4月1日 僕の姉ちゃんは野暮ったい……らしい
ピリピリという耳障りな目覚まし時計を止め、一度伸びをしてカーテンを開ける。
爽やかな春の朝日が部屋の中に差し込み、一日の体内時計がベストタイミングに合わさった。
今日から学校も新学期。僕は高校の2年生となり、クラスや友人も一新される。
仲の良い友人と同じクラスになれるか、それとも新たな出会いが僕を待っているか……
ほんの少しだけ……下心もあったりして。健全な男の子なんだし仕方ないよね。
「記章は……っと。うん、新しいのに付け替えたね」
新しい学年になるというのに記章が1年生のままでは周囲の笑い者になる。
挙句その学年の間中あだなが『イチネン』なんてなったらもはや学校に行くことすら苦痛になるかもしれない。
申し遅れたね。僕は櫻井 陽介。神代(じんだい)学園に通う極普通の高校2年生。
趣味は軽小説を読むこと。これといった特技無し。帰宅部所属の皆勤賞……ってこれは関係なかったね。
「さ〜て……ご飯ご飯……っと」
下の階の洗面所で顔を洗って歯を磨くと、リビングへと朝食を食べに行く。
リビングの扉を開けると、味噌汁とご飯の良い香りに混じってふわりと薄甘い良い香りがした。
母さん……始業式には父兄は呼ばれないから香水なんて付ける必要……
「あ、よう君おはよ♪」
テーブルには見慣れない美人が見慣れた学校の制服を着て座っていた。というか、僕の学校の女子の制服だった。
「ん、おはよ」
僕の父さんは時折突拍子も無いドッキリを仕掛けてくる。
そして今日は4月1日。父さんのドッキリが一番激しくなる日だ。
昨年は……
「実はな……今日父さんに赤紙が届いたんだ。紛争地帯に行って救護活動をして来いと言うことらしい」
なんて言って迷彩服に身を包んでエアガン(それこそ無駄にリアルな奴)のアサルトライフルを担いで玄関に立っていたんだ。
「母さんをよろしく頼んだぞ」
なんて頭を撫でながら言ってくるんだよね。
その後どうしたかって?普通に朝ごはんを食べて普通に学校に行ったよ。
普段から騙され慣れていると耐性も付くしね。
そして今年のこれである。
まさかドッキリのためにこんなモデル顔負けの美人すら巻き込むなんて……母さん何も言わなかったのかな。
「由利、学校の時間は大丈夫なのか?」
「へーきだって。いざとなったらよう君も巻き添えにして走って行くから」
そう、これはドッキリだ。
父さんとこの美人が何の変哲もない朝の一コマを演じているのも、多分ドッキリだ。
なにせ僕は一人っ子なのだから騙される事もない。
ちなみに、生き別れになった姉というのも、いない。何で知っているかって?
……健全な男の子はそういうロマンも夢見るもんなのですよ。
「あら、ちょっと味噌汁が濃かった……?陽はどう思う?」
「ん〜……このぐらいでも問題ないと思うよ」
母さんがとりとめもない話題を僕に振ってくる。
母さんも同じように共謀して僕にドッキリを仕掛けてくるからたまったものではない。
なにせ演技力が半端ない。なんでも結構有名な女優だったとか……。
なんでこんな冴えないおっさんと結婚したんだろうね、母さんは。
「「ごちそうさま〜」」
「お粗末さま。初日から遅刻しないように早めに行きなさいよ?」
「ん、わかった〜」
自室に戻って鞄を掴んで玄関まで行く。
姉ちゃん(?)は既に準備を済ませて玄関前にいた。
「忘れ物は無い?」
「大丈夫、昨日の内に全部確認したから」
靴べらを使って靴に足を押し込み、つま先で床を蹴って位置を整える。うん、完璧。
「それじゃ二人共、いってらっしゃい」
「いってきま〜す♪」
「いってきます」
玄関を出て家の門扉を閉めた。
………………
…………
……
「……あれ?ネタばらしは?」
「よう君どうしたの?」
本来だったならば玄関を出た所でネタばらしがあるはずなのに、今年はそれがなかった。
これは毎年の恒例行事であり、僕が玄関を出ること=今年のドッキリ終了という暗黙の了解がある。
しかし今年は……投げっぱなしだ。
「(ドッキリはまだ続いているのかな……)」
「新学期楽しみだねぇ……沢山友達できるかな?」
隣を同じ程度の速度で歩いている姉ちゃん(仮)は呑気にこれから始まる学校の生活に思いを馳せている。
つややかな銀髪が春の風になびき、桜の花弁が舞う中で優雅に歩くその姿は十人が十人全て振り向くような……
「(……あれ?)」
しかし周囲を歩く学生は見向きもしない。
まるでそれが日常の一部か何かだとでも言うように無関心だ。
「……?」
今日は何かがおかしい。
まさか学校ぐるみで僕をドッキリに嵌めようとしているのか?
一体何の得があるというのだろうか。
僕が困った所を見て得をするのは……物陰からいつも僕を見てはぁはぁ息を荒げている変な女子生徒ぐらいだろうか。(偶に……×陽介とか聞こえてくるが意味が分からない)
「(いいさ。そこまでドッキリを仕掛けたいというのであれば乗ってあげるよ)」
今まで幾多ものイタズラを受けてきた僕だ。早々滅多なことでは驚かない自信がある。
せいぜい無反応を貫き通して仕掛けた黒幕をがっかりさせてあげよう。
………………
…………
……
「あっれ〜……?」
想定外な事にこれ以上のドッキリらしきドッキリは何もなかった。
彼女も必要以上に僕に絡んでくる事も無く、僕自身に何かドッキリが仕掛けられる事も無く……いつもの日常+アルファ状態だった。何これ。
『え〜……本日はお日柄もよく……』
去年も聞いた学園長先生の有難すぎて眠くなるお話の中、僕は今日朝起きてから学校に来るまでの事を思い起こしていた。
「(朝起きて……リビングに行ったら見知らぬ美人がいて……で、何事も無く学園まで来た?)」
それは今までとほぼ何ら変わらない日常。
しかし、そのまっさらな日常の中にひとつだけポツリと黒いインクが垂らされたことで逆に目立っていた。
「(彼女は……何者だ?)」
最終的にはそこに帰結した。
少なくとも年に1回、親戚が集まって新年を祝うため、大きなお爺ちゃんの家に集まって騒いだりする日がある。その時にこんな美人が居たら目立たない筈はないんだけど……その席では全く見かけなかった。つまりは、親戚の一人という線はない。
だとしたら父さんの会社の人?しかしそれにしては若すぎる気がする……。
正体不明。未確認性美人。アンノウン。
彼女は……僕の中では極めて異質な存在だった。
そしてその異質は僕が暮らす日常に何食わぬ顔をして溶け込んでいる。
そして、その歪みが明確に見えているのはどうやら僕だけらしい。
「よう、陽介。今日も姉貴と登校か?」
「晴彦か、おはよう」
彼は僕の友人……春日晴彦。名前の通り春の晴れ間のような脳天気な奴だ。
自称肉食系男子。しかし僕は知っている……彼には彼女はおろか女性と肉体関係すら持ったことが無い事を。
「それじゃあよう君、私は3年の方に行くから。変な子に引っかかっちゃだめだぞ?」
「変な子って何さ……」
優雅な足取りで3年の下駄箱へ向かっていく。本当にモデルみたいだなぁ……。
「しかしまぁ相変わらずブッサイクな姉貴だよなぁ……」
「……え?」
耳を疑った。
暇さえあれば学校にいる美少女の事をしゃべくりまくっている晴彦からは考えられないような発言だ。ついに眼が腐ったか。
「あぁ、わり。多少見てくれが悪くてもお前の家族だもんな。許せ」
「いや……別にいいけど……どうしたの、晴彦。熱でもあるんじゃない?」
おもむろに彼の額に自分の額を押し当ててみるが、特に熱はない。
どうやら春の陽気に当てられて脳みそが腐っただけのようだ。
「お前な……そういう事をさらっとやるなよな……」
「ん、なんで?」
「お前の行動のお陰で腐ったお姉様方が大喜びするんだよ。巻き添え食うこちらの身にもなれっての」
人間はそもそも病気にかからなければ生きたまま腐ったりしないはずだけど……
「おいこら、何人を可哀想な物を見るような目で見てやがる」
「晴彦……ついに脳みそが腐っちゃったんだね……」
「俺としてはお前の脳みその方が腐っていると思うんだがな」
その後は特に何もなく自分のクラスへと向かった。
晴彦と同じクラスだと分かった時に後ろから何かきゃあきゃあと騒いでいた女子生徒がいたんだけど……なんだったんだろ。
以上で回想終了。
僕としては晴彦が何故姉ちゃん(仮)を見て何も言わなかったのかが気になる。
というより、あの美人がブサイク……?どれだけ眼が肥えているというのだろうか。
……いや、あの晴彦に限ってそんな事があるはずがないか。
少なくとも彼女よりは一回り二回りか美人度が下がっても「美少女だ」と断言するぐらいには彼のストライクゾーンは広い。
「なんでだろ……」
「おい、あまりブツブツ言っているとオカモチに目ぇ付けられるぞ」
隣でヒソヒソと晴彦が僕の独り言に注意を促してくれた。
ちなみにオカモチというのは担任のあだ名……岡本という苗字とラーメン屋で出前のバイトをしていそうな男だったために付いたものだ。
少し眺め回し、3年の女子が固まっている辺りを探すと……いた。
ここからでもよく目立つ銀髪の姉ちゃん(仮)は退屈そうに学園長の話を聞いていた。
そして僕がその姿を見ているのを見つけたのか、軽く手を振ってきた。
「お前本当に姉貴と仲いいのな」
「ん……まぁね」
今日が初対面だなんて言えるはずもない。
僕が通っている学校……神代学園は妙な所に力を入れる癖がある。
その妙な力の入った場所の一つがここ、図書室だ。
僕はその図書室で少しばかり調べ物をしていた。
「これ……かなぁ。あ、これも」
取り出してキープしている本は催眠術や魔術書の類。無論催眠術は催眠導入という科学的根拠を元にした物だし、魔術書は日本語翻訳の物……ファンタジーに出てくるような強力な力を持ったものではないただのイミテーションだ。
「みんなおかしすぎる……騙すにしてもあまりにも完璧すぎるし……」
そう、今日一日身の回りの人物の行動を観察してみたけど、嘘を付いている時特有のぎこちなさというものが全くなかった。
となると今度は別の線を当たってみるというのが自然な対応だ。
すなわち、自分がドッキリを仕掛けられているのではなく、彼女が何かしらの手段を使って周囲を欺瞞していることだ。
集団催眠にせよ、ありえないだろうけど魔法にせよ……彼女が何かを企んでいるのには違いない。
「……でも、違うね……これは」
ざっと集団催眠の本を流し読みしてみたけれど、どうも現在の状況とは微妙に異なる。
集団催眠にかかるということはほとんどトランス状態にも近い状態になる……ということはまともな判断能力を失うということでもある。
しかし、僕の周りにいる人を含めて明らかに異常だ、という傾向は見られない。
少なくとも、晴彦がいきなりヒトラーを崇め出したりしない限りは何も起きていないとみていいかもしれない。
「あとは……」
ほとんどノリで取り出した魔術書を眺める。
この神代学園の図書室で一番奇妙なのはこういった魔術書も数多く蔵書されているという事だ。
しかし、学園の中に魔法使いがいたなんて事はないし、生徒同士が夜な夜な異能バトルを繰り広げているなんていう噂も無い。単純に学園長の趣味だそうだ。
とりあえず手元の魔術書を広げてみたけれど……
「……さっぱりわからない」
無論書いてある文字はわかる。日本語だし。
しかし言い回しが古風というかなんというか……一体それが何を意味しているのかがさっぱりわからない。
「よ〜くんっ!何してるの?」
後ろから唐突に聞こえてきた声に全身が飛び上がらんほどに驚いた。
声の主は言うまでもない……
「姉ちゃん……いきなり声掛けないでよ。驚くから」
「あはは、ごめんごめん。で、何見てるの?」
彼女は僕の手元を覗いて少し目を見開いた。まぁそりゃこんなけったいな物を見れば驚きもするか。
「へぇ……これ魔術書?ちょっと見せてもらっていい?」
「まぁ、いいけど」
隣の席に座って魔術書を自分の前に持ってきて読み始める姉ちゃん(仮)。その表情は真剣そのものだ。
「わかるの?」
「大体はね〜。目の付け所はいいけど……解釈はまだまだ幼稚かなぁ」
魔導書に幼稚も何もあるのだろうか。この人の謎が増々深まった。
「で、よう君は魔導書や催眠術の本を持ちだして何をしようとしていたのかな〜?」
読んでいた魔導書を閉じるといたずら小僧の犯行現場でも押さえたかのような態度で僕を見つめてくる。
馬鹿正直に貴方が何をしているのかについて調べていました〜などと話すほど僕は抜けていないつもりだ。
嘘、というのは1割の真実を混ぜておくだけで大分信憑性が上がるものなのだ。
「今朝から皆の様子がおかしかったからね。いったい何が起きているのか調べていたんだ」
「ふぅん……それで?」
これはある意味嘘で、ある意味本当。皆は何もおかしくなく、異変を感じているのは僕一人だ。
ある程度期待していた返事が聞けたからだろうか。彼女の顔がにんまりとほころんでいく。
「姉ちゃんも見たでしょ?周りの様子が明らかに異常なのにだれも気が付かない」
「へぇ……」
これは嘘。周りは全く正常。まぁ僕にとってはそれが異常に見えてしまうのだけれど。
「だから僕はここで色々と調べてみて一つの仮説を立てたんだよね」
「それで、よう君が立てた仮説っていうのは一体どういう物なのかなぁ?」
僕は人差し指を1本立てて姉ちゃん(仮)に向き直る。
まるでこれから重要な事を話しますよ、と言わんばかりに。
「実は……」
「実は?」
ここでしばらく間を空ける。
あくまで、次の一言で一気に肩透かしをさせるために。
「学園長のあの挨拶には催眠音波が含まれているんじゃないかって」
「……へ?」
予想通り彼女は目を丸くして呆気に取られている。
それもそうだ、大真面目な顔をして言い出したことはえらく間抜けな考えなのだから。
「姉ちゃんも見たでしょ?学園長の挨拶の最中にみんな居眠りしていたの」
「あぁ……そう言えば確かに」
「で、いつも不思議に思っていたんだ。何で皆朝礼の時に居眠りしてしまうんだろうって。だから集団催眠とかの本を調べたり学園長先生が変な魔術でも使っていないか調べていたんだけど……」
本を1冊手にとって積み重ねてあった本の上にもう一冊本を投げて載せる。
積み重なった本は軽く塔ができるほどの高さになっていた。
「全部空振り。集団催眠は判断能力を失うような程度の物しかないし、思い返せば学園長は黒魔術にのめり込んでいたなんて話も聞かないんだよね。収穫ゼロ。お手上げ〜」
その場で僕は両手を上に上げて降参のポーズを取る。
あくまでピエロになることで疑いの目を逸らす高等テクニックだ。
「それってただ単に学園長のお話がつまらなくて寝ちゃうって事じゃないの?」
「……あぁ、成る程。姉ちゃんもしかして天才?」
「むしろそっちに頭が回らなかったことに驚きだわ……」
どうやら僕に向いていた興味は完全に逸れてしまったようだ。
呆れたような眼差しで僕を見つめている姉ちゃん(仮)に内心ほっとする。
「で、調べ物終わったし……帰る?」
「う〜ん……せっかくだからもっと色々読んで行こうかな。新しいラノベも入っているみたいだし」
僕が持ってきた本の山を元の場所に戻し、好きなシリーズのライトノベルを持って席へ戻ってくると再び姉ちゃん(仮)が先ほどの魔術書を読み返していた。そんなに気に入ったのだろうか。
「ん……あれ?」
本を読んでいたらいつの間にか眠ってしまったらしい。
窓の外の光はオレンジ色に染まり、日が沈みかけていることを物語っていた。
図書委員の人は図書館を閉める準備のために色々と忙しく走り回っている。
ふと机を見ると、書き置きのメモがあった。
メモには丸っこい字でこう書かれている。
『屋上に行って景色を眺めているよ。帰る時になったら声を掛けてね♥』
僕はそのメモ書きを制服のポケットにしまうと、図書室を後にした。
急に増えた得体のしれない家族をわざわざ呼びに行って一緒に帰ることもない。
今日のところはさっさと帰って彼女がなぜいきなり家に現れたのか……何をしに来たのかを探らなければ……
「……あれぇ?」
僕は屋上へと出るための扉の前に立っていた。
学校から出るための正面玄関に向かっていた筈なのに、気がつけば階段を登ってここまで来てしまっていた。ついに若年性痴呆にでもかかったのだろうか。
「……そうだよ、この扉を開けずに戻ればいいんだ」
そう、この扉を開けるともう後戻りができないような気がする。
だからドアノブに手を掛けずに回れ右をして階段を降りるんだ。
そのドアノブを回してはいけない。今すぐ手を離さないと。
ドアを押し開けたりしたら絶対に戻ることはできない。だから、今すぐ扉から……
─ガチャ─
きしんだ音を立てながら金属製の重たい扉がゆっくりと開いていく。
夕方の赤い光が僕の顔を照らし出す。
春もようやく始まったあたりの冷たい風が頬を撫でていく。
そして、僕の足が硬いコンクリートの上に乗せられてしまった。
「あ、よう君♪呼びに来てくれたんだ。ありがとね?」
「ううん、別にいいよ。ところで……景色を見るのって楽しい?」
扉が開いた音に気づいて姉ちゃん(仮)が振り返って僕に声を掛けてきた。
「ん……楽しいよ。この世界にいろんな人が生活しているんだって考えると……ワクワクしてくる」
金網に指をかけて遠くの方を見ている姉ちゃん(仮)。
しかし、僕はその顔を見ているのではなく、全く別の物に目を奪われていた。
「姉ちゃん、僕に何か隠し事とかしていない?」
「ん〜?隠し事ってどんな事かな?」
そう言われても言葉に詰まってしまう。その隠し事をズバリ言ってしまえば……絶対に取り返しの付かないことになりそうだから。
「隠し事っていうのは他人には分からないから隠し事って言うんだよ?」
「あは♪そうだね。ん〜……じゃあ少しだけ」
そう言って振り返り、僕へと体を向き直す姉ちゃん(仮)。
夕日をバックに、彼女の長い銀髪が風になびいて茜色に染まる。
「お姉ちゃんには実はある魔法が掛かっています」
「へぇ」
適当に相槌をうつも、僕の心の中ではかなり焦っていた。
彼女の言葉がどうしても嘘に思えなかったからだ。
「他の人から見ると自分の姿がブサイクに見えてしまう女性にとっては恐ろしい魔法です」
「ふぅん……」
風に彼女のスカートがなびく。
風に煽られた時にちらりと見える太ももまでもが茜色に染まり、深い陰影を落とす。
「でも、世界中にたった一人だけ私の本当の姿を見ることができる人がいます」
「そうなの」
今まで鳶色だったはずの瞳が、淡い赤色に変色していた。別に夕焼けのせいではない。
「それは私の運命の人……一緒になるとこの上ない程に幸せになれる恋人にしか見えません」
「ずいぶんとピンポイントな魔法だね」
彼女の髪の隙間から太くて黒い角が伸び、彼女自身の頭に小さな影を落としていた。
「そして、実は私はその運命の人を探すために別の世界からやってきたお姫様なのです」
「そりゃまた随分と突拍子も無い設定だね」
彼女が笑うたび、少し身じろぎをする度に彼女の背後で蝙蝠のような形をした白い翼がぱたぱたとはためく。
「そんな訳で私は恋人を探しているのだけれど……ゆう君は誰か私の事を美人だって言ってくれる友達はしらないかな?」
「少なくとも僕の友達はみんな芋っぽいって言ってるよ」
そして、スカートの中からは1本、長くてうねる尻尾のようなものが顔をのぞかせ、まるで別個の生き物か何かのようにうねっていた。
「もしその運命の人ってのを見つけたら姉ちゃんはどうするの?」
「もちろんその人を連れて私の世界へ戻るつもり♪」
認めたくなかった。
僕の日常に、明らかに異質なものが混ざっている。
その歪みは周囲に見えないまでも僕にははっきりと見えるわけで……それが不気味さをより一層際立たせていた。
「ちなみにその人の意思は?」
「そうねぇ……よっぽどの理由がない限りは従ってもらうかなぁ。でもね、向こうはいい所なんだよ。景色も綺麗だし、皆いい人ばかりだし。絶対に気に入ると思うな」
それはまるで……
「どうでもいいけどそろそろ帰ろうよ。寒くなってきたし」
「あら、全然信じてない?」
「当たり前。この科学の時代に魔法とか異世界とかありえないでしょ、ラノベじゃあるまいし。そんな事にかまけている暇があったら受験のための勉強に励んだほうが有意義じゃない?」
「むぅ……おもしろくな〜い」
─淫魔─
夕焼けの空の下、学校の屋上から街を眺める彼女はまさしく人間ではなく、ファンタジー一般や昔の伝説に出てきそうなサキュバスそのものだったのだ。
こうして、僕の日常にほんの少し歪みを添えつつ……姉ちゃんができた。
爽やかな春の朝日が部屋の中に差し込み、一日の体内時計がベストタイミングに合わさった。
今日から学校も新学期。僕は高校の2年生となり、クラスや友人も一新される。
仲の良い友人と同じクラスになれるか、それとも新たな出会いが僕を待っているか……
ほんの少しだけ……下心もあったりして。健全な男の子なんだし仕方ないよね。
「記章は……っと。うん、新しいのに付け替えたね」
新しい学年になるというのに記章が1年生のままでは周囲の笑い者になる。
挙句その学年の間中あだなが『イチネン』なんてなったらもはや学校に行くことすら苦痛になるかもしれない。
申し遅れたね。僕は櫻井 陽介。神代(じんだい)学園に通う極普通の高校2年生。
趣味は軽小説を読むこと。これといった特技無し。帰宅部所属の皆勤賞……ってこれは関係なかったね。
「さ〜て……ご飯ご飯……っと」
下の階の洗面所で顔を洗って歯を磨くと、リビングへと朝食を食べに行く。
リビングの扉を開けると、味噌汁とご飯の良い香りに混じってふわりと薄甘い良い香りがした。
母さん……始業式には父兄は呼ばれないから香水なんて付ける必要……
「あ、よう君おはよ♪」
テーブルには見慣れない美人が見慣れた学校の制服を着て座っていた。というか、僕の学校の女子の制服だった。
「ん、おはよ」
僕の父さんは時折突拍子も無いドッキリを仕掛けてくる。
そして今日は4月1日。父さんのドッキリが一番激しくなる日だ。
昨年は……
「実はな……今日父さんに赤紙が届いたんだ。紛争地帯に行って救護活動をして来いと言うことらしい」
なんて言って迷彩服に身を包んでエアガン(それこそ無駄にリアルな奴)のアサルトライフルを担いで玄関に立っていたんだ。
「母さんをよろしく頼んだぞ」
なんて頭を撫でながら言ってくるんだよね。
その後どうしたかって?普通に朝ごはんを食べて普通に学校に行ったよ。
普段から騙され慣れていると耐性も付くしね。
そして今年のこれである。
まさかドッキリのためにこんなモデル顔負けの美人すら巻き込むなんて……母さん何も言わなかったのかな。
「由利、学校の時間は大丈夫なのか?」
「へーきだって。いざとなったらよう君も巻き添えにして走って行くから」
そう、これはドッキリだ。
父さんとこの美人が何の変哲もない朝の一コマを演じているのも、多分ドッキリだ。
なにせ僕は一人っ子なのだから騙される事もない。
ちなみに、生き別れになった姉というのも、いない。何で知っているかって?
……健全な男の子はそういうロマンも夢見るもんなのですよ。
「あら、ちょっと味噌汁が濃かった……?陽はどう思う?」
「ん〜……このぐらいでも問題ないと思うよ」
母さんがとりとめもない話題を僕に振ってくる。
母さんも同じように共謀して僕にドッキリを仕掛けてくるからたまったものではない。
なにせ演技力が半端ない。なんでも結構有名な女優だったとか……。
なんでこんな冴えないおっさんと結婚したんだろうね、母さんは。
「「ごちそうさま〜」」
「お粗末さま。初日から遅刻しないように早めに行きなさいよ?」
「ん、わかった〜」
自室に戻って鞄を掴んで玄関まで行く。
姉ちゃん(?)は既に準備を済ませて玄関前にいた。
「忘れ物は無い?」
「大丈夫、昨日の内に全部確認したから」
靴べらを使って靴に足を押し込み、つま先で床を蹴って位置を整える。うん、完璧。
「それじゃ二人共、いってらっしゃい」
「いってきま〜す♪」
「いってきます」
玄関を出て家の門扉を閉めた。
………………
…………
……
「……あれ?ネタばらしは?」
「よう君どうしたの?」
本来だったならば玄関を出た所でネタばらしがあるはずなのに、今年はそれがなかった。
これは毎年の恒例行事であり、僕が玄関を出ること=今年のドッキリ終了という暗黙の了解がある。
しかし今年は……投げっぱなしだ。
「(ドッキリはまだ続いているのかな……)」
「新学期楽しみだねぇ……沢山友達できるかな?」
隣を同じ程度の速度で歩いている姉ちゃん(仮)は呑気にこれから始まる学校の生活に思いを馳せている。
つややかな銀髪が春の風になびき、桜の花弁が舞う中で優雅に歩くその姿は十人が十人全て振り向くような……
「(……あれ?)」
しかし周囲を歩く学生は見向きもしない。
まるでそれが日常の一部か何かだとでも言うように無関心だ。
「……?」
今日は何かがおかしい。
まさか学校ぐるみで僕をドッキリに嵌めようとしているのか?
一体何の得があるというのだろうか。
僕が困った所を見て得をするのは……物陰からいつも僕を見てはぁはぁ息を荒げている変な女子生徒ぐらいだろうか。(偶に……×陽介とか聞こえてくるが意味が分からない)
「(いいさ。そこまでドッキリを仕掛けたいというのであれば乗ってあげるよ)」
今まで幾多ものイタズラを受けてきた僕だ。早々滅多なことでは驚かない自信がある。
せいぜい無反応を貫き通して仕掛けた黒幕をがっかりさせてあげよう。
………………
…………
……
「あっれ〜……?」
想定外な事にこれ以上のドッキリらしきドッキリは何もなかった。
彼女も必要以上に僕に絡んでくる事も無く、僕自身に何かドッキリが仕掛けられる事も無く……いつもの日常+アルファ状態だった。何これ。
『え〜……本日はお日柄もよく……』
去年も聞いた学園長先生の有難すぎて眠くなるお話の中、僕は今日朝起きてから学校に来るまでの事を思い起こしていた。
「(朝起きて……リビングに行ったら見知らぬ美人がいて……で、何事も無く学園まで来た?)」
それは今までとほぼ何ら変わらない日常。
しかし、そのまっさらな日常の中にひとつだけポツリと黒いインクが垂らされたことで逆に目立っていた。
「(彼女は……何者だ?)」
最終的にはそこに帰結した。
少なくとも年に1回、親戚が集まって新年を祝うため、大きなお爺ちゃんの家に集まって騒いだりする日がある。その時にこんな美人が居たら目立たない筈はないんだけど……その席では全く見かけなかった。つまりは、親戚の一人という線はない。
だとしたら父さんの会社の人?しかしそれにしては若すぎる気がする……。
正体不明。未確認性美人。アンノウン。
彼女は……僕の中では極めて異質な存在だった。
そしてその異質は僕が暮らす日常に何食わぬ顔をして溶け込んでいる。
そして、その歪みが明確に見えているのはどうやら僕だけらしい。
「よう、陽介。今日も姉貴と登校か?」
「晴彦か、おはよう」
彼は僕の友人……春日晴彦。名前の通り春の晴れ間のような脳天気な奴だ。
自称肉食系男子。しかし僕は知っている……彼には彼女はおろか女性と肉体関係すら持ったことが無い事を。
「それじゃあよう君、私は3年の方に行くから。変な子に引っかかっちゃだめだぞ?」
「変な子って何さ……」
優雅な足取りで3年の下駄箱へ向かっていく。本当にモデルみたいだなぁ……。
「しかしまぁ相変わらずブッサイクな姉貴だよなぁ……」
「……え?」
耳を疑った。
暇さえあれば学校にいる美少女の事をしゃべくりまくっている晴彦からは考えられないような発言だ。ついに眼が腐ったか。
「あぁ、わり。多少見てくれが悪くてもお前の家族だもんな。許せ」
「いや……別にいいけど……どうしたの、晴彦。熱でもあるんじゃない?」
おもむろに彼の額に自分の額を押し当ててみるが、特に熱はない。
どうやら春の陽気に当てられて脳みそが腐っただけのようだ。
「お前な……そういう事をさらっとやるなよな……」
「ん、なんで?」
「お前の行動のお陰で腐ったお姉様方が大喜びするんだよ。巻き添え食うこちらの身にもなれっての」
人間はそもそも病気にかからなければ生きたまま腐ったりしないはずだけど……
「おいこら、何人を可哀想な物を見るような目で見てやがる」
「晴彦……ついに脳みそが腐っちゃったんだね……」
「俺としてはお前の脳みその方が腐っていると思うんだがな」
その後は特に何もなく自分のクラスへと向かった。
晴彦と同じクラスだと分かった時に後ろから何かきゃあきゃあと騒いでいた女子生徒がいたんだけど……なんだったんだろ。
以上で回想終了。
僕としては晴彦が何故姉ちゃん(仮)を見て何も言わなかったのかが気になる。
というより、あの美人がブサイク……?どれだけ眼が肥えているというのだろうか。
……いや、あの晴彦に限ってそんな事があるはずがないか。
少なくとも彼女よりは一回り二回りか美人度が下がっても「美少女だ」と断言するぐらいには彼のストライクゾーンは広い。
「なんでだろ……」
「おい、あまりブツブツ言っているとオカモチに目ぇ付けられるぞ」
隣でヒソヒソと晴彦が僕の独り言に注意を促してくれた。
ちなみにオカモチというのは担任のあだ名……岡本という苗字とラーメン屋で出前のバイトをしていそうな男だったために付いたものだ。
少し眺め回し、3年の女子が固まっている辺りを探すと……いた。
ここからでもよく目立つ銀髪の姉ちゃん(仮)は退屈そうに学園長の話を聞いていた。
そして僕がその姿を見ているのを見つけたのか、軽く手を振ってきた。
「お前本当に姉貴と仲いいのな」
「ん……まぁね」
今日が初対面だなんて言えるはずもない。
僕が通っている学校……神代学園は妙な所に力を入れる癖がある。
その妙な力の入った場所の一つがここ、図書室だ。
僕はその図書室で少しばかり調べ物をしていた。
「これ……かなぁ。あ、これも」
取り出してキープしている本は催眠術や魔術書の類。無論催眠術は催眠導入という科学的根拠を元にした物だし、魔術書は日本語翻訳の物……ファンタジーに出てくるような強力な力を持ったものではないただのイミテーションだ。
「みんなおかしすぎる……騙すにしてもあまりにも完璧すぎるし……」
そう、今日一日身の回りの人物の行動を観察してみたけど、嘘を付いている時特有のぎこちなさというものが全くなかった。
となると今度は別の線を当たってみるというのが自然な対応だ。
すなわち、自分がドッキリを仕掛けられているのではなく、彼女が何かしらの手段を使って周囲を欺瞞していることだ。
集団催眠にせよ、ありえないだろうけど魔法にせよ……彼女が何かを企んでいるのには違いない。
「……でも、違うね……これは」
ざっと集団催眠の本を流し読みしてみたけれど、どうも現在の状況とは微妙に異なる。
集団催眠にかかるということはほとんどトランス状態にも近い状態になる……ということはまともな判断能力を失うということでもある。
しかし、僕の周りにいる人を含めて明らかに異常だ、という傾向は見られない。
少なくとも、晴彦がいきなりヒトラーを崇め出したりしない限りは何も起きていないとみていいかもしれない。
「あとは……」
ほとんどノリで取り出した魔術書を眺める。
この神代学園の図書室で一番奇妙なのはこういった魔術書も数多く蔵書されているという事だ。
しかし、学園の中に魔法使いがいたなんて事はないし、生徒同士が夜な夜な異能バトルを繰り広げているなんていう噂も無い。単純に学園長の趣味だそうだ。
とりあえず手元の魔術書を広げてみたけれど……
「……さっぱりわからない」
無論書いてある文字はわかる。日本語だし。
しかし言い回しが古風というかなんというか……一体それが何を意味しているのかがさっぱりわからない。
「よ〜くんっ!何してるの?」
後ろから唐突に聞こえてきた声に全身が飛び上がらんほどに驚いた。
声の主は言うまでもない……
「姉ちゃん……いきなり声掛けないでよ。驚くから」
「あはは、ごめんごめん。で、何見てるの?」
彼女は僕の手元を覗いて少し目を見開いた。まぁそりゃこんなけったいな物を見れば驚きもするか。
「へぇ……これ魔術書?ちょっと見せてもらっていい?」
「まぁ、いいけど」
隣の席に座って魔術書を自分の前に持ってきて読み始める姉ちゃん(仮)。その表情は真剣そのものだ。
「わかるの?」
「大体はね〜。目の付け所はいいけど……解釈はまだまだ幼稚かなぁ」
魔導書に幼稚も何もあるのだろうか。この人の謎が増々深まった。
「で、よう君は魔導書や催眠術の本を持ちだして何をしようとしていたのかな〜?」
読んでいた魔導書を閉じるといたずら小僧の犯行現場でも押さえたかのような態度で僕を見つめてくる。
馬鹿正直に貴方が何をしているのかについて調べていました〜などと話すほど僕は抜けていないつもりだ。
嘘、というのは1割の真実を混ぜておくだけで大分信憑性が上がるものなのだ。
「今朝から皆の様子がおかしかったからね。いったい何が起きているのか調べていたんだ」
「ふぅん……それで?」
これはある意味嘘で、ある意味本当。皆は何もおかしくなく、異変を感じているのは僕一人だ。
ある程度期待していた返事が聞けたからだろうか。彼女の顔がにんまりとほころんでいく。
「姉ちゃんも見たでしょ?周りの様子が明らかに異常なのにだれも気が付かない」
「へぇ……」
これは嘘。周りは全く正常。まぁ僕にとってはそれが異常に見えてしまうのだけれど。
「だから僕はここで色々と調べてみて一つの仮説を立てたんだよね」
「それで、よう君が立てた仮説っていうのは一体どういう物なのかなぁ?」
僕は人差し指を1本立てて姉ちゃん(仮)に向き直る。
まるでこれから重要な事を話しますよ、と言わんばかりに。
「実は……」
「実は?」
ここでしばらく間を空ける。
あくまで、次の一言で一気に肩透かしをさせるために。
「学園長のあの挨拶には催眠音波が含まれているんじゃないかって」
「……へ?」
予想通り彼女は目を丸くして呆気に取られている。
それもそうだ、大真面目な顔をして言い出したことはえらく間抜けな考えなのだから。
「姉ちゃんも見たでしょ?学園長の挨拶の最中にみんな居眠りしていたの」
「あぁ……そう言えば確かに」
「で、いつも不思議に思っていたんだ。何で皆朝礼の時に居眠りしてしまうんだろうって。だから集団催眠とかの本を調べたり学園長先生が変な魔術でも使っていないか調べていたんだけど……」
本を1冊手にとって積み重ねてあった本の上にもう一冊本を投げて載せる。
積み重なった本は軽く塔ができるほどの高さになっていた。
「全部空振り。集団催眠は判断能力を失うような程度の物しかないし、思い返せば学園長は黒魔術にのめり込んでいたなんて話も聞かないんだよね。収穫ゼロ。お手上げ〜」
その場で僕は両手を上に上げて降参のポーズを取る。
あくまでピエロになることで疑いの目を逸らす高等テクニックだ。
「それってただ単に学園長のお話がつまらなくて寝ちゃうって事じゃないの?」
「……あぁ、成る程。姉ちゃんもしかして天才?」
「むしろそっちに頭が回らなかったことに驚きだわ……」
どうやら僕に向いていた興味は完全に逸れてしまったようだ。
呆れたような眼差しで僕を見つめている姉ちゃん(仮)に内心ほっとする。
「で、調べ物終わったし……帰る?」
「う〜ん……せっかくだからもっと色々読んで行こうかな。新しいラノベも入っているみたいだし」
僕が持ってきた本の山を元の場所に戻し、好きなシリーズのライトノベルを持って席へ戻ってくると再び姉ちゃん(仮)が先ほどの魔術書を読み返していた。そんなに気に入ったのだろうか。
「ん……あれ?」
本を読んでいたらいつの間にか眠ってしまったらしい。
窓の外の光はオレンジ色に染まり、日が沈みかけていることを物語っていた。
図書委員の人は図書館を閉める準備のために色々と忙しく走り回っている。
ふと机を見ると、書き置きのメモがあった。
メモには丸っこい字でこう書かれている。
『屋上に行って景色を眺めているよ。帰る時になったら声を掛けてね♥』
僕はそのメモ書きを制服のポケットにしまうと、図書室を後にした。
急に増えた得体のしれない家族をわざわざ呼びに行って一緒に帰ることもない。
今日のところはさっさと帰って彼女がなぜいきなり家に現れたのか……何をしに来たのかを探らなければ……
「……あれぇ?」
僕は屋上へと出るための扉の前に立っていた。
学校から出るための正面玄関に向かっていた筈なのに、気がつけば階段を登ってここまで来てしまっていた。ついに若年性痴呆にでもかかったのだろうか。
「……そうだよ、この扉を開けずに戻ればいいんだ」
そう、この扉を開けるともう後戻りができないような気がする。
だからドアノブに手を掛けずに回れ右をして階段を降りるんだ。
そのドアノブを回してはいけない。今すぐ手を離さないと。
ドアを押し開けたりしたら絶対に戻ることはできない。だから、今すぐ扉から……
─ガチャ─
きしんだ音を立てながら金属製の重たい扉がゆっくりと開いていく。
夕方の赤い光が僕の顔を照らし出す。
春もようやく始まったあたりの冷たい風が頬を撫でていく。
そして、僕の足が硬いコンクリートの上に乗せられてしまった。
「あ、よう君♪呼びに来てくれたんだ。ありがとね?」
「ううん、別にいいよ。ところで……景色を見るのって楽しい?」
扉が開いた音に気づいて姉ちゃん(仮)が振り返って僕に声を掛けてきた。
「ん……楽しいよ。この世界にいろんな人が生活しているんだって考えると……ワクワクしてくる」
金網に指をかけて遠くの方を見ている姉ちゃん(仮)。
しかし、僕はその顔を見ているのではなく、全く別の物に目を奪われていた。
「姉ちゃん、僕に何か隠し事とかしていない?」
「ん〜?隠し事ってどんな事かな?」
そう言われても言葉に詰まってしまう。その隠し事をズバリ言ってしまえば……絶対に取り返しの付かないことになりそうだから。
「隠し事っていうのは他人には分からないから隠し事って言うんだよ?」
「あは♪そうだね。ん〜……じゃあ少しだけ」
そう言って振り返り、僕へと体を向き直す姉ちゃん(仮)。
夕日をバックに、彼女の長い銀髪が風になびいて茜色に染まる。
「お姉ちゃんには実はある魔法が掛かっています」
「へぇ」
適当に相槌をうつも、僕の心の中ではかなり焦っていた。
彼女の言葉がどうしても嘘に思えなかったからだ。
「他の人から見ると自分の姿がブサイクに見えてしまう女性にとっては恐ろしい魔法です」
「ふぅん……」
風に彼女のスカートがなびく。
風に煽られた時にちらりと見える太ももまでもが茜色に染まり、深い陰影を落とす。
「でも、世界中にたった一人だけ私の本当の姿を見ることができる人がいます」
「そうなの」
今まで鳶色だったはずの瞳が、淡い赤色に変色していた。別に夕焼けのせいではない。
「それは私の運命の人……一緒になるとこの上ない程に幸せになれる恋人にしか見えません」
「ずいぶんとピンポイントな魔法だね」
彼女の髪の隙間から太くて黒い角が伸び、彼女自身の頭に小さな影を落としていた。
「そして、実は私はその運命の人を探すために別の世界からやってきたお姫様なのです」
「そりゃまた随分と突拍子も無い設定だね」
彼女が笑うたび、少し身じろぎをする度に彼女の背後で蝙蝠のような形をした白い翼がぱたぱたとはためく。
「そんな訳で私は恋人を探しているのだけれど……ゆう君は誰か私の事を美人だって言ってくれる友達はしらないかな?」
「少なくとも僕の友達はみんな芋っぽいって言ってるよ」
そして、スカートの中からは1本、長くてうねる尻尾のようなものが顔をのぞかせ、まるで別個の生き物か何かのようにうねっていた。
「もしその運命の人ってのを見つけたら姉ちゃんはどうするの?」
「もちろんその人を連れて私の世界へ戻るつもり♪」
認めたくなかった。
僕の日常に、明らかに異質なものが混ざっている。
その歪みは周囲に見えないまでも僕にははっきりと見えるわけで……それが不気味さをより一層際立たせていた。
「ちなみにその人の意思は?」
「そうねぇ……よっぽどの理由がない限りは従ってもらうかなぁ。でもね、向こうはいい所なんだよ。景色も綺麗だし、皆いい人ばかりだし。絶対に気に入ると思うな」
それはまるで……
「どうでもいいけどそろそろ帰ろうよ。寒くなってきたし」
「あら、全然信じてない?」
「当たり前。この科学の時代に魔法とか異世界とかありえないでしょ、ラノベじゃあるまいし。そんな事にかまけている暇があったら受験のための勉強に励んだほうが有意義じゃない?」
「むぅ……おもしろくな〜い」
─淫魔─
夕焼けの空の下、学校の屋上から街を眺める彼女はまさしく人間ではなく、ファンタジー一般や昔の伝説に出てきそうなサキュバスそのものだったのだ。
こうして、僕の日常にほんの少し歪みを添えつつ……姉ちゃんができた。
14/03/05 15:27更新 / テラー
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