前編
「あ……。目が覚めた?大丈夫?どこか痛いところとかない?」
「…………ぇ?どうして?なんで俺…家に居るの?」
闇から意識が目覚め男はつぶやく。ここは自分の部屋だ。だが、なんでここに?確か休憩時間中、会社で稲荷とホルスタウロスの同僚と談笑していたはずなのだ。その時なぜか突然妻が…白蛇の妻が目の前に現れた。真紅の瞳に燠の様な炎が燃えていたのは覚えているが、それから先の記憶は無い。
「本当に大丈夫?何かおかしい所があるなら言ってね。」
男に話しかける妻はいつも通りの様子だ。背中まで伸びる白く輝く髪。透き通るような肌。そして目鼻立ちは恐ろしいぐらい整っており、真紅の瞳が妖しげな美しさを強調している。彼女は布団を男の肩まで掛け直すと優しく微笑む。思いやりと気遣いに溢れた普段の妻と全く変わりない。だが…そのふだんと変わらない様子が余計違和感を募らせる。
「ごめん。なんだか状況が呑み込めなくて…。」
「ええと…。そうだね…。これはね…。」
ぼそぼそと何やら言いにくそうに呟いている。長く伸びた純白の蛇体の先端。彼女の尻尾が困った様に揺れている。だが己に向ける夫の目。何とも言いようがない不安と疑いの目に耐え兼ねたのだろうか。急に吹っ切れたように笑い出した。
「あはははっ…。もういいかな…。どうせあなたにはしばらくここに居てもらう事に変わりないんだからっ。」
「ここにって…。だからいったいどういう事なの?」
「は〜い。それでは説明しますねっ!あなたにはおうちから一歩も外に出ないで、ずっと生活してもらいます!」
「…………………………」
突然の事に飛び起きたが言葉も出ない。思わず見つめた妻は素敵な笑顔だった。男がいつも癒され、励まされる優しい笑顔だった。だが、今はそれが何かで固められた不自然な作り笑いにしか見えなかった。まったく事情が分からず徐々に不安と恐怖が襲ってくる。
「あ〜っ。困っているな〜。でも、そうだよね…。これはあくまでもわたしの問題だから。あなたは全く悪くないんだから気にしないで!」
「だ…だからいったいどうしたっていうのっ!」
困惑と不安に耐えきれずに男は大声で妻を問い詰める。声音からは隠しきれない恐怖が伺えた。
「あの稲荷と牛女…。さっきは随分と楽しそうにお話していたね…。」
「えっ?何を言っているのさ!あれは仕事上のコミュニケーションで…。」
「それに毎日あの二人の匂いを付けて…まいにちまいにちまいにちまいにち…。」
「ま、待ってくれよ…。同じチームの同僚なんだから…ど、どうしてもあの子達に近づく事もあるよ…。それに今まで君もわかってくれていたじゃないかっ!」
急に虚ろな笑みを浮かべて滔々とまくし立てる妻だ。男は動揺が抑えきれない。だが…ようやく事情が呑み込めた。そうか。…………嫉妬しているんだ。
魔王の統べる王国と国交が結ばれて数十年…。魔物娘は人間の隣人として認められるようになり、異種族との婚姻もごく当たり前のようになった。
男も近所の神社で巫女を務めていた白蛇の妻━白夜と初詣のおりに知り合った。彼は神楽を舞う白夜の美しさに魅了され、人目を気にせずに見つめ続けた。そんな男━陸の事を白夜も気になっていたようだ。二人はすぐに付き合い始める様になり、それからしばらく後、当然の様に結婚する事になった。
このような時代ゆえ、陸も白蛇という種族についてはそれなりに知識はあった。温厚だが相当嫉妬深い。と言う事も知っており、また友人知人で白蛇と付き合っている者たちの話からもそれは伺えた。
ある知人は朝起きたら突然もう会社に行かなくていいと言われ、今では白蛇の妻のヒモのような生活を送っている。
またある者は隠れて水商売の店に行ったのがばれて、二度と奥さんに逆らえなくなる様な快楽と恐怖を味わったらしい。
共通しているのは日頃の穏やかさの中に、何かしらの歪みと言うか暗い情念を持っている種族と言う事だ。当然この友人たちは白蛇の暗い面の象徴ともいえる、『白蛇の炎』と呼ばれる魔力を注ぎ込まれている。
彼らは炎を入れられた事によって幸せにはなった…。でも、幸せとは己自身の手でつかむものではないのか。魔物に幸せを施される様では人としてはどうなのだろう…。そんな事で人間の尊厳を守れるのだろうか…。陸は内心苦々しく思っているのだ。
でも陸にとってそれはあくまでも人ごとにすぎなかった。実際白夜と付き合ってみて、拘束される事も色々詮索される事も全く無かった。常に控え目だが、溢れんばかりの包容力で包み込んでいてくれたのだ。
白夜と知り合った当初はその美しさと若々しさで相当年下だと思った。だが不老長寿を誇る魔物娘の年齢などあって無い様なものだ。実際は陸よりも10歳ほど年上だったのだ。白夜は陸に対して姉のように優しく世話を焼くようになったが、それがまたとても心地よかった。陸が結婚を決めたのも、白夜のこの性格に寄る所が多かった。
結婚後も白夜の大らかさに変化は無かった。付き合いで飲みに行っても一人でぶらぶら出かけても、『お付き合い大変だね…。』『たまには息抜きも必要よ!』と優しく受け入れてくれた。
それなので友人達の話やネットで囁かれる数々の噂。それについては運が悪いか誇張されているのだろうぐらいにしか思わなかった。白夜は他の白蛇とは違う。嫉妬したり俺を縛ったりしない。何の疑いも無くそう信じていたのだ。
ちなみに結婚するに当たってこの友人達から、『これでお前も拘束生活仲間だな!』とずいぶん冷やかされたものだが………。
当時は笑って受け流していた事がまさか自分の身に降りかかろうとは………。他の白蛇とは違うと信じていた白夜がまさかこんな真似をするとは………。
全く想像もしていなかった事態に陥り、陸はパニック状態になっていた。
「あ…。大丈夫。なにも心配しないで…。悪いのは全部わたしだから…。」
露骨に怯える陸を見かねたように白夜は笑みを浮かべて慰める。だが…それは怖い笑みだ。目が全く笑っていない笑みだ。
「りくくんがあいつらのそばにいるのはおしごとなんだから。わたしはよいおくさんなんだからそれをわらってうけいれなければ……笑って…受け入れる?
そんな事出来るわけないじゃないっ!!わたしの陸くんを奪おうとしてっ!!あの獣どもおおおおおおおっ!!」
何やらつぶやきつづけていた白夜だが、突然凄まじい絶叫を放つと蛇体を渾身の力を込めて叩き付けた。床が震え、耳をつんざく様な音が響き渡る。
「待って!落ち着いてよ白夜ちゃん。彼女達とはそんな関係じゃ…」
「うるさいっ!!」
慌てて言い訳しようとした陸を怒鳴りつけるとぎろりと睨みつけた。真紅の瞳が燃える様な輝きを放っている。尋常では無いその姿に彼は恐れをなして黙り込んでしまった。
いつも穏やかで心優しい白夜だったはずだ。こんな激情をあらわにする事など全く無かった。
「あっ………。ち、違うの!ごめん…ごめんね陸くん!怖がらないでっ!」
「白夜ちゃん………。」
恐怖と驚きを隠さない陸の姿に白夜は正気を取り戻したようだ。そして蛇体を巻き付けて抱きしめると何度も謝った。
「本当にごめん…。わたしったらいったい何を…。」
「一体どうしちゃったの…。そう言えばどうして会社になんか来たの?俺をいったいどうしたの?」
「あ…うん。あのね。あのまま陸くんを連れて帰ってきたの。本当は落ちついてお話するつもりだったんだけど…。あの二人とあなたが話しているのを見たら…もう我を忘れて無理やり術を使って…。」
「そうだ!それであの子たちは!?」
申し訳なさそうに俯いて話していた白夜だが……陸が同僚達の事を口にした途端に目を向いてじっと見つめる。徐々に瞳が焼け付くような赤い光を放っていく。
「そう……そんなに牛女と女狐の事が気になるんだ?」
「え?…いや違うよ!」
「大丈夫。何もしていないよ…。口をあんぐり開けて私たちの事を見ていたから…。ちょっと睨んでやっただけ。これ以上ちょっかい出すと…そのでかい口に尻尾ぶち込んでやるよぐらいは言ったけど…。」
「でも…そっか。陸くんはあの子たちが大事なんだね…。私よりも大事なのかな。…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?」
「お願いだから落ち着いてよ…。白夜ちゃんっ!」
焦点が合わない虚ろな眼差しでひたすら陸を問い詰める…。その異様さに彼も限界に近かった。悲痛な叫びを上げると白夜の肩を掴み必死になって揺さぶる。
「え………あ……ご、ごめん…。本当にどうしちゃたんだろう…。ごめんね…陸くん………。」
激怒したと思ったら申し訳なさそうに謝ったり、また急に問い詰めてきたり、まるで錯乱状態だ。
「ね…。白夜ちゃん。一体何があったのかな…。」
「あ………うん。私ね……。もう我慢できないかな。」
「我慢?」
「うん…。私ね…。陸くんのお嫁さんになる時誓ったんだよ…。陸くんを縛り付けるような事は止めよう。自由にのびのびと毎日過ごしてもらおう、って…。」
「わかってる。俺も毎日がすごく楽しいよ。」
「そう言ってもらうと嬉しいな。だって…白蛇って色々変な噂あるでしょ。好きな男は無理矢理捕まえて監禁するだの、他の女に目移りしない様に魔力で心まで縛り付けるだの、女と話しただけで嫉妬を爆発させるだのって。決してそんな子ばかりじゃないのに……。」
そんな子はいない。と断言する訳じゃないんだな…。思わず頭に浮かんだが、あえて黙っていた。白夜は本当に申し訳なさそうな様子で、口にするのがはばかられたからだ。
「だから私を選んでくれた陸くんに、所詮は白蛇だったなって思われない様にずっと頑張ってきたんだよ。」
「そうだったの…。」
「陸くんが私を見てにこにこ笑ってくれる。だからもっと頑張ろう。大らかで優しい奥さんでいよう。このまま仲の良い夫婦でいよう。そう思っていたんだけれど…でも、あなたは毎日よその女の匂いを付けてくる…。胸が締め付けられるようでずっと苦しかった。」
心より愛する妻の予想もしなかった告白だった。陸はただ黙って聞いていた。
「もうそれも限界…。これ以上そんな事には耐えられない。」
「だから待ってよ…。それは…」
「わかっているよ。あなたが浮気したりほかの女に手を出したりするような人じゃない、って事は私が一番良く分かっている。でも…無理なの。もうつらいの。毎日毎日心が不安で潰されそうなの…。」
「それで、俺を監禁しようとするの…。」
詰問する様な口調の陸をきっと見つめると、白夜は焦燥感溢れる声で叫んだ。
「そんな事したくない!あなたを閉じ込めたりつらい思いをさせたりだなんて…。そんな事したい訳無いよ!ずっと優しい奥さんでいたいよ!」
「だってさっきは…」
「うん…。そうだね。変な事言っちゃってごめんね…。だから…そんな事したくないから…これを受け取って欲しいな…。」
白夜は陸を抱きしめるかのように両手を差し伸べる。すると…そこにはたちまち青い光が現れ、炎にも似た揺らめきを見せた。光はどんどんと大きくなり、やがて暗澹とした青黒くうねる塊になった。
本能的に恐怖を覚えた陸は後ずさるとごくりと生唾を飲み込む。それを見た白夜は今にも泣きそうなほど顔を歪ませた
「だ、大丈夫だからっ!別に怖いものでも何でもないから!これは陸くんの心の一部を私に預けて欲しい…。私の事をずーっと忘れないで見ていてほしい…。そのためのものにすぎないから…。」
必死になる白夜を見る陸の眼差しは冷め切っていた。そうか…やっぱり白夜もか…と。
「これを受け入れてさえくれれば私は安心して良い奥さんでいられる。陸くんに今日みたいな不快な思いをさせないで済む。お願い陸くん…。私を助けて…。」
「白夜ちゃん……。俺が何も知らないでいると思っているの…。それって白蛇の炎だろ!」
哀願する様な切ない白夜の訴えを無視して陸は言い放った。
「男の心を支配して性奴隷にしてしまう恐ろしい魔法だろ?これって有名な話なんだよ。まさか君がこんな事しようとするなんて…がっかりだよ!」
白夜は必死になって否定する。何度も何度も頭を振る仕草が痛々しい。
「何言ってるの!違う…。違うから…。陸くんを…私の陸くんを奴隷なんかにする訳無いよお…。」
「あのね…。俺の知り合いも君の同族たちに魔力を入れられたんだよ。……確かにみんな幸せそうさ。いや…幸せなんだろう。でも、いつも恍惚としていて奥さんの事だけしか目に入っていないようなんだよ。こんな事で人としていいの?俺は認めたくないな!」
陸もうすうすは気づいていた。白夜だって白蛇なんだと…。心の中に重苦しいものが渦巻いているはずなんだと…。でも彼女だけは違う…ありえない。と見て見ぬふりをしていたのだ。
「で、でも大丈夫だよ!これはとっても気持ちいいし、陸くんを壊しちゃうような事は絶対にありえないから…」
「だったらそれを俺に入れればいいじゃん!そして奴隷でも召使いでも何でもすればいいんだよ!」
湧き上がる苛立ちを抑えきれずに陸は叫んだ。
「こんな君…。見たくなかったな」
「陸くん…。」
吐き捨てる様な陸の言葉を聞いた瞬間、白夜はがっくりと肩を落とすと崩れ落ちるかのように座り込んだ。
「嫌われちゃった…嫌われちゃった…嫌われちゃった…陸くんに嫌われちゃたよ……」
白夜は低い声で嗚咽を上げている。俯いた顔に白銀の髪が掛かり顔は見えない。陸は酷い事を言ってしまったと後悔したが、その思いを口にする事はできなかった。
「お願い…しばらく一人にしてくれないか。」
白夜から顔をそむけ部屋の外に出て行こうとした。そっとドアに手を掛ける。だが……開かない。おかしい…。鍵はかかっていないはずだ。ドアのノブを捻り何度もガタガタ揺するが、何かに固定されているかのように動かない。
こんなことが出来るのは白夜しかいない。陸が問い詰めようとしたその時…白く伸びるものが彼の胴体に絡みついた。突然の事に焦る陸を白い物体は半ば強引に引き寄せる。
「だめ…。ダメ、絶対…。絶対に…逃がさないっ!」
血の底から響く様な声に驚いた陸は、白い物体が引き寄せようとする先を見た。そこには当然のことながら白い蛇体を伸ばす白夜の姿があった。
だがその姿に陸は戦慄した。…白夜であって白夜では無かった。普段の彼女は大らかで温厚な気性を表すかのように優しい微笑みを浮かべていたものだ。しかし今日のこの眼差しは一体どうしたというのだろう…。
確かに笑ってはいた。だが何かを諦めたかのような切ない笑顔だ。どろりとした鈍い眼は鮮血の様な朱色に輝いていた。そのぎらりとした眼差しでじっと陸を捕えているのだ。
「陸くんはこのお部屋に監禁決定ですよ〜。どうせ嫌われちゃったんなら…何をしてもいいよねっ!」
場違いなほどの陽気な声ではしゃぐように宣言すると、蛇体で陸をぐるぐる巻きにしてぎゅっと抱きしめた。いつもはとても心安らぐ白夜の抱擁だが、今は何をしてくるか分からない恐怖におののくだけだった。
「白夜ちゃん…。」
「ふふふふっ…。陸くんが私の事が嫌いになっちゃっても…でも私はあなたが大好き。だから絶対にあきらめない…。あなたの心を無理やりへし折っててでも…私の事をまた好きにさせるから。」
「待ってくれよ!君の事が嫌いになったりなんて…」
「あら、怖くなったの?でも、今さらそんな言い訳聞かないよ…。」
しどろもどろになって弁明する陸の言葉を白夜は聞く耳持たなかった。そのまま暗い炎を燃やすような眼差しで彼を見つめていた。
だが、愛する夫が怯える様子を見て憐れんだのだろうか。悲しい表情を見せると絡みつけていた蛇体を解いた。
「もう…。仕方ないなあ。でも、あなたに誤解されるような事をしてしまった私が悪いよね………。はい!」
白夜は両腕を開いて陸を抱きしめる様な仕草をするとにっこりと笑った。いつもの心落ち着く素敵な笑みだ。
「ぎゅーってして仲直りしよう!それでこの話は終わり!」
あまり人には言わないのだが、陸と白夜は悪い事をしてしまったと思うと、そっと抱き合ってお互いに謝りあう。でもこんな恥ずかしいスキンシップでも不思議と不満とわだかまりは消え、ずっと仲良く過ごすことが出来たのだ。
今回は白夜の方から折れてくれたのだ。いつもの様にこのまま彼女の腕の中に飛び込んでごめんなさいしたかった。でも、結局その先は白蛇の炎を入れられて、無理やり「幸せ」にされてしまうだけではないのか。それと今まで散々困惑させられて、自分から謝る事には抵抗がある。
陸は心にある意地と不安がごっちゃになった思いを消せず、ただ睨むような目で白夜を見つめるだけだった。
白夜はしばらく両腕を広げて陸を迎え入れようとしていた。でも不信感を隠さない冷たい眼差しの陸を見て表情を曇らせる。
「ねっ…。陸くん。いつもみたいにしようよ…。ねえ………。お願い…………。」
白夜は泣きそうな表情で哀願していた。心からの願いだったのだろう。だが全く動かない陸を見つめているとそれも消え、徐々に暗鬱たる眼差しに戻って行った。
「そうなんだ………。陸くんは私とぎゅーってするのも嫌なんだ………。そっか。………………ふ〜ん。じゃあいい!」
苛立ちと怒りを隠さない白夜は逃がす間もなく陸を拘束した。蛇体が体を動かす余裕も無いほど念入りに絡みつく。
「私は陸くんと仲直りするまでずっとこうしている!ず う っ と ね …。」
冷酷に宣言すると絡みついた蛇体を徐々に締め付ける。いつもの優しく温かい蛇体の抱擁は心に安らぎをもたらしてくれた。だが、今回の締め付けは陸が経験したことが無いほどの強烈さだ。否応なしに恐怖が襲ってくる。
「ちょっと…。白夜ちゃん…。何を…」
「陸くんは魔物娘は人を殺しも傷つけもしない。って思っているんでしょ…。確かに殺しはしないけど……心を折る前に全身の骨をへし折ってから…永久に縛り付けてあげてもいいんだよ…。」
「…待ってよ!」
「和解案を蹴ったのは陸くんなんだよ…。そんな人の何を待てっていうのかな?」
意地悪くにやりと笑うとさらに締め付けを強める。陸は苦しくて言葉も発せられずに呻く。
「ぐ……。が……。」
「ほ〜ら。骨がみしみしいってるよお〜。いったいどうなるのかな…。」
苦しい…。もう…駄目だから…。陸は苦悶の表情で必死に訴えるが、白夜は酷薄な笑顔を張り付けているだけだ。
「……………………!」
耐えかねた陸が叫びを上げようとしたその時だった…。
白夜は不意に拘束を緩める。余裕が出来た陸は何度も息を吸い込むと、恐怖心溢れる眼差しで妻を見つめた。
「もう…。怖がりなんだから…。私が陸くんにそんなことする訳無いでしょ。無駄に強がるくせに本当は臆病なんだよね…。君は!」
露骨に嘲ると子供を慰める様に陸の頭を撫でた。普段当たり前のように行われる愛情表現だが、今は何とも言えず屈辱感を感じる。
「さ〜て…。陸くんをどういじめようかな…。言っときますけど私は君の事は何でも知っているんですからね。当然嫌いな事も怖がることも全て!」
恐怖と困惑を隠さない己の夫を見て白夜は笑った。伝説にいう人を食らっていた魔物とはこうだろうか。陸にそう思わせるほどの残酷な笑いだった。
あれから白夜はずっと陸の体に蛇体を巻き付けていた。先ほどのように苦しさはないが体の隙間もない程みっちりと絡みついている。密着した蛇体内の蒸し暑さは相当のものだ。
「ふふっ。り〜くく〜ん。よしよし。」
そして時折頭をなでなですると人を小馬鹿にした笑顔を見せる。これから一体何をされるのだろうか…。不安と焦りで溢れんばかりの陸を見るのが楽しいらしい。
だが、今ならまだ間に合う。これまでの付き合いで陸には確信があった。ちゃんと謝って白夜の魔力を受け入れれば…彼女は快く許してくれる。そして白蛇の炎を注がれても…けっして陸を絶望させる様なものではない事はわかっていた。先ほどは感情的になってしまったが、白夜が酷い事をするとは信じられない。
でも、それはわかっているが…どうにも気持ちが納得できなかった。言葉は悪いが拉致されるような真似をされて…突然キレられて監禁されて…こんな理不尽な仕打ちを受けて一体なんで謝らなければならない。だったらこのまま意地を通してやろう…。
いつまでも俺を従順で素直な弟とでも思っているのだろうが…そうはいかない!陸なりに悲壮に決意して事に臨んでいたのだ。
それにしても蒸し暑い。おまけにずっと緊張し続けだったので余計に喉が渇く。普段なら冷たい麦茶をすぐに用意してくれる白夜だが、今日はひたすら陸を締め上げている。一体どうしよう………。彼がそう思っている間にも喉の渇きは増すばかりだった。
無論こんな事を白夜に頼めば余計に責める口実を与えるばかりだ。しかたなしに黙って喉の渇きと延々と闘っていた。だがそんな陸を見咎めるかのように、以外にも白夜が助け舟を出してきた。
「陸くん…。喉、乾いているんでしょ。………もう!それなら早く行ってよ。」
「………………。」
無言で俯く陸を悪戯っぽく見つめると何故か胸をはだけた。熟れた桃の様な豊満な双丘が露わになると、彼女の甘い香りがふわりと漂ってくる。
「はい。どうぞ!たくさん飲んでね。陸くん!」
あまりに突然の事に胡乱な目つきで白夜を見つめたが、彼女は笑って胸を見せつけるだけだ。陸は何とか言葉を振り絞った。
「………………どういう事?」
「どうって…。喉乾いたんでしょ?だからおっぱいあげる。」
「おっぱいって………。赤ん坊もいないのになんでおっぱいなんか出るんだよ!ねえ。俺が喉乾いてるの知ってるんだろ?出もしないもの吸わせて俺が必死になるの見たいだけなんだろ?ふざけるなよっ!なあ…俺を苦しめたいのならそう言えよっ!!」
白夜の振る舞いは溜まりに溜まった陸の苛立ちを爆発させるのに十分だった。大声を上げて白夜を怒鳴りつける。実際彼女に対してここまで怒りをぶつける事など今までなかった。というか白夜に対して怒る事すら今までなかったと言っていい。
こうなったらもうおしまいだ。気を悪くした白夜になにをされてもいい…。自暴自棄の思いをぶつける陸を白夜は慌てて胸に抱いた。
「ああもう!落ち着きなさい陸くん!………ねえ。私が今まであなたに嘘ついた事あったかな?そんな事なかったよね?」
優しく抱きしめ気持ちを静める様に背中をぽんぽんと叩く。柔らかな胸の感触と大好きな甘い匂いが、いつしか陸の怒りを消していった。しばし白夜の胸の中に頭を埋めて憩う。
だがこうなると急に不安が襲い、顔を上げるとおずおずと白夜に問いかけた。
「だって……白夜ちゃん俺をいじめるって………。」
「ああその事…。ごめんね意地悪しちゃって…。でもあれはあなたが私にぎゅってしてくれなかったら……ついイラついちゃったの。私は陸くんをいじめたりなんかしないよ。」
言葉も無い陸を見て労わる様に微笑むと白夜は続ける。
「あのね、サバトって知ってるでしょ?そこでお薬調合してもらったの。子供がいない魔物夫婦が母乳プレイする時に使うお薬なんだけど…効果を強めたから半永久的におっぱい出る様になったんだよ。」
「そうだったの…。でもそもそもなんでおっぱいなんか…。」
「わからないかしら。だってあなたをあのホルスタウロスに取られるなんて…そんな事許せない…。だったら私が自分のお乳で陸くんに栄養を付けてあげればいいかなって。」
穏やかに、陸をなだめる様だった白夜の雰囲気が暗く鋭いものになって行く。それを察した彼はまたかと言いたそうに溜息を着いた。
「なんでそうなるの…。俺と彼女は何でもないって…。ただの同僚じゃないか。」
「大丈夫!もちろんそれはわかってるよ!だからこれは私の気持ちの問題なの…。陸くんには全て私のものだけを与えていたいの…。だから…さ、どうぞ。遠慮しないでたくさん飲んでね!」
白夜はにっこり笑うと自分の胸を陸の口元に持っていった。そしてさあ飲んでと何度も催促する
結局彼女は俺を徹底的に縛り付けたいだけなのか…。しかもその事に何の疑いも持たずに…。思わず陸は失望に近い思いを抱く。いけないと思いつつも先ほど消えた苛立ちが再び燃え上がってきてしまう。
「いらない。」
「え………。どうしちゃったの?陸くん。」
「そんなもの飲めない。」
「そんなものって……あ、大丈夫だよ!ちゃんと味見はしているし、栄養素もホルミルクに勝るとも劣らないって…」
「だからそんなキモいもの飲めるかって言ってるの!!」
吐き捨てる様な陸の言葉だった。白夜はしばらくその意味が呑み込めない様にきょとんとしていた。
だが、何を言われたのか理解すると、目を潤ませて唇をわななかせながら悲痛に訴えた。
「ねえ陸くん…。キモイなんて言葉は使わないで…。そんなこと言われると私も傷つくんだよ…。どうしちゃったの?陸くんさっきから酷いよ…。」
「ひどい?どうしちゃったの?それを言いたいのはこっちだよ!君こそ突然俺を部屋に監禁して挙句の果てにはおっぱい飲めだなんて…。俺を変態にでもしたいの?」
「なにいってるの!私はあなたと一緒に幸せになりたいだけ!心まで一つになって蕩けたいだけ!なんで。どうしてわかってくれないのよ…………」
白夜は嘆くように訴え続けている。もちろん陸もわかっていた。魔物の行動規範や倫理観が人間とは大きく異なる事には。特に好きになった男に対しては欲望が際限なく膨らむものらしい。でもその理解はあくまでも知識の上だけの事で、今回のように己の身でそれを実感した事はほとんど無かったのだ。
先ほど述べた様に白夜も白蛇としての欲望はひたすら抑えていた。よって陸にとって魔物は人に比べて少々エロい程度の存在だ、という認識しかなかったといってよい。
今回はあまりにも突然に自分の意識を変える事を迫られている。理屈では分かっていても気持ちがそれに追いついていないのだ。
つい頑なな思いを抑えきれずに、強張った表情で白夜を見つめてしまう。陸の反抗的な眼差しを受けて白夜も怒りをあらわにする。
「………陸くんが飲みたくないなら好きにすればいい!でもこれからはあなたが飲めるものは私のおっぱいだけだからね!乾いてカラカラな干物みたいになっても知らないよ!」
きっぱりと断言すると白夜はじっと陸を見つめる。また先ほどの様な人をいたぶる魔物の眼差しに戻っていた。
「別にいいんだよ…。私は陸くんが素直になってくれるのを待つだけだから…。いつまでも、ずっといつまでもね…。」
皮肉めいた口調で語りかけると蛇体の拘束が強まる。念入りにしっかりと絡みつき、陸は体も動かせない。そして…恐ろしい事に先ほどよりも明らかに蛇体の温度が上がっている。とうとう蒸し風呂の様な暑さになってしまった。
陸は汗をだらだら垂れ流しながら渇きにあえいでいる。つい苦悶を訴えるかのように白夜を見てしまうが、彼女はいやらしい微笑みを浮かべるだけだ。
良く考えれば白夜もずっと水分を取っていないはずなのに平然としている。やはり魔物娘の身体能力はインキュバスと言えども及ぶものでは無いか…。絶望的な思いを抱いた陸に白夜が労わる様な声をかけた。
「ね…陸くん。もう止めよう。そろそろ水分取らないと駄目だよ。あなたが体をこわすのは嫌だから……。これ以上強情張るのなら無理やり飲ましてあげるね。そうすれば陸くんのプライドも保てると思うから…。」
切ない笑みを見せると白夜は無理矢理頭を乳房に押し付けようとした。おいおい…無理やりおっぱいに吸い付かされ、強引に飲まされる方が余計プライドが傷つくだろう…だったら自分から飲んだ方がまだマシだ…。ていうか普通の飲み物を飲ますという選択肢は無いのか…。
様々な思いが交錯しながら陸は悩み続けたが、やがて不承不承にうなずいた。
「わかったから…。自分で飲むからそれはやめて…。」
「そう言ってくれて良かったよ…。さ、どうぞ…。」
ほっとしたような白夜は陸の頭を優しく乳房に近づけた。彼は豊満な胸に手をやると、恐る恐る綺麗なピンク色をした乳首に唇をつける…。
もちろん陸はおっぱいに顔を埋めたり、赤子に帰ったかのように乳首を吸い続けるのは大好きだった。白夜もそんな彼をいつも優しく愛撫してくれるのだ。だが今回は普段とはあまりにも状況が違う。
ぴんと立った乳首を口に咥える。いつもはそうするだけで心が落ち着くものだが、言いようのない不安が襲ってくる。そして本当にそっと…ちゅっと吸ってみた。
その途端、優しく甘い味が口いっぱいに広がった。不快な甘さでは無く爽やかながらもとても味わいがある。無性に癖になりそうな美味しさだ。何…これ…。驚いた陸は白夜の顔を見上げる。
「どう…美味しいかな?」
白夜は少し不安そうな眼差しだ。強気なことを言っていたが心配なのだろう。そんな彼女を安心させるかのように陸は何度もうなずいて見せる。
「本当?良かったぁ〜。」
安心した様に華やかに笑うと、陸の頭を優しく抱く。そして赤子に乳を与える様な体勢を取ると心地よい手つきで愛撫してくれた。あまりの心地よさに頭の中が蕩けそうになる。
「喉乾いちゃったでしょ…。好きなだけ飲んでね。」
陸はひたすら白夜の乳首を吸い続ける。甘い…。とっても美味しい…。不思議な事に口に注ぎ込まれる乳は適度に冷たい。それが余計に乾ききった喉を喜ばせる。
白夜の乳が美味しい。もっと飲みたい。それ以外の思いは頭から消え去りひたすら乳を飲み続ける。
だが、なぜだろう…。とっくに喉の渇きは癒えたはずなのにまだまだ足りない…。上目使いで見あげる陸に白夜は微笑みで答える。
「このお乳はインキュバスが必要な栄養素が全部含まれている優れものなんだよ〜。いっぱい飲んでね!じゃあ…次は反対側吸って欲しいな……。」
白夜は包み込むように陸の頭を抱えると反対側の乳首に咥えさせる。そっと愛撫して背中を優しくぽんぽんと叩く。見つめる眼差しは母親の様に慈愛深く、まるで自分の子供に乳を与える様な愛情の込め様だ。
陸もいつしかすっかり脱力してそっと身を委ねた。とても心地よく無意識のうちに甘えてしまう。赤ん坊のように乳を吸う姿を見た白夜は嬉しそうに蛇体で包み込んだ。
「本当に陸くん可愛いなぁ…。あ〜あ…。このまま私の子供にしちゃいたいよ…。ね。陸くん。サバトには幼児化薬もあるみたいだから…それを飲んで私の子供になっちゃおうか?」
「びゃくやちゃんの…こども?」
甘い陶酔感が頭に満ちており、もうまどろみに堕ちそうだ。
「そう…。私の子供。でももちろん陸くんは私の子供だけど旦那さんだからね。そういう関係も素敵だと思うけどなぁ…。」
陸が最後に見たのは白夜の優しい笑顔だった。天使の微笑みとはこういうものかな…。そんな事を思いながら意識が落ちて行った。
「ふぁ…………。」
「おはよう陸くん。お目覚めですか?」
目覚めた陸は相変わらず白夜の胸に抱かれていた。周囲から漂う甘い匂い。それが優しくまとわりついて相変わらず心がとろけそうだ。緩みきった顔の陸を見て白夜はそっと笑う。
「ん…………。おはよう。」
つられて陸も笑おうとした時だった…。不意に強烈な衝動が襲う。それは下半身を切なく責めたて…精を出したくて出したくてたまらなくなる。
いつしか疼きは全身に回り、頭の中は目の前にいる白夜に種付けしたい以外の事は考えられなくなった。
「ま…って…白夜ちゃ…ん…。これっ…て一体…。」
「あ、ようやく効いてきたようだね。」
荒い息をつく陸を見た白夜は、やっと始まったのかと言いたそうな朗らかな笑顔を見せた。陸は今すぐ襲い掛かりたい衝動を必死に抑えて問いかける。
「よう…やく…ってまさか…。さっき…飲んだ…。」
「はい。大あたりです〜。あのお乳なんだけど…あれにはねぇ、あなたの事をずうっと想って練りに練り上げた私の魔力てんこ盛りだったんだよぉ。」
「魔…力って…まさか。」
異常に陽気な白夜を見て嫌な予感が心を襲う。そして嫌な予感というものは良い予感に比べて往々にして当たるものなのだ。
「もちろん!」
堂々と言い放った白夜は手をかざす。そこには青白い魔力が現れると炎のようにゆらゆらとした輝きを見せた。
「この白蛇の炎、これとほとんど同じ効果を発揮するものなんだよねぇ…。」
「ひどい……ひどいよ白夜ちゃん!勝手に魔力なんか入れてっ!!そんなに俺を奴隷にしたいのかよっ!!」
愕然としたが怒りが魔力の呪縛から一瞬解き放った。陸は渾身の思いを込めて絶叫する。
「だからそんな事はしないって言ってるでしょ…。大丈夫!あなたの事は絶対に幸せにするから…。何にも心配しないで私に任せてくれればいいんだよ!…さ、それよりも体がつらいでしょ。一緒に嫌な事は忘れて楽しみましょう。」
諭すように語り終えると白夜は蛇体を解いて仰向けに寝た。そして、さあいらっしゃいとばかりに両手を広げて陸を迎え入れようとしている。本当に素敵な笑顔だ。これから己の思いが叶う事を喜んでいるのだろう。陸の都合などどうでもいいのだろう。
ひどい…独善的すぎる…あまりにも身勝手だ…。強烈すぎる情欲の中、絶望とも怒りともつかない思いが陸の心に渦巻く。
好いた男は絶対に逃がさない…。たとえどんな手を使っても…。白夜は言外にそう言っているのだろう。もちろん魔物娘の行動原理からすれば全く間違ってはいない。だがそんな姿に陸は初めて接したと言っても良い。手酷い裏切りとしか思えなかった。
糞っ……。あの優しくて大らかな白夜が何でこうなったんだ……。
なんでだよ…
なんでだよ…
なんでなんだよ!
抑えきれない陸の怒りが心を塗りつぶそうとしていた獣欲に打ち勝った。
「ねえ白夜ちゃん…。しばらく……離れて暮らさないか?」
「……………………………………………………………え?」
「…………ぇ?どうして?なんで俺…家に居るの?」
闇から意識が目覚め男はつぶやく。ここは自分の部屋だ。だが、なんでここに?確か休憩時間中、会社で稲荷とホルスタウロスの同僚と談笑していたはずなのだ。その時なぜか突然妻が…白蛇の妻が目の前に現れた。真紅の瞳に燠の様な炎が燃えていたのは覚えているが、それから先の記憶は無い。
「本当に大丈夫?何かおかしい所があるなら言ってね。」
男に話しかける妻はいつも通りの様子だ。背中まで伸びる白く輝く髪。透き通るような肌。そして目鼻立ちは恐ろしいぐらい整っており、真紅の瞳が妖しげな美しさを強調している。彼女は布団を男の肩まで掛け直すと優しく微笑む。思いやりと気遣いに溢れた普段の妻と全く変わりない。だが…そのふだんと変わらない様子が余計違和感を募らせる。
「ごめん。なんだか状況が呑み込めなくて…。」
「ええと…。そうだね…。これはね…。」
ぼそぼそと何やら言いにくそうに呟いている。長く伸びた純白の蛇体の先端。彼女の尻尾が困った様に揺れている。だが己に向ける夫の目。何とも言いようがない不安と疑いの目に耐え兼ねたのだろうか。急に吹っ切れたように笑い出した。
「あはははっ…。もういいかな…。どうせあなたにはしばらくここに居てもらう事に変わりないんだからっ。」
「ここにって…。だからいったいどういう事なの?」
「は〜い。それでは説明しますねっ!あなたにはおうちから一歩も外に出ないで、ずっと生活してもらいます!」
「…………………………」
突然の事に飛び起きたが言葉も出ない。思わず見つめた妻は素敵な笑顔だった。男がいつも癒され、励まされる優しい笑顔だった。だが、今はそれが何かで固められた不自然な作り笑いにしか見えなかった。まったく事情が分からず徐々に不安と恐怖が襲ってくる。
「あ〜っ。困っているな〜。でも、そうだよね…。これはあくまでもわたしの問題だから。あなたは全く悪くないんだから気にしないで!」
「だ…だからいったいどうしたっていうのっ!」
困惑と不安に耐えきれずに男は大声で妻を問い詰める。声音からは隠しきれない恐怖が伺えた。
「あの稲荷と牛女…。さっきは随分と楽しそうにお話していたね…。」
「えっ?何を言っているのさ!あれは仕事上のコミュニケーションで…。」
「それに毎日あの二人の匂いを付けて…まいにちまいにちまいにちまいにち…。」
「ま、待ってくれよ…。同じチームの同僚なんだから…ど、どうしてもあの子達に近づく事もあるよ…。それに今まで君もわかってくれていたじゃないかっ!」
急に虚ろな笑みを浮かべて滔々とまくし立てる妻だ。男は動揺が抑えきれない。だが…ようやく事情が呑み込めた。そうか。…………嫉妬しているんだ。
魔王の統べる王国と国交が結ばれて数十年…。魔物娘は人間の隣人として認められるようになり、異種族との婚姻もごく当たり前のようになった。
男も近所の神社で巫女を務めていた白蛇の妻━白夜と初詣のおりに知り合った。彼は神楽を舞う白夜の美しさに魅了され、人目を気にせずに見つめ続けた。そんな男━陸の事を白夜も気になっていたようだ。二人はすぐに付き合い始める様になり、それからしばらく後、当然の様に結婚する事になった。
このような時代ゆえ、陸も白蛇という種族についてはそれなりに知識はあった。温厚だが相当嫉妬深い。と言う事も知っており、また友人知人で白蛇と付き合っている者たちの話からもそれは伺えた。
ある知人は朝起きたら突然もう会社に行かなくていいと言われ、今では白蛇の妻のヒモのような生活を送っている。
またある者は隠れて水商売の店に行ったのがばれて、二度と奥さんに逆らえなくなる様な快楽と恐怖を味わったらしい。
共通しているのは日頃の穏やかさの中に、何かしらの歪みと言うか暗い情念を持っている種族と言う事だ。当然この友人たちは白蛇の暗い面の象徴ともいえる、『白蛇の炎』と呼ばれる魔力を注ぎ込まれている。
彼らは炎を入れられた事によって幸せにはなった…。でも、幸せとは己自身の手でつかむものではないのか。魔物に幸せを施される様では人としてはどうなのだろう…。そんな事で人間の尊厳を守れるのだろうか…。陸は内心苦々しく思っているのだ。
でも陸にとってそれはあくまでも人ごとにすぎなかった。実際白夜と付き合ってみて、拘束される事も色々詮索される事も全く無かった。常に控え目だが、溢れんばかりの包容力で包み込んでいてくれたのだ。
白夜と知り合った当初はその美しさと若々しさで相当年下だと思った。だが不老長寿を誇る魔物娘の年齢などあって無い様なものだ。実際は陸よりも10歳ほど年上だったのだ。白夜は陸に対して姉のように優しく世話を焼くようになったが、それがまたとても心地よかった。陸が結婚を決めたのも、白夜のこの性格に寄る所が多かった。
結婚後も白夜の大らかさに変化は無かった。付き合いで飲みに行っても一人でぶらぶら出かけても、『お付き合い大変だね…。』『たまには息抜きも必要よ!』と優しく受け入れてくれた。
それなので友人達の話やネットで囁かれる数々の噂。それについては運が悪いか誇張されているのだろうぐらいにしか思わなかった。白夜は他の白蛇とは違う。嫉妬したり俺を縛ったりしない。何の疑いも無くそう信じていたのだ。
ちなみに結婚するに当たってこの友人達から、『これでお前も拘束生活仲間だな!』とずいぶん冷やかされたものだが………。
当時は笑って受け流していた事がまさか自分の身に降りかかろうとは………。他の白蛇とは違うと信じていた白夜がまさかこんな真似をするとは………。
全く想像もしていなかった事態に陥り、陸はパニック状態になっていた。
「あ…。大丈夫。なにも心配しないで…。悪いのは全部わたしだから…。」
露骨に怯える陸を見かねたように白夜は笑みを浮かべて慰める。だが…それは怖い笑みだ。目が全く笑っていない笑みだ。
「りくくんがあいつらのそばにいるのはおしごとなんだから。わたしはよいおくさんなんだからそれをわらってうけいれなければ……笑って…受け入れる?
そんな事出来るわけないじゃないっ!!わたしの陸くんを奪おうとしてっ!!あの獣どもおおおおおおおっ!!」
何やらつぶやきつづけていた白夜だが、突然凄まじい絶叫を放つと蛇体を渾身の力を込めて叩き付けた。床が震え、耳をつんざく様な音が響き渡る。
「待って!落ち着いてよ白夜ちゃん。彼女達とはそんな関係じゃ…」
「うるさいっ!!」
慌てて言い訳しようとした陸を怒鳴りつけるとぎろりと睨みつけた。真紅の瞳が燃える様な輝きを放っている。尋常では無いその姿に彼は恐れをなして黙り込んでしまった。
いつも穏やかで心優しい白夜だったはずだ。こんな激情をあらわにする事など全く無かった。
「あっ………。ち、違うの!ごめん…ごめんね陸くん!怖がらないでっ!」
「白夜ちゃん………。」
恐怖と驚きを隠さない陸の姿に白夜は正気を取り戻したようだ。そして蛇体を巻き付けて抱きしめると何度も謝った。
「本当にごめん…。わたしったらいったい何を…。」
「一体どうしちゃったの…。そう言えばどうして会社になんか来たの?俺をいったいどうしたの?」
「あ…うん。あのね。あのまま陸くんを連れて帰ってきたの。本当は落ちついてお話するつもりだったんだけど…。あの二人とあなたが話しているのを見たら…もう我を忘れて無理やり術を使って…。」
「そうだ!それであの子たちは!?」
申し訳なさそうに俯いて話していた白夜だが……陸が同僚達の事を口にした途端に目を向いてじっと見つめる。徐々に瞳が焼け付くような赤い光を放っていく。
「そう……そんなに牛女と女狐の事が気になるんだ?」
「え?…いや違うよ!」
「大丈夫。何もしていないよ…。口をあんぐり開けて私たちの事を見ていたから…。ちょっと睨んでやっただけ。これ以上ちょっかい出すと…そのでかい口に尻尾ぶち込んでやるよぐらいは言ったけど…。」
「でも…そっか。陸くんはあの子たちが大事なんだね…。私よりも大事なのかな。…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?…ねえ、どうなの?」
「お願いだから落ち着いてよ…。白夜ちゃんっ!」
焦点が合わない虚ろな眼差しでひたすら陸を問い詰める…。その異様さに彼も限界に近かった。悲痛な叫びを上げると白夜の肩を掴み必死になって揺さぶる。
「え………あ……ご、ごめん…。本当にどうしちゃたんだろう…。ごめんね…陸くん………。」
激怒したと思ったら申し訳なさそうに謝ったり、また急に問い詰めてきたり、まるで錯乱状態だ。
「ね…。白夜ちゃん。一体何があったのかな…。」
「あ………うん。私ね……。もう我慢できないかな。」
「我慢?」
「うん…。私ね…。陸くんのお嫁さんになる時誓ったんだよ…。陸くんを縛り付けるような事は止めよう。自由にのびのびと毎日過ごしてもらおう、って…。」
「わかってる。俺も毎日がすごく楽しいよ。」
「そう言ってもらうと嬉しいな。だって…白蛇って色々変な噂あるでしょ。好きな男は無理矢理捕まえて監禁するだの、他の女に目移りしない様に魔力で心まで縛り付けるだの、女と話しただけで嫉妬を爆発させるだのって。決してそんな子ばかりじゃないのに……。」
そんな子はいない。と断言する訳じゃないんだな…。思わず頭に浮かんだが、あえて黙っていた。白夜は本当に申し訳なさそうな様子で、口にするのがはばかられたからだ。
「だから私を選んでくれた陸くんに、所詮は白蛇だったなって思われない様にずっと頑張ってきたんだよ。」
「そうだったの…。」
「陸くんが私を見てにこにこ笑ってくれる。だからもっと頑張ろう。大らかで優しい奥さんでいよう。このまま仲の良い夫婦でいよう。そう思っていたんだけれど…でも、あなたは毎日よその女の匂いを付けてくる…。胸が締め付けられるようでずっと苦しかった。」
心より愛する妻の予想もしなかった告白だった。陸はただ黙って聞いていた。
「もうそれも限界…。これ以上そんな事には耐えられない。」
「だから待ってよ…。それは…」
「わかっているよ。あなたが浮気したりほかの女に手を出したりするような人じゃない、って事は私が一番良く分かっている。でも…無理なの。もうつらいの。毎日毎日心が不安で潰されそうなの…。」
「それで、俺を監禁しようとするの…。」
詰問する様な口調の陸をきっと見つめると、白夜は焦燥感溢れる声で叫んだ。
「そんな事したくない!あなたを閉じ込めたりつらい思いをさせたりだなんて…。そんな事したい訳無いよ!ずっと優しい奥さんでいたいよ!」
「だってさっきは…」
「うん…。そうだね。変な事言っちゃってごめんね…。だから…そんな事したくないから…これを受け取って欲しいな…。」
白夜は陸を抱きしめるかのように両手を差し伸べる。すると…そこにはたちまち青い光が現れ、炎にも似た揺らめきを見せた。光はどんどんと大きくなり、やがて暗澹とした青黒くうねる塊になった。
本能的に恐怖を覚えた陸は後ずさるとごくりと生唾を飲み込む。それを見た白夜は今にも泣きそうなほど顔を歪ませた
「だ、大丈夫だからっ!別に怖いものでも何でもないから!これは陸くんの心の一部を私に預けて欲しい…。私の事をずーっと忘れないで見ていてほしい…。そのためのものにすぎないから…。」
必死になる白夜を見る陸の眼差しは冷め切っていた。そうか…やっぱり白夜もか…と。
「これを受け入れてさえくれれば私は安心して良い奥さんでいられる。陸くんに今日みたいな不快な思いをさせないで済む。お願い陸くん…。私を助けて…。」
「白夜ちゃん……。俺が何も知らないでいると思っているの…。それって白蛇の炎だろ!」
哀願する様な切ない白夜の訴えを無視して陸は言い放った。
「男の心を支配して性奴隷にしてしまう恐ろしい魔法だろ?これって有名な話なんだよ。まさか君がこんな事しようとするなんて…がっかりだよ!」
白夜は必死になって否定する。何度も何度も頭を振る仕草が痛々しい。
「何言ってるの!違う…。違うから…。陸くんを…私の陸くんを奴隷なんかにする訳無いよお…。」
「あのね…。俺の知り合いも君の同族たちに魔力を入れられたんだよ。……確かにみんな幸せそうさ。いや…幸せなんだろう。でも、いつも恍惚としていて奥さんの事だけしか目に入っていないようなんだよ。こんな事で人としていいの?俺は認めたくないな!」
陸もうすうすは気づいていた。白夜だって白蛇なんだと…。心の中に重苦しいものが渦巻いているはずなんだと…。でも彼女だけは違う…ありえない。と見て見ぬふりをしていたのだ。
「で、でも大丈夫だよ!これはとっても気持ちいいし、陸くんを壊しちゃうような事は絶対にありえないから…」
「だったらそれを俺に入れればいいじゃん!そして奴隷でも召使いでも何でもすればいいんだよ!」
湧き上がる苛立ちを抑えきれずに陸は叫んだ。
「こんな君…。見たくなかったな」
「陸くん…。」
吐き捨てる様な陸の言葉を聞いた瞬間、白夜はがっくりと肩を落とすと崩れ落ちるかのように座り込んだ。
「嫌われちゃった…嫌われちゃった…嫌われちゃった…陸くんに嫌われちゃたよ……」
白夜は低い声で嗚咽を上げている。俯いた顔に白銀の髪が掛かり顔は見えない。陸は酷い事を言ってしまったと後悔したが、その思いを口にする事はできなかった。
「お願い…しばらく一人にしてくれないか。」
白夜から顔をそむけ部屋の外に出て行こうとした。そっとドアに手を掛ける。だが……開かない。おかしい…。鍵はかかっていないはずだ。ドアのノブを捻り何度もガタガタ揺するが、何かに固定されているかのように動かない。
こんなことが出来るのは白夜しかいない。陸が問い詰めようとしたその時…白く伸びるものが彼の胴体に絡みついた。突然の事に焦る陸を白い物体は半ば強引に引き寄せる。
「だめ…。ダメ、絶対…。絶対に…逃がさないっ!」
血の底から響く様な声に驚いた陸は、白い物体が引き寄せようとする先を見た。そこには当然のことながら白い蛇体を伸ばす白夜の姿があった。
だがその姿に陸は戦慄した。…白夜であって白夜では無かった。普段の彼女は大らかで温厚な気性を表すかのように優しい微笑みを浮かべていたものだ。しかし今日のこの眼差しは一体どうしたというのだろう…。
確かに笑ってはいた。だが何かを諦めたかのような切ない笑顔だ。どろりとした鈍い眼は鮮血の様な朱色に輝いていた。そのぎらりとした眼差しでじっと陸を捕えているのだ。
「陸くんはこのお部屋に監禁決定ですよ〜。どうせ嫌われちゃったんなら…何をしてもいいよねっ!」
場違いなほどの陽気な声ではしゃぐように宣言すると、蛇体で陸をぐるぐる巻きにしてぎゅっと抱きしめた。いつもはとても心安らぐ白夜の抱擁だが、今は何をしてくるか分からない恐怖におののくだけだった。
「白夜ちゃん…。」
「ふふふふっ…。陸くんが私の事が嫌いになっちゃっても…でも私はあなたが大好き。だから絶対にあきらめない…。あなたの心を無理やりへし折っててでも…私の事をまた好きにさせるから。」
「待ってくれよ!君の事が嫌いになったりなんて…」
「あら、怖くなったの?でも、今さらそんな言い訳聞かないよ…。」
しどろもどろになって弁明する陸の言葉を白夜は聞く耳持たなかった。そのまま暗い炎を燃やすような眼差しで彼を見つめていた。
だが、愛する夫が怯える様子を見て憐れんだのだろうか。悲しい表情を見せると絡みつけていた蛇体を解いた。
「もう…。仕方ないなあ。でも、あなたに誤解されるような事をしてしまった私が悪いよね………。はい!」
白夜は両腕を開いて陸を抱きしめる様な仕草をするとにっこりと笑った。いつもの心落ち着く素敵な笑みだ。
「ぎゅーってして仲直りしよう!それでこの話は終わり!」
あまり人には言わないのだが、陸と白夜は悪い事をしてしまったと思うと、そっと抱き合ってお互いに謝りあう。でもこんな恥ずかしいスキンシップでも不思議と不満とわだかまりは消え、ずっと仲良く過ごすことが出来たのだ。
今回は白夜の方から折れてくれたのだ。いつもの様にこのまま彼女の腕の中に飛び込んでごめんなさいしたかった。でも、結局その先は白蛇の炎を入れられて、無理やり「幸せ」にされてしまうだけではないのか。それと今まで散々困惑させられて、自分から謝る事には抵抗がある。
陸は心にある意地と不安がごっちゃになった思いを消せず、ただ睨むような目で白夜を見つめるだけだった。
白夜はしばらく両腕を広げて陸を迎え入れようとしていた。でも不信感を隠さない冷たい眼差しの陸を見て表情を曇らせる。
「ねっ…。陸くん。いつもみたいにしようよ…。ねえ………。お願い…………。」
白夜は泣きそうな表情で哀願していた。心からの願いだったのだろう。だが全く動かない陸を見つめているとそれも消え、徐々に暗鬱たる眼差しに戻って行った。
「そうなんだ………。陸くんは私とぎゅーってするのも嫌なんだ………。そっか。………………ふ〜ん。じゃあいい!」
苛立ちと怒りを隠さない白夜は逃がす間もなく陸を拘束した。蛇体が体を動かす余裕も無いほど念入りに絡みつく。
「私は陸くんと仲直りするまでずっとこうしている!ず う っ と ね …。」
冷酷に宣言すると絡みついた蛇体を徐々に締め付ける。いつもの優しく温かい蛇体の抱擁は心に安らぎをもたらしてくれた。だが、今回の締め付けは陸が経験したことが無いほどの強烈さだ。否応なしに恐怖が襲ってくる。
「ちょっと…。白夜ちゃん…。何を…」
「陸くんは魔物娘は人を殺しも傷つけもしない。って思っているんでしょ…。確かに殺しはしないけど……心を折る前に全身の骨をへし折ってから…永久に縛り付けてあげてもいいんだよ…。」
「…待ってよ!」
「和解案を蹴ったのは陸くんなんだよ…。そんな人の何を待てっていうのかな?」
意地悪くにやりと笑うとさらに締め付けを強める。陸は苦しくて言葉も発せられずに呻く。
「ぐ……。が……。」
「ほ〜ら。骨がみしみしいってるよお〜。いったいどうなるのかな…。」
苦しい…。もう…駄目だから…。陸は苦悶の表情で必死に訴えるが、白夜は酷薄な笑顔を張り付けているだけだ。
「……………………!」
耐えかねた陸が叫びを上げようとしたその時だった…。
白夜は不意に拘束を緩める。余裕が出来た陸は何度も息を吸い込むと、恐怖心溢れる眼差しで妻を見つめた。
「もう…。怖がりなんだから…。私が陸くんにそんなことする訳無いでしょ。無駄に強がるくせに本当は臆病なんだよね…。君は!」
露骨に嘲ると子供を慰める様に陸の頭を撫でた。普段当たり前のように行われる愛情表現だが、今は何とも言えず屈辱感を感じる。
「さ〜て…。陸くんをどういじめようかな…。言っときますけど私は君の事は何でも知っているんですからね。当然嫌いな事も怖がることも全て!」
恐怖と困惑を隠さない己の夫を見て白夜は笑った。伝説にいう人を食らっていた魔物とはこうだろうか。陸にそう思わせるほどの残酷な笑いだった。
あれから白夜はずっと陸の体に蛇体を巻き付けていた。先ほどのように苦しさはないが体の隙間もない程みっちりと絡みついている。密着した蛇体内の蒸し暑さは相当のものだ。
「ふふっ。り〜くく〜ん。よしよし。」
そして時折頭をなでなですると人を小馬鹿にした笑顔を見せる。これから一体何をされるのだろうか…。不安と焦りで溢れんばかりの陸を見るのが楽しいらしい。
だが、今ならまだ間に合う。これまでの付き合いで陸には確信があった。ちゃんと謝って白夜の魔力を受け入れれば…彼女は快く許してくれる。そして白蛇の炎を注がれても…けっして陸を絶望させる様なものではない事はわかっていた。先ほどは感情的になってしまったが、白夜が酷い事をするとは信じられない。
でも、それはわかっているが…どうにも気持ちが納得できなかった。言葉は悪いが拉致されるような真似をされて…突然キレられて監禁されて…こんな理不尽な仕打ちを受けて一体なんで謝らなければならない。だったらこのまま意地を通してやろう…。
いつまでも俺を従順で素直な弟とでも思っているのだろうが…そうはいかない!陸なりに悲壮に決意して事に臨んでいたのだ。
それにしても蒸し暑い。おまけにずっと緊張し続けだったので余計に喉が渇く。普段なら冷たい麦茶をすぐに用意してくれる白夜だが、今日はひたすら陸を締め上げている。一体どうしよう………。彼がそう思っている間にも喉の渇きは増すばかりだった。
無論こんな事を白夜に頼めば余計に責める口実を与えるばかりだ。しかたなしに黙って喉の渇きと延々と闘っていた。だがそんな陸を見咎めるかのように、以外にも白夜が助け舟を出してきた。
「陸くん…。喉、乾いているんでしょ。………もう!それなら早く行ってよ。」
「………………。」
無言で俯く陸を悪戯っぽく見つめると何故か胸をはだけた。熟れた桃の様な豊満な双丘が露わになると、彼女の甘い香りがふわりと漂ってくる。
「はい。どうぞ!たくさん飲んでね。陸くん!」
あまりに突然の事に胡乱な目つきで白夜を見つめたが、彼女は笑って胸を見せつけるだけだ。陸は何とか言葉を振り絞った。
「………………どういう事?」
「どうって…。喉乾いたんでしょ?だからおっぱいあげる。」
「おっぱいって………。赤ん坊もいないのになんでおっぱいなんか出るんだよ!ねえ。俺が喉乾いてるの知ってるんだろ?出もしないもの吸わせて俺が必死になるの見たいだけなんだろ?ふざけるなよっ!なあ…俺を苦しめたいのならそう言えよっ!!」
白夜の振る舞いは溜まりに溜まった陸の苛立ちを爆発させるのに十分だった。大声を上げて白夜を怒鳴りつける。実際彼女に対してここまで怒りをぶつける事など今までなかった。というか白夜に対して怒る事すら今までなかったと言っていい。
こうなったらもうおしまいだ。気を悪くした白夜になにをされてもいい…。自暴自棄の思いをぶつける陸を白夜は慌てて胸に抱いた。
「ああもう!落ち着きなさい陸くん!………ねえ。私が今まであなたに嘘ついた事あったかな?そんな事なかったよね?」
優しく抱きしめ気持ちを静める様に背中をぽんぽんと叩く。柔らかな胸の感触と大好きな甘い匂いが、いつしか陸の怒りを消していった。しばし白夜の胸の中に頭を埋めて憩う。
だがこうなると急に不安が襲い、顔を上げるとおずおずと白夜に問いかけた。
「だって……白夜ちゃん俺をいじめるって………。」
「ああその事…。ごめんね意地悪しちゃって…。でもあれはあなたが私にぎゅってしてくれなかったら……ついイラついちゃったの。私は陸くんをいじめたりなんかしないよ。」
言葉も無い陸を見て労わる様に微笑むと白夜は続ける。
「あのね、サバトって知ってるでしょ?そこでお薬調合してもらったの。子供がいない魔物夫婦が母乳プレイする時に使うお薬なんだけど…効果を強めたから半永久的におっぱい出る様になったんだよ。」
「そうだったの…。でもそもそもなんでおっぱいなんか…。」
「わからないかしら。だってあなたをあのホルスタウロスに取られるなんて…そんな事許せない…。だったら私が自分のお乳で陸くんに栄養を付けてあげればいいかなって。」
穏やかに、陸をなだめる様だった白夜の雰囲気が暗く鋭いものになって行く。それを察した彼はまたかと言いたそうに溜息を着いた。
「なんでそうなるの…。俺と彼女は何でもないって…。ただの同僚じゃないか。」
「大丈夫!もちろんそれはわかってるよ!だからこれは私の気持ちの問題なの…。陸くんには全て私のものだけを与えていたいの…。だから…さ、どうぞ。遠慮しないでたくさん飲んでね!」
白夜はにっこり笑うと自分の胸を陸の口元に持っていった。そしてさあ飲んでと何度も催促する
結局彼女は俺を徹底的に縛り付けたいだけなのか…。しかもその事に何の疑いも持たずに…。思わず陸は失望に近い思いを抱く。いけないと思いつつも先ほど消えた苛立ちが再び燃え上がってきてしまう。
「いらない。」
「え………。どうしちゃったの?陸くん。」
「そんなもの飲めない。」
「そんなものって……あ、大丈夫だよ!ちゃんと味見はしているし、栄養素もホルミルクに勝るとも劣らないって…」
「だからそんなキモいもの飲めるかって言ってるの!!」
吐き捨てる様な陸の言葉だった。白夜はしばらくその意味が呑み込めない様にきょとんとしていた。
だが、何を言われたのか理解すると、目を潤ませて唇をわななかせながら悲痛に訴えた。
「ねえ陸くん…。キモイなんて言葉は使わないで…。そんなこと言われると私も傷つくんだよ…。どうしちゃったの?陸くんさっきから酷いよ…。」
「ひどい?どうしちゃったの?それを言いたいのはこっちだよ!君こそ突然俺を部屋に監禁して挙句の果てにはおっぱい飲めだなんて…。俺を変態にでもしたいの?」
「なにいってるの!私はあなたと一緒に幸せになりたいだけ!心まで一つになって蕩けたいだけ!なんで。どうしてわかってくれないのよ…………」
白夜は嘆くように訴え続けている。もちろん陸もわかっていた。魔物の行動規範や倫理観が人間とは大きく異なる事には。特に好きになった男に対しては欲望が際限なく膨らむものらしい。でもその理解はあくまでも知識の上だけの事で、今回のように己の身でそれを実感した事はほとんど無かったのだ。
先ほど述べた様に白夜も白蛇としての欲望はひたすら抑えていた。よって陸にとって魔物は人に比べて少々エロい程度の存在だ、という認識しかなかったといってよい。
今回はあまりにも突然に自分の意識を変える事を迫られている。理屈では分かっていても気持ちがそれに追いついていないのだ。
つい頑なな思いを抑えきれずに、強張った表情で白夜を見つめてしまう。陸の反抗的な眼差しを受けて白夜も怒りをあらわにする。
「………陸くんが飲みたくないなら好きにすればいい!でもこれからはあなたが飲めるものは私のおっぱいだけだからね!乾いてカラカラな干物みたいになっても知らないよ!」
きっぱりと断言すると白夜はじっと陸を見つめる。また先ほどの様な人をいたぶる魔物の眼差しに戻っていた。
「別にいいんだよ…。私は陸くんが素直になってくれるのを待つだけだから…。いつまでも、ずっといつまでもね…。」
皮肉めいた口調で語りかけると蛇体の拘束が強まる。念入りにしっかりと絡みつき、陸は体も動かせない。そして…恐ろしい事に先ほどよりも明らかに蛇体の温度が上がっている。とうとう蒸し風呂の様な暑さになってしまった。
陸は汗をだらだら垂れ流しながら渇きにあえいでいる。つい苦悶を訴えるかのように白夜を見てしまうが、彼女はいやらしい微笑みを浮かべるだけだ。
良く考えれば白夜もずっと水分を取っていないはずなのに平然としている。やはり魔物娘の身体能力はインキュバスと言えども及ぶものでは無いか…。絶望的な思いを抱いた陸に白夜が労わる様な声をかけた。
「ね…陸くん。もう止めよう。そろそろ水分取らないと駄目だよ。あなたが体をこわすのは嫌だから……。これ以上強情張るのなら無理やり飲ましてあげるね。そうすれば陸くんのプライドも保てると思うから…。」
切ない笑みを見せると白夜は無理矢理頭を乳房に押し付けようとした。おいおい…無理やりおっぱいに吸い付かされ、強引に飲まされる方が余計プライドが傷つくだろう…だったら自分から飲んだ方がまだマシだ…。ていうか普通の飲み物を飲ますという選択肢は無いのか…。
様々な思いが交錯しながら陸は悩み続けたが、やがて不承不承にうなずいた。
「わかったから…。自分で飲むからそれはやめて…。」
「そう言ってくれて良かったよ…。さ、どうぞ…。」
ほっとしたような白夜は陸の頭を優しく乳房に近づけた。彼は豊満な胸に手をやると、恐る恐る綺麗なピンク色をした乳首に唇をつける…。
もちろん陸はおっぱいに顔を埋めたり、赤子に帰ったかのように乳首を吸い続けるのは大好きだった。白夜もそんな彼をいつも優しく愛撫してくれるのだ。だが今回は普段とはあまりにも状況が違う。
ぴんと立った乳首を口に咥える。いつもはそうするだけで心が落ち着くものだが、言いようのない不安が襲ってくる。そして本当にそっと…ちゅっと吸ってみた。
その途端、優しく甘い味が口いっぱいに広がった。不快な甘さでは無く爽やかながらもとても味わいがある。無性に癖になりそうな美味しさだ。何…これ…。驚いた陸は白夜の顔を見上げる。
「どう…美味しいかな?」
白夜は少し不安そうな眼差しだ。強気なことを言っていたが心配なのだろう。そんな彼女を安心させるかのように陸は何度もうなずいて見せる。
「本当?良かったぁ〜。」
安心した様に華やかに笑うと、陸の頭を優しく抱く。そして赤子に乳を与える様な体勢を取ると心地よい手つきで愛撫してくれた。あまりの心地よさに頭の中が蕩けそうになる。
「喉乾いちゃったでしょ…。好きなだけ飲んでね。」
陸はひたすら白夜の乳首を吸い続ける。甘い…。とっても美味しい…。不思議な事に口に注ぎ込まれる乳は適度に冷たい。それが余計に乾ききった喉を喜ばせる。
白夜の乳が美味しい。もっと飲みたい。それ以外の思いは頭から消え去りひたすら乳を飲み続ける。
だが、なぜだろう…。とっくに喉の渇きは癒えたはずなのにまだまだ足りない…。上目使いで見あげる陸に白夜は微笑みで答える。
「このお乳はインキュバスが必要な栄養素が全部含まれている優れものなんだよ〜。いっぱい飲んでね!じゃあ…次は反対側吸って欲しいな……。」
白夜は包み込むように陸の頭を抱えると反対側の乳首に咥えさせる。そっと愛撫して背中を優しくぽんぽんと叩く。見つめる眼差しは母親の様に慈愛深く、まるで自分の子供に乳を与える様な愛情の込め様だ。
陸もいつしかすっかり脱力してそっと身を委ねた。とても心地よく無意識のうちに甘えてしまう。赤ん坊のように乳を吸う姿を見た白夜は嬉しそうに蛇体で包み込んだ。
「本当に陸くん可愛いなぁ…。あ〜あ…。このまま私の子供にしちゃいたいよ…。ね。陸くん。サバトには幼児化薬もあるみたいだから…それを飲んで私の子供になっちゃおうか?」
「びゃくやちゃんの…こども?」
甘い陶酔感が頭に満ちており、もうまどろみに堕ちそうだ。
「そう…。私の子供。でももちろん陸くんは私の子供だけど旦那さんだからね。そういう関係も素敵だと思うけどなぁ…。」
陸が最後に見たのは白夜の優しい笑顔だった。天使の微笑みとはこういうものかな…。そんな事を思いながら意識が落ちて行った。
「ふぁ…………。」
「おはよう陸くん。お目覚めですか?」
目覚めた陸は相変わらず白夜の胸に抱かれていた。周囲から漂う甘い匂い。それが優しくまとわりついて相変わらず心がとろけそうだ。緩みきった顔の陸を見て白夜はそっと笑う。
「ん…………。おはよう。」
つられて陸も笑おうとした時だった…。不意に強烈な衝動が襲う。それは下半身を切なく責めたて…精を出したくて出したくてたまらなくなる。
いつしか疼きは全身に回り、頭の中は目の前にいる白夜に種付けしたい以外の事は考えられなくなった。
「ま…って…白夜ちゃ…ん…。これっ…て一体…。」
「あ、ようやく効いてきたようだね。」
荒い息をつく陸を見た白夜は、やっと始まったのかと言いたそうな朗らかな笑顔を見せた。陸は今すぐ襲い掛かりたい衝動を必死に抑えて問いかける。
「よう…やく…ってまさか…。さっき…飲んだ…。」
「はい。大あたりです〜。あのお乳なんだけど…あれにはねぇ、あなたの事をずうっと想って練りに練り上げた私の魔力てんこ盛りだったんだよぉ。」
「魔…力って…まさか。」
異常に陽気な白夜を見て嫌な予感が心を襲う。そして嫌な予感というものは良い予感に比べて往々にして当たるものなのだ。
「もちろん!」
堂々と言い放った白夜は手をかざす。そこには青白い魔力が現れると炎のようにゆらゆらとした輝きを見せた。
「この白蛇の炎、これとほとんど同じ効果を発揮するものなんだよねぇ…。」
「ひどい……ひどいよ白夜ちゃん!勝手に魔力なんか入れてっ!!そんなに俺を奴隷にしたいのかよっ!!」
愕然としたが怒りが魔力の呪縛から一瞬解き放った。陸は渾身の思いを込めて絶叫する。
「だからそんな事はしないって言ってるでしょ…。大丈夫!あなたの事は絶対に幸せにするから…。何にも心配しないで私に任せてくれればいいんだよ!…さ、それよりも体がつらいでしょ。一緒に嫌な事は忘れて楽しみましょう。」
諭すように語り終えると白夜は蛇体を解いて仰向けに寝た。そして、さあいらっしゃいとばかりに両手を広げて陸を迎え入れようとしている。本当に素敵な笑顔だ。これから己の思いが叶う事を喜んでいるのだろう。陸の都合などどうでもいいのだろう。
ひどい…独善的すぎる…あまりにも身勝手だ…。強烈すぎる情欲の中、絶望とも怒りともつかない思いが陸の心に渦巻く。
好いた男は絶対に逃がさない…。たとえどんな手を使っても…。白夜は言外にそう言っているのだろう。もちろん魔物娘の行動原理からすれば全く間違ってはいない。だがそんな姿に陸は初めて接したと言っても良い。手酷い裏切りとしか思えなかった。
糞っ……。あの優しくて大らかな白夜が何でこうなったんだ……。
なんでだよ…
なんでだよ…
なんでなんだよ!
抑えきれない陸の怒りが心を塗りつぶそうとしていた獣欲に打ち勝った。
「ねえ白夜ちゃん…。しばらく……離れて暮らさないか?」
「……………………………………………………………え?」
15/09/26 02:27更新 / 近藤無内
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