最終章 ふたりの日々
暗く凍える冬の夕暮れ時、俺は震えながらバイクを走らせ続けた。
寒さで指先が痺れだした頃、ようやく自宅マンションの灯を目にする。
闇を照らす光にほっとする間もなく、すぐ家に到着した。
慌てて駐輪場にバイクを置くと、俺は急いで階段を駆け上がる。
ああ……やっと有妃の笑顔が見られる。ぎゅって抱きしめてもらえる。
温かい蛇体に包まれて暖めてもらえる……
俺は溢れそうな想いを抱いて家のドアを開くと、勢い込んで帰宅を告げた。
「有妃ちゃんただ…… 」
「お帰りなさい佑人さんっ! 」
「むう…… 」
俺はただいまを最後まで言うことが出来なかった。
ドアを開けた瞬間、有妃は俺に抱きついて、長い蛇体でぐるぐると巻き付いたからだ。
もうすっかりあたりまえになったいつもの事。
そのまま有妃は座り込み、俺を蛇体で包み込んだまま胸に優しく抱いてくれる。
器用に蛇体の先端でノブに巻き付くと、そっとドアを閉めた。
「よしよし。大変でしたねぇ。寒かったでしょう…… 」
有妃は心地よい声で優しくねぎらいの言葉をかけてくれた。
疲れた一日のご褒美と言わんばかりに、何度も頭を撫でてくれる。
白蛇の魔力に蝕まれ、切なく締め付けられていた心は落ち着きを取り戻した。
冷え切っていた体も有妃の抱擁で温められ、俺はようやく人心地がつく。
「有妃ちゃんただいま。 」
「はい。今日も一日お疲れ様です! 」
ほっとしてただいまを言った俺に、有妃は華やかな笑みを見せた。
そのまま俺は有妃に身を委ね続ける。心も体も温められ、気力が出ずに弛緩してしまう。
包み込むような温かさがもっと欲しくて、俺は有妃を掻き抱く。
「ん〜。有妃ちゃあん…… 」
「ふふっ。明日からお休みですから。好きなだけこうしていましょうね…… 」
ひたすら甘える俺に有妃は苦笑すると、蛇体の抱擁を強めてくれた。
穏やかな色の明かりが灯る玄関先。温かで柔らかい有妃の蛇体。
顔にかかる白銀の長髪。甘酸っぱく優しい匂い。
いつもと変わらないけど、だからこそかけがいの無いもの。
大切なひとに包まれて、俺は落ち着き癒される。
胸からそっと顔を上げると、有妃は若干心配そうな眼差しをしていた。
「ねえ佑人さん。本当に無理はなさらないでくださいね。私の力を入れられて切ないのなら、すぐに楽にできますので。」
こうして気遣ってくれるのもいつもの事だ。俺は微笑むとかぶりを振った。
「ううん。本当に大丈夫だよ。我慢した後で有妃ちゃんにぎゅってしてもらうと、なんか蕩けそうなほど気持ちいいんだ。」
「もう。佑人さんったら…… 」
おどけたように言う俺に、有妃も儚げに微笑むと言葉を続ける。
「ふふっ。それじゃあ落ち着いたらご飯にしましょうか?それともお風呂のほうがいいですか? 」
。
「ええと。お風呂と……有妃ちゃん。 」
少し恥ずかしいが、抑えきれない本音が出てしまった。
上目遣いで懇願するような眼差しになる俺に、有妃は満面の笑顔でうなずいてくれた。
「はいっ。もちろん私もそのつもりですので! 」
お湯で濡れたきめ細やかな肌。純白の艶めかしい蛇体。妖しく訴えかけるような眼差し。
官能的な姿態の有妃と一緒に風呂に入ると、いつも欲情が抑えきれなくなってしまう。
それは有妃も同じらしく、俺たちは毎日のように風呂場で肌を重ねている。
今日も満足するまで互いの肉体を求め合った。
俺たちは抱き合いながらお湯につかり、疲れた体を十分に温めた。
お湯に入っている柚の香りも、労るように背中をさすってくれる有妃の手も心地よい。
甘く切ないものが心に満ちて、俺は有妃の豊かな胸に顔を埋めてしまう。
しばらくそのまま恍惚としていたが、俺は意識もせずに乳首を咥え吸い始めた。
赤子に返ったかのように吸い続ける俺を、有妃は当たり前のように受け入れてくれる。
蛇体で包み込み、あやすように愛撫して、背中を優しくぽんぽんと叩く。
温かさと安らぎを与えられた俺は、ただひたすら溺れるだけだ。
有妃は何度か俺の頭を撫でると悪戯っぽく言った。
「もう。佑人さんったら。今日はいつも以上に甘えっ子さんです…… 」
忍び笑いを漏らす有妃。俺は口を放すと照れて顔を赤らめる。
今日は仕事中でもずっと有妃のことを想っていた。ただ恋しかった。
有妃と身も心も一つになることを願い続けていた。それがようやく叶ったのだ。
「えっと……うん。なんか今日は有妃ちゃんの事、色々思い出しちゃって。君とはじめて会った時のこととか色々…… 」
「うふふっ。佑人さん可愛い…… こうしてみると私たちも色々ありましたよね…… 」
有妃は俺の顔に両手をあてがいそっと持ち上げた。
見上げた俺の目に映ったのは、何かを懐かしむ様な有妃の眼差しだった。
濡れた宝石のような美しい深紅の瞳が、穏やかに俺を見つめている。
「そうだったね。昔から有妃ちゃんは美人さんだったって事は変わりないけど。 」
「もうっ。お上手なんだから…… でも、お世辞でも嬉しいですよ。 」
有妃は愛情深い笑みを見せてくれた。
当然の様に言ってしまったが、俺は急激に恥ずかしくなる。
照れ隠しのように有妃の白銀の髪に手をやり、何度も梳き続けた。
愛おしさは抑えきれずに、良く通った鼻筋やきめ細やかな肌を夢中でなでる。
「こらぁ。佑人さんったら。くすぐったいですよぉ…… 」
有妃は言葉とは裏腹な甘い声を上げる。
俺の手を優しく捕まえると、絡めとるようにぎゅっと握りしめた。
手を握ってもらうといつもほっとするが、今日は気持ちが落ち着く間も無かった。
有妃は蛇体での拘束を強めると俺に口づけし、丹念に唇を吸い始めたからだ。
そのまま舌を絡めあい、有妃の柔らかくぬめる舌と唇と存分に味わう
俺は甘い味が口いっぱいに広がるのを感じながら、注がれる唾液を貪り続けた。
やがて有妃は熱い抱擁を解いたが、眼差しは欲望でどろりと濁っていた。
感情を抑えきれないようなねっとりとした声で俺に訴えかけてくる。
「ね…… また佑人さん食べさせて下さい。あんな可愛いこと言われたのでは私もう我慢できません。よろしいですよねっ…… 」
「え!? 有妃ちゃん…… 」
でも、今したばかりでしょ?
俺がそう返事をする間もなく有妃は蛇体をうねらせ伸ばしてくる。
派手な水音がすると蛇体にしっかりと拘束されてしまった。
顔もまた胸に押しつけられるようにしてぎゅっと抱きしめてくれる。
「ご安心を…… 佑人さんのお世話は私が全部いたしますので。何も気にしないで気持ちよくなって下さいねっ! 」
有妃は淫らな魔物としての表情を露わにする。
そのまま俺を押さえ込むと、俺たちは再び快楽の泥沼に溺れていった……
「ごめんなさい。またたっぷり頂いちゃって…… さ、どうぞ。 」
申し訳なさそうに頭を下げると、有妃はマグカップに入った特製の栄養ドリンクを
俺に手渡そうとした。だが俺はおずおずとかぶりを振る。
「あ、うん。直接がいいかな…… 」
「え? もう。しかたないですねえ。はいっ。変態さん。 」
有妃は苦笑して言うと口にドリンクを含む。
そのまま俺の頭を抱くとそっとキスしてきた。
ぬめる舌と一緒に注ぎ込まれる甘いドリンクの味を、俺は夢中で堪能する。
有妃は何度も口に液体を含むと、ひたすら俺に口移しで与え続ける。
甘く淫らで深い口づけ。味わうのは今日これで一体何度目だろう。
でも、全く飽きることも満足することもない。俺は一心不乱に有妃の舌を吸う。
再び有妃を求めて欲情しそうになった瞬間、
彼女は俺の抱擁から逃れると、距離を取る様にそっと両肩に手を置いた。
「佑人さん。求めて下さってとっても嬉しいですけどお疲れでしょう?今日はもうお休みしましょう。続きはまた明日。ね…… 」
「ん…… 」
いたわる様な眼差しの有妃に俺はうっとりとしてうなずく。
結局有妃にはあれからずっと貪られ続けた。
当然の様に白蛇の魔力を入れられたので、獣のようになって有妃とまぐわい続けた。
滾るような欲望もいつしか落ち着いたが、その時にはすっかり絞りつくされていた。
慌てた有妃は俺を休ませると、優しく献身的に介抱してくれている。
俺もひたすら甘えて、今も疲れているにも関わらず口移しをせがんでしまったのだ。
「どうでしょう。 寝付くまでテレビでも観ます? アニメでも付けましょうか? 」
「ううん。今期は特に観たいのは無いし、もう眠くなっちゃって…… 」
何気なく勧めてくる有妃に俺は気怠い声で答えた。
「それじゃあ一緒におねんねしましょうね…… 」
ナイトライトが灯る暖かな部屋。
淡い光に照らされた有妃は優しく微笑むと、そっと抱きしめてくれた。
蛇体も当然の様にするすると巻き付き、俺の体は有妃の蛇体布団に覆われる。
柔らかく甘く拘束されてあえいでしまう。
そのまま有妃の胸に顔を埋めると、甘い匂いが顔と包む。俺はほっと一息ついた。
「あ〜。極楽極楽。 」
全身を包む温かさと安らぎに、俺は思わず変な声を出してしまう。
「まあ。佑人さんったら。 」
「だって気持ちよくって。このままずっとこうしていたいよ…… 」
やれやれといった様子の有妃は俺の頭を愛撫していたが、やがて静かに声を発した。
「ねえ佑人さん。今朝も言いましたよね。私はこうして佑人さんと抱き合って暮らしていけたらどれだけ素晴らしいかと。 」
「うん…… 」
「これからはそうしていきませんか? もちろん何の心配もいりませんよ。 全て私にお任せ下さいね! 」
有妃は優しい眼差しだった。
だが美しい深紅の瞳は、どことなく暗い光を帯びているようにも思える。
翳りを帯びた笑みを浮かべる有妃に、俺は引き込まれるかのように言葉を返していた。
「前にも言ったけど有妃ちゃんのしたいことをしていいんだよ。君が喜んでくれれば嬉しいんだ。だから…… 」
「佑人さんっ!」
有妃は歓喜の声を上げると、目を閉じて何やら呟き続けた。
伸ばした指先からは青い魔力の輝きが溢れ出し、部屋一面に満ちる。
やがて魔力は部屋を覆いつくすと、妖しい炎の様に揺らめいた。
ふと我に返れば、俺はどこか重苦しい青白い部屋の中にいた。
「うふふっ。結界張っちゃいました…… もう誰も入ってこられません…… 」
「有妃ちゃん…… 」
「これでずっとずっと永遠に一緒。 待ちに待った佑人さんと二人だけの日々の始まりです。 」
有妃は喜びに溢れながらも何かを諦めたような調子で言った。
瞳はますます鈍く輝き、妖しく紅い光を放っている。
そのまま蛇体を幾重にも俺に巻き付け、とうとう全く動けなくなってしまった。
青白く照らされた有妃は虚ろに微笑み続けている……
そうか。とうとうこの日が来たんだ……
今朝の有妃の様子から何となく察してはいたけど、それが今日になるとは。
でも、何事もいつだって突然訪れる。いつかはすべてが変わっていく。
それを知らぬ振りして日々を送っても、結局終わりと始まりはやってくるのだ。
俺は不思議と冷静だった。
有妃の衝動が抑えきれなくなる日が来ることは分かっていたし、
その日は俺が望む日々の始まりでもあったから。何も動揺することはない。
ずっと決めていたんだ。この日が来たらこうしようと。
俺は蛇体から何とか両手を抜くと笑顔を見せる。
まるで有妃を迎え入れるかのように広げると、そのままぎゅっと抱きしめた。
いつもしているように胸に顔を埋めると、体の力を抜いて身を委ねる。
「佑人さんっ。ありがとうございます。嬉しいです…… 」
有妃は感極まったような声で呟くと、俺を再度蛇体で拘束した。
幼子の様になって縋りついている俺を優しく抱き返してくれる。
全身に感じる有妃の柔らかさと温かさと匂い。
何より大事な人に包み込まれて、僅かに残っていた不安がすべて消えていった。
いったいどれだけの時間が経ったのだろう。
有妃とぴったりくっついていると鼓動がとくんとくんと伝わってくる。
規則正しいリズムは俺の心を落ち着かせ、穏やかにしてくれる。
そうだ。このまま有妃に抱かれていればいい。
有妃に包み込まれて、有妃と笑い合って、一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、
お休みを言って一緒に寝て、朝もおはようと言って共に朝日を浴びて、
有妃と身も心も溶け合って一つになればいい……
俺が蛇体の中で恍惚としていると、有妃は困ったようにため息をついた。
「もう、佑人さんったら…… 遠慮しないでもっと嫌がってくれてもいいのに。 」
俺が顔を上げると有妃は切なげに笑っていた。
そのまま人差し指を上げて何度か降ると、
部屋を包み込んでいた青白い光はたちまち消えていった。
いつもと同じ柔らかな微笑み。
先ほどまでの思いつめたような雰囲気は嘘の様に消えている。
有妃は俺に巻き付けていた蛇体の拘束を解いた。また気遣ってくれたのだろうか?
「有妃ちゃん。有妃ちゃんこそ遠慮は無しだよ。 」
俺は何も気にしないでいいと言う。
「いいえ。遠慮なんてそんな。大丈夫ですのでご安心を! 」
有妃は快活な様子だ。そういえば以前バレンタインの時にもこんな事があったけど、
結局は何もせずに笑うだけだった。
でも、本当は相当無理しているんじゃないのか。
想いを抑えきれなくなって葛藤しているのは鈍い俺でもわかる。
有妃がつらい思いをするなんて、そんな事俺も耐えられない。
「ねえ有妃ちゃん。前にも今日みたいな事あったでしょ。その時も結局は抑えてくれたけど。でも、お願い。これ以上我慢しないで。苦しい思いをする有妃ちゃんは見たくないんだ。」
切々と語る俺を見て有妃は慌てたようにかぶりを振った。
「ごめんなさい。気を遣わせちゃって…… でも、私は佑人さんのお側にずっといられるだけでいいんですよ。それ以上のことはしたくはありません。 」
「ほんとう? 」
有妃は気丈に言ったが、でもやっぱり心配だ。気遣う俺に有妃は困ったように俯いた。
しばらく逡巡していたが、やがて上目遣いで俺を見つめる。
「あの…… 正直に言えば、それはもちろん佑人さんを家から出ずに私の側から放さないでいたいんですよ。我慢できなくなったら、……本当によろしいのですか? 」
おずおずと遠慮がちに有妃は言うが、俺は安心させる様に大きく頷いて見せた。
「もちろんだよ! それはまあ時々は外に出してくれればありがたいけど。 」
「し、心配なさらないで下さい! 間違っても佑人さんを監禁し続けるとか、そんなことは絶対にありえないですので! 遠出するのは嫌ですけど、それ意外だったら私も佑人さんとお出かけしたいですから、散歩でも遊びにでも一緒に行きましょう! 」
冗談っぽく明るく言う俺に、有妃は真顔になって否定してきた。
何も心配いらないよとばかりに何度も首を左右に振る。
思わずあっけにとられるが、俺の様子を見た有妃も我に返ったようにはっとした。
恥ずかしそうに視線をそらすと頬が紅く染まる。
「そうだったね。よく考えれば有妃ちゃんがそんな事するなんて想像できないよね。」
普段と変わらぬ様子の有妃に、俺もどこかほっとして力が抜けてしまう。
「……さあ、どうでしょう。でもそれは佑人さんだからですよ。 」
有妃も一呼吸着くと落ち着いた様子で答えた。
「そうなの。それじゃあ有妃ちゃんの本性は…… 」
「はい。本気の私は拉致監禁調教、なんでもしちゃいますよ〜。 」
胸をはって妙に誇らし気の様子の有妃だが、それもまた可愛らしい。
「うーん。有妃ちゃんの監禁も調教もご褒美にしか思えないんだけど。 」
「うふふっ。そういう佑人さんだからこそ安心できるんですよ。 」
俺たちは顔を見合わせて苦笑しあった。
動き出しそうだった物事は旧に復したが、それはいつもの事でもある。
どうやら俺たちの新たな始まりはもう少し先の事になりそうだ。
「そう言ってくれれば嬉しいけどね。 有妃…… 」
でも、今の何の変化も無いけど穏やかな日々。
当たり前だけど大切な日常を少し進めようと思う。
だから勇気を出して言ってみた。「有妃」って。
「……佑人さん 」
その途端、有妃はまじまじと目を見開いた。
言葉は無いが感極まったように俺を見つめている。
何事も無いように受け流してくれるかもと思ったが、考えが甘かったようだ。
「ご、ごめん。今のは忘れて…… 」
恥ずかしさと沈黙に耐えられずに俺は慌ててかぶりを振った。
有妃に魔力を入れられて、理性が飛んでいるときは気にもしないのだが、
普段はいまだに呼び捨てには慣れないから。
だが有妃は俺の手を取ると、そっと握りしめて微笑んだ。
恥ずかしがる俺に優しく言い聞かせてくれる。
「いいえ。そうじゃないんです。とても嬉しいです。でもてっきりお姉ちゃんって言ってくれるものだとばかり思っていたので、あまりに嬉しい誤算というかなんというか。 」
「その手もあったな…… 」
「もう。一体どんな手ですか! でも佑人さんがそうおっしゃってくれるのなら、私も態度を改めますね。 」
今でも時々有妃のことはお姉ちゃんと呼んでしまう。
それもいいなと呟くと有妃は吹き出したが、やがて緊張を解くように咳払いする。
怪訝な様子の俺を潤んだ目で見つめると、意を決したように言葉を発した。
「旦那様…… これからもよろしくお願い致します…… 」
有妃はそう言うとベッドの上でかしこまった。
「へっ!? 」
旦那様とは一体?あまりに以外な事に間抜けな声を出してしまう。
口をあんぐり開けて固まる俺に、有妃は当然の様に言葉を続けた。
「佑人さん御自身の意思で有妃と呼んで下さるとき、その時こそ新しい始まり。ずっとそう思っておりました。ですからわたくしも、旦那様と呼ばせていただくのは当然の事でございます! 」
「……いや。 一体何を言ってるの!? 有妃ちゃん……じゃなくて有妃。 」
「有妃と呼んで下さるという事は、 旦那様はわたくしの主として歩まれると決められた。そうでございましょう。 本当に嬉しゅうございますっ! 」
「だからなんでそうなるの!? 言ってることおかしいよ! 」
予想を遙かに超える斜め上の展開に、俺は悲鳴に近い声を上げた。
有妃は妙に堅苦しい口調に似合わない満面の笑みを浮かべ続ける。
一体さっきから何を言っているのだろう?
理解が全く追いつかないが、有妃なりに色々思うものがあったのだろうか。
俺はお互いに「有妃」「佑人」と呼び合いたかっただけなのに……
キキーモラじゃあるまいし、ご主人様とか旦那様とかどういうつもりだろう。
旦那様なんて俺は間違ってもそんな柄じゃ無い。
「い、嫌だ…… 旦那様なんて絶対に嫌だ! 」
「うふふっ。何を今更。 覚悟をお決めになって下さいませ。 」
俺は大慌てでかぶりを振るが、有妃は全く意に返さない。
今まで全く見たことも無い慇懃な様子で語り続ける。
「わたくしはこれまで以上に不惜身命、粉骨砕身の覚悟でお仕えいたします。旦那様には何不自由なくお過ごし頂きます。なにとぞ今後とも足下に置いて下さいませ…… 」
有妃は言い終えると三つ指をついて深々と頭を下げた。
「ちょっと何やってるの有妃! そんな事止めてよ! 」
いくら頭を上げてとお願いしても、有妃は頭をこすりつけるようにして下げ続ける。
まずい。このままじゃ本当に旦那様だ。
どうしよう……
よし。それならこうだ。
しばらく思案した俺は必死に声を張り上げた。
「じゃ、じゃあ。俺も有妃ちゃんの事お嬢様って呼ぶからっ! 実際有妃ちゃんこそ俺のご主人様みたいなものじゃないか! 」
だって有妃はいつだって俺の事を深く想ってくれながらも、
同時に絶対に逃げられない鎖で縛りつけている。俺は有妃の望むがままだ。
でも、その甘く優しい拘束の日々は俺が望むものでもあるのだ。
未来永劫続いて欲しいと願うほどに……
「まあっ! そのような事を言ってはなりませんと以前にも申し上げましたよね? それともうわたくしの事は有妃とおよび下さいませ。 」
たしなめるように言う有妃を無視して俺は続ける。
「お嬢様は哀れな俺を見初めて下さいました。そのおかげで人生を素晴らしいものと思えることが出来たんです。 お嬢様は大恩人ですから、俺は生涯にわたってご恩を返さないと。 」
おどけた口調だが、まぎれもない本心を言うとベッドから起き上がる。
有妃に出会えて俺は救われた。心を苛むような日々を、甘く温かいものにしてくれた。
有妃が願うなら、俺の残りの人生を捧げることなど造作ない。
俺はすっと立つと、漫画やアニメに出てくる執事の様に左手を胸に当てた。
「あ、あの旦那様っ。そのような真似はおやめになって下さいませ! 」
「いいえお嬢様。 俺、じゃなくて私はお嬢様の下僕にございます。 」
有妃は動揺して止めてくるが、構わずにうやうやしく頭を下げた。
なんでだろう。今では黒川の気持ちがよく分かる。妙に喜ばしく晴れやかだ。
卑屈とも言える俺の様子を見てさすがに有妃は声を上げてきた。
「もうっ! いい加減になさってください佑人さん! 佑人さんはそんなものじゃありませんっ! 私の愛する大切なお方なんですよっ! 」
「だったら有妃ちゃんだって、俺のなによりも大切な人なんだよ。俺は有妃ちゃんの主にも旦那にもなりたくない。ずっと隣に寄り添っていたいんだ。上でも下でもなくね。 」
向きになって怒る有妃に俺はやんわりと答えた。
しばらくはお互いに言葉もなく見つめあう。
これも本心だけど、なかなかの臭いセリフを言ってしまったかと恥ずかしい。
有妃はそうなのだろうか。困った顔をしてそっと言った。
「結局普段通りになってしまいましたね。 佑人さんって言ってしまって。 」
俺も心からの同意をこめて頷いた。
「うん。 俺もやっぱり有妃ちゃんって言うのがしっくりくるかな。 」
俺たちは照れ隠しの様に苦笑しあう。
有妃は楽しげに身を寄せると、ぎゅっと抱きしめてくれた。
蛇体もいつもの様に静かに巻き付いてくる。
有妃が愛撫してくれる手の感触。
俺は心地よさにうっとりとして有妃の胸に顔を埋める。
一緒にベットに横たわると、蛇体が布団のように優しく包み込んでくれた。
「はあ…… なれない事はするものじゃないですねえ。 」
「まあ。無理しないで行こうよ。 いままでどおり一歩一歩ね。 」
「はい。私達にはそれが一番あってますよね! 」
有妃はため息をついて眉をひそめたが、
俺が慰めるように白銀の髪をなでると、穏やかな眼差しになった。
そのまま悪戯っぽく首を傾げて言う。
「じゃあ、改めまして。これからもよろしくお願いします。佑人さんっ! 」
俺もわざとらしく頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそよろしくね。有妃ちゃん。 」
これからも俺たちの日々は続くのだろう。二人で共に歩んでゆくのだろう。
当たり前だけどかけがえのない素敵な日常。
それを祝福するかのように俺たちは微笑み合った。
その後俺たちは有妃の故郷の魔界に引っ越したり……
なぜかふみ姉まで旦那と一緒に越してきてひと悶着あったり……
うちの両親が魔物娘とインキュバスになってびっくり仰天したり……
そして、俺と有妃の間に子供ができたり……
周りにごく普通にある、でも俺たちにとっては大切な事。
他にも色々あるのだが語るのはまた別の機会に。
寒さで指先が痺れだした頃、ようやく自宅マンションの灯を目にする。
闇を照らす光にほっとする間もなく、すぐ家に到着した。
慌てて駐輪場にバイクを置くと、俺は急いで階段を駆け上がる。
ああ……やっと有妃の笑顔が見られる。ぎゅって抱きしめてもらえる。
温かい蛇体に包まれて暖めてもらえる……
俺は溢れそうな想いを抱いて家のドアを開くと、勢い込んで帰宅を告げた。
「有妃ちゃんただ…… 」
「お帰りなさい佑人さんっ! 」
「むう…… 」
俺はただいまを最後まで言うことが出来なかった。
ドアを開けた瞬間、有妃は俺に抱きついて、長い蛇体でぐるぐると巻き付いたからだ。
もうすっかりあたりまえになったいつもの事。
そのまま有妃は座り込み、俺を蛇体で包み込んだまま胸に優しく抱いてくれる。
器用に蛇体の先端でノブに巻き付くと、そっとドアを閉めた。
「よしよし。大変でしたねぇ。寒かったでしょう…… 」
有妃は心地よい声で優しくねぎらいの言葉をかけてくれた。
疲れた一日のご褒美と言わんばかりに、何度も頭を撫でてくれる。
白蛇の魔力に蝕まれ、切なく締め付けられていた心は落ち着きを取り戻した。
冷え切っていた体も有妃の抱擁で温められ、俺はようやく人心地がつく。
「有妃ちゃんただいま。 」
「はい。今日も一日お疲れ様です! 」
ほっとしてただいまを言った俺に、有妃は華やかな笑みを見せた。
そのまま俺は有妃に身を委ね続ける。心も体も温められ、気力が出ずに弛緩してしまう。
包み込むような温かさがもっと欲しくて、俺は有妃を掻き抱く。
「ん〜。有妃ちゃあん…… 」
「ふふっ。明日からお休みですから。好きなだけこうしていましょうね…… 」
ひたすら甘える俺に有妃は苦笑すると、蛇体の抱擁を強めてくれた。
穏やかな色の明かりが灯る玄関先。温かで柔らかい有妃の蛇体。
顔にかかる白銀の長髪。甘酸っぱく優しい匂い。
いつもと変わらないけど、だからこそかけがいの無いもの。
大切なひとに包まれて、俺は落ち着き癒される。
胸からそっと顔を上げると、有妃は若干心配そうな眼差しをしていた。
「ねえ佑人さん。本当に無理はなさらないでくださいね。私の力を入れられて切ないのなら、すぐに楽にできますので。」
こうして気遣ってくれるのもいつもの事だ。俺は微笑むとかぶりを振った。
「ううん。本当に大丈夫だよ。我慢した後で有妃ちゃんにぎゅってしてもらうと、なんか蕩けそうなほど気持ちいいんだ。」
「もう。佑人さんったら…… 」
おどけたように言う俺に、有妃も儚げに微笑むと言葉を続ける。
「ふふっ。それじゃあ落ち着いたらご飯にしましょうか?それともお風呂のほうがいいですか? 」
。
「ええと。お風呂と……有妃ちゃん。 」
少し恥ずかしいが、抑えきれない本音が出てしまった。
上目遣いで懇願するような眼差しになる俺に、有妃は満面の笑顔でうなずいてくれた。
「はいっ。もちろん私もそのつもりですので! 」
お湯で濡れたきめ細やかな肌。純白の艶めかしい蛇体。妖しく訴えかけるような眼差し。
官能的な姿態の有妃と一緒に風呂に入ると、いつも欲情が抑えきれなくなってしまう。
それは有妃も同じらしく、俺たちは毎日のように風呂場で肌を重ねている。
今日も満足するまで互いの肉体を求め合った。
俺たちは抱き合いながらお湯につかり、疲れた体を十分に温めた。
お湯に入っている柚の香りも、労るように背中をさすってくれる有妃の手も心地よい。
甘く切ないものが心に満ちて、俺は有妃の豊かな胸に顔を埋めてしまう。
しばらくそのまま恍惚としていたが、俺は意識もせずに乳首を咥え吸い始めた。
赤子に返ったかのように吸い続ける俺を、有妃は当たり前のように受け入れてくれる。
蛇体で包み込み、あやすように愛撫して、背中を優しくぽんぽんと叩く。
温かさと安らぎを与えられた俺は、ただひたすら溺れるだけだ。
有妃は何度か俺の頭を撫でると悪戯っぽく言った。
「もう。佑人さんったら。今日はいつも以上に甘えっ子さんです…… 」
忍び笑いを漏らす有妃。俺は口を放すと照れて顔を赤らめる。
今日は仕事中でもずっと有妃のことを想っていた。ただ恋しかった。
有妃と身も心も一つになることを願い続けていた。それがようやく叶ったのだ。
「えっと……うん。なんか今日は有妃ちゃんの事、色々思い出しちゃって。君とはじめて会った時のこととか色々…… 」
「うふふっ。佑人さん可愛い…… こうしてみると私たちも色々ありましたよね…… 」
有妃は俺の顔に両手をあてがいそっと持ち上げた。
見上げた俺の目に映ったのは、何かを懐かしむ様な有妃の眼差しだった。
濡れた宝石のような美しい深紅の瞳が、穏やかに俺を見つめている。
「そうだったね。昔から有妃ちゃんは美人さんだったって事は変わりないけど。 」
「もうっ。お上手なんだから…… でも、お世辞でも嬉しいですよ。 」
有妃は愛情深い笑みを見せてくれた。
当然の様に言ってしまったが、俺は急激に恥ずかしくなる。
照れ隠しのように有妃の白銀の髪に手をやり、何度も梳き続けた。
愛おしさは抑えきれずに、良く通った鼻筋やきめ細やかな肌を夢中でなでる。
「こらぁ。佑人さんったら。くすぐったいですよぉ…… 」
有妃は言葉とは裏腹な甘い声を上げる。
俺の手を優しく捕まえると、絡めとるようにぎゅっと握りしめた。
手を握ってもらうといつもほっとするが、今日は気持ちが落ち着く間も無かった。
有妃は蛇体での拘束を強めると俺に口づけし、丹念に唇を吸い始めたからだ。
そのまま舌を絡めあい、有妃の柔らかくぬめる舌と唇と存分に味わう
俺は甘い味が口いっぱいに広がるのを感じながら、注がれる唾液を貪り続けた。
やがて有妃は熱い抱擁を解いたが、眼差しは欲望でどろりと濁っていた。
感情を抑えきれないようなねっとりとした声で俺に訴えかけてくる。
「ね…… また佑人さん食べさせて下さい。あんな可愛いこと言われたのでは私もう我慢できません。よろしいですよねっ…… 」
「え!? 有妃ちゃん…… 」
でも、今したばかりでしょ?
俺がそう返事をする間もなく有妃は蛇体をうねらせ伸ばしてくる。
派手な水音がすると蛇体にしっかりと拘束されてしまった。
顔もまた胸に押しつけられるようにしてぎゅっと抱きしめてくれる。
「ご安心を…… 佑人さんのお世話は私が全部いたしますので。何も気にしないで気持ちよくなって下さいねっ! 」
有妃は淫らな魔物としての表情を露わにする。
そのまま俺を押さえ込むと、俺たちは再び快楽の泥沼に溺れていった……
「ごめんなさい。またたっぷり頂いちゃって…… さ、どうぞ。 」
申し訳なさそうに頭を下げると、有妃はマグカップに入った特製の栄養ドリンクを
俺に手渡そうとした。だが俺はおずおずとかぶりを振る。
「あ、うん。直接がいいかな…… 」
「え? もう。しかたないですねえ。はいっ。変態さん。 」
有妃は苦笑して言うと口にドリンクを含む。
そのまま俺の頭を抱くとそっとキスしてきた。
ぬめる舌と一緒に注ぎ込まれる甘いドリンクの味を、俺は夢中で堪能する。
有妃は何度も口に液体を含むと、ひたすら俺に口移しで与え続ける。
甘く淫らで深い口づけ。味わうのは今日これで一体何度目だろう。
でも、全く飽きることも満足することもない。俺は一心不乱に有妃の舌を吸う。
再び有妃を求めて欲情しそうになった瞬間、
彼女は俺の抱擁から逃れると、距離を取る様にそっと両肩に手を置いた。
「佑人さん。求めて下さってとっても嬉しいですけどお疲れでしょう?今日はもうお休みしましょう。続きはまた明日。ね…… 」
「ん…… 」
いたわる様な眼差しの有妃に俺はうっとりとしてうなずく。
結局有妃にはあれからずっと貪られ続けた。
当然の様に白蛇の魔力を入れられたので、獣のようになって有妃とまぐわい続けた。
滾るような欲望もいつしか落ち着いたが、その時にはすっかり絞りつくされていた。
慌てた有妃は俺を休ませると、優しく献身的に介抱してくれている。
俺もひたすら甘えて、今も疲れているにも関わらず口移しをせがんでしまったのだ。
「どうでしょう。 寝付くまでテレビでも観ます? アニメでも付けましょうか? 」
「ううん。今期は特に観たいのは無いし、もう眠くなっちゃって…… 」
何気なく勧めてくる有妃に俺は気怠い声で答えた。
「それじゃあ一緒におねんねしましょうね…… 」
ナイトライトが灯る暖かな部屋。
淡い光に照らされた有妃は優しく微笑むと、そっと抱きしめてくれた。
蛇体も当然の様にするすると巻き付き、俺の体は有妃の蛇体布団に覆われる。
柔らかく甘く拘束されてあえいでしまう。
そのまま有妃の胸に顔を埋めると、甘い匂いが顔と包む。俺はほっと一息ついた。
「あ〜。極楽極楽。 」
全身を包む温かさと安らぎに、俺は思わず変な声を出してしまう。
「まあ。佑人さんったら。 」
「だって気持ちよくって。このままずっとこうしていたいよ…… 」
やれやれといった様子の有妃は俺の頭を愛撫していたが、やがて静かに声を発した。
「ねえ佑人さん。今朝も言いましたよね。私はこうして佑人さんと抱き合って暮らしていけたらどれだけ素晴らしいかと。 」
「うん…… 」
「これからはそうしていきませんか? もちろん何の心配もいりませんよ。 全て私にお任せ下さいね! 」
有妃は優しい眼差しだった。
だが美しい深紅の瞳は、どことなく暗い光を帯びているようにも思える。
翳りを帯びた笑みを浮かべる有妃に、俺は引き込まれるかのように言葉を返していた。
「前にも言ったけど有妃ちゃんのしたいことをしていいんだよ。君が喜んでくれれば嬉しいんだ。だから…… 」
「佑人さんっ!」
有妃は歓喜の声を上げると、目を閉じて何やら呟き続けた。
伸ばした指先からは青い魔力の輝きが溢れ出し、部屋一面に満ちる。
やがて魔力は部屋を覆いつくすと、妖しい炎の様に揺らめいた。
ふと我に返れば、俺はどこか重苦しい青白い部屋の中にいた。
「うふふっ。結界張っちゃいました…… もう誰も入ってこられません…… 」
「有妃ちゃん…… 」
「これでずっとずっと永遠に一緒。 待ちに待った佑人さんと二人だけの日々の始まりです。 」
有妃は喜びに溢れながらも何かを諦めたような調子で言った。
瞳はますます鈍く輝き、妖しく紅い光を放っている。
そのまま蛇体を幾重にも俺に巻き付け、とうとう全く動けなくなってしまった。
青白く照らされた有妃は虚ろに微笑み続けている……
そうか。とうとうこの日が来たんだ……
今朝の有妃の様子から何となく察してはいたけど、それが今日になるとは。
でも、何事もいつだって突然訪れる。いつかはすべてが変わっていく。
それを知らぬ振りして日々を送っても、結局終わりと始まりはやってくるのだ。
俺は不思議と冷静だった。
有妃の衝動が抑えきれなくなる日が来ることは分かっていたし、
その日は俺が望む日々の始まりでもあったから。何も動揺することはない。
ずっと決めていたんだ。この日が来たらこうしようと。
俺は蛇体から何とか両手を抜くと笑顔を見せる。
まるで有妃を迎え入れるかのように広げると、そのままぎゅっと抱きしめた。
いつもしているように胸に顔を埋めると、体の力を抜いて身を委ねる。
「佑人さんっ。ありがとうございます。嬉しいです…… 」
有妃は感極まったような声で呟くと、俺を再度蛇体で拘束した。
幼子の様になって縋りついている俺を優しく抱き返してくれる。
全身に感じる有妃の柔らかさと温かさと匂い。
何より大事な人に包み込まれて、僅かに残っていた不安がすべて消えていった。
いったいどれだけの時間が経ったのだろう。
有妃とぴったりくっついていると鼓動がとくんとくんと伝わってくる。
規則正しいリズムは俺の心を落ち着かせ、穏やかにしてくれる。
そうだ。このまま有妃に抱かれていればいい。
有妃に包み込まれて、有妃と笑い合って、一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、
お休みを言って一緒に寝て、朝もおはようと言って共に朝日を浴びて、
有妃と身も心も溶け合って一つになればいい……
俺が蛇体の中で恍惚としていると、有妃は困ったようにため息をついた。
「もう、佑人さんったら…… 遠慮しないでもっと嫌がってくれてもいいのに。 」
俺が顔を上げると有妃は切なげに笑っていた。
そのまま人差し指を上げて何度か降ると、
部屋を包み込んでいた青白い光はたちまち消えていった。
いつもと同じ柔らかな微笑み。
先ほどまでの思いつめたような雰囲気は嘘の様に消えている。
有妃は俺に巻き付けていた蛇体の拘束を解いた。また気遣ってくれたのだろうか?
「有妃ちゃん。有妃ちゃんこそ遠慮は無しだよ。 」
俺は何も気にしないでいいと言う。
「いいえ。遠慮なんてそんな。大丈夫ですのでご安心を! 」
有妃は快活な様子だ。そういえば以前バレンタインの時にもこんな事があったけど、
結局は何もせずに笑うだけだった。
でも、本当は相当無理しているんじゃないのか。
想いを抑えきれなくなって葛藤しているのは鈍い俺でもわかる。
有妃がつらい思いをするなんて、そんな事俺も耐えられない。
「ねえ有妃ちゃん。前にも今日みたいな事あったでしょ。その時も結局は抑えてくれたけど。でも、お願い。これ以上我慢しないで。苦しい思いをする有妃ちゃんは見たくないんだ。」
切々と語る俺を見て有妃は慌てたようにかぶりを振った。
「ごめんなさい。気を遣わせちゃって…… でも、私は佑人さんのお側にずっといられるだけでいいんですよ。それ以上のことはしたくはありません。 」
「ほんとう? 」
有妃は気丈に言ったが、でもやっぱり心配だ。気遣う俺に有妃は困ったように俯いた。
しばらく逡巡していたが、やがて上目遣いで俺を見つめる。
「あの…… 正直に言えば、それはもちろん佑人さんを家から出ずに私の側から放さないでいたいんですよ。我慢できなくなったら、……本当によろしいのですか? 」
おずおずと遠慮がちに有妃は言うが、俺は安心させる様に大きく頷いて見せた。
「もちろんだよ! それはまあ時々は外に出してくれればありがたいけど。 」
「し、心配なさらないで下さい! 間違っても佑人さんを監禁し続けるとか、そんなことは絶対にありえないですので! 遠出するのは嫌ですけど、それ意外だったら私も佑人さんとお出かけしたいですから、散歩でも遊びにでも一緒に行きましょう! 」
冗談っぽく明るく言う俺に、有妃は真顔になって否定してきた。
何も心配いらないよとばかりに何度も首を左右に振る。
思わずあっけにとられるが、俺の様子を見た有妃も我に返ったようにはっとした。
恥ずかしそうに視線をそらすと頬が紅く染まる。
「そうだったね。よく考えれば有妃ちゃんがそんな事するなんて想像できないよね。」
普段と変わらぬ様子の有妃に、俺もどこかほっとして力が抜けてしまう。
「……さあ、どうでしょう。でもそれは佑人さんだからですよ。 」
有妃も一呼吸着くと落ち着いた様子で答えた。
「そうなの。それじゃあ有妃ちゃんの本性は…… 」
「はい。本気の私は拉致監禁調教、なんでもしちゃいますよ〜。 」
胸をはって妙に誇らし気の様子の有妃だが、それもまた可愛らしい。
「うーん。有妃ちゃんの監禁も調教もご褒美にしか思えないんだけど。 」
「うふふっ。そういう佑人さんだからこそ安心できるんですよ。 」
俺たちは顔を見合わせて苦笑しあった。
動き出しそうだった物事は旧に復したが、それはいつもの事でもある。
どうやら俺たちの新たな始まりはもう少し先の事になりそうだ。
「そう言ってくれれば嬉しいけどね。 有妃…… 」
でも、今の何の変化も無いけど穏やかな日々。
当たり前だけど大切な日常を少し進めようと思う。
だから勇気を出して言ってみた。「有妃」って。
「……佑人さん 」
その途端、有妃はまじまじと目を見開いた。
言葉は無いが感極まったように俺を見つめている。
何事も無いように受け流してくれるかもと思ったが、考えが甘かったようだ。
「ご、ごめん。今のは忘れて…… 」
恥ずかしさと沈黙に耐えられずに俺は慌ててかぶりを振った。
有妃に魔力を入れられて、理性が飛んでいるときは気にもしないのだが、
普段はいまだに呼び捨てには慣れないから。
だが有妃は俺の手を取ると、そっと握りしめて微笑んだ。
恥ずかしがる俺に優しく言い聞かせてくれる。
「いいえ。そうじゃないんです。とても嬉しいです。でもてっきりお姉ちゃんって言ってくれるものだとばかり思っていたので、あまりに嬉しい誤算というかなんというか。 」
「その手もあったな…… 」
「もう。一体どんな手ですか! でも佑人さんがそうおっしゃってくれるのなら、私も態度を改めますね。 」
今でも時々有妃のことはお姉ちゃんと呼んでしまう。
それもいいなと呟くと有妃は吹き出したが、やがて緊張を解くように咳払いする。
怪訝な様子の俺を潤んだ目で見つめると、意を決したように言葉を発した。
「旦那様…… これからもよろしくお願い致します…… 」
有妃はそう言うとベッドの上でかしこまった。
「へっ!? 」
旦那様とは一体?あまりに以外な事に間抜けな声を出してしまう。
口をあんぐり開けて固まる俺に、有妃は当然の様に言葉を続けた。
「佑人さん御自身の意思で有妃と呼んで下さるとき、その時こそ新しい始まり。ずっとそう思っておりました。ですからわたくしも、旦那様と呼ばせていただくのは当然の事でございます! 」
「……いや。 一体何を言ってるの!? 有妃ちゃん……じゃなくて有妃。 」
「有妃と呼んで下さるという事は、 旦那様はわたくしの主として歩まれると決められた。そうでございましょう。 本当に嬉しゅうございますっ! 」
「だからなんでそうなるの!? 言ってることおかしいよ! 」
予想を遙かに超える斜め上の展開に、俺は悲鳴に近い声を上げた。
有妃は妙に堅苦しい口調に似合わない満面の笑みを浮かべ続ける。
一体さっきから何を言っているのだろう?
理解が全く追いつかないが、有妃なりに色々思うものがあったのだろうか。
俺はお互いに「有妃」「佑人」と呼び合いたかっただけなのに……
キキーモラじゃあるまいし、ご主人様とか旦那様とかどういうつもりだろう。
旦那様なんて俺は間違ってもそんな柄じゃ無い。
「い、嫌だ…… 旦那様なんて絶対に嫌だ! 」
「うふふっ。何を今更。 覚悟をお決めになって下さいませ。 」
俺は大慌てでかぶりを振るが、有妃は全く意に返さない。
今まで全く見たことも無い慇懃な様子で語り続ける。
「わたくしはこれまで以上に不惜身命、粉骨砕身の覚悟でお仕えいたします。旦那様には何不自由なくお過ごし頂きます。なにとぞ今後とも足下に置いて下さいませ…… 」
有妃は言い終えると三つ指をついて深々と頭を下げた。
「ちょっと何やってるの有妃! そんな事止めてよ! 」
いくら頭を上げてとお願いしても、有妃は頭をこすりつけるようにして下げ続ける。
まずい。このままじゃ本当に旦那様だ。
どうしよう……
よし。それならこうだ。
しばらく思案した俺は必死に声を張り上げた。
「じゃ、じゃあ。俺も有妃ちゃんの事お嬢様って呼ぶからっ! 実際有妃ちゃんこそ俺のご主人様みたいなものじゃないか! 」
だって有妃はいつだって俺の事を深く想ってくれながらも、
同時に絶対に逃げられない鎖で縛りつけている。俺は有妃の望むがままだ。
でも、その甘く優しい拘束の日々は俺が望むものでもあるのだ。
未来永劫続いて欲しいと願うほどに……
「まあっ! そのような事を言ってはなりませんと以前にも申し上げましたよね? それともうわたくしの事は有妃とおよび下さいませ。 」
たしなめるように言う有妃を無視して俺は続ける。
「お嬢様は哀れな俺を見初めて下さいました。そのおかげで人生を素晴らしいものと思えることが出来たんです。 お嬢様は大恩人ですから、俺は生涯にわたってご恩を返さないと。 」
おどけた口調だが、まぎれもない本心を言うとベッドから起き上がる。
有妃に出会えて俺は救われた。心を苛むような日々を、甘く温かいものにしてくれた。
有妃が願うなら、俺の残りの人生を捧げることなど造作ない。
俺はすっと立つと、漫画やアニメに出てくる執事の様に左手を胸に当てた。
「あ、あの旦那様っ。そのような真似はおやめになって下さいませ! 」
「いいえお嬢様。 俺、じゃなくて私はお嬢様の下僕にございます。 」
有妃は動揺して止めてくるが、構わずにうやうやしく頭を下げた。
なんでだろう。今では黒川の気持ちがよく分かる。妙に喜ばしく晴れやかだ。
卑屈とも言える俺の様子を見てさすがに有妃は声を上げてきた。
「もうっ! いい加減になさってください佑人さん! 佑人さんはそんなものじゃありませんっ! 私の愛する大切なお方なんですよっ! 」
「だったら有妃ちゃんだって、俺のなによりも大切な人なんだよ。俺は有妃ちゃんの主にも旦那にもなりたくない。ずっと隣に寄り添っていたいんだ。上でも下でもなくね。 」
向きになって怒る有妃に俺はやんわりと答えた。
しばらくはお互いに言葉もなく見つめあう。
これも本心だけど、なかなかの臭いセリフを言ってしまったかと恥ずかしい。
有妃はそうなのだろうか。困った顔をしてそっと言った。
「結局普段通りになってしまいましたね。 佑人さんって言ってしまって。 」
俺も心からの同意をこめて頷いた。
「うん。 俺もやっぱり有妃ちゃんって言うのがしっくりくるかな。 」
俺たちは照れ隠しの様に苦笑しあう。
有妃は楽しげに身を寄せると、ぎゅっと抱きしめてくれた。
蛇体もいつもの様に静かに巻き付いてくる。
有妃が愛撫してくれる手の感触。
俺は心地よさにうっとりとして有妃の胸に顔を埋める。
一緒にベットに横たわると、蛇体が布団のように優しく包み込んでくれた。
「はあ…… なれない事はするものじゃないですねえ。 」
「まあ。無理しないで行こうよ。 いままでどおり一歩一歩ね。 」
「はい。私達にはそれが一番あってますよね! 」
有妃はため息をついて眉をひそめたが、
俺が慰めるように白銀の髪をなでると、穏やかな眼差しになった。
そのまま悪戯っぽく首を傾げて言う。
「じゃあ、改めまして。これからもよろしくお願いします。佑人さんっ! 」
俺もわざとらしく頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそよろしくね。有妃ちゃん。 」
これからも俺たちの日々は続くのだろう。二人で共に歩んでゆくのだろう。
当たり前だけどかけがえのない素敵な日常。
それを祝福するかのように俺たちは微笑み合った。
その後俺たちは有妃の故郷の魔界に引っ越したり……
なぜかふみ姉まで旦那と一緒に越してきてひと悶着あったり……
うちの両親が魔物娘とインキュバスになってびっくり仰天したり……
そして、俺と有妃の間に子供ができたり……
周りにごく普通にある、でも俺たちにとっては大切な事。
他にも色々あるのだが語るのはまた別の機会に。
17/04/24 22:29更新 / 近藤無内
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