宵闇夢怪譚【限界破裂】
白い世界です
目の前に見えているのは真っ白な光の世界
影のない世界。
視界すべてが真っ白に染まるほど、目が眩むような光に包まれた世界。
でも影のない世界は距離感が限りなく零のように稀薄で、まるで平面のように奥行きというものが感じられず、すべての輪郭があやふやでぼんやりしていた。
僕の存在も稀薄で、何もかもが消え入りそうで不安で不安で仕方なかった。
そこには僕以外に動くものはいない。
そこには僕の発する音しか聞こえない。
理想的な静寂
怖い
誰でも良い
僕と出会ってくれ。
誰でも良いから音を聞かせてくれ。
何でも良いから輪郭をくれ。
このままじゃ………僕はこの白い世界に融けてしまう…
走っていた
僅かに残った輪郭すら消えていく真っ白な世界を走っていた。
走っていた?
いや、本当に走っているのだろうか。
景色は変わらないし、ここがどこなのかもわからない。
どれだけ走っても息は切れないし、足がもつれることもない。
疲れることすらないから本当に走っているのかどうかもわからない。
それでも走っているという意識だけは保っていないと、ぼんやりと麻痺し始めている思考回路は忽ちこの真っ白な光の中に融けて消えてしまい、『僕』という人格は存在理由をなくしてしまうだろう。
僕が『僕』でなくなる
それは………『死』なのだろうか…
僕は………僕の名は……僕は誰なんだ…
視界の端に、何かが映った。
真っ白な世界における『異物』を見付けたような気がした。
消えそうな『意志』を振り絞って『異物』に駆け寄ると、それは小さな子供が黒のクレヨンで描いたような、稚拙なデザインの『真っ黒なドア』が立っている。
心なしか色がはみ出ていて、所々塗れていないようでムラがある。
真っ黒なドアは、ただ『真っ黒なドア』としてそこにある。
どこかの建物、どこかの部屋に通じているような境目としてのドアではない。
そう、例えるならドラえもんに出るような真っ黒な『どこでもドア』だ。
ただドアだけが独立して存在しているのである。
バタン
初めて僕以外の音を聞いて、僕は音のする方へ振り向いた。
少し離れたところに同じ黒いドアがある。
あれは、ドアが閉まったような音だったような気がする。
バタン
また同じ音。
今度は右隣から聞こえた。
振り向いて見ると、やはりそこにも黒いドアが存在している。
今閉めたばかりなのか、心なしかドアが揺れているような気がする。
バタン
今度はどこから聞こえてきたのかわからない。
周囲を見回すと横一列に真っ黒なドアが並んでいた。
ドア ドア ドア ドア ドア ドア…………どこまでもドアだ。
どこまでも地平線をなぞるように真っ黒なドアが無数に並んでいる。
バタン、バタン、という音もドアの数だけ鳴り響く。
これはこの世界からの出口なのだろうか。
このドアの向こうには何があるのだろうか。
どこでも良い。
こんな僕が僕でなくなりそうな世界でないのなら、どこだって構うものか。
真っ黒なドア
ドアノブでさえ真っ黒で、木製なのか金属製なのかわからない触り心地。
グルリとドアノブを回してみる。
鍵は掛かっていないらしい。
少し押してみると真っ黒なドアは何の抵抗もなく開いていった。
否が応にも向こう側への期待が膨らんでいく。
どうか、どうか、どうか僕を失望させないでくれ。
真っ黒なドアの向こうが、輪郭のない真っ白な世界だなんて絶望を僕に与えないでくれ。
ドアが開いた
その向こう側にあったのは……………
―――――――――――――――――――――――――――――――――
心療内科『Qクリニック』の診察室。
薄ぼんやりとした間接照明の中、診察台とは名ばかりの軟らかいソファーの上に僕は寝そべっていた。リラクゼーションのクラシック音楽が流れ、種類はわからないが嗅いでいると心が落ち着いてくるアロマキャンドルの香りが漂い、間接照明の軟らかい光が怯えていた気持ちをすっかり鎮めてくる。
「……それで、扉の向こうには何が?」
診察台の傍の椅子に腰掛けているQクリニック院長で心療内科医の“神埼のぞみ”が夢の続きを問う。ボードを片手に僕の話を聞きながら、夢の内容の重要な部分をメモしている。どうやら、これが僕のカルテらしい。
「覚えて……いません…。ドアの向こう側には何かがあったはずなのに、その怖い夢から目が覚めるとその部分だけがスッポリ抜け落ちているんです」
「……………そう」
彼女は短くそう言うと、視線を再びボードの上に戻した。
神埼のぞみ
このQクリニックの院長で、僕の主治医である。
ただの主治医と患者というどこにでもありふれた関係であり、それ以上でもそれ以下でもないのだが、正直なところ僕はそれが残念な気がしてならない。
心療内科に通う患者ではあるものの、僕も健全な成人男性だということだ。
僕の主治医である“神埼のぞみ”は、一言で言うなら『美人』である。
いや、美人という表現も的確ではないような気もする。
ギリシャ彫刻のような、ラファエルの描いた聖母のような、まるで人間でないものに人間以上の美しさを感じているかのような、そんな側にいられるだけで息を呑むほど縋り付きたくなるような美人である。
長く真っ直ぐに伸びた黒髪はまるで黒真珠。
まるで人形のように美しい顔は少し冷たい印象を与えるが、それが彼女の持つ知性をより強く引き立て、こうして主治医と患者という関係でない限り、決して気軽にお近付きにはなれないという雰囲気を醸し出していた。
服装も白衣の下は、まるでブラックジャックのように全体的に黒かった。
胸元を開けた黒シャツからは谷間が覗いている。
タイトスカートからスラリと伸びる黒ストッキングを纏った両足を組んで、持て余すように上に乗せた左足をブラブラさせているその姿には、背筋にゾクリと冷たい興奮が度々何度も走る。それを彼女に気付かれないようにするのは本当に苦労する。
「……………」
ぼんやりとした空間に沈黙が下りる。
彼女はただ何か考え事をしているかのように、じっとボードの上の僕のカルテを見詰めている。間接照明の明かりの中、まるで幽玄の美のように彼女の悩ましい横顔が浮かび上がった。
嗚呼、本当に綺麗だ。
そんなことを考えてしまう。
僕はただ彼女に会いたいがためにこの心療内科に通っている訳ではないのに、まるであの空虚な悪夢を言い訳にしているような、後ろめたい疚しい思いで一杯になってしまう。
あの夢を見るようになってから本当におかしいのだ。
まるで夢の中そのままであるかのように、僕の生きる『現実世界』は空虚で生きているという実感が非常に乏しい。誰と出会っても、誰と会話してもまるで夢の中の出来事のように味気ない。
夢に引き摺られている
誰かがそんなことを言っていたような気がする
思い出せない
もう僕は融けてしまっているのだ。
いつかはあの空虚な悪夢も見なくなるに違いない。
何故なら見る必要がなくなるからだ。
『僕』が『僕』である必要がないのであれば、夢を見ることもなくなるのだから。
「先生」
僕は主治医・神埼のぞみを呼ぶ時は“先生”と呼ぶ。
先生は『はい』と短く返事をするだけ。
「僕は…………病気なんですか…?」
とっくに心を患っていたのですか、そう訊ねると彼女はただ困ったような表情を浮かべた。あまり表情を崩さない人形のような彼女が、大きく表情を変えた。例えそれが僕に対して何と答えて良いのかわからない、またはあまり良い結果ではない、といった困惑の表情であったとしてもそれだけで僕は少しだけ嬉しかった。
良かった
彼女は生きた存在なんだ、と
僕はここで彼女のカウンセリングを受けているこの瞬間だけ、あの空虚な悪夢と現実世界から解放される。何もかも曖昧で記憶に残らない無為な空間ではなく、この診察室の中だけが僕を生身の人間として生き返らせてくれる。
外の世界の日常は、まるでマネキンと会話しているかのようだ。
誰もが同じ顔。
誰もが同じ声。
パターン化されて少ないながらも何種類かは存在するけれど、僕には他人をうまく認識出来ない。同じパターンが、まるでコピー&ペーストのようにいくつも貼り付けられて僕の見えてる現実世界を構築していく。やがてそれは文字にまで及び、大事な情報源だったはずの文字はただのデザインに成り下がった。
何もかもが無意味に思えた。
何もかもが同化してしまっていた。
そう、夢も現実世界も融けて混ざり合っている。
僕はどこに逃げたって、あの真っ白な世界からは逃げ出せていなかった。
「……子供の頃」
急に彼女が口を開いた。
今まで聞いたどんな言葉よりも、彼女の声は優しく澄んでいる。
耳が、彼女の声を欲している。
「子供の頃、何か一人で熱中していたものとかありますか?」
それは唐突な質問だった。
僕は自分の質問の回答を聞いていないというのに、彼女はまるでその話を逸らすかのように、何の関連もない質問を唐突に投げ掛けてきたのである。不思議とそのことに怒りは感じなかった。ただ答え辛い質問に答えてくれなかったことは残念だったが、それ以上に彼女が気を遣ってくれたことが嬉しかった。
何故か、救われた気持ちだった。
「子供の頃、ですか」
そう言って考える。
あの頃は色んなものに熱中していた。
小学校の長い廊下で友達とミニ四駆を走らせて遊んでいたし、点数の悪いテストをクシャクシャに丸めたボールとホウキのバットで野球を楽しんだし、友達と秘密基地を作って遊んでいたりしたものだ。
だけど、熱中していたかと言えば違うような気もする。
それらは遊びの一環であり、僕以外の誰かがいないと成立しないものばかり。
「そう、子供の頃」
「突然ですね………………ああ、そうだ」
「何か思い浮かびましたか?」
「……ええ、一度だけですが」
思い出すのは真っ暗闇。
あれは小学校卒業を前にした時のことだった。
卒業をする前に、どうしても僕は確かめたかった。
学校の七不思議
それを調べて実証してやろうと思って、二ヶ月くらい前から準備していた。
夜の学校に忍び込めるように鍵を壊したり、
明かりがないことを想定して、少ないお小遣いから懐中電灯を購入したり
あの頃フィルム式だった使い捨てカメラまで準備して
計画実行の夜を今か今かと待ち望んでいたのを覚えている。
「結局僕が知ることの出来たのは七不思議の内の一つだけだったんですがね」
そう、そう簡単にうまくいく訳がなかった。
元々『うちの小学校には七不思議がある“らしい”』程度の噂だったのであり、どんな七不思議があるのかすら伝わっていた訳ではないのだから、そもそも“七不思議”というものを一から探し出さなければならなかったのである。学校の怪談でオーソドックスな音楽室のベートーベン、夜中に増えるという十三階段、トイレの花子さんですら僕の小学校には存在しなかった。
調べれば調べるほど肩透かし。
それなのに『八つ目の不思議を知ると呪われる』というオチだけはしっかり存在していたから、八つ目があるとすれば必ず他に七つの怪奇があるはずだと子供心に胸を弾ませる。
そして僕は知ってしまった。
たった一つだけではあったけど、七不思議の内の一つを。
「……面白そうな話ですね。詳しく聞かせていただけるかしら?」
「…………僕の学校にも、プールがありましてね。怪異の舞台はそのプールでした。よくあるじゃないですか、ほら、プールで溺れ死んだ生徒の怨念だとか、水泳選手になる夢半ばで亡くなった生徒の無念がとか。僕はあんな怪異だと思っていたんです」
「思っていた、というと違ったのですね?」
僕はゆっくり頷いた。
こんな馬鹿馬鹿しい話に彼女は真剣な表情で聞いてくれている。例えそれが僕の聞きたかった答えをはぐらかしているのだとわかっていても、僕はそんな彼女の優しさや気遣いが本当に嬉しかった。
奇妙な話、この瞬間だけは僕が彼女を独占している。
そう思うと興奮して心臓が痛いくらいに高鳴っていた。
「そのプールは別世界に繋がる門のようなものだというのです。それも限定的に2月の………何日だったかな。そこまでは覚えてはいないんですが、月のない新月の夜の12時に別世界へ通じる扉が開く、という噂話でした」
「また、大掛かりな話ですね」
「ええ、でも僕はそれを確かめに行った。深夜、家をそっと抜け出して学校に忍び込み、そして12時前に問題のプールに辿り着いた」
でもそこに怪異はなかった
辿り着いたプールは月の光に照らされて青く輝き、
美しくライトアップされたプールを僕はただぼんやり眺めていた。
そしてパシャッと水が撥ねて波紋が広がる。
水の中から顔を出したのは………
「僕のクラスメイトの女の子が泳いでいただけでした。卒業前にもう一度思い出のプールで泳ぎたかったらしくて、似たような動機でお互いに学校に忍び込んで、二人して可笑しくなってしまって笑っていました」
そこまで言って僕は自分が息も絶え絶えになっていることに気が付いた。
呼吸することが苦しい。
胸が、心臓が痛い。
「お薬、用意しましょう」
彼女はそう言うと、薬品棚の扉を開けて茶色の小瓶を取り出す。
小瓶の中には真っ赤な色をしたカプセルが入っていた。
「口を開けてください。楽に、なりますよ」
彼女は人差し指の上に赤いカプセルを一つだけ乗せると僕の口元に差し出した。
僕はただ言われるがままに口を開けると、彼女は僕の口の中に人差し指ごと薬を捻じ込んだ。まるでカプセルをその指ごと舐れ、と命令しているかのような指使いに、僕は彼女の美しい指を丹念に舌で舐め回した。唾液を絡め、舌を指に纏わり付かせ、出し入れを繰り返す彼女の動きに合わせて、自分がまるで女性になったかのように丹念に彼女の指を愛撫していた。
気付けば飲み込む唾液と恍惚とした呼吸と一緒にカプセルを飲み込んでいたらしい。
僕がカプセルを飲み込んだことを確認すると彼女は僕の口を犯すのをやめた。
引き抜かれた陶器のような指に、僕の唾液が絡まっている。
「落ち着きましたか?」
「…………………………はい」
まだ彼女の指の余韻で蕩けた頭で僕は答える。
うまく頭が働かなくて、身体も自分のものじゃないみたいにフワフワしている。
まるで眠る前のまどろみのような、そんな不安定な安心感。
「………………興味深い思い出話でしたね。でも何故あなたはそのお話、何の疑問も持たなかったのでしょうかね」
「疑問、ですか?」
「ええ、あなたは言いましたね。『新月の夜』に扉が開くと。でもあなたは言ったじゃないですか。プールが『月明かりに照らされて』青く輝いていた。何故、月のある晩に学校に忍び込んだのでしょう」
月は…………なかった…?
いや、月が昇っていた…?
どうしてだろう、頭がぼんやりしててうまく考えがまとまらない。
「それに時期は2月。そんな寒い時期にどうしてプールで泳ぐ女の子がいたのでしょう。そもそも2月のプールなんて普通は水を抜いているか、汚れ切っていてとても泳げる状態ではないのではないでしょうか」
「いや………確かに…。でも……でも、あの子は確かに…」
言われてみればその通りなのだ。
真冬の冷たいプール、しかも僕の小学校では夏が終わっても水を抜かないために、苔やよくわからないゴミや虫の死骸で冬のプールはそれはそれは不衛生で悪臭も酷く、とてもじゃないけど泳げたものじゃない。
でも、確かにあの子は泳いでいた。
そうあの子だ………あの子がしなやかに泳いでいた…。
ああ、ちくしょう。
どうして、顔も名前も何もかも思い出せない。
あの子は、誰だ
「……どうしました?」
「ああ…………いや……うう…」
彼女が心配そうに僕の顔を覗いている。
だけど僕は頭に霞が掛かったかのようにぼんやりとしていて、さっきまでと打って変わって返答にも困るほど呂律が回らなくなってしまっている。何か話さなければ、と思えば思うほど舌が痺れたような声にしかならず、ただ一言『大丈夫』と答えるまでにはかなりの時間を要してしまった。
「薬が効きすぎたようですね」
「あ…………う…」
僕の顔を覗き込む彼女の顔をまじまじと見るのは初めてかもしれない。
真正面、それもこんな後少しで鼻と鼻がぶつかりそうな距離。
眼鏡の奥の気だるそうな目に僕が映っている。
紅い瞳が僕を真っ直ぐ見詰めている
嗚呼、そう言えばあの子もそうだった。
どこか不思議な雰囲気のあの子も目が紅かったような気がする。
ふわりとした真っ黒い服が好きで、いつも物静かに図書館で本を読んでいたっけ。休み時間、放課後、いつもあの子は静かに本を読んでいたのを覚えている。そういえば僕はあの子をクラスメイトだと思ったけど、不思議なことに教室や授業での思い出がまったくない。
不思議なことと言えばもう一つある。
あの頃も今も、あまり疑問に思ったことはなかったけど、あの夜プールで見たあの子はいつもと違っていたように思える。水着も着ずに裸で泳いでいたのだから、いつもと印象が違うのもあるだろう。月明かりに照らされた幼い身体を晒したあの子がプールの中から、プールサイドで佇む夜の学校探検に来た僕ににこやかに微笑んで手を振っていた。
あれは………何だったんだ…
あの子の下半身
プールの水の屈折でゆらゆら揺れていた真っ黒いもの
あれではまるで四足の……ケモノ…
まるで真っ黒な馬の足だったような………見間違い…
「………考えたこと、ありませんか?」
真っ赤な口紅を引いた色っぽい唇が動いて、思い出の中の気が付かなかった疵に躓いていて狼狽していた僕を、現実の現在に優しく連れ戻してくれた。だが彼女の話の内容は、再び僕を迷わせる。
「どうしても欲しいものがある。どうしても手に入れたい人がいる。そう、例えどんな手段を用いてでも手に入れたいもの。ただ虚ろな存在だった私が現世に形を得ることが出来たのは、ひとえに私を認識してくれた誰かの存在が大きかった」
何を……何を言っている
彼女は一体何を僕に言おうとしているんだ
「嬉しかった。誰もいない、誰も寄り付かない夕暮れの暗くて小さな部屋の隅で、あの子が私を見付けてくれた。放っておけば夜の闇に融けて消えていくだけの曖昧な存在を認識してくれた、あの子の何気ない一言が嬉しかった」
“こんな隅っこで何してるの?”
僕の声だ
幼い僕の声が頭に響く
「私は形を得た。そして命を得た。あの子が私の名を訊ね、何もないカラッポだった私は、最初に鸚鵡返しであの子が名乗った言葉を繰り返し、あの子が持っていた本の単語を読んだ」
“僕は神埼裕也。君の名前は?”
ああ、そうだ。
僕の名前だ。
幼い僕の声が何度も僕の名前を繰り返している。
だけど駄目だ、あの子に聞いちゃ駄目なんだ。
あの子の名前は聞いちゃいけないんだ。
“………なまえ………”
「あの子が怖がるといけないから私は長い間人間のふりをした。人間のことが知りたくて色々な本を読んだ。すべての本がボロボロになるまで、私は人間のことが、あの子のことが知りたくてたくさんの知識を詰め込んだ」
薬が効いていて動けない僕に、彼女は僕の耳元で囁き続ける。
指で僕の顔の輪郭をなぞる。
「やがてあの子も成長して、私の生まれた場所から巣立つ時が近付いていた。このままお別れになってしまうのは悲しかった私は、あの子のために何か思い出に残るプレゼントを送ろうと思ったのです。幸いあの子が何を望んでいたのかはすぐにわかりました。あの子は七不思議という名の呪いを欲していた」
豊満な胸を押し付けるように彼女が僕を抱き締めた。
愛しそうに僕の髪をさわさわと触りながら彼女が僕を抱き締める。香水でもない、体臭でもない、何かわからないけれど胸の奥が切なくなるような甘い匂いに、身体に力が入らなくて動けない僕は為すがままに包まれている。
「だから私は誘ったのです。八番目の秘密を知ったものは呪われる、とあの子の耳に入るように噂を流して。宝探しの興奮もあの子にプレゼントしようと七つの秘密を完全に隠して、敢えて八番目だけをあの子が知るようにセッティングしました。何も知らずに秘密の一つを見付けたあの子の……あの子の笑顔を見ているだけで、私は本当に嬉しかった」
七つの秘密をすべて知る必要はない
七つの秘密をすべて知った上で八番目を知ると呪われるのではない
呪いは 八番目一つだけで十分だったのだ
「そして八番目の秘密、異世界への扉が開かれました。もっとも私は門の向こう側で生まれた者ですから、あの子の世界こそが異世界だった訳ですけど。あの子は門で泳ぐ私を見て、綺麗だと言ってくれた。本当の姿を晒していたのにも関わらず綺麗だと言ってくれた。だから契ったではありませんか。お互いに幼い身体でしたが、何の問題もなかったでしょう?私はあなたを、裕也さんを欲しがっていた。そして裕也さんは……」
“…………かんざき………のぞみ…”
幼いあの子の声がする。
嗚呼、そうだったんだ。
僕があの子に命を、名前を与えてしまったんだ。
とろりとした視界。
彼女が変貌していくのが見える。
だけど僕は気が付いてしまった。
これを見るのは初めてじゃないんだということを。
何故なら…………
「あなたは誰よりも強く非日常非現実の幻想を求めていました」
「そうだったね、のぞみさん。だから僕は君と一緒に扉の向こうへ飛び込んだ」
そう言った瞬間、僕は暗闇に堕ちていく。
堕ちていく僕の目に映ったのは、真っ黒な馬の下半身をした彼女の姿。
そして彼女に抱きかかえられて眠る僕の姿。
そう、あの悪夢は終わっていない。
ここもあの真っ白な夢の続きなのだから。
あのすべてを融かす真っ白な世界も
この救いを求めて飛び込んだクリニックも、
あの夜以降歩み続けてきた僕の人生そのものすべてが
本当にリアルで最高に恐ろしい
神埼のぞみの演出してくれた非現実のエンターテイメント
―――――――――――――――――――――――――――――――――
ドアが開いた
ドアは僕の頭上で開いたまま遠ざかっていく。
僕は水の中に、海に沈んでいた。
服は着ていない。
まるで胎内で眠る幼子のような姿勢でゆっくりと光から遠ざかっていく。
不思議と苦しくはなかった。
太陽が照り付ける水面をゆらゆら揺れていて、僕はその光が揺らめく水面をただぼんやりと見詰めながら、暗くて冷たい海の底へと沈んでいく。水面の向こうには開いたままのドアの扉が空中でブラブラと揺れている。
嗚呼、あそこから堕ちたのか
そう思うだけの余裕はあった。
なのに僕は沈んでいくのをわかっていながら、ただ沈みゆくままに任せて何の抵抗もなく、ゆらゆらと漂いながら心地良い無音と冷たさに身を任せていた。
わかっていたのだ。
足掻くことはない。
沈んでいく先に幸せが待っているのだと、心のどこかでわかっていた。
ぼんやりとした視界の中、キラキラと揺れる水面をかなり遠くに見ていると、そっと背中から手を回し、誰かが僕を優しく抱き締めていた。
嗚呼、この暖かい手の感触を知っている。
僕を抱き締める腕にそっと手を重ねると、その腕もまた強く抱き返してくれる。
いつからそう感じていたのかわからないが、僕は確かにいつからかこの腕の来訪を待ち焦がれていたらしい。いや、恋焦がれていたと言った方が正しいのかもしれない。この腕の主を僕は知っているし、この優しい温もりも知っている。この腕に抱き締められて、泣き出してしまいたいほど喜んでいる僕がいる。
優しく傷付けぬよう腕をほどいて、僕は振り返る。
嗚呼、やっぱりだ。
そこにいたのは彼女だ。
神埼のぞみだ。
一糸纏わぬ姿で美しい異形の姿を晒して、僕に微笑んでくれていた。
「待たせてしまったかな?」
頭を掻きながら彼女に尋ねると、彼女はそんなことはないと首を振る。
「待ってなんかいません。何故なら私はいつもあなたに寄り添っていますから」
そう言って一歩踏み出すと、彼女は僕の指にその陶器のような指を愛撫するように絡め、紅い瞳を閉じて、沈みゆく海の上下のない感覚や重力のない世界で身長差のなくなった僕の唇に、柔らかな唇をそっと押し当てた。空いた片方の手で彼女を抱き寄せると、彼女もまたそれを待っていたらしく、彼女の豊満な乳房が押し潰されて変形するほど強く身体を強く押し付けてくる。
ちゅるり、というどこかいやらしい音を立てて舌を入れてきた。
僕は夢中になって彼女のヌメヌメした舌の感触を楽しんでいた。
「…………ねえ、のぞみさん」
「……どうしました?」
「そういえば、初めてあの扉を潜ったあの夜も…」
「ええ…………こうしてキスし合っていましたね…」
だけど恥ずかしいことは言わないでください、と再び彼女は僕の唇を塞ぐ。
本当はもっと彼女と話をしたい。
本当はもっと彼女を喜ばせたい。
本当は彼女の喜怒哀楽すべてを見ていたい。
だけどそれは出来ないのである。
これはあくまで彼女が見せてくれるエンターテイメントショーなのだから
まるでシャボン玉が弾けてしまうように夢はすぐに覚めてしまう
だから僕は心の隙間を埋めるように彼女を求めた。
何度も何度でも、息が詰まって唇を放してしまおうとも、何度も彼女を引き寄せて夢中になって彼女の柔らかな舌と唇の感触を貪り続けた。唇を貪りながら彼女の大きな胸を揉みしだき、指で固い乳首を弄んでいると、彼女の口からは可愛らしい悲鳴にも似た喘ぎ声と吐息が漏れる。その声がもっと聞きたくて、僕は休むことなく愛撫を続けている。
不意に彼女が唇を放すと、恥ずかしさで耳まで真っ赤になった顔を俯かせたまま、まるで動物がマーキングするかのように僕の首筋に頬を摺り寄せた。僕も彼女の匂いを感じたくて、彼女が離れないようにスベスベした背中に腕をやさしく回す。キスをしている時とはまた違う充足感。僕が一人ではないことを証明してくれる絶対的な安息感。
「あの夜…」
彼女が耳元で囁いた。
「あの夜、私と契った夜に聞いた言葉……もう一度聞かせてくれますか…?」
「………………綺麗です」
「……………こんな身体でも?」
そう言って彼女は馬の下半身を纏わり付かせるように摺り寄せた。
黒い毛に覆われた馬の下半身はふわふわしていて、まるで極上の毛皮を素肌に着ているように心地良かった。僕は彼女の背中に回していた左腕を放すと、その左腕でそっと彼女の馬の下半身を撫でる。手の平に極上のやわらかさが広がっていく。
「それ、あの夜も聞きましたね」
「ふふふ………もう一度、聞きたい……な」
彼女は囁くと同時に僕の耳をペロリと舐める。
あの夜もそうだったっけ
幼いながらも僕らは求め合った
異世界の門となったプールの中で、何度も………何度も…
そういえばそれからだったような気がする
僕の意識の中で、夢と現実の境界線がなくなっていったのは…
「そんな身体だから……のぞみちゃんだから綺麗だと思うよ」
「……嬉しい!」
弾けるような声と共に彼女が僕を押し倒した。
上下のない世界だから押し倒したという表現は正確ではないけど、押し倒すように僕の上に圧し掛かる。僕の上に跨る彼女は、ずっと我慢していた本性を現したかのように、嗜虐的で魅力的な笑みを浮かべて僕を見下ろしている。待ち望んだ獲物を前にした獣のように舌なめずりをしながらも、更新して荒い呼吸を抑えて必死で理性を働かせているようのだが、彼女の手は意識的なのか、それとも無意識にしているのか、僕の勃起した肉棒をまるで虫が這うような淫らな手付きで苛めていた。
寄せては退く波のような刺激。
慣れて僕の身体に馴染んだ彼女の指使いに、今度は僕が甘い喘ぎ声を漏らす番だった。
「………重くない?」
「幸せの……重さ…だよ…」
絶え絶えになりながら答えるのが精一杯だった。
重さなど感じないがその返答が嬉しかったのか、彼女は僕の肉棒を自分の股間で押さえ付けるようにズリズリと上下に摺りながら、指で亀頭を引っ掻くように傷付けぬよう優しく愛撫するという責めに変えてきた。
柔らかな感触のする彼女の密着した股間の温もり、身体に何度も擦り付けられる馬の下半身の柔らかな体毛の心地良さ、彼女に関する色んな情報が僕の身体の上を錯綜し続けていて、正直なところ何が何だかよくわからなかったが、ただこれが、彼女に苛められるように責められるのが本当に気持ち良いということだけはわかった。
でも絶頂には行けない。
彼女がそうさせてはくれないから。
終わらせないように飽きさせないように、彼女は僕を壊すつもりなのだ。
僕が“神埼のぞみ”という存在以外に何も考えられなくなるまで。
この海は
この世界はそういうところなんだ
僕が消えてしまう世界なのではなく
僕と彼女が一つになり融けて混ざり合うための世界
永遠に続くすべてが一つになるまで続く終わらない夢
「裕也……くん…」
彼女は喘ぎながら僕を呼んだ。
あの頃の、子供の頃に戻ったかのような口調だった。
薄ぼんやりとした記憶から少年時代というものを思い出す。
ああ、そうだった。
子供というものは、無垢で無邪気で残酷だった。
彼女もまた子供のまま成長しているのだ。
そして僕もまた子供のまま貪欲に彼女を求めて、彼女の望むままに成長したのだ。
云わば、僕らは二人で一つ
云わば、僕らは一対の獣なのだろう
「素敵……裕也くん…、その蕩けた顔……良いよ…」
「のぞみちゃん……こそ…本当に……綺麗だ…」
もうお互いに感じすぎていた。
愛を確かめ合うような前戯だけで僕らは融けかけていた。周囲は海のような水の中だというのに、粘液が何度も何度も擦り付けられて発するネチネチした音が静かに、だけど確かにハッキリと二人の耳には響いている。彼女の垂らした愛液のせいなのか、それとも僕の気付かぬ内に何度も射精していたのか、僕の腰周りは水とは違うヌルヌルした液体に塗れていた。
不意に彼女が僕を責める手を放した。
指にはあり得ないほどの粘液が絡み付いていて、彼女はそれを飴を舐めるような仕草で丹念に丹念に吸い取いたり、舐め尽したりしていく。やがて綺麗に指を舐め取ると、僕の肉棒を押さえ付けている股間に手を伸ばした。自慰に興じるのではなく、自分の膣内の濡れ具合を確かめるかのように、掻き回すかのような淫らな音を立てている。
「もう……大丈夫みたい…」
ニコリと微笑む彼女が本当に綺麗だった。
「裕也くんも……こんなに待ち望んで…。でも、挿入しちゃったら終わっちゃうかもね…」
確かに挿入したら終わってしまうかもしれない。
何よりあれだけ責められた上での挿入ということもあるが、恋焦がれた彼女の膣内に入るという行為を考えるだけで、昂った心が射精のコントロールなどすでに意識から手放してしまっているのだから。
「……………人間の姿、なろうか?」
「どうして?」
「だって……………重かったら嫌だし…」
恥ずかしそうにそっぽを向く仕草が可愛らしくて、僕は吹き出してしまった。
何だ、彼女にもコンプレックスがあったのか。
そんなことに気が付くと、より一層僕は神埼のぞみを愛しく思えていた。
「……可笑しい?」
「いや、僕を気遣ってくれて嬉しいよ。でもこのままが良い。あの夜も、今もこれからも僕はそのままののぞみちゃんに抱かれたい。そのままののぞみちゃんを抱き締めたい」
「………ありがと。………じゃあ」
彼女が腰を浮かせて、僕の肉棒をしっかりと握る。
嗚呼、いよいよなんだ。
僕の肉棒を膣の入り口に宛がうと、彼女は焦らすように何度も何度も擦り付ける。そして僕が快感に身を捩る反応を見て楽しんでいるかのように、優しげに目を細めるのだ。
「このまま…………しちゃうね…?」
「…………うん」
ゆっくりと体重が掛かると、僕の肉棒はズルリという粘液の音が聞こえてきそうな感触と共に彼女の膣へと呑み込まれていった。彼女の膣内の形を変えてしまいそうな、滑り込むように肉の壁を押し広げて浸入していく快感。それを強く優しく押し包んでいくような滑った膣内の締め付けに、僕らは二人して短い悲鳴を上げていた。
そして…………
「熱いの…いっぱい………出てる…ッ!」
彼女が自分の下腹部を擦りながら微笑んでいる。
目の前が真っ暗になるほど激しい絶頂の感覚に僕は言葉を失ったまま、夢中になって彼女の膣の中に無遠慮に精を吐き出し続ける。まるで水鉄砲のように撥ね続ける肉棒は、熱い彼女の膣内で何度も何度も、あの夜に彼女を犯した時のように射精していた。
「ビクン、ビクンって……いってるね…」
「ごめん………早くて…」
「良いの…………本当は…私ももうイキそうだったから…。ごめん、今ので軽くイッてるみたい。ちょっと動けそうにない……かも…」
膣内の締め付けが強くなる。
まるで痙攣しているかのように、射精のリズムに合わせるように小刻みに震えていた。軽くなんてものじゃない。彼女も僕と同じ、本気で絶頂に達してしまっているらしい。考えてみればあんな激しい愛撫を続けてくれたのだ。
やりすぎた、と言えばそれまでなのだが。
「裕也くん……どうする…?」
どうする、とは二回戦のことなのだろう。
冷静を装っているのか、彼女の笑顔がぎこちない。
「……無理しなくても良いよ。それよりこのまま抱き締めてほしいな」
僕は上半身を起こして、そのまま繋がったまま彼女の胸に顔を埋めた。
どうしてだろう、視界に靄が掛かったように急に眠い。
「ああ……そっか………もう時間切れだね」
時間切れ?
嗚呼、そうか……もう時間なのか
「おやすみ、裕也くん。今度は最初からお芝居抜きで遊ぼっか」
心地良さそうに彼女の胸で眠りそうな僕の髪を彼女が撫でる。
「今度はどんな遊びにしようか。裕也くん、何かリクエストはある?」
言葉を発するのも面倒になってきた僕は、眠りの淵で何とか手を引っ掛けているような状態で、どうにかようやく首を横に振る。僕には独創性はない。僕はただ彼女の欲求と想いを満たす、ただそのためだけの器でさえあればそれで良いのだ。
「うん、じゃあ次も私が考えておくね」
何度も繰り返してきたやり取りだ。
何度も 何日も 何年でも 僕らはこうして行為を繰り返してきた
「……のぞみちゃん」
うっかり手放しそうな意識を繋ぎ止め、必死に彼女の名を呟いた。
「うん」
「ずっと一緒……だよ…」
「うん」
暖かく包み込むように彼女は僕を抱き締めてくれた。
その安らぎが僕の意識を加速度的に遠い彼方へと追いやっていく。
「…………大好き……だよ…」
そして僕は暗い海の底へと沈んでいった。
“僕”という認識が融けていくように消失していく快感に身を委ね、やがてその快感すらもゆっくりと消えていく“無”に回帰していく快楽。僕が僕でなくなり、僕が僕である必要のない深い海の底。
堕ちていく直前、彼女が何か囁いたような気がする。
だけど、甘いそれすらも手放してしまった眠りに僕はゆっくりと消えていった。
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
目を覚ますとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
ベッドの側に置いた目覚まし時計を手に取ると、今日は休日だというのにいつもよりも15分も早い目覚めだと知って、何か損をしたような些か憂鬱な気分になる。もう少し寝ていたい、と思ったが今度は逆に眠ろうとする意識が勝ってしまって眠れない。
仕方がない。
少し早いけど顔を洗って起きることにしよう。
寝室を出て、洗面台の前で顔を洗う。
顔を拭きながら鏡を見ていると、鏡の中の自分の顔がやけに疲れているように感じた。目の下には隈が出来ているし、どことなく顔色も悪い。そういえば昨日はいつもより寝るのが遅かったし、ここのところ変に忙しかったからきっとそのせいだろう。
ついでなので髭も剃っておくことにした。
寝癖の酷い髪は放置しておく。
新聞でも読みながらコーヒーでも飲んで眠気を覚まそうとダイニングに行くと、テーブルの上にはちょうど淹れたての湯気の立ったコーヒーが置かれていた。キッチンにはエプロン姿の妻の姿がある。
「お、おはよう。早かったんだね」
起こさないように動いたつもりだったのだが、妻は僕よりも早く起きていたらしく、すでに身支度を完璧に済ましており、僕自身が寝癖のボサボサ頭でまだパジャマのままだということが妙に恥ずかしくて口篭ってしまった。
「おはよう、今日は早かったのね。朝ご飯、もう少しで出来るからコーヒーでも飲んで待っててね。新聞もそこに置いてるから」
「う、うん」
何のことはない。
夫婦のいつもの朝の光景だ。
それなのに僕は、まるで初めて妻に会った時のようにドギマギしている。
程なくしてテーブルの上には朝食が並べられた。ベーコンエッグに野菜サラダ、それにバターを塗ったトーストというオーソドックスな朝のメニューだった。デザートにはヨーグルトも付くらしい。
「何か良いニュースはありました?」
僕がいつまで経っても新聞を手放さないので、妻は頬杖を付くように頬に手を添えると不思議そうな顔で僕に尋ねてきた。何年経っても彼女のそんな仕草が可愛らしく、僕は絶対に妻以外の女性には振り向かない、ということを何度も何度も心に固く誓う。
「いや、特に何もないよ。“いつもと変わらない”ニュースばかりだ」
そう、と素っ気ない返事をすると妻は僕の対面にある椅子に座った。
いただきます、と声に出して手を合わせていると、彼女は何か思い出したように短く声を挙げた。どうやらキチンとした朝の挨拶をしていないというのを思い出したらしい。
「さっき、おはようって言ったじゃないか」
「駄目よ、あんなの。何かしながらって、挨拶の内にならないわ」
そういうものなのだろうか。
しかし確かにキチンとした挨拶は気持ちが良いものだし、別段断る理由もない。
「では……改めて、おはよう。のぞみ」
「はい、おはようございます。裕也さん」
繰り返される幻想
ここが現実で ここが夢で
境界線のない世界で二人は夢と現実を混ぜ合わせながら
何度も何度でも繰り返し求め合う
嗚呼、愛しの不安定
このまま永遠に永遠を閉じ込めてしまおうか
ところでお聞きしたいのですが、
そこは理想的な夢ですか? それとも熱を持たぬ現実でしょうか?
目の前に見えているのは真っ白な光の世界
影のない世界。
視界すべてが真っ白に染まるほど、目が眩むような光に包まれた世界。
でも影のない世界は距離感が限りなく零のように稀薄で、まるで平面のように奥行きというものが感じられず、すべての輪郭があやふやでぼんやりしていた。
僕の存在も稀薄で、何もかもが消え入りそうで不安で不安で仕方なかった。
そこには僕以外に動くものはいない。
そこには僕の発する音しか聞こえない。
理想的な静寂
怖い
誰でも良い
僕と出会ってくれ。
誰でも良いから音を聞かせてくれ。
何でも良いから輪郭をくれ。
このままじゃ………僕はこの白い世界に融けてしまう…
走っていた
僅かに残った輪郭すら消えていく真っ白な世界を走っていた。
走っていた?
いや、本当に走っているのだろうか。
景色は変わらないし、ここがどこなのかもわからない。
どれだけ走っても息は切れないし、足がもつれることもない。
疲れることすらないから本当に走っているのかどうかもわからない。
それでも走っているという意識だけは保っていないと、ぼんやりと麻痺し始めている思考回路は忽ちこの真っ白な光の中に融けて消えてしまい、『僕』という人格は存在理由をなくしてしまうだろう。
僕が『僕』でなくなる
それは………『死』なのだろうか…
僕は………僕の名は……僕は誰なんだ…
視界の端に、何かが映った。
真っ白な世界における『異物』を見付けたような気がした。
消えそうな『意志』を振り絞って『異物』に駆け寄ると、それは小さな子供が黒のクレヨンで描いたような、稚拙なデザインの『真っ黒なドア』が立っている。
心なしか色がはみ出ていて、所々塗れていないようでムラがある。
真っ黒なドアは、ただ『真っ黒なドア』としてそこにある。
どこかの建物、どこかの部屋に通じているような境目としてのドアではない。
そう、例えるならドラえもんに出るような真っ黒な『どこでもドア』だ。
ただドアだけが独立して存在しているのである。
バタン
初めて僕以外の音を聞いて、僕は音のする方へ振り向いた。
少し離れたところに同じ黒いドアがある。
あれは、ドアが閉まったような音だったような気がする。
バタン
また同じ音。
今度は右隣から聞こえた。
振り向いて見ると、やはりそこにも黒いドアが存在している。
今閉めたばかりなのか、心なしかドアが揺れているような気がする。
バタン
今度はどこから聞こえてきたのかわからない。
周囲を見回すと横一列に真っ黒なドアが並んでいた。
ドア ドア ドア ドア ドア ドア…………どこまでもドアだ。
どこまでも地平線をなぞるように真っ黒なドアが無数に並んでいる。
バタン、バタン、という音もドアの数だけ鳴り響く。
これはこの世界からの出口なのだろうか。
このドアの向こうには何があるのだろうか。
どこでも良い。
こんな僕が僕でなくなりそうな世界でないのなら、どこだって構うものか。
真っ黒なドア
ドアノブでさえ真っ黒で、木製なのか金属製なのかわからない触り心地。
グルリとドアノブを回してみる。
鍵は掛かっていないらしい。
少し押してみると真っ黒なドアは何の抵抗もなく開いていった。
否が応にも向こう側への期待が膨らんでいく。
どうか、どうか、どうか僕を失望させないでくれ。
真っ黒なドアの向こうが、輪郭のない真っ白な世界だなんて絶望を僕に与えないでくれ。
ドアが開いた
その向こう側にあったのは……………
―――――――――――――――――――――――――――――――――
心療内科『Qクリニック』の診察室。
薄ぼんやりとした間接照明の中、診察台とは名ばかりの軟らかいソファーの上に僕は寝そべっていた。リラクゼーションのクラシック音楽が流れ、種類はわからないが嗅いでいると心が落ち着いてくるアロマキャンドルの香りが漂い、間接照明の軟らかい光が怯えていた気持ちをすっかり鎮めてくる。
「……それで、扉の向こうには何が?」
診察台の傍の椅子に腰掛けているQクリニック院長で心療内科医の“神埼のぞみ”が夢の続きを問う。ボードを片手に僕の話を聞きながら、夢の内容の重要な部分をメモしている。どうやら、これが僕のカルテらしい。
「覚えて……いません…。ドアの向こう側には何かがあったはずなのに、その怖い夢から目が覚めるとその部分だけがスッポリ抜け落ちているんです」
「……………そう」
彼女は短くそう言うと、視線を再びボードの上に戻した。
神埼のぞみ
このQクリニックの院長で、僕の主治医である。
ただの主治医と患者というどこにでもありふれた関係であり、それ以上でもそれ以下でもないのだが、正直なところ僕はそれが残念な気がしてならない。
心療内科に通う患者ではあるものの、僕も健全な成人男性だということだ。
僕の主治医である“神埼のぞみ”は、一言で言うなら『美人』である。
いや、美人という表現も的確ではないような気もする。
ギリシャ彫刻のような、ラファエルの描いた聖母のような、まるで人間でないものに人間以上の美しさを感じているかのような、そんな側にいられるだけで息を呑むほど縋り付きたくなるような美人である。
長く真っ直ぐに伸びた黒髪はまるで黒真珠。
まるで人形のように美しい顔は少し冷たい印象を与えるが、それが彼女の持つ知性をより強く引き立て、こうして主治医と患者という関係でない限り、決して気軽にお近付きにはなれないという雰囲気を醸し出していた。
服装も白衣の下は、まるでブラックジャックのように全体的に黒かった。
胸元を開けた黒シャツからは谷間が覗いている。
タイトスカートからスラリと伸びる黒ストッキングを纏った両足を組んで、持て余すように上に乗せた左足をブラブラさせているその姿には、背筋にゾクリと冷たい興奮が度々何度も走る。それを彼女に気付かれないようにするのは本当に苦労する。
「……………」
ぼんやりとした空間に沈黙が下りる。
彼女はただ何か考え事をしているかのように、じっとボードの上の僕のカルテを見詰めている。間接照明の明かりの中、まるで幽玄の美のように彼女の悩ましい横顔が浮かび上がった。
嗚呼、本当に綺麗だ。
そんなことを考えてしまう。
僕はただ彼女に会いたいがためにこの心療内科に通っている訳ではないのに、まるであの空虚な悪夢を言い訳にしているような、後ろめたい疚しい思いで一杯になってしまう。
あの夢を見るようになってから本当におかしいのだ。
まるで夢の中そのままであるかのように、僕の生きる『現実世界』は空虚で生きているという実感が非常に乏しい。誰と出会っても、誰と会話してもまるで夢の中の出来事のように味気ない。
夢に引き摺られている
誰かがそんなことを言っていたような気がする
思い出せない
もう僕は融けてしまっているのだ。
いつかはあの空虚な悪夢も見なくなるに違いない。
何故なら見る必要がなくなるからだ。
『僕』が『僕』である必要がないのであれば、夢を見ることもなくなるのだから。
「先生」
僕は主治医・神埼のぞみを呼ぶ時は“先生”と呼ぶ。
先生は『はい』と短く返事をするだけ。
「僕は…………病気なんですか…?」
とっくに心を患っていたのですか、そう訊ねると彼女はただ困ったような表情を浮かべた。あまり表情を崩さない人形のような彼女が、大きく表情を変えた。例えそれが僕に対して何と答えて良いのかわからない、またはあまり良い結果ではない、といった困惑の表情であったとしてもそれだけで僕は少しだけ嬉しかった。
良かった
彼女は生きた存在なんだ、と
僕はここで彼女のカウンセリングを受けているこの瞬間だけ、あの空虚な悪夢と現実世界から解放される。何もかも曖昧で記憶に残らない無為な空間ではなく、この診察室の中だけが僕を生身の人間として生き返らせてくれる。
外の世界の日常は、まるでマネキンと会話しているかのようだ。
誰もが同じ顔。
誰もが同じ声。
パターン化されて少ないながらも何種類かは存在するけれど、僕には他人をうまく認識出来ない。同じパターンが、まるでコピー&ペーストのようにいくつも貼り付けられて僕の見えてる現実世界を構築していく。やがてそれは文字にまで及び、大事な情報源だったはずの文字はただのデザインに成り下がった。
何もかもが無意味に思えた。
何もかもが同化してしまっていた。
そう、夢も現実世界も融けて混ざり合っている。
僕はどこに逃げたって、あの真っ白な世界からは逃げ出せていなかった。
「……子供の頃」
急に彼女が口を開いた。
今まで聞いたどんな言葉よりも、彼女の声は優しく澄んでいる。
耳が、彼女の声を欲している。
「子供の頃、何か一人で熱中していたものとかありますか?」
それは唐突な質問だった。
僕は自分の質問の回答を聞いていないというのに、彼女はまるでその話を逸らすかのように、何の関連もない質問を唐突に投げ掛けてきたのである。不思議とそのことに怒りは感じなかった。ただ答え辛い質問に答えてくれなかったことは残念だったが、それ以上に彼女が気を遣ってくれたことが嬉しかった。
何故か、救われた気持ちだった。
「子供の頃、ですか」
そう言って考える。
あの頃は色んなものに熱中していた。
小学校の長い廊下で友達とミニ四駆を走らせて遊んでいたし、点数の悪いテストをクシャクシャに丸めたボールとホウキのバットで野球を楽しんだし、友達と秘密基地を作って遊んでいたりしたものだ。
だけど、熱中していたかと言えば違うような気もする。
それらは遊びの一環であり、僕以外の誰かがいないと成立しないものばかり。
「そう、子供の頃」
「突然ですね………………ああ、そうだ」
「何か思い浮かびましたか?」
「……ええ、一度だけですが」
思い出すのは真っ暗闇。
あれは小学校卒業を前にした時のことだった。
卒業をする前に、どうしても僕は確かめたかった。
学校の七不思議
それを調べて実証してやろうと思って、二ヶ月くらい前から準備していた。
夜の学校に忍び込めるように鍵を壊したり、
明かりがないことを想定して、少ないお小遣いから懐中電灯を購入したり
あの頃フィルム式だった使い捨てカメラまで準備して
計画実行の夜を今か今かと待ち望んでいたのを覚えている。
「結局僕が知ることの出来たのは七不思議の内の一つだけだったんですがね」
そう、そう簡単にうまくいく訳がなかった。
元々『うちの小学校には七不思議がある“らしい”』程度の噂だったのであり、どんな七不思議があるのかすら伝わっていた訳ではないのだから、そもそも“七不思議”というものを一から探し出さなければならなかったのである。学校の怪談でオーソドックスな音楽室のベートーベン、夜中に増えるという十三階段、トイレの花子さんですら僕の小学校には存在しなかった。
調べれば調べるほど肩透かし。
それなのに『八つ目の不思議を知ると呪われる』というオチだけはしっかり存在していたから、八つ目があるとすれば必ず他に七つの怪奇があるはずだと子供心に胸を弾ませる。
そして僕は知ってしまった。
たった一つだけではあったけど、七不思議の内の一つを。
「……面白そうな話ですね。詳しく聞かせていただけるかしら?」
「…………僕の学校にも、プールがありましてね。怪異の舞台はそのプールでした。よくあるじゃないですか、ほら、プールで溺れ死んだ生徒の怨念だとか、水泳選手になる夢半ばで亡くなった生徒の無念がとか。僕はあんな怪異だと思っていたんです」
「思っていた、というと違ったのですね?」
僕はゆっくり頷いた。
こんな馬鹿馬鹿しい話に彼女は真剣な表情で聞いてくれている。例えそれが僕の聞きたかった答えをはぐらかしているのだとわかっていても、僕はそんな彼女の優しさや気遣いが本当に嬉しかった。
奇妙な話、この瞬間だけは僕が彼女を独占している。
そう思うと興奮して心臓が痛いくらいに高鳴っていた。
「そのプールは別世界に繋がる門のようなものだというのです。それも限定的に2月の………何日だったかな。そこまでは覚えてはいないんですが、月のない新月の夜の12時に別世界へ通じる扉が開く、という噂話でした」
「また、大掛かりな話ですね」
「ええ、でも僕はそれを確かめに行った。深夜、家をそっと抜け出して学校に忍び込み、そして12時前に問題のプールに辿り着いた」
でもそこに怪異はなかった
辿り着いたプールは月の光に照らされて青く輝き、
美しくライトアップされたプールを僕はただぼんやり眺めていた。
そしてパシャッと水が撥ねて波紋が広がる。
水の中から顔を出したのは………
「僕のクラスメイトの女の子が泳いでいただけでした。卒業前にもう一度思い出のプールで泳ぎたかったらしくて、似たような動機でお互いに学校に忍び込んで、二人して可笑しくなってしまって笑っていました」
そこまで言って僕は自分が息も絶え絶えになっていることに気が付いた。
呼吸することが苦しい。
胸が、心臓が痛い。
「お薬、用意しましょう」
彼女はそう言うと、薬品棚の扉を開けて茶色の小瓶を取り出す。
小瓶の中には真っ赤な色をしたカプセルが入っていた。
「口を開けてください。楽に、なりますよ」
彼女は人差し指の上に赤いカプセルを一つだけ乗せると僕の口元に差し出した。
僕はただ言われるがままに口を開けると、彼女は僕の口の中に人差し指ごと薬を捻じ込んだ。まるでカプセルをその指ごと舐れ、と命令しているかのような指使いに、僕は彼女の美しい指を丹念に舌で舐め回した。唾液を絡め、舌を指に纏わり付かせ、出し入れを繰り返す彼女の動きに合わせて、自分がまるで女性になったかのように丹念に彼女の指を愛撫していた。
気付けば飲み込む唾液と恍惚とした呼吸と一緒にカプセルを飲み込んでいたらしい。
僕がカプセルを飲み込んだことを確認すると彼女は僕の口を犯すのをやめた。
引き抜かれた陶器のような指に、僕の唾液が絡まっている。
「落ち着きましたか?」
「…………………………はい」
まだ彼女の指の余韻で蕩けた頭で僕は答える。
うまく頭が働かなくて、身体も自分のものじゃないみたいにフワフワしている。
まるで眠る前のまどろみのような、そんな不安定な安心感。
「………………興味深い思い出話でしたね。でも何故あなたはそのお話、何の疑問も持たなかったのでしょうかね」
「疑問、ですか?」
「ええ、あなたは言いましたね。『新月の夜』に扉が開くと。でもあなたは言ったじゃないですか。プールが『月明かりに照らされて』青く輝いていた。何故、月のある晩に学校に忍び込んだのでしょう」
月は…………なかった…?
いや、月が昇っていた…?
どうしてだろう、頭がぼんやりしててうまく考えがまとまらない。
「それに時期は2月。そんな寒い時期にどうしてプールで泳ぐ女の子がいたのでしょう。そもそも2月のプールなんて普通は水を抜いているか、汚れ切っていてとても泳げる状態ではないのではないでしょうか」
「いや………確かに…。でも……でも、あの子は確かに…」
言われてみればその通りなのだ。
真冬の冷たいプール、しかも僕の小学校では夏が終わっても水を抜かないために、苔やよくわからないゴミや虫の死骸で冬のプールはそれはそれは不衛生で悪臭も酷く、とてもじゃないけど泳げたものじゃない。
でも、確かにあの子は泳いでいた。
そうあの子だ………あの子がしなやかに泳いでいた…。
ああ、ちくしょう。
どうして、顔も名前も何もかも思い出せない。
あの子は、誰だ
「……どうしました?」
「ああ…………いや……うう…」
彼女が心配そうに僕の顔を覗いている。
だけど僕は頭に霞が掛かったかのようにぼんやりとしていて、さっきまでと打って変わって返答にも困るほど呂律が回らなくなってしまっている。何か話さなければ、と思えば思うほど舌が痺れたような声にしかならず、ただ一言『大丈夫』と答えるまでにはかなりの時間を要してしまった。
「薬が効きすぎたようですね」
「あ…………う…」
僕の顔を覗き込む彼女の顔をまじまじと見るのは初めてかもしれない。
真正面、それもこんな後少しで鼻と鼻がぶつかりそうな距離。
眼鏡の奥の気だるそうな目に僕が映っている。
紅い瞳が僕を真っ直ぐ見詰めている
嗚呼、そう言えばあの子もそうだった。
どこか不思議な雰囲気のあの子も目が紅かったような気がする。
ふわりとした真っ黒い服が好きで、いつも物静かに図書館で本を読んでいたっけ。休み時間、放課後、いつもあの子は静かに本を読んでいたのを覚えている。そういえば僕はあの子をクラスメイトだと思ったけど、不思議なことに教室や授業での思い出がまったくない。
不思議なことと言えばもう一つある。
あの頃も今も、あまり疑問に思ったことはなかったけど、あの夜プールで見たあの子はいつもと違っていたように思える。水着も着ずに裸で泳いでいたのだから、いつもと印象が違うのもあるだろう。月明かりに照らされた幼い身体を晒したあの子がプールの中から、プールサイドで佇む夜の学校探検に来た僕ににこやかに微笑んで手を振っていた。
あれは………何だったんだ…
あの子の下半身
プールの水の屈折でゆらゆら揺れていた真っ黒いもの
あれではまるで四足の……ケモノ…
まるで真っ黒な馬の足だったような………見間違い…
「………考えたこと、ありませんか?」
真っ赤な口紅を引いた色っぽい唇が動いて、思い出の中の気が付かなかった疵に躓いていて狼狽していた僕を、現実の現在に優しく連れ戻してくれた。だが彼女の話の内容は、再び僕を迷わせる。
「どうしても欲しいものがある。どうしても手に入れたい人がいる。そう、例えどんな手段を用いてでも手に入れたいもの。ただ虚ろな存在だった私が現世に形を得ることが出来たのは、ひとえに私を認識してくれた誰かの存在が大きかった」
何を……何を言っている
彼女は一体何を僕に言おうとしているんだ
「嬉しかった。誰もいない、誰も寄り付かない夕暮れの暗くて小さな部屋の隅で、あの子が私を見付けてくれた。放っておけば夜の闇に融けて消えていくだけの曖昧な存在を認識してくれた、あの子の何気ない一言が嬉しかった」
“こんな隅っこで何してるの?”
僕の声だ
幼い僕の声が頭に響く
「私は形を得た。そして命を得た。あの子が私の名を訊ね、何もないカラッポだった私は、最初に鸚鵡返しであの子が名乗った言葉を繰り返し、あの子が持っていた本の単語を読んだ」
“僕は神埼裕也。君の名前は?”
ああ、そうだ。
僕の名前だ。
幼い僕の声が何度も僕の名前を繰り返している。
だけど駄目だ、あの子に聞いちゃ駄目なんだ。
あの子の名前は聞いちゃいけないんだ。
“………なまえ………”
「あの子が怖がるといけないから私は長い間人間のふりをした。人間のことが知りたくて色々な本を読んだ。すべての本がボロボロになるまで、私は人間のことが、あの子のことが知りたくてたくさんの知識を詰め込んだ」
薬が効いていて動けない僕に、彼女は僕の耳元で囁き続ける。
指で僕の顔の輪郭をなぞる。
「やがてあの子も成長して、私の生まれた場所から巣立つ時が近付いていた。このままお別れになってしまうのは悲しかった私は、あの子のために何か思い出に残るプレゼントを送ろうと思ったのです。幸いあの子が何を望んでいたのかはすぐにわかりました。あの子は七不思議という名の呪いを欲していた」
豊満な胸を押し付けるように彼女が僕を抱き締めた。
愛しそうに僕の髪をさわさわと触りながら彼女が僕を抱き締める。香水でもない、体臭でもない、何かわからないけれど胸の奥が切なくなるような甘い匂いに、身体に力が入らなくて動けない僕は為すがままに包まれている。
「だから私は誘ったのです。八番目の秘密を知ったものは呪われる、とあの子の耳に入るように噂を流して。宝探しの興奮もあの子にプレゼントしようと七つの秘密を完全に隠して、敢えて八番目だけをあの子が知るようにセッティングしました。何も知らずに秘密の一つを見付けたあの子の……あの子の笑顔を見ているだけで、私は本当に嬉しかった」
七つの秘密をすべて知る必要はない
七つの秘密をすべて知った上で八番目を知ると呪われるのではない
呪いは 八番目一つだけで十分だったのだ
「そして八番目の秘密、異世界への扉が開かれました。もっとも私は門の向こう側で生まれた者ですから、あの子の世界こそが異世界だった訳ですけど。あの子は門で泳ぐ私を見て、綺麗だと言ってくれた。本当の姿を晒していたのにも関わらず綺麗だと言ってくれた。だから契ったではありませんか。お互いに幼い身体でしたが、何の問題もなかったでしょう?私はあなたを、裕也さんを欲しがっていた。そして裕也さんは……」
“…………かんざき………のぞみ…”
幼いあの子の声がする。
嗚呼、そうだったんだ。
僕があの子に命を、名前を与えてしまったんだ。
とろりとした視界。
彼女が変貌していくのが見える。
だけど僕は気が付いてしまった。
これを見るのは初めてじゃないんだということを。
何故なら…………
「あなたは誰よりも強く非日常非現実の幻想を求めていました」
「そうだったね、のぞみさん。だから僕は君と一緒に扉の向こうへ飛び込んだ」
そう言った瞬間、僕は暗闇に堕ちていく。
堕ちていく僕の目に映ったのは、真っ黒な馬の下半身をした彼女の姿。
そして彼女に抱きかかえられて眠る僕の姿。
そう、あの悪夢は終わっていない。
ここもあの真っ白な夢の続きなのだから。
あのすべてを融かす真っ白な世界も
この救いを求めて飛び込んだクリニックも、
あの夜以降歩み続けてきた僕の人生そのものすべてが
本当にリアルで最高に恐ろしい
神埼のぞみの演出してくれた非現実のエンターテイメント
―――――――――――――――――――――――――――――――――
ドアが開いた
ドアは僕の頭上で開いたまま遠ざかっていく。
僕は水の中に、海に沈んでいた。
服は着ていない。
まるで胎内で眠る幼子のような姿勢でゆっくりと光から遠ざかっていく。
不思議と苦しくはなかった。
太陽が照り付ける水面をゆらゆら揺れていて、僕はその光が揺らめく水面をただぼんやりと見詰めながら、暗くて冷たい海の底へと沈んでいく。水面の向こうには開いたままのドアの扉が空中でブラブラと揺れている。
嗚呼、あそこから堕ちたのか
そう思うだけの余裕はあった。
なのに僕は沈んでいくのをわかっていながら、ただ沈みゆくままに任せて何の抵抗もなく、ゆらゆらと漂いながら心地良い無音と冷たさに身を任せていた。
わかっていたのだ。
足掻くことはない。
沈んでいく先に幸せが待っているのだと、心のどこかでわかっていた。
ぼんやりとした視界の中、キラキラと揺れる水面をかなり遠くに見ていると、そっと背中から手を回し、誰かが僕を優しく抱き締めていた。
嗚呼、この暖かい手の感触を知っている。
僕を抱き締める腕にそっと手を重ねると、その腕もまた強く抱き返してくれる。
いつからそう感じていたのかわからないが、僕は確かにいつからかこの腕の来訪を待ち焦がれていたらしい。いや、恋焦がれていたと言った方が正しいのかもしれない。この腕の主を僕は知っているし、この優しい温もりも知っている。この腕に抱き締められて、泣き出してしまいたいほど喜んでいる僕がいる。
優しく傷付けぬよう腕をほどいて、僕は振り返る。
嗚呼、やっぱりだ。
そこにいたのは彼女だ。
神埼のぞみだ。
一糸纏わぬ姿で美しい異形の姿を晒して、僕に微笑んでくれていた。
「待たせてしまったかな?」
頭を掻きながら彼女に尋ねると、彼女はそんなことはないと首を振る。
「待ってなんかいません。何故なら私はいつもあなたに寄り添っていますから」
そう言って一歩踏み出すと、彼女は僕の指にその陶器のような指を愛撫するように絡め、紅い瞳を閉じて、沈みゆく海の上下のない感覚や重力のない世界で身長差のなくなった僕の唇に、柔らかな唇をそっと押し当てた。空いた片方の手で彼女を抱き寄せると、彼女もまたそれを待っていたらしく、彼女の豊満な乳房が押し潰されて変形するほど強く身体を強く押し付けてくる。
ちゅるり、というどこかいやらしい音を立てて舌を入れてきた。
僕は夢中になって彼女のヌメヌメした舌の感触を楽しんでいた。
「…………ねえ、のぞみさん」
「……どうしました?」
「そういえば、初めてあの扉を潜ったあの夜も…」
「ええ…………こうしてキスし合っていましたね…」
だけど恥ずかしいことは言わないでください、と再び彼女は僕の唇を塞ぐ。
本当はもっと彼女と話をしたい。
本当はもっと彼女を喜ばせたい。
本当は彼女の喜怒哀楽すべてを見ていたい。
だけどそれは出来ないのである。
これはあくまで彼女が見せてくれるエンターテイメントショーなのだから
まるでシャボン玉が弾けてしまうように夢はすぐに覚めてしまう
だから僕は心の隙間を埋めるように彼女を求めた。
何度も何度でも、息が詰まって唇を放してしまおうとも、何度も彼女を引き寄せて夢中になって彼女の柔らかな舌と唇の感触を貪り続けた。唇を貪りながら彼女の大きな胸を揉みしだき、指で固い乳首を弄んでいると、彼女の口からは可愛らしい悲鳴にも似た喘ぎ声と吐息が漏れる。その声がもっと聞きたくて、僕は休むことなく愛撫を続けている。
不意に彼女が唇を放すと、恥ずかしさで耳まで真っ赤になった顔を俯かせたまま、まるで動物がマーキングするかのように僕の首筋に頬を摺り寄せた。僕も彼女の匂いを感じたくて、彼女が離れないようにスベスベした背中に腕をやさしく回す。キスをしている時とはまた違う充足感。僕が一人ではないことを証明してくれる絶対的な安息感。
「あの夜…」
彼女が耳元で囁いた。
「あの夜、私と契った夜に聞いた言葉……もう一度聞かせてくれますか…?」
「………………綺麗です」
「……………こんな身体でも?」
そう言って彼女は馬の下半身を纏わり付かせるように摺り寄せた。
黒い毛に覆われた馬の下半身はふわふわしていて、まるで極上の毛皮を素肌に着ているように心地良かった。僕は彼女の背中に回していた左腕を放すと、その左腕でそっと彼女の馬の下半身を撫でる。手の平に極上のやわらかさが広がっていく。
「それ、あの夜も聞きましたね」
「ふふふ………もう一度、聞きたい……な」
彼女は囁くと同時に僕の耳をペロリと舐める。
あの夜もそうだったっけ
幼いながらも僕らは求め合った
異世界の門となったプールの中で、何度も………何度も…
そういえばそれからだったような気がする
僕の意識の中で、夢と現実の境界線がなくなっていったのは…
「そんな身体だから……のぞみちゃんだから綺麗だと思うよ」
「……嬉しい!」
弾けるような声と共に彼女が僕を押し倒した。
上下のない世界だから押し倒したという表現は正確ではないけど、押し倒すように僕の上に圧し掛かる。僕の上に跨る彼女は、ずっと我慢していた本性を現したかのように、嗜虐的で魅力的な笑みを浮かべて僕を見下ろしている。待ち望んだ獲物を前にした獣のように舌なめずりをしながらも、更新して荒い呼吸を抑えて必死で理性を働かせているようのだが、彼女の手は意識的なのか、それとも無意識にしているのか、僕の勃起した肉棒をまるで虫が這うような淫らな手付きで苛めていた。
寄せては退く波のような刺激。
慣れて僕の身体に馴染んだ彼女の指使いに、今度は僕が甘い喘ぎ声を漏らす番だった。
「………重くない?」
「幸せの……重さ…だよ…」
絶え絶えになりながら答えるのが精一杯だった。
重さなど感じないがその返答が嬉しかったのか、彼女は僕の肉棒を自分の股間で押さえ付けるようにズリズリと上下に摺りながら、指で亀頭を引っ掻くように傷付けぬよう優しく愛撫するという責めに変えてきた。
柔らかな感触のする彼女の密着した股間の温もり、身体に何度も擦り付けられる馬の下半身の柔らかな体毛の心地良さ、彼女に関する色んな情報が僕の身体の上を錯綜し続けていて、正直なところ何が何だかよくわからなかったが、ただこれが、彼女に苛められるように責められるのが本当に気持ち良いということだけはわかった。
でも絶頂には行けない。
彼女がそうさせてはくれないから。
終わらせないように飽きさせないように、彼女は僕を壊すつもりなのだ。
僕が“神埼のぞみ”という存在以外に何も考えられなくなるまで。
この海は
この世界はそういうところなんだ
僕が消えてしまう世界なのではなく
僕と彼女が一つになり融けて混ざり合うための世界
永遠に続くすべてが一つになるまで続く終わらない夢
「裕也……くん…」
彼女は喘ぎながら僕を呼んだ。
あの頃の、子供の頃に戻ったかのような口調だった。
薄ぼんやりとした記憶から少年時代というものを思い出す。
ああ、そうだった。
子供というものは、無垢で無邪気で残酷だった。
彼女もまた子供のまま成長しているのだ。
そして僕もまた子供のまま貪欲に彼女を求めて、彼女の望むままに成長したのだ。
云わば、僕らは二人で一つ
云わば、僕らは一対の獣なのだろう
「素敵……裕也くん…、その蕩けた顔……良いよ…」
「のぞみちゃん……こそ…本当に……綺麗だ…」
もうお互いに感じすぎていた。
愛を確かめ合うような前戯だけで僕らは融けかけていた。周囲は海のような水の中だというのに、粘液が何度も何度も擦り付けられて発するネチネチした音が静かに、だけど確かにハッキリと二人の耳には響いている。彼女の垂らした愛液のせいなのか、それとも僕の気付かぬ内に何度も射精していたのか、僕の腰周りは水とは違うヌルヌルした液体に塗れていた。
不意に彼女が僕を責める手を放した。
指にはあり得ないほどの粘液が絡み付いていて、彼女はそれを飴を舐めるような仕草で丹念に丹念に吸い取いたり、舐め尽したりしていく。やがて綺麗に指を舐め取ると、僕の肉棒を押さえ付けている股間に手を伸ばした。自慰に興じるのではなく、自分の膣内の濡れ具合を確かめるかのように、掻き回すかのような淫らな音を立てている。
「もう……大丈夫みたい…」
ニコリと微笑む彼女が本当に綺麗だった。
「裕也くんも……こんなに待ち望んで…。でも、挿入しちゃったら終わっちゃうかもね…」
確かに挿入したら終わってしまうかもしれない。
何よりあれだけ責められた上での挿入ということもあるが、恋焦がれた彼女の膣内に入るという行為を考えるだけで、昂った心が射精のコントロールなどすでに意識から手放してしまっているのだから。
「……………人間の姿、なろうか?」
「どうして?」
「だって……………重かったら嫌だし…」
恥ずかしそうにそっぽを向く仕草が可愛らしくて、僕は吹き出してしまった。
何だ、彼女にもコンプレックスがあったのか。
そんなことに気が付くと、より一層僕は神埼のぞみを愛しく思えていた。
「……可笑しい?」
「いや、僕を気遣ってくれて嬉しいよ。でもこのままが良い。あの夜も、今もこれからも僕はそのままののぞみちゃんに抱かれたい。そのままののぞみちゃんを抱き締めたい」
「………ありがと。………じゃあ」
彼女が腰を浮かせて、僕の肉棒をしっかりと握る。
嗚呼、いよいよなんだ。
僕の肉棒を膣の入り口に宛がうと、彼女は焦らすように何度も何度も擦り付ける。そして僕が快感に身を捩る反応を見て楽しんでいるかのように、優しげに目を細めるのだ。
「このまま…………しちゃうね…?」
「…………うん」
ゆっくりと体重が掛かると、僕の肉棒はズルリという粘液の音が聞こえてきそうな感触と共に彼女の膣へと呑み込まれていった。彼女の膣内の形を変えてしまいそうな、滑り込むように肉の壁を押し広げて浸入していく快感。それを強く優しく押し包んでいくような滑った膣内の締め付けに、僕らは二人して短い悲鳴を上げていた。
そして…………
「熱いの…いっぱい………出てる…ッ!」
彼女が自分の下腹部を擦りながら微笑んでいる。
目の前が真っ暗になるほど激しい絶頂の感覚に僕は言葉を失ったまま、夢中になって彼女の膣の中に無遠慮に精を吐き出し続ける。まるで水鉄砲のように撥ね続ける肉棒は、熱い彼女の膣内で何度も何度も、あの夜に彼女を犯した時のように射精していた。
「ビクン、ビクンって……いってるね…」
「ごめん………早くて…」
「良いの…………本当は…私ももうイキそうだったから…。ごめん、今ので軽くイッてるみたい。ちょっと動けそうにない……かも…」
膣内の締め付けが強くなる。
まるで痙攣しているかのように、射精のリズムに合わせるように小刻みに震えていた。軽くなんてものじゃない。彼女も僕と同じ、本気で絶頂に達してしまっているらしい。考えてみればあんな激しい愛撫を続けてくれたのだ。
やりすぎた、と言えばそれまでなのだが。
「裕也くん……どうする…?」
どうする、とは二回戦のことなのだろう。
冷静を装っているのか、彼女の笑顔がぎこちない。
「……無理しなくても良いよ。それよりこのまま抱き締めてほしいな」
僕は上半身を起こして、そのまま繋がったまま彼女の胸に顔を埋めた。
どうしてだろう、視界に靄が掛かったように急に眠い。
「ああ……そっか………もう時間切れだね」
時間切れ?
嗚呼、そうか……もう時間なのか
「おやすみ、裕也くん。今度は最初からお芝居抜きで遊ぼっか」
心地良さそうに彼女の胸で眠りそうな僕の髪を彼女が撫でる。
「今度はどんな遊びにしようか。裕也くん、何かリクエストはある?」
言葉を発するのも面倒になってきた僕は、眠りの淵で何とか手を引っ掛けているような状態で、どうにかようやく首を横に振る。僕には独創性はない。僕はただ彼女の欲求と想いを満たす、ただそのためだけの器でさえあればそれで良いのだ。
「うん、じゃあ次も私が考えておくね」
何度も繰り返してきたやり取りだ。
何度も 何日も 何年でも 僕らはこうして行為を繰り返してきた
「……のぞみちゃん」
うっかり手放しそうな意識を繋ぎ止め、必死に彼女の名を呟いた。
「うん」
「ずっと一緒……だよ…」
「うん」
暖かく包み込むように彼女は僕を抱き締めてくれた。
その安らぎが僕の意識を加速度的に遠い彼方へと追いやっていく。
「…………大好き……だよ…」
そして僕は暗い海の底へと沈んでいった。
“僕”という認識が融けていくように消失していく快感に身を委ね、やがてその快感すらもゆっくりと消えていく“無”に回帰していく快楽。僕が僕でなくなり、僕が僕である必要のない深い海の底。
堕ちていく直前、彼女が何か囁いたような気がする。
だけど、甘いそれすらも手放してしまった眠りに僕はゆっくりと消えていった。
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
目を覚ますとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
ベッドの側に置いた目覚まし時計を手に取ると、今日は休日だというのにいつもよりも15分も早い目覚めだと知って、何か損をしたような些か憂鬱な気分になる。もう少し寝ていたい、と思ったが今度は逆に眠ろうとする意識が勝ってしまって眠れない。
仕方がない。
少し早いけど顔を洗って起きることにしよう。
寝室を出て、洗面台の前で顔を洗う。
顔を拭きながら鏡を見ていると、鏡の中の自分の顔がやけに疲れているように感じた。目の下には隈が出来ているし、どことなく顔色も悪い。そういえば昨日はいつもより寝るのが遅かったし、ここのところ変に忙しかったからきっとそのせいだろう。
ついでなので髭も剃っておくことにした。
寝癖の酷い髪は放置しておく。
新聞でも読みながらコーヒーでも飲んで眠気を覚まそうとダイニングに行くと、テーブルの上にはちょうど淹れたての湯気の立ったコーヒーが置かれていた。キッチンにはエプロン姿の妻の姿がある。
「お、おはよう。早かったんだね」
起こさないように動いたつもりだったのだが、妻は僕よりも早く起きていたらしく、すでに身支度を完璧に済ましており、僕自身が寝癖のボサボサ頭でまだパジャマのままだということが妙に恥ずかしくて口篭ってしまった。
「おはよう、今日は早かったのね。朝ご飯、もう少しで出来るからコーヒーでも飲んで待っててね。新聞もそこに置いてるから」
「う、うん」
何のことはない。
夫婦のいつもの朝の光景だ。
それなのに僕は、まるで初めて妻に会った時のようにドギマギしている。
程なくしてテーブルの上には朝食が並べられた。ベーコンエッグに野菜サラダ、それにバターを塗ったトーストというオーソドックスな朝のメニューだった。デザートにはヨーグルトも付くらしい。
「何か良いニュースはありました?」
僕がいつまで経っても新聞を手放さないので、妻は頬杖を付くように頬に手を添えると不思議そうな顔で僕に尋ねてきた。何年経っても彼女のそんな仕草が可愛らしく、僕は絶対に妻以外の女性には振り向かない、ということを何度も何度も心に固く誓う。
「いや、特に何もないよ。“いつもと変わらない”ニュースばかりだ」
そう、と素っ気ない返事をすると妻は僕の対面にある椅子に座った。
いただきます、と声に出して手を合わせていると、彼女は何か思い出したように短く声を挙げた。どうやらキチンとした朝の挨拶をしていないというのを思い出したらしい。
「さっき、おはようって言ったじゃないか」
「駄目よ、あんなの。何かしながらって、挨拶の内にならないわ」
そういうものなのだろうか。
しかし確かにキチンとした挨拶は気持ちが良いものだし、別段断る理由もない。
「では……改めて、おはよう。のぞみ」
「はい、おはようございます。裕也さん」
繰り返される幻想
ここが現実で ここが夢で
境界線のない世界で二人は夢と現実を混ぜ合わせながら
何度も何度でも繰り返し求め合う
嗚呼、愛しの不安定
このまま永遠に永遠を閉じ込めてしまおうか
ところでお聞きしたいのですが、
そこは理想的な夢ですか? それとも熱を持たぬ現実でしょうか?
13/09/01 01:21更新 / 宿利京祐