第5章 「友達」として…… 2
「佑人さん。お待たせしました。」
「ありがとう。すごいね。美味しそう…。」
俺は早速有妃の手料理を頬張る。母親以外の女性の手料理を頂くなんていつ以来の事だろう。普段はあまり食べない魚と野菜中心の献立だが、それと炊き立てのご飯に豆腐と油揚げの味噌汁。どれもとっても味わい深い。レトルトやインスタントの刺々しい味に慣れ切っていた俺は、その新鮮な美味しさに夢中になる。つい美味しい…と声が漏れてしまうのが抑えきれない。
誰にも邪魔されない自由で独りで静かな食事。今まではそれが当たり前だったし、それで良いと思っていた。でも、誰かと一緒の、それも好意を持っている人と一緒の食事もなかなか良いものだ。料理を口に運びながら思う。有妃は優しい眼差しで俺を見守っていてくれている。なぜだろう。彼女がいる空間がすごく居心地が良くて穏やかな気持ちになれる。
いつもなら知り合って間もない人とは気楽に打ち解けることは難しい。たとえどんなに好意を持っている相手でも気疲れしてぎこちなくなってしまう。だが、なぜか有妃とは一緒にいる安心感とくつろぎの方が大きい。もしかして魔物娘が持っている魔力によるものか?だとするなら、随分とご都合主義な魔法もあったものだと皮肉な思いになる。
それにしてもこの味噌汁はしっかりとだしをとってあって本当に美味しい。もっと食べたいけれど…おかわりを求めるのも意地汚いか…。そう思った俺の気持ちを見越したように有妃が話しかけてくる。
「佑人さん。おかわりまだありますよ。」
「……ううん。大丈夫。ごちそうさま。」
仕方ないなあ。とでも言いたそうな顔をすると、穏やかな口調で勧めてくる有妃。
「佑人さんの顔はまだ食べたいって言っていますよ。無理にとは言いませんが、遠慮はしないで下さい。ね。お願いします。」
有妃はそう言ってにっこりと笑う。とても愛情と母性に溢れる笑顔だ。何も遠慮なんかする必要は無いと確信させるような、そんな素敵な表情を見ていると俺も喜んでお代りを求めてしまった。
「ありがとう。それじゃあお願いします…。とっても美味しかったから、つい…。」
「ふふっ。嬉しいです。そう言ってもらって作り甲斐がありますよ〜。さ、たくさん食べて下さいね。」
母親の様に優しく見守る有妃を感じている。体だけでなく心もとても暖かい。いつしか気兼ねや遠慮といった思いから解き放たれ、夢中になって料理を頬張り続けた…
「ごちそうさま。とっても美味しかったよ。こんなに美味しい料理は久しぶりだよ。本当にありがとう。」
俺は心からの感謝をこめてそう言った。こんなおいしい食事を毎日食べる事ができればどれほど素晴らしい事だろう。有妃も嬉しそうにはにかむと下を向いてもじもじする。その仕草がなんとも可愛らしい。
「いいえ。そんな…。お粗末さまでした。でも、佑人さんはご両親の所でご飯は食べられないんですか?」
「うーん…。実家まで車で30分以上かかるんだよね…。飯のためだけに行くのは少々面倒かな。」
有妃はそうですかとつぶやくと少し考え込んでいた。そして温かさの中に何かを決意した様な眼差しで優しく微笑む。
「今日は急だったのでこの程度で申し訳なかったですけど、明日はもっとしっかりとしたものを作りますね!何かご希望のメニューとかあれば期待に答えちゃいますよ〜。」
思わぬ言葉を聞いた俺は慌てる。
「そんな!いくらなんでもそれは悪いって…。気持ちだけ有難く頂きます。」
「ふふっ。そんな遠慮はしないで下さいね。これは私がしたくてする事なんですから。」
「でも……」
俺が言葉を発しようとしたその瞬間、有妃はぐっと顔を近づけてきた。今まで優しく暖かだった眼差しが急激に暗く悲しいものに変化していく。先ほど不健康な食生活を叱ってくれた時とは違って妙に怖さを感じる。そうだ…。これは…初めて彼女に会った時、ずっと私だけを見ていてほしいと言われて驚いた時の眼差しに近い。
「あの…本当は私の料理は…美味しくなかったんですか…?それとも…もう来るなとおっしゃりたいんですか……。もしそうなら私は…」
そう言うと今にも泣きそうな顔になった。予期せぬ反応に慌ててしまう。迷惑を掛けたくなかっただけなのになんで…。俺は大急ぎで否定してなだめようとする。
「待ってくれよ!違うって!そんな事は絶対にありえないよ。毎日食べたいし、有妃ちゃんが来てくれれば嬉しいに決まってるよ…。けれど毎日迷惑をかけるわけにはいかないよ。君の負担になる様な事はさせたくないんだ…。」
「それは本当ですか…。」
「当たり前じゃないか。」
俺の心を見抜くようにじっと見つめていたが、有妃はふと安堵したように穏やかな表情になった。
「佑人さんは気を遣ってくれたんですよね。それなのにごめんなさい。私ったら…。」
先ほどの自分の反応を恥じる様に顔を赤らめるとなおも言葉を続ける。
「でも何度も言っていますけれど、そんな遠慮は無用なんですよ。私は毎日のんびり暮らしているので時間は余っているんです。はっきり言えば暇人なので、全然負担なんかじゃありません。それに、私も一人でご飯を食べる事が多いので、佑人さんと一緒だととても楽しいんですよ。」
有妃はそっと身を寄せると手を取って優しく握りしめる。思わず彼女を見つめるとうるんだ目で切なそうな笑顔を見せた。もう…。何度思ったか分からないけれど、こんな笑顔は反則だ。見ているこちらの心がきゅんとしてつらくなってしまう。
「それとこれは私が佑人さんにお願いしているんです。美味しいって言ってくれる佑人さんに料理を作る事はすごく喜ばしい事なんです。ですからお願いします。私の作ったご飯を毎日食べて頂けますか……?」
心に訴えかける様な暖かくも切ない声。相変らず情緒あふれる眼差しだ。そんな有妃の姿にもう我慢できなかった。俺も彼女の手を握り返すとそっと頭を下げる。
「ありがとう…。こちらからもお願いします。」
「本当ですか?佑人さん……。嬉しいです〜!!」
有妃は今までとは一転してぱあっと華やかな笑顔を見せると、突然俺に抱き着いてきた。そっと頭を抱きしめ、滑らかな鱗を持つ蛇体を優しく体に巻き付ける。穏やかな圧迫感がなんとも言えず心地よい。顔に触れる髪の甘い匂いと柔らかな頬も、ぞくぞくするような感触をもたらした。思わずうっとりとして身を任せたが、有妃は何かに気が付いたように俺に問いかける。
「ごめんなさい!いつもいつも抱き着いてしまって…。不快でしたか…?私って嬉しくなるとついこうしちゃうんです…。」
そう言うと蛇体を解こうとした。体にもたらされていた暖かで甘い心地よさが離れようとしていく…。それがとっても寂しくて慌てて引き止める。
「待って!!お願い…。このままでいて欲しい…。」
「本当に!?」
「うん…。有妃ちゃんにこうしてもらっていると、すごく落ち着くし穏やかな気持ちになれるんだ。だから…お願い。」
我ながらなんて恥ずかしい事を頼んでしまったんだろう、と思ったが、有妃はますます嬉しそうに抱き着いてきた。心なしか声も弾んでいる様だ。蛇体がますますしっかりと巻き付き、痛みや苦しさこそないが結構な圧迫感を覚える。それがまたなんとも心地よいのだが…。
「それは本当に?あの…私ってこの体ですよね…。みなさんまだ驚かれる方も多いようで、結構引かれる事もあるんですよ。それなのに佑人さんは……!やっぱり私が見込んだ方だけの事はありますっ!!」
今までずっと魔物娘モノの作品を、当然ラミア属の物も多数観てきた。彼女達にロールミーされる事を数えきれないほど妄想してきた身だ。だが…せっかく喜んでくれている有妃にそんなことを言うのも申し訳ない。ただ黙って身を任せる。
本当に心地よい。温かく、適度な圧迫感の蛇体と、心に落ち着きと切なさを同時にもたらす様な甘く優しい匂い。なんとも例えようもない恍惚感に堕ちて行った。俺は両手を蛇体から抜くとたまらず抱きしめ返す。そんな姿を見て有妃は悪戯っぽくまあっ、とつぶやく。
「ふふっ。よく考えればこの前もそうでしたよねえ…。私がぎゅってしてあげたら佑人さんすっかりめろめろになっちゃって。本当に甘えんぼさんです……。」
わざわざ俺の耳元で熱い息を吹きかけながら有妃は囁く。それが背中がぞくぞくするような快楽をもたらし、思わず鳥肌が立ってしまう。
「あらあら…。すっかり興奮しちゃって。甘えんぼさんのうえに悪い子です…。こんな事では私も気を遣う事なんか無かったですねえ。いけない佑人さんはもっとぎゅーーーってしてあげます…。」
声に若干意地悪な調子を込めた有妃だが、やっとからかいがいのある獲物を見つけたと言わんばかりの悪戯っぽい表情をしている。初めて見る彼女の一面に驚くと同時にますます興奮してくる。彼女は俺を抱きしめたまま横になると蛇体の拘束を強めた。そして指先で優しく顔を撫でさすると同時に耳元で囁いた。
「どうしたんですか?怯えちゃいましたか?もう…いやですよ。佑人さんを困らせる様な事をする訳ないじゃないですか……。何にも心配しないで気持ち良くなって下さいね…。」
心の揺れを察したのか、先ほど見せた母親の様な慈愛深い笑顔を見せる有妃。そしてまた俺の頭を抱くと何度も撫でる。今度は頭だけでなく顔までも指先でつーっと撫でてきた。 繊細で温かな手つきと、耳元で囁かれる熱い吐息、そして体を包む心地よい蛇体…。本当なら有妃に襲いかかってもおかしくないぐらいの興奮状態だ。
だが仕事帰りで夕飯後の心地よい疲労感からか、睡魔の方が先にやってきた。何度も襲ってくる穏やかでとろんとした眠気には到底耐えきれなかった。
「ごめん…。もうこれ以上されると寝ちゃうから…。」
もうたまらず有妃に哀願した。彼女は残念そうな表情をさっと見せたが、たちどころにそれは消え元の温和な笑顔に戻った。
「ん〜。そこは言う事が違うんじゃないかと思うんですが…。いえ。何でもないです。いいんですよ!気にしないで寝ちゃってくださいね。私がずっとこうしていてあげますから…。」
「でも…。」
「もう…。遠慮はダメって言いましたよね。佑人さんの心のままにして下さい。」
幼児をあやすように有妃は俺の背中をぽんぽんと叩き続ける。さらに蛇体も受けとめる様に優しくもしっかりと絡みつく。彼女のお休みなさいと言う声を聞いたのを最後に、俺はいつ以来とも知れない穏やかな眠りに落ちて行った…
意識が眠りの底からそろそろと戻り始める。俺は何をしていたんだろう…?一瞬自分がどのような状況だったか理解できなかったが、温かく包み込む蛇体を見てすぐに思いだした。そうだ。有妃に優しく抱きしめられて熟睡してしまったんだ…。
思わず彼女の方を見ると、すべてを受け入れる様な思いやり溢れる微笑みを見せている。見ているだけで心が安らぐような笑顔に、俺も知らぬ間に笑顔を返してしまった。
「ふふっ。おはようございます。佑人さん。お目覚めですか?」
「うん…。ありがとう…。こんな事までしてもらって。すごく良く寝られたよ。」
「いいえ〜。佑人さんに心地良くなってもらって何よりですよ。本当に良かったです。私で良かったら毎日抱っこして寝かしつけてあげますからねっ!」
良かった。有妃も心から嬉しそうにしている様だ。でも…さすがに毎日抱っこして寝かしつけるは恥ずかしい…。顔を赤らめた俺を見て、なんて良い反応をするんだろう、と言わんばかりに戯れた表情をした彼女は、またしても頭を抱きしめる。
「本当に遠慮しないでいいんですよ。私も佑人さんをぎゅって抱きしめると、とっても良い気持ちなんです…。こんな素敵な気分になるなんて思いもしなかったです。だから、ね…。」
「ん……………。」
奥にじっとりとした情欲を秘めた様な有妃の瞳だ。なにが望みなのかは鈍い俺でも良く分かる。鈍い光を帯びる朱色の目をただ見つめる。ああ…。もしかして今日こそ有妃の『もの』になるのか…。そう思った瞬間だった。
「あ、ごめんなさい…。もう10時過ぎですね。こんな遅くまで長居してしまって。佑人さんの明日の仕事に差し支えますね。」
そう言うと絡みついた蛇体をするりと解いた。えっ…。なんで…。またなの…。俺にとっては本当に思わぬことだった…。初めて有妃と会った時と同じく俺は呆然とする。
「えっと…。うん……。そうだね………。」
「ああ、そうです。すっかり忘れていました。明日の献立のリクエストはありますか?何でも好きなものを言ってくださいね。」
急に先ほどの話題を持ち出してきたが、突然の事で頭が回らない。俺は半ば無意識で答えるしかなかった。
「ああ…。ええと…お任せで。」
「むーっ。それはダメですよっ!ちゃんと言ってください。」
「いや。でも。有妃ちゃんの料理は凄く美味しかったから…。きっと何でも美味しいんだろうな、って思って…。」
いいかげんに答えを返した俺を非難するように有妃は見つめる。冗談っぽく言っていたが内心は面白くないのかもしれない。慌てて俺は言い訳するが、別に嘘では無く本心なので問題ないだろう。
「もう。そんなことを言われたのでは何も言えませんよ…。わかりました。お任せください!腕によりをかけてご馳走しますからねっ!」
有妃は嬉しそうに胸を張るとぽんと叩いた。そんな可愛い仕草になんかもうどうでも良くなってきてしまった…
その後俺は駐車場まで有妃を見送った。彼女は見かけによらぬごついミニバンに乗っていて意外だったが、これは車内で蛇体を休めるのに必要なのだろう。
当然今は人化の術を使い二本の足で歩いている。すらりとしながらも程よい肉付きの足が、ミニスカートから伸びておりなんとも艶めかしい。まあでも、足の事に触れて有妃を傷つけたくは無い。この事は暫く黙っていよう…。
いや、魔物娘に性に関しての隠し事が出来ない事は思い知っている。でも、言葉に出して言わないだけでも当然の思いやりだと思う。
そんな内心の葛藤を知ってか知らずか有妃は薄くわらった。そして俺を弄ぶ様に問いかけてくる。
「ふふっ。佑人さんはミニスカが好きそうですねえ〜。私の『足』はどうですか?お気に召しましたか?今度パンストとか『足』にはいて見せましょうか?
こういうパンストの『足』とか好きな男の方も居るんですよね?佑人さんもそう言った『足』好きのフェチ趣味でもあるんですか?」
有妃は露骨に『足』を強調し続けると、嬲る様なにやにやした笑みを浮かべた。しまった…。覚悟はしていたがバレバレだったか…。これはもう詫びるしかないだろう。俺は素直に頭をさげた。
「ごめん…。気分悪くしたなら本当に申し訳ない。でも有妃ちゃんを…」
最後まで言葉を待たずに、有妃は人差し指を立てて俺の唇に当てる。そしていいんですよと小さく言うとかぶりを振った。嘲弄するかのような笑いはすっかり消えて、穏やかで情け深い笑顔に戻っている。
「私の方こそごめんなさい…。つい佑人さんをからかいたくなってしまったんです。あなたのお心は良く分かっているつもりですので、何も気にしないで下さい。
あと、それと佑人さんが求めるのなら私は喜んで足をご覧にいれますからね。」
慰めるかのような優しい声と眼差しの有妃は両手で俺の顔を挟み込んだ。じんわりと温かい手に思わずほっとするが、なおも続けて語り続ける。
「本当に佑人さんは素直な方なんですね…。素直で、優しくて、不器用で…。私がずっとお守りしなければならないようです。そうでなければいつか壊れてしまいそうで…。
でも、私はそんなお方が本当に大好きなんですよ……。私のものにしてずっと可愛がりたいんです……。ね。佑人さん……。」
魅惑的で甘い言葉が包み込む。いつしかぽーっとして聞いていたが、それが何か良く分かっていなかった。彼女はいったい何を言っているのだろう…。どういう事なんだろう…。俺がそんな恍惚状態にあった中、有妃は頬からそっと手を離した。
「今日はありがとうございました。また明日来ますからね。それでは佑人さん。お休みなさい…。」
「お休みなさい…。有妃ちゃん………。」
有妃の車の音が遠ざかった後も俺は暫く呆然としていた…。
それからしばらく後はずっとこんな関係だった。有妃が俺の家に来て夕飯を作ってくれて二人で一緒に食べる。そして知らぬ間に彼女に抱きしめられていて、温かな蛇体に包み込まれる。甘く優しい拘束を受けて俺はただうっとりとしているのだ。
毎日作ってくれる温かく美味しいご飯。とても温かで、柔らかく、心地よい蛇体…。穏やかだが心が切なくなるような有妃の甘い匂い…。時々は弄ぶような有妃の熱い囁き声…。もちろん心優しく思いやり深い有妃の人柄が一番の魅力なのは言うまでもないが、彼女といつも接していると、俺の心にも変化が生じてきた。
今までは静かで平穏に生きてきたとはいっても、心の底では様々な思いが渦巻いていた。惨めな自分自身への苛立ち。将来への不安や焦燥感等、様々な思い煩いからは全く逃れられなかった。
それが有妃と一緒に居ると全てから解き放たれるのだ。ただ彼女が与えてくれる恍惚感に身を任せていればいい。きっと有妃なら俺の全てを受け入れてくれる。何があっても側に居てくれるという信頼感は、たとえようも無く心強かった。こんな安らぎを毎日与えられるのだ。拒めるほど俺は強い人間ではない。いつしか有妃が居なくては生きて行けない体になっていた…。
そして、彼女に家の鍵を預けるようになり、俺自身も有妃の家に頻繁に出入りするようになった。今までリア充のものだと嫉妬と軽蔑の念で見ていた場所にも、二人で行くようになった。本当ならば十分恋人同士の関係だ。
だが…そこまでの仲になってもなぜか有妃は襲ってこようとはしなかった。これはもしかして俺の事を恋人とは思っていないのか?
でも、ラミア属にとって男をぐるぐる巻きにすることは愛情表現と聞いている。有妃は俺の事をいつも蛇体で包み込んでくれるので、少なくとも好意は持ってくれているのだろう。いや。そうあって欲しい…。
だったらなぜ……?そうか……。もしかしたら有妃は俺の事を駄目な弟とでも思っているのかもしれない。可哀そうな弟分を守ってやろうとする、憐れみが主体の愛情なのだろうか。でも、もしそうであってもそれならばそれでよい。有妃とずっと一緒に居ることが出来るのなら、変に動いて穏やかな関係を壊したくは無かった。
だがそうは言っても、彼女への思いが抑えきれなくなる時もあった。ある日いつもの様に、有妃に優しく抱きしめられていた時の事だ。俺はとうとう我慢できなくなり彼女を真っ直ぐに見つめた。恐らく相当切なくつらい顔をしていただろう。
「ん〜?どうしました佑人さん?何か困りごとでもあるんですか?何でも言ってくださいね。私はあなたの味方なんですから…。」
有妃は安心させるかのように力強くうなずくと素敵に笑ってくれた。よし。やるしかない…。俺は有妃の頬に口づけすると、思いっきり情愛を込めた眼差しで見つめた。彼女はしばらくきょとんとした風だった。しかしすぐにくすくすと笑いだした。
「もう…。佑人さんはいたずらっ子ですねえ…。急にこんな事をしちゃダメですよ〜。」
そう言って頭を抱きしめるといつもの様に優しくなで続けたのだ。
ああ…。これはもう駄目だ。ここまでして反応が無いのでは、やっぱり恋人として見られてはいないんだ…。一瞬軽い絶望感に襲われたが、優しくなで続ける手の心地よさにそれも消えた。
でも、魔物との付き合いでこんなに思い悩むなんて想像できなかった。魔物は恋愛において心理的な駆け引きをせず、己の欲望に正直なんだろうと思っていた。だが、それは俺の考えが至らなかっただけなのだろう。
まさかここまで駆け引きを強いられるとは思いも寄らなかった。無論、普通の男ならこの程度はどうってことないのだろう。だが、悲しいかな。俺の女性経験の無さでは、この程度でも極めて高い障壁に思えるのだ。
そんな訳で心安らぎながらも悶々とした日々を送っていたが、ある日ふと思い出した。刑部狸の咲さんの言葉だ。困ったらぎゅっと抱きしめて君が好きだと叫べばいい、と。
頭の悪い俺ではもう万策尽きた。こうなったら咲さんの言う通りにするしかない。その結果有妃との仲が終わる事になってもその時はその時だ…。だが、本当に有妃が居ない生活に耐えられるのか?今となっては到底無理だろう。それならば今まで通りに、姉と弟の様な優しい関係を続けていた方が良いのではないか…。
なおもしばらくは悩み続けた。普段は些細な事まで気遣ってくれる有妃も何も言ってくれない。でも…。正直に言えば今のままの関係では納得できない。もっと深い仲になりたい。肉体関係がどうという以上に心からのつながりが欲しい……。
そんな折、有妃が家に招いてくれた。出会って数か月目の月記念日を祝いたいそうだが、言うならこの機会しかなかった。もう我慢できなかった。思いを偽った関係を続けるのなら散る事になっても構わない……。潔く覚悟を決めよう……。
「ありがとう。すごいね。美味しそう…。」
俺は早速有妃の手料理を頬張る。母親以外の女性の手料理を頂くなんていつ以来の事だろう。普段はあまり食べない魚と野菜中心の献立だが、それと炊き立てのご飯に豆腐と油揚げの味噌汁。どれもとっても味わい深い。レトルトやインスタントの刺々しい味に慣れ切っていた俺は、その新鮮な美味しさに夢中になる。つい美味しい…と声が漏れてしまうのが抑えきれない。
誰にも邪魔されない自由で独りで静かな食事。今まではそれが当たり前だったし、それで良いと思っていた。でも、誰かと一緒の、それも好意を持っている人と一緒の食事もなかなか良いものだ。料理を口に運びながら思う。有妃は優しい眼差しで俺を見守っていてくれている。なぜだろう。彼女がいる空間がすごく居心地が良くて穏やかな気持ちになれる。
いつもなら知り合って間もない人とは気楽に打ち解けることは難しい。たとえどんなに好意を持っている相手でも気疲れしてぎこちなくなってしまう。だが、なぜか有妃とは一緒にいる安心感とくつろぎの方が大きい。もしかして魔物娘が持っている魔力によるものか?だとするなら、随分とご都合主義な魔法もあったものだと皮肉な思いになる。
それにしてもこの味噌汁はしっかりとだしをとってあって本当に美味しい。もっと食べたいけれど…おかわりを求めるのも意地汚いか…。そう思った俺の気持ちを見越したように有妃が話しかけてくる。
「佑人さん。おかわりまだありますよ。」
「……ううん。大丈夫。ごちそうさま。」
仕方ないなあ。とでも言いたそうな顔をすると、穏やかな口調で勧めてくる有妃。
「佑人さんの顔はまだ食べたいって言っていますよ。無理にとは言いませんが、遠慮はしないで下さい。ね。お願いします。」
有妃はそう言ってにっこりと笑う。とても愛情と母性に溢れる笑顔だ。何も遠慮なんかする必要は無いと確信させるような、そんな素敵な表情を見ていると俺も喜んでお代りを求めてしまった。
「ありがとう。それじゃあお願いします…。とっても美味しかったから、つい…。」
「ふふっ。嬉しいです。そう言ってもらって作り甲斐がありますよ〜。さ、たくさん食べて下さいね。」
母親の様に優しく見守る有妃を感じている。体だけでなく心もとても暖かい。いつしか気兼ねや遠慮といった思いから解き放たれ、夢中になって料理を頬張り続けた…
「ごちそうさま。とっても美味しかったよ。こんなに美味しい料理は久しぶりだよ。本当にありがとう。」
俺は心からの感謝をこめてそう言った。こんなおいしい食事を毎日食べる事ができればどれほど素晴らしい事だろう。有妃も嬉しそうにはにかむと下を向いてもじもじする。その仕草がなんとも可愛らしい。
「いいえ。そんな…。お粗末さまでした。でも、佑人さんはご両親の所でご飯は食べられないんですか?」
「うーん…。実家まで車で30分以上かかるんだよね…。飯のためだけに行くのは少々面倒かな。」
有妃はそうですかとつぶやくと少し考え込んでいた。そして温かさの中に何かを決意した様な眼差しで優しく微笑む。
「今日は急だったのでこの程度で申し訳なかったですけど、明日はもっとしっかりとしたものを作りますね!何かご希望のメニューとかあれば期待に答えちゃいますよ〜。」
思わぬ言葉を聞いた俺は慌てる。
「そんな!いくらなんでもそれは悪いって…。気持ちだけ有難く頂きます。」
「ふふっ。そんな遠慮はしないで下さいね。これは私がしたくてする事なんですから。」
「でも……」
俺が言葉を発しようとしたその瞬間、有妃はぐっと顔を近づけてきた。今まで優しく暖かだった眼差しが急激に暗く悲しいものに変化していく。先ほど不健康な食生活を叱ってくれた時とは違って妙に怖さを感じる。そうだ…。これは…初めて彼女に会った時、ずっと私だけを見ていてほしいと言われて驚いた時の眼差しに近い。
「あの…本当は私の料理は…美味しくなかったんですか…?それとも…もう来るなとおっしゃりたいんですか……。もしそうなら私は…」
そう言うと今にも泣きそうな顔になった。予期せぬ反応に慌ててしまう。迷惑を掛けたくなかっただけなのになんで…。俺は大急ぎで否定してなだめようとする。
「待ってくれよ!違うって!そんな事は絶対にありえないよ。毎日食べたいし、有妃ちゃんが来てくれれば嬉しいに決まってるよ…。けれど毎日迷惑をかけるわけにはいかないよ。君の負担になる様な事はさせたくないんだ…。」
「それは本当ですか…。」
「当たり前じゃないか。」
俺の心を見抜くようにじっと見つめていたが、有妃はふと安堵したように穏やかな表情になった。
「佑人さんは気を遣ってくれたんですよね。それなのにごめんなさい。私ったら…。」
先ほどの自分の反応を恥じる様に顔を赤らめるとなおも言葉を続ける。
「でも何度も言っていますけれど、そんな遠慮は無用なんですよ。私は毎日のんびり暮らしているので時間は余っているんです。はっきり言えば暇人なので、全然負担なんかじゃありません。それに、私も一人でご飯を食べる事が多いので、佑人さんと一緒だととても楽しいんですよ。」
有妃はそっと身を寄せると手を取って優しく握りしめる。思わず彼女を見つめるとうるんだ目で切なそうな笑顔を見せた。もう…。何度思ったか分からないけれど、こんな笑顔は反則だ。見ているこちらの心がきゅんとしてつらくなってしまう。
「それとこれは私が佑人さんにお願いしているんです。美味しいって言ってくれる佑人さんに料理を作る事はすごく喜ばしい事なんです。ですからお願いします。私の作ったご飯を毎日食べて頂けますか……?」
心に訴えかける様な暖かくも切ない声。相変らず情緒あふれる眼差しだ。そんな有妃の姿にもう我慢できなかった。俺も彼女の手を握り返すとそっと頭を下げる。
「ありがとう…。こちらからもお願いします。」
「本当ですか?佑人さん……。嬉しいです〜!!」
有妃は今までとは一転してぱあっと華やかな笑顔を見せると、突然俺に抱き着いてきた。そっと頭を抱きしめ、滑らかな鱗を持つ蛇体を優しく体に巻き付ける。穏やかな圧迫感がなんとも言えず心地よい。顔に触れる髪の甘い匂いと柔らかな頬も、ぞくぞくするような感触をもたらした。思わずうっとりとして身を任せたが、有妃は何かに気が付いたように俺に問いかける。
「ごめんなさい!いつもいつも抱き着いてしまって…。不快でしたか…?私って嬉しくなるとついこうしちゃうんです…。」
そう言うと蛇体を解こうとした。体にもたらされていた暖かで甘い心地よさが離れようとしていく…。それがとっても寂しくて慌てて引き止める。
「待って!!お願い…。このままでいて欲しい…。」
「本当に!?」
「うん…。有妃ちゃんにこうしてもらっていると、すごく落ち着くし穏やかな気持ちになれるんだ。だから…お願い。」
我ながらなんて恥ずかしい事を頼んでしまったんだろう、と思ったが、有妃はますます嬉しそうに抱き着いてきた。心なしか声も弾んでいる様だ。蛇体がますますしっかりと巻き付き、痛みや苦しさこそないが結構な圧迫感を覚える。それがまたなんとも心地よいのだが…。
「それは本当に?あの…私ってこの体ですよね…。みなさんまだ驚かれる方も多いようで、結構引かれる事もあるんですよ。それなのに佑人さんは……!やっぱり私が見込んだ方だけの事はありますっ!!」
今までずっと魔物娘モノの作品を、当然ラミア属の物も多数観てきた。彼女達にロールミーされる事を数えきれないほど妄想してきた身だ。だが…せっかく喜んでくれている有妃にそんなことを言うのも申し訳ない。ただ黙って身を任せる。
本当に心地よい。温かく、適度な圧迫感の蛇体と、心に落ち着きと切なさを同時にもたらす様な甘く優しい匂い。なんとも例えようもない恍惚感に堕ちて行った。俺は両手を蛇体から抜くとたまらず抱きしめ返す。そんな姿を見て有妃は悪戯っぽくまあっ、とつぶやく。
「ふふっ。よく考えればこの前もそうでしたよねえ…。私がぎゅってしてあげたら佑人さんすっかりめろめろになっちゃって。本当に甘えんぼさんです……。」
わざわざ俺の耳元で熱い息を吹きかけながら有妃は囁く。それが背中がぞくぞくするような快楽をもたらし、思わず鳥肌が立ってしまう。
「あらあら…。すっかり興奮しちゃって。甘えんぼさんのうえに悪い子です…。こんな事では私も気を遣う事なんか無かったですねえ。いけない佑人さんはもっとぎゅーーーってしてあげます…。」
声に若干意地悪な調子を込めた有妃だが、やっとからかいがいのある獲物を見つけたと言わんばかりの悪戯っぽい表情をしている。初めて見る彼女の一面に驚くと同時にますます興奮してくる。彼女は俺を抱きしめたまま横になると蛇体の拘束を強めた。そして指先で優しく顔を撫でさすると同時に耳元で囁いた。
「どうしたんですか?怯えちゃいましたか?もう…いやですよ。佑人さんを困らせる様な事をする訳ないじゃないですか……。何にも心配しないで気持ち良くなって下さいね…。」
心の揺れを察したのか、先ほど見せた母親の様な慈愛深い笑顔を見せる有妃。そしてまた俺の頭を抱くと何度も撫でる。今度は頭だけでなく顔までも指先でつーっと撫でてきた。 繊細で温かな手つきと、耳元で囁かれる熱い吐息、そして体を包む心地よい蛇体…。本当なら有妃に襲いかかってもおかしくないぐらいの興奮状態だ。
だが仕事帰りで夕飯後の心地よい疲労感からか、睡魔の方が先にやってきた。何度も襲ってくる穏やかでとろんとした眠気には到底耐えきれなかった。
「ごめん…。もうこれ以上されると寝ちゃうから…。」
もうたまらず有妃に哀願した。彼女は残念そうな表情をさっと見せたが、たちどころにそれは消え元の温和な笑顔に戻った。
「ん〜。そこは言う事が違うんじゃないかと思うんですが…。いえ。何でもないです。いいんですよ!気にしないで寝ちゃってくださいね。私がずっとこうしていてあげますから…。」
「でも…。」
「もう…。遠慮はダメって言いましたよね。佑人さんの心のままにして下さい。」
幼児をあやすように有妃は俺の背中をぽんぽんと叩き続ける。さらに蛇体も受けとめる様に優しくもしっかりと絡みつく。彼女のお休みなさいと言う声を聞いたのを最後に、俺はいつ以来とも知れない穏やかな眠りに落ちて行った…
意識が眠りの底からそろそろと戻り始める。俺は何をしていたんだろう…?一瞬自分がどのような状況だったか理解できなかったが、温かく包み込む蛇体を見てすぐに思いだした。そうだ。有妃に優しく抱きしめられて熟睡してしまったんだ…。
思わず彼女の方を見ると、すべてを受け入れる様な思いやり溢れる微笑みを見せている。見ているだけで心が安らぐような笑顔に、俺も知らぬ間に笑顔を返してしまった。
「ふふっ。おはようございます。佑人さん。お目覚めですか?」
「うん…。ありがとう…。こんな事までしてもらって。すごく良く寝られたよ。」
「いいえ〜。佑人さんに心地良くなってもらって何よりですよ。本当に良かったです。私で良かったら毎日抱っこして寝かしつけてあげますからねっ!」
良かった。有妃も心から嬉しそうにしている様だ。でも…さすがに毎日抱っこして寝かしつけるは恥ずかしい…。顔を赤らめた俺を見て、なんて良い反応をするんだろう、と言わんばかりに戯れた表情をした彼女は、またしても頭を抱きしめる。
「本当に遠慮しないでいいんですよ。私も佑人さんをぎゅって抱きしめると、とっても良い気持ちなんです…。こんな素敵な気分になるなんて思いもしなかったです。だから、ね…。」
「ん……………。」
奥にじっとりとした情欲を秘めた様な有妃の瞳だ。なにが望みなのかは鈍い俺でも良く分かる。鈍い光を帯びる朱色の目をただ見つめる。ああ…。もしかして今日こそ有妃の『もの』になるのか…。そう思った瞬間だった。
「あ、ごめんなさい…。もう10時過ぎですね。こんな遅くまで長居してしまって。佑人さんの明日の仕事に差し支えますね。」
そう言うと絡みついた蛇体をするりと解いた。えっ…。なんで…。またなの…。俺にとっては本当に思わぬことだった…。初めて有妃と会った時と同じく俺は呆然とする。
「えっと…。うん……。そうだね………。」
「ああ、そうです。すっかり忘れていました。明日の献立のリクエストはありますか?何でも好きなものを言ってくださいね。」
急に先ほどの話題を持ち出してきたが、突然の事で頭が回らない。俺は半ば無意識で答えるしかなかった。
「ああ…。ええと…お任せで。」
「むーっ。それはダメですよっ!ちゃんと言ってください。」
「いや。でも。有妃ちゃんの料理は凄く美味しかったから…。きっと何でも美味しいんだろうな、って思って…。」
いいかげんに答えを返した俺を非難するように有妃は見つめる。冗談っぽく言っていたが内心は面白くないのかもしれない。慌てて俺は言い訳するが、別に嘘では無く本心なので問題ないだろう。
「もう。そんなことを言われたのでは何も言えませんよ…。わかりました。お任せください!腕によりをかけてご馳走しますからねっ!」
有妃は嬉しそうに胸を張るとぽんと叩いた。そんな可愛い仕草になんかもうどうでも良くなってきてしまった…
その後俺は駐車場まで有妃を見送った。彼女は見かけによらぬごついミニバンに乗っていて意外だったが、これは車内で蛇体を休めるのに必要なのだろう。
当然今は人化の術を使い二本の足で歩いている。すらりとしながらも程よい肉付きの足が、ミニスカートから伸びておりなんとも艶めかしい。まあでも、足の事に触れて有妃を傷つけたくは無い。この事は暫く黙っていよう…。
いや、魔物娘に性に関しての隠し事が出来ない事は思い知っている。でも、言葉に出して言わないだけでも当然の思いやりだと思う。
そんな内心の葛藤を知ってか知らずか有妃は薄くわらった。そして俺を弄ぶ様に問いかけてくる。
「ふふっ。佑人さんはミニスカが好きそうですねえ〜。私の『足』はどうですか?お気に召しましたか?今度パンストとか『足』にはいて見せましょうか?
こういうパンストの『足』とか好きな男の方も居るんですよね?佑人さんもそう言った『足』好きのフェチ趣味でもあるんですか?」
有妃は露骨に『足』を強調し続けると、嬲る様なにやにやした笑みを浮かべた。しまった…。覚悟はしていたがバレバレだったか…。これはもう詫びるしかないだろう。俺は素直に頭をさげた。
「ごめん…。気分悪くしたなら本当に申し訳ない。でも有妃ちゃんを…」
最後まで言葉を待たずに、有妃は人差し指を立てて俺の唇に当てる。そしていいんですよと小さく言うとかぶりを振った。嘲弄するかのような笑いはすっかり消えて、穏やかで情け深い笑顔に戻っている。
「私の方こそごめんなさい…。つい佑人さんをからかいたくなってしまったんです。あなたのお心は良く分かっているつもりですので、何も気にしないで下さい。
あと、それと佑人さんが求めるのなら私は喜んで足をご覧にいれますからね。」
慰めるかのような優しい声と眼差しの有妃は両手で俺の顔を挟み込んだ。じんわりと温かい手に思わずほっとするが、なおも続けて語り続ける。
「本当に佑人さんは素直な方なんですね…。素直で、優しくて、不器用で…。私がずっとお守りしなければならないようです。そうでなければいつか壊れてしまいそうで…。
でも、私はそんなお方が本当に大好きなんですよ……。私のものにしてずっと可愛がりたいんです……。ね。佑人さん……。」
魅惑的で甘い言葉が包み込む。いつしかぽーっとして聞いていたが、それが何か良く分かっていなかった。彼女はいったい何を言っているのだろう…。どういう事なんだろう…。俺がそんな恍惚状態にあった中、有妃は頬からそっと手を離した。
「今日はありがとうございました。また明日来ますからね。それでは佑人さん。お休みなさい…。」
「お休みなさい…。有妃ちゃん………。」
有妃の車の音が遠ざかった後も俺は暫く呆然としていた…。
それからしばらく後はずっとこんな関係だった。有妃が俺の家に来て夕飯を作ってくれて二人で一緒に食べる。そして知らぬ間に彼女に抱きしめられていて、温かな蛇体に包み込まれる。甘く優しい拘束を受けて俺はただうっとりとしているのだ。
毎日作ってくれる温かく美味しいご飯。とても温かで、柔らかく、心地よい蛇体…。穏やかだが心が切なくなるような有妃の甘い匂い…。時々は弄ぶような有妃の熱い囁き声…。もちろん心優しく思いやり深い有妃の人柄が一番の魅力なのは言うまでもないが、彼女といつも接していると、俺の心にも変化が生じてきた。
今までは静かで平穏に生きてきたとはいっても、心の底では様々な思いが渦巻いていた。惨めな自分自身への苛立ち。将来への不安や焦燥感等、様々な思い煩いからは全く逃れられなかった。
それが有妃と一緒に居ると全てから解き放たれるのだ。ただ彼女が与えてくれる恍惚感に身を任せていればいい。きっと有妃なら俺の全てを受け入れてくれる。何があっても側に居てくれるという信頼感は、たとえようも無く心強かった。こんな安らぎを毎日与えられるのだ。拒めるほど俺は強い人間ではない。いつしか有妃が居なくては生きて行けない体になっていた…。
そして、彼女に家の鍵を預けるようになり、俺自身も有妃の家に頻繁に出入りするようになった。今までリア充のものだと嫉妬と軽蔑の念で見ていた場所にも、二人で行くようになった。本当ならば十分恋人同士の関係だ。
だが…そこまでの仲になってもなぜか有妃は襲ってこようとはしなかった。これはもしかして俺の事を恋人とは思っていないのか?
でも、ラミア属にとって男をぐるぐる巻きにすることは愛情表現と聞いている。有妃は俺の事をいつも蛇体で包み込んでくれるので、少なくとも好意は持ってくれているのだろう。いや。そうあって欲しい…。
だったらなぜ……?そうか……。もしかしたら有妃は俺の事を駄目な弟とでも思っているのかもしれない。可哀そうな弟分を守ってやろうとする、憐れみが主体の愛情なのだろうか。でも、もしそうであってもそれならばそれでよい。有妃とずっと一緒に居ることが出来るのなら、変に動いて穏やかな関係を壊したくは無かった。
だがそうは言っても、彼女への思いが抑えきれなくなる時もあった。ある日いつもの様に、有妃に優しく抱きしめられていた時の事だ。俺はとうとう我慢できなくなり彼女を真っ直ぐに見つめた。恐らく相当切なくつらい顔をしていただろう。
「ん〜?どうしました佑人さん?何か困りごとでもあるんですか?何でも言ってくださいね。私はあなたの味方なんですから…。」
有妃は安心させるかのように力強くうなずくと素敵に笑ってくれた。よし。やるしかない…。俺は有妃の頬に口づけすると、思いっきり情愛を込めた眼差しで見つめた。彼女はしばらくきょとんとした風だった。しかしすぐにくすくすと笑いだした。
「もう…。佑人さんはいたずらっ子ですねえ…。急にこんな事をしちゃダメですよ〜。」
そう言って頭を抱きしめるといつもの様に優しくなで続けたのだ。
ああ…。これはもう駄目だ。ここまでして反応が無いのでは、やっぱり恋人として見られてはいないんだ…。一瞬軽い絶望感に襲われたが、優しくなで続ける手の心地よさにそれも消えた。
でも、魔物との付き合いでこんなに思い悩むなんて想像できなかった。魔物は恋愛において心理的な駆け引きをせず、己の欲望に正直なんだろうと思っていた。だが、それは俺の考えが至らなかっただけなのだろう。
まさかここまで駆け引きを強いられるとは思いも寄らなかった。無論、普通の男ならこの程度はどうってことないのだろう。だが、悲しいかな。俺の女性経験の無さでは、この程度でも極めて高い障壁に思えるのだ。
そんな訳で心安らぎながらも悶々とした日々を送っていたが、ある日ふと思い出した。刑部狸の咲さんの言葉だ。困ったらぎゅっと抱きしめて君が好きだと叫べばいい、と。
頭の悪い俺ではもう万策尽きた。こうなったら咲さんの言う通りにするしかない。その結果有妃との仲が終わる事になってもその時はその時だ…。だが、本当に有妃が居ない生活に耐えられるのか?今となっては到底無理だろう。それならば今まで通りに、姉と弟の様な優しい関係を続けていた方が良いのではないか…。
なおもしばらくは悩み続けた。普段は些細な事まで気遣ってくれる有妃も何も言ってくれない。でも…。正直に言えば今のままの関係では納得できない。もっと深い仲になりたい。肉体関係がどうという以上に心からのつながりが欲しい……。
そんな折、有妃が家に招いてくれた。出会って数か月目の月記念日を祝いたいそうだが、言うならこの機会しかなかった。もう我慢できなかった。思いを偽った関係を続けるのなら散る事になっても構わない……。潔く覚悟を決めよう……。
17/03/07 01:33更新 / 近藤無内
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