ジャズ・ナイト・バー 煙りと酒と ワンダーワーム
煙りと酒と
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ………
拍手を浴びながら、歌手とサックス吹きがステージ裏に引き上げる。
入れ替わりでステージに入るのは傍にアラクネを侍らせたスラリとした身なりの良い黒人のピアニスト。
『はーい!ジャックさん、ポーラさん引きですにゃ〜。お疲れ様でしたー!お2人の次の出番は……1時間後の10pmからですにゃ。控え室に軽食ありますよー。あ、アルコールは飲み過ぎ注意で!次ラファエロさん入りですにゃ〜!照明さんー落としてー……オッケー……スタンバイ……』
手帳を片手に忙しそうに駆け回るチェシャ猫のマネージャーが騒がしく離れると2人は控え室に入った。
ジャックと呼ばれた白人系の男はステージでの緊張からひと時の解放からため息を吐き、テナーサックスをスタンドに掛けるとタオルで顔をぬぐい、グラスを2つ手に取ると硬い氷を入れたらサンドイッチ等の軽食と一緒にテーブルに置いてあった琥珀色のチャーム・ブランデー(虜の果実の単式蒸留酒)を注ぐ。
『…………キミも飲むだろ?』
そうして片方のグラスをコトリと彼の座る椅子の反対側のソファーの目の前に置いた。
ポーラと呼ばれていた魔物娘……もといワンダーワームは既にソファーに優雅に腰掛けて50cmはあろうかと言う長いチャーチワーデンのパイプタバコにチップを詰め、火を入れ、紫色の煙を燻らせていた。
『ふぅ〜。頂くよ。』
カランと小気味良い音を立てて2人はグラスを口に運ぶ。酒気に乗った甘い虜の果実の香りが喉を通り抜ける。そうしてジャックは本当の意味でリラックスをした。
『……そう言えば禁煙するんじゃなかったの?』
出たのは他愛も無い話しだ。
『そんな事言った?』
言われた本人は目を細めながら煙を味わっている最中。ふぅ〜……っと吐き出された煙で部屋がまた少し紫色に近づく。
『あぁ。久しぶりに古巣で歌うからって言ってただろ?』
『そうだね。そう言った。……でも良いんだ。』
そう言うと彼女は部屋の中で揺蕩う紫色の煙をぼんやりと見つめて少し笑った。
『……どうしてだい?』
『良い夜になりそうだからさ♪あの夜のようにね?』
2人は少しの間、思い出にふける。
着古したカーキ色のフェルト帽と塹壕コートに、大きなトランクと楽器ケースを片手にニューシャテリアの下町にジャックが流れて来たのは人魔歴1966年の寒い冬の事だった。
金も無い。居場所も無い。その日暮らしの根なし草。殆ど世捨て人。それがジャックだった。
ただ音楽だけが彼を世間に繋ぎ止めていた。
安宿も取れないような事もしばしばで、浮浪者に混ざって道端で寝る事もあった。仕事が無い時はカフェでコーヒーを一杯で1日を潰して。それでも時は明日を運んだ。
『……なぁ、マスター。この店は音楽家を募集していないのか?』
ジャックはコーヒーを飲みながらたまたま入ったカフェのマスターのワンダーワームにそんな事を聞いた。因みにこれで5杯目だ。
『あそこにあるピアノの事かい?』
『そう……スタンリーかな?』
『ご名答♪』
『あれは良いピアノだね。演奏の仕事はないかい?無ければ無いで良いさ。』
長いチャーチワーデンのパイプを燻らせて紫色の煙をふぅ〜っ……と吐くと少し考えてから口を開いた。
『……楽器は?』
マスターはジャックが居座るカウンターの横に座らせている楽器のケースに目を向けた。
『サックスだ。持ってるのはアルトとテナー。用意できるならバリトンも吹ける。……サックスがダメなら歌とピアノも出来る。』
『そうかい。……ジャンルは?』
『ジャズだ。スタンダードは一通り。譜面も読める。』
『……わかったわ。ボーカルとピアノは間に合ってる。とりあえず、明後日の黄金の日の夜に来てくれ。報酬はキミの実力次第だ。それで良いかい?』
『ああ、構わないさ。』
『今日のコーヒー代はサービスしておくよ。』
『そうかい。助かるよ。』
2人は握手をして、ジャックは席を立って荷物を抱えた。
『明後日の夕方、この店に来たらポーラ・ポットベッドの紹介で来たと言えば大丈夫よ。』
後ろ手に手を振るジャックの背中にポーラの声とドアのベルの音が投げかけられた。
2日後の黄金の日の夕方。
演奏用の少し上等なスーツを身につけたジャックが『カフェ・グッドラック』に行くとそこは別世界だった。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
ハーレム・ジャズ タレントナイト
毎週 黄金の日 8pm オープン
""""""""""""""""""""""""""""""""""
店に入るとシックな内装は相変わらずだが、煌びやかなショー・ステージが出来上がっていた。
『やあ、もしかしてあなたがジャックさん?』
ジャックを出迎えたのはバーテンダーの衣装に身を包んだマッドハッターだった。
『あぁ、そうだ。ポーラ・ポットヘッドの紹介と言えば良いと言われたんだが……。』
『話はオーナーから聞いてるよ。ボクはバーテンダー件バリスタのエリー・エワイゼンだ。よろしく。何の因果か毎週黄金の日はステージマネジャーの真似事をしているよ。さて……奥入って右手に控室があるから音出しはそこかステージを使って。7pmからゲネプロ(直前練習・打ち合わせ)だからよろしく。何か質問ある?』
『今日の編成は?』
『ピアノにドラム。ウッド・ベースとクラリネット、ブラスはトロンボーンが2本とサックスはあなただ。あと歌手がいる。』
編成を聞いてジャックはアルトサックスを中心に使おうと決めた。
『……ナンバーは?』
『スタンダード。ラグとディキシー、シャンソンも少し。前半はアップでゴキゲンな曲が中心で、後半からムーディなバラードが増えると思う。選曲はリアル・ブックが中心さ。』
*スタンダード
流行に左右されないジャズのお決まりの曲集
*リアル・ブック
スタンダードの基本コード進行とメロディが書れた本。すごく分厚い。
『ブックなら良かった。全部頭の中だ。』
エリーはヒュ〜っと感嘆から口笛を吹いた。
『じゃ、今日はよろしく♪』
それから歌手以外のメンバーがゾロゾロと集まり、ゲネプロが始まった。
ジャックは早々にメンバーの演奏のクセを掴み、アルトサックスを中心に時にはテナーサックスを吹いた。
ジャックの演奏は決して派手では無いが、鈍色に光る渋いバイ・プレイヤー的な演奏だ。前に出て行く所と、他を引き立てる所を正確に理解し、ひとつまみの遊び心と共に誠実で確実なサックス。その玄人好みの良さと魅力は分かるヒトにしか理解されないのかも知れない。しかし、ある意味で最もプロフェッショナルらしい。そんな演奏だった。
それから直ぐに店がオープンした。お客は治安の悪いニューシャテリアの下町らしくガラの悪そうなのが多い。
1つめのナンバーは古き良き時代を彷彿とさせるラグタイム。
2曲目はアップテンポのスタンダード。
3曲目にお客様からのリクエスト。スタンダードの暗めの曲。
ジャックは久しぶりに心地よい演奏をしていた。特に、豊かなハーモニーとバックサウンドをト作り出すロンボーンの夫婦2人とステージの中1曲1曲で成長するドラムの少年に心の中で何度も称賛を送った。
あっと言う間に時間は過ぎて、バラード・タイムが訪れた。
ゲネプロに来なかった歌手はあの時のマスター。ポーラだった。
『グッド・イブニング。……皆んな来てくれてありがとう。良い子にしてた?……そう?皆んな悪い子ね?じゃあ、そんなアナタ達に……』
ポーラが目配せをするとピアノとドラムが反応してムーディなジャズ・バラードが一瞬で作り出される。続いて揺るぎないウッドベースがその存在を確立させた。
伴奏と言う名の絨毯に乗るのはバラードの女王だった。
ポーラは良く通るハスキーな声のくせに、まるで絹のような優雅さと滑らかさを持っていた。
ジャックは一瞬で心を掴まれたのがわかった。初めて女性に恋をした時のように。
彼は細心の注意を払ってポーラの歌うメロディぴったりと寄り添うようにのカウンターパート(俗に言うハモるパート)をテナーサックスで吹き上げる。
ポーラの目配せが交差する。恋人同士のように。まるで歌の中でデートをしているような錯覚さえ覚えた。その感覚はジャックの音に今までには無かった色を与えていた。
観客からのこの夜最後のスタンディングオベーションが収まってもその胸の高鳴りは消える事は無かった。
ステージが終わって夜中の1am
客のお捻りも上々に思った以上の稼ぎに満足した。今日のステージはこの店が始まって以来、指折りの稼ぎらしい。オーナーであるポーラは上機嫌で、皆んなにタダ酒を振る舞う事になった。
『あんたのドラムすげぇなぁ!こんなにちんちくりんなのにっ!!』
『ナナリー、お前さんがそれを言うかね?まあ、飲めよ!若いの!話はそれからだ!!』
『よく言ったロバート!覚悟を決めなちんちくりん!』
今日のステージでドラムを叩いていたルゥの周りにはうるさい連中が賑やかに騒いでいる。ショットグラスに度数の高そうな酒が波々と注がれた。
覚悟を決めたルゥが頬をバチーンと叩いて気合いを入れた。
『……っしゃ!飲むぞーっ!!』
クイッ……グビッ!……ダン!!
『へへへ!』
飲み干したルゥが今度はロバートのグラスに波々と酒を注いだ。
トクトク……グビッ!……ダン!!
『ふぃ〜〜っ!!……ひっく!』
トクトク……グビッ!……ダン!!
『まだまだっ!』
『やるじゃないか、若いのっ!』
グビッ!……ダン!!
ダン!
ダン!
ダン!
『『『ははははははははははは!!!』』』
やんややんやと騒ぐ今夜のメンバーを横目にジャックは1人カウンターでチャーム・ブランデーをロックでチビチビやっていた。
『アナタは?』
チャーチワーデンを蒸したポーラがカウンター越しに話し掛けた。
『楽しまないの?』
『いや……楽しんでるさ。ただ……』
『ただ?』
『ガラじゃないってだけさ……。キミは?』
ジャックは笑い声と楽しげな雰囲気を少し遠くに感じつつチャーム・ブランデーを煽る。
カランと氷が揺れた。
『楽しんでるわ?……目の前にイイ男もいるしね?』
『光栄だね……あの人達は?』
ジャックがポーラに尋ねる。
『みんなニューシャテリアシティーの下町の仲間さ。音楽好きのね?』
『そうかい……』
ポーラの吐いた紫煙が揺れる。
『トロンボーンの2人組、髭面の大男がロバート。小さいドワーフのお嬢さんがナナリー。フォンティーヌ・スミスの楽器職人でね?今時珍しくハンドメイドにこだわってるんだ。工場を回して行くのに必死でね?お金はみんな従業員に払ってて、だからこうして時々日銭を稼ぎに来るのさ。』
カラン……
『そうかい……2人共、楽器職人とは思えない良い音だった。……なぁ、あの飲まされてるドラムの子は?ほら霧の国系の。』
『彼、上手いでしょ?』
『あぁ、凄くね。今までで飛び切りさ。』
『……アルフォンス・ルゥ。家族の為に工事現場で働きながらジャズドラムを続けているんだ。ここで叩くのは久々だったけど、上手くなってて凄くビックリしたよ。まるで赤子と軍人さ。今日来ていたミケーレさんに目を付けられてね?今度ベガシで叩くんだ。』
ふぅ〜〜……
『ベガシ?すごいね。ミケーレさんって?』
『ああ、時々来てくれるお得意様。この店のスポンサーさ。……ねぇ、まだ飲むでしょ?』
『あぁ……』
トクトク……カラン……
『ありがとう。乾杯。』
キンッ………
『乾杯。……ミケーレさんはマフィアのボスでね?資産家なの。……アナタにも声が掛かったけど……でも断っておいたわ。』
ふぅ〜〜〜……カタンと音を立ててポーラはパイプをひっくり返して燃やし尽くしたチップを火皿に出した。
『そりゃ酷いな。……どうしてだい?』
『さぁ、どうしてかしら……ナイショ……♪』
そうしてまたパイプに煙草を積める。
『…………まぁ、いいさ。』
カラン……
『でも俺には……まだキミが何者かが分からない。』
『そう?』
『そりゃそうさ。あれだけ歌えるカフェ・バーのマスターなんていやしない。まるで生まれながらの歌手だ。元プロか……名のある歌姫だったのか……それは分からないけどね?』
シュポッ……ジュ………
マッチで火を入れて再び紫煙が揺蕩う。
『ワタシは……可哀想なヒトをアルコールに漬ける酒場の店主。慈善家よ?……お客様は一般人から魔物娘、ゴロツキに軍隊崩れにマフィアに娼婦に男娼……なんでもござれ。』
ふぅ〜〜〜……
『……金持ちも貧乏人も、ここに来るヒトは皆んなどこか可哀想な目をしてる。ああ見えて辛い思いをしてるの……。だからこう言う場所が必要なの♪』
『違いない。』
バターン!!
と少し離れた所から音がした。振り返ると、ルゥがロバートを潰したらしい。
『よっしゃあーー!!こちとら工事現場の酔いどれ共に毎度毎度揉まれてんだーーっ!!』
『あーあー、情けないねぇー。……仕方ない。久々にドワーフの実力、見せてやろうかねっ?……そこの無精髭!!アンタも来るんだよっ!!』
ナナリーはジャックを指さすとその指を手前に何度か曲げた。
ポーラは肩を竦めるとジャックと目を合わせた。
『お呼びみたいよ?ジャズメンさん?』
『どうやらそうみたいだね……』
『ふふふ♪骨は拾ってあげるわ。リクエストは何かしら?』
『……この店で1番キツイので頼む。』
そう言って、ジャックは肩を竦めてネクタイを緩めるとポーラから渡された火酒(ドラゴン・ウォッカ)の酒瓶を手に本日のアンコール・ステージ(戦場)に歩き出した。
『……ロバートぉ……えへへぇ……むにゃむにゃ……』
暫くして屍累々。ロバートにルゥとナナリーとその他皆んな酔い潰れて眠ってしまった。
この場で起きているのは2人だけ。
『ふぅ……酷い目にあったよ……』
ジャックの方もまるで15R丸々戦い切ったボクサーのような有り様だ。
『お帰りなさい。骨は拾う必要なかったみたい。アナタお酒強いのね?』
『いや、最初から加わってたら分からないさ。』
今度奴らに飲み比べに誘われても断ろうとジャックは心に固く誓った。
『コーヒーでも淹れましょうか?』
『飲むよ。勝者の特権ってやつかい?』
『ふふふ……そんなところね♪』
煙を揺らしながらポーラは慣れた手付きでコーヒーを淹れる。コーヒーの良い香りとポーラのパイプ煙草の煙の匂いが混ざり合って何とも言えない空間が出来上がった。
そうして出された温かいコーヒーに砂糖を2つ、ミルクを燻らせるように少し入れてゆっくりと口に運んだ。
『美味しい……』
『それは良かった♪』
明け方近い時間。ゆっくりと時間が流れている。ふとコーヒーを飲みながらポーラ少し寂しそうに微笑んで、じっとジャックを見つめた。
『アナタは自分の事は話してくれないの?』
『……………』
ジャックは目を右下に向けた。
『辛い事があったのね?』
『誰だってそうさ……生きていれば辛い事がある。キミだってそうだろ?』
『そうね。』
『だから、酒と音楽が必要なのさ……。』
ジャックがそう言うとポーラはカップを置いてチャーチワーデンのパイプを燻らせながら緩慢な足取りでスタンリーのピアノの前に。長いチャーチワーデンを殆ど立て掛けるように静かに置くと、それから鍵盤の蓋をそっと開けて。
『じゃあ……アナタにも必要ね?』
ポーラの指からジャズ・バラードのメロディーが奏られる。
『……摩天楼の片隅で……か。』
『そうよ。……アナタにぴったり。ワタシにもね?……自分の事を話さないのなら……音楽で教えて?ワタシは知りたいの。』
頭にまでポーラの煙が回ったジャックは紫煙とハーモニーに誘われるがまま、彼の座席の隣り、定位置にあるケースからテナーサックスを取り出した。
始めは2人がぎこちなく会話をするように音楽が奏でられていく。
それが段々と足取りが揃うように。
次にお互いの心の隙間を埋めるように。
そしてポーラの歌とピアノにジャックのサックスの音色がぴったりと寄り添った。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
摩天楼の片隅で。
燃えるような夕日の光が、ゆっくりと空に溶けゆきながら、あなたの瞳の中で輝いている。
止めようの無いため息は摩天楼の向こうに消えてしまった。
アナタが抱きしめてくれたから。
もし、アナタがワタシに教えてくれなければ、ワタシは永遠に愛を理解出来なかった。
辛く苦しい日々をワタシは思い出す。
けれど、アナタの微笑みで空の彼方に吹き飛んでしまった。
アナタの瞳の輝きとワタシの想いは月明かりの無い夜空でも輝けるのだから。
一生とはタバコの火のよう。
それは一瞬の事。儚い灯り。
でも永遠に消えないまま。
アナタはワタシの心の中にいる。
アナタがワタシを抱きしめてくれたように。
ワタシの魂に寄り添っていて。
もし、アナタがワタシに教えてくれなければ、ワタシは永遠に愛を理解出来なかった。
辛く苦しい日々をワタシは思い出す。
けれど、アナタの微笑みで空の彼方に吹き飛んでしまった。
アナタの瞳の輝きとワタシの想いは月明かりの無い夜空でも輝けるのだから。
ヒトは煙草の煙りのよう。
それは一瞬の事。不確かなもの。
でも決して消えはしない。
ワタシの心の中にアナタがいる。
ワタシがアナタを愛したように。
ねぇ、ワタシがここからいなくなろうとしても。
手を放さないで。
いつか摩天楼の片隅で。
アナタが抱きしめてくれたように。
ねぇ、アナタがここからいなくなろうとしても。
ワタシは手を放さない。
決して忘れないで。
もう独りじゃない。
だってワタシはこんなにもアナタを愛してる。
愛してる。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
バラードが終わるとポーラとジャックはどちらともなく唇を重ねた。
まるでそうするのが当たり前のように。
『いいの?ワタシは魔物娘よ?』
『あぁ……』
『放さないわよ?』
『キミならかまわない。……なんて言うか、今日ステージでキミと合わせた時、何かが今迄とは違うと思った。それで今、確信に変わった。もう1度だけ……運命を……いや、違うな。……ヒトを信じてみたくなった。何の手土産も持たずにこの世に産まれてきて、何を期待するんだと笑うかも知れないけど』
ジャックの唇にポーラの人差し指が止まった。
『……自由を手に入れる為に不自由になる。それはワタシも同じよ?』
もう2人に言葉は必要無かった。
休憩室に入るとテーブルにサックスを置いて、2人は唇を合わせるとお互いの服を脱がし合う。それが終わると2人はベッドに倒れ込んだ。
ジャックの手がポーラの身体に触れる。まるでリロードのような手触りで柔らかい。吸い付いて離れない。肩、首、お腹、胸。触れる度にポーラの身体はピクリと反応してあの煙のような甘い匂いを出す。
だんだんと熱を持ち、しっとりと汗が滲んで、あの煙とは別の甘酸っぱい香りがただ1人を誘う為に放たれる。
夢中でポーラを触るジャックの分身にぬるりと濡れた箇所が当たった。人間の身体とワンダーワームたる芋虫の身体の境目。
ポーラは目を潤ませて熱い息を吐いている。まるで時間が止まってしまったように見つめ合う2人。
ポーラがジャックの目を見たまま、ゆっくりと首を縦に振る。それだけだった。
ジャックが腰を落とすとまるで沼に何かが沈むような音が辺りに響いた。ポーラの目が見開か空いた口の中の舌が天井に向いた。
抱き合う2人。ポーラはジャックの背中に薄く爪跡を残した。
暫くそのままで、息を荒げながら見つめ合い、そしてまた唇を重ねて舌を絡ませて合う。
ゆっくりと2人の時間が動き出した。
熱を帯びた吐息に合わせるように、だんだんと加速していく。
水音が響き、それはデュエットのように奏られる。
紫煙の甘い香りと、雄を誘う為の香りと、ジャックの汗の臭いが混ざり合う。
やがて2人の息が切羽詰まったようになる。
ジャックの手がポーラの背中と頭の後ろをしっかりと抱えて込んだ。
ポーラの芋虫の半身が打ちつけ合う腰が決して離れないようにジャックの最後を押さえるようにぎゅっと密着した。
そしてある時、ジャックとポーラの身体が同時に跳ね上がった。
汗が玉のように吹き出て、甘い匂いが部屋中に満ちる。きつく身体を抱きしめ合って震えて、やがて荒げていた息と一緒にだんだんと力が抜けていって、見つめ合って幸せそうに微笑み合うとまた唇を重ねる。
手を握り合って、お互いがここにいると確かめ合う。
そしてまた愛し合う。
その日は朝日が顔を出しても店の看板は『close』のままだった。
『ふふふ……アナタが大変なのはそこからだったね?』
『店の経営は大変だったよ。何せいきなりサックス吹き兼、バーテンダー兼、経営者になったからね。』
『エリーがいてくれて助かったわ。アナタの放浪癖にも悩まされたしね?彼女が店の経営を引き継いでくれなければ旅にも出られなかった。』
『その放浪癖の放浪に付いて来たキミも同罪だぞ。』
『ふふふ♪それもそうね。』
『だろ?』
『いろんな事があったね。……全て大切な思い出だよ。』
『あぁ、インキュバスになって姿はあの時から変わらないけどね?歳を取るってのは何も悪いもんじゃ無いってそう思えたよ……なぁ、あそこの写真。』
『うん、懐かしいねぇ。』
『ドラムセットでカッコ付けてるのがルゥ君で……ピアノの横に立っているのがミケーレさんか。トロンボーンの大男がフォンテーヌさん所のロバートさんと、横のチビちゃんがナナリーさんか。』
『髭面の優男がキミだね?』
『ハハッ、そうだね。真ん中の美人が君だ。』
『照れるじゃないか。』
『君はあの時から変わらず綺麗だ。』
『そう言うアナタは変わったわ……。』
『そうかい?』
『良い男になった。この時よりね?』
『これは……かなわないなぁ……』
するとチェシャ猫のマネージャーがやって来た。
『ステージ10分前ですにゃ!スタンバイお願いしまーす!』
ジャックは立ち上がるとサックスを首に下げ、右手をポーラに差し出した。
『さあ、行こうか……』
『えぇ……♪』
2人は見つめ合うと寄り添ってステージへゆっくり歩き出した。
パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ………
拍手を浴びながら、歌手とサックス吹きがステージ裏に引き上げる。
入れ替わりでステージに入るのは傍にアラクネを侍らせたスラリとした身なりの良い黒人のピアニスト。
『はーい!ジャックさん、ポーラさん引きですにゃ〜。お疲れ様でしたー!お2人の次の出番は……1時間後の10pmからですにゃ。控え室に軽食ありますよー。あ、アルコールは飲み過ぎ注意で!次ラファエロさん入りですにゃ〜!照明さんー落としてー……オッケー……スタンバイ……』
手帳を片手に忙しそうに駆け回るチェシャ猫のマネージャーが騒がしく離れると2人は控え室に入った。
ジャックと呼ばれた白人系の男はステージでの緊張からひと時の解放からため息を吐き、テナーサックスをスタンドに掛けるとタオルで顔をぬぐい、グラスを2つ手に取ると硬い氷を入れたらサンドイッチ等の軽食と一緒にテーブルに置いてあった琥珀色のチャーム・ブランデー(虜の果実の単式蒸留酒)を注ぐ。
『…………キミも飲むだろ?』
そうして片方のグラスをコトリと彼の座る椅子の反対側のソファーの目の前に置いた。
ポーラと呼ばれていた魔物娘……もといワンダーワームは既にソファーに優雅に腰掛けて50cmはあろうかと言う長いチャーチワーデンのパイプタバコにチップを詰め、火を入れ、紫色の煙を燻らせていた。
『ふぅ〜。頂くよ。』
カランと小気味良い音を立てて2人はグラスを口に運ぶ。酒気に乗った甘い虜の果実の香りが喉を通り抜ける。そうしてジャックは本当の意味でリラックスをした。
『……そう言えば禁煙するんじゃなかったの?』
出たのは他愛も無い話しだ。
『そんな事言った?』
言われた本人は目を細めながら煙を味わっている最中。ふぅ〜……っと吐き出された煙で部屋がまた少し紫色に近づく。
『あぁ。久しぶりに古巣で歌うからって言ってただろ?』
『そうだね。そう言った。……でも良いんだ。』
そう言うと彼女は部屋の中で揺蕩う紫色の煙をぼんやりと見つめて少し笑った。
『……どうしてだい?』
『良い夜になりそうだからさ♪あの夜のようにね?』
2人は少しの間、思い出にふける。
着古したカーキ色のフェルト帽と塹壕コートに、大きなトランクと楽器ケースを片手にニューシャテリアの下町にジャックが流れて来たのは人魔歴1966年の寒い冬の事だった。
金も無い。居場所も無い。その日暮らしの根なし草。殆ど世捨て人。それがジャックだった。
ただ音楽だけが彼を世間に繋ぎ止めていた。
安宿も取れないような事もしばしばで、浮浪者に混ざって道端で寝る事もあった。仕事が無い時はカフェでコーヒーを一杯で1日を潰して。それでも時は明日を運んだ。
『……なぁ、マスター。この店は音楽家を募集していないのか?』
ジャックはコーヒーを飲みながらたまたま入ったカフェのマスターのワンダーワームにそんな事を聞いた。因みにこれで5杯目だ。
『あそこにあるピアノの事かい?』
『そう……スタンリーかな?』
『ご名答♪』
『あれは良いピアノだね。演奏の仕事はないかい?無ければ無いで良いさ。』
長いチャーチワーデンのパイプを燻らせて紫色の煙をふぅ〜っ……と吐くと少し考えてから口を開いた。
『……楽器は?』
マスターはジャックが居座るカウンターの横に座らせている楽器のケースに目を向けた。
『サックスだ。持ってるのはアルトとテナー。用意できるならバリトンも吹ける。……サックスがダメなら歌とピアノも出来る。』
『そうかい。……ジャンルは?』
『ジャズだ。スタンダードは一通り。譜面も読める。』
『……わかったわ。ボーカルとピアノは間に合ってる。とりあえず、明後日の黄金の日の夜に来てくれ。報酬はキミの実力次第だ。それで良いかい?』
『ああ、構わないさ。』
『今日のコーヒー代はサービスしておくよ。』
『そうかい。助かるよ。』
2人は握手をして、ジャックは席を立って荷物を抱えた。
『明後日の夕方、この店に来たらポーラ・ポットベッドの紹介で来たと言えば大丈夫よ。』
後ろ手に手を振るジャックの背中にポーラの声とドアのベルの音が投げかけられた。
2日後の黄金の日の夕方。
演奏用の少し上等なスーツを身につけたジャックが『カフェ・グッドラック』に行くとそこは別世界だった。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
ハーレム・ジャズ タレントナイト
毎週 黄金の日 8pm オープン
""""""""""""""""""""""""""""""""""
店に入るとシックな内装は相変わらずだが、煌びやかなショー・ステージが出来上がっていた。
『やあ、もしかしてあなたがジャックさん?』
ジャックを出迎えたのはバーテンダーの衣装に身を包んだマッドハッターだった。
『あぁ、そうだ。ポーラ・ポットヘッドの紹介と言えば良いと言われたんだが……。』
『話はオーナーから聞いてるよ。ボクはバーテンダー件バリスタのエリー・エワイゼンだ。よろしく。何の因果か毎週黄金の日はステージマネジャーの真似事をしているよ。さて……奥入って右手に控室があるから音出しはそこかステージを使って。7pmからゲネプロ(直前練習・打ち合わせ)だからよろしく。何か質問ある?』
『今日の編成は?』
『ピアノにドラム。ウッド・ベースとクラリネット、ブラスはトロンボーンが2本とサックスはあなただ。あと歌手がいる。』
編成を聞いてジャックはアルトサックスを中心に使おうと決めた。
『……ナンバーは?』
『スタンダード。ラグとディキシー、シャンソンも少し。前半はアップでゴキゲンな曲が中心で、後半からムーディなバラードが増えると思う。選曲はリアル・ブックが中心さ。』
*スタンダード
流行に左右されないジャズのお決まりの曲集
*リアル・ブック
スタンダードの基本コード進行とメロディが書れた本。すごく分厚い。
『ブックなら良かった。全部頭の中だ。』
エリーはヒュ〜っと感嘆から口笛を吹いた。
『じゃ、今日はよろしく♪』
それから歌手以外のメンバーがゾロゾロと集まり、ゲネプロが始まった。
ジャックは早々にメンバーの演奏のクセを掴み、アルトサックスを中心に時にはテナーサックスを吹いた。
ジャックの演奏は決して派手では無いが、鈍色に光る渋いバイ・プレイヤー的な演奏だ。前に出て行く所と、他を引き立てる所を正確に理解し、ひとつまみの遊び心と共に誠実で確実なサックス。その玄人好みの良さと魅力は分かるヒトにしか理解されないのかも知れない。しかし、ある意味で最もプロフェッショナルらしい。そんな演奏だった。
それから直ぐに店がオープンした。お客は治安の悪いニューシャテリアの下町らしくガラの悪そうなのが多い。
1つめのナンバーは古き良き時代を彷彿とさせるラグタイム。
2曲目はアップテンポのスタンダード。
3曲目にお客様からのリクエスト。スタンダードの暗めの曲。
ジャックは久しぶりに心地よい演奏をしていた。特に、豊かなハーモニーとバックサウンドをト作り出すロンボーンの夫婦2人とステージの中1曲1曲で成長するドラムの少年に心の中で何度も称賛を送った。
あっと言う間に時間は過ぎて、バラード・タイムが訪れた。
ゲネプロに来なかった歌手はあの時のマスター。ポーラだった。
『グッド・イブニング。……皆んな来てくれてありがとう。良い子にしてた?……そう?皆んな悪い子ね?じゃあ、そんなアナタ達に……』
ポーラが目配せをするとピアノとドラムが反応してムーディなジャズ・バラードが一瞬で作り出される。続いて揺るぎないウッドベースがその存在を確立させた。
伴奏と言う名の絨毯に乗るのはバラードの女王だった。
ポーラは良く通るハスキーな声のくせに、まるで絹のような優雅さと滑らかさを持っていた。
ジャックは一瞬で心を掴まれたのがわかった。初めて女性に恋をした時のように。
彼は細心の注意を払ってポーラの歌うメロディぴったりと寄り添うようにのカウンターパート(俗に言うハモるパート)をテナーサックスで吹き上げる。
ポーラの目配せが交差する。恋人同士のように。まるで歌の中でデートをしているような錯覚さえ覚えた。その感覚はジャックの音に今までには無かった色を与えていた。
観客からのこの夜最後のスタンディングオベーションが収まってもその胸の高鳴りは消える事は無かった。
ステージが終わって夜中の1am
客のお捻りも上々に思った以上の稼ぎに満足した。今日のステージはこの店が始まって以来、指折りの稼ぎらしい。オーナーであるポーラは上機嫌で、皆んなにタダ酒を振る舞う事になった。
『あんたのドラムすげぇなぁ!こんなにちんちくりんなのにっ!!』
『ナナリー、お前さんがそれを言うかね?まあ、飲めよ!若いの!話はそれからだ!!』
『よく言ったロバート!覚悟を決めなちんちくりん!』
今日のステージでドラムを叩いていたルゥの周りにはうるさい連中が賑やかに騒いでいる。ショットグラスに度数の高そうな酒が波々と注がれた。
覚悟を決めたルゥが頬をバチーンと叩いて気合いを入れた。
『……っしゃ!飲むぞーっ!!』
クイッ……グビッ!……ダン!!
『へへへ!』
飲み干したルゥが今度はロバートのグラスに波々と酒を注いだ。
トクトク……グビッ!……ダン!!
『ふぃ〜〜っ!!……ひっく!』
トクトク……グビッ!……ダン!!
『まだまだっ!』
『やるじゃないか、若いのっ!』
グビッ!……ダン!!
ダン!
ダン!
ダン!
『『『ははははははははははは!!!』』』
やんややんやと騒ぐ今夜のメンバーを横目にジャックは1人カウンターでチャーム・ブランデーをロックでチビチビやっていた。
『アナタは?』
チャーチワーデンを蒸したポーラがカウンター越しに話し掛けた。
『楽しまないの?』
『いや……楽しんでるさ。ただ……』
『ただ?』
『ガラじゃないってだけさ……。キミは?』
ジャックは笑い声と楽しげな雰囲気を少し遠くに感じつつチャーム・ブランデーを煽る。
カランと氷が揺れた。
『楽しんでるわ?……目の前にイイ男もいるしね?』
『光栄だね……あの人達は?』
ジャックがポーラに尋ねる。
『みんなニューシャテリアシティーの下町の仲間さ。音楽好きのね?』
『そうかい……』
ポーラの吐いた紫煙が揺れる。
『トロンボーンの2人組、髭面の大男がロバート。小さいドワーフのお嬢さんがナナリー。フォンティーヌ・スミスの楽器職人でね?今時珍しくハンドメイドにこだわってるんだ。工場を回して行くのに必死でね?お金はみんな従業員に払ってて、だからこうして時々日銭を稼ぎに来るのさ。』
カラン……
『そうかい……2人共、楽器職人とは思えない良い音だった。……なぁ、あの飲まされてるドラムの子は?ほら霧の国系の。』
『彼、上手いでしょ?』
『あぁ、凄くね。今までで飛び切りさ。』
『……アルフォンス・ルゥ。家族の為に工事現場で働きながらジャズドラムを続けているんだ。ここで叩くのは久々だったけど、上手くなってて凄くビックリしたよ。まるで赤子と軍人さ。今日来ていたミケーレさんに目を付けられてね?今度ベガシで叩くんだ。』
ふぅ〜〜……
『ベガシ?すごいね。ミケーレさんって?』
『ああ、時々来てくれるお得意様。この店のスポンサーさ。……ねぇ、まだ飲むでしょ?』
『あぁ……』
トクトク……カラン……
『ありがとう。乾杯。』
キンッ………
『乾杯。……ミケーレさんはマフィアのボスでね?資産家なの。……アナタにも声が掛かったけど……でも断っておいたわ。』
ふぅ〜〜〜……カタンと音を立ててポーラはパイプをひっくり返して燃やし尽くしたチップを火皿に出した。
『そりゃ酷いな。……どうしてだい?』
『さぁ、どうしてかしら……ナイショ……♪』
そうしてまたパイプに煙草を積める。
『…………まぁ、いいさ。』
カラン……
『でも俺には……まだキミが何者かが分からない。』
『そう?』
『そりゃそうさ。あれだけ歌えるカフェ・バーのマスターなんていやしない。まるで生まれながらの歌手だ。元プロか……名のある歌姫だったのか……それは分からないけどね?』
シュポッ……ジュ………
マッチで火を入れて再び紫煙が揺蕩う。
『ワタシは……可哀想なヒトをアルコールに漬ける酒場の店主。慈善家よ?……お客様は一般人から魔物娘、ゴロツキに軍隊崩れにマフィアに娼婦に男娼……なんでもござれ。』
ふぅ〜〜〜……
『……金持ちも貧乏人も、ここに来るヒトは皆んなどこか可哀想な目をしてる。ああ見えて辛い思いをしてるの……。だからこう言う場所が必要なの♪』
『違いない。』
バターン!!
と少し離れた所から音がした。振り返ると、ルゥがロバートを潰したらしい。
『よっしゃあーー!!こちとら工事現場の酔いどれ共に毎度毎度揉まれてんだーーっ!!』
『あーあー、情けないねぇー。……仕方ない。久々にドワーフの実力、見せてやろうかねっ?……そこの無精髭!!アンタも来るんだよっ!!』
ナナリーはジャックを指さすとその指を手前に何度か曲げた。
ポーラは肩を竦めるとジャックと目を合わせた。
『お呼びみたいよ?ジャズメンさん?』
『どうやらそうみたいだね……』
『ふふふ♪骨は拾ってあげるわ。リクエストは何かしら?』
『……この店で1番キツイので頼む。』
そう言って、ジャックは肩を竦めてネクタイを緩めるとポーラから渡された火酒(ドラゴン・ウォッカ)の酒瓶を手に本日のアンコール・ステージ(戦場)に歩き出した。
『……ロバートぉ……えへへぇ……むにゃむにゃ……』
暫くして屍累々。ロバートにルゥとナナリーとその他皆んな酔い潰れて眠ってしまった。
この場で起きているのは2人だけ。
『ふぅ……酷い目にあったよ……』
ジャックの方もまるで15R丸々戦い切ったボクサーのような有り様だ。
『お帰りなさい。骨は拾う必要なかったみたい。アナタお酒強いのね?』
『いや、最初から加わってたら分からないさ。』
今度奴らに飲み比べに誘われても断ろうとジャックは心に固く誓った。
『コーヒーでも淹れましょうか?』
『飲むよ。勝者の特権ってやつかい?』
『ふふふ……そんなところね♪』
煙を揺らしながらポーラは慣れた手付きでコーヒーを淹れる。コーヒーの良い香りとポーラのパイプ煙草の煙の匂いが混ざり合って何とも言えない空間が出来上がった。
そうして出された温かいコーヒーに砂糖を2つ、ミルクを燻らせるように少し入れてゆっくりと口に運んだ。
『美味しい……』
『それは良かった♪』
明け方近い時間。ゆっくりと時間が流れている。ふとコーヒーを飲みながらポーラ少し寂しそうに微笑んで、じっとジャックを見つめた。
『アナタは自分の事は話してくれないの?』
『……………』
ジャックは目を右下に向けた。
『辛い事があったのね?』
『誰だってそうさ……生きていれば辛い事がある。キミだってそうだろ?』
『そうね。』
『だから、酒と音楽が必要なのさ……。』
ジャックがそう言うとポーラはカップを置いてチャーチワーデンのパイプを燻らせながら緩慢な足取りでスタンリーのピアノの前に。長いチャーチワーデンを殆ど立て掛けるように静かに置くと、それから鍵盤の蓋をそっと開けて。
『じゃあ……アナタにも必要ね?』
ポーラの指からジャズ・バラードのメロディーが奏られる。
『……摩天楼の片隅で……か。』
『そうよ。……アナタにぴったり。ワタシにもね?……自分の事を話さないのなら……音楽で教えて?ワタシは知りたいの。』
頭にまでポーラの煙が回ったジャックは紫煙とハーモニーに誘われるがまま、彼の座席の隣り、定位置にあるケースからテナーサックスを取り出した。
始めは2人がぎこちなく会話をするように音楽が奏でられていく。
それが段々と足取りが揃うように。
次にお互いの心の隙間を埋めるように。
そしてポーラの歌とピアノにジャックのサックスの音色がぴったりと寄り添った。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
摩天楼の片隅で。
燃えるような夕日の光が、ゆっくりと空に溶けゆきながら、あなたの瞳の中で輝いている。
止めようの無いため息は摩天楼の向こうに消えてしまった。
アナタが抱きしめてくれたから。
もし、アナタがワタシに教えてくれなければ、ワタシは永遠に愛を理解出来なかった。
辛く苦しい日々をワタシは思い出す。
けれど、アナタの微笑みで空の彼方に吹き飛んでしまった。
アナタの瞳の輝きとワタシの想いは月明かりの無い夜空でも輝けるのだから。
一生とはタバコの火のよう。
それは一瞬の事。儚い灯り。
でも永遠に消えないまま。
アナタはワタシの心の中にいる。
アナタがワタシを抱きしめてくれたように。
ワタシの魂に寄り添っていて。
もし、アナタがワタシに教えてくれなければ、ワタシは永遠に愛を理解出来なかった。
辛く苦しい日々をワタシは思い出す。
けれど、アナタの微笑みで空の彼方に吹き飛んでしまった。
アナタの瞳の輝きとワタシの想いは月明かりの無い夜空でも輝けるのだから。
ヒトは煙草の煙りのよう。
それは一瞬の事。不確かなもの。
でも決して消えはしない。
ワタシの心の中にアナタがいる。
ワタシがアナタを愛したように。
ねぇ、ワタシがここからいなくなろうとしても。
手を放さないで。
いつか摩天楼の片隅で。
アナタが抱きしめてくれたように。
ねぇ、アナタがここからいなくなろうとしても。
ワタシは手を放さない。
決して忘れないで。
もう独りじゃない。
だってワタシはこんなにもアナタを愛してる。
愛してる。
""""""""""""""""""""""""""""""""""
バラードが終わるとポーラとジャックはどちらともなく唇を重ねた。
まるでそうするのが当たり前のように。
『いいの?ワタシは魔物娘よ?』
『あぁ……』
『放さないわよ?』
『キミならかまわない。……なんて言うか、今日ステージでキミと合わせた時、何かが今迄とは違うと思った。それで今、確信に変わった。もう1度だけ……運命を……いや、違うな。……ヒトを信じてみたくなった。何の手土産も持たずにこの世に産まれてきて、何を期待するんだと笑うかも知れないけど』
ジャックの唇にポーラの人差し指が止まった。
『……自由を手に入れる為に不自由になる。それはワタシも同じよ?』
もう2人に言葉は必要無かった。
休憩室に入るとテーブルにサックスを置いて、2人は唇を合わせるとお互いの服を脱がし合う。それが終わると2人はベッドに倒れ込んだ。
ジャックの手がポーラの身体に触れる。まるでリロードのような手触りで柔らかい。吸い付いて離れない。肩、首、お腹、胸。触れる度にポーラの身体はピクリと反応してあの煙のような甘い匂いを出す。
だんだんと熱を持ち、しっとりと汗が滲んで、あの煙とは別の甘酸っぱい香りがただ1人を誘う為に放たれる。
夢中でポーラを触るジャックの分身にぬるりと濡れた箇所が当たった。人間の身体とワンダーワームたる芋虫の身体の境目。
ポーラは目を潤ませて熱い息を吐いている。まるで時間が止まってしまったように見つめ合う2人。
ポーラがジャックの目を見たまま、ゆっくりと首を縦に振る。それだけだった。
ジャックが腰を落とすとまるで沼に何かが沈むような音が辺りに響いた。ポーラの目が見開か空いた口の中の舌が天井に向いた。
抱き合う2人。ポーラはジャックの背中に薄く爪跡を残した。
暫くそのままで、息を荒げながら見つめ合い、そしてまた唇を重ねて舌を絡ませて合う。
ゆっくりと2人の時間が動き出した。
熱を帯びた吐息に合わせるように、だんだんと加速していく。
水音が響き、それはデュエットのように奏られる。
紫煙の甘い香りと、雄を誘う為の香りと、ジャックの汗の臭いが混ざり合う。
やがて2人の息が切羽詰まったようになる。
ジャックの手がポーラの背中と頭の後ろをしっかりと抱えて込んだ。
ポーラの芋虫の半身が打ちつけ合う腰が決して離れないようにジャックの最後を押さえるようにぎゅっと密着した。
そしてある時、ジャックとポーラの身体が同時に跳ね上がった。
汗が玉のように吹き出て、甘い匂いが部屋中に満ちる。きつく身体を抱きしめ合って震えて、やがて荒げていた息と一緒にだんだんと力が抜けていって、見つめ合って幸せそうに微笑み合うとまた唇を重ねる。
手を握り合って、お互いがここにいると確かめ合う。
そしてまた愛し合う。
その日は朝日が顔を出しても店の看板は『close』のままだった。
『ふふふ……アナタが大変なのはそこからだったね?』
『店の経営は大変だったよ。何せいきなりサックス吹き兼、バーテンダー兼、経営者になったからね。』
『エリーがいてくれて助かったわ。アナタの放浪癖にも悩まされたしね?彼女が店の経営を引き継いでくれなければ旅にも出られなかった。』
『その放浪癖の放浪に付いて来たキミも同罪だぞ。』
『ふふふ♪それもそうね。』
『だろ?』
『いろんな事があったね。……全て大切な思い出だよ。』
『あぁ、インキュバスになって姿はあの時から変わらないけどね?歳を取るってのは何も悪いもんじゃ無いってそう思えたよ……なぁ、あそこの写真。』
『うん、懐かしいねぇ。』
『ドラムセットでカッコ付けてるのがルゥ君で……ピアノの横に立っているのがミケーレさんか。トロンボーンの大男がフォンテーヌさん所のロバートさんと、横のチビちゃんがナナリーさんか。』
『髭面の優男がキミだね?』
『ハハッ、そうだね。真ん中の美人が君だ。』
『照れるじゃないか。』
『君はあの時から変わらず綺麗だ。』
『そう言うアナタは変わったわ……。』
『そうかい?』
『良い男になった。この時よりね?』
『これは……かなわないなぁ……』
するとチェシャ猫のマネージャーがやって来た。
『ステージ10分前ですにゃ!スタンバイお願いしまーす!』
ジャックは立ち上がるとサックスを首に下げ、右手をポーラに差し出した。
『さあ、行こうか……』
『えぇ……♪』
2人は見つめ合うと寄り添ってステージへゆっくり歩き出した。
22/06/28 17:22更新 / francois
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