第十四話・Persecution of the masses
「えっ、もう戦闘始めちゃったの!?」
セラエノ軍戦闘開始の報を受けて、ロウガは驚きこう叫んだと伝えられている、
実際のところ、ムルアケ戦役は如何にして始まったのかはっきりわかっていない。
ある深い霧の出た寒い朝のこと、奇襲を狙っていたのか、それともムルアケ街道要塞を迂回してヴァルハリア・旧フウム王国連合軍本体と合流しようとしていたのか、今となってはわからないがフウム王国残党軍の全兵力2392名が街道ではなく背の高い草が生い茂った山中でムルアケ街道セラエノ軍の哨戒部隊と遭遇し、そのまま戦闘となった。遭遇とは言っても一寸先も見えないような霧の向こうから一本の矢が残党軍の先頭を行く部隊長(氏名の記録なし)のこめかみを横一閃に貫いた。鋼鉄の兜を貫通したと伝えられる。
死体となった部隊長が落馬した時、一際高い悲鳴が山中にこだました。
その悲鳴目掛けてセラエノ軍哨戒部隊は大量の矢を射かけた。この部隊はエルフ、ダークエルフを中心に組まれた部隊だったので、例え深い霧に阻まれようと山中の進軍に慣れていなかった上に、わかりやすく大きな悲鳴を上げて動揺する動きの鈍い残党軍など良い的であったことは想像に難くない。
やがて哨戒部隊の矢が尽きた。
ここにセラエノ軍本隊がいれば好機と見て追撃もしただろうが、彼女らはあくまで数の少ない哨戒部隊であった。引き際も心得たものであったらしく、木の枝などをまるで矢のように放つなどの偽装工作も怠らず、かなり長い時間、残党軍を動揺させ続け、セラエノ軍本隊が到着するまで易々と態勢を整えさせない猟犬であることに徹した。その結果、残党軍に人材なしと後世まで語られるほどでありながらも、不十分ながら一応の防御陣形を築いてセラエノ軍からの襲撃に備えることが出来たのだが、残党軍からはついに悲鳴と動揺が止むことは最後までなかった。
そうして、ようやくロウガ率いるセラエノ軍本隊が到着した。
ロウガ自身がおよそ500の兵を率いて山の中腹に本陣を構え、そしてそれぞれ250名の2つの部隊を両翼に従えおよそ1000の兵がフウム王国残党軍と対峙した。対峙した時、セラエノ軍は坂の上に陣を構え、残党軍は坂の下に防御陣形を敷いた形になっていた。さらに1000の神聖ルオゥム帝国兵の精鋭を密かにアドライグが本隊からやや遅れて率いて山中に隠れ伏せている。
地の利、人の利はセラエノ軍に傾いていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「あのさ、頼むから戦闘始めるにしても何にしても、まずは伝令を寄越してくれ。戦さには準備が必要なんだからさぁ…。兵たちを叩き起こして武器持たせてってだけでも結構時間が掛かるんだぞ」
本陣を構え、山の中腹から敵を見下ろしながら、ロウガは簡易的な腰掛けに座り、左膝に頬杖を突いてブツクサと不機嫌そうに文句を言っていた。
そもそもここに来たのは物見遊山ではなく、あくまで戦さをしに来たのだから戦闘を始めること自体は何ら問題はない。問題があるとすれば哨戒部隊がロウガの命を受ける前に勝手に戦闘を始めてしまったことである。これでは戦略も何もあったものではない。
「それでも全員最短時間で準備を完了しここまで来れたじゃないか。やはり日頃より兵を鍛えておく、というのは良いことだね。ほら、ロウガ。いつまでも文句を言っていると若い娘たちから『これだから頭の硬い年寄りは…』と言われてしまうぞ」
そんなロウガの横でこの状況を楽しんでいるのは、ロウガの妻であり、このムルアケ街道方面軍の主将であるリザードマンのアスティアであった。まるでただの鋼鉄の分厚い延べ板のような身の丈を超える大剣を背負ってロウガの横に立ち、腕組みをして両軍の様子を伺っている。その顔は通常の笑みではなく、彼女の娘のマイアですら見たことがない、修羅の微笑みをたたえていた。
「へいへい、どうせ俺ぁ年寄りだよ」
「ふふ、拗ねるな拗ねるな。で、どう見る?」
アスティアは顎で眼下の状況を指した。
まだ本格的な戦闘は始まっていない。おおよそ2000の残党軍が、明らかに数で劣るセラエノ軍を前にして攻めあぐねている姿が何度も目に映る。陣形とも呼べぬ集団が槍や剣を突き出して恐々と前に出ては退き、退いては前に少しだけ出る。対するセラエノ軍は前に出ない。頭上の有利を手放したくないのももちろんあったが、それ以上に急いで残党軍を討つ理由がなかった。
セラエノ軍の目的は、嫌がらせだけで十分だったからである。
「…こちらとしてはのらりくらりと連中が消耗するのを待つだけだったんだがな。それがこの突然の戦闘だよ。大きく予定を変えなきゃいけねえ…って、さっきからずっと考えていたんだがエルフたちってあんな喧嘩っ早かったか!?もっとこう…そう、状況見て冷静に行動出来る連中だったはずなんだけど!?」
「さてね、誰かさんに影響されたんじゃないのかい?」
セラエノに住む魔物たちは特殊であるとよく言われている。
彼女らは人間の作った武器を好み、時に此の期に及んでは殺傷に至るも止むなし、といっった行動を取ることがある。19世紀に彼女らの研究をしていた魔界歴史学者は『魔物娘というよりも旧世界の魔物。いや、時にその思考行動はまるで我々人類のようである』と評している。それは彼女ら、セラエノで生きる魔物娘が誰を王として心に定めていたのか、という現れでもあるのかもしれない。
「やめてくれ……自覚はあるんだよ…」
「自覚があって何よりだ。みんな、ロウガと私の可愛い娘たちさ。ところで大きく予定を変えるというのは具体的には何を変えるんだい」
アスティアはロウガを見た。
苦虫を潰したような顔をした老人はスッと一度目を伏せるともうどこにもいなくなっていた。再び目を開いた時、老いてなお熱を失えなかったもう一人の鬼が笑っている。鬼の笑顔を見て、アスティアの心は踊っていた。
「ここでケリを付ける」
「結構。私もその方が気が楽だ」
難しい駆け引きだのはもう御免だ、とアスティアは前に出る。ロウガが何をせよと言う前に、何をするのかをアスティアはもう知っている。アスティアはロウガに一度も振り返ることもなく、歩みを止めることもない。真っ直ぐに、自分がそうでありたいかのように真っ直ぐ戦場へ向けて歩き始めた。
「馬はいらないのか?」
「いらん。馬より自分で走った方が速い」
一度だけアスティアはニヤリと笑って振り向いた。
「鬼の笑みってのはそういうのを言うんだな」
「ひどいな、ロウガ。鬼はお互い様じゃないか」
「それも、それもそうだな」
ロウガも自嘲するように笑った。
「一度だけだ。一度だけで良い。暴れてきてくれ。それだけですべて終わる」
「何だ、それは拍子抜けだ。てっきり私一人で全部平らげてこいとでも言ってくれるものだとばかり思っていたんだけどな」
「そんなことさせるかよ馬鹿」
「で、何故一度だけ暴れたら終わるんだい?」
アスティアの問いにロウガはまた目を閉じて答えた。
「……わかっているくせに」
「ああ、わかっているとも。それが彼らに残された勝利への拠り所だからな」
背負っていた大剣を引き抜いてアスティアは肩に担いだ。
「アスティア、御武運を」
「なあに……昔取った杵柄…」
そしてアスティアはもう振り向くことなく走り出した。
いや、歴史から消えたはずの修羅が再び解き放たれた。
「慣れたものさッッ!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
フウム王国残党軍は信じられないものを見た。
いくら彼らが怯えながら、カタカタと小刻みに震えながらであったとしても槍や剣の切っ先は真っ直ぐ敵である三方向のセラエノ軍に向いているのである。にもかかわらず一騎、いや一人の徒士が山の中腹から駆け下りてくるのである。真っ直ぐに、尋常ならざる速さで、巨大な盾らしき板を担いで。
「魔物だ!」
誰かが叫んだ。
人間ならば維持することが出来ない速さで魔物が近付いてくる。やがて盾らしき板は馬鹿馬鹿しいほど巨大な剣だということも誰の目にも明らかになった。人々に緊張が走る。背筋に恐ろしく冷たい刃を突き立てられたような感覚が残党軍すべての人々を襲った。魔物は見る見る内にその姿がはっきりとわかるほど近付いてくる。岩や倒木などの障害物を、その強靭な脚で蹴り飛ばし、蹴り砕き、土煙を上げながら近付いてくる。前傾姿勢、いや止まることなど微塵も考えていないのだろう。尻尾を地面に水平に保ちながら、地面スレスレを滑るようにあの魔物は走ってくる。
「だ、大丈夫だ!恐れることはない!」
遥か後方から残党軍を励ます声がした。
残党軍総司令シャルル=クルーレの声で人々はハッとした。そうだ、恐れることはない。魔物娘の実態を知り、何度も実際に戦場で魔王軍と戦い、生きて帰ってきたシャルルの繰り返し残党軍に話してきた言葉が人々の脳裏に蘇った。
そうだ、恐れることなどないのだ。
恐ろしいのはむしろ人間との戦争の方なのだ。
それを思い出すとそれだけで槍や剣を持つ手の震えも止まった。
恐れることはないのだ。何故なら━━━━
「さあ……夢の終わりだ」
静かに、それでいて優しい声で魔物はそう言って跳んだ。
振りかぶった巨大な剣を肩に担いだまま、何百という槍襖に向かって真っ直ぐに飛び込んできたのだ。完全に意表を突かれてしまったが、勇気を取り戻した人々はもう取り乱したりはしない。構えた槍を、訓練通りに真っ直ぐに、力強く魔物を貫けばそれだけで終わりなのだ。
「おおおおおおおッッッ!!!!」
魔物が雄叫びを上げた。
そして肩に担いでいた巨大な剣が消えた。それから一瞬遅れて凄まじい爆煙のような土煙が舞い上がり、すべてを薙ぎ倒すかのような突風が吹き荒れた。
それが始まりだった。
魔物はすべてを持っていった。右手一本で振り抜いた巨大な剣は嵐を呼び起こし、巨大な剣が通り抜けた道は槍衾を砕き潰した。叩き斬った、という言葉が生温い惨状だった。最初の一撃で13人もの槍を持った兵士たちが刃で斬られるよりも早く剣の重量を叩き付けられて千切れ死んだのである。
その瞬間、時間が止まった。
悲鳴すら上がらない。
誰もが目の前の光景を受け入れることが出来なかった。取り戻したはずの勇気と希望があまりに呆気なく叩き潰されたのである。魔物は恐れることはない。恐るるに足らず、と励まされ、導かれて、国を追われてもなお付いてきたというのに、今目の前で起こった出来事はそのすべてを否定した。
わずかに、たった一振りで。
「話が違うじゃないか!」
誰かがまるで悲鳴のように叫んだ。
「魔物は━━ッッ!魔物は人を殺せないんじゃなかったのか!」
「そうだ………そうだったんじゃないのか!?」
悲鳴は次々に連鎖していく。
「あいつらは人を殺せない!だから死を恐れなくて良いと言っていたのに!」
「騙されたのか!?」
「嫌だ、死にたくないッッ!!」
嘆きの連鎖は次々と広がっていく。その鎖が次々と繋がっていくと、彼らは切っ先をどこに向けて良いのかわからなくなって右往左往し始めた。彼らの頭の中になかった目の前に広がる『死』というどうしようもない現実が突き付けられている。
「………夢はお終いだ。ここからは現実という地獄が待っている。一度剣を抜いた以上はお互いのどちらかの死を以ってのみ決着がつく。ただ、そんな当たり前のことだ」
再び魔物が大きく剣を振りかぶって構えた。
断頭台の執行官が如く、その剣は確実に命を奪う。
「魔物は人を殺せない?違うな、それは間違っている。単純に殺す価値がないんだよ、お前たちは。家畜以下だ。家畜ですら潰して血肉を、毛皮を利用されるというのに、魔物娘の餌とも認識されていない」
「う、うわぁぁぁぁ!!!」
一人の男が破れかぶれに槍を突き出した。
だがそれが魔物に届くことはなかった。真っ直ぐに大きな鋼鉄の板は振り下ろされ、男を鎧ごとから竹割りに叩き斬った。激しい突風と共に男の体は二つに分かれ、右と左の体が時間差で膝を突いて地に伏した。二つの体が激しく痙攣を起こしている。
「ただ、それだけのことだ。ああ、そうだ……そうだったな…。まだ名乗りを上げていなかったな。私の名はアスティア。セラエノ軍総帥・沢木狼牙の正室、セラエノ軍ムルアケ街道方面軍主将」
魔物は、アスティアは不気味なほど静まり返った集団の中で淡々と名乗りを上げた。
「かつて、私は神敵エレナとも呼ばれていた」
わずかな静寂は再び悲鳴に切り裂かれた。
彼らは思い出してしまったのだ。
かつてヴァルはリア教会の敵として認定され、幾人、幾十人もの強者たちが命を落としたその化け物の名を。目の前にいる魔物は、自分たちの伝え聞いていた魔物像とかけ離れていただけではない。それどころか剣をたった二振りしただけで十分すぎるほどここにいる誰しもにその強さを証明してしまったのだ。
かつて聞いた噂話よりも遥かに強く、それでいて容赦がない。
エレナの名を聞いた途端、弾かれるように残党軍は背中を向けてアスティアから離れようとした。組織的な後退ではない。エレナの名を以って指揮系統は完全に混乱し壊滅状態になった。人々は我先にと恐慌状態で逃げ惑った。仲間を押し退け、踏み越え、シャルル司令以下隊長の命令も耳に入らず、一歩でもあの化け物から遠ざからんと無様に逃げ出した。
アスティアは追わない。
修羅の微笑みをたたえたまま、哀れに背中を向ける者たちを見つめていた。
これから彼らの身に起こる絶望に、わずかばかりの同情を込めて。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい、逃げるな!逃げるな!」
とある部隊長の悲鳴にも似た命令が飛ぶ。
しかし止まるはずがない。魔物は人を殺せないと聞いて勇んでいた集団である。人を殺せる異端者という現実が目の前に現れ、戦争という状況でありながら命のやり取りをする覚悟を持っていなかった彼らは突如としてその覚悟を強いられる状況に置かれてしまったのだ。
あまりにも脆すぎる集団。
これを兵と呼べるのだろうか。
その実、残党軍は兵ではない。2392名の兵士たちの内、過去に戦闘経験があるのはわずかに50名にも満たない。魔物娘、もしくは魔王軍との戦闘経験ともなるとその数はグッと減り両手で数えて余るほどの人数しかいないだろう。それも優秀な軍人ではなく、あくまで経験がある程度というものである。フウム王国残党軍は主に百数十名の貴族がそのわずかな戦闘経験者の上に立ち、その貴族たちが連れ出してきた2000人以上もの奴隷で構成されていた。
人質として身分を落とされなぶり者にされた者、売られてきた異民族、彼らの奴隷の家系に生まれ奴隷としての生き方しか知らぬ者たち、様々な形の奴隷が貴族たちの財産として従軍させられていた。すべてが異常だった。そもそも15歳を超えぬ男子が全体の4割もいて、軍全体に3割もの女性に武器を持たせ、鎧を着せ、髪を切って男装させて運用していた。
そうやって数をカサ増ししていたのである。
「逃げるな!逃げるなと言っている!」
部隊長たちが押し留めようとしたが兵でもない集団は止まらない。
残党軍総崩れの様子を見て、セラエノ軍の両翼が一気呵成に打って出てきたのである。当然のようにそのセラエノ軍から打って出てきた一団は人間、魔物娘の混成軍であり、人間はもとより魔物娘たちもアスティア同様に人を討つことが出来る。アスティアほど苛烈に攻めることは出来ないが、それでも戦争であるにも関わらず死の覚悟もしていなかった集団には十分すぎる脅威だった。
アスティアは追わない。
残党軍の実情をその目で見て、修羅は興味を失ってしまったのである。
「……………ほう?」
逃げる残党軍に背を向けて本陣へと歩いて戻りかけたアスティアは、ふと足を止めて本陣とも両翼の陣とも違う方向を見た。それはこの戦闘のとどめを担うアドライグ率いる別働隊が伏せている方向だった。その方角をアスティアは修羅の笑顔でジッと見ている。
「なるほど、活きの良いのが一人いるようだな」
だが、その相手は自分ではない。
真っ直ぐに、未だ特定されているはずもないアドライグ隊へ向かっている。その気配を感じ取りながらも、アスティアはフッと笑ってその場を後にした。今更追って間に合うものではないし、何より誰とも知れぬその気配は自分に興味がないのだ。
「羨ましいよ、アドライグ。大事にすると良い。全身全霊を賭けて戦える相手がいる、というのは幸せなことだよ。そこで知るだろう。我々の種族の誇りを、その自らも持て余す厄介な性を、そして君が見失った絆を」
そう言って、アスティアは本陣へ向けてまた歩き出した。
誰かが言った。
「逃げようぜ」
どこへ、と誰かが答えた。奴隷兵士たちの向こうでは部隊長たちがまだ逃げるなと叫び続けている。逃げながら誰かたちは口々に逃げよう、どこへ、と繰り返していた。
「あいつら側だ」
誰かがそう言った。
「このまま普通に逃げたって俺たちゃ奴隷だ。どこに行っても奴隷として生きて、家畜みたいに売り買いされて、都合良く捨てられてお終いだ。もうそんなのごめんだ。でもあいつら側、セラエノ側に逃げるってのはどうだろう」
「あっち側に逃げたってどうせ奴隷だろう」
「いやそうじゃない。信じられねえけどセラエノには奴隷がいないらしい。この間、辺境から売られてきたヤツが言ってた。あそこじゃ奴隷はいない。奴隷は解放してくれて、皆平民として扱ってくれるらしい。貴族もあそこじゃデカい顔も出来ないそうだ」
誰かがそう言った。
それはロウガが先日の騙し討ちをした際に潜り込ませた間者が流した情報だった。彼らは残党軍に紛れ込み、辺境より売られてきた奴隷として大多数の奴隷に紛れ、セラエノという街がどんな街かをまるで人伝てに聞いてきたかのように語っていたのである。
どうせ死ぬなら、自由の身で死にたい。
そんな当たり前の思いがこの極限状態で誰も彼もの胸に芽生えていた。
「逃げましょう」
女が言った。
女としても、人としての尊厳も奪われた女奴隷である。この混乱の中で、逃げようと言った誰かの言葉で失ったものを奪い返したくなったのである。自由を、理不尽に踏みにじられた時間を取り戻し、やり直したいと。
「逃げよう」
男が言った。
先祖代々奴隷の家系に生まれ、奴隷として死ぬ運命しかなかった者である。しかし、今目の前にそれ以外の道が拓けているのである。ただ死ぬだけの人生ではなく、そうではない何かを見付けられる人生が見えているのである。
「解放されたい」
誰かが言った。
「本当に解放されるのか?」
誰かが疑っていた。
「それでも━━━━」
誰かが言った。
「このまま殺されるより、ずっとずっとマシだ」
誰かが、いや、数多くの誰かがそう決意した。
「逃げるな!武器を拾って戦え!数の上では我らが圧倒的に有利━━━ッッ」
馬上の部隊長の脇腹に衝撃が走り、彼は予期せぬ痛みに言葉を失った。
馬上より見下ろせばそこには憎しみの目をした奴隷たちが自分を見ているのである。さらに下に目を移すと、敵を貫くために渡した彼らの手にする槍が自分の脇腹を貫いていた。ようやくそこで部隊長は理解した。裏切りだ、と声を出そうとしたがもう声は出なかった。声にならない声で『貴様ら…』と呟いたきり、力尽きて馬上より転げ落ちた。その転げ落ちた体を奴隷たちが剣で、槍で何度も突き刺した。男も女も関係ない。二度と息を吹き返さないように。よくも自由を奪ってくれたな、と恨みを込めて。
終焉の始まりだった。
それを皮切りに一斉にフウム王国残党軍の奴隷たちは蜂起した。
もうそれを止められる者などどこにもいない。セラエノ軍が迫る中、残党軍は自軍内の反乱に対処せざるを得なかったが、対処出来る者など一人もいなかった。ごく少数の貴族が大多数の奴隷を使役するという歪な構造が限界を迎えた瞬間だった。奴隷たちの圧倒的な数の前に為す術なく、次々と部隊長は討ち取られていった。
総司令であるシャルルとその身辺を守護する貴族たちは、未だ戦おうとする味方を見捨てて命辛々逃れ、残党軍の拠点へと逃げ帰ることが出来た。だがその数はもう軍とは呼べぬものであり、四十余人の供回りしかいなかった。
残酷な未来だけが口を開いて待っている。
セラエノ軍戦闘開始の報を受けて、ロウガは驚きこう叫んだと伝えられている、
実際のところ、ムルアケ戦役は如何にして始まったのかはっきりわかっていない。
ある深い霧の出た寒い朝のこと、奇襲を狙っていたのか、それともムルアケ街道要塞を迂回してヴァルハリア・旧フウム王国連合軍本体と合流しようとしていたのか、今となってはわからないがフウム王国残党軍の全兵力2392名が街道ではなく背の高い草が生い茂った山中でムルアケ街道セラエノ軍の哨戒部隊と遭遇し、そのまま戦闘となった。遭遇とは言っても一寸先も見えないような霧の向こうから一本の矢が残党軍の先頭を行く部隊長(氏名の記録なし)のこめかみを横一閃に貫いた。鋼鉄の兜を貫通したと伝えられる。
死体となった部隊長が落馬した時、一際高い悲鳴が山中にこだました。
その悲鳴目掛けてセラエノ軍哨戒部隊は大量の矢を射かけた。この部隊はエルフ、ダークエルフを中心に組まれた部隊だったので、例え深い霧に阻まれようと山中の進軍に慣れていなかった上に、わかりやすく大きな悲鳴を上げて動揺する動きの鈍い残党軍など良い的であったことは想像に難くない。
やがて哨戒部隊の矢が尽きた。
ここにセラエノ軍本隊がいれば好機と見て追撃もしただろうが、彼女らはあくまで数の少ない哨戒部隊であった。引き際も心得たものであったらしく、木の枝などをまるで矢のように放つなどの偽装工作も怠らず、かなり長い時間、残党軍を動揺させ続け、セラエノ軍本隊が到着するまで易々と態勢を整えさせない猟犬であることに徹した。その結果、残党軍に人材なしと後世まで語られるほどでありながらも、不十分ながら一応の防御陣形を築いてセラエノ軍からの襲撃に備えることが出来たのだが、残党軍からはついに悲鳴と動揺が止むことは最後までなかった。
そうして、ようやくロウガ率いるセラエノ軍本隊が到着した。
ロウガ自身がおよそ500の兵を率いて山の中腹に本陣を構え、そしてそれぞれ250名の2つの部隊を両翼に従えおよそ1000の兵がフウム王国残党軍と対峙した。対峙した時、セラエノ軍は坂の上に陣を構え、残党軍は坂の下に防御陣形を敷いた形になっていた。さらに1000の神聖ルオゥム帝国兵の精鋭を密かにアドライグが本隊からやや遅れて率いて山中に隠れ伏せている。
地の利、人の利はセラエノ軍に傾いていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「あのさ、頼むから戦闘始めるにしても何にしても、まずは伝令を寄越してくれ。戦さには準備が必要なんだからさぁ…。兵たちを叩き起こして武器持たせてってだけでも結構時間が掛かるんだぞ」
本陣を構え、山の中腹から敵を見下ろしながら、ロウガは簡易的な腰掛けに座り、左膝に頬杖を突いてブツクサと不機嫌そうに文句を言っていた。
そもそもここに来たのは物見遊山ではなく、あくまで戦さをしに来たのだから戦闘を始めること自体は何ら問題はない。問題があるとすれば哨戒部隊がロウガの命を受ける前に勝手に戦闘を始めてしまったことである。これでは戦略も何もあったものではない。
「それでも全員最短時間で準備を完了しここまで来れたじゃないか。やはり日頃より兵を鍛えておく、というのは良いことだね。ほら、ロウガ。いつまでも文句を言っていると若い娘たちから『これだから頭の硬い年寄りは…』と言われてしまうぞ」
そんなロウガの横でこの状況を楽しんでいるのは、ロウガの妻であり、このムルアケ街道方面軍の主将であるリザードマンのアスティアであった。まるでただの鋼鉄の分厚い延べ板のような身の丈を超える大剣を背負ってロウガの横に立ち、腕組みをして両軍の様子を伺っている。その顔は通常の笑みではなく、彼女の娘のマイアですら見たことがない、修羅の微笑みをたたえていた。
「へいへい、どうせ俺ぁ年寄りだよ」
「ふふ、拗ねるな拗ねるな。で、どう見る?」
アスティアは顎で眼下の状況を指した。
まだ本格的な戦闘は始まっていない。おおよそ2000の残党軍が、明らかに数で劣るセラエノ軍を前にして攻めあぐねている姿が何度も目に映る。陣形とも呼べぬ集団が槍や剣を突き出して恐々と前に出ては退き、退いては前に少しだけ出る。対するセラエノ軍は前に出ない。頭上の有利を手放したくないのももちろんあったが、それ以上に急いで残党軍を討つ理由がなかった。
セラエノ軍の目的は、嫌がらせだけで十分だったからである。
「…こちらとしてはのらりくらりと連中が消耗するのを待つだけだったんだがな。それがこの突然の戦闘だよ。大きく予定を変えなきゃいけねえ…って、さっきからずっと考えていたんだがエルフたちってあんな喧嘩っ早かったか!?もっとこう…そう、状況見て冷静に行動出来る連中だったはずなんだけど!?」
「さてね、誰かさんに影響されたんじゃないのかい?」
セラエノに住む魔物たちは特殊であるとよく言われている。
彼女らは人間の作った武器を好み、時に此の期に及んでは殺傷に至るも止むなし、といっった行動を取ることがある。19世紀に彼女らの研究をしていた魔界歴史学者は『魔物娘というよりも旧世界の魔物。いや、時にその思考行動はまるで我々人類のようである』と評している。それは彼女ら、セラエノで生きる魔物娘が誰を王として心に定めていたのか、という現れでもあるのかもしれない。
「やめてくれ……自覚はあるんだよ…」
「自覚があって何よりだ。みんな、ロウガと私の可愛い娘たちさ。ところで大きく予定を変えるというのは具体的には何を変えるんだい」
アスティアはロウガを見た。
苦虫を潰したような顔をした老人はスッと一度目を伏せるともうどこにもいなくなっていた。再び目を開いた時、老いてなお熱を失えなかったもう一人の鬼が笑っている。鬼の笑顔を見て、アスティアの心は踊っていた。
「ここでケリを付ける」
「結構。私もその方が気が楽だ」
難しい駆け引きだのはもう御免だ、とアスティアは前に出る。ロウガが何をせよと言う前に、何をするのかをアスティアはもう知っている。アスティアはロウガに一度も振り返ることもなく、歩みを止めることもない。真っ直ぐに、自分がそうでありたいかのように真っ直ぐ戦場へ向けて歩き始めた。
「馬はいらないのか?」
「いらん。馬より自分で走った方が速い」
一度だけアスティアはニヤリと笑って振り向いた。
「鬼の笑みってのはそういうのを言うんだな」
「ひどいな、ロウガ。鬼はお互い様じゃないか」
「それも、それもそうだな」
ロウガも自嘲するように笑った。
「一度だけだ。一度だけで良い。暴れてきてくれ。それだけですべて終わる」
「何だ、それは拍子抜けだ。てっきり私一人で全部平らげてこいとでも言ってくれるものだとばかり思っていたんだけどな」
「そんなことさせるかよ馬鹿」
「で、何故一度だけ暴れたら終わるんだい?」
アスティアの問いにロウガはまた目を閉じて答えた。
「……わかっているくせに」
「ああ、わかっているとも。それが彼らに残された勝利への拠り所だからな」
背負っていた大剣を引き抜いてアスティアは肩に担いだ。
「アスティア、御武運を」
「なあに……昔取った杵柄…」
そしてアスティアはもう振り向くことなく走り出した。
いや、歴史から消えたはずの修羅が再び解き放たれた。
「慣れたものさッッ!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
フウム王国残党軍は信じられないものを見た。
いくら彼らが怯えながら、カタカタと小刻みに震えながらであったとしても槍や剣の切っ先は真っ直ぐ敵である三方向のセラエノ軍に向いているのである。にもかかわらず一騎、いや一人の徒士が山の中腹から駆け下りてくるのである。真っ直ぐに、尋常ならざる速さで、巨大な盾らしき板を担いで。
「魔物だ!」
誰かが叫んだ。
人間ならば維持することが出来ない速さで魔物が近付いてくる。やがて盾らしき板は馬鹿馬鹿しいほど巨大な剣だということも誰の目にも明らかになった。人々に緊張が走る。背筋に恐ろしく冷たい刃を突き立てられたような感覚が残党軍すべての人々を襲った。魔物は見る見る内にその姿がはっきりとわかるほど近付いてくる。岩や倒木などの障害物を、その強靭な脚で蹴り飛ばし、蹴り砕き、土煙を上げながら近付いてくる。前傾姿勢、いや止まることなど微塵も考えていないのだろう。尻尾を地面に水平に保ちながら、地面スレスレを滑るようにあの魔物は走ってくる。
「だ、大丈夫だ!恐れることはない!」
遥か後方から残党軍を励ます声がした。
残党軍総司令シャルル=クルーレの声で人々はハッとした。そうだ、恐れることはない。魔物娘の実態を知り、何度も実際に戦場で魔王軍と戦い、生きて帰ってきたシャルルの繰り返し残党軍に話してきた言葉が人々の脳裏に蘇った。
そうだ、恐れることなどないのだ。
恐ろしいのはむしろ人間との戦争の方なのだ。
それを思い出すとそれだけで槍や剣を持つ手の震えも止まった。
恐れることはないのだ。何故なら━━━━
「さあ……夢の終わりだ」
静かに、それでいて優しい声で魔物はそう言って跳んだ。
振りかぶった巨大な剣を肩に担いだまま、何百という槍襖に向かって真っ直ぐに飛び込んできたのだ。完全に意表を突かれてしまったが、勇気を取り戻した人々はもう取り乱したりはしない。構えた槍を、訓練通りに真っ直ぐに、力強く魔物を貫けばそれだけで終わりなのだ。
「おおおおおおおッッッ!!!!」
魔物が雄叫びを上げた。
そして肩に担いでいた巨大な剣が消えた。それから一瞬遅れて凄まじい爆煙のような土煙が舞い上がり、すべてを薙ぎ倒すかのような突風が吹き荒れた。
それが始まりだった。
魔物はすべてを持っていった。右手一本で振り抜いた巨大な剣は嵐を呼び起こし、巨大な剣が通り抜けた道は槍衾を砕き潰した。叩き斬った、という言葉が生温い惨状だった。最初の一撃で13人もの槍を持った兵士たちが刃で斬られるよりも早く剣の重量を叩き付けられて千切れ死んだのである。
その瞬間、時間が止まった。
悲鳴すら上がらない。
誰もが目の前の光景を受け入れることが出来なかった。取り戻したはずの勇気と希望があまりに呆気なく叩き潰されたのである。魔物は恐れることはない。恐るるに足らず、と励まされ、導かれて、国を追われてもなお付いてきたというのに、今目の前で起こった出来事はそのすべてを否定した。
わずかに、たった一振りで。
「話が違うじゃないか!」
誰かがまるで悲鳴のように叫んだ。
「魔物は━━ッッ!魔物は人を殺せないんじゃなかったのか!」
「そうだ………そうだったんじゃないのか!?」
悲鳴は次々に連鎖していく。
「あいつらは人を殺せない!だから死を恐れなくて良いと言っていたのに!」
「騙されたのか!?」
「嫌だ、死にたくないッッ!!」
嘆きの連鎖は次々と広がっていく。その鎖が次々と繋がっていくと、彼らは切っ先をどこに向けて良いのかわからなくなって右往左往し始めた。彼らの頭の中になかった目の前に広がる『死』というどうしようもない現実が突き付けられている。
「………夢はお終いだ。ここからは現実という地獄が待っている。一度剣を抜いた以上はお互いのどちらかの死を以ってのみ決着がつく。ただ、そんな当たり前のことだ」
再び魔物が大きく剣を振りかぶって構えた。
断頭台の執行官が如く、その剣は確実に命を奪う。
「魔物は人を殺せない?違うな、それは間違っている。単純に殺す価値がないんだよ、お前たちは。家畜以下だ。家畜ですら潰して血肉を、毛皮を利用されるというのに、魔物娘の餌とも認識されていない」
「う、うわぁぁぁぁ!!!」
一人の男が破れかぶれに槍を突き出した。
だがそれが魔物に届くことはなかった。真っ直ぐに大きな鋼鉄の板は振り下ろされ、男を鎧ごとから竹割りに叩き斬った。激しい突風と共に男の体は二つに分かれ、右と左の体が時間差で膝を突いて地に伏した。二つの体が激しく痙攣を起こしている。
「ただ、それだけのことだ。ああ、そうだ……そうだったな…。まだ名乗りを上げていなかったな。私の名はアスティア。セラエノ軍総帥・沢木狼牙の正室、セラエノ軍ムルアケ街道方面軍主将」
魔物は、アスティアは不気味なほど静まり返った集団の中で淡々と名乗りを上げた。
「かつて、私は神敵エレナとも呼ばれていた」
わずかな静寂は再び悲鳴に切り裂かれた。
彼らは思い出してしまったのだ。
かつてヴァルはリア教会の敵として認定され、幾人、幾十人もの強者たちが命を落としたその化け物の名を。目の前にいる魔物は、自分たちの伝え聞いていた魔物像とかけ離れていただけではない。それどころか剣をたった二振りしただけで十分すぎるほどここにいる誰しもにその強さを証明してしまったのだ。
かつて聞いた噂話よりも遥かに強く、それでいて容赦がない。
エレナの名を聞いた途端、弾かれるように残党軍は背中を向けてアスティアから離れようとした。組織的な後退ではない。エレナの名を以って指揮系統は完全に混乱し壊滅状態になった。人々は我先にと恐慌状態で逃げ惑った。仲間を押し退け、踏み越え、シャルル司令以下隊長の命令も耳に入らず、一歩でもあの化け物から遠ざからんと無様に逃げ出した。
アスティアは追わない。
修羅の微笑みをたたえたまま、哀れに背中を向ける者たちを見つめていた。
これから彼らの身に起こる絶望に、わずかばかりの同情を込めて。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい、逃げるな!逃げるな!」
とある部隊長の悲鳴にも似た命令が飛ぶ。
しかし止まるはずがない。魔物は人を殺せないと聞いて勇んでいた集団である。人を殺せる異端者という現実が目の前に現れ、戦争という状況でありながら命のやり取りをする覚悟を持っていなかった彼らは突如としてその覚悟を強いられる状況に置かれてしまったのだ。
あまりにも脆すぎる集団。
これを兵と呼べるのだろうか。
その実、残党軍は兵ではない。2392名の兵士たちの内、過去に戦闘経験があるのはわずかに50名にも満たない。魔物娘、もしくは魔王軍との戦闘経験ともなるとその数はグッと減り両手で数えて余るほどの人数しかいないだろう。それも優秀な軍人ではなく、あくまで経験がある程度というものである。フウム王国残党軍は主に百数十名の貴族がそのわずかな戦闘経験者の上に立ち、その貴族たちが連れ出してきた2000人以上もの奴隷で構成されていた。
人質として身分を落とされなぶり者にされた者、売られてきた異民族、彼らの奴隷の家系に生まれ奴隷としての生き方しか知らぬ者たち、様々な形の奴隷が貴族たちの財産として従軍させられていた。すべてが異常だった。そもそも15歳を超えぬ男子が全体の4割もいて、軍全体に3割もの女性に武器を持たせ、鎧を着せ、髪を切って男装させて運用していた。
そうやって数をカサ増ししていたのである。
「逃げるな!逃げるなと言っている!」
部隊長たちが押し留めようとしたが兵でもない集団は止まらない。
残党軍総崩れの様子を見て、セラエノ軍の両翼が一気呵成に打って出てきたのである。当然のようにそのセラエノ軍から打って出てきた一団は人間、魔物娘の混成軍であり、人間はもとより魔物娘たちもアスティア同様に人を討つことが出来る。アスティアほど苛烈に攻めることは出来ないが、それでも戦争であるにも関わらず死の覚悟もしていなかった集団には十分すぎる脅威だった。
アスティアは追わない。
残党軍の実情をその目で見て、修羅は興味を失ってしまったのである。
「……………ほう?」
逃げる残党軍に背を向けて本陣へと歩いて戻りかけたアスティアは、ふと足を止めて本陣とも両翼の陣とも違う方向を見た。それはこの戦闘のとどめを担うアドライグ率いる別働隊が伏せている方向だった。その方角をアスティアは修羅の笑顔でジッと見ている。
「なるほど、活きの良いのが一人いるようだな」
だが、その相手は自分ではない。
真っ直ぐに、未だ特定されているはずもないアドライグ隊へ向かっている。その気配を感じ取りながらも、アスティアはフッと笑ってその場を後にした。今更追って間に合うものではないし、何より誰とも知れぬその気配は自分に興味がないのだ。
「羨ましいよ、アドライグ。大事にすると良い。全身全霊を賭けて戦える相手がいる、というのは幸せなことだよ。そこで知るだろう。我々の種族の誇りを、その自らも持て余す厄介な性を、そして君が見失った絆を」
そう言って、アスティアは本陣へ向けてまた歩き出した。
誰かが言った。
「逃げようぜ」
どこへ、と誰かが答えた。奴隷兵士たちの向こうでは部隊長たちがまだ逃げるなと叫び続けている。逃げながら誰かたちは口々に逃げよう、どこへ、と繰り返していた。
「あいつら側だ」
誰かがそう言った。
「このまま普通に逃げたって俺たちゃ奴隷だ。どこに行っても奴隷として生きて、家畜みたいに売り買いされて、都合良く捨てられてお終いだ。もうそんなのごめんだ。でもあいつら側、セラエノ側に逃げるってのはどうだろう」
「あっち側に逃げたってどうせ奴隷だろう」
「いやそうじゃない。信じられねえけどセラエノには奴隷がいないらしい。この間、辺境から売られてきたヤツが言ってた。あそこじゃ奴隷はいない。奴隷は解放してくれて、皆平民として扱ってくれるらしい。貴族もあそこじゃデカい顔も出来ないそうだ」
誰かがそう言った。
それはロウガが先日の騙し討ちをした際に潜り込ませた間者が流した情報だった。彼らは残党軍に紛れ込み、辺境より売られてきた奴隷として大多数の奴隷に紛れ、セラエノという街がどんな街かをまるで人伝てに聞いてきたかのように語っていたのである。
どうせ死ぬなら、自由の身で死にたい。
そんな当たり前の思いがこの極限状態で誰も彼もの胸に芽生えていた。
「逃げましょう」
女が言った。
女としても、人としての尊厳も奪われた女奴隷である。この混乱の中で、逃げようと言った誰かの言葉で失ったものを奪い返したくなったのである。自由を、理不尽に踏みにじられた時間を取り戻し、やり直したいと。
「逃げよう」
男が言った。
先祖代々奴隷の家系に生まれ、奴隷として死ぬ運命しかなかった者である。しかし、今目の前にそれ以外の道が拓けているのである。ただ死ぬだけの人生ではなく、そうではない何かを見付けられる人生が見えているのである。
「解放されたい」
誰かが言った。
「本当に解放されるのか?」
誰かが疑っていた。
「それでも━━━━」
誰かが言った。
「このまま殺されるより、ずっとずっとマシだ」
誰かが、いや、数多くの誰かがそう決意した。
「逃げるな!武器を拾って戦え!数の上では我らが圧倒的に有利━━━ッッ」
馬上の部隊長の脇腹に衝撃が走り、彼は予期せぬ痛みに言葉を失った。
馬上より見下ろせばそこには憎しみの目をした奴隷たちが自分を見ているのである。さらに下に目を移すと、敵を貫くために渡した彼らの手にする槍が自分の脇腹を貫いていた。ようやくそこで部隊長は理解した。裏切りだ、と声を出そうとしたがもう声は出なかった。声にならない声で『貴様ら…』と呟いたきり、力尽きて馬上より転げ落ちた。その転げ落ちた体を奴隷たちが剣で、槍で何度も突き刺した。男も女も関係ない。二度と息を吹き返さないように。よくも自由を奪ってくれたな、と恨みを込めて。
終焉の始まりだった。
それを皮切りに一斉にフウム王国残党軍の奴隷たちは蜂起した。
もうそれを止められる者などどこにもいない。セラエノ軍が迫る中、残党軍は自軍内の反乱に対処せざるを得なかったが、対処出来る者など一人もいなかった。ごく少数の貴族が大多数の奴隷を使役するという歪な構造が限界を迎えた瞬間だった。奴隷たちの圧倒的な数の前に為す術なく、次々と部隊長は討ち取られていった。
総司令であるシャルルとその身辺を守護する貴族たちは、未だ戦おうとする味方を見捨てて命辛々逃れ、残党軍の拠点へと逃げ帰ることが出来た。だがその数はもう軍とは呼べぬものであり、四十余人の供回りしかいなかった。
残酷な未来だけが口を開いて待っている。
19/05/14 19:03更新 / 宿利京祐
戻る
次へ