禁書庫の魔法の楽譜
禁書庫の魔法の楽譜
今年は四月の上旬だった主聖祭の休暇もお終いで、皆んな明日には学校の寮に帰ってくる。毎年変わり映えなく、聖 黄金の日のミサが終わると皆んなウキウキしながらバカンスに出かけて、それから1週間は家族と思い思いの休暇だ。
でも僕には家族がいないから、この主聖祭の季節と夏の休暇と、それから冬の主聖降誕祭の季節はひとりぼっちだ。……1ケ月丸々ある夏の休暇は叔父さんの所に行くけど、あいつらは死んだ父さんと母さんの遺産が目的なんだ。だから、帰りたくない。1人の方がマシだ。
今は中等科の2年生、次の九月で3年生だから……あと4年か。高等科卒業まで、あの強欲で豚のように太った叔父さんに保護者の名前を借りなきゃいけない。あと4年……そしたら、あんな奴らとは縁を切って自由の国アルカナに行くんだ。
『おーい!!テオー!!』
なんて寮の中庭のベンチで考えてたら、1番帰ってきてほしかった親友の声が聞こえた。
『やぁ!オリバー!早いね。でも休暇は明日まででしょ?』
『……抜け出してきたよ。フランシスばあちゃんは相変わらず強烈だし、従兄弟のアランの悪戯に付き合わされるし、それでホーカン叔父さんはカンカンだし、もう散々。今日一番のバスに乗って帰って来たよ。』
オリバーは苦笑いしながら話した。でも、その理由はこじつけだ。それは僕が一番良く知ってる。
『……大変だね、ハルミトン家も。』
『まぁね。……なぁ、フロイライン。次の休暇は一緒に来いよ。今度は一夏ギセンの森で過ごすんだ。君がいてくれたら嬉しい。』
オリバー……
『……悪いけど、やめとくよ。家族って僕には良く分からないんだ。それに……オリバーのお父さんやお母さんや妹さんにも悪いだろ?』
『そっか……まぁ、気が向いたら来いよ。』
オリバー……君は良い奴だ。僕が毎回の休暇を1人で過ごしているのを知ると、一緒に過ごさないかと誘ってくれる。でも僕は毎回同じ理由で彼の誘いを断り続けている。
彼はそれ以上は語らずに僕と同じ景気を眺めた。
広い中庭の真ん中には世界から切り取られたように大きな木が蒼々と葉を広げて、地面に柔らかい木漏れ日を落としている。時折、葉や枝が風に吹かれて歌を歌うんだ。
彼……オリバー・ハルミトンと始めて会ったのもこんな良く晴れた午後だった。僕はちょうど1年前の主聖祭の休暇明けに転校して来た。
カッカッ……カカッ……カッ……コト……
『……テオドール。テオドール・ヴァン・シュタイン。……よろしく。』
黒板に書かれた文字の前で僕は短く挨拶をした。
『ミスタ・シュタイン。学校にいる間はここにいる皆んなが家族です。仲良くするように。皆さんも良いですね?……ミスタ・シュタイン、そこにいるミスタ・ジェンキンスの隣の席について。』
『テオドールだっけ?よろしく!』
『うん……』
『さぁ、皆んな教科書を開いて……1789年五月五日、現ランドル・ファラン共和国で労働者、市民が王政に対して起こした…………』
ジェンキンスって子は元気に挨拶してくれたけど、多分僕は酷い顔をしていたと思う。1年前のこの時、僕は両親を事故で亡くしたばかりだからだ。
叔父さん家族に引き取られたけど、彼らの目的はオランジュ系貴族である両親の遺産だ。だから厄介払いをするように僕をツェーリ自由中立国のギムナジウム(男子寮学校)であるここ、聖トマス高等中学校に追いやった。
笑顔なんか出来るはずもなかった。
隣の席のジェンキンスって子とは比較的仲が良かった。でも彼は出会ってすぐに聖トマス・ギムナジウムを去っていった。なんでも、貿易商を営む父親の仕事の都合で北の海の向こうのブリトニアに帰ると聞いた。もう少し長く一緒にいられたら、きっと良い友達になったろうと少し残念に思った事を覚えてる。
彼がブリトニアに帰ってからは、誰とも話すことなく一人で本を読むことが増えた。中庭のベンチがお気に入りの場所だった。
『やーい!フィネラル・テオ!眼鏡のテオ!根暗のテオ!』
当然、僕はいじめっ子たちのターゲットになった。ちなみにフィネラルとはブリトニア語て葬式の意味だ。
『コイツ、何時も本なんか読んじゃって!ボク秀才なんです〜良い子ちゃんなんです〜』
『『『ギャハハハハハハハ!!!』』』
ベッジにスタンにデイブ。悪ガキ3人組に目をつけられて、毎日の様にからかわれていた。3人とも酷いダミ声だ。
『ちょっと貸してみろ!!』
バサッ!
『やめてよ!』
ボカン!ドサッ……
『ぐっ!……』
『よえーー♪』
パラパラ……
『なんだコレ?……??よめねーー!』
『かえして!』
『良い子ちゃん!良い子ちゃん!かえしてほしかったら取ってみろよー』
ゴッ!ガッ!ゴン!
『『『べふぅ!??』』』
『……人の昼寝邪しやがって、変声期前後の声でピーチクパーチクうるさいんだよお前等……頭に響く……』
悪ガキ3人組の頭に見事なタンコブが出来た。
『何しやが……あっ……!!』
『どうしたん……あっ!!す、すみません先輩!!』
これがオリバーとの初めての出会いだった。背が高く、クシュクシュの黒髪に琥珀色の目、やや不機嫌そうに制服を着崩していて、なんだか怖そうな印象だった。上着のラペルには上級生と監督生のバッチが付いていた。
『俺、高等科1年のオリバーって言うんだ。ついでに寮監督生もしてる。……んでさ?……お前らが持ってるそれ……何?』
『先輩!すみません!!コレ!!』
『ちょ……それ僕の……』
ベッジたちは僕から取った本をオリバーに渡したんだ。
『そこの3人……もーいいから、どっか行ってろよ。』
『はい!!失礼しました!!』
悪ガキ3人組はそれで蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。弱い者は揖斐って、強い者にはとことん媚び諂う嫌な子たちだ。
『……コレさ、君のだろフロイライン。』
『あ、はい。……あの……ありがとう……ございます。』
『ふーん……主神文字?……ん?……エ……エヴェドの書?……ねぇ、君コレ読めるの?』
『ええ、まぁ……読めます……けど……』
『へーー!俺、題名読むくらいで手一杯だよ。たぶんさ、コレ読めるの大学の教授か主神教の司教様くらいだぜ!?凄いじゃないか、フロイライン!』
『そのフロイライン(お嬢さん)って言うのやめてくれませんか?』
『ハハハハ!サラサラの金髪に蒼眼でそんな可愛い顔してたら俺じゃなくともフロイラインって呼ぶさ。』
『////……と、とにかくありがとうございましたっっ!!!!』
『じゃあね、フロイライン♪』
僕はその時、この学校に来てから初めて感情が動くのを感じた。
その次の水の日の朝、僕はバタバタと廊下を急いで走っていた。寝坊をして礼拝に遅刻していたからだ。
ギィ…………
切れ切れの息を無理やり押さえて、静かに礼拝堂の横列のドアを開けた。聖歌を歌っている最中だった。すると、おっとりした体の大きなクマみたいな上級生に引っ張りこまれた。
『……ん?遅刻か?……ほれ、ここに入れ。聖歌集……38番の今ここだ。』
『ありがとう。……聖なるかな♪聖なるかな♪……むぐ!?』
いきなり口を塞がれた。
『しーーっ、いやすまん、すまん。変声期前か。テノールならともかく、バリトンの中にソプラノがいちゃまずい。』
『もがもが……』
『おーい……こっちこっち。』
また、引っ張られた。その先にオリバーがいた。
『やぁ、また会ったなフロイライン。』
『なんだおまえさん、こんな可愛い子ちゃんと知り合いか?』
『あぁ、この前ちょっとね。なぁ、フロイライン?』
『ムスッ……テオドール。テオドール・ヴァン・シュタイン。』
『ははは。なるほど、こりゃ可愛いな。……俺は高等科2年のベアハルトだ。ブルーノ・フォン・ベアハルト。よろしくフロイライン。』
『ベアハルト(森のクマ)……ふふふ……っ!』
僕はブルーノの名前を聞いて思わずお腹を抱えてしまった。
『なぁ?ぴったりだろ?』
"そこ!静粛に!!……またオリバーか!後で告解室に来る様に!"
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
『やべっ……』
『やれやれ……』
ヒソヒソ笑い声の中、オリバーが神父に注意されて舌を出すとブルーノが呆れ気味にため息をついた。
ブルーノはオリバーと同じく監督生だ。彼は温厚誠実な人柄が評価され、最上級監督生や先生達からの信頼も厚い。
授業が終わったこの日の午後、オリバーとブルーノに誘われて僕は『コーヒーの会』に出席した。
『コーヒーの会』とは、上級監督生が毎週 黄金の日に主催する成績優秀者やお気に入りの生徒を対象にした一種の社交界だ。
この社交界は聖トマス・ギムナジウムの騎士学校時代から続く伝統で『コーヒーの会』に誘われる事、出席することは名誉な事で、一種のステータスになっている。
監督生のオリバーとブルーノの2人と知り合ったおかげか、僕はちょくちょく『コーヒーの会』に足を運ぶ様になって、気づいたら常連になっていた。
オリバー曰く
『眼鏡を取ったらとびきりの可愛い顔で、おまけに成績も良ければ誘わない訳にはいかないさ!』
ということらしい。
それから、オリバーと打ち解けて親友となるのに時間はいらなかった。勉強について教え合ったり、時には授業を抜け出していろいろな事をした。
屋上でサボったり……
論文のでっち上げ方を教えてもらったり……
オリバーの足りない神学の単位を間に合わせる為に2人で一緒に聖歌隊に入ったり……
生徒の家族や外部の女子生徒を招く主聖降誕祭のダンスパーティでは、妹さんのドレスを着させられて一緒に踊ったり……後でオリバーからとびきりの美人だったってからかわれた。
結構ロクでもない。
彼は優秀で頭がキレて、だけどルールを無視する傾向があって、何と言うか少しワルでカッコ良かった。僕は彼のそういう所に惹きつけられたんだ。
僕にもし兄さんがいたら……
オリバーみたいな感じなのかな?……
そうに決まっている。
そんな事を考え、キラキラとした思い出を思い出しながら中庭の木を眺め、この美しく切り取られた緑と木漏れ日の世界をオリバーとふたり占めした。
その日はそれからチェスをしたり、1週間の休暇にたんまり出された学校の課題を手伝ったりした。オリバーの宿題は当然のようにほとんど終わっていない。高等科の課題を中等科の僕が手伝うのはいかがなものか?普通は逆だと思う。
オリバーは高等科の2年で数ヶ月後に控えた夏の休暇が終わると3年生になる。去年は名前も知らなかった最上級生が『コーヒーの会』を催していたけど、今はブルーノが中心になっている。
次のシーズンはたぶん、オリバーが主催者になると思う。……でもきっと仕事とか面倒事は殆ど僕に任せきりになるだろう。
オリバーはいつまで僕に頼ってくれるだろう……?
夜ふとそんな事を考えてしまう。
ブルーノは数ヶ月後に卒業して大学に行く。やがてオリバーも此処を去って行ってしまう。
少し前まではこんな事は考えもしなかった。少し前ならば……
いつかそう遠くない未来、別れが来る。
避けようのない事実と現実が通り過ぎ、砂時計の砂が残酷に溢れ落ちて行く。
ブルーノも、やがてはオリバーも僕の前から居なくなってしまう。
みんな僕を置いて行ってしまう。僕は止まったままなのに。
こんな夜は、まるで世界に1人だけになったみたいに、どうしようもない孤独感に襲われるんだ。
あぁ、神様。オリバーを僕から奪わないでください……。
そんな願いを願わずにいられない程度には僕も主神を信じているらしい。その御手はあまりにも遠く、その願いはあまりにも虚しいと知っているのに。
翌日……
休暇の最終日で皆んなが戻って来る日だ。皆んな大忙しだろう。
僕とオリバーは荷下ろしや手続きで忙しい学友達をよそにギムナジウムからほど近い町に遊びに行った。
オリバーは監督生の権限をフルに役に立たせている。バスを手配したり、抜け出す為の外出書類をでっち上げたり。
町に着いた僕たちは、カフェでコーヒーを啜りながらブランチを食べている。
『相変わらず、すごい手際だね。惚れ惚れするよ……』
『そりゃどうも!……フロイラインも覚えておけよ?便利だぞ!』
『へ!?』
『へ!?……じゃないよ、まったく。来シーズン、俺がテオを推薦して監督生にねじ込む。これで公然とフロイラインをこき使う事ができる。いろいろ仕込んでやるよ。』
『え?でも僕、進級してもまだ高等科じゃないよ?』
『聖トマス・ギムナジウム学生規則……寮監督生は成績並びに精神的優秀な学生から選抜される。……ここ10年くらいは監督生は高等科の生徒だけだ。でも規則では優秀なら誰でもなれる。推薦があればなおのことさ!』
そんな無茶な!と思ったけどオリバーならやり兼ねない。
彼はルールの穴や抜け道を見つけるのが得意だ。彼に言わせれば、ルールとは守るべきものではなく、利用するモノらしい。
どうなることやらと、僕の心配事を他所に、目の前のプレイボーイは道行く女の子に手を振っていた。するとすぐさま黄色い声が聞こえてくる。なんだか、少し腹が立つ。
『ん?どうした?』
『べ つ に !!』
そうして急いでサンドイッチとミートパイを頬張った。
そのあとは、いろいろ見て回った。僕が知らない場所とかだ。ツェーリ自由中立国は西方主神教を国教としていても中立国。当然ながら魔物もいて、彼女たちが住む地区は学校の規則で立ち入り禁止。今歩いているのは立ち入り禁止地区にほど近いグレーゾーンだ。ちらほらと魔物の視線を感じる。
『大丈夫さ、フロイライン。学生規則を覚えているかい?学校外では赤いタイを外すべからず!……このタイは魔物避けの加護が付いてる。だから大丈夫さ!』
『あのさ……オリバーっていつもこんな所に来ているの?』
『あぁ、面白いだろ?』
遠くの国や魔界の道具を売る雑貨屋さんや、ジパングや霧の国の反物屋に、気味の悪いくらい精巧に作られた人形店とか、……ハリー・シュミットのドールショップだっけ?あれは凄かった!
そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎた。……いや、明らかにやり過ぎてしまった!
『オリバー!どうするの?いま5時だよ!?寮の門限が〜!』
門限破りは規則違反で一番重いんだ。いま6時で門限は7時。確実に間に合わない。最悪、在学中は休みに二度と町に出れないかも知れない……
『落ち着け、フロイライン。大丈夫だ。いいか?問題ない。全て、問題ない。こっちだ。』
すると、オリバーは僕の手を引いてどんどん路地裏を進んでいく。すると、旧市街地に忘れ去られたようにひっそりと佇む小さな教会の廃墟があった。
何聖紀も前のとても古い作りの寂れた教会跡地だ。オリバーはおもむろに地面の排水口の蓋を開けた。
『な?問題ないだろ?』
『コレのどこが……?』
排水口だと思っていたのは地下へ続く階段だった。でも、階段を降りて地下に入ると直ぐに行き止まりで何も無い。崩れかけたボロボロのレンガの壁だ。
『まぁ、見てなよ……汝、疑うより信ずる者とならん。』
『聖句?……うわ!?』
オリバーが聖句を唱えると足元に魔法陣が浮かんで、何もない崩れかけたレンガの壁に扉が現れた。
『す、凄い……』
『だろ?魔法の抜け道さ……通るぞ。』
扉を開け、水が張られたような入り口を2人で通り抜ける。
『オリバー、ここどこ?モガ!?』
『(しっ、静かに……ここはギムナジウムの教会禁書庫に跳んだんだ。立ち入り禁止の地下禁書庫は知ってるな?そこがここだ。誰にも見つからないように気をつけなきゃいけない。OK?)』
『モガ、モガ(わかった)……』
『(良い子だフロイライン。抜け道を消してくる。ちょっと待ってて……)』
見渡すと本の森に迷い込んだように沢山の本がある。ここにあるのは全部禁書だ……全部凄く古い。
『ん……?』
僕は薄明かりの中、目の前の棚に引き寄せられるように一冊の薄い本を手に取った。
『(これは……楽譜?……)』
表紙には美しい銀の装飾がされている。キラキラと輝くような、不思議な魅力に溢れていた。文字は神の言葉……主神文字だ……
すると、オリバーが戻って来た。僕は急いでその一冊の古びたボロボロの楽譜を鞄にしまい込んだ。
『(お待たせテオ……この道は何度かお世話になってるけど、油断は出来ない。今から地下禁書庫を抜けて地上の礼拝堂に出て、それから中庭の端を通って学生宿舎に入る。いけるか?)』
『(うん……)』
やっぱり、こういう時のオリバーはカッコいい。頼りになる。
僕とオリバーは気をつけながら禁書庫を歩いた。オリバーの話しによると、もともとここはツェーリ傭兵団の武器庫でいざ戦争の時には直ぐ武器を揃えられるように、鍵付きの扉は殆ど無いらしい。あっても安全ピンで簡単に開くそうだ。
そんな訳で途中まで順調に進んで行ったけど、あと少しでって時にトラブルが起こった。
『誰かそこにいるのですか?』
担任のシュピーゲル先生の声だ。最悪だ。冷や汗が背中を伝うのがわかる。外出禁止の時間だ。バレたら……
『ほれ、こっちだ。』
グイッ!!
『『えっ!?』』
とその時、誰かが僕たち2人を引っ張って柱の影に追いやった。
『俺です。ブルーノ・ベアハルトです。こんばんは、シュピーゲル先生。』
『こんばんはミスタ・ベアハルト。今は外出禁止時間だ。君はこんなところでいったい何をしている?告解かね?』
『いえ、見回りです。面倒ですが首席寮監督生として当然です。先生こそどうしたんですか?』
『いや、私は……いろいろとやる事があるのだよ。……ミスタ・ベアハルト。真面目なのは感心するが、ほどほどにして休みなさい。』
『わかりました、シュピーゲル先生。……ではシスター・マドレーヌによろしくお伝えください。』
『な、何故それを!?はっ!……ゴホン!……で、ではおやすみ、ミスタ・ベアハルト!君も早く休みなさい!』
そういうと、シュピーゲル先生は慌てて去っていった。
ブルーノは、はぁ…… と深く溜息をつくとこちらに来た。怒っているような、呆れたような、再会を喜んでいるような、そんな複雑な表情をしている。
『……お前さんたちときたら、まったく。シュピーゲル先生だから良かったってもんだ。』
オリバーは屈託ない笑顔をブルーノに向ける。
『ありがとう、ブルーノ……あでっ!!』
ボカン!……とブルーノがオリバーにゲンコツを落とした。
『いちち……なにするんだよ〜』
『うるさい、バカヤロウ!フロイラインまで危険に晒して!……』
ブルーノと目が合った……
『お前さんも、お前さんだ!』
グリグリグリグリグリグリ……
『ぎゃぁぁあぁあ』
ブルーノが僕のこめかみに拳を当ててグリグリと締め上げてきた。
『ちょ!やめろ、ブルーノがやると頭の形が変わっちまう!』
『おっと、すまんすまん。』
頭がグワングワンする。本当に頭の形が変わってしまうところだ。
『いてて……なんでブルーノはここに?』
『……寮に帰っても姿が見えないからもしや?と思って心配したら案の定だ。見に来て良かったよ、まったく!』
本当に心配をかけたみたいだ。
『ご、ごめんなさい……。』
『……はぁ。まぁもう良いよ。フロイラインを巻き込んだそこの不良が悪い。書類まででっち上げてまったくもう。』
『『ははっ……』』
そんな訳で、ブルーノに助けてもらった。なんだかんだ文句を言ってもいつも助けてくれる。
それから、いつもの日常が戻ってきた。
退屈な授業を受けて、コーヒーの会に顔を出して、聖歌隊の練習に参加して、週末はオリバーとブルーノと一緒に町に繰り出した。
そんな毎日を過ごして少し暑くなってきた6月のある日の午後、ふと机の中にしまい込んだままになっている楽譜の事を思い出した。
美しい製本……銀糸の装飾は何度見ても素晴らしい。ハラリ……とページをめくるといわゆる『神の言葉』で文章が書いてあった。
『……なになに?』
"
グリゴリの典礼
神が与えたる壮麗たる音楽の調和を愛する者らの特別な祈りの為の歌
古の盟約により、其を唄えし者の前に御使が現れるだろう
汝、其を願いと祈りを込め唄え……
"
『歌えって言われても、この楽譜……いわゆる西方教会譜……グレゴリー聖歌じゃないか。バカバカしい……』
書かれていた楽譜は五線譜のオタマジャクシじゃなく『神の言葉』と黒い点だけのなんだかよくわかんない……ん?
なん……で?
『僕なんでコレ読めるの?』
音と旋律が頭の中に入ってくるみたいにスラスラと読める。読み方のわからない筈の楽譜なのに……
グレゴリー聖歌でしょ?コレ?
なんだ?この楽譜には何かある……
僕は居ても立ってもいられなくて不思議な楽譜を握りしめ、礼拝堂に駆け出した。
『……よう、フロイライン!これからブルーノの部屋で』
『ごめん!オリバー、また後で!』
オリバーが声をかけてくれたけどそれどころじゃない。
バタン!と乱暴に扉を開けてパイプオルガンの前で楽譜を広げる。
すごい……読める!読める!
頭に入ってきた旋律通りに歌い、楽譜に書かれている言葉を紡いだ。美しい旋律が礼拝堂を包む……いつも歌っているところだけど、まるで大聖堂のように輝いているみたいだ。
ふぅ…………。
歌い終わった。
…………………………………………
あれ?……なんだ……なにも起こらないじゃないか。思い過ごしだ。この歳で子供みたいにはしゃいじゃってバカな事をした。
早くオリバーの所に行こう。
『……良かったわよ?あなた歌が上手なのねぇ。』
『え?』
振り返るとそこには『悪魔』がいた。女の姿に大きな角、青い肌、闇色の髪、そして大きな翼……
『こんばんは坊や……願いと覚悟があるのでしょ?だからあの歌を歌った。』
『え?ちょっと……なに?』
悪魔は悪戯っぽく微笑むとオルガン椅子に腰掛けた。
『私はデーモン。名前はヘルガ。召喚の歌に応えて出てきたのよ?あれは私が書いたの。素敵な曲だったでしょう?ふふふ……さぁ、あなたの願いを叶えてあげる……願いはなぁに?』
『願い……?』
『そう……願い……』
ヘルガの指先から紫色の光が出て、彼女がまるで指揮を振るような仕草で指を振ると、空中に羊皮紙と銀色のペンが出てきた。
『願いを祈りながらそのペンでこの契約書に名前を書くの……そうすれば契約成立。引き換えは貴方自身。それで願いを叶えてあげる……。富でも力でも名声でも……』
ヘルガが契約書にサインをしろとでも言うように迫り来て、羊皮紙を掴み、銀のペンを僕に握らせたその時。
ギィ……
『お、おい……なんだよお前?……テオ?テオ!?そいつから離れろ!』
オリバーだ。オリバーが入ってきた。
『おい魔物!ここは聖トマス・ギムナジウムだ!ツェーリ永久不可侵条約に違反するぞ!?』
『おや、おや、おや……クスクスクスクス。そこの可愛い坊やが私をここに招き入れたのよ?それとも、勇ましい坊や。貴方が契約書にサインをしたいの?……私としてはどちらでも構わないわよぉ?』
するとヘルガという悪魔はオリバーの方に向かった。
『……呼び出したのは僕で、契約者も僕だ!……オリバーは関係ない!』
『んん?……ほぅ、ほぅ、ほぅ……。んー、成る程ねー♪』
僕とオリバーを交互に見ると嬉しそうに微笑んだ。何かを納得された?
『お姉さんとしては少し残念だけど、コレはコレで面白くなりそうね♪でも坊や?せっかくのチャンスを悪魔が逃すと思う?でも手を組むなら』
『……サンクチュアリ』
『坊や?今なんて?』
『サンクチュアリ!(聖域を!』
ボゥ!!
僕がそう叫ぶと羊皮紙の契約書に書かれた文字が燃えて白紙になった。ヘルガは少し驚いて僕の方を向いた。
悪魔も元々は神の使いと何時か読んだ本に書いてあった。だから、もし彼女が本物なら聖域を求められたら応えざる負えない。
聖域は交渉や庇護を求める時の合言葉みたいなものだ。
『……悪魔相手にビジネスを持ちかけるつもり?エヴェド君にでも吹き込まれたの?クスクスクスクス…………貴方、可愛い顔してなかなかやるわね?』
『おい!お前たちはいったい何を言ってるんだ?』
困惑してる彼に向かってヘルガが少し残念そうに告げる。
『勇ましい坊や。ここからは有料なの。ちょっとこの坊やと2人でお話ししてからまた会いましょうね?ウフフフフフ……』
礼拝堂の中央の通り道が長くなり、オリバーをどんどん遠ざける。凄まじい魔法だ。オリバーは必死に追いかけてくれたけど、距離はどんどん離れていく。
『オリバー!大丈夫……きっと上手くやるから!!!』
やがて、オリバーの気配を感じなくなった。
『……悪魔ヘルガ……さん。……取り引きをしよう。』
ヘルガは微笑むと羊皮紙と銀のペンを空中に浮かべた。
『えぇ、良いビジネスにしましょう?クスクスクスクス♪♪』
続く…………っと、ちょっと待て。
コホン!……やぁ、皆さま。コーヒーはいかが?クッキーもある。
俺は首席監督生のブルーノ・フォン・ベアハルトだ。
さてと……この先、物語が分岐するんだ。
踏み入れたら最後、抜け出せない底なし沼のような愛をお望みの方は
堕落の園へ……
宿命の恋人がもたらす、心を焦がし身を滅ぼす狂気の愛をお望みの方は
悪魔の取引 → 悦楽の園……
へと進んでくれ。コーヒーの会に参加したいのなら、いつでも歓迎するよ。
アウフ ウィーダシェーン、ビス バルド!!
(さようなら、またね!!)
今年は四月の上旬だった主聖祭の休暇もお終いで、皆んな明日には学校の寮に帰ってくる。毎年変わり映えなく、聖 黄金の日のミサが終わると皆んなウキウキしながらバカンスに出かけて、それから1週間は家族と思い思いの休暇だ。
でも僕には家族がいないから、この主聖祭の季節と夏の休暇と、それから冬の主聖降誕祭の季節はひとりぼっちだ。……1ケ月丸々ある夏の休暇は叔父さんの所に行くけど、あいつらは死んだ父さんと母さんの遺産が目的なんだ。だから、帰りたくない。1人の方がマシだ。
今は中等科の2年生、次の九月で3年生だから……あと4年か。高等科卒業まで、あの強欲で豚のように太った叔父さんに保護者の名前を借りなきゃいけない。あと4年……そしたら、あんな奴らとは縁を切って自由の国アルカナに行くんだ。
『おーい!!テオー!!』
なんて寮の中庭のベンチで考えてたら、1番帰ってきてほしかった親友の声が聞こえた。
『やぁ!オリバー!早いね。でも休暇は明日まででしょ?』
『……抜け出してきたよ。フランシスばあちゃんは相変わらず強烈だし、従兄弟のアランの悪戯に付き合わされるし、それでホーカン叔父さんはカンカンだし、もう散々。今日一番のバスに乗って帰って来たよ。』
オリバーは苦笑いしながら話した。でも、その理由はこじつけだ。それは僕が一番良く知ってる。
『……大変だね、ハルミトン家も。』
『まぁね。……なぁ、フロイライン。次の休暇は一緒に来いよ。今度は一夏ギセンの森で過ごすんだ。君がいてくれたら嬉しい。』
オリバー……
『……悪いけど、やめとくよ。家族って僕には良く分からないんだ。それに……オリバーのお父さんやお母さんや妹さんにも悪いだろ?』
『そっか……まぁ、気が向いたら来いよ。』
オリバー……君は良い奴だ。僕が毎回の休暇を1人で過ごしているのを知ると、一緒に過ごさないかと誘ってくれる。でも僕は毎回同じ理由で彼の誘いを断り続けている。
彼はそれ以上は語らずに僕と同じ景気を眺めた。
広い中庭の真ん中には世界から切り取られたように大きな木が蒼々と葉を広げて、地面に柔らかい木漏れ日を落としている。時折、葉や枝が風に吹かれて歌を歌うんだ。
彼……オリバー・ハルミトンと始めて会ったのもこんな良く晴れた午後だった。僕はちょうど1年前の主聖祭の休暇明けに転校して来た。
カッカッ……カカッ……カッ……コト……
『……テオドール。テオドール・ヴァン・シュタイン。……よろしく。』
黒板に書かれた文字の前で僕は短く挨拶をした。
『ミスタ・シュタイン。学校にいる間はここにいる皆んなが家族です。仲良くするように。皆さんも良いですね?……ミスタ・シュタイン、そこにいるミスタ・ジェンキンスの隣の席について。』
『テオドールだっけ?よろしく!』
『うん……』
『さぁ、皆んな教科書を開いて……1789年五月五日、現ランドル・ファラン共和国で労働者、市民が王政に対して起こした…………』
ジェンキンスって子は元気に挨拶してくれたけど、多分僕は酷い顔をしていたと思う。1年前のこの時、僕は両親を事故で亡くしたばかりだからだ。
叔父さん家族に引き取られたけど、彼らの目的はオランジュ系貴族である両親の遺産だ。だから厄介払いをするように僕をツェーリ自由中立国のギムナジウム(男子寮学校)であるここ、聖トマス高等中学校に追いやった。
笑顔なんか出来るはずもなかった。
隣の席のジェンキンスって子とは比較的仲が良かった。でも彼は出会ってすぐに聖トマス・ギムナジウムを去っていった。なんでも、貿易商を営む父親の仕事の都合で北の海の向こうのブリトニアに帰ると聞いた。もう少し長く一緒にいられたら、きっと良い友達になったろうと少し残念に思った事を覚えてる。
彼がブリトニアに帰ってからは、誰とも話すことなく一人で本を読むことが増えた。中庭のベンチがお気に入りの場所だった。
『やーい!フィネラル・テオ!眼鏡のテオ!根暗のテオ!』
当然、僕はいじめっ子たちのターゲットになった。ちなみにフィネラルとはブリトニア語て葬式の意味だ。
『コイツ、何時も本なんか読んじゃって!ボク秀才なんです〜良い子ちゃんなんです〜』
『『『ギャハハハハハハハ!!!』』』
ベッジにスタンにデイブ。悪ガキ3人組に目をつけられて、毎日の様にからかわれていた。3人とも酷いダミ声だ。
『ちょっと貸してみろ!!』
バサッ!
『やめてよ!』
ボカン!ドサッ……
『ぐっ!……』
『よえーー♪』
パラパラ……
『なんだコレ?……??よめねーー!』
『かえして!』
『良い子ちゃん!良い子ちゃん!かえしてほしかったら取ってみろよー』
ゴッ!ガッ!ゴン!
『『『べふぅ!??』』』
『……人の昼寝邪しやがって、変声期前後の声でピーチクパーチクうるさいんだよお前等……頭に響く……』
悪ガキ3人組の頭に見事なタンコブが出来た。
『何しやが……あっ……!!』
『どうしたん……あっ!!す、すみません先輩!!』
これがオリバーとの初めての出会いだった。背が高く、クシュクシュの黒髪に琥珀色の目、やや不機嫌そうに制服を着崩していて、なんだか怖そうな印象だった。上着のラペルには上級生と監督生のバッチが付いていた。
『俺、高等科1年のオリバーって言うんだ。ついでに寮監督生もしてる。……んでさ?……お前らが持ってるそれ……何?』
『先輩!すみません!!コレ!!』
『ちょ……それ僕の……』
ベッジたちは僕から取った本をオリバーに渡したんだ。
『そこの3人……もーいいから、どっか行ってろよ。』
『はい!!失礼しました!!』
悪ガキ3人組はそれで蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。弱い者は揖斐って、強い者にはとことん媚び諂う嫌な子たちだ。
『……コレさ、君のだろフロイライン。』
『あ、はい。……あの……ありがとう……ございます。』
『ふーん……主神文字?……ん?……エ……エヴェドの書?……ねぇ、君コレ読めるの?』
『ええ、まぁ……読めます……けど……』
『へーー!俺、題名読むくらいで手一杯だよ。たぶんさ、コレ読めるの大学の教授か主神教の司教様くらいだぜ!?凄いじゃないか、フロイライン!』
『そのフロイライン(お嬢さん)って言うのやめてくれませんか?』
『ハハハハ!サラサラの金髪に蒼眼でそんな可愛い顔してたら俺じゃなくともフロイラインって呼ぶさ。』
『////……と、とにかくありがとうございましたっっ!!!!』
『じゃあね、フロイライン♪』
僕はその時、この学校に来てから初めて感情が動くのを感じた。
その次の水の日の朝、僕はバタバタと廊下を急いで走っていた。寝坊をして礼拝に遅刻していたからだ。
ギィ…………
切れ切れの息を無理やり押さえて、静かに礼拝堂の横列のドアを開けた。聖歌を歌っている最中だった。すると、おっとりした体の大きなクマみたいな上級生に引っ張りこまれた。
『……ん?遅刻か?……ほれ、ここに入れ。聖歌集……38番の今ここだ。』
『ありがとう。……聖なるかな♪聖なるかな♪……むぐ!?』
いきなり口を塞がれた。
『しーーっ、いやすまん、すまん。変声期前か。テノールならともかく、バリトンの中にソプラノがいちゃまずい。』
『もがもが……』
『おーい……こっちこっち。』
また、引っ張られた。その先にオリバーがいた。
『やぁ、また会ったなフロイライン。』
『なんだおまえさん、こんな可愛い子ちゃんと知り合いか?』
『あぁ、この前ちょっとね。なぁ、フロイライン?』
『ムスッ……テオドール。テオドール・ヴァン・シュタイン。』
『ははは。なるほど、こりゃ可愛いな。……俺は高等科2年のベアハルトだ。ブルーノ・フォン・ベアハルト。よろしくフロイライン。』
『ベアハルト(森のクマ)……ふふふ……っ!』
僕はブルーノの名前を聞いて思わずお腹を抱えてしまった。
『なぁ?ぴったりだろ?』
"そこ!静粛に!!……またオリバーか!後で告解室に来る様に!"
クスクスクスクスクスクスクスクスクスクス
『やべっ……』
『やれやれ……』
ヒソヒソ笑い声の中、オリバーが神父に注意されて舌を出すとブルーノが呆れ気味にため息をついた。
ブルーノはオリバーと同じく監督生だ。彼は温厚誠実な人柄が評価され、最上級監督生や先生達からの信頼も厚い。
授業が終わったこの日の午後、オリバーとブルーノに誘われて僕は『コーヒーの会』に出席した。
『コーヒーの会』とは、上級監督生が毎週 黄金の日に主催する成績優秀者やお気に入りの生徒を対象にした一種の社交界だ。
この社交界は聖トマス・ギムナジウムの騎士学校時代から続く伝統で『コーヒーの会』に誘われる事、出席することは名誉な事で、一種のステータスになっている。
監督生のオリバーとブルーノの2人と知り合ったおかげか、僕はちょくちょく『コーヒーの会』に足を運ぶ様になって、気づいたら常連になっていた。
オリバー曰く
『眼鏡を取ったらとびきりの可愛い顔で、おまけに成績も良ければ誘わない訳にはいかないさ!』
ということらしい。
それから、オリバーと打ち解けて親友となるのに時間はいらなかった。勉強について教え合ったり、時には授業を抜け出していろいろな事をした。
屋上でサボったり……
論文のでっち上げ方を教えてもらったり……
オリバーの足りない神学の単位を間に合わせる為に2人で一緒に聖歌隊に入ったり……
生徒の家族や外部の女子生徒を招く主聖降誕祭のダンスパーティでは、妹さんのドレスを着させられて一緒に踊ったり……後でオリバーからとびきりの美人だったってからかわれた。
結構ロクでもない。
彼は優秀で頭がキレて、だけどルールを無視する傾向があって、何と言うか少しワルでカッコ良かった。僕は彼のそういう所に惹きつけられたんだ。
僕にもし兄さんがいたら……
オリバーみたいな感じなのかな?……
そうに決まっている。
そんな事を考え、キラキラとした思い出を思い出しながら中庭の木を眺め、この美しく切り取られた緑と木漏れ日の世界をオリバーとふたり占めした。
その日はそれからチェスをしたり、1週間の休暇にたんまり出された学校の課題を手伝ったりした。オリバーの宿題は当然のようにほとんど終わっていない。高等科の課題を中等科の僕が手伝うのはいかがなものか?普通は逆だと思う。
オリバーは高等科の2年で数ヶ月後に控えた夏の休暇が終わると3年生になる。去年は名前も知らなかった最上級生が『コーヒーの会』を催していたけど、今はブルーノが中心になっている。
次のシーズンはたぶん、オリバーが主催者になると思う。……でもきっと仕事とか面倒事は殆ど僕に任せきりになるだろう。
オリバーはいつまで僕に頼ってくれるだろう……?
夜ふとそんな事を考えてしまう。
ブルーノは数ヶ月後に卒業して大学に行く。やがてオリバーも此処を去って行ってしまう。
少し前まではこんな事は考えもしなかった。少し前ならば……
いつかそう遠くない未来、別れが来る。
避けようのない事実と現実が通り過ぎ、砂時計の砂が残酷に溢れ落ちて行く。
ブルーノも、やがてはオリバーも僕の前から居なくなってしまう。
みんな僕を置いて行ってしまう。僕は止まったままなのに。
こんな夜は、まるで世界に1人だけになったみたいに、どうしようもない孤独感に襲われるんだ。
あぁ、神様。オリバーを僕から奪わないでください……。
そんな願いを願わずにいられない程度には僕も主神を信じているらしい。その御手はあまりにも遠く、その願いはあまりにも虚しいと知っているのに。
翌日……
休暇の最終日で皆んなが戻って来る日だ。皆んな大忙しだろう。
僕とオリバーは荷下ろしや手続きで忙しい学友達をよそにギムナジウムからほど近い町に遊びに行った。
オリバーは監督生の権限をフルに役に立たせている。バスを手配したり、抜け出す為の外出書類をでっち上げたり。
町に着いた僕たちは、カフェでコーヒーを啜りながらブランチを食べている。
『相変わらず、すごい手際だね。惚れ惚れするよ……』
『そりゃどうも!……フロイラインも覚えておけよ?便利だぞ!』
『へ!?』
『へ!?……じゃないよ、まったく。来シーズン、俺がテオを推薦して監督生にねじ込む。これで公然とフロイラインをこき使う事ができる。いろいろ仕込んでやるよ。』
『え?でも僕、進級してもまだ高等科じゃないよ?』
『聖トマス・ギムナジウム学生規則……寮監督生は成績並びに精神的優秀な学生から選抜される。……ここ10年くらいは監督生は高等科の生徒だけだ。でも規則では優秀なら誰でもなれる。推薦があればなおのことさ!』
そんな無茶な!と思ったけどオリバーならやり兼ねない。
彼はルールの穴や抜け道を見つけるのが得意だ。彼に言わせれば、ルールとは守るべきものではなく、利用するモノらしい。
どうなることやらと、僕の心配事を他所に、目の前のプレイボーイは道行く女の子に手を振っていた。するとすぐさま黄色い声が聞こえてくる。なんだか、少し腹が立つ。
『ん?どうした?』
『べ つ に !!』
そうして急いでサンドイッチとミートパイを頬張った。
そのあとは、いろいろ見て回った。僕が知らない場所とかだ。ツェーリ自由中立国は西方主神教を国教としていても中立国。当然ながら魔物もいて、彼女たちが住む地区は学校の規則で立ち入り禁止。今歩いているのは立ち入り禁止地区にほど近いグレーゾーンだ。ちらほらと魔物の視線を感じる。
『大丈夫さ、フロイライン。学生規則を覚えているかい?学校外では赤いタイを外すべからず!……このタイは魔物避けの加護が付いてる。だから大丈夫さ!』
『あのさ……オリバーっていつもこんな所に来ているの?』
『あぁ、面白いだろ?』
遠くの国や魔界の道具を売る雑貨屋さんや、ジパングや霧の国の反物屋に、気味の悪いくらい精巧に作られた人形店とか、……ハリー・シュミットのドールショップだっけ?あれは凄かった!
そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎた。……いや、明らかにやり過ぎてしまった!
『オリバー!どうするの?いま5時だよ!?寮の門限が〜!』
門限破りは規則違反で一番重いんだ。いま6時で門限は7時。確実に間に合わない。最悪、在学中は休みに二度と町に出れないかも知れない……
『落ち着け、フロイライン。大丈夫だ。いいか?問題ない。全て、問題ない。こっちだ。』
すると、オリバーは僕の手を引いてどんどん路地裏を進んでいく。すると、旧市街地に忘れ去られたようにひっそりと佇む小さな教会の廃墟があった。
何聖紀も前のとても古い作りの寂れた教会跡地だ。オリバーはおもむろに地面の排水口の蓋を開けた。
『な?問題ないだろ?』
『コレのどこが……?』
排水口だと思っていたのは地下へ続く階段だった。でも、階段を降りて地下に入ると直ぐに行き止まりで何も無い。崩れかけたボロボロのレンガの壁だ。
『まぁ、見てなよ……汝、疑うより信ずる者とならん。』
『聖句?……うわ!?』
オリバーが聖句を唱えると足元に魔法陣が浮かんで、何もない崩れかけたレンガの壁に扉が現れた。
『す、凄い……』
『だろ?魔法の抜け道さ……通るぞ。』
扉を開け、水が張られたような入り口を2人で通り抜ける。
『オリバー、ここどこ?モガ!?』
『(しっ、静かに……ここはギムナジウムの教会禁書庫に跳んだんだ。立ち入り禁止の地下禁書庫は知ってるな?そこがここだ。誰にも見つからないように気をつけなきゃいけない。OK?)』
『モガ、モガ(わかった)……』
『(良い子だフロイライン。抜け道を消してくる。ちょっと待ってて……)』
見渡すと本の森に迷い込んだように沢山の本がある。ここにあるのは全部禁書だ……全部凄く古い。
『ん……?』
僕は薄明かりの中、目の前の棚に引き寄せられるように一冊の薄い本を手に取った。
『(これは……楽譜?……)』
表紙には美しい銀の装飾がされている。キラキラと輝くような、不思議な魅力に溢れていた。文字は神の言葉……主神文字だ……
すると、オリバーが戻って来た。僕は急いでその一冊の古びたボロボロの楽譜を鞄にしまい込んだ。
『(お待たせテオ……この道は何度かお世話になってるけど、油断は出来ない。今から地下禁書庫を抜けて地上の礼拝堂に出て、それから中庭の端を通って学生宿舎に入る。いけるか?)』
『(うん……)』
やっぱり、こういう時のオリバーはカッコいい。頼りになる。
僕とオリバーは気をつけながら禁書庫を歩いた。オリバーの話しによると、もともとここはツェーリ傭兵団の武器庫でいざ戦争の時には直ぐ武器を揃えられるように、鍵付きの扉は殆ど無いらしい。あっても安全ピンで簡単に開くそうだ。
そんな訳で途中まで順調に進んで行ったけど、あと少しでって時にトラブルが起こった。
『誰かそこにいるのですか?』
担任のシュピーゲル先生の声だ。最悪だ。冷や汗が背中を伝うのがわかる。外出禁止の時間だ。バレたら……
『ほれ、こっちだ。』
グイッ!!
『『えっ!?』』
とその時、誰かが僕たち2人を引っ張って柱の影に追いやった。
『俺です。ブルーノ・ベアハルトです。こんばんは、シュピーゲル先生。』
『こんばんはミスタ・ベアハルト。今は外出禁止時間だ。君はこんなところでいったい何をしている?告解かね?』
『いえ、見回りです。面倒ですが首席寮監督生として当然です。先生こそどうしたんですか?』
『いや、私は……いろいろとやる事があるのだよ。……ミスタ・ベアハルト。真面目なのは感心するが、ほどほどにして休みなさい。』
『わかりました、シュピーゲル先生。……ではシスター・マドレーヌによろしくお伝えください。』
『な、何故それを!?はっ!……ゴホン!……で、ではおやすみ、ミスタ・ベアハルト!君も早く休みなさい!』
そういうと、シュピーゲル先生は慌てて去っていった。
ブルーノは、はぁ…… と深く溜息をつくとこちらに来た。怒っているような、呆れたような、再会を喜んでいるような、そんな複雑な表情をしている。
『……お前さんたちときたら、まったく。シュピーゲル先生だから良かったってもんだ。』
オリバーは屈託ない笑顔をブルーノに向ける。
『ありがとう、ブルーノ……あでっ!!』
ボカン!……とブルーノがオリバーにゲンコツを落とした。
『いちち……なにするんだよ〜』
『うるさい、バカヤロウ!フロイラインまで危険に晒して!……』
ブルーノと目が合った……
『お前さんも、お前さんだ!』
グリグリグリグリグリグリ……
『ぎゃぁぁあぁあ』
ブルーノが僕のこめかみに拳を当ててグリグリと締め上げてきた。
『ちょ!やめろ、ブルーノがやると頭の形が変わっちまう!』
『おっと、すまんすまん。』
頭がグワングワンする。本当に頭の形が変わってしまうところだ。
『いてて……なんでブルーノはここに?』
『……寮に帰っても姿が見えないからもしや?と思って心配したら案の定だ。見に来て良かったよ、まったく!』
本当に心配をかけたみたいだ。
『ご、ごめんなさい……。』
『……はぁ。まぁもう良いよ。フロイラインを巻き込んだそこの不良が悪い。書類まででっち上げてまったくもう。』
『『ははっ……』』
そんな訳で、ブルーノに助けてもらった。なんだかんだ文句を言ってもいつも助けてくれる。
それから、いつもの日常が戻ってきた。
退屈な授業を受けて、コーヒーの会に顔を出して、聖歌隊の練習に参加して、週末はオリバーとブルーノと一緒に町に繰り出した。
そんな毎日を過ごして少し暑くなってきた6月のある日の午後、ふと机の中にしまい込んだままになっている楽譜の事を思い出した。
美しい製本……銀糸の装飾は何度見ても素晴らしい。ハラリ……とページをめくるといわゆる『神の言葉』で文章が書いてあった。
『……なになに?』
"
グリゴリの典礼
神が与えたる壮麗たる音楽の調和を愛する者らの特別な祈りの為の歌
古の盟約により、其を唄えし者の前に御使が現れるだろう
汝、其を願いと祈りを込め唄え……
"
『歌えって言われても、この楽譜……いわゆる西方教会譜……グレゴリー聖歌じゃないか。バカバカしい……』
書かれていた楽譜は五線譜のオタマジャクシじゃなく『神の言葉』と黒い点だけのなんだかよくわかんない……ん?
なん……で?
『僕なんでコレ読めるの?』
音と旋律が頭の中に入ってくるみたいにスラスラと読める。読み方のわからない筈の楽譜なのに……
グレゴリー聖歌でしょ?コレ?
なんだ?この楽譜には何かある……
僕は居ても立ってもいられなくて不思議な楽譜を握りしめ、礼拝堂に駆け出した。
『……よう、フロイライン!これからブルーノの部屋で』
『ごめん!オリバー、また後で!』
オリバーが声をかけてくれたけどそれどころじゃない。
バタン!と乱暴に扉を開けてパイプオルガンの前で楽譜を広げる。
すごい……読める!読める!
頭に入ってきた旋律通りに歌い、楽譜に書かれている言葉を紡いだ。美しい旋律が礼拝堂を包む……いつも歌っているところだけど、まるで大聖堂のように輝いているみたいだ。
ふぅ…………。
歌い終わった。
…………………………………………
あれ?……なんだ……なにも起こらないじゃないか。思い過ごしだ。この歳で子供みたいにはしゃいじゃってバカな事をした。
早くオリバーの所に行こう。
『……良かったわよ?あなた歌が上手なのねぇ。』
『え?』
振り返るとそこには『悪魔』がいた。女の姿に大きな角、青い肌、闇色の髪、そして大きな翼……
『こんばんは坊や……願いと覚悟があるのでしょ?だからあの歌を歌った。』
『え?ちょっと……なに?』
悪魔は悪戯っぽく微笑むとオルガン椅子に腰掛けた。
『私はデーモン。名前はヘルガ。召喚の歌に応えて出てきたのよ?あれは私が書いたの。素敵な曲だったでしょう?ふふふ……さぁ、あなたの願いを叶えてあげる……願いはなぁに?』
『願い……?』
『そう……願い……』
ヘルガの指先から紫色の光が出て、彼女がまるで指揮を振るような仕草で指を振ると、空中に羊皮紙と銀色のペンが出てきた。
『願いを祈りながらそのペンでこの契約書に名前を書くの……そうすれば契約成立。引き換えは貴方自身。それで願いを叶えてあげる……。富でも力でも名声でも……』
ヘルガが契約書にサインをしろとでも言うように迫り来て、羊皮紙を掴み、銀のペンを僕に握らせたその時。
ギィ……
『お、おい……なんだよお前?……テオ?テオ!?そいつから離れろ!』
オリバーだ。オリバーが入ってきた。
『おい魔物!ここは聖トマス・ギムナジウムだ!ツェーリ永久不可侵条約に違反するぞ!?』
『おや、おや、おや……クスクスクスクス。そこの可愛い坊やが私をここに招き入れたのよ?それとも、勇ましい坊や。貴方が契約書にサインをしたいの?……私としてはどちらでも構わないわよぉ?』
するとヘルガという悪魔はオリバーの方に向かった。
『……呼び出したのは僕で、契約者も僕だ!……オリバーは関係ない!』
『んん?……ほぅ、ほぅ、ほぅ……。んー、成る程ねー♪』
僕とオリバーを交互に見ると嬉しそうに微笑んだ。何かを納得された?
『お姉さんとしては少し残念だけど、コレはコレで面白くなりそうね♪でも坊や?せっかくのチャンスを悪魔が逃すと思う?でも手を組むなら』
『……サンクチュアリ』
『坊や?今なんて?』
『サンクチュアリ!(聖域を!』
ボゥ!!
僕がそう叫ぶと羊皮紙の契約書に書かれた文字が燃えて白紙になった。ヘルガは少し驚いて僕の方を向いた。
悪魔も元々は神の使いと何時か読んだ本に書いてあった。だから、もし彼女が本物なら聖域を求められたら応えざる負えない。
聖域は交渉や庇護を求める時の合言葉みたいなものだ。
『……悪魔相手にビジネスを持ちかけるつもり?エヴェド君にでも吹き込まれたの?クスクスクスクス…………貴方、可愛い顔してなかなかやるわね?』
『おい!お前たちはいったい何を言ってるんだ?』
困惑してる彼に向かってヘルガが少し残念そうに告げる。
『勇ましい坊や。ここからは有料なの。ちょっとこの坊やと2人でお話ししてからまた会いましょうね?ウフフフフフ……』
礼拝堂の中央の通り道が長くなり、オリバーをどんどん遠ざける。凄まじい魔法だ。オリバーは必死に追いかけてくれたけど、距離はどんどん離れていく。
『オリバー!大丈夫……きっと上手くやるから!!!』
やがて、オリバーの気配を感じなくなった。
『……悪魔ヘルガ……さん。……取り引きをしよう。』
ヘルガは微笑むと羊皮紙と銀のペンを空中に浮かべた。
『えぇ、良いビジネスにしましょう?クスクスクスクス♪♪』
続く…………っと、ちょっと待て。
コホン!……やぁ、皆さま。コーヒーはいかが?クッキーもある。
俺は首席監督生のブルーノ・フォン・ベアハルトだ。
さてと……この先、物語が分岐するんだ。
踏み入れたら最後、抜け出せない底なし沼のような愛をお望みの方は
堕落の園へ……
宿命の恋人がもたらす、心を焦がし身を滅ぼす狂気の愛をお望みの方は
悪魔の取引 → 悦楽の園……
へと進んでくれ。コーヒーの会に参加したいのなら、いつでも歓迎するよ。
アウフ ウィーダシェーン、ビス バルド!!
(さようなら、またね!!)
19/06/23 22:02更新 / francois
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