深度の契約であることを示す。
「一生一緒だね」
「死んだ後もかな。死がふたりを分かつことはない、だっけ」
「そうそう、ふふ……あ、もう雪降ってる」
二人揃って窓の外に視線をやり、暗い夜に舞い降りてくる白雪を眺める。しんしんと降るそれらはかなりの勢いで、明日の朝の景色を想像させられた。
「明日の雪かきは大変そうだな。すぐに三寒四温になるだろうけど」
「あっという間に新春になるだろねー。お花見にゴールデンウィークに、楽しいことがいっぱい待ってる季節だ」
「お花見デート?」
「しようしよう!ふふふ」
きっとこれからも、こうして季節が巡っていく。
そのたびに二人で笑い合いながら、どうするどこいく、って予定を立てる。
そうしてデートして、また二人の家に帰ってこよう。こことは違う場所だとしても、君がいるならそれでいい。
帰るのがいやだった場所。
帰っても一人だけの場所。
孤独が支配していた場所。
でも、君が来てくれた。
全部全部、塗りつぶされていった。
自分の身体が全部ぐちゃぐちゃに溶けてしまうような、うららかに堕落してしまう甘さをもって。
全部全部、彼女の色に染められた。
甘い匂い。
甘い言葉。
甘い記憶。
僕の悪魔。
部屋を埋め尽くしていた雪は全部溶けて、"春"が世界を包み込んだ。
さよなら、孤独。
春は命が芽吹く季節。
「ただいま」
「おかえり」
君は優しい僕の悪魔 了
ふわふわした甘い匂いが、頭をふわふわにさせてくる。
ダメになる匂いだ。堕落して堕落して、ゆるゆるになっちゃう匂いだ。心が穏やかになって、鼻の下が伸びて、顔面の筋肉がストライキ起こして、全身に力が入らなくなって、とにかくダメになる。
でも、いまでは自制は必要なくなった。はるさんを思いっきり抱きしめて彼女に埋もれても問題なくなった。だって、
「俺は……やった……」
「うんうん、よくがんばりました。えらいねー……」
死に物狂いの奮闘で、どうにかこうにか志望校のボーダーラインより上に入ることが出来たんだから。そうして合格した。ギリギリだけど。
詰め込みと一夜漬けと反復学習と、やれるだけのことをやって、本当にどうにかこうにかした。そのために、はるさんに甘える回数さえも出来る限り減らした。
つらかった。勉強は嫌いじゃないって思ってたけど、嫌いになってしまうくらいにつらかった。はるさんがいなかったら病んでたかもしれない。彼女の笑顔と温もりと、そばに居てくれることが心強かった。
「しあわせ……」
「いっぱい噛み締めてね。鷹見くんの好きなだけ」
ベッドに座った彼女の柔らかいお腹へ、すりすりと頭を押し付けるように腰回りを抱き締める。はるさんは少しも嫌がらず、ただ微笑みながら頭を撫でてくれる。なにもかもがどろっどろにほどけてしまいそうだ。頭がばかになる。幸せには中毒性があるってことは、もう身に沁みて理解してしまった。
吐息が深くあふれていく。なんで幸せなときってこう、深呼吸しちゃうかな。ベッドの上で横になってるだけでもそれなりに幸せだけど、いまはその上はるさんの膝枕がある。俺だけで世界が救えそうなくらいに幸せエントロピー増大中。
はるさんのお腹に密着した耳から聞こえる、彼女の胎内の拍動。これも幸福感の原因の一つかな。すごく落ち着くリズム。
「よしよし……がんばったがんばった」
「もう死んでもいい……」
「よくないよー、もー」
冗談だけど、ここで死んだら未練なく成仏できそうなくらいに幸せだ。
はるさんから与えられた、いろんな幸せ。これで少しは報いることができたかな。どうだろ。まだまだ彼女からもらったものは返せてないし、返しきれないかもだけど。ていうか現在進行形で貰ってるもんな。
でも、とにかくよかった。清々しい気分だ。いまはただ、はるさんの温もりが曇り一つなく受け止められる。
「……ほんとに液体になりそう」
「え、スライム?」
「ちがうけど……しあわせすぎて、スライムになりそう」
「ふふっ、スライムインキュバスになっちゃうのかな」
つんつん、とはるさんの人差し指が俺の緩んだ頬をつついてくる。スライムだったらするっと飲み込んじゃうんだろうな。俺はまだまだスライムになれそうにない。そもそも人間だし、男だし。
頭がふわっふわしてる。スポンジケーキだ。はるさんの匂いがホイップクリームになってしまった。もう自分がなに考えてるかよくわからなくなってきた。
「あ〜〜〜〜……動きたくない……ずっとはるさんの身体にひっついて過ごしたい」
「おトイレ行けなくなっちゃうから、ずっとはだめだなー」
「じゃあ、ほとんど……」
「ふふ、ぼんやりしてるなぁ」
だって、それが許されるから。今日くらいは。
自分を追い詰めて勉強して勉強して、そうしてようやくセンター試験を乗り切って進路が定まって、一段落したんだしさ。
きっとこれからもいろいろなことが壁として立ち塞がってくるだろうし、逃げずに立ち向かわなきゃいけない。逃げたとしても、はるさんはただ微笑みながら許してくれると思う。でも、逃げたら自分が追いかけてくる。お前はダメな奴だと自分が叫んでくる。それはもう嫌だ。
俺は、はるさんが大好きだ。はるさんも大好きだと言ってくれた。彼女とずっと一緒にいることに決めたし、彼女を幸せにすると誓った。彼女に嘘をつくのは絶対にしたくない。――きみににあう、ぼくになりたい。
……とかなんとか、かっこいいことを並べてもはるさんに甘えてるわけだから説得力がない。こんなもんだ。完璧超人にはなれないっす。
「ぎゅーってしてるのもいいけどねー」
「ん?」
「……しなくていいの?」
「……んー」
こうやって向こうから催促してくるの本当卑怯だと思う。どっちつかずの曖昧な返事をしてしまうのは、ちょっとだけでもかっこつけたいからだ。断る理由なんてないんだけどな。
する前の雰囲気も好きだ。まったりしていて、お互いに身体も心も絡み合って、一つになる前の緩んだ空気。もうちょっと味わっていたい。今日の俺は贅沢したい気分。
はるさんは少しだけ困ったような、満更でもないような表情で俺を優しく見下ろしてくる。うつ伏せにしていた身体を動かして仰向けになり、はるさんの顔を見上げる。目が合う。
「もうちょっといちゃいちゃしよっか」
「ん……」
互いに見つめ合うだけで、彼女にはなんでもお見通しだ。
室内灯の光がはるさんの表情を照らして、人とは違う肌色に浮かんだ人と同じ微笑みが網膜に焼き付いていく。目を細めて恋人を見つめる優しい視線は、彼女だけじゃなくて俺もしてると思う。
「鷹見くんは初めてえっちしたときのことって覚えてる?」
「……すごい恥ずかしいんですが」
「ふふん。忘れてたらブルー・スリーの刑だったよ」
「一応聞くけど、どんなの」
「空気椅子でー、両腕を前に伸ばしながら両肩と両膝に水入りのコップ乗せるやつね」
「ああー……俺映画見てないんだけど、アレはなんでああしてたの」
「さあ?私も見てないからねー」
こいつ。
こういうときに舌をぺろりと出しながらごめんねと謝るのは彼女のいいところだ。脱線した話を元に戻すきっかけになる。ただ呆れただけとも言う。
「初めてしたときねー、ずっとドキドキして緊張して、いやな初体験になったらとか思っちゃって怖かったよ。鷹見くんに捨てられたらどうしようとか。美人は三日で飽きるとかね」
「……そんなの、俺もそうだよ。いつかはるさんに見限られるんじゃないかって、いまでも怖くなってる」
「ふふ……二人とも、答えは明白ですなぁ」
そっと、愛おしげにはるさんの手が頬に触れてくる。伝わってくる熱は、あまり感じない。もう俺の頬は暖まってるから。はるさんも。
「別の意味でも、ドキドキしてる。毎日毎日、鷹見くんと一緒にいるとね。目で追っちゃう」
「だからいつも目が合うのか……」
「そういうことだねー、ふふふ」
似た者同士だ。だから、視線が重なれば心が通じる。そんな甘くとろけた日常のよくある風景。
はるさんは少しだけ腰を浮かせて、座り直す。慣れたもので、彼女が少しだけ腰を浮かせた時点で邪魔にならないように頭を離す。すぐにはるさんの太ももに着地するんですが。
「二人一緒に過ごして、じわじわと時計の針が進んでいくーみたいに思ってたけど……もう、半年以上経ってるんだよね」
「初めて会ったのが五月の……第四週かな」
「うん。あっという間だったね?」
「あっという間だったなー」
時の流れる早さは不定だ。
早くなったり、遅くなったり。時間を忘れて、という言葉が当てはまりすぎた半年間だった。勉強、はるさん、勉強。学生としては健全なのかもしれない。不純異性交遊、なんて言葉はここ半世紀で教科書送りになってる。
「鷹見くんといると、一瞬で一日が過ぎていくんだもんね。すぐおばあちゃんになっちゃうよ」
「そのときは俺もおじいさんかな……ハゲたらやだな」
「えー、かわいいよー」
「ふさふさでかっこいいおじいさんのほうがいい」
「あー、それもいいね」
未来像か。彼女と出会うまでは、ろくに見えていなかったものだ。なんとなく大学に行って就職して恋人ができて結婚して子どもができて……っていう、よくある道筋をピントのずれた視界でしか見えなかった。
大学は決まった。就職したい業種も決まった。お金が溜まったら結婚式をするし、新婚旅行だって行く。はるさんのおかげで、自分の人生ってやつにようやくピントが合わさった。くっきりと見える気分は、案外悪くない。
旅行、……旅行、か。
「またなにか企んでる?」
「また、ってなに……べつに変なことじゃないよ」
「そう?いたずらが好きだからなー、ゆうくんは」
あ、呼び方が変わってる。
「……いまからしようかな。いたずら」
「おー、むらむらきちゃった?ふふ」
「それははるさんの方でしょ」
「んふふー……あ、ねえねえ。ゆうくん」
呼び止められて、半ば起こしかけた身体がまた横たわる。肘で身体を支えようか迷ったけど、結局は彼女の太ももの上に頭を落とした。
「その、さ。そろそろ、さん付けやめよっか」
「え、あ――」
「癖になっちゃってるよねー。他人行儀は良くないぞー」
これまでずっと、この呼び方をしてた。はるさん、はるさんって。だって、彼女は俺を引っ張ってくれる。助けてくれる。迎えてくれるから。
そうして、彼女を呼ぶときにはさんを付けるのが基本になっていた。直そう、とは一欠片も考えてなかったんだ。
「私はゆうくんの恋人だよ。これまでもそうやって振る舞って、これからだってそうしていくよ。あなたのおよめさん。わたしのおむこさん」
「……はる」
「呼び方たった一つだけど、ちょっと寂しかったんだよね。ゆうくんと隣同士で手を繋ぎ合って、ずっと前からの友達みたいに呼び合いたいな」
そう言いながら、彼女は俺の手を優しく取る。俺よりもちょっとだけ小さくて細くて、ずいぶん頼りがいのある手。でも、前よりは引っ張れそうな気がした。
すとん、と何かが落ちた。たぶん、俺の背中に括りつけられていた重りだ。
「はるちゃん」
「おっ、その呼び方って目上の人からしかされないんだよねー。新鮮だ」
「はるっち」
「んー、私のともだちがしてくる呼び方だね。親しみあるね」
「はるはる」
「かわいいねー。なんで二回繰り返しちゃうんだろうね?」
「はる」
「ん。ゆうくん」
しっくりきた。確かにもう、さんはいらないよな。
彼女の匂いは、もう彼女のものだけじゃなくなっている。リビングや浴室、俺の部屋、枕とシーツ。すっかり染み付いて、ずいぶんと経った。
何回も、そういうことをしてきた。二人でどろどろに溶け合って、確かめ合ってきた。
それでも俺は彼女に敬称をつけずにはいられなかった。彼女と添い遂げる約束をしてから、半年くらい経ってるのにな。変なところで真面目に考えてしまう。
区切りがついた。唐突だけど、でも彼女が望むならそれがいい。今日限りでさん付けをやめよう。これからは俺だって彼女の手を引っ張っていきたい。……いけたらいいな。ちょっと自信がない。なんだかんだ言っても彼女に助けられることが多いんだろうな。
だけど、これだけは声を大にして言える。
「大好きだ」
「……私は、人間じゃなくてデーモンだよ?いいの?」
「人間だからデーモンだから、じゃなくてはるが大好きなんだ」
「ふふ、その言葉が聞きたかった!なんてね。ふふふ……」
はるは喜色満面に顔を近づけてくる。彼女の誰よりも美しい顔で視界がいっぱいになり、彼女しか見えなくなる。そんなの、ずっと前からだ。いまさら気にすることじゃない。
片手がこちらの頬に添えられ、更に頭を近づけてくる。はるの背中に手を回しながら目をつむり、少しだけ顎を上向けてされるがままになる。はるは触れ合うだけの優しいキスがお好みらしかった。
「んふ……この体勢だとちょっとだけやりにくいね。ほら、お寝んねの時間はもう終わりですよー」
「はなれがたい……」
「もー、騙されないぞー」
彼女自身も立ち上がりながらぐいぐいと俺の肩を持ち上げられ、はるの膝の上でうだうだ管を巻く行為を強制的に中断させられる。
たまにしか見ないけど、こうして軽々と男一人の体重を肩から持ち上げることができたりされるとやっぱり人間とは違うなぁと思わされる。膂力も知恵も人間より上なのがデーモンなんだ。ただ、その上位者ゆえの能力どれもが俺のためにしか振るわれないだけで。
無理やり立たされたのにまた寝っ転がるような小学生並みの構ってムーブをするつもりはないので、大人しく服を脱ぐことにする。汚しても洗濯すれば意外ときれいさっぱり行為跡なんか消えちゃうもんだが、心情的に服を汚したくないわけで。着たままはたまにやるからこそいいものだ。
セーターを脱いで畳んで置いて、シャツを脱ぐために下を見て。
「へへ〜♥」
「え、ちょ」
はるが勝手にベルトを外してズボンを下げようとしていることに気がついた。彼女が床に腰を下ろしていると、長身なはるの眼前にちょうどこっちの股間が来る。すぐに彼女のしたいことに気づいた。
ただ、気がついても止めることはできない。
「がばぁー!おー、相変わらずいいモノ持ってるねー♥」
「や、汚いってちょっと……!」
「まだ言ってる。ゆうくんは汚くないってば。この子も私とキスしたがってるし」
実際、それはそうだ。今まで彼女にフェラチオしてもらったことはないし、断ってきた。泌尿器を子作りのためには使えても、口に含ませるなんてのはばっちいからダメだ。そんなところを口に含ませるなんて、と。
でも、期待してしまう。持ち上がってしまう。彼女の目の前に、急速に元気になりつつある一物が晒される。
「口ではそう言ってても身体は正直ですなあ♥」
「言いたかっただけでしょそれっ、ステイ!ステイ!」
「ワンちゃんじゃなくてデーモンだよー、ふふっ♥ あったかぁい……」
背中に生えたデーモンの羽を最大限広げてこちらを捕まえ、逃げることもできない。彼女の手が半勃ちのモノに触れ、愛おしげに頬ずりなんてする。瞳に愛欲を湛え、口元に喜悦を歪ませながら。
背筋がぞわぞわとささくれるような錯覚。誰よりも愛して止まない恋人から自分のソレを愛でられる光景は、否が応でも興奮するものだった。こんなグロテスクなものなのに。
おまけに、
「ちゅっ♥」
「ぅ、わ――」
つやつやした唇で、鈴口とキスするなんて。ますます下半身に血流が集まってくる。たったこれだけで臨戦態勢だ。はるの笑みも更に深まり、ハートの形の何かが彼女から発散されていく幻覚も見える。俺がインキュバスになりつつあるのか、それともただの飛蚊症か。
「たまたまも触っていい?」
「……乱暴にしなければ」
「気になってたんだよねー、この子♥」
断れそうになかった。完全に向こうのペースだ。
片手で竿を握りしめられながら、もう片方の手で玉袋を掬い上げられる。急所を完全に明け渡して、人質を取られてる気分だ。この状態じゃ、どんなお願いされても断ることができない。潰すとかの方向はダメです。
おー、とか、わー、とか興味津々に矯めつ眇めつする彼女。つまんだりひっぱったりもんだり、楽しげに股間で遊ばれる。ちょっと気持ちいいのが悔しい。
「ぷにぷにしてるんだねえ……おもしろいなぁ」
「そんなしみじみと言われても……」
「だってー、ねぇ?この子がいっぱいがんばって美味しい精液作ってくれてるんだーって思うと、すっごくかわいいよねー♥」
「そんなもんかなぁ……」
まあ、本人が満足ならいいことだ。
「くんくん……ふはぁ♥」
「え、なにその顔」
「えっちな匂いで頭がくらくらしてる顔〜……♥」
フレーメン反応かなにかか、色艶のある息を吐きながらしきりに匂いを嗅ぐはる。エロい表情だ。目を細めてうっとりして、欲望を隠そうともしてない。
卑怯だ。こんな表情までされたら、口はダメだなんて言えなくなる。これもやっぱりはるの計算のうちなんだろうな。逃げ道はなかった。
「んふー……びくびくして、切なくって震えちゃってるねぇ……♥」
「……そいつは正直者が取り柄だから」
「えらいえらい♥ じゃあ、お望み通りにしてあげよー……♥」
くぷ、とはるの唇の中へ亀頭から少しずつ飲み込まれていく。すぐに腰をひっこめそうになって、それも察知していたのか彼女の翼が腰を抑えて逃げさせない。
なんだこれ、なんだこれ。彼女の口内に包まれていくだけで、突き抜けた何かがびりびり痺れる。声にならない声が出る。これが喘ぐってことか。恥ずかしいとかは二の次で、いまはただ与えられる快楽に理解が追いつかない。
「はぷ……んふ、もっろこえらひて」
もごもご言いながら、どんどんと肉茎を飲み込んでいく。そんなにやって苦しくないの、と聞く前に彼女の口内でぬるりと舌が蠢いて身体が跳ねる。
自分の急所が温かいものに包まれてる。それは本来挿入される場所よりも熱くて、舐めとかそうとしてくる。裏筋を這いまわったかと思えば、カリ首を沿って滑って、亀頭をキャンディのように舌で転がす。舌の挙動一つ一つが存在を確かめる動き。脳が沸騰していく。息が漏れ出る。なんだ、これ。
快感の電流が止まらない。オーバーロードしそうだ。
「んぐ……ちゅ、むぅーっ♥」
「っ、それやばっ……!」
今度はゆっくり頭を引きながら、けれど唇でしっかり茎を挟んで皮を引っ張って、ぎゅうっと絞り上げてくる。皮は神経が集まってる場所だ。そんなものを唇で引っ張られたら、あまつさえそれがカリ首の辺りで渋滞を起こしたら。
射精感が高まってくる。鈴口から先走りが出ていく感覚がより明確に限界近いことを知らせてくる。当然、それが彼女に伝わらないわけがない。
「んぷ、ふふっ♥ 思いっきり出してね……♥」
淫靡に微笑み、再度口内に収めていく。ただ、今度は目的が違う。明らかに搾り取りにきてる動きで、竿を愛でてくる。
先端から根本までねっとりと包み込んでいったかと思えば、すぐにまた先端まで引いていく。竿全体に唇が吸い付いて離れず、口内では舌が舐め回してくる。唾液が一筋口唇から漏れ溢れ、でもはるはそれを拭わずにただ顎が上下させる。
心のどこかで侮っていたんだと思う。口でしてもらうのは気持ちよさそうだけど、まあ普通にセックスするほうが気持ちいいでしょ、なんて。その考えがまるきり否定された。搾取的で圧倒的で、ある種無慈悲な口愛撫。末端神経がじわじわ痺れていく感覚。歯を食いしばっても耐えられるものじゃなかった。
普段のセックスよりもかなり早く、あっけなく射精してしまう。
「んぐっ、ご、んぷ♥ んく、んくっ、んふーっ♥」
脈動しながら精液を吐き出して、彼女の喉に送り込んでいく。視界がちかちか明滅して、耳の中で膜が張られたみたいに音が遠くなっていって、それでもはるが精を嚥下していく音はやけに鮮明に聞こえた。
舌の動きで裏筋を撫でて射精を促す傍ら、次々吐き出される精液を飲み込んでいくはるのスマートな青喉。笑ってる。ご満悦顔だ。
数回の大きな波のあとは、尿道に残ったものしかなかった。ただ、射精が終わったからって彼女はそこで終わりにはせず、鈴口に唇を当ててちゅるちゅると吸い尽くす。あるいは労いのキスなのかもしれない。
「ふぅー……美味しかった♥」
「どこであんなテク覚えてきたの……」
「え?えーと……そのー……」
はるは歯切れ悪く恥ずかしげに、おもちゃで、とだけ答えた。
お、おもちゃか。おもちゃってのは、つまりアレだろう。ゴムだったりシリコンだったりする、アレっぽい形のやつ。それで練習したのか。なんのために、ってのは野暮だな。
口淫で乱れたはるの髪の毛を手櫛で梳いてやりながら、ついでに頭を撫でる。彼女は抵抗せず、照れくさそうに微笑む。
射精した後特有のちょっとした身体のだるさはあるけど、同時に目の前の恋人への愛情も沸き出してくる。
「美人は三日で飽きるって言うけどさ」
「ん?うん。私クールビューティでしょ。どやっ」
「三日経つ前に惚れ直してるから、飽きが来ないのかな」
「……そういうのはダメだってば。ボケ殺しっていうんだよもう……ばか」
彼女の扱いだって手慣れたものだ。思ったことを、思ったままに告げる。茶化すのは防衛機構みたいなものみたいで、あんまり深刻じゃなければついついしちゃう癖らしい。
照れ隠しにそっぽを向いてるはるを可愛らしく思いつつ、こっちも屈んで目線を合わせる。顔を近づける。精液臭いなんてことはなかった。魔物娘は精を吸収して生きるから、まるごと消化するのかもしれない。もっとも、口淫あとのにおいがしたからってキスしなくなるような潔癖症じゃないから、どっちだって構わない。
「ごめんって。こっち向いて」
「……そうやってねー、ちゅーすれば許してもらえるとか思ってるでしょ」
「思ってる思ってる。はる、キス好きだから」
「うー……正解」
半ばやけくそ気味に、彼女は顔をこっちに向けて小さくキスする。
いまはこれで許してあげる、って言ってる表情だ。苦笑しながら、ベッドに腰掛けて窓の外に目を向ける。月は雲に隠れて伺うことはできない。暗い夜だ。
「深夜から雪が降るんだっけ」
「うん。天気予報通りならね」
「暖房はつけっぱなしにしておいた方がいいかな。すぐ冷えそう」
「だね。私はゆうくんだけ居れば暖かいけど」
「寒いものは寒いでしょ」
「そりゃねー」
来年はもっと大変な寒い思いをするだろうから、いまのうちに慣れておかないとな。ああ、そうだ。予定のこと、話さなきゃ。
真正面に座ってきたはるに目をやり、彼女の絹織物みたいな髪をいじくる。男の髪は脂っぽいのに、女の子の髪はどうしてこうさらさらするんだろうか。不思議だ。
「次の土曜日、部屋探しに行こうか」
「ここから大学行くわけにはいかないもんね。どういうところがいいかなーって目星つけてる?」
「あんまり。はると住めて、防音で、お風呂がついてればいいかな」
「あー、魔物オッケーなところって最近ようやく増えてきたくらいだから、案外少ないかも」
「なんとかして見つけるよ」
なんとしてでも、が正しい。彼女なしの生活っていうのが考えられない。
大学に通いだしたら、バイトと勉強の両方をがんばらないといけない。一人だったらささくれ立つに決まってる。
「ふふ……ゆうくんは偉いね」
そう言って、はるが抱きしめてくる。肌と肌が触れ合う。あれ、いつの間に脱いだんだ。さっきまで服を着てたと思ったのに。そんなどうでもいい疑問も、彼女の熱と匂いですぐに霧散する。どうでもいいよな。
こうして不意にもたらされる彼女からの甘さは、俺の身体の主成分になってる。呼吸とか食事とか睡眠とか、そういった類の必要性。だけれどこれは、もっともっとと求めてしまう中毒性を持ってる。だって、幸せだ。
「べつに……偉くないよ。ほとんどはるのおかげだし……」
甘えだ。甘やかしてほしい、君を求めさせてほしい。それだけ。
なんの意味もない、答えのわかりきった問答。
でも、
「えらいよ。私はゆうくんの背中を押しただけだから」
――ほらね。
意味のない、けれど二人の間にだけは意味がある。これもある種の性行為みたいなものなのかもしれない。子作りするだけの行為は予定調和的で、ほとんど意味が無い。でも、行為をしてる二人の間では意味がある。
愛を確かめる。俺もはるも、寂しくて足りなくて、こうやって取り戻そうとしてる。愛してほしい。愛させてほしい。褒めてほしい。認めさせてほしい。
ほらね。繋がった。
「辛くなったら逃げればよかった。そうしなくてもきっとなんとかなる、っていうのはゆうくんもわかってたよね。でもゆうくんは逃げなかった。ちゃんとやり遂げたね」
完璧な答えだ。耳元で奏でられる、俺のためだけに特化した俺を鼓舞する言葉。きゅっと抱きしめてくる温かいそれが伝播して、ふわふわになる。
「……ありがとう」
「どういたしましてー」
ありがとうって言葉は便利だけど、込めることのできる感情も多すぎる。言葉は難しいものだ。シンプルイズベスト、か。
「はる」
「んー」
ちょっと躊躇ってから、
「……大好き」
「私も大好きだよ、ゆうくん」
こういうことをすぱっと言えるきざったらしさは、生憎持ち合わせていない。でも、大好きって言葉に込められる感情はだいぶ少ない。変化球を投げる器用さもない俺は、こうしてストレートで行くしかないし、それを彼女は望んでる。
「大好き。愛してる。私だけの人、私しかいない人」
「はる……」
言い切って、彼女は唇を合わせてくる。
言葉を重ねるだけ安っぽくなると言うけど、だからってどうやって他の言葉に置き換えればいいのかなんてことは誰も教えてくれない。それに、言葉が安くなったとしても思いの価値は変わるわけじゃない。何度も、何度でも思いを伝えたい。そうするだけの価値がある言葉だ。
そうだ。俺には君しかいない。褒めてくれる人も、認めてくれる人も、愛してくれる人も。寂しかった、足りなかった。いまは違う。
「……ふふ。私たち、いままで何回ちゅーしたかな」
「数えてないよ。起きたときとか寝る前とか、暇なときは何回もしてるし」
「ゆうくんが元気出るおまじないだからね。私も元気出る」
「バカップルだよなぁ」
「それ言っちゃうー?」
共依存だなんだって言われても否定出来ないと思う。互いが互いに頼りすぎてる。一度失ったらまともに生活できなくなりそうなくらい。でも、もうただの恋人関係じゃない。
彼女の左手が右手と重なり、青色の肌と人肌の縞模様ができる。前と違うのは、ハートが絡み合ったような紋章が輪になって互いの薬指の基節を一周していること。俺は右手薬指に、はるは左手薬指に。
「いつ見てもいいね、これ。ニヤけちゃうね」
「そうだね……」
生涯契約。またの名を、婚姻契約。どの指に現れるかは人によって違うらしいこのルーンは、破棄することが不可能な深度の契約であることを示す。
「一生一緒だね」
「死んだ後もかな。死がふたりを分かつことはない、だっけ」
「そうそう、ふふ……あ、もう雪降ってる」
二人揃って窓の外に視線をやり、暗い夜に舞い降りてくる白雪を眺める。しんしんと降るそれらはかなりの勢いで、明日の朝の景色を想像させられた。
「明日の雪かきは大変そうだな。すぐに三寒四温になるだろうけど」
「あっという間に新春になるだろねー。お花見にゴールデンウィークに、楽しいことがいっぱい待ってる季節だ」
「お花見デート?」
「しようしよう!ふふふ」
きっとこれからも、こうして季節が巡っていく。
そのたびに二人で笑い合いながら、どうするどこいく、って予定を立てる。
そうしてデートして、また二人の家に帰ってこよう。こことは違う場所だとしても、君がいるならそれでいい。
帰るのがいやだった場所。
帰っても一人だけの場所。
孤独が支配していた場所。
でも、君が来てくれた。
全部全部、塗りつぶされていった。
自分の身体が全部ぐちゃぐちゃに溶けてしまうような、うららかに堕落してしまう甘さをもって。
全部全部、彼女の色に染められた。
甘い匂い。
甘い言葉。
甘い記憶。
僕の悪魔。
部屋を埋め尽くしていた雪は全部溶けて、"春"が世界を包み込んだ。
さよなら、孤独。
春は命が芽吹く季節。
「ただいま」
「おかえり」
君は優しい僕の悪魔 了
16/01/28 17:33更新 / 鍵山白煙
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