宵闇夢怪譚『屍竜奇談』
この世界にはいくつか聖地と呼ばれる土地がある。
そこで偉人が生まれた
歴史的に重要な場所だ
様々な理由で人は聖地を作る。
しかし時には誰が呼ぶでもなくそう呼ばれる土地かある。
神々の奇跡が起こる場所
それこそが本物の聖地なのだ。
世界にはそんな場所がいくつかあった。
そして、ある夜そのいくつかあった本物の一つが消えた。
私は首だ。
云われなき罪人だ。
中央広場、断頭台の側に打ち捨てられた悲しき首だ。
何の罪も犯してはいない。だが、もしも、余所の国で奴隷として生を受け、流されるままにここに売られ流れ着き、奴隷でありながらそれでも人間として正しく生きようとしていたことが罪だと言うのならば、私は罪人なのだろう。
ほんの数時間前、私にも身体があった。
首から下に健康な身体があった。しかし、うっかり殺人の現場と犯人の顔を目撃し、それを代官所に訴え出たがために私はその場で逮捕され、何日にも及ぶ拷問の末にあの断頭台に登るはめになった。犯人は私に死刑を言い渡した聖職者。この街の人々から尊敬され慕われる人格者だった。だが私にはもう彼を告発することは出来なかった。執拗な拷問で声を発することが出来なくなっていたからだ。
街の人々もわかっている。
私は犯人などではないことを。
しかし私が犯人であることが望ましいのだ。真犯人などわからなくても犯人は私でなければならないのだ。その方が都合が良い。この街の人間が罪人になどなってはいけない。
ここは聖地。
奇跡を生む街。
善き人々の住む街。
罪人は余所者でなければならない。
罪人は卑しい身分であらねばならない。
だから、誰も私を助けてはくれなかった。
「やあ、こんばんは」
突如、私の遙か頭上で声がした。
どこか軽やかで爽やかな女の声だったのだが、私はその声の主の姿を見ることは出来ない。喋ることも動くことも出来ない、端から見れば正真正銘首だけの死体なのだから。
「驚いたな。あまりにこの世に絶望しきった顔をしていたので一言慰めの言葉を掛けてやろうと思ったのだが──何とまあ、まだ意識が残っていたとはね」
そう、まだ意識が残っている。
幸い首を落とされた痛みは一瞬で消えたものの時間を追うごとに視界は白く濁り、脳髄の奥は何かよくわからない黒く濁ったものが流し込まれたかのようにぼんやりと痺れて、言葉も発することも出来ない。緩やかに普通よりも遥かに時間を掛けて死に向かってはいる。だが、まだ意識があるのだ。肉体的には死んでいるのに私はまだ生きているのである。
こんな残酷なことがあるだろうか。
「なるほど、なるほどなるほど。この地か、この土地の影響か。ここは紛い物ではなく本物の聖地、奇跡の土地だからか。奇跡が君の死を拒んだ。惜しいな、首から下が残っていたなら君はかの三日目に復活したかの人の如くなれただろうに──いや、君の場合は改めて殺されるだろうな」
女は独り言のように私に語り掛ける。
ぼんやりと木霊するようにしか聞こえていないのだが、それでも最期まで耳は機能するらしい。それもいつまで機能するのかはわからない。だが私は嬉しかった。理由も彼女の姿もわからないが彼女は私に語り掛けてくれた。私を認識してくれる誰かがいた。死んでいくのは寂しく一人ではあるが、私はこの思い出を反芻しながら死んでいける。
それだけは幸せだと感じた。
「──君の声が聞きたいな」
彼女は無茶を言っている。
何度も言うが私は死体なのだ。意識だけはまだ残っているとは言えど首だけの死体なのだ。あまりに無邪気な呟きだった。もし私に声を出せる機能が残っていたなら笑いを漏らしただろう。
しばし間があった。
一瞬の浮遊感。
感覚は鈍いのだが何となくわかった。どうやら私は持ち上げられたらしい。しかし聞く機能こそまだぼんやりと残ってはいるものの、視界は白く汚れて濁って何も見えない。ただ、痺れたかのように感覚のない両頬に違和感のような感触が薄くぼんやりとあった。
何が何だかわからない。
打ち捨てておけばその内人知れず意識も消え失せていくだろうに、彼女はわざわざ私の首を抱えてどこかで供養でもしてくれるのだろうか。もしもそうならありがたいと思った。完全に死ぬ前に野犬に貪り食われるのも嫌だったし、例えそうでなくとも誰にも知られることなく朽ちていくのは正直なところ堪えられるものではなかった。寂しかった。心から。
名も顔も知らないが彼女に出会えて良かったと思う。
私の生は無価値ではなかった。
何となくそう思えてならない。
そんな心穏やかな死を受け入れようとしていた時
−ぷしゅ−
という空気が抜けるような小さな音がした。
何の音だろう、と疑問に思うよりも早く私は私自身に起こっている異変に驚いていた。熱い。熱い激流のような何かが私の中を駆け巡っている。私の中を支配しつつあった黒い何かを、おそらくは死そのものを押し流すように荒れ狂っている。脈打っているのだ。生が私の中に蘇っている。
徐々に様々な感覚が覚醒していく。
まずは皮膚だ。熱を取り戻した頬は何か大きなもの……それが段々と大きな手の平に私は包まれているのだと伝えてくる。何かを言おうとすると唇は動かないことがわかった。動かせないのではなく、何かに塞がれて動けないのだ。
次に蘇ってきたのは鼻だ。どこかで花が咲いている。売られて流されている内にどこかで嗅いだ花の匂い。あの頃も苦しかったが思い返せばたぶん幸せだった。その花の香りは幸せの記憶だった。
その次は舌が蘇った。何だろう。私は今甘い何かを飲んでいる。いや、無理矢理押し込まれ強制的に飲まされていると言った方が良いのだろう。だが悪い気はしない。むしろそれを飲み込むたびに私の中の脈は強くなり、真っ黒な死は形を潜め遥か彼方へと追いやられていく。そんな気にさえなる。
そこからは早かった。感覚のすべてが元に戻っていき、先程の空気の抜けるような音の正体も、首の切断面から滝のように勢いよく流れ落ちる私の血液の音であることも感覚でわかる程だった。首から下が無いことを除けばほとんど数時間前──生前と何ら変わらないほどに。
そして───
最後に白く濁った視界が元に戻った
「──────」
彼女の顔が、近い。
目蓋を閉じた彼女の顔が大きく見えるだけで他には何一つ見えない。文字通り彼女しか見えない。私は両手で頬をしっかりと包まれて唇を奪われている。切断面から噴き出る血流に手が汚れるのも構わず彼女は私の唇を貪っている。
「─────ッ」
不意に口の中に何かが流し込まれる。
甘い。ああ、これは唾液だ。いや、唾液だけではない。ほのかに血の味がする。私のものではない。血を垂れ流してはいるが口元には上がって来ていない。つまりこれは彼女の血だ。血と唾液を私に流し込んでいるのだ。
彼女が目蓋を開く。
目が合った。金色の瞳、縦に切れたような瞳孔が私を見つめている。私の目がしっかりと彼女を見ている。そのことが視線を通して伝わると彼女は嬉しそうに目を細め、貪っていた私の唇を解放すると、私に彼女の姿が見えるように少しだけ彼女の目線よりも高い位置にゆっくりと私の首を片手で掲げた。
「見えるかい?」
見えている、と私は頷いた。
巨躯だ。恐ろしく巨躯の女だ。
金色の瞳を見た時から予感していたが彼女は人間ではなかった。白く長い髪からは荒々しく大きな角が突き出て、四肢も人間のものとは大きくかけ離れたものをしている。異国で一度だけ見たことがある。そうだ、あれは確か──そう、彼女はドラゴンだ。だが、普通のドラゴンではない。
生気を感じさせない青白い肌は所々引きつり、皮膚がボロボロに破れて赤黒く乾いたかのような彼女の赤い筋肉が覗いている。長い髪で隠してはいるが左の頬は腐り落ちたのか裂けたかのように鋭い牙が露出している。そして背中の翼がない。腐り落ちたのか、それとも何らかの外的要因があったのか。腰には引き千切られたような痛々しい後がそのまま残っていた。その代わり本来彼女らドラゴンをドラゴンらしく彩る翼があるべき背中には正面から刺し貫き、そのまま折れて残ったかのように、時間と血で赤黒く錆び付いた幅広の刃がいくつも背びれのようにそびえていた。
いつか見た小さな白い幸せの花が傷口から花を咲かせている。
生きて───いない─?
「私が恐ろしいかい?」
「─────いや」
声が出せた。
自分で出しておいて自分で驚いていた。
「良かった。───実は怖がられたらどうしようかと内心乙女の如くドキドキしていたところなんだ」
彼女は照れたようにはにかんだ。
「見ての通り私はかつてドラゴンだった者だ。今は君と同じ生きる屍さ。ああ、そうだ。そうだった。こんな格好で失礼するよ。月光浴の最中だったのでね」
彼女は一糸纏わぬ姿だった。
小振りながら形の良い乳房も毛深く野性的な股ぐらも恥じることなく堂々と惜しげもなく晒していた。その身体に腕から伝わり流れる私の血が鮮やかな赤い線を描いていく。それを──私は美しいと魅了されていた。あまりに背徳的であるにも関わらず目を逸らすことが出来なかった。
「私の名はジーノ。──君の名前は?」
「私は─────」
私は────誰だ。
思い返せば名前で呼ばれたことがない。名前はあったかもしれないが、いつしか誰も私のことを名前で呼ばなくなっていた。ゲラ家の奴隷、それが精々私に与えられた記号だった。
「──じゃあ、パクス。平和、私が好きな言葉だ」
そのことを伝えると彼女は──ジーノは私をパクスと呼び始めた。彼女が平和が好きだからパクス、とはまたあまりに単純というかセンスがないというか。しかし───しかしだ。呆れるほど単純だというのにこれほど嬉しいことはないように思えた。
パクス──私はジーノにそう呼んでもらうことで今ようやく奴隷から、理不尽な生から解放されたような気がしていた。
「気に入ってもらえて嬉しいよ。では──本題だ」
───パクス
君はどうしたいかい?──
ジーノは笑顔のまま私に問う。
「私は死者の味方だ。理不尽な暴力によって悲しい最期を迎えた者たちの救い主だ。復讐を望むなら私が手を下そう。安らかな楽園に行きたいのならばその道を指し示そう。君らが堕落した神と蔑む我が神の名において嘘偽りなく死者たる君に喜んで手を貸そう。さあ、どうしたい。さあ、パクス──君の声を聞かせてくれないか?」
ジーノは言っていた。──私の声が聞きたい、と。それは私の口からただ発せられる声ではない。私の心の奥底から湧き出る思いを聞きたがっていたのだ。
───復讐を望むなら
ジーノの言葉に私の心は揺れていた。
憎しみがない訳ではない。理不尽な死を私に与えたこの街のすべてに私と同等の苦しみを与えてやりたい。そう──首を落とされる前も、ジーノに生を与えられた今でも思っている。
しかし────
「────わからない」
口から出たのは想いとは違うものだった。
「憎いとは確かに思っている。出来るならこの街の人間すべてを私と同じ目に遭わせてやりたいと思っている。でも、本当にわからないんだ。心のどこかでは彼らの弱さ醜さを認めていて、私をこんな目に遭わせた彼らを赦そうとしている。私は──私はどうしたら良い─ッ」
ジーノは私の心の声を聞いて目を丸くしていた。
彼女自身予想すらしていなかったのだろう。
「───ふむ、では楽園に行くかね?もっとも私の知る楽園は君らの知るところの楽園とは随分かけ離れた世界だが、とりあえず君の失った身体は与えられるだろう。永遠に続く心の安らぎと快楽が得られることは保証するよ」
魅力的な提案だった。
しかし私の心を打つには至らず私は首を横に振る。
「───強いな、パクス。君のように人間が人間らしく、迷いながら躓きながらも正しく人間を全うして生きようとする者ばかりであったならば、この聖地も穢れることはなかったであろうに」
「──私は」
強くない、と口にしようとしたがジーノは首を振る。
「──どうだろう。パクス、君さえ良かったら私と共に来ないか?私はこうして死者の味方として願いを叶えるようなことをしているが、普段はもっぱら君らの言うところの堕落した神の布教をしているのだ。何、怪しいことやましいことなどはしていないよ。屍な上に魔物の私が言うのも何だが至って健全な活動さ。それに──恥ずかしい話、いい加減に孤独に耐えられなくなってきてね。話し相手を探していたところなのだよ」
ジーノの提案にそれも良いかなと思えた。
「──いつまた死ぬかわからないけどそれで良かったら」
「──ッ、そ、そうか、そうか!一緒に来てくれるか!ありがとう───本当に、ありがとう─。だがいつまた死ぬなんて心配しなくても良い。君は私の血を飲んで復活した。だから君が死ぬ時は私も死ぬ時だ。ただでさえ長命なドラゴンが屍龍となったのだ。本当に心の底から飽きるほど長生きするぞ」
「ははっ──そりゃ楽しみだ」
「ああ、楽しみにしていろ」
そう言ってジーノは余程嬉しかったのか、ホッとしたような声を漏らすと私の首を優しく包み込むように抱き締めた。壊さぬよう、潰してしまわぬよう、丁寧に、そして慈しみ深く。抱き締められることで柔らかくも冷たい乳房を押し当てられ息苦しかったため少し緩めてくれと言おうとしたが、ジーノの仕草や聞こえてはこない彼女の鼓動に、言葉以上の孤独と寂しさを感じてしまった私はそのまま彼女の為すがままにされることにした。
「──ありがとう、パクス」
優しく、ジーノはまた呟いた。
泣いているかのように震えている。しかし涙は落ちることはなかった。それが生きる屍として生きるジーノの孤独そのものなのかもしれない。何か声を掛けてあげたかったが、今の私には彼女を慰めてやれる言葉など持ち合わせていなかった。彼女の孤独をまだはっきりと理解していない。だから──今はこうして彼女の気の済むまで抱かれていよう。私に気付かぬように声を押し殺して泣く彼女のために気付かぬふりをしてしよう。
心からそう思った。
───そして月が西の空へ傾き
東の空から鮮やかな群青色を見せる頃
突如その静寂は幕を閉じる
「─────さあ」
尻尾を地面に叩き付ける低く重い音が響く。
「もうすぐ朝が来る。そろそろお暇しようか」
「朝日に弱いのか?」
「まさか。徹夜が苦手なだけさ」
そう言ってジーノは笑った。腕の中からジーノを見上げると彼女は私を見下ろして優しく微笑んでいた。まるですべてを包み込む慈母のようにその微笑みはどこまでも優しかった。
だが、私は気が付いてしまった。
まだ太陽は昇っていない。それだと言うのにジーノの背後がやけに明るい、いや、これは輝いているのだ。ここからでは何が起きているのかよくわからない。しかしこの青白い光は一体何なのだ。
「──さて、というのはね。この地を去る前に私は私の仕事を終わらせようという意味なのだよ」
「ジーノの──仕事─?」
「ああ、仕事だ。私はね、偶然この地に来た訳ではないのだよ。ほら、あそこに祈りの家が見えるだろう?そう、この街の人々が崇め讃えて拝む神様の像が澄まし顔でおわすあの寺院が。私はね、あの教会で拝まれている神様から頼まれたのだよ。像ではなく本物のね。曰わく聖地が穢されている。出来ることなら穢れを取り除き、慈悲と赦しを以て人々を救ってほしいと。あの神様、この前の神界戦争でひどく傷付いたせいで自分では動けないからね」
どこか呆れたような表情をジーノは浮かべる。
彼女の背後の光は益々強くなっていった。
「神界戦争──って神様同士で戦争するのか─?」
「するさ。血の気の多いヤツ、虚栄心の強いヤツ、中には人間に興味なく主神の地位だけが欲しくて主神暗殺を試みるとんでもないヤツ。ここの神様みたいに人間を気にかけているヤツらも多いが、神様というより悪魔と呼んだ方がしっくりくる連中の数の方が表に出ないだけ遥かに多い──っと脱線したな」
苦虫を潰したような顔になったり、楽しそうな顔をしたりと表情がコロコロと目まぐるしく変わり、どこか愚痴混じりの脱線に気が付くと恥ずかしそうにジーノは顔を赤くして私から目を逸らした。本当はおしゃべりが好きな人だったのだろう。それを思うと彼女が今までどれほど我慢していたのかを想像し胸が痛くなる。
──もう、痛む胸などないのだが。
「それで昔、ちょっとした縁があり、尚且つ今も地上を自由に生きる私がアレの頼みを聞いてやってきた訳──なのだが、これは私の想像を遥かに超える穢れ具合だったよ。パクスのように救える者は救ってやりたいが、この穢れは聖地を上書きしかねない勢いだ。もう手遅れだよ。私の手には負えない」
このひどい穢れを君は見えないだろう、ジーノはそう呟きながら群青色の空を仰いだ。ジーノの目にはどんなものが見えているのだろう。見えないことが幸せなのかもしれないのだが。
「──だから私は裁きをこの地に委ねることにした」
「──何を、するんだ」
「私はただ力添えをするだけ。私が私として示してやれる力の方向性を示し、それに先程のパクスの想い『憎しみと赦しで揺れる心』を乗せていく。後はこの聖なる土地に宿る者が判断するだろう。人間と違って公平さ。赦される者は助かるし───」
──赦されざる者は魂の罪人として裁かれる
刹那、ジーノの背後で輝きを放っていた青白い光はより強く、大きくなり破れた皮膚の隙間からも強く輝きを発した。それは益々強く増していき、いつしか青白い光はまるでジーノの血が混ざっていくかのように見る見る内に赤みを帯び、鮮やかな薄紫色の光へと変わっていった。
ジーノが低く、力強い咆哮を上げる。
それと同時に薄紫色の光の波がジーノを中心に広がり、街を光の色で染め上げていった。広がっていく光を見詰めながら私はわかってしまった。この光が街のすべてを包み込んでしまう時、聖地は自らの意思で聖地であることをやめてしまうのだということを──。
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紫色の光が街を覆った
神々の怒りに触れた人々はドロドロに融け合い
何もかもが形を失った血と錆が覆う世界の中で
それに相応しい姿へと変わっていった
もう 聖地ではない
死ぬこともなく
生きることもなく
人でも魔物でもないものになった者たちが
もがき苦しみのた打ちながら跋扈する
そんなかつての聖地を人々は地獄と呼んだ
屍竜の言う通り 裁きは公平に下された
嗚呼 赤く腐敗した雨が降っている
『古レスカティエ教・旧約経典より』
「──あれは凄い光景だったなぁ」
あれから10年もの月日が経つ。忘れようとしても忘れられないあの目を背けたくなる惨状をふと思い出して私は呟いた。
「──私もあれ程とは思わなかった」
そう言ってジーノは作業の手を止めて青くどこまでも広がる空を仰ぎながら苦笑いを浮かべた。
あの日、ジーノの放った光が街を覆った。ジーノの思惑は憎悪しても尚赦したいという私の思いを聖地に宿る何かの力と共に解放し、あの街の人々の心の奥底にある罪悪感を呼び覚まそうとしていた。ジーノの光は人の心の壁、偽善、そう言ったものを腐り落とすことが出来る。そうやってあらゆる防壁の腐り落ちた赤子同然の心に毒薬とも劇薬とも言えるぐらいの罪悪感を塗り付けるというのも乱暴な話なのだが、ともかくそれが彼女の親心にも似た優しさだったのだろう。
しかし彼女の思惑以上に聖地に宿る者の怒りは激しかった。そこに宿った精霊、神々の残光、そして私のようにスケープゴートとして最期を迎えた数多の者たちの無念が壁を失った人々に襲い掛かった。聖なる地を穢され、命を穢された者らの怨念は凄まじいものだった。壁を失った人々は醜い心のままに爛れて腐り、歴史ある石造りの街も腫れ物膿み物に侵されすべてが血と錆の中に沈んでしまった。彼らはその地獄でどこにも行けないまま永遠に苦しむのだという。死を拒むほどの奇跡を生んだ力はそのまま罪人を赦さぬ異界の牢獄となった。
「それでも赦された者たちがいたことは幸いだったね」
「ああ、十数名の子供ばかりだったが。もしも誰一人助からないのであれば、むしろドラゴンの私の方がひどい人間不信に陥っていたかもしれないよ」
「あの子たちは元気にしているだろうか」
「しているよ。この間のワイバーンの郵便配達を覚えているかい?あれがあの時の女の子だよ」
「──ちょっと見ぬ間に。女の子の成長は早いんだな」
「早いのだよ」
少しだけ笑ってジーノは作業を再開した。
助かった子供たちはジーノの伝手で『龍の国』と呼ばれる地へ送られた。住み慣れた地を離れなければならないあの子らの心境を考えるとどこかやるせない気持ちになるが、さすがにあのままあの地獄に放置するのも気が引けた。どういう手段を使ったのかわからないが、ジーノが連絡を取ると程なくして龍の国から迎えに来た使者が現れ、事情を説明すると快くあの子らを受け入れてくれた。13人の少年とたった1人の少女が龍の国へと旅立った。ジーノの言葉を借りれば、彼らはこの上なくかつてないぐらい人間として正しく、幸福に暮らしているらしい。だが、それを聞く度に思うことがある。
人ならざる者の世界で心正しく生きられるのならば
私たちの生きる世界は何と醜いことなのだろう
「しかし、アレだな。あいつも露骨というか何と言うか」
「──あいつって何だい、ジーノ」
「あいつってのはあの街で崇められていた神様さ。あの神様は重度──いや重篤な少年愛嗜好者でね。基本的に好みの少年しか救わないという異端の神なのだよ。人類にはバレてないけど私らの間では大変な少年狂いで有名なヤツさ」
「──確かあの街の神様って」
「うん、屈強な髭面のオッサンだね。あの街の寺院で祀られていた石像は生き写しだよ。かなりそっくりだった。想像してみなよ。アレが楽園に辿り着いた可愛らしい少年たちを言葉巧みに誘って襲い掛かる地獄絵図を。ありゃあ神様じゃなくてケダモノさ」
知りたくなかった。
しかも想像したくなかった。
10年目にして一番知りたくなかった最低な事実だ。
「はっはっは、落ち込むな落ち込むな。落ち込むとホラ、私に供給する血の出が悪くなるぞ。だいたい人間にだって少年愛を嗜む者がいるだろう?あいつは人間と違ってノータッチの戒律を真摯に守っている。だからこそ、曲がりなりにも神様なんてやってられる訳だ」
「──慰めにもならないよ」
楽しそうに笑うジーノに対して、私はただあまりにも俗っぽい神様の正体に気落ちするやら絶望するやらと忙しく頭の中で感情を走らせるばかりだった。だが、どうしようもない。あるがままを受け入れるしかないのかもしれない。
「お、立ち直ったか。そうそう、それで良いのだよ。その切り替えの早さが悟りへの一歩になるかもしれないぞ」
「切り替えたんじゃないよ。諦めただけさ」
そう言って私は深い溜め息を吐いた。
そんな私を見てジーノは優しく微笑んでくれた。血の供給──という単語が彼女の口から出たが、その意味はこの私自身の特殊な身の上にある。
結論から簡単に言うと、私はジーノの長い尻尾の先に半ば寄生するようにして過ごしている。10年前、無実の罪で断頭台の上で私は首だけになり、彼女の吹き込んでくれた命のおかげで蘇った。しかし、ここで問題が起こった。命を吹き込んでくれたおかげで首の切断面から止め処なく滝のように血が流れ続けるのだ。それで貧血などの何かしら影響が出る訳ではないのだが、さすがに垂れ流しっ放しというのもよろしくない。
『そうだ、ならこうしよう』
そこでジーノの提案に乗り、私は尻尾の先に寄生することになった。私もこうなっては益々人間を辞めているなと苦笑いするのだが、彼女はそれのさらに上を行く荒技をやってみせた。調度私の首をすっぽり覆える程に尻尾の先を指で十字に縦に切り開くとそのまま裂けた尻尾で私を掴み、自分の傷口と私の首の切断面をピタリとくっ付けてしまった。そうして私から流れる血はそっくりジーノの血肉となって今日まで来た。
魔物なのだから本当は精が良いのだろうが、心なしかこの私の血を吸い続けての10年ばかり、ジーノの肌の血色まったくの死人だった頃よりはずっと良い気がする。ジーノの言葉を借りればこの関係は共存共栄らしい。
確かにそうなのかもしれない。──何故なら
「おっと、そろそろ時間だな」
作業を終えたジーノが振り返る。
気のせいでなければ顔が赤い。
「パクス、こちらに」
ジーノは可愛く小さく手招きをする。
自分で寄せれば良いのにそうはしたくないらしい。彼女なりの乙女心なのだろうか。私も私で慣れたもので、彼女の尻尾を操って彼女の顔の前まで顔を近付けていく。どうやら彼女の尻尾に寄生している間は尻尾の支配権は私にあるようだ。
あの時と同じように、彼女の顔が目の前にある。金色の瞳が優しい眼差しで私を見ている。絶対口に出すことはないが、ジーノは美しい。屍として崩れてはいるが本当に美しいと思う。感謝以上の好意を、私は持っているのだと自覚している。
「人が来るのは恥ずかしいから──」
「──わかってる。まだ私自身の用意もあるし、だから誰かが来る前に済ましてしまおう。───パクスの」
──ご飯
その声は消え入りそうな程小さく、言い終えるか終えない内にジーノの唇があの時と同じように私の唇を塞いでしまう。あの時と違うのは私もそれを受け入れるために何の抵抗もしないことぐらい。唇を塞ぐと同時に舌がぬるりと滑り込み、私も彼女の舌の動きに合わせてお互いに舌を絡め合う。いつも通りだ。甘い──血の味がする。それを飲み込むと私の頭全体が脈打つ感覚に襲われた。それが命そのものの奔流であるように感じる。私はこうしてジーノから命を分け与えてもらっている。
彼女と共に生き、彼女と添い遂げるために。
ジーノを、もう一人にしないために。
「──ジーノは、凄いな」
僅かに唇が離れると私は感嘆の声を漏らした。
「──だって、元は神様だもの」
そう言ってジーノは強く私を引き寄せるとまた舌を絡め合う。これ以上は命を分け与える以上の行為。お互いに好意を伝えていないが伝える必要のない程私たちは強く惹かれ合っている。二人で依存し合いながらぬるりとした舌で逢瀬を重ねてきた。
たぶん、もう離れられない。
私はそう感じている。──きっとジーノも。
ふと、人の気配を感じた。まだ私たちに気が付いてはいないようだが、真っ直ぐにこちらに向かってきている。どうやら私たちの──いや、ジーノの客らしい。誘い合わせて来たのか一人二人の足音ではない。
「──来ちゃったね」
ジーノも気が付いたらしい。名残惜しいと目が、絡め合った舌に繋がる糸がそう言っているようだ。
「──ああ、宣伝効果ありだ」
そう言って逢瀬の終わりを合図するように私はジーノに触れるだけの軽いキスをする。そのささやかな抵抗として僅かに拗ねたような表情を彼女は浮かべた。
────────────────────
この日集まったのは30名ばかりの人々だった。
小さな村の小さな広場。そこにジーノの着替え用のテントだけ建てて準備はお終い。集まった村人たちは私たちの宣伝に興味を持って来てくれた。宣伝と言っても昨日ここに辿り着いた時に村の掲示板にポスターを貼り、村長さんに挨拶をして口コミで今日の催しを広めてもらっただけなのだが。
着替え用のテントからジーノが姿を現すと拍手が起きた。今日、ここで布教目的の説法を行う。そのためジーノはいつもの身軽──と言うより半裸に近い格好から僧侶らしい服装に着替え、顔の崩れを隠すように大きな頭巾を被っている。先程の逢瀬の前に言っていた準備とはこのことである。
「お集まりの皆様には感謝を──」
という前口上からジーノは語り始める。
自分が人間でないこと、すでに真っ当な生きた存在ではないこと、屍であることを前置きし、それが不快であるなら席を立っても構わないということを改めて注意しておいた。しかし席を立つ者はいない。誰も尻尾の先に寄生する私のことも気にすることもない。誰も出て行かないことを確認すると、しばらく呼吸を置いてジーノは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。では本日の説法は──」
ジーノの説法は贔屓目なしに聞いても面白い。
書物を読む語り口ではなく、そのほとんどが彼女自身の体験に基付くものであり、数百年もの長い時間を掛けて自分の中で咀嚼してきたものであるため聞いている人を飽きさせない。
ジーノは言っていた。
自分は元神様だと。
正確にはとある地方の小さな宗派を守護するドラゴンだったと彼女は言っていた。しかし何世紀も前の宗教戦争に敗れ、彼女の守護したものは堕落した神と勝利した人間たちに貶められ、戦死した彼女自身もまた守護龍から悪魔として打ち捨てられていたのだという。もしも現魔王が打ち捨てられた屍の彼女を見付けなければ、そのままひっそりと朽ち果てて土に還っていたであろう、と彼女は笑いながら私に語ってくれた。
何故、私を助けてくれたのか
私は一度だけジーノに聞いたことがある。
彼女は冗談めかして『自分は面食いだから』と笑っていたのだが、すぐに真面目な顔になって彼女が復活するまでの顛末を教えてくれた。何のことはない。彼女は首だけで打ち捨てられた私にかつての自分を見たのだ。一人寂しく、誰にも知られることなくひっそりと朽ちていく辛さを彼女は知っていたのだ。
だから──気が付いたら声を掛けていた。
まだ私に意識があるとも知らなかったのに。
無意識に価値観を共有出来る同族を探していた。
元神様だからなのだろうか。
ジーノは他のアンデッドたちとは違う気がする。見た目こそ崩れてしまっているが頭の中はかなりしっかりしているのだ。私も首だけになってからアンデッドと呼ばれる魔物たちと交流を持つようになったのだが、元が元なだけに最初からアンデッドでも上位種として再び生を受けた──と私は勝手に解釈している。
もっともそれ以上に彼女は変わり者だ。
「私ほど真摯に人間を愛している者はいないよ」
ジーノは常々そんなことを言う。
人間と同じ目線で生きていきたいからと背中の翼はもう痛覚がないことを良いことに自分で引き千切った。この空の下を、この大地の上を人間と同じように踏みしめて歩いていきたいと彼女は言った。かつての戦争では人間に命を奪われたにも関わらずだ。それは戦争なら仕方ない、とジーノは笑っていた。ただ、自分にとどめを刺した騎士にはどれだけ痛かったかを小一時間ほど嫌がらせで問い詰めてやりたいらしい。
そんなジーノのことが私は何だか誇らしい。
何故だかよくわからないが、彼女に見付けられ、彼女と共に生きるということが出来るということが嬉しくて堪らない。それと同時に彼女と共に生きるに相応しい者にならなければ、という心地良い重圧がこの10年という月日の中で私という存在を支えてくれた。
「──では本日の説法はこれくらいに」
いろんなことを思い返し、考えていたらいつの間にかジーノの説法は終わりを迎えていた。彼女が何を話したのか今日もほとんど聞いていなかったなぁ、と思いつつ私はこの後の自分の出番に向けての心構えをしていた。この後はジーノの腹話術人形の役としてちょっとした寸劇で出番があるのだ。生前、奴隷として身に付けた技能の中に何か役を得て演じるなんてものはなかったから10年経った今でもうまくいかず四苦八苦している。
──────あ。
ジーノが私を見ている。
笑顔だけど怒っている。
彼女の説法を聞いていないのがバレたようだ。
────────────。
──────────。
───────。
────。
「ところでジーノが広めている神様って何なんだ」
村での布教活動も終わり、説法を聞いていなかったことに関する説教も一段落付いた頃、私はこの10年程ばかり疑問に思っていたことを口にした。
「──呆れた。この10年、私の弟子として傍らで説法を聞かせてやってきたのだから、少しはわかってきたものと思っていたのに。パクス──お前というヤツは」
いつの間にか私は弟子にされていたらしい。
「いや、ジーノの話は面白いのだけど、掴みどころがないじゃないか。前は東の果ての島国の話、そのさらに前は古の大帝国での話。それぞれに神様の話は出てくるんだけど、同じ神様が出たことがない。結局ジーノの広めている神様は何なのか、教義が何なのかわからないよ」
「教義もクソもないよ。私は当たり前のことを説いているだけなんだから。神様の話なんて云わば記号さ。私が説くものの例え話に当てはめるのにあいつらの存在は都合が良い」
よいしょ、とジーノはいろんな物を無理矢理詰め込んだ大きなトランクの上に腰を下ろした。どうやらゆっくり腰を据えて話してくれるらしい。私はジーノの尻尾を操って出来る限り彼女の正面にいられるように顔を近付ける。
「うんうん、良い心掛けだ。さて、私の説くものだが単刀直入に言うともはや宗教ですらない」
「そんな格好しているのに?」
「ああ、これも言ってみれば話を聞いてもらうための記号なのさ。それに結構似合っているだろ?気に入っているんだ、これ」
僧侶の装いで胸を張ってジーノは笑う。
上から被るだけのダボダボしていて一見野暮ったい印象を与える衣装だが、なるほど、確かにこの格好ならジーノの身体の崩れや背中に突き出た剣も完全ではないにしろしっかり隠れる。話も聞いてもらいやすいかもしれない。それにジーノは3m近くあるからこんな服でもなければ体格に合う服がない。以前魔物なのに服を着るのかと驚いたら痴女じゃないんだぞと怒られたことがある。
あの時のげんこつは痛かったなぁ。
「私の説くものは宗教ではない。だから厳しい戒律も死後の世界における神の裁き云々もない。あちらの世界はきちんと存在するがそこは私の関知するところではない。死者は自分で行き先を選ぶ。正しい行いをした自負を胸に扉の開かれた楽園に向かうか、純粋無垢な魂に戻るが故に生前の行いを悔いて火に焼かれ浄化を願うか、それとも心残りを成すために今一度人の世に生を受けるか。本当にそれは人それぞれなんだ。だからこの世に跋扈する数多の宗教は、ただこの世をより良く生きるための救いであり、哲学であり、所謂一つの指南書なのだよ。すべては自分自身が考えて決めることなのさ」
選べなかった者にはこうして手を差し伸べる、とジーノは私の頬を撫でた。私のような事例は滅多にないようなのだが、私程ではないにしろ選べない死者もそれなりの数がいる。神様が救うのはそういう迷える者たちが主であるそうだ。
「──少し脱線したな。では私は何を説くのか。それは簡単さ。この世界は男だけでは成り立たないし、女だけでも成り立たない。どちらか一方だけでは数は増えないしね」
「生めよ、増やせよかな?」
「そう、それだ。だが、ただそれだけでは味気ないとは思わないかね?人はもっと性に大らかであるべきなのだ」
「ジーノたち魔物は大らか過ぎる気もするけど?」
私がそう言うとジーノはわかっていないなぁと首を振る。
「男女がいて、そこに何かしら好ましいと思えれば子を為そうと交わるのは自然なこと。魔物も人もクソもない。そこに姦淫による快楽を禁じたり、作法だ何だのと難癖を付けるから性そのものが穢らわしく見えてしまう。そもそもただの繁殖のためだけの性行為など苦痛以外の何者でもないし、また強姦の如き一方的な性的な快感と征服欲だけを満たす性行為は私も快くは思ってはいない」
「──それは確かに」
「──良い機会だな。この際だ。教義云々はどうでも良いが、それとも関係がある話だしそろそろ私もハッキリさせておこう──いや、ハッキリさせておきたい。なあ、パクス──君は私のことをどう思っている?」
説法の時とは違ういつになく真面目な声でジーノは訪ねた。何を今更と顔を逸らそうとすると、彼女は私の頬を両手でしっかり包み込み、真正面でジッと私を見詰めている。
「目を逸らさないで」
「──恥ずかしいんだ」
「私だってそうさ。それでも私はパクスの声で、言葉で聞きたい。私たちはその特殊性故にお互い言わなくても伝わっているが、それでも──これだけは言葉で伝え合いたい」
逃げ場なんてない。
そもそも逃げようにも私には逃げるための身体がない。そんなことを考えていると、ふと懐かしい感覚が蘇った。ああ、10年前だ。10年前の出会った時のようにジーノは私の声を聞きたがっている。
「──好きだ。ジーノのことを、心から。多分、愛しているってのはこんな気持ちなんだと思う。ずっと、出来るなら永遠に、ジーノの側にいたい」
「──それは何故?私に寄生していれば死ぬことはないから?」
「そんな訳ないだろ。例えジーノに寄生しなくたって、永遠に生きられないとしても、私はジーノの側にいたい。理由なんてない。ただ好きだから、愛しているから、命続く限り寄り添って生きたいんだ」
少し意地悪なジーノの質問に対しムキになって答えると、彼女はそっと私と口付けを交わした。触れるだけの、それでいて優しくて暖かい口付けだった。
「──ありがとう、パクス。私もだよ。理由なんて数えたらきりがないけど、本当のところ理由なんてどうでも良い。君が側にいてくれることが、君とこうして話をしていることが、同じ時間を共有しているという事実そのものが愛しくて堪らない」
そう言ってもう一度触れるだけの口付けを交わす。
「──で、それが本題。私の説いて回る神様の正体はそういう感情そのものなのさ。パクスも私も同じ物を抱いている。その同じ物を人も魔物も一緒に持ち合わせることが出来たなら、それは本当に素敵なことだと思わないかい?」
「──そうだな」
「でも、現実はそうはいかない。ふふっ、血を通して君の想いが流れ込んでくる。パクス、君は優しいな。言葉にしないでくれてありがとう。その通りだ。人は私たちを拒む故に剣を向ける。剣を握るその手は同時に誰かの手を握れるにも関わらずね。何故そうなるのか。答えは簡単なのに」
ジーノはそう言うと私の頬を撫でて微笑んだ。
「──恐れるのはよくわからないからだ。人を基準とするなら異形である私たちをよく知らないから恐れて拒むんだ。なら、理解すれば良い。君たちも、私たちも。姿形は違えど同じ物を持っているのだから。剣を握るよりも、それはずっと有意義なことだと思うんだ」
スッとジーノは立ち上がる。
詰め込みすぎて重たくなったトランクを右手に持って。
「さあ、行こうか。私も君も、幸いなことに時間は無限にある。死によって終わることのない旅をしよう。そして広めていこう。お互いに愛し合うことが出来るだけで、この世界は簡単に薔薇色になるんだということを」
古い古いレスカティエ教のレリーフには金色の野を歩む双頭の龍が描かれていたという。優しく語り掛けるその龍はいつも人々に愛を説いていたと伝えられる。結局、時代の流れと共に双頭の龍の話も存在も忘れ去られ、愛することを忘れた人々は滅んでしまったのだけれど、双頭の龍の説いた愛はしっかりと根を下ろし、たくさんの人々の心に花を咲かせている。
今もどこかで愛を説く双頭の龍。
人々はその龍をマザーと呼んだ。
そこで偉人が生まれた
歴史的に重要な場所だ
様々な理由で人は聖地を作る。
しかし時には誰が呼ぶでもなくそう呼ばれる土地かある。
神々の奇跡が起こる場所
それこそが本物の聖地なのだ。
世界にはそんな場所がいくつかあった。
そして、ある夜そのいくつかあった本物の一つが消えた。
私は首だ。
云われなき罪人だ。
中央広場、断頭台の側に打ち捨てられた悲しき首だ。
何の罪も犯してはいない。だが、もしも、余所の国で奴隷として生を受け、流されるままにここに売られ流れ着き、奴隷でありながらそれでも人間として正しく生きようとしていたことが罪だと言うのならば、私は罪人なのだろう。
ほんの数時間前、私にも身体があった。
首から下に健康な身体があった。しかし、うっかり殺人の現場と犯人の顔を目撃し、それを代官所に訴え出たがために私はその場で逮捕され、何日にも及ぶ拷問の末にあの断頭台に登るはめになった。犯人は私に死刑を言い渡した聖職者。この街の人々から尊敬され慕われる人格者だった。だが私にはもう彼を告発することは出来なかった。執拗な拷問で声を発することが出来なくなっていたからだ。
街の人々もわかっている。
私は犯人などではないことを。
しかし私が犯人であることが望ましいのだ。真犯人などわからなくても犯人は私でなければならないのだ。その方が都合が良い。この街の人間が罪人になどなってはいけない。
ここは聖地。
奇跡を生む街。
善き人々の住む街。
罪人は余所者でなければならない。
罪人は卑しい身分であらねばならない。
だから、誰も私を助けてはくれなかった。
「やあ、こんばんは」
突如、私の遙か頭上で声がした。
どこか軽やかで爽やかな女の声だったのだが、私はその声の主の姿を見ることは出来ない。喋ることも動くことも出来ない、端から見れば正真正銘首だけの死体なのだから。
「驚いたな。あまりにこの世に絶望しきった顔をしていたので一言慰めの言葉を掛けてやろうと思ったのだが──何とまあ、まだ意識が残っていたとはね」
そう、まだ意識が残っている。
幸い首を落とされた痛みは一瞬で消えたものの時間を追うごとに視界は白く濁り、脳髄の奥は何かよくわからない黒く濁ったものが流し込まれたかのようにぼんやりと痺れて、言葉も発することも出来ない。緩やかに普通よりも遥かに時間を掛けて死に向かってはいる。だが、まだ意識があるのだ。肉体的には死んでいるのに私はまだ生きているのである。
こんな残酷なことがあるだろうか。
「なるほど、なるほどなるほど。この地か、この土地の影響か。ここは紛い物ではなく本物の聖地、奇跡の土地だからか。奇跡が君の死を拒んだ。惜しいな、首から下が残っていたなら君はかの三日目に復活したかの人の如くなれただろうに──いや、君の場合は改めて殺されるだろうな」
女は独り言のように私に語り掛ける。
ぼんやりと木霊するようにしか聞こえていないのだが、それでも最期まで耳は機能するらしい。それもいつまで機能するのかはわからない。だが私は嬉しかった。理由も彼女の姿もわからないが彼女は私に語り掛けてくれた。私を認識してくれる誰かがいた。死んでいくのは寂しく一人ではあるが、私はこの思い出を反芻しながら死んでいける。
それだけは幸せだと感じた。
「──君の声が聞きたいな」
彼女は無茶を言っている。
何度も言うが私は死体なのだ。意識だけはまだ残っているとは言えど首だけの死体なのだ。あまりに無邪気な呟きだった。もし私に声を出せる機能が残っていたなら笑いを漏らしただろう。
しばし間があった。
一瞬の浮遊感。
感覚は鈍いのだが何となくわかった。どうやら私は持ち上げられたらしい。しかし聞く機能こそまだぼんやりと残ってはいるものの、視界は白く汚れて濁って何も見えない。ただ、痺れたかのように感覚のない両頬に違和感のような感触が薄くぼんやりとあった。
何が何だかわからない。
打ち捨てておけばその内人知れず意識も消え失せていくだろうに、彼女はわざわざ私の首を抱えてどこかで供養でもしてくれるのだろうか。もしもそうならありがたいと思った。完全に死ぬ前に野犬に貪り食われるのも嫌だったし、例えそうでなくとも誰にも知られることなく朽ちていくのは正直なところ堪えられるものではなかった。寂しかった。心から。
名も顔も知らないが彼女に出会えて良かったと思う。
私の生は無価値ではなかった。
何となくそう思えてならない。
そんな心穏やかな死を受け入れようとしていた時
−ぷしゅ−
という空気が抜けるような小さな音がした。
何の音だろう、と疑問に思うよりも早く私は私自身に起こっている異変に驚いていた。熱い。熱い激流のような何かが私の中を駆け巡っている。私の中を支配しつつあった黒い何かを、おそらくは死そのものを押し流すように荒れ狂っている。脈打っているのだ。生が私の中に蘇っている。
徐々に様々な感覚が覚醒していく。
まずは皮膚だ。熱を取り戻した頬は何か大きなもの……それが段々と大きな手の平に私は包まれているのだと伝えてくる。何かを言おうとすると唇は動かないことがわかった。動かせないのではなく、何かに塞がれて動けないのだ。
次に蘇ってきたのは鼻だ。どこかで花が咲いている。売られて流されている内にどこかで嗅いだ花の匂い。あの頃も苦しかったが思い返せばたぶん幸せだった。その花の香りは幸せの記憶だった。
その次は舌が蘇った。何だろう。私は今甘い何かを飲んでいる。いや、無理矢理押し込まれ強制的に飲まされていると言った方が良いのだろう。だが悪い気はしない。むしろそれを飲み込むたびに私の中の脈は強くなり、真っ黒な死は形を潜め遥か彼方へと追いやられていく。そんな気にさえなる。
そこからは早かった。感覚のすべてが元に戻っていき、先程の空気の抜けるような音の正体も、首の切断面から滝のように勢いよく流れ落ちる私の血液の音であることも感覚でわかる程だった。首から下が無いことを除けばほとんど数時間前──生前と何ら変わらないほどに。
そして───
最後に白く濁った視界が元に戻った
「──────」
彼女の顔が、近い。
目蓋を閉じた彼女の顔が大きく見えるだけで他には何一つ見えない。文字通り彼女しか見えない。私は両手で頬をしっかりと包まれて唇を奪われている。切断面から噴き出る血流に手が汚れるのも構わず彼女は私の唇を貪っている。
「─────ッ」
不意に口の中に何かが流し込まれる。
甘い。ああ、これは唾液だ。いや、唾液だけではない。ほのかに血の味がする。私のものではない。血を垂れ流してはいるが口元には上がって来ていない。つまりこれは彼女の血だ。血と唾液を私に流し込んでいるのだ。
彼女が目蓋を開く。
目が合った。金色の瞳、縦に切れたような瞳孔が私を見つめている。私の目がしっかりと彼女を見ている。そのことが視線を通して伝わると彼女は嬉しそうに目を細め、貪っていた私の唇を解放すると、私に彼女の姿が見えるように少しだけ彼女の目線よりも高い位置にゆっくりと私の首を片手で掲げた。
「見えるかい?」
見えている、と私は頷いた。
巨躯だ。恐ろしく巨躯の女だ。
金色の瞳を見た時から予感していたが彼女は人間ではなかった。白く長い髪からは荒々しく大きな角が突き出て、四肢も人間のものとは大きくかけ離れたものをしている。異国で一度だけ見たことがある。そうだ、あれは確か──そう、彼女はドラゴンだ。だが、普通のドラゴンではない。
生気を感じさせない青白い肌は所々引きつり、皮膚がボロボロに破れて赤黒く乾いたかのような彼女の赤い筋肉が覗いている。長い髪で隠してはいるが左の頬は腐り落ちたのか裂けたかのように鋭い牙が露出している。そして背中の翼がない。腐り落ちたのか、それとも何らかの外的要因があったのか。腰には引き千切られたような痛々しい後がそのまま残っていた。その代わり本来彼女らドラゴンをドラゴンらしく彩る翼があるべき背中には正面から刺し貫き、そのまま折れて残ったかのように、時間と血で赤黒く錆び付いた幅広の刃がいくつも背びれのようにそびえていた。
いつか見た小さな白い幸せの花が傷口から花を咲かせている。
生きて───いない─?
「私が恐ろしいかい?」
「─────いや」
声が出せた。
自分で出しておいて自分で驚いていた。
「良かった。───実は怖がられたらどうしようかと内心乙女の如くドキドキしていたところなんだ」
彼女は照れたようにはにかんだ。
「見ての通り私はかつてドラゴンだった者だ。今は君と同じ生きる屍さ。ああ、そうだ。そうだった。こんな格好で失礼するよ。月光浴の最中だったのでね」
彼女は一糸纏わぬ姿だった。
小振りながら形の良い乳房も毛深く野性的な股ぐらも恥じることなく堂々と惜しげもなく晒していた。その身体に腕から伝わり流れる私の血が鮮やかな赤い線を描いていく。それを──私は美しいと魅了されていた。あまりに背徳的であるにも関わらず目を逸らすことが出来なかった。
「私の名はジーノ。──君の名前は?」
「私は─────」
私は────誰だ。
思い返せば名前で呼ばれたことがない。名前はあったかもしれないが、いつしか誰も私のことを名前で呼ばなくなっていた。ゲラ家の奴隷、それが精々私に与えられた記号だった。
「──じゃあ、パクス。平和、私が好きな言葉だ」
そのことを伝えると彼女は──ジーノは私をパクスと呼び始めた。彼女が平和が好きだからパクス、とはまたあまりに単純というかセンスがないというか。しかし───しかしだ。呆れるほど単純だというのにこれほど嬉しいことはないように思えた。
パクス──私はジーノにそう呼んでもらうことで今ようやく奴隷から、理不尽な生から解放されたような気がしていた。
「気に入ってもらえて嬉しいよ。では──本題だ」
───パクス
君はどうしたいかい?──
ジーノは笑顔のまま私に問う。
「私は死者の味方だ。理不尽な暴力によって悲しい最期を迎えた者たちの救い主だ。復讐を望むなら私が手を下そう。安らかな楽園に行きたいのならばその道を指し示そう。君らが堕落した神と蔑む我が神の名において嘘偽りなく死者たる君に喜んで手を貸そう。さあ、どうしたい。さあ、パクス──君の声を聞かせてくれないか?」
ジーノは言っていた。──私の声が聞きたい、と。それは私の口からただ発せられる声ではない。私の心の奥底から湧き出る思いを聞きたがっていたのだ。
───復讐を望むなら
ジーノの言葉に私の心は揺れていた。
憎しみがない訳ではない。理不尽な死を私に与えたこの街のすべてに私と同等の苦しみを与えてやりたい。そう──首を落とされる前も、ジーノに生を与えられた今でも思っている。
しかし────
「────わからない」
口から出たのは想いとは違うものだった。
「憎いとは確かに思っている。出来るならこの街の人間すべてを私と同じ目に遭わせてやりたいと思っている。でも、本当にわからないんだ。心のどこかでは彼らの弱さ醜さを認めていて、私をこんな目に遭わせた彼らを赦そうとしている。私は──私はどうしたら良い─ッ」
ジーノは私の心の声を聞いて目を丸くしていた。
彼女自身予想すらしていなかったのだろう。
「───ふむ、では楽園に行くかね?もっとも私の知る楽園は君らの知るところの楽園とは随分かけ離れた世界だが、とりあえず君の失った身体は与えられるだろう。永遠に続く心の安らぎと快楽が得られることは保証するよ」
魅力的な提案だった。
しかし私の心を打つには至らず私は首を横に振る。
「───強いな、パクス。君のように人間が人間らしく、迷いながら躓きながらも正しく人間を全うして生きようとする者ばかりであったならば、この聖地も穢れることはなかったであろうに」
「──私は」
強くない、と口にしようとしたがジーノは首を振る。
「──どうだろう。パクス、君さえ良かったら私と共に来ないか?私はこうして死者の味方として願いを叶えるようなことをしているが、普段はもっぱら君らの言うところの堕落した神の布教をしているのだ。何、怪しいことやましいことなどはしていないよ。屍な上に魔物の私が言うのも何だが至って健全な活動さ。それに──恥ずかしい話、いい加減に孤独に耐えられなくなってきてね。話し相手を探していたところなのだよ」
ジーノの提案にそれも良いかなと思えた。
「──いつまた死ぬかわからないけどそれで良かったら」
「──ッ、そ、そうか、そうか!一緒に来てくれるか!ありがとう───本当に、ありがとう─。だがいつまた死ぬなんて心配しなくても良い。君は私の血を飲んで復活した。だから君が死ぬ時は私も死ぬ時だ。ただでさえ長命なドラゴンが屍龍となったのだ。本当に心の底から飽きるほど長生きするぞ」
「ははっ──そりゃ楽しみだ」
「ああ、楽しみにしていろ」
そう言ってジーノは余程嬉しかったのか、ホッとしたような声を漏らすと私の首を優しく包み込むように抱き締めた。壊さぬよう、潰してしまわぬよう、丁寧に、そして慈しみ深く。抱き締められることで柔らかくも冷たい乳房を押し当てられ息苦しかったため少し緩めてくれと言おうとしたが、ジーノの仕草や聞こえてはこない彼女の鼓動に、言葉以上の孤独と寂しさを感じてしまった私はそのまま彼女の為すがままにされることにした。
「──ありがとう、パクス」
優しく、ジーノはまた呟いた。
泣いているかのように震えている。しかし涙は落ちることはなかった。それが生きる屍として生きるジーノの孤独そのものなのかもしれない。何か声を掛けてあげたかったが、今の私には彼女を慰めてやれる言葉など持ち合わせていなかった。彼女の孤独をまだはっきりと理解していない。だから──今はこうして彼女の気の済むまで抱かれていよう。私に気付かぬように声を押し殺して泣く彼女のために気付かぬふりをしてしよう。
心からそう思った。
───そして月が西の空へ傾き
東の空から鮮やかな群青色を見せる頃
突如その静寂は幕を閉じる
「─────さあ」
尻尾を地面に叩き付ける低く重い音が響く。
「もうすぐ朝が来る。そろそろお暇しようか」
「朝日に弱いのか?」
「まさか。徹夜が苦手なだけさ」
そう言ってジーノは笑った。腕の中からジーノを見上げると彼女は私を見下ろして優しく微笑んでいた。まるですべてを包み込む慈母のようにその微笑みはどこまでも優しかった。
だが、私は気が付いてしまった。
まだ太陽は昇っていない。それだと言うのにジーノの背後がやけに明るい、いや、これは輝いているのだ。ここからでは何が起きているのかよくわからない。しかしこの青白い光は一体何なのだ。
「──さて、というのはね。この地を去る前に私は私の仕事を終わらせようという意味なのだよ」
「ジーノの──仕事─?」
「ああ、仕事だ。私はね、偶然この地に来た訳ではないのだよ。ほら、あそこに祈りの家が見えるだろう?そう、この街の人々が崇め讃えて拝む神様の像が澄まし顔でおわすあの寺院が。私はね、あの教会で拝まれている神様から頼まれたのだよ。像ではなく本物のね。曰わく聖地が穢されている。出来ることなら穢れを取り除き、慈悲と赦しを以て人々を救ってほしいと。あの神様、この前の神界戦争でひどく傷付いたせいで自分では動けないからね」
どこか呆れたような表情をジーノは浮かべる。
彼女の背後の光は益々強くなっていった。
「神界戦争──って神様同士で戦争するのか─?」
「するさ。血の気の多いヤツ、虚栄心の強いヤツ、中には人間に興味なく主神の地位だけが欲しくて主神暗殺を試みるとんでもないヤツ。ここの神様みたいに人間を気にかけているヤツらも多いが、神様というより悪魔と呼んだ方がしっくりくる連中の数の方が表に出ないだけ遥かに多い──っと脱線したな」
苦虫を潰したような顔になったり、楽しそうな顔をしたりと表情がコロコロと目まぐるしく変わり、どこか愚痴混じりの脱線に気が付くと恥ずかしそうにジーノは顔を赤くして私から目を逸らした。本当はおしゃべりが好きな人だったのだろう。それを思うと彼女が今までどれほど我慢していたのかを想像し胸が痛くなる。
──もう、痛む胸などないのだが。
「それで昔、ちょっとした縁があり、尚且つ今も地上を自由に生きる私がアレの頼みを聞いてやってきた訳──なのだが、これは私の想像を遥かに超える穢れ具合だったよ。パクスのように救える者は救ってやりたいが、この穢れは聖地を上書きしかねない勢いだ。もう手遅れだよ。私の手には負えない」
このひどい穢れを君は見えないだろう、ジーノはそう呟きながら群青色の空を仰いだ。ジーノの目にはどんなものが見えているのだろう。見えないことが幸せなのかもしれないのだが。
「──だから私は裁きをこの地に委ねることにした」
「──何を、するんだ」
「私はただ力添えをするだけ。私が私として示してやれる力の方向性を示し、それに先程のパクスの想い『憎しみと赦しで揺れる心』を乗せていく。後はこの聖なる土地に宿る者が判断するだろう。人間と違って公平さ。赦される者は助かるし───」
──赦されざる者は魂の罪人として裁かれる
刹那、ジーノの背後で輝きを放っていた青白い光はより強く、大きくなり破れた皮膚の隙間からも強く輝きを発した。それは益々強く増していき、いつしか青白い光はまるでジーノの血が混ざっていくかのように見る見る内に赤みを帯び、鮮やかな薄紫色の光へと変わっていった。
ジーノが低く、力強い咆哮を上げる。
それと同時に薄紫色の光の波がジーノを中心に広がり、街を光の色で染め上げていった。広がっていく光を見詰めながら私はわかってしまった。この光が街のすべてを包み込んでしまう時、聖地は自らの意思で聖地であることをやめてしまうのだということを──。
────────────────────
紫色の光が街を覆った
神々の怒りに触れた人々はドロドロに融け合い
何もかもが形を失った血と錆が覆う世界の中で
それに相応しい姿へと変わっていった
もう 聖地ではない
死ぬこともなく
生きることもなく
人でも魔物でもないものになった者たちが
もがき苦しみのた打ちながら跋扈する
そんなかつての聖地を人々は地獄と呼んだ
屍竜の言う通り 裁きは公平に下された
嗚呼 赤く腐敗した雨が降っている
『古レスカティエ教・旧約経典より』
「──あれは凄い光景だったなぁ」
あれから10年もの月日が経つ。忘れようとしても忘れられないあの目を背けたくなる惨状をふと思い出して私は呟いた。
「──私もあれ程とは思わなかった」
そう言ってジーノは作業の手を止めて青くどこまでも広がる空を仰ぎながら苦笑いを浮かべた。
あの日、ジーノの放った光が街を覆った。ジーノの思惑は憎悪しても尚赦したいという私の思いを聖地に宿る何かの力と共に解放し、あの街の人々の心の奥底にある罪悪感を呼び覚まそうとしていた。ジーノの光は人の心の壁、偽善、そう言ったものを腐り落とすことが出来る。そうやってあらゆる防壁の腐り落ちた赤子同然の心に毒薬とも劇薬とも言えるぐらいの罪悪感を塗り付けるというのも乱暴な話なのだが、ともかくそれが彼女の親心にも似た優しさだったのだろう。
しかし彼女の思惑以上に聖地に宿る者の怒りは激しかった。そこに宿った精霊、神々の残光、そして私のようにスケープゴートとして最期を迎えた数多の者たちの無念が壁を失った人々に襲い掛かった。聖なる地を穢され、命を穢された者らの怨念は凄まじいものだった。壁を失った人々は醜い心のままに爛れて腐り、歴史ある石造りの街も腫れ物膿み物に侵されすべてが血と錆の中に沈んでしまった。彼らはその地獄でどこにも行けないまま永遠に苦しむのだという。死を拒むほどの奇跡を生んだ力はそのまま罪人を赦さぬ異界の牢獄となった。
「それでも赦された者たちがいたことは幸いだったね」
「ああ、十数名の子供ばかりだったが。もしも誰一人助からないのであれば、むしろドラゴンの私の方がひどい人間不信に陥っていたかもしれないよ」
「あの子たちは元気にしているだろうか」
「しているよ。この間のワイバーンの郵便配達を覚えているかい?あれがあの時の女の子だよ」
「──ちょっと見ぬ間に。女の子の成長は早いんだな」
「早いのだよ」
少しだけ笑ってジーノは作業を再開した。
助かった子供たちはジーノの伝手で『龍の国』と呼ばれる地へ送られた。住み慣れた地を離れなければならないあの子らの心境を考えるとどこかやるせない気持ちになるが、さすがにあのままあの地獄に放置するのも気が引けた。どういう手段を使ったのかわからないが、ジーノが連絡を取ると程なくして龍の国から迎えに来た使者が現れ、事情を説明すると快くあの子らを受け入れてくれた。13人の少年とたった1人の少女が龍の国へと旅立った。ジーノの言葉を借りれば、彼らはこの上なくかつてないぐらい人間として正しく、幸福に暮らしているらしい。だが、それを聞く度に思うことがある。
人ならざる者の世界で心正しく生きられるのならば
私たちの生きる世界は何と醜いことなのだろう
「しかし、アレだな。あいつも露骨というか何と言うか」
「──あいつって何だい、ジーノ」
「あいつってのはあの街で崇められていた神様さ。あの神様は重度──いや重篤な少年愛嗜好者でね。基本的に好みの少年しか救わないという異端の神なのだよ。人類にはバレてないけど私らの間では大変な少年狂いで有名なヤツさ」
「──確かあの街の神様って」
「うん、屈強な髭面のオッサンだね。あの街の寺院で祀られていた石像は生き写しだよ。かなりそっくりだった。想像してみなよ。アレが楽園に辿り着いた可愛らしい少年たちを言葉巧みに誘って襲い掛かる地獄絵図を。ありゃあ神様じゃなくてケダモノさ」
知りたくなかった。
しかも想像したくなかった。
10年目にして一番知りたくなかった最低な事実だ。
「はっはっは、落ち込むな落ち込むな。落ち込むとホラ、私に供給する血の出が悪くなるぞ。だいたい人間にだって少年愛を嗜む者がいるだろう?あいつは人間と違ってノータッチの戒律を真摯に守っている。だからこそ、曲がりなりにも神様なんてやってられる訳だ」
「──慰めにもならないよ」
楽しそうに笑うジーノに対して、私はただあまりにも俗っぽい神様の正体に気落ちするやら絶望するやらと忙しく頭の中で感情を走らせるばかりだった。だが、どうしようもない。あるがままを受け入れるしかないのかもしれない。
「お、立ち直ったか。そうそう、それで良いのだよ。その切り替えの早さが悟りへの一歩になるかもしれないぞ」
「切り替えたんじゃないよ。諦めただけさ」
そう言って私は深い溜め息を吐いた。
そんな私を見てジーノは優しく微笑んでくれた。血の供給──という単語が彼女の口から出たが、その意味はこの私自身の特殊な身の上にある。
結論から簡単に言うと、私はジーノの長い尻尾の先に半ば寄生するようにして過ごしている。10年前、無実の罪で断頭台の上で私は首だけになり、彼女の吹き込んでくれた命のおかげで蘇った。しかし、ここで問題が起こった。命を吹き込んでくれたおかげで首の切断面から止め処なく滝のように血が流れ続けるのだ。それで貧血などの何かしら影響が出る訳ではないのだが、さすがに垂れ流しっ放しというのもよろしくない。
『そうだ、ならこうしよう』
そこでジーノの提案に乗り、私は尻尾の先に寄生することになった。私もこうなっては益々人間を辞めているなと苦笑いするのだが、彼女はそれのさらに上を行く荒技をやってみせた。調度私の首をすっぽり覆える程に尻尾の先を指で十字に縦に切り開くとそのまま裂けた尻尾で私を掴み、自分の傷口と私の首の切断面をピタリとくっ付けてしまった。そうして私から流れる血はそっくりジーノの血肉となって今日まで来た。
魔物なのだから本当は精が良いのだろうが、心なしかこの私の血を吸い続けての10年ばかり、ジーノの肌の血色まったくの死人だった頃よりはずっと良い気がする。ジーノの言葉を借りればこの関係は共存共栄らしい。
確かにそうなのかもしれない。──何故なら
「おっと、そろそろ時間だな」
作業を終えたジーノが振り返る。
気のせいでなければ顔が赤い。
「パクス、こちらに」
ジーノは可愛く小さく手招きをする。
自分で寄せれば良いのにそうはしたくないらしい。彼女なりの乙女心なのだろうか。私も私で慣れたもので、彼女の尻尾を操って彼女の顔の前まで顔を近付けていく。どうやら彼女の尻尾に寄生している間は尻尾の支配権は私にあるようだ。
あの時と同じように、彼女の顔が目の前にある。金色の瞳が優しい眼差しで私を見ている。絶対口に出すことはないが、ジーノは美しい。屍として崩れてはいるが本当に美しいと思う。感謝以上の好意を、私は持っているのだと自覚している。
「人が来るのは恥ずかしいから──」
「──わかってる。まだ私自身の用意もあるし、だから誰かが来る前に済ましてしまおう。───パクスの」
──ご飯
その声は消え入りそうな程小さく、言い終えるか終えない内にジーノの唇があの時と同じように私の唇を塞いでしまう。あの時と違うのは私もそれを受け入れるために何の抵抗もしないことぐらい。唇を塞ぐと同時に舌がぬるりと滑り込み、私も彼女の舌の動きに合わせてお互いに舌を絡め合う。いつも通りだ。甘い──血の味がする。それを飲み込むと私の頭全体が脈打つ感覚に襲われた。それが命そのものの奔流であるように感じる。私はこうしてジーノから命を分け与えてもらっている。
彼女と共に生き、彼女と添い遂げるために。
ジーノを、もう一人にしないために。
「──ジーノは、凄いな」
僅かに唇が離れると私は感嘆の声を漏らした。
「──だって、元は神様だもの」
そう言ってジーノは強く私を引き寄せるとまた舌を絡め合う。これ以上は命を分け与える以上の行為。お互いに好意を伝えていないが伝える必要のない程私たちは強く惹かれ合っている。二人で依存し合いながらぬるりとした舌で逢瀬を重ねてきた。
たぶん、もう離れられない。
私はそう感じている。──きっとジーノも。
ふと、人の気配を感じた。まだ私たちに気が付いてはいないようだが、真っ直ぐにこちらに向かってきている。どうやら私たちの──いや、ジーノの客らしい。誘い合わせて来たのか一人二人の足音ではない。
「──来ちゃったね」
ジーノも気が付いたらしい。名残惜しいと目が、絡め合った舌に繋がる糸がそう言っているようだ。
「──ああ、宣伝効果ありだ」
そう言って逢瀬の終わりを合図するように私はジーノに触れるだけの軽いキスをする。そのささやかな抵抗として僅かに拗ねたような表情を彼女は浮かべた。
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この日集まったのは30名ばかりの人々だった。
小さな村の小さな広場。そこにジーノの着替え用のテントだけ建てて準備はお終い。集まった村人たちは私たちの宣伝に興味を持って来てくれた。宣伝と言っても昨日ここに辿り着いた時に村の掲示板にポスターを貼り、村長さんに挨拶をして口コミで今日の催しを広めてもらっただけなのだが。
着替え用のテントからジーノが姿を現すと拍手が起きた。今日、ここで布教目的の説法を行う。そのためジーノはいつもの身軽──と言うより半裸に近い格好から僧侶らしい服装に着替え、顔の崩れを隠すように大きな頭巾を被っている。先程の逢瀬の前に言っていた準備とはこのことである。
「お集まりの皆様には感謝を──」
という前口上からジーノは語り始める。
自分が人間でないこと、すでに真っ当な生きた存在ではないこと、屍であることを前置きし、それが不快であるなら席を立っても構わないということを改めて注意しておいた。しかし席を立つ者はいない。誰も尻尾の先に寄生する私のことも気にすることもない。誰も出て行かないことを確認すると、しばらく呼吸を置いてジーノは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。では本日の説法は──」
ジーノの説法は贔屓目なしに聞いても面白い。
書物を読む語り口ではなく、そのほとんどが彼女自身の体験に基付くものであり、数百年もの長い時間を掛けて自分の中で咀嚼してきたものであるため聞いている人を飽きさせない。
ジーノは言っていた。
自分は元神様だと。
正確にはとある地方の小さな宗派を守護するドラゴンだったと彼女は言っていた。しかし何世紀も前の宗教戦争に敗れ、彼女の守護したものは堕落した神と勝利した人間たちに貶められ、戦死した彼女自身もまた守護龍から悪魔として打ち捨てられていたのだという。もしも現魔王が打ち捨てられた屍の彼女を見付けなければ、そのままひっそりと朽ち果てて土に還っていたであろう、と彼女は笑いながら私に語ってくれた。
何故、私を助けてくれたのか
私は一度だけジーノに聞いたことがある。
彼女は冗談めかして『自分は面食いだから』と笑っていたのだが、すぐに真面目な顔になって彼女が復活するまでの顛末を教えてくれた。何のことはない。彼女は首だけで打ち捨てられた私にかつての自分を見たのだ。一人寂しく、誰にも知られることなくひっそりと朽ちていく辛さを彼女は知っていたのだ。
だから──気が付いたら声を掛けていた。
まだ私に意識があるとも知らなかったのに。
無意識に価値観を共有出来る同族を探していた。
元神様だからなのだろうか。
ジーノは他のアンデッドたちとは違う気がする。見た目こそ崩れてしまっているが頭の中はかなりしっかりしているのだ。私も首だけになってからアンデッドと呼ばれる魔物たちと交流を持つようになったのだが、元が元なだけに最初からアンデッドでも上位種として再び生を受けた──と私は勝手に解釈している。
もっともそれ以上に彼女は変わり者だ。
「私ほど真摯に人間を愛している者はいないよ」
ジーノは常々そんなことを言う。
人間と同じ目線で生きていきたいからと背中の翼はもう痛覚がないことを良いことに自分で引き千切った。この空の下を、この大地の上を人間と同じように踏みしめて歩いていきたいと彼女は言った。かつての戦争では人間に命を奪われたにも関わらずだ。それは戦争なら仕方ない、とジーノは笑っていた。ただ、自分にとどめを刺した騎士にはどれだけ痛かったかを小一時間ほど嫌がらせで問い詰めてやりたいらしい。
そんなジーノのことが私は何だか誇らしい。
何故だかよくわからないが、彼女に見付けられ、彼女と共に生きるということが出来るということが嬉しくて堪らない。それと同時に彼女と共に生きるに相応しい者にならなければ、という心地良い重圧がこの10年という月日の中で私という存在を支えてくれた。
「──では本日の説法はこれくらいに」
いろんなことを思い返し、考えていたらいつの間にかジーノの説法は終わりを迎えていた。彼女が何を話したのか今日もほとんど聞いていなかったなぁ、と思いつつ私はこの後の自分の出番に向けての心構えをしていた。この後はジーノの腹話術人形の役としてちょっとした寸劇で出番があるのだ。生前、奴隷として身に付けた技能の中に何か役を得て演じるなんてものはなかったから10年経った今でもうまくいかず四苦八苦している。
──────あ。
ジーノが私を見ている。
笑顔だけど怒っている。
彼女の説法を聞いていないのがバレたようだ。
────────────。
──────────。
───────。
────。
「ところでジーノが広めている神様って何なんだ」
村での布教活動も終わり、説法を聞いていなかったことに関する説教も一段落付いた頃、私はこの10年程ばかり疑問に思っていたことを口にした。
「──呆れた。この10年、私の弟子として傍らで説法を聞かせてやってきたのだから、少しはわかってきたものと思っていたのに。パクス──お前というヤツは」
いつの間にか私は弟子にされていたらしい。
「いや、ジーノの話は面白いのだけど、掴みどころがないじゃないか。前は東の果ての島国の話、そのさらに前は古の大帝国での話。それぞれに神様の話は出てくるんだけど、同じ神様が出たことがない。結局ジーノの広めている神様は何なのか、教義が何なのかわからないよ」
「教義もクソもないよ。私は当たり前のことを説いているだけなんだから。神様の話なんて云わば記号さ。私が説くものの例え話に当てはめるのにあいつらの存在は都合が良い」
よいしょ、とジーノはいろんな物を無理矢理詰め込んだ大きなトランクの上に腰を下ろした。どうやらゆっくり腰を据えて話してくれるらしい。私はジーノの尻尾を操って出来る限り彼女の正面にいられるように顔を近付ける。
「うんうん、良い心掛けだ。さて、私の説くものだが単刀直入に言うともはや宗教ですらない」
「そんな格好しているのに?」
「ああ、これも言ってみれば話を聞いてもらうための記号なのさ。それに結構似合っているだろ?気に入っているんだ、これ」
僧侶の装いで胸を張ってジーノは笑う。
上から被るだけのダボダボしていて一見野暮ったい印象を与える衣装だが、なるほど、確かにこの格好ならジーノの身体の崩れや背中に突き出た剣も完全ではないにしろしっかり隠れる。話も聞いてもらいやすいかもしれない。それにジーノは3m近くあるからこんな服でもなければ体格に合う服がない。以前魔物なのに服を着るのかと驚いたら痴女じゃないんだぞと怒られたことがある。
あの時のげんこつは痛かったなぁ。
「私の説くものは宗教ではない。だから厳しい戒律も死後の世界における神の裁き云々もない。あちらの世界はきちんと存在するがそこは私の関知するところではない。死者は自分で行き先を選ぶ。正しい行いをした自負を胸に扉の開かれた楽園に向かうか、純粋無垢な魂に戻るが故に生前の行いを悔いて火に焼かれ浄化を願うか、それとも心残りを成すために今一度人の世に生を受けるか。本当にそれは人それぞれなんだ。だからこの世に跋扈する数多の宗教は、ただこの世をより良く生きるための救いであり、哲学であり、所謂一つの指南書なのだよ。すべては自分自身が考えて決めることなのさ」
選べなかった者にはこうして手を差し伸べる、とジーノは私の頬を撫でた。私のような事例は滅多にないようなのだが、私程ではないにしろ選べない死者もそれなりの数がいる。神様が救うのはそういう迷える者たちが主であるそうだ。
「──少し脱線したな。では私は何を説くのか。それは簡単さ。この世界は男だけでは成り立たないし、女だけでも成り立たない。どちらか一方だけでは数は増えないしね」
「生めよ、増やせよかな?」
「そう、それだ。だが、ただそれだけでは味気ないとは思わないかね?人はもっと性に大らかであるべきなのだ」
「ジーノたち魔物は大らか過ぎる気もするけど?」
私がそう言うとジーノはわかっていないなぁと首を振る。
「男女がいて、そこに何かしら好ましいと思えれば子を為そうと交わるのは自然なこと。魔物も人もクソもない。そこに姦淫による快楽を禁じたり、作法だ何だのと難癖を付けるから性そのものが穢らわしく見えてしまう。そもそもただの繁殖のためだけの性行為など苦痛以外の何者でもないし、また強姦の如き一方的な性的な快感と征服欲だけを満たす性行為は私も快くは思ってはいない」
「──それは確かに」
「──良い機会だな。この際だ。教義云々はどうでも良いが、それとも関係がある話だしそろそろ私もハッキリさせておこう──いや、ハッキリさせておきたい。なあ、パクス──君は私のことをどう思っている?」
説法の時とは違ういつになく真面目な声でジーノは訪ねた。何を今更と顔を逸らそうとすると、彼女は私の頬を両手でしっかり包み込み、真正面でジッと私を見詰めている。
「目を逸らさないで」
「──恥ずかしいんだ」
「私だってそうさ。それでも私はパクスの声で、言葉で聞きたい。私たちはその特殊性故にお互い言わなくても伝わっているが、それでも──これだけは言葉で伝え合いたい」
逃げ場なんてない。
そもそも逃げようにも私には逃げるための身体がない。そんなことを考えていると、ふと懐かしい感覚が蘇った。ああ、10年前だ。10年前の出会った時のようにジーノは私の声を聞きたがっている。
「──好きだ。ジーノのことを、心から。多分、愛しているってのはこんな気持ちなんだと思う。ずっと、出来るなら永遠に、ジーノの側にいたい」
「──それは何故?私に寄生していれば死ぬことはないから?」
「そんな訳ないだろ。例えジーノに寄生しなくたって、永遠に生きられないとしても、私はジーノの側にいたい。理由なんてない。ただ好きだから、愛しているから、命続く限り寄り添って生きたいんだ」
少し意地悪なジーノの質問に対しムキになって答えると、彼女はそっと私と口付けを交わした。触れるだけの、それでいて優しくて暖かい口付けだった。
「──ありがとう、パクス。私もだよ。理由なんて数えたらきりがないけど、本当のところ理由なんてどうでも良い。君が側にいてくれることが、君とこうして話をしていることが、同じ時間を共有しているという事実そのものが愛しくて堪らない」
そう言ってもう一度触れるだけの口付けを交わす。
「──で、それが本題。私の説いて回る神様の正体はそういう感情そのものなのさ。パクスも私も同じ物を抱いている。その同じ物を人も魔物も一緒に持ち合わせることが出来たなら、それは本当に素敵なことだと思わないかい?」
「──そうだな」
「でも、現実はそうはいかない。ふふっ、血を通して君の想いが流れ込んでくる。パクス、君は優しいな。言葉にしないでくれてありがとう。その通りだ。人は私たちを拒む故に剣を向ける。剣を握るその手は同時に誰かの手を握れるにも関わらずね。何故そうなるのか。答えは簡単なのに」
ジーノはそう言うと私の頬を撫でて微笑んだ。
「──恐れるのはよくわからないからだ。人を基準とするなら異形である私たちをよく知らないから恐れて拒むんだ。なら、理解すれば良い。君たちも、私たちも。姿形は違えど同じ物を持っているのだから。剣を握るよりも、それはずっと有意義なことだと思うんだ」
スッとジーノは立ち上がる。
詰め込みすぎて重たくなったトランクを右手に持って。
「さあ、行こうか。私も君も、幸いなことに時間は無限にある。死によって終わることのない旅をしよう。そして広めていこう。お互いに愛し合うことが出来るだけで、この世界は簡単に薔薇色になるんだということを」
古い古いレスカティエ教のレリーフには金色の野を歩む双頭の龍が描かれていたという。優しく語り掛けるその龍はいつも人々に愛を説いていたと伝えられる。結局、時代の流れと共に双頭の龍の話も存在も忘れ去られ、愛することを忘れた人々は滅んでしまったのだけれど、双頭の龍の説いた愛はしっかりと根を下ろし、たくさんの人々の心に花を咲かせている。
今もどこかで愛を説く双頭の龍。
人々はその龍をマザーと呼んだ。
17/04/25 17:00更新 / 宿利京祐