第六十五話・すぐそこにある計と縁
「負けます。」
ハインケルの放ったその一言に、大聖堂奥に存在する円卓の間は騒然となった。
ヴァルハリア教会の大司教以下高位聖職者は、勇者と信じる者から放たれた絶望的な言葉に恐れおののき、身体を打ち震わせて嘆き悲しんだ。
フウム王国国王フィリップは一人憤然とした様子で動じていなかったものの、やはり王国諸侯も同様の反応を見せていた。
どれだけ動揺が激しかったのか、それは後世に残る軍議の議事録を筆記する書記官たちの文字の乱れ方、思わずペンを握ったまま立ち上がったであろうインクの汚れから、それは想像に難くない。
そんな人々の動揺を尻目に、ハインケルは内心、クスリと笑って言葉を繋いだ。
「このままでは負ける、と言っているのです。これから皆様方に申し上げるべきこと、まず第一に教会領で流通する貨幣価値があまりに低く、兵糧を商人たちから買っていたのでは軍を維持することは非常に困難。」
もちろん、それも彼の行った策の一つ。
商人たちと結び付き、低い貨幣価値にも関わらず食料の価格を釣り上げ、教会の財産、軍資金をすっかり使わせてしまい、その上で他国に出回るものよりも二等級も粗悪な品を売り付けさせたのである。
もちろん、表立って彼が動いた訳ではなく、彼の意のままに動く魔王軍特殊部隊の腹心が、ハインケルの指示でそれを代行したのであった。
「そ、それでは…、兵卒として参戦させた領民をまた農業に従事させて…。」
「それは出来ません。やっと彼らは兵士らしくなってきた。今彼らを農地に帰せば、来たるべき戦争の際、どれ程の数が兵として戻ってくるか…。おそらく半分にも満たないでしょうな。里心が付かないとも限らない。それに農業に従事させたとして、収穫してから兵士を養える程の備蓄を作るのに…、恐れながら教会領の農業技術では最低5年はかかりましょう。」
兵士らしくなった、というのは嘘である。
もっとも形の上ではそれらしくなった。
揃いの鎧と剣や槍を身に付け、それなりの扱いは身に付けた。
だが、士気は低いのである。
聖騎士として教会に祭り上げられたヴァル=フレイヤが魔物と心を通わしたという噂や、フウム王国がクゥジュロ草原で大敗を喫し、生き残った者たちが口々に草原で戦ったケンタウロスの見事さと如何にして敗れたのかを語ったために、その話に尾ひれが付いて領民たちに伝わったからである。
元々閉鎖された世界の人々であったことと、ハインケルにとっては想定外の出来事であったが、ダオラが復讐のために暴れた恐怖が彼らの精神に想像以上の傷を残し、彼らの戦意を今一つ上がらないところで留めていた。
「第二に……、これはフィリップ王、あなたに原因があります。」
「私に…、原因だと!!」
先の戦闘で寵愛した次男を失ったフィリップは声を荒げた。
ハインケルは彼の剣幕など眼中にないように言葉を続ける。
「後継者であると目下期待されていたカール王子を亡くされて悲嘆に暮れている場合ではありません。彼の亡き今、あなたにもしものことがあったら、誰が王国を継ぐのですか?順当に行けば御長男のジャン王子でしょうが、あなたとは反目し合う仲。はっきり申し上げれば、そう言った意味ではフウム王国は不安要素でしかないのですよ。我々の背後からあなたを攻め滅ぼそうとフウム王国残留軍が迫ってくる。前からは神敵たちが魔物の群れが迫り来る。挟み撃ちを彼らが提案し合ったら……。後はわかりますよね。」
フィリップ王は顔を強張らせた。
彼も考えなかったことではない。
長男、ジャン王子は親魔物という程の主義ではないが、それでも王国の安寧を考えれば魔物を滅ぼし、教会に擦り寄る今の王の政策よりも、もっと柔軟に彼らの不満を一つ一つ取り除いて、親魔とまで行かずともせめて共存という道を選んだ方が、進んだ技術のある親魔物国家とも、より深く交流が出来ると考えていたのだが、フィリップ王はそれに真っ向から対立していた。
発展よりも信仰を、それがフィリップの主義である。
フィリップは苦々しい顔をした。
だが、ハインケルはおそらく彼が取るであろう行動を予測済みだったので、彼に構わず話を続けた。
「最後に、同胞である国家が何故動かないのか。答えは簡単です。ヴァルハリア教会の影響力が弱まった、それだけです。ですが、影響力が弱まったということは我々の敵になる可能性が高い、ということです。」
事実は違う。
ハインケルの言う通りヴァルハリア教会が教義の中心になって、300年という時間を歴史に刻んできたため、周辺の反魔物国家もその歴史に名を刻んだ頃程の情熱的な信仰ではないものの、ヴァルハリアにはそれなりの敬意を以って接して来たのだが、今回の戦争は事情が違う。
いかに反魔物の立場を取っているとはいえ、今回の戦争は些細な諍いが原因であり、軍を動かしたフウム王国にも、その勅命を出したヴァルハリアにも大義がないと見て静観しているにすぎないのだが、ハインケルは彼らの不安な心理を見事に突いたのである。
同胞の反魔物国家が離反するかもしれない、その言葉はどんな弁舌よりも効果的だった。
「あなた方は、現在非常に多くの敵に囲まれています。中立地帯にも神を恐れぬ無法の魔物がおり、しかも神敵は領地こそないものの実に強大な勢力であり、我々は味方ですら信じることが出来ない。そこで、です。私にこの状況を覆す策があるのです。」
円卓の間に集う諸侯が、一斉にハインケルに集中する。
ここで作者としては読者貴兄に一つ、注意しておこう。
詐欺の常套手段とは、相手を不安にさせるだけさせておいて、その不安が最高点に達した時に救いの手を、あたかも親の愛情のようにやさしく、唯一無比の救世主のように差し出すのである。
ここで注意すべきは不安にさせるのも、救いの手を差し伸べるのもその者なのである。
あたかも甘い餌で釣っているのだが、その実態は非常に苦い薬なのである。
しかもその苦い餌に本人は気が付かず、気付く以前に本人は信じ切って露にも騙されているなど思わず、苦さに気が付いた時には手遅れになっているのが詐欺というものなのである。
ハインケルの提案した策は、まさにそれであった。
「ここは一旦、目標を神敵のいる町ではなく、別の場所を攻めるのです。目指すはヴァルハリアの隣国、神聖ルオゥム帝国。かつてはヴァルハリアの、いえ、神の尖兵と呼ばれた者たちにも関わらず、大司教猊下の布告に呼応せず、いまだ傍観を決め込んでいる彼らを見せしめにするのです。そうすれば、他の反魔物国家は目が覚めるでしょう。自分が誰に従い、何に忠誠を誓い、世界を救うのかを…。」
兵糧も他の問題も、かの地を接収すれば一気に片が付くとハインケルは言う。
そして数刻後、ヴァルハリア教会大司教ユリアスの勅命が発せられる。
それは目標を、教会に従わぬ隣国を征伐するという勅命。
ハインケルは会議場を出るとニヤリと笑った。
彼にとって反魔物勢力などどうでも良かった。
滅びようが生き残ろうが、彼には関係ない。
魔王が如何に急激な変化を嫌おうと、それが人の手による滅びならば、魔王も仕方がない、それが彼らの運命なのだろうねと微笑んで文句は言わない。
ハインケルは魔王に付けられたリミッターの中、彼は今のところ手を抜いて口を動かすだけ。
決して強要した訳ではないのに、決断し、勝手に滅びへと向かうのは彼ら。
ハインケル=ゼファー。
強大な魔力を持ちながら、その舌だけで世界を掻き回す。
尚、余談ではあるが彼の功績はヴァルハリア教会に残る記録に残されていない。
彼の配下がそういう風に改ざんしたのか、それとも教会側が自らの功績として、ハインケルの功績を横取りしようとしたのか…。
ヴァルハリア教会領が滅んで30年も経った今では知る由もない。
―――――――――――――――――――――――
場所は名もなき場所に移る。
この日もダオラは町の治安警備のために、町を歩いてパトロールをしていた。
もっとも彼女の場合、ただの趣味の散歩のこじ付けである部分も多々あるのだが…。
この日、ダオラが立ち寄ったのは学園裏山に拓かれたオリハルコン鉱山麓に出来た鍛冶屋横町だった。
良質なオリハルコン、それ以外の鉱石も次々と見付かるのでいつの間にか鉱山の麓に工房が出来、砂漠の兄弟社の紹介で町に入ってきたサイプロクスたちを筆頭とした刀鍛冶が次々と工房を建て、いつの間にか横丁と呼ばれる規模にまで発展していた。
今日も小気味の良い金属を叩く音と、それを加工して売り捌く人々の活気に溢れた声が響き渡る。
「よ、おねーさん!うちの剣は何でも切れるよぉ。人参、カボチャ、鉄パイプだってご覧の通りスッパスパ。盾だって見事なもんさぁ。どんな剣も槍も機械弓だって弾いちゃうんだからさ。どうだい、一つ!」
捻じり鉢巻の威勢の良い男がダオラに商売を持ちかけた。
「ふふふ、うつけめ。それを東方では、矛盾、と言うのだぞ。」
「何だい、そりゃ?」
知りたければ学園で学ぶと良い、そう言ってダオラは笑ってあしらう。
ダオラは感心していた。
サイプロクスの見事な鍛冶の腕、それを立派に武具に仕立て上げる工房の職人たちの腕もさることながら、戦争が始まろうかとしているのに、人々の活気には陰りがない。
中には戦争から、戦火から命辛々逃げてきたというのに、誰の目にも諦めの色がない。
心地の良い熱気の中、ダオラは彼らと共に時間を過ごす。
そして、ダオラが何気なく横丁を散歩していると一人の鍛冶屋で女が赤く焼けた鉄をハンマーで叩いている姿に目が止まった。
女が鉄を打つのは珍しくもない。
現にサイプロクスたちが鉄を叩いているような世界なのである。
彼女がダオラの目に留まったのは、その姿そのものであった。
傷だらけの身体。
作業着の上をはだけ、タンクトップ一枚で鉄を打つ身体には拷問や陵辱で付いた傷ではなく、紛れもない戦闘で刻んだ傷が無数に見え隠れしていた。
美しい顔にも大きな傷が走り、左目は火傷の痕で塞がったまま。
左足は義足で、もう戦闘など出来そうにない彼女。
頭部には折れた角。
片方の翼を失い、尻尾と手足だけが辛うじてその誇り高き種族の名を誇示する。
彼女は傷付いたドラゴンだった。
ダオラは、そんな傷付いた彼女に興味を持ち彼女の工房の開かれた入り口の前に立つ。
「…何か用かい?」
彼女は振り向かないまま、ただダオラの気配だけを感じてダオラよりも先に声をかけた。
「あ…、いや…、すまぬ。外から同族のそなたの姿が見えたので、少々昔を懐かしく思ってしまった。何も考えずにそなたの邪魔をしてしまって…、すまない。」
彼女は鉄を打つ手を止めない。
ダオラは工房の中を見回した。
おびただしい失敗作であろう折れた剣が床に散乱しているかと思えば、一見して業物であるという存在感を放つ数本の剣が壁に立てかけられている工房は、どこにでも見られる熱の帯びた光景。
壁に立てかけられた剣から、彼女が鍛冶屋としての腕前を知ることが出来る。
「ちょっと待ってな。こいつが終わったら一息入れるから、そこの椅子に腰かけて待っててくれ。」
「…ああ、そうさせてもらおう。」
ダオラは言われるままに彼女の言う椅子に座った。
同族と会話など何年ぶりだろう、とダオラが嬉しそうに彼女を眺めていると、その向こうに、他の剣よりも大事そうに吊るされた一振りの剣に目が止まる。
それは大陸の直刀ではなく、東方、それもジパング地方で見られる湾曲した剣。
おそらく片刃の剣だろう。
ただそれがジパングから流れて来た剣だと彼女は考えられなかった。
柄や鍔の拵えは間違いなく大陸風。
そして鞘に関して言えば、それはまさしく…。
「悪いね、やっと終わった。今日、どうしても後一振り納品しなくちゃいけなくて……って、あの剣が気になるのかい?お目が高いねぇ、さすが同族。あの鞘はあたいの鱗と甲殻で出来てるのさ。そんじょそこらの鍛冶屋だって、あれ以上のもんは出来ねえだろうね。」
「……失った足、であるか。」
「そうさ。十云年前に反魔物の連中に不覚を取った時になくしちまった足さ。そのまま捨てちまうのはもったいないから、骨ごと全部剣に叩き直してもらった。さすがにアレはあたいの作ったものじゃないよ。あたいの師匠のサイプロクスに打ってもらったのさ。」
昔を懐かしむように彼女は遠くを見る。
「ああ、お互いに自己紹介がまだであったな。我は……。」
「知ってる、ダオラだろ。同族の寄り合いで何度か顔は見たことがあるし、あんたの事情は鍛冶仲間の間でも有名だったから、あたいはあんたを知ってるけど、それじゃあんまりにも不公平だよね。お互い、こうして話をするのは初めてだし。あたいはカンヘル。
カンヘル=ドライグってんだ。よろしくな。」
―――――――――――――――――――――――
ウェールズがフラン軒で働き始めて2日が経った。
町で暴れた経歴があるため、今日も皿洗いや、ゴミ出し、閉店後の掃除など裏方に従事し、身体を酷使する。
少年の時に人並みの幸せを捨てて以来、剣を振るうこと以外に動かしたことのない身体は、2日間の労働に悲鳴を上げていた。
そんな中でもウェールズはアケミに与えられた部屋の中で、一人サクラに砕かれた義手の修理をしていた。
彼の義手は部品さえあれば、誰にでも修理出来るという意外に簡素な構造をしており、純正の部品のない状況でも、何とか時間をかけて手の甲と中指までが復活し、彼の身体に感覚を伝え始めていたのである。
「……あら、まだ寝ていなかったんですか?鉄いじりも良いですけど、そんなに眠れないくらい悶々としているのなら、娼館にでも行って女の子に慰めてもらいに行きなさいな。良い大人なんだから。」
寝巻き姿のアケミが部屋の前を通る。
ウェールズは顔を上げずに一言、ボソリ。
「女は……、いらん…。」
「あら、そ?でも明日も早いんですから、早めに寝るんですよ。」
ウェールズは基本的に寝ない。
眠るのが怖いのである。
あの日、反魔物勢力に襲われた記憶が、大事な母を守ってやれなかった記憶が後悔と共に10年経った今でも彼を苦しめているのである。
眠るのは昼間のごく僅かな時間だけ。
それが彼の生活スタイルなのである。
アケミもそれとなく感じているため深くは言わない。
「こんなものか…。」
三本指の義手が軋みながら動く。
油を挿してやらないと、と彼が工具箱を手に取った時、自分の剣が目に入った。
サクラに負けて以来、一度も抜いていない剣をウェールズは取る。
今まで羽根のように軽かった剣は、まるで鉛のように重く感じた。
それが彼の心の重さなのか、彼自身にもわからない。
ウェールズは試しに剣を鞘から引き抜いた。
何も変わりはない。
いつも通りだ、と思った彼は自分の剣の刀身を見て愕然とした。
「……刃が、欠けている!?」
まるでのこぎりの刃のように彼の剣は刃こぼれを起こしていた。
いくつもの傷の入った刀身は、まるで彼に限界だと訴えているようだった。
刀身に映る自分の顔に、彼は柄を握る手に力が入る。
「…何だ、この間抜けな顔は。間抜けも間抜けではないか…。俺は、こうなってもまだ気が付いていなかったのか!母さんが、心血注いで教えてくれた技を俺は…、自分の道具にでさえ気にかけることも怠って、戦っていたというのか!俺は負けることは許されぬ身だと言うのに、これでは負けて当然だ…。復讐など……、この程度の男に出来るはずもないだろう!!!」
剣を床に叩き付け、拳を怒りに任せ床に叩き付け、ウェールズは泣き崩れた。
誰にも聞かれたくなくて、声を殺して泣き続けた。
何度も何度も自分の無力さと、視界の狭さに打ちのめされ、初めて自ら認めてしまった敗北に、彼は今まで築き上げたウェールズ=ドライグという人間を砕かれたという錯覚に陥っていた。
何時間泣き続けただろう。
泣き疲れた子供のように、ウェールズは眠った。
床に突っ伏したままの彼の背中に、アケミのカーディガンが乗せられていた。
ハインケルの放ったその一言に、大聖堂奥に存在する円卓の間は騒然となった。
ヴァルハリア教会の大司教以下高位聖職者は、勇者と信じる者から放たれた絶望的な言葉に恐れおののき、身体を打ち震わせて嘆き悲しんだ。
フウム王国国王フィリップは一人憤然とした様子で動じていなかったものの、やはり王国諸侯も同様の反応を見せていた。
どれだけ動揺が激しかったのか、それは後世に残る軍議の議事録を筆記する書記官たちの文字の乱れ方、思わずペンを握ったまま立ち上がったであろうインクの汚れから、それは想像に難くない。
そんな人々の動揺を尻目に、ハインケルは内心、クスリと笑って言葉を繋いだ。
「このままでは負ける、と言っているのです。これから皆様方に申し上げるべきこと、まず第一に教会領で流通する貨幣価値があまりに低く、兵糧を商人たちから買っていたのでは軍を維持することは非常に困難。」
もちろん、それも彼の行った策の一つ。
商人たちと結び付き、低い貨幣価値にも関わらず食料の価格を釣り上げ、教会の財産、軍資金をすっかり使わせてしまい、その上で他国に出回るものよりも二等級も粗悪な品を売り付けさせたのである。
もちろん、表立って彼が動いた訳ではなく、彼の意のままに動く魔王軍特殊部隊の腹心が、ハインケルの指示でそれを代行したのであった。
「そ、それでは…、兵卒として参戦させた領民をまた農業に従事させて…。」
「それは出来ません。やっと彼らは兵士らしくなってきた。今彼らを農地に帰せば、来たるべき戦争の際、どれ程の数が兵として戻ってくるか…。おそらく半分にも満たないでしょうな。里心が付かないとも限らない。それに農業に従事させたとして、収穫してから兵士を養える程の備蓄を作るのに…、恐れながら教会領の農業技術では最低5年はかかりましょう。」
兵士らしくなった、というのは嘘である。
もっとも形の上ではそれらしくなった。
揃いの鎧と剣や槍を身に付け、それなりの扱いは身に付けた。
だが、士気は低いのである。
聖騎士として教会に祭り上げられたヴァル=フレイヤが魔物と心を通わしたという噂や、フウム王国がクゥジュロ草原で大敗を喫し、生き残った者たちが口々に草原で戦ったケンタウロスの見事さと如何にして敗れたのかを語ったために、その話に尾ひれが付いて領民たちに伝わったからである。
元々閉鎖された世界の人々であったことと、ハインケルにとっては想定外の出来事であったが、ダオラが復讐のために暴れた恐怖が彼らの精神に想像以上の傷を残し、彼らの戦意を今一つ上がらないところで留めていた。
「第二に……、これはフィリップ王、あなたに原因があります。」
「私に…、原因だと!!」
先の戦闘で寵愛した次男を失ったフィリップは声を荒げた。
ハインケルは彼の剣幕など眼中にないように言葉を続ける。
「後継者であると目下期待されていたカール王子を亡くされて悲嘆に暮れている場合ではありません。彼の亡き今、あなたにもしものことがあったら、誰が王国を継ぐのですか?順当に行けば御長男のジャン王子でしょうが、あなたとは反目し合う仲。はっきり申し上げれば、そう言った意味ではフウム王国は不安要素でしかないのですよ。我々の背後からあなたを攻め滅ぼそうとフウム王国残留軍が迫ってくる。前からは神敵たちが魔物の群れが迫り来る。挟み撃ちを彼らが提案し合ったら……。後はわかりますよね。」
フィリップ王は顔を強張らせた。
彼も考えなかったことではない。
長男、ジャン王子は親魔物という程の主義ではないが、それでも王国の安寧を考えれば魔物を滅ぼし、教会に擦り寄る今の王の政策よりも、もっと柔軟に彼らの不満を一つ一つ取り除いて、親魔とまで行かずともせめて共存という道を選んだ方が、進んだ技術のある親魔物国家とも、より深く交流が出来ると考えていたのだが、フィリップ王はそれに真っ向から対立していた。
発展よりも信仰を、それがフィリップの主義である。
フィリップは苦々しい顔をした。
だが、ハインケルはおそらく彼が取るであろう行動を予測済みだったので、彼に構わず話を続けた。
「最後に、同胞である国家が何故動かないのか。答えは簡単です。ヴァルハリア教会の影響力が弱まった、それだけです。ですが、影響力が弱まったということは我々の敵になる可能性が高い、ということです。」
事実は違う。
ハインケルの言う通りヴァルハリア教会が教義の中心になって、300年という時間を歴史に刻んできたため、周辺の反魔物国家もその歴史に名を刻んだ頃程の情熱的な信仰ではないものの、ヴァルハリアにはそれなりの敬意を以って接して来たのだが、今回の戦争は事情が違う。
いかに反魔物の立場を取っているとはいえ、今回の戦争は些細な諍いが原因であり、軍を動かしたフウム王国にも、その勅命を出したヴァルハリアにも大義がないと見て静観しているにすぎないのだが、ハインケルは彼らの不安な心理を見事に突いたのである。
同胞の反魔物国家が離反するかもしれない、その言葉はどんな弁舌よりも効果的だった。
「あなた方は、現在非常に多くの敵に囲まれています。中立地帯にも神を恐れぬ無法の魔物がおり、しかも神敵は領地こそないものの実に強大な勢力であり、我々は味方ですら信じることが出来ない。そこで、です。私にこの状況を覆す策があるのです。」
円卓の間に集う諸侯が、一斉にハインケルに集中する。
ここで作者としては読者貴兄に一つ、注意しておこう。
詐欺の常套手段とは、相手を不安にさせるだけさせておいて、その不安が最高点に達した時に救いの手を、あたかも親の愛情のようにやさしく、唯一無比の救世主のように差し出すのである。
ここで注意すべきは不安にさせるのも、救いの手を差し伸べるのもその者なのである。
あたかも甘い餌で釣っているのだが、その実態は非常に苦い薬なのである。
しかもその苦い餌に本人は気が付かず、気付く以前に本人は信じ切って露にも騙されているなど思わず、苦さに気が付いた時には手遅れになっているのが詐欺というものなのである。
ハインケルの提案した策は、まさにそれであった。
「ここは一旦、目標を神敵のいる町ではなく、別の場所を攻めるのです。目指すはヴァルハリアの隣国、神聖ルオゥム帝国。かつてはヴァルハリアの、いえ、神の尖兵と呼ばれた者たちにも関わらず、大司教猊下の布告に呼応せず、いまだ傍観を決め込んでいる彼らを見せしめにするのです。そうすれば、他の反魔物国家は目が覚めるでしょう。自分が誰に従い、何に忠誠を誓い、世界を救うのかを…。」
兵糧も他の問題も、かの地を接収すれば一気に片が付くとハインケルは言う。
そして数刻後、ヴァルハリア教会大司教ユリアスの勅命が発せられる。
それは目標を、教会に従わぬ隣国を征伐するという勅命。
ハインケルは会議場を出るとニヤリと笑った。
彼にとって反魔物勢力などどうでも良かった。
滅びようが生き残ろうが、彼には関係ない。
魔王が如何に急激な変化を嫌おうと、それが人の手による滅びならば、魔王も仕方がない、それが彼らの運命なのだろうねと微笑んで文句は言わない。
ハインケルは魔王に付けられたリミッターの中、彼は今のところ手を抜いて口を動かすだけ。
決して強要した訳ではないのに、決断し、勝手に滅びへと向かうのは彼ら。
ハインケル=ゼファー。
強大な魔力を持ちながら、その舌だけで世界を掻き回す。
尚、余談ではあるが彼の功績はヴァルハリア教会に残る記録に残されていない。
彼の配下がそういう風に改ざんしたのか、それとも教会側が自らの功績として、ハインケルの功績を横取りしようとしたのか…。
ヴァルハリア教会領が滅んで30年も経った今では知る由もない。
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場所は名もなき場所に移る。
この日もダオラは町の治安警備のために、町を歩いてパトロールをしていた。
もっとも彼女の場合、ただの趣味の散歩のこじ付けである部分も多々あるのだが…。
この日、ダオラが立ち寄ったのは学園裏山に拓かれたオリハルコン鉱山麓に出来た鍛冶屋横町だった。
良質なオリハルコン、それ以外の鉱石も次々と見付かるのでいつの間にか鉱山の麓に工房が出来、砂漠の兄弟社の紹介で町に入ってきたサイプロクスたちを筆頭とした刀鍛冶が次々と工房を建て、いつの間にか横丁と呼ばれる規模にまで発展していた。
今日も小気味の良い金属を叩く音と、それを加工して売り捌く人々の活気に溢れた声が響き渡る。
「よ、おねーさん!うちの剣は何でも切れるよぉ。人参、カボチャ、鉄パイプだってご覧の通りスッパスパ。盾だって見事なもんさぁ。どんな剣も槍も機械弓だって弾いちゃうんだからさ。どうだい、一つ!」
捻じり鉢巻の威勢の良い男がダオラに商売を持ちかけた。
「ふふふ、うつけめ。それを東方では、矛盾、と言うのだぞ。」
「何だい、そりゃ?」
知りたければ学園で学ぶと良い、そう言ってダオラは笑ってあしらう。
ダオラは感心していた。
サイプロクスの見事な鍛冶の腕、それを立派に武具に仕立て上げる工房の職人たちの腕もさることながら、戦争が始まろうかとしているのに、人々の活気には陰りがない。
中には戦争から、戦火から命辛々逃げてきたというのに、誰の目にも諦めの色がない。
心地の良い熱気の中、ダオラは彼らと共に時間を過ごす。
そして、ダオラが何気なく横丁を散歩していると一人の鍛冶屋で女が赤く焼けた鉄をハンマーで叩いている姿に目が止まった。
女が鉄を打つのは珍しくもない。
現にサイプロクスたちが鉄を叩いているような世界なのである。
彼女がダオラの目に留まったのは、その姿そのものであった。
傷だらけの身体。
作業着の上をはだけ、タンクトップ一枚で鉄を打つ身体には拷問や陵辱で付いた傷ではなく、紛れもない戦闘で刻んだ傷が無数に見え隠れしていた。
美しい顔にも大きな傷が走り、左目は火傷の痕で塞がったまま。
左足は義足で、もう戦闘など出来そうにない彼女。
頭部には折れた角。
片方の翼を失い、尻尾と手足だけが辛うじてその誇り高き種族の名を誇示する。
彼女は傷付いたドラゴンだった。
ダオラは、そんな傷付いた彼女に興味を持ち彼女の工房の開かれた入り口の前に立つ。
「…何か用かい?」
彼女は振り向かないまま、ただダオラの気配だけを感じてダオラよりも先に声をかけた。
「あ…、いや…、すまぬ。外から同族のそなたの姿が見えたので、少々昔を懐かしく思ってしまった。何も考えずにそなたの邪魔をしてしまって…、すまない。」
彼女は鉄を打つ手を止めない。
ダオラは工房の中を見回した。
おびただしい失敗作であろう折れた剣が床に散乱しているかと思えば、一見して業物であるという存在感を放つ数本の剣が壁に立てかけられている工房は、どこにでも見られる熱の帯びた光景。
壁に立てかけられた剣から、彼女が鍛冶屋としての腕前を知ることが出来る。
「ちょっと待ってな。こいつが終わったら一息入れるから、そこの椅子に腰かけて待っててくれ。」
「…ああ、そうさせてもらおう。」
ダオラは言われるままに彼女の言う椅子に座った。
同族と会話など何年ぶりだろう、とダオラが嬉しそうに彼女を眺めていると、その向こうに、他の剣よりも大事そうに吊るされた一振りの剣に目が止まる。
それは大陸の直刀ではなく、東方、それもジパング地方で見られる湾曲した剣。
おそらく片刃の剣だろう。
ただそれがジパングから流れて来た剣だと彼女は考えられなかった。
柄や鍔の拵えは間違いなく大陸風。
そして鞘に関して言えば、それはまさしく…。
「悪いね、やっと終わった。今日、どうしても後一振り納品しなくちゃいけなくて……って、あの剣が気になるのかい?お目が高いねぇ、さすが同族。あの鞘はあたいの鱗と甲殻で出来てるのさ。そんじょそこらの鍛冶屋だって、あれ以上のもんは出来ねえだろうね。」
「……失った足、であるか。」
「そうさ。十云年前に反魔物の連中に不覚を取った時になくしちまった足さ。そのまま捨てちまうのはもったいないから、骨ごと全部剣に叩き直してもらった。さすがにアレはあたいの作ったものじゃないよ。あたいの師匠のサイプロクスに打ってもらったのさ。」
昔を懐かしむように彼女は遠くを見る。
「ああ、お互いに自己紹介がまだであったな。我は……。」
「知ってる、ダオラだろ。同族の寄り合いで何度か顔は見たことがあるし、あんたの事情は鍛冶仲間の間でも有名だったから、あたいはあんたを知ってるけど、それじゃあんまりにも不公平だよね。お互い、こうして話をするのは初めてだし。あたいはカンヘル。
カンヘル=ドライグってんだ。よろしくな。」
―――――――――――――――――――――――
ウェールズがフラン軒で働き始めて2日が経った。
町で暴れた経歴があるため、今日も皿洗いや、ゴミ出し、閉店後の掃除など裏方に従事し、身体を酷使する。
少年の時に人並みの幸せを捨てて以来、剣を振るうこと以外に動かしたことのない身体は、2日間の労働に悲鳴を上げていた。
そんな中でもウェールズはアケミに与えられた部屋の中で、一人サクラに砕かれた義手の修理をしていた。
彼の義手は部品さえあれば、誰にでも修理出来るという意外に簡素な構造をしており、純正の部品のない状況でも、何とか時間をかけて手の甲と中指までが復活し、彼の身体に感覚を伝え始めていたのである。
「……あら、まだ寝ていなかったんですか?鉄いじりも良いですけど、そんなに眠れないくらい悶々としているのなら、娼館にでも行って女の子に慰めてもらいに行きなさいな。良い大人なんだから。」
寝巻き姿のアケミが部屋の前を通る。
ウェールズは顔を上げずに一言、ボソリ。
「女は……、いらん…。」
「あら、そ?でも明日も早いんですから、早めに寝るんですよ。」
ウェールズは基本的に寝ない。
眠るのが怖いのである。
あの日、反魔物勢力に襲われた記憶が、大事な母を守ってやれなかった記憶が後悔と共に10年経った今でも彼を苦しめているのである。
眠るのは昼間のごく僅かな時間だけ。
それが彼の生活スタイルなのである。
アケミもそれとなく感じているため深くは言わない。
「こんなものか…。」
三本指の義手が軋みながら動く。
油を挿してやらないと、と彼が工具箱を手に取った時、自分の剣が目に入った。
サクラに負けて以来、一度も抜いていない剣をウェールズは取る。
今まで羽根のように軽かった剣は、まるで鉛のように重く感じた。
それが彼の心の重さなのか、彼自身にもわからない。
ウェールズは試しに剣を鞘から引き抜いた。
何も変わりはない。
いつも通りだ、と思った彼は自分の剣の刀身を見て愕然とした。
「……刃が、欠けている!?」
まるでのこぎりの刃のように彼の剣は刃こぼれを起こしていた。
いくつもの傷の入った刀身は、まるで彼に限界だと訴えているようだった。
刀身に映る自分の顔に、彼は柄を握る手に力が入る。
「…何だ、この間抜けな顔は。間抜けも間抜けではないか…。俺は、こうなってもまだ気が付いていなかったのか!母さんが、心血注いで教えてくれた技を俺は…、自分の道具にでさえ気にかけることも怠って、戦っていたというのか!俺は負けることは許されぬ身だと言うのに、これでは負けて当然だ…。復讐など……、この程度の男に出来るはずもないだろう!!!」
剣を床に叩き付け、拳を怒りに任せ床に叩き付け、ウェールズは泣き崩れた。
誰にも聞かれたくなくて、声を殺して泣き続けた。
何度も何度も自分の無力さと、視界の狭さに打ちのめされ、初めて自ら認めてしまった敗北に、彼は今まで築き上げたウェールズ=ドライグという人間を砕かれたという錯覚に陥っていた。
何時間泣き続けただろう。
泣き疲れた子供のように、ウェールズは眠った。
床に突っ伏したままの彼の背中に、アケミのカーディガンが乗せられていた。
11/01/12 00:31更新 / 宿利京祐
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