第五十七話・狼牙Bやさしい時間
狼牙は再び戦場にいた。
稲荷から言われた言葉が、間違いだと言わんばかりに敵軍を蹂躙していく。
狼牙の率いる丸蝶党も、そんな思惑の外で存分に武勇を奮った。
若き日の龍雅も戦場を駆け抜ける。
薙刀一本では足りないと、太刀を抜き放ち、あらん限りの力で嵐を作り、間合いに入る敵すべてを斬り捨てていった。
「紅 禄衛門、参上!我と一騎打ちせし猛者はいずこにある!!!」
「熊野守繁、見参!!そなたに一騎討ちを望む者!!」
「いざっ!!!」
あちこちで武勇を示す者たちが一騎討ちに興じる。
狼牙はその中にいて、一騎討ちを望む者を無視するように馬と止めることなく擦れ違い様にその薙刀で首を刎ねていく。
「我こそは青木じろ…!?」
「邪魔だ…。」
狼牙は相手を視界に入れることなく、馬を止めずに首を討つ。
将も兵もその光景に恐れを抱いた。
近付けば首なく倒れ、しかも誇りにもされない。
それどころか容赦なく、無慈悲にただ蹂躙されていく恐怖。
恐怖で兵卒の群れは崩れ始める。
しかし狼牙は追撃をやめなかった。
逃げる兵たちの後ろから首を刎ね、背後から突き刺す。
狼牙は苛立っていた。
稲荷の宗近の言葉がいつまでもチラついていた。
『あなたはあなたの憎む者と変わらない。ただの死神、それも無差別にして無意味に命を刈り取る忌むべき祟り神。あなたが歩もうとする道は、矛盾と破滅以外に先がないのです。』
思い出すたびに彼は奥歯を噛み締めた。
そんな苛付きを狼牙は敵兵にぶつけ続けていた。
彼自身無自覚に。
「待つんだ、カズサ!!いくらなんでも一人で先行しすぎだ!!!」
綾乃がやっと追い付き、狼牙の肩を掴んだ。
「綾乃か。」
「綾乃か、ではない。一体どうしたというんだ。お前らしくもない…。」
「どうもしない。俺は俺の目的のためなら手段を選ばん…、そう決めただけだ。」
「稲荷様と…、何かあったのか?」
「お前が知る必要はない。」
狼牙は顔を背ける。
自分が今何をしているのか、それに気付くと彼は綾乃の顔を直視出来かった。
「…だがいくら何でも深入りしすぎだ。こんな戦程度で不意を突かれでもしたらそれこそ無駄死になるぞ。」
「…わかった。丸蝶党、それぞれの敵を撃破せし後、あの崩れた兵を尽く、ただの一人も残らず滅ぼし、討ち取った首は積み上げ塚とし、敵陣近くに晒せ!我ら丸蝶党、我が名、沢木上総乃丞狼牙の名を聞くだけで恐怖と死ぬようにだ!!」
「カズサ!!!」
綾乃が引き止めるのを聞かずに狼牙は本陣へと引き返す。
綾乃も狼牙の後を追い掛けて本陣へ戻っていった。
わずか50名の騎兵が、雑兵たちを討ち滅ぼし、首を積み上げる。
その光景に恐れを抱いたのは敵だけではなかった。
味方も狼牙に恐れを抱き始めていたのである。
領主、村上益昌は近臣に語った。
「あの傾き者…、沢木の小倅め…。武勇だけでなく、人を惹き付ける何かを持つ厄介な者だとはわかっておったが……。最近、敵を躊躇なく滅するという、げにも恐ろしき知恵を付けおった。わしも下克上で成り上がった身。前領主は明日の我が身とも限らん。そうなる前に……、なんとかせねば……。」
―――――――――――――――
日が暮れて、俺は綾乃の屋敷へと招かれた。
馬の口を取るのは綾乃の屋敷の下男。
「おひぃ様はお待ちですよ。」
「そう急くな。月もない夜だ。お前の提灯だけが頼りなんだぜ。」
「へぇ〜い。」
腰の太刀に付けた鈴がチリンとなる。
子供の頃に綾乃に貰ったものだ。
「沢木様、まだおひぃ様の鈴をお持ちでしたか。」
「……ああ。これがあるとな、いつもあいつと一緒にいられる気がする。綾乃には言うなよ?」
「それはどうしましょうか…。あたしゃ、おひぃ様の下男ですから、おひぃ様に言えと言われれば、言わなければいけませんのですよ。」
「…………今度、酒でも届けてやるよ。」
「えっへっへ、召使仲間も喜びますです、はい。」
そんなやり取りをしているうちに綾乃の屋敷に辿り着いた。
それ程大きくないが、綾乃らしい趣のある玄関。
小さくとも品良く整えられた庭園は、彼女の性格をよく現している。
「では、馬屋に繋いでおきますので…。」
「ああ、よろしくたの……ん?」
下男の尻に見慣れた…、尻尾?
そう、狐の…。
まさか!?
「てめぇ、もしかして!?」
「ほほほ、やっと気付きましたか愚か者。」
「何で下山しているんだよ!!宗近、自分の寺はどうした!?」
頭に巻いた手拭を取ると、そこには見慣れた耳と顔が正体を現した。
宗近はクルリと回ると、下男の粗末な着物から、いつもの美しい着物に身を包み、庭の岩の上に腰掛けて、袖で口を隠して笑う。
「何でここにいるんだよ!帰れよ、クソババア!!」
ゴスッ
腰掛けた岩が紙のように千切られ目にも留まらぬ速さで投げ付けられた。
避け切れずに直撃し、頭から血を流して大地に伏す。
「まったく…。その無礼な口をどうにかしないといけないようですね。」
どうにかする前に、どうにかなりそうだ…。
「まったくだ。その口の悪さでは沢木家の次期当主として名を落とすぞ、カズサ。稲荷様は私がお呼びしたのだ。私の客だからお前が文句を言う筋合いは………。あれ?どうしたんだ、カズサ。まるで泥人形のように動かないじゃないか?」
綾乃が自室から縁側に出てくる。
しかし俺の様子を見て、首を傾げている。
「返事がない、まるでただの死体だ。」
「良いのですよ、綾乃。不思議なことは何もないのです。ただ不注意で上総乃丞が滑って頭を打っただけなのですから。」
テメエら覚えてろ…。
俺が死の淵から助けられたのはしばらく後、本物の下男が帰ってきてからだった。
――――――――――――――――
「カズサ…、戦場でのあの振る舞いは何だ…。」
綾乃が俺を呼んだのは、昼間の戦場での出来事だった…。
まるで前日の宗近の説教を繰り返すように綾乃は言う。
「あれでは…、敵も恐怖するが、味方も恐怖する。現にお前が評定を勝手に退席した後…、諸将はお前のことを口々に『沢木の紅若の紅はまさに血の色だ。』と貶していた…。兵卒にしてもそうだ。『紅若はまさに鬼若』などと口々に噂している。ただでさえお前は領民や位の低い者たちに人気はあっても、おエラ方には評判が悪いのに、これ以上名を落としてどうするのだ…。」
宗近が黙ったまま俺を見ている。
まるで同じことを思っているかのように…。
「名を落としてでもしなければならない…。」
「だが、そのような早急な変革は大きな歪みが生じる。わかっているはずだ、戦のない世の中を作りたいのであれば、別のやり方がある。お前は守護ではない。お前は一武将であることを忘れてはならない。そのあたりを弁えなければ…、いつかお前の理想がお前を滅ぼすだろう…。」
「綾乃、お前は俺をそんな説教のために呼んだのか?だったら帰るぞ。」
「逃げるな、カズサ!」
「逃げる?俺が?」
逃げるなと言われ、綾乃を睨み付けた。
「自分の理想に押し潰されそうなんだろ…。だから焦っているし、誰の言葉にも耳を貸さない…。そんなカズサ…、嫌いだ…。」
「綾乃!」
綾乃の胸座を掴む。
「私を殴るか?ならやってみろ。私をいつまで経っても娶る勇気もない男でも、怒りに任せて女に手を上げるくらいは出来るのだな!?」
「てめぇ!!!」
「いい加減におやめなさい、上総乃丞!」
横から手が伸び、拳が頬にめり込む。
衝撃で頭から俺は壁に激突する。
「ガッ…!?」
奥歯が…、折れた…!!
「いつまで駄々を捏ねれば気が済むのです!私もあなたに言ったはずです。あなたはすべてを滅ぼす死神になりたいのですか!綾乃に言われても気が付かない程、あなたは愚かですか!私たちがどんな思いであなたを諌めようとしているのか、それすらもわからないのですか!恥を知りなさい、恥を!」
「ブゲ!ふが!?ブルゥアァ!!」
宗近が喋っている間中、殴られっ放し。
無呼吸連打で拳が急所という急所をすべて的確に鋭く入る。
もちろん、反論など出来ない。
防御も意味を成さない。
防御しているはずの腕の中に拳打が入ってくるからである。
「まだ私の心がわかりませんか!このうつけ者、うつけ者、うつけ者ぉぉー!!」
正拳、裏拳、肘討ちがえげつなく俺を襲う。
「お、おやめください、稲荷様!とっくにカズサの息はありません!!」
「え………、あら、本当ですね。私としたことが少々興奮してしまったようですね。では、お仕置きの仕上げだけしておきましょう。ほら、上総乃丞。しっかりお立ちなさい。軽くしてあげますから…、ね?」
言われるままにフラフラと立つ。
もはや反抗する気力も体力もない。
「上総乃丞…、メッ、ですよ♪」
ズバンッ
「あsdfg♯くぇrちゅftgyふじk‰あzsxdせrfv★↑♂♀っ!?」
右の掌底が鳩尾に突き刺さる。
内臓が悲鳴を上げて、背骨が軋む!?
な……、何なんだ、この打撃は……!?
どさっ
「ああああ、カズサぁぁぁ!?」
「……や、やりすぎてしまいましたわね?」
やりすぎだ…。
口から逆流する『アレ』を垂れ流しながら、薄れる意識の中で俺は畳みの上に沈んでいた。
――――――――――――――
「まったく上総乃丞。私が符術であなたを助けられたから良かったものの…、もしそうでなければ死んでいたのですよ。反省なさい。」
「……お前のせいで死に掛けたのに、反省しなければいけないのか?」
「………そう、もう一撃喰らいたいのですね?」
「…悪かった。」
狼牙は頭を下げた。
「はぁ……、何も私はこんなことをしに来たんではないのですよ。上総乃丞、またあなたを諌めに来たのですが、それとは別に、あなたは綾乃のことをどう思っているのですか?」
「い、稲荷様…!?」
狼牙は黙って考えた。
自分の許嫁、幼馴染、色んな言葉が浮かんだが、何一つまとまらなかった。
「綾乃があなたを諌めたのは、ただ許嫁だからではなく、あなたのことを本当に大事に思っているから…。ただ御家の名を守ろうとしている訳ではなく、破滅に向かう愛する男を救いたい。そうですよね、綾乃。」
「………………はい。」
綾乃は真っ赤な顔で俯いたまま答えた。
「カズサ…、心配なんだ。お前の理想、私は応援してやりたい…。でも今のままじゃ、お前は道を踏み外すのが目に見えている。長い時間をかえてでも良いじゃないか…。味方も多いけど、ただでさえお前は敵が多いんだ。身内にも、周囲にも…。これ以上、誰かがお前の敵になるのは嫌なんだ。そのお前の敵に私がなってしまうとしたら、それは耐えられない…。」
「……綾乃。」
スッと宗近は立ち上がる。
「後は二人でお話なさい。私はそろそろ寺に帰って寝ます。あ、そうそう…。」
宗近は懐から小さな袋を出し、狼牙に渡した。
「私秘蔵の御香です。後で仲直りしたら火をお付けなさい。」
「……秘蔵なんだろ。良いのか?」
「ええ、綾乃と上総乃丞になら。」
そう言って宗近は縁側から庭へ飛び降りた。
だが地面に着地することなく、まるで初めから何もいなかったかのように掻き消えてしまった。
「……相変わらず、不思議な光景だな。」
「俺はもう慣れた。」
改めて綾乃と狼牙は向き合った。
戦場まで共にする二人だが、こうして向き合うのは二人にとって初めてであった。
お互いまともに顔を見れず、俯いたまま押し黙ったまま時間が流れた。
「カズサ…、教えてくれ…。私にとって君は何なのだ?」
「……俺の許嫁、戦友、幼馴染。………何て言ったら良いのか、わからない。だが、俺にとってお前はなくてはならない女だ。お前とあのクソババア以外に誰が俺に意見する。誰が……、俺のことを心配してくれる……。俺たちは親同士が決めた縁談がなければ、ただの戦友…、いや禄衛門の許嫁になったお前とただの友人で終わっていたかもしれん。俺はそれだけは感謝している。」
「カズサ、さっき稲荷様が仰った通りだ。お前は死神になってはいけない。お前の理想は理想で終わらせてはいけない。ならば…、そんなに焦らないでくれ。私はいつもの…、我武者羅でも真っ直ぐに生きるカズサが好きだ…。」
「あ……………、その………、俺は…………。」
「………………カズ、サ……。らしく……、ない……。恥ずかしい…、だろ?」
再び沈黙。
間が持たなくなって、綾乃は酒の入った徳利に手を伸ばす。
「カ、カズサ!の、の、飲もう!な?」
「そ、そうだな…!」
綾乃は狼牙の肩に寄り添う。
「あ、綾乃!?」
「良いから…。いつかこうやって夫婦になるのだから…。ほら、カズサ。まずは一献。」
「あ、ああ。」
綾乃に酒を注がれ、狼牙は杯を嘗める。
「…ふぅ。では返杯しよう、綾乃。杯を出せ。」
「ああ、では頼む。」
静かに二人は酒を飲み交わす。
すでに狼牙の中の急進的な思いは消えていた。
それは宗近に死ぬ程殴られたからか、綾乃から必死に止められたからなのか。
「そ、そうだ、綾乃。お前香炉はあるか?」
「お前は私のことを何だと思っている。戦場で男のように振舞っているが、これでも私は淑女だぞ。香炉の一つや二つ、女の嗜みだ。」
そう言って綾乃は下男に命じ、物置の奥から香炉を持って来させた。
その香炉を見て、狼牙は冷たい目で綾乃を見る。
「…嗜み、ねぇ?」
「う、うるさい!」
埃を被った香炉はどう見ても昨日今日触っていないという代物ではなく、一年単位で触っていないという埃の積もり方である。
「い、稲荷様から戴いた御香を貸せ!お前が持っていても猫に小判だ!!」
「はいはい、その前に掃除してやろうぜ。」
「あ、当たり前だ!」
狼牙は袖で埃を取る。
「…カズサ、袖が汚れるぞ。」
「構わん。ほら、綺麗になったぞ。良かったなぁ、これでこいつが九十九神になってもお前を恨むことはないぞ。」
「うるさい、さっさと貸せ!!」
綾乃が狼牙から香炉を引っ手繰り、覚束ない手付きで火を付けた。
「お前…、戦場ではすごいが、こういうのはショボいのな?」
「誰のせいだ、誰の!お前が戦場ばかり赴くから私も…、お前の後ろを付いて行きたいんだ…。」
「綾乃、お前、恥ずかしい…。」
しばらくすると、部屋に御香の良い匂いは漂い始めた。
妙に落ち着く匂いに二人は酒を酌み交わしながら良い気分になってくる。
「へぇ、あのババアにしては良い物を持っているな。」
「いやいや、稲荷様だからこそだよ。何の匂いだろうか…。何だか……あっ!」
「どうした?」
酒のせいではなく、何か別の理由で綾乃は赤くなっている。
「いや…、何でも……、ハァ…。」
「大丈夫か、息が荒い…。」
モジモジと綾乃は落ち着かない。
狼牙の方も綾乃の変化と同じく、心持ち気分が高揚していた。
むしろ、綾乃を女として見ていた。
「カズサぁ……、これは………、一体……!?」
「わからん…。知っているとしたら、あの女狐…。」
「呼びました?(しゅこー)」
ガラッ
押入れの中からナチスドイツが使用していたガスマスクを装着した宗近が現れた。
「どこからツッコんでほしいのか知らねぇが、とりあえず何をしやがった!?」
「ほほほほ、なかなか素直になれないお二人のようなので、ちょ〜〜〜〜っと仲良くなれる御香を渡しただけですよ。我々妖狐秘伝、それも唐渡りのありがたい御香。名付けて『濡淫香』。その威力は巨象をもコロリといきり立つ。どうですか?(しゅこー)」
「何て物渡しやがるんだ、テメエ!」
「さっきから私のことを散々、クソババアなんて言い続けていなければ、淫術を解いてあげても良かったのですが…、まぁ、実害はないので解いてあげません。(しゅこー)」
もちろん、宗近には最初から解く気などない。
「カズサ………、私………、私……!!」
初めて見る綾乃の潤んだ瞳に狼牙は生唾を飲み込む。
それと同時に彼の股座が痛い程大きくなる。
「ぬあっ!?」
彼のフンドシと擦れた分身が快感に悲鳴を上げる。
「効果は上々、のようですわね。では私はこれで本当に帰ります。上総乃丞、今だけはその快楽に身を任せておきなさい。いつか後悔しないためにも。(しゅこー)」
「な…、何を言ってやが…!」
「何も知らなくて良いのです。でもいつか知る時が来るでしょう。(しゅこー)」
そう言って宗近は押入れの中に入り、襖を閉め、再び帰ってしまった。
まるで青い量産型ネコ型アレのように。
「……カズサ、私は魅力がないのか?」
「綾乃、落ち着け!あの女狐の罠にみすみす引っかかる必要はない!そうだ、換気をしよう。それか外に出よう!そうすればこの術から…!!」
「そんなことはどうでも良い。ずっと好きだった…。こうなりたいと思っていた…。だから……。」
綾乃は着物を一枚一枚脱ぎ始める。
布擦れの音、綾乃の白い肌が少しずつ露わになるたびに狼牙は生唾を飲み込んだ。
「カズサ……。」
「あ、あのさ、俺も、その、初めてだから…、こ、こういうのはさ、もっとお互いのことをよく知った上で!!!」
狼牙は狼狽している。
傾き者として生き、よくわからない魅力で女に持て、仲間がたくさん出来たこの男の最大の弱点、実は女性に言い寄られることに極端にビビり屋で、この時代、性交渉が娯楽の一つであるにも関わらず童貞なのである。
もっとも色小姓は彼の父親から宛がわれているので一応の知識はある。
ただし、主にヤられる方の……。
「あ、ああ…。私としたことが……。」
「そ、そうだよ。な、もう少し時間をおいて…。」
「行灯の火を消し忘れていた。」
「そっちじゃねぇぇぇー!!!!」
フッ、と綾乃が行灯の火を消し、部屋は真っ暗になる。
感じるのは御香の匂いと、狼牙に寄り掛かる綾乃の体重。
やがて、何も情報がなくなり、気を逸らす術を失った狼牙も、元々綾乃を愛していた想いとその淫術に耐え切れなくなり、綾乃の顔や身体を手探りで触り、暗闇と香りの中、綾乃の唾液と舌を味わい、妖しい噎せ返る匂いと水音をさせながら綾乃と一つになっていった。
庭の松の木の枝に腰掛けて私は二人を見守った。
いつか来る終わりを知っていながら打ち明けられず、
いつか来る別れを知っていながら二人の想いを成就させた私は
何とも残酷な存在なのだろうか…。
「どうか…、今は良い夢を…。」
そう願わずにはいられない。
かつて神として崇められた私が、何に願ったのか…。
私は自分を嘲笑って真夜中の空を走る。
稲荷から言われた言葉が、間違いだと言わんばかりに敵軍を蹂躙していく。
狼牙の率いる丸蝶党も、そんな思惑の外で存分に武勇を奮った。
若き日の龍雅も戦場を駆け抜ける。
薙刀一本では足りないと、太刀を抜き放ち、あらん限りの力で嵐を作り、間合いに入る敵すべてを斬り捨てていった。
「紅 禄衛門、参上!我と一騎打ちせし猛者はいずこにある!!!」
「熊野守繁、見参!!そなたに一騎討ちを望む者!!」
「いざっ!!!」
あちこちで武勇を示す者たちが一騎討ちに興じる。
狼牙はその中にいて、一騎討ちを望む者を無視するように馬と止めることなく擦れ違い様にその薙刀で首を刎ねていく。
「我こそは青木じろ…!?」
「邪魔だ…。」
狼牙は相手を視界に入れることなく、馬を止めずに首を討つ。
将も兵もその光景に恐れを抱いた。
近付けば首なく倒れ、しかも誇りにもされない。
それどころか容赦なく、無慈悲にただ蹂躙されていく恐怖。
恐怖で兵卒の群れは崩れ始める。
しかし狼牙は追撃をやめなかった。
逃げる兵たちの後ろから首を刎ね、背後から突き刺す。
狼牙は苛立っていた。
稲荷の宗近の言葉がいつまでもチラついていた。
『あなたはあなたの憎む者と変わらない。ただの死神、それも無差別にして無意味に命を刈り取る忌むべき祟り神。あなたが歩もうとする道は、矛盾と破滅以外に先がないのです。』
思い出すたびに彼は奥歯を噛み締めた。
そんな苛付きを狼牙は敵兵にぶつけ続けていた。
彼自身無自覚に。
「待つんだ、カズサ!!いくらなんでも一人で先行しすぎだ!!!」
綾乃がやっと追い付き、狼牙の肩を掴んだ。
「綾乃か。」
「綾乃か、ではない。一体どうしたというんだ。お前らしくもない…。」
「どうもしない。俺は俺の目的のためなら手段を選ばん…、そう決めただけだ。」
「稲荷様と…、何かあったのか?」
「お前が知る必要はない。」
狼牙は顔を背ける。
自分が今何をしているのか、それに気付くと彼は綾乃の顔を直視出来かった。
「…だがいくら何でも深入りしすぎだ。こんな戦程度で不意を突かれでもしたらそれこそ無駄死になるぞ。」
「…わかった。丸蝶党、それぞれの敵を撃破せし後、あの崩れた兵を尽く、ただの一人も残らず滅ぼし、討ち取った首は積み上げ塚とし、敵陣近くに晒せ!我ら丸蝶党、我が名、沢木上総乃丞狼牙の名を聞くだけで恐怖と死ぬようにだ!!」
「カズサ!!!」
綾乃が引き止めるのを聞かずに狼牙は本陣へと引き返す。
綾乃も狼牙の後を追い掛けて本陣へ戻っていった。
わずか50名の騎兵が、雑兵たちを討ち滅ぼし、首を積み上げる。
その光景に恐れを抱いたのは敵だけではなかった。
味方も狼牙に恐れを抱き始めていたのである。
領主、村上益昌は近臣に語った。
「あの傾き者…、沢木の小倅め…。武勇だけでなく、人を惹き付ける何かを持つ厄介な者だとはわかっておったが……。最近、敵を躊躇なく滅するという、げにも恐ろしき知恵を付けおった。わしも下克上で成り上がった身。前領主は明日の我が身とも限らん。そうなる前に……、なんとかせねば……。」
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日が暮れて、俺は綾乃の屋敷へと招かれた。
馬の口を取るのは綾乃の屋敷の下男。
「おひぃ様はお待ちですよ。」
「そう急くな。月もない夜だ。お前の提灯だけが頼りなんだぜ。」
「へぇ〜い。」
腰の太刀に付けた鈴がチリンとなる。
子供の頃に綾乃に貰ったものだ。
「沢木様、まだおひぃ様の鈴をお持ちでしたか。」
「……ああ。これがあるとな、いつもあいつと一緒にいられる気がする。綾乃には言うなよ?」
「それはどうしましょうか…。あたしゃ、おひぃ様の下男ですから、おひぃ様に言えと言われれば、言わなければいけませんのですよ。」
「…………今度、酒でも届けてやるよ。」
「えっへっへ、召使仲間も喜びますです、はい。」
そんなやり取りをしているうちに綾乃の屋敷に辿り着いた。
それ程大きくないが、綾乃らしい趣のある玄関。
小さくとも品良く整えられた庭園は、彼女の性格をよく現している。
「では、馬屋に繋いでおきますので…。」
「ああ、よろしくたの……ん?」
下男の尻に見慣れた…、尻尾?
そう、狐の…。
まさか!?
「てめぇ、もしかして!?」
「ほほほ、やっと気付きましたか愚か者。」
「何で下山しているんだよ!!宗近、自分の寺はどうした!?」
頭に巻いた手拭を取ると、そこには見慣れた耳と顔が正体を現した。
宗近はクルリと回ると、下男の粗末な着物から、いつもの美しい着物に身を包み、庭の岩の上に腰掛けて、袖で口を隠して笑う。
「何でここにいるんだよ!帰れよ、クソババア!!」
ゴスッ
腰掛けた岩が紙のように千切られ目にも留まらぬ速さで投げ付けられた。
避け切れずに直撃し、頭から血を流して大地に伏す。
「まったく…。その無礼な口をどうにかしないといけないようですね。」
どうにかする前に、どうにかなりそうだ…。
「まったくだ。その口の悪さでは沢木家の次期当主として名を落とすぞ、カズサ。稲荷様は私がお呼びしたのだ。私の客だからお前が文句を言う筋合いは………。あれ?どうしたんだ、カズサ。まるで泥人形のように動かないじゃないか?」
綾乃が自室から縁側に出てくる。
しかし俺の様子を見て、首を傾げている。
「返事がない、まるでただの死体だ。」
「良いのですよ、綾乃。不思議なことは何もないのです。ただ不注意で上総乃丞が滑って頭を打っただけなのですから。」
テメエら覚えてろ…。
俺が死の淵から助けられたのはしばらく後、本物の下男が帰ってきてからだった。
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「カズサ…、戦場でのあの振る舞いは何だ…。」
綾乃が俺を呼んだのは、昼間の戦場での出来事だった…。
まるで前日の宗近の説教を繰り返すように綾乃は言う。
「あれでは…、敵も恐怖するが、味方も恐怖する。現にお前が評定を勝手に退席した後…、諸将はお前のことを口々に『沢木の紅若の紅はまさに血の色だ。』と貶していた…。兵卒にしてもそうだ。『紅若はまさに鬼若』などと口々に噂している。ただでさえお前は領民や位の低い者たちに人気はあっても、おエラ方には評判が悪いのに、これ以上名を落としてどうするのだ…。」
宗近が黙ったまま俺を見ている。
まるで同じことを思っているかのように…。
「名を落としてでもしなければならない…。」
「だが、そのような早急な変革は大きな歪みが生じる。わかっているはずだ、戦のない世の中を作りたいのであれば、別のやり方がある。お前は守護ではない。お前は一武将であることを忘れてはならない。そのあたりを弁えなければ…、いつかお前の理想がお前を滅ぼすだろう…。」
「綾乃、お前は俺をそんな説教のために呼んだのか?だったら帰るぞ。」
「逃げるな、カズサ!」
「逃げる?俺が?」
逃げるなと言われ、綾乃を睨み付けた。
「自分の理想に押し潰されそうなんだろ…。だから焦っているし、誰の言葉にも耳を貸さない…。そんなカズサ…、嫌いだ…。」
「綾乃!」
綾乃の胸座を掴む。
「私を殴るか?ならやってみろ。私をいつまで経っても娶る勇気もない男でも、怒りに任せて女に手を上げるくらいは出来るのだな!?」
「てめぇ!!!」
「いい加減におやめなさい、上総乃丞!」
横から手が伸び、拳が頬にめり込む。
衝撃で頭から俺は壁に激突する。
「ガッ…!?」
奥歯が…、折れた…!!
「いつまで駄々を捏ねれば気が済むのです!私もあなたに言ったはずです。あなたはすべてを滅ぼす死神になりたいのですか!綾乃に言われても気が付かない程、あなたは愚かですか!私たちがどんな思いであなたを諌めようとしているのか、それすらもわからないのですか!恥を知りなさい、恥を!」
「ブゲ!ふが!?ブルゥアァ!!」
宗近が喋っている間中、殴られっ放し。
無呼吸連打で拳が急所という急所をすべて的確に鋭く入る。
もちろん、反論など出来ない。
防御も意味を成さない。
防御しているはずの腕の中に拳打が入ってくるからである。
「まだ私の心がわかりませんか!このうつけ者、うつけ者、うつけ者ぉぉー!!」
正拳、裏拳、肘討ちがえげつなく俺を襲う。
「お、おやめください、稲荷様!とっくにカズサの息はありません!!」
「え………、あら、本当ですね。私としたことが少々興奮してしまったようですね。では、お仕置きの仕上げだけしておきましょう。ほら、上総乃丞。しっかりお立ちなさい。軽くしてあげますから…、ね?」
言われるままにフラフラと立つ。
もはや反抗する気力も体力もない。
「上総乃丞…、メッ、ですよ♪」
ズバンッ
「あsdfg♯くぇrちゅftgyふじk‰あzsxdせrfv★↑♂♀っ!?」
右の掌底が鳩尾に突き刺さる。
内臓が悲鳴を上げて、背骨が軋む!?
な……、何なんだ、この打撃は……!?
どさっ
「ああああ、カズサぁぁぁ!?」
「……や、やりすぎてしまいましたわね?」
やりすぎだ…。
口から逆流する『アレ』を垂れ流しながら、薄れる意識の中で俺は畳みの上に沈んでいた。
――――――――――――――
「まったく上総乃丞。私が符術であなたを助けられたから良かったものの…、もしそうでなければ死んでいたのですよ。反省なさい。」
「……お前のせいで死に掛けたのに、反省しなければいけないのか?」
「………そう、もう一撃喰らいたいのですね?」
「…悪かった。」
狼牙は頭を下げた。
「はぁ……、何も私はこんなことをしに来たんではないのですよ。上総乃丞、またあなたを諌めに来たのですが、それとは別に、あなたは綾乃のことをどう思っているのですか?」
「い、稲荷様…!?」
狼牙は黙って考えた。
自分の許嫁、幼馴染、色んな言葉が浮かんだが、何一つまとまらなかった。
「綾乃があなたを諌めたのは、ただ許嫁だからではなく、あなたのことを本当に大事に思っているから…。ただ御家の名を守ろうとしている訳ではなく、破滅に向かう愛する男を救いたい。そうですよね、綾乃。」
「………………はい。」
綾乃は真っ赤な顔で俯いたまま答えた。
「カズサ…、心配なんだ。お前の理想、私は応援してやりたい…。でも今のままじゃ、お前は道を踏み外すのが目に見えている。長い時間をかえてでも良いじゃないか…。味方も多いけど、ただでさえお前は敵が多いんだ。身内にも、周囲にも…。これ以上、誰かがお前の敵になるのは嫌なんだ。そのお前の敵に私がなってしまうとしたら、それは耐えられない…。」
「……綾乃。」
スッと宗近は立ち上がる。
「後は二人でお話なさい。私はそろそろ寺に帰って寝ます。あ、そうそう…。」
宗近は懐から小さな袋を出し、狼牙に渡した。
「私秘蔵の御香です。後で仲直りしたら火をお付けなさい。」
「……秘蔵なんだろ。良いのか?」
「ええ、綾乃と上総乃丞になら。」
そう言って宗近は縁側から庭へ飛び降りた。
だが地面に着地することなく、まるで初めから何もいなかったかのように掻き消えてしまった。
「……相変わらず、不思議な光景だな。」
「俺はもう慣れた。」
改めて綾乃と狼牙は向き合った。
戦場まで共にする二人だが、こうして向き合うのは二人にとって初めてであった。
お互いまともに顔を見れず、俯いたまま押し黙ったまま時間が流れた。
「カズサ…、教えてくれ…。私にとって君は何なのだ?」
「……俺の許嫁、戦友、幼馴染。………何て言ったら良いのか、わからない。だが、俺にとってお前はなくてはならない女だ。お前とあのクソババア以外に誰が俺に意見する。誰が……、俺のことを心配してくれる……。俺たちは親同士が決めた縁談がなければ、ただの戦友…、いや禄衛門の許嫁になったお前とただの友人で終わっていたかもしれん。俺はそれだけは感謝している。」
「カズサ、さっき稲荷様が仰った通りだ。お前は死神になってはいけない。お前の理想は理想で終わらせてはいけない。ならば…、そんなに焦らないでくれ。私はいつもの…、我武者羅でも真っ直ぐに生きるカズサが好きだ…。」
「あ……………、その………、俺は…………。」
「………………カズ、サ……。らしく……、ない……。恥ずかしい…、だろ?」
再び沈黙。
間が持たなくなって、綾乃は酒の入った徳利に手を伸ばす。
「カ、カズサ!の、の、飲もう!な?」
「そ、そうだな…!」
綾乃は狼牙の肩に寄り添う。
「あ、綾乃!?」
「良いから…。いつかこうやって夫婦になるのだから…。ほら、カズサ。まずは一献。」
「あ、ああ。」
綾乃に酒を注がれ、狼牙は杯を嘗める。
「…ふぅ。では返杯しよう、綾乃。杯を出せ。」
「ああ、では頼む。」
静かに二人は酒を飲み交わす。
すでに狼牙の中の急進的な思いは消えていた。
それは宗近に死ぬ程殴られたからか、綾乃から必死に止められたからなのか。
「そ、そうだ、綾乃。お前香炉はあるか?」
「お前は私のことを何だと思っている。戦場で男のように振舞っているが、これでも私は淑女だぞ。香炉の一つや二つ、女の嗜みだ。」
そう言って綾乃は下男に命じ、物置の奥から香炉を持って来させた。
その香炉を見て、狼牙は冷たい目で綾乃を見る。
「…嗜み、ねぇ?」
「う、うるさい!」
埃を被った香炉はどう見ても昨日今日触っていないという代物ではなく、一年単位で触っていないという埃の積もり方である。
「い、稲荷様から戴いた御香を貸せ!お前が持っていても猫に小判だ!!」
「はいはい、その前に掃除してやろうぜ。」
「あ、当たり前だ!」
狼牙は袖で埃を取る。
「…カズサ、袖が汚れるぞ。」
「構わん。ほら、綺麗になったぞ。良かったなぁ、これでこいつが九十九神になってもお前を恨むことはないぞ。」
「うるさい、さっさと貸せ!!」
綾乃が狼牙から香炉を引っ手繰り、覚束ない手付きで火を付けた。
「お前…、戦場ではすごいが、こういうのはショボいのな?」
「誰のせいだ、誰の!お前が戦場ばかり赴くから私も…、お前の後ろを付いて行きたいんだ…。」
「綾乃、お前、恥ずかしい…。」
しばらくすると、部屋に御香の良い匂いは漂い始めた。
妙に落ち着く匂いに二人は酒を酌み交わしながら良い気分になってくる。
「へぇ、あのババアにしては良い物を持っているな。」
「いやいや、稲荷様だからこそだよ。何の匂いだろうか…。何だか……あっ!」
「どうした?」
酒のせいではなく、何か別の理由で綾乃は赤くなっている。
「いや…、何でも……、ハァ…。」
「大丈夫か、息が荒い…。」
モジモジと綾乃は落ち着かない。
狼牙の方も綾乃の変化と同じく、心持ち気分が高揚していた。
むしろ、綾乃を女として見ていた。
「カズサぁ……、これは………、一体……!?」
「わからん…。知っているとしたら、あの女狐…。」
「呼びました?(しゅこー)」
ガラッ
押入れの中からナチスドイツが使用していたガスマスクを装着した宗近が現れた。
「どこからツッコんでほしいのか知らねぇが、とりあえず何をしやがった!?」
「ほほほほ、なかなか素直になれないお二人のようなので、ちょ〜〜〜〜っと仲良くなれる御香を渡しただけですよ。我々妖狐秘伝、それも唐渡りのありがたい御香。名付けて『濡淫香』。その威力は巨象をもコロリといきり立つ。どうですか?(しゅこー)」
「何て物渡しやがるんだ、テメエ!」
「さっきから私のことを散々、クソババアなんて言い続けていなければ、淫術を解いてあげても良かったのですが…、まぁ、実害はないので解いてあげません。(しゅこー)」
もちろん、宗近には最初から解く気などない。
「カズサ………、私………、私……!!」
初めて見る綾乃の潤んだ瞳に狼牙は生唾を飲み込む。
それと同時に彼の股座が痛い程大きくなる。
「ぬあっ!?」
彼のフンドシと擦れた分身が快感に悲鳴を上げる。
「効果は上々、のようですわね。では私はこれで本当に帰ります。上総乃丞、今だけはその快楽に身を任せておきなさい。いつか後悔しないためにも。(しゅこー)」
「な…、何を言ってやが…!」
「何も知らなくて良いのです。でもいつか知る時が来るでしょう。(しゅこー)」
そう言って宗近は押入れの中に入り、襖を閉め、再び帰ってしまった。
まるで青い量産型ネコ型アレのように。
「……カズサ、私は魅力がないのか?」
「綾乃、落ち着け!あの女狐の罠にみすみす引っかかる必要はない!そうだ、換気をしよう。それか外に出よう!そうすればこの術から…!!」
「そんなことはどうでも良い。ずっと好きだった…。こうなりたいと思っていた…。だから……。」
綾乃は着物を一枚一枚脱ぎ始める。
布擦れの音、綾乃の白い肌が少しずつ露わになるたびに狼牙は生唾を飲み込んだ。
「カズサ……。」
「あ、あのさ、俺も、その、初めてだから…、こ、こういうのはさ、もっとお互いのことをよく知った上で!!!」
狼牙は狼狽している。
傾き者として生き、よくわからない魅力で女に持て、仲間がたくさん出来たこの男の最大の弱点、実は女性に言い寄られることに極端にビビり屋で、この時代、性交渉が娯楽の一つであるにも関わらず童貞なのである。
もっとも色小姓は彼の父親から宛がわれているので一応の知識はある。
ただし、主にヤられる方の……。
「あ、ああ…。私としたことが……。」
「そ、そうだよ。な、もう少し時間をおいて…。」
「行灯の火を消し忘れていた。」
「そっちじゃねぇぇぇー!!!!」
フッ、と綾乃が行灯の火を消し、部屋は真っ暗になる。
感じるのは御香の匂いと、狼牙に寄り掛かる綾乃の体重。
やがて、何も情報がなくなり、気を逸らす術を失った狼牙も、元々綾乃を愛していた想いとその淫術に耐え切れなくなり、綾乃の顔や身体を手探りで触り、暗闇と香りの中、綾乃の唾液と舌を味わい、妖しい噎せ返る匂いと水音をさせながら綾乃と一つになっていった。
庭の松の木の枝に腰掛けて私は二人を見守った。
いつか来る終わりを知っていながら打ち明けられず、
いつか来る別れを知っていながら二人の想いを成就させた私は
何とも残酷な存在なのだろうか…。
「どうか…、今は良い夢を…。」
そう願わずにはいられない。
かつて神として崇められた私が、何に願ったのか…。
私は自分を嘲笑って真夜中の空を走る。
10/12/22 19:10更新 / 宿利京祐
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