第9章 お姉ちゃん襲来! 5
「やっぱりこの姿をゆうくんに見せるんじゃ無かったかな………」
ふみ姉はそう言って物寂しい笑みを見せた。どこか泣いているようにも見える眼差しが俺を正気に戻す。
「ごめん!違うんだふみ姉。」
慌てて言い訳するが、ふみ姉は穏やかにかぶりを振った。
「ううん。ゆうくんが戸惑うのはよく分かるよ。わたし自身が自分の変化に一番驚いているから…。」
一つため息を着いたふみ姉は言葉を続ける。
「今はね。旦那さんともすっかり仲良くなれて。わたしがぎゅって抱きしめてあげると、ふみちゃん大好き…って言って優しく笑ってくれるの。それがすごく嬉しくて。わたしも大喜びで色々お世話してあげるんだよ。やっとうちの人と心から繋がって一つになれた…。これから先もずっとこの幸せが続くんだ…。そう思うとすごく興奮しちゃって、全然眠れなくなるぐらい愉しい。」
取り留めも無く話していたふみ姉だが、ここで不意に俯いた。
「でもね…。本当に彼をわたしのものに、無理やりこんな事しちゃって良かったのかな…。」
「ふみ姉…。」
若干の後悔と苦悩を滲ませる眼差し。それは魔物になれた事の喜びを露わにしていたふみ姉では無かった。俺の知っている繊細で心優しい姉の姿に胸が痛くなる。
「魔物にしてくれたお姉さんが言っていたんだけれど…。お姉さんはあまり魔力が強くないんだって。わたしが心まで完全に魔物になりきるには少し時間がかかるそうなの。その間は時々人としての気持ちが強くなる事があるらしいんだよね。」
言葉を続ける姉に俺と有妃は無言でうなずく。
「そんなときは旦那さんに無性に申し訳なくなってしまうの。あの人の事を思うなら、許してあげるべきではなかったのか。私のもとに縛り付けないで、自由にしておいてあげるべきではなかったのかな、って色々考えちゃって…。
でも、そう思う時間も日を経るごとに短くなっていっているんだけれどね。最近ではどうしてもっと早く魔物になって旦那さんを迎えに行かなかったんだろう。って思う事ばかりだもの。わたしの中の人間がすっかり消えた時。その時がわたしにとって完全にしあわせになれる時なのだろうけれど…。」
ふみ姉はもう一度ため息を着いた。
「だからゆうくんにもわたしの姿を見せるのは複雑な思いだったの。ごめんね…。本当はすぐに会いに行きたかったんだけれど、わたしの中で気持ちが揺れちゃって。魔物カフェでゆうくんと有妃さんの姿を見るたびにどうしようかずっと迷っちゃって。
もっと魔物として一人前になった時に会いに来ればよかったかな…。ゆうくんにとって優しいお姉ちゃんのままでいたかったかな…。なんか急に自分があさましくなってきちゃった…。」
人外を象徴するかのような、姉の青白い繊細な手。ふみ姉は己の手を見つめて遣り切れない表情をする。
「ふみ姉まってよ!そんなこと言わないでよ!どんな姿になってもふみ姉はふみ姉だよ。確かに驚いちゃったけど…。ふみ姉に会えて、幸せになってくれて嬉しく無い訳無いじゃないか………。」
今にも泣きそうな笑顔のふみ姉を俺は何度も慰める。馬鹿。余計な事を思ったばかりに傷つけてしまったじゃないか……。ここに至るまで実際に悩み苦しんできたのはふみ姉なのだ。俺がそれを理解しようとしないでどうするんだ。
有妃は俺たち二人の様子を黙って見ていたが、不意にたしなめるような言葉を掛けてきた。
「お義姉さん…。それではお義姉さんは後悔していらっしゃるのですか?人間に戻って旦那さんを自由にしてさしあげたいのですか?」
思わぬ事を言われたふみ姉は必死に首を横に振る。
「嫌です!せっかく一緒になれたのに…。もう二度とあんな思いはしたくない…。」
有妃は柔らかな笑みを浮かべてうなずいた。
「もちろんそうでしょうとも。私たちにとって愛する方と永遠に結ばれるのは、なによりの願いです。お義姉さんもそうである事は良く分かりますよ。」
「有妃さん…。」
「もしお義姉さんが旦那さんを諦めていたならば、どうなっていたでしょう?お義姉さんの心は鬱々と晴れず、旦那さんも人の道を踏み外す事になっていたかもしれません。
それをお義姉さんはわが身を呈して引き戻して、そして護って差し上げたのですよ。間違いありません。お義姉さんはご自身と旦那さんを救ったのです。」
優しく教え諭す様な有妃の言葉に、俺とふみ姉はいつしか聞き入っていた。
「もっとも私達には『魔の君子は人の小人。人の君子は魔の小人』っていうことわざがあるのですが…。それだけ人と魔物では価値観が異なっているという事なんですよね。
魔物化したばかりのお義姉さんが悩むのも良く分かります。なにせ魔物にとっては一日中セックスし続けるのが模範的行為。大好きな男の方を手に入れるためなら、手段を選ばないのが正義ですから…。」
有妃はそう言って苦笑いすると姉に問いかける。
「お義姉さん。人間の方にとって精はおいしく無いと思いますが…以前はどうでしたか?」
「はい…。うちの人のおチンチンしゃぶってあげて口の中に出されちゃった時も、呑み込めずに吐きだしてしまいました。今では全く考えられませんが。」
神妙な様子で肯定するふみ姉だ。それはそうと、あいつは姉の口の中に射精していやがったのか…。俺は思わず不愉快な思いを抱く。もちろん夫婦なのだから問題無いのだろうが、あれに大切な姉を汚された様で気分が悪い。だが、俺はその思いを口にすることなく、有妃も言葉を続けた。
「でも私たち魔物にとっては、それはもう大変美味なものです。お義姉さんもわかりますよね?
それでは、精を美味しいと思う魔物と、まずいと思う人間。いったいどちらが正しい味覚と言えるのでしょうか?他にも私の様なラミア属を醜い蛇女、化け物と言う人もいますが、佑人さんはとっても綺麗だよって言ってくれます。いったいどちらの方が本当の美しさを知っているのでしょうか?」
有妃の愛情深い真紅の瞳。労わる様な優しく穏やかな美声。俺達はじっと耳を傾ける。
「私には一体何が本当で何が正しいか全くわからないのです。ですからお義姉さん。今は魔物になられた事を、その喜びも悲しみもすべて受け入れて下さい。魔物としてのお義姉さんご自身を労わって下さい。あとは時間が必ず解決してくれるでしょうから…。」
ふみ姉はしみじみとした様子で何度もうなずいている。俺は有妃の話に聞き入りながらも、以前聞いた事を思いだした。
彼女自身人間の会社での社会人経験が豊富なので、人と魔の価値観の違い、どちらが正しいのか真実なのか、色々思う事も多かったのだそうだ。自分と他人は違うものだと言う事を認め合いたいですね。そう言って切なく笑った姿が今も忘れられない。
だが、自他の違いを尊重しているはずの有妃も…結局は俺に魔力を入れて己の望むようにしてしまう。これは有妃が白蛇だからという事に限らないだろう。他人の価値観を認めると言うのは、言うはやすしで行うは難しい事なのかもしれない。俺の場合はその結果、幸せと安らぎを得られたのだから別に良いのだが。
語り終えて一息ついた有妃だったが、何かに気が付いたかの様に恥ずかしそうに俯いた。
「お義姉さん申し訳ありません…。なんかお説教臭くなってしまって…。」
ふみ姉はかぶりを振ると朗らかに笑った。先ほどと比べさっぱりした表情で俺も安心する。
「いいえ!そんな事ありません!有妃さん…。ありがとうございます。目が覚めたようですよ。私は幸せ者です。私を魔物化してくれたお姉さんと、有妃さんのような先輩に恵まれて。これからも色々教えて下さいね。」
すっかり気が楽になった。そう言わんばかりにふみ姉は有妃に感謝するのだった。
「………それで、私は下のお口だけでは無く上のお口で精を味わうのも大好きなのですよ。佑人さんも大喜びで上のお口に出して下さいます。」
「ですよねえ…。わたしも魔物化して初めて精を飲んだ時。こんなにおいしいものだったのかっ!って驚いたものです。それはそうと、ゆうくん。さっきお姉ちゃんがうちの人のアレをしゃぶった話をしたら嫌な顔したでしょ!」
あれから有妃とふみ姉は魔物娘トークに花が咲いている。色々恥ずかしい話もお構いなしだ。
ああ…インキュバスになればこの羞恥心も消えるのだろうか。魔物の価値を心から完全に受け入れる事ができるのだろうか。そんな事を思っていた俺に、さらに矢を射かけてくるような問いをしたふみ姉。
「いや…だって…。」
「ゆうくんも有妃さんにおしゃぶりされていっぱい飲んでもらうと嬉しいよね。お姉ちゃんもうちの人が喜んでくれると嬉しいんだよ。」
「そうですよ。佑人さん。愛する方にご奉仕してあげたいと思う事は魔物娘として当たり前なのですよ。」
二人は親が子供に優しく教えるように俺に語りかける。こんな場面は今日これで一体何度目だろう…。俺はもう色々諦めて笑顔でうなずくしかなかった。
「あ…そろそろうちの人目が覚めるころかな。」
ふみ姉は不意にそう言うと自分のスマホで時間を確認した。
でも、さっきから気にはなっていたのだが…姉の旦那は今どこでどうしているだろう?ウィスプが己の男からずっと離れる事があるとも思えないが。俺は興味が抑えきれずに聞いてみる。
「ええと。ふみ姉の…旦那さんは今どこにいるの?」
「ふふっ…。気になるゆうくん?」
そろりと言葉を出したふみ姉は粘っこい眼差しで笑う。
「今もうちの人はここに居るんだけどね。私の作った隠れた檻の中にいるの。…私と旦那さんしか行けない空間を作ってそこに居てもらっている。と言えばわかりやすいかな?」
ウィスプならば当然なのだろうが、つまりそれは檻に閉じ込めていると言う事か?俺は先ほどのふみ姉の酷薄な表情を思い出してしまう。
「……別にうちの人を監禁している訳じゃ無いよ。檻っていってもわたし達の家のようなものだし。旦那さんが望めば一緒にどこにでも出かけるよ。絶対にわたしも一緒だけれど。」
俺の若干不安な表情を読んだのだろう。ふみ姉は仕方ないなあとでも言いたそうだ。今では姉のつらく悲しかった思いも理解できるような気がする。俺は心からの同意を込めてうなずいた。
「わかっているよ。ふみ姉はそういう事をするひとじゃ無いよね。」
「ふふっ。ゆうくんったら…。今はね。わたし子供が欲しくて…。ほら、今まではうちの人そう言う事に全然熱心じゃなかったから。今までの分も取り返そうと子作り頑張っているんだよ!だから旦那さん疲れちゃうみたいですぐ寝ちゃうの。わたしはあの人が寝ている間に外で色々用事をして、今日もそうなんだけれど。」
「ああ…。お義姉さんっ。そのお気持ち良く分かりますよ!」
顔を赤らめて子供への想いを語るふみ姉だ。共感した有妃もすかさず声を上げる。だが、子作りに本気になった魔物娘が夫をどれだけ搾り取るかは話に聞いている。大嫌いな姉の旦那だが…この時ばかりは大変だなあ、と言う思いをすぐに抱いてしまう。いや。もちろん俺も他人ごとではないのだが…。
しばらく有妃と二人で子供が欲しいと言いあっていたふみ姉だったが「それじゃあそろそろ。」というと俺の顔を真正面から見つめてきた。青白く輝いている姉の眼差しに俺は捕えられる。
「あの…ゆうくん。それでゆうくんにひとつお願いがあるの…。」
真剣な姉の表情に俺も身が引きしまる。
「わたしの事。父さんと母さんにはしばらく黙っていてくれないかな?駆け落ちの事もあるし、今はこれ以上心配かけたくないから…。わたしが心の底から幸せになった時、二人には必ず報告に行くから…。お願い。ゆうくん。」
心細さと申し訳なさをない交ぜにしたように姉はしきりに懇願する。
そうだ。やっぱりふみ姉はつらいのだ…。
急に姉が哀れに思えて、俺から知らぬ間に言葉が出て来た。
「わかったよ。でも、ふみ姉が言いにくいなら俺が代わりに言うよ。その時はいつでも連絡して欲しい。俺もうちのみんなが仲直りできる様に協力するから…。」
「ゆうくんありがとう…。頼りになる弟くんを持ってお姉ちゃん幸せだよ!」
ふみ姉は安心したように華やかに笑った。こんな素敵な笑顔は一体いつ以来だろう。俺が見とれる間もなく、ふみ姉は今度は有妃に頭を下げた。
「有妃さん…。これからは弟の事をよろしくお願いします。有妃さんと佑人の事はずっと魔物カフェで見ていました。佑人が心の底から幸せそうに有妃さんに甘えているのを見て、この方なら大丈夫かも?って思っていました。その通りであって本当に良かったです。」
「やめて下さいお義姉さん!そんな畏まらないで下さい!」
慌てて止める有妃に構わず、ふみ姉は情熱を込めて語り続ける。
「わたしも弟の事は気にかけていました。独り暮らしで心が荒んでいく佑人を見て、何とかしたかったのですが…。ずっと自分の事で手いっぱいで…。こんなに安らいでいる佑人を見るのは本当に久しぶりです。有妃さん。あなたによって佑人は救われたのです。あなたがお嫁さんになって下さって、佑人は本当に幸せ者です!」
姉は語り終えるとまた深々と頭を下げた。感激した有妃はふみ姉の手をぎゅっと握りしめる。
「お義姉さん!私こそ佑人さんにはいつも幸せにして頂いています…。お礼を言わなければいけないのは私の方なのですよ。ご安心ください!佑人さんには私が全身全霊でお仕えして、命がけでお護りします!」
そうか。俺がふみ姉の事を心配していたように、ふみ姉も俺を心配していたのか…。あらためてその事に気が付き感極まる。でも俺の大切な美しい妖女達。この二人の想いにどれだけ答えられるのだろう。
いや。そうじゃない。俺は答えていかなければならないんだ…。
「あ〜あ。良かった…。これでわたしも一安心だよ。それじゃあゆうくん。有妃さん。そろそろ帰らないと旦那さんが寂しがるから。これで失礼しますね。」
ふみ姉はこれで肩の荷がおりたと、ほっと一息ついた。その表情はいつしか変わっていた。これから夫のもとへ帰って行く悦びに満ちた、愛する人の事以外は眼中に無い魔物のものだった。
そうだよな。ふみ姉も愛する人の所に帰るんだよな。ふとそう思う。
全て解決して、姉も幸せになってくれて本当に嬉しい。
でも…なぜだろう。
ずっと気になっていた事が片付いてほっとしたのは俺も同じだ。
でも一件落着して妙に寂しい様な、これで姉と会えなくなるかの様な切なさに襲われてしまう。
俺は色々な思いが抑えきれない………。
一瞬自分の立場を忘れて、衝動的に姉の手を取ってしまった。
「ふみ姉…。」
そのままただ姉を見つめ続ける俺…。
ふみ姉は情愛を込めて微笑むと優しく言葉を掛けた。
「ねえ。ゆうくんのその気持ちは嬉しいよ。でも、今のゆうくんは気にかけなければらないひとがいるはずだよ。そのひとの事をまず第一に考えてあげてね…。」
ふみ姉は両手で俺の手を優しく握る。柔らかく温かい姉の手。
だが、その感触を味わう間もなくそっと手が離れていく…。
思わず涙ぐみそうになった俺を元気づけるかのように、ふみ姉は努めて明るく声をかけた。
「もう!ゆうくんったら…。大丈夫だよ!お姉ちゃんはどこにも行きはしないから。ほら。ケータイももっているし。わたしに会いたいならいつでも連絡して。でもいい?会うのは必ず有妃さんと一緒じゃないとダメだよ。」
俺は言葉も無く何度も首を縦に振る。ふみ姉も笑顔でうなずいてくれた。かつて俺がいつも見ていた、優しい姉としての笑みを浮かべて…。
「ふみ姉…元気で…。」
「お義姉さんもいつでも遊びにいらしてくださいね!」
「それではこれで失礼しますね。ゆうくん。有妃さん。今日は色々ありがとう。本当にお世話になりました!」
頭を下げて小さく手を振ったふみ姉は、部屋の風景に溶ける様に消えて行った………
ふみ姉はそう言って物寂しい笑みを見せた。どこか泣いているようにも見える眼差しが俺を正気に戻す。
「ごめん!違うんだふみ姉。」
慌てて言い訳するが、ふみ姉は穏やかにかぶりを振った。
「ううん。ゆうくんが戸惑うのはよく分かるよ。わたし自身が自分の変化に一番驚いているから…。」
一つため息を着いたふみ姉は言葉を続ける。
「今はね。旦那さんともすっかり仲良くなれて。わたしがぎゅって抱きしめてあげると、ふみちゃん大好き…って言って優しく笑ってくれるの。それがすごく嬉しくて。わたしも大喜びで色々お世話してあげるんだよ。やっとうちの人と心から繋がって一つになれた…。これから先もずっとこの幸せが続くんだ…。そう思うとすごく興奮しちゃって、全然眠れなくなるぐらい愉しい。」
取り留めも無く話していたふみ姉だが、ここで不意に俯いた。
「でもね…。本当に彼をわたしのものに、無理やりこんな事しちゃって良かったのかな…。」
「ふみ姉…。」
若干の後悔と苦悩を滲ませる眼差し。それは魔物になれた事の喜びを露わにしていたふみ姉では無かった。俺の知っている繊細で心優しい姉の姿に胸が痛くなる。
「魔物にしてくれたお姉さんが言っていたんだけれど…。お姉さんはあまり魔力が強くないんだって。わたしが心まで完全に魔物になりきるには少し時間がかかるそうなの。その間は時々人としての気持ちが強くなる事があるらしいんだよね。」
言葉を続ける姉に俺と有妃は無言でうなずく。
「そんなときは旦那さんに無性に申し訳なくなってしまうの。あの人の事を思うなら、許してあげるべきではなかったのか。私のもとに縛り付けないで、自由にしておいてあげるべきではなかったのかな、って色々考えちゃって…。
でも、そう思う時間も日を経るごとに短くなっていっているんだけれどね。最近ではどうしてもっと早く魔物になって旦那さんを迎えに行かなかったんだろう。って思う事ばかりだもの。わたしの中の人間がすっかり消えた時。その時がわたしにとって完全にしあわせになれる時なのだろうけれど…。」
ふみ姉はもう一度ため息を着いた。
「だからゆうくんにもわたしの姿を見せるのは複雑な思いだったの。ごめんね…。本当はすぐに会いに行きたかったんだけれど、わたしの中で気持ちが揺れちゃって。魔物カフェでゆうくんと有妃さんの姿を見るたびにどうしようかずっと迷っちゃって。
もっと魔物として一人前になった時に会いに来ればよかったかな…。ゆうくんにとって優しいお姉ちゃんのままでいたかったかな…。なんか急に自分があさましくなってきちゃった…。」
人外を象徴するかのような、姉の青白い繊細な手。ふみ姉は己の手を見つめて遣り切れない表情をする。
「ふみ姉まってよ!そんなこと言わないでよ!どんな姿になってもふみ姉はふみ姉だよ。確かに驚いちゃったけど…。ふみ姉に会えて、幸せになってくれて嬉しく無い訳無いじゃないか………。」
今にも泣きそうな笑顔のふみ姉を俺は何度も慰める。馬鹿。余計な事を思ったばかりに傷つけてしまったじゃないか……。ここに至るまで実際に悩み苦しんできたのはふみ姉なのだ。俺がそれを理解しようとしないでどうするんだ。
有妃は俺たち二人の様子を黙って見ていたが、不意にたしなめるような言葉を掛けてきた。
「お義姉さん…。それではお義姉さんは後悔していらっしゃるのですか?人間に戻って旦那さんを自由にしてさしあげたいのですか?」
思わぬ事を言われたふみ姉は必死に首を横に振る。
「嫌です!せっかく一緒になれたのに…。もう二度とあんな思いはしたくない…。」
有妃は柔らかな笑みを浮かべてうなずいた。
「もちろんそうでしょうとも。私たちにとって愛する方と永遠に結ばれるのは、なによりの願いです。お義姉さんもそうである事は良く分かりますよ。」
「有妃さん…。」
「もしお義姉さんが旦那さんを諦めていたならば、どうなっていたでしょう?お義姉さんの心は鬱々と晴れず、旦那さんも人の道を踏み外す事になっていたかもしれません。
それをお義姉さんはわが身を呈して引き戻して、そして護って差し上げたのですよ。間違いありません。お義姉さんはご自身と旦那さんを救ったのです。」
優しく教え諭す様な有妃の言葉に、俺とふみ姉はいつしか聞き入っていた。
「もっとも私達には『魔の君子は人の小人。人の君子は魔の小人』っていうことわざがあるのですが…。それだけ人と魔物では価値観が異なっているという事なんですよね。
魔物化したばかりのお義姉さんが悩むのも良く分かります。なにせ魔物にとっては一日中セックスし続けるのが模範的行為。大好きな男の方を手に入れるためなら、手段を選ばないのが正義ですから…。」
有妃はそう言って苦笑いすると姉に問いかける。
「お義姉さん。人間の方にとって精はおいしく無いと思いますが…以前はどうでしたか?」
「はい…。うちの人のおチンチンしゃぶってあげて口の中に出されちゃった時も、呑み込めずに吐きだしてしまいました。今では全く考えられませんが。」
神妙な様子で肯定するふみ姉だ。それはそうと、あいつは姉の口の中に射精していやがったのか…。俺は思わず不愉快な思いを抱く。もちろん夫婦なのだから問題無いのだろうが、あれに大切な姉を汚された様で気分が悪い。だが、俺はその思いを口にすることなく、有妃も言葉を続けた。
「でも私たち魔物にとっては、それはもう大変美味なものです。お義姉さんもわかりますよね?
それでは、精を美味しいと思う魔物と、まずいと思う人間。いったいどちらが正しい味覚と言えるのでしょうか?他にも私の様なラミア属を醜い蛇女、化け物と言う人もいますが、佑人さんはとっても綺麗だよって言ってくれます。いったいどちらの方が本当の美しさを知っているのでしょうか?」
有妃の愛情深い真紅の瞳。労わる様な優しく穏やかな美声。俺達はじっと耳を傾ける。
「私には一体何が本当で何が正しいか全くわからないのです。ですからお義姉さん。今は魔物になられた事を、その喜びも悲しみもすべて受け入れて下さい。魔物としてのお義姉さんご自身を労わって下さい。あとは時間が必ず解決してくれるでしょうから…。」
ふみ姉はしみじみとした様子で何度もうなずいている。俺は有妃の話に聞き入りながらも、以前聞いた事を思いだした。
彼女自身人間の会社での社会人経験が豊富なので、人と魔の価値観の違い、どちらが正しいのか真実なのか、色々思う事も多かったのだそうだ。自分と他人は違うものだと言う事を認め合いたいですね。そう言って切なく笑った姿が今も忘れられない。
だが、自他の違いを尊重しているはずの有妃も…結局は俺に魔力を入れて己の望むようにしてしまう。これは有妃が白蛇だからという事に限らないだろう。他人の価値観を認めると言うのは、言うはやすしで行うは難しい事なのかもしれない。俺の場合はその結果、幸せと安らぎを得られたのだから別に良いのだが。
語り終えて一息ついた有妃だったが、何かに気が付いたかの様に恥ずかしそうに俯いた。
「お義姉さん申し訳ありません…。なんかお説教臭くなってしまって…。」
ふみ姉はかぶりを振ると朗らかに笑った。先ほどと比べさっぱりした表情で俺も安心する。
「いいえ!そんな事ありません!有妃さん…。ありがとうございます。目が覚めたようですよ。私は幸せ者です。私を魔物化してくれたお姉さんと、有妃さんのような先輩に恵まれて。これからも色々教えて下さいね。」
すっかり気が楽になった。そう言わんばかりにふみ姉は有妃に感謝するのだった。
「………それで、私は下のお口だけでは無く上のお口で精を味わうのも大好きなのですよ。佑人さんも大喜びで上のお口に出して下さいます。」
「ですよねえ…。わたしも魔物化して初めて精を飲んだ時。こんなにおいしいものだったのかっ!って驚いたものです。それはそうと、ゆうくん。さっきお姉ちゃんがうちの人のアレをしゃぶった話をしたら嫌な顔したでしょ!」
あれから有妃とふみ姉は魔物娘トークに花が咲いている。色々恥ずかしい話もお構いなしだ。
ああ…インキュバスになればこの羞恥心も消えるのだろうか。魔物の価値を心から完全に受け入れる事ができるのだろうか。そんな事を思っていた俺に、さらに矢を射かけてくるような問いをしたふみ姉。
「いや…だって…。」
「ゆうくんも有妃さんにおしゃぶりされていっぱい飲んでもらうと嬉しいよね。お姉ちゃんもうちの人が喜んでくれると嬉しいんだよ。」
「そうですよ。佑人さん。愛する方にご奉仕してあげたいと思う事は魔物娘として当たり前なのですよ。」
二人は親が子供に優しく教えるように俺に語りかける。こんな場面は今日これで一体何度目だろう…。俺はもう色々諦めて笑顔でうなずくしかなかった。
「あ…そろそろうちの人目が覚めるころかな。」
ふみ姉は不意にそう言うと自分のスマホで時間を確認した。
でも、さっきから気にはなっていたのだが…姉の旦那は今どこでどうしているだろう?ウィスプが己の男からずっと離れる事があるとも思えないが。俺は興味が抑えきれずに聞いてみる。
「ええと。ふみ姉の…旦那さんは今どこにいるの?」
「ふふっ…。気になるゆうくん?」
そろりと言葉を出したふみ姉は粘っこい眼差しで笑う。
「今もうちの人はここに居るんだけどね。私の作った隠れた檻の中にいるの。…私と旦那さんしか行けない空間を作ってそこに居てもらっている。と言えばわかりやすいかな?」
ウィスプならば当然なのだろうが、つまりそれは檻に閉じ込めていると言う事か?俺は先ほどのふみ姉の酷薄な表情を思い出してしまう。
「……別にうちの人を監禁している訳じゃ無いよ。檻っていってもわたし達の家のようなものだし。旦那さんが望めば一緒にどこにでも出かけるよ。絶対にわたしも一緒だけれど。」
俺の若干不安な表情を読んだのだろう。ふみ姉は仕方ないなあとでも言いたそうだ。今では姉のつらく悲しかった思いも理解できるような気がする。俺は心からの同意を込めてうなずいた。
「わかっているよ。ふみ姉はそういう事をするひとじゃ無いよね。」
「ふふっ。ゆうくんったら…。今はね。わたし子供が欲しくて…。ほら、今まではうちの人そう言う事に全然熱心じゃなかったから。今までの分も取り返そうと子作り頑張っているんだよ!だから旦那さん疲れちゃうみたいですぐ寝ちゃうの。わたしはあの人が寝ている間に外で色々用事をして、今日もそうなんだけれど。」
「ああ…。お義姉さんっ。そのお気持ち良く分かりますよ!」
顔を赤らめて子供への想いを語るふみ姉だ。共感した有妃もすかさず声を上げる。だが、子作りに本気になった魔物娘が夫をどれだけ搾り取るかは話に聞いている。大嫌いな姉の旦那だが…この時ばかりは大変だなあ、と言う思いをすぐに抱いてしまう。いや。もちろん俺も他人ごとではないのだが…。
しばらく有妃と二人で子供が欲しいと言いあっていたふみ姉だったが「それじゃあそろそろ。」というと俺の顔を真正面から見つめてきた。青白く輝いている姉の眼差しに俺は捕えられる。
「あの…ゆうくん。それでゆうくんにひとつお願いがあるの…。」
真剣な姉の表情に俺も身が引きしまる。
「わたしの事。父さんと母さんにはしばらく黙っていてくれないかな?駆け落ちの事もあるし、今はこれ以上心配かけたくないから…。わたしが心の底から幸せになった時、二人には必ず報告に行くから…。お願い。ゆうくん。」
心細さと申し訳なさをない交ぜにしたように姉はしきりに懇願する。
そうだ。やっぱりふみ姉はつらいのだ…。
急に姉が哀れに思えて、俺から知らぬ間に言葉が出て来た。
「わかったよ。でも、ふみ姉が言いにくいなら俺が代わりに言うよ。その時はいつでも連絡して欲しい。俺もうちのみんなが仲直りできる様に協力するから…。」
「ゆうくんありがとう…。頼りになる弟くんを持ってお姉ちゃん幸せだよ!」
ふみ姉は安心したように華やかに笑った。こんな素敵な笑顔は一体いつ以来だろう。俺が見とれる間もなく、ふみ姉は今度は有妃に頭を下げた。
「有妃さん…。これからは弟の事をよろしくお願いします。有妃さんと佑人の事はずっと魔物カフェで見ていました。佑人が心の底から幸せそうに有妃さんに甘えているのを見て、この方なら大丈夫かも?って思っていました。その通りであって本当に良かったです。」
「やめて下さいお義姉さん!そんな畏まらないで下さい!」
慌てて止める有妃に構わず、ふみ姉は情熱を込めて語り続ける。
「わたしも弟の事は気にかけていました。独り暮らしで心が荒んでいく佑人を見て、何とかしたかったのですが…。ずっと自分の事で手いっぱいで…。こんなに安らいでいる佑人を見るのは本当に久しぶりです。有妃さん。あなたによって佑人は救われたのです。あなたがお嫁さんになって下さって、佑人は本当に幸せ者です!」
姉は語り終えるとまた深々と頭を下げた。感激した有妃はふみ姉の手をぎゅっと握りしめる。
「お義姉さん!私こそ佑人さんにはいつも幸せにして頂いています…。お礼を言わなければいけないのは私の方なのですよ。ご安心ください!佑人さんには私が全身全霊でお仕えして、命がけでお護りします!」
そうか。俺がふみ姉の事を心配していたように、ふみ姉も俺を心配していたのか…。あらためてその事に気が付き感極まる。でも俺の大切な美しい妖女達。この二人の想いにどれだけ答えられるのだろう。
いや。そうじゃない。俺は答えていかなければならないんだ…。
「あ〜あ。良かった…。これでわたしも一安心だよ。それじゃあゆうくん。有妃さん。そろそろ帰らないと旦那さんが寂しがるから。これで失礼しますね。」
ふみ姉はこれで肩の荷がおりたと、ほっと一息ついた。その表情はいつしか変わっていた。これから夫のもとへ帰って行く悦びに満ちた、愛する人の事以外は眼中に無い魔物のものだった。
そうだよな。ふみ姉も愛する人の所に帰るんだよな。ふとそう思う。
全て解決して、姉も幸せになってくれて本当に嬉しい。
でも…なぜだろう。
ずっと気になっていた事が片付いてほっとしたのは俺も同じだ。
でも一件落着して妙に寂しい様な、これで姉と会えなくなるかの様な切なさに襲われてしまう。
俺は色々な思いが抑えきれない………。
一瞬自分の立場を忘れて、衝動的に姉の手を取ってしまった。
「ふみ姉…。」
そのままただ姉を見つめ続ける俺…。
ふみ姉は情愛を込めて微笑むと優しく言葉を掛けた。
「ねえ。ゆうくんのその気持ちは嬉しいよ。でも、今のゆうくんは気にかけなければらないひとがいるはずだよ。そのひとの事をまず第一に考えてあげてね…。」
ふみ姉は両手で俺の手を優しく握る。柔らかく温かい姉の手。
だが、その感触を味わう間もなくそっと手が離れていく…。
思わず涙ぐみそうになった俺を元気づけるかのように、ふみ姉は努めて明るく声をかけた。
「もう!ゆうくんったら…。大丈夫だよ!お姉ちゃんはどこにも行きはしないから。ほら。ケータイももっているし。わたしに会いたいならいつでも連絡して。でもいい?会うのは必ず有妃さんと一緒じゃないとダメだよ。」
俺は言葉も無く何度も首を縦に振る。ふみ姉も笑顔でうなずいてくれた。かつて俺がいつも見ていた、優しい姉としての笑みを浮かべて…。
「ふみ姉…元気で…。」
「お義姉さんもいつでも遊びにいらしてくださいね!」
「それではこれで失礼しますね。ゆうくん。有妃さん。今日は色々ありがとう。本当にお世話になりました!」
頭を下げて小さく手を振ったふみ姉は、部屋の風景に溶ける様に消えて行った………
17/03/12 22:51更新 / 近藤無内
戻る
次へ