第百十話・確定に近い虚構の『もしも』
「状況は良くない。」
そう言って、目の前の男は難しい顔をしながら、地図の上に置いた兵に見立てた駒を動かし始めた。
なるほど、この大軍のような駒が僕ら連合軍。
そしてこっちの寡兵のように寂しい駒は同盟軍を表しているのか……って。
「何で君がこっちに来て説明してるんだよ、ハインケル=ゼファー。」
「硬い事言ってるんじゃねえよ、リトル=アロンダイト。俺だってたまには息を抜きたい時だってあるんだ。」
目の前の難しい顔をしている年下の男、ハインケル=ゼファーはテーブルに頬杖をして気だるそうに答えた。
ここは僕ら『沈黙の天使騎士団』の駐屯地。
駐屯地とは言えば聞こえは良いが、連合軍総司令官であるフウム王国先主フィリップ=バーントゥスクルに監視しやすく、例え裏切っても本陣を急襲出来ないような遠すぎず近すぎずという場所に僕ら沈黙の天使騎士団は駐屯させられている。
「いやいや、それ以前にさ…。君、こんなところに出入りして大丈夫なの?」
僕らは馬鹿王…、いやフィリップ王に謀反人の嫌疑を掛けられている。
つまり危険分子扱いだ。
一応、表向きは教会勢力最強の勇者としての顔があるハインケル。
実際は教会勢力どころか、彼らと敵対する最強勢力である魔王軍の魔界勇者の一人な訳なんだが…。
そんな危険な場所に、この男は単身、しかも散歩のついでに立ち寄ったような雰囲気で僕の帷幕を訊ねてきたのだった。
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆうううう…ゆう、勇者様…!!!そ、そちゃ!粗茶でございま!!」
明らかに緊張し切って、プルプルと震えながら上擦った声を上げるカタリナ。
そういえばカタリナの村…、いや神聖ルオゥム帝国も一応は教会勢力の辺境大国だったけ。
元々ただの村娘だったカタリナからすれば、勇者ハインケル=ゼファーと言えば雲の上の人物なのだろう。
………何故だか、面白くない。
「……お茶はいらないよ、カタリナ。この人、すぐ帰るから。」
「酷いな、リトル=アロンダイト。ああ、お嬢さん、お茶はそこに置いておいてくれないかな。」
優しい笑顔を向けるハインケル。
そんなハインケルにカタリナは、よく零れないな、と思うくらいにプルプルと震えながら、テーブルの上にお茶独特の良い香りと湯気が立ち上る二人分のカップを置くと、足早に頭を下げて僕の帷幕から赤い顔で立ち去って行った。
……やっぱり面白くない。
「ああ、良い香りだ。おい、リトル=アロンダイト。男の嫉妬は醜いぜ……っと、お前はそれなりに頭は切れるが、どこかの誰か並みに事そっちの方面には鈍感だったっけな。いやぁ、悪い悪い。お前の邪魔しに来たんじゃないんだ。もう少しここに居させろよ。」
何だかわからない内にハインケルは自己完結してしまった。
その内、無言でカップのお茶を啜りながら、彼は再び真剣な顔になると無言で駒を動かし始めた。
しばし、駒を動かす彼の手を見ながら、僕はこの地図上で起こっていることを想像しながら、ハインケルの無言劇にお茶を飲みながら付き合うことにした。
「……安心しろよ。俺は病気と称してこっちに残ったが、正直言えば本陣はほとんどもぬけの殻だ。もっとも用心に用心を重ねて、それなりに結界を張っておいたし、ここを監視しているやつらも全員俺の部下に交代させておいた。」
地図から目を放さないまま、彼は突然僕の疑問に答える。
「まさか…、殺したのか?」
「交代だ。ただ突然、行方不明になってもらっただけさ。」
ハインケルは多くを語らなかった。
ただ、監視者は行方不明になったのだ。
永遠に、誰にも見付かることなく。
彼の本来の顔を知ってはいるのだが、言い知れぬ後味の悪さを感じていた。
「……お前は良い男だな、リトル=アロンダイト。敵に情けではなく、心の底から敵の死を悼んでいる。ヒロ=ハイルにしてもそうだ。あいつもこれまで敵と信じたセラエノの連中と戦うことに心を痛めている。だから敢えて帝都コクトゥを僅か1000程度の少数兵力で急襲し、電光石火の進撃で連合軍の出鼻を挫き、根気良く投降を促すつもりでいる。それも偽善ではなく、本気だから……、俺も頭が下がる。」
「君だって色々軍略や策略、果てはえげつない謀略までその頭で描いているじゃないか。自分のためじゃなく、誰かのために…。一見あくどいけど、出来る限り被害を最小限にはしている。ヴァルハリア領民やフウム残党の中でも、死なせちゃいけない人は死なないように手を打っている。悪ぶっちゃいるけど、君こそ心から相手の死を悼んでいるんじゃないのかな?」
よせよ、と言いたげにハインケルは気だるそうに手を振った。
再び無言。
ハインケルは口元を手で隠し、ぼんやりと遠くを見るような仕草で長考の構えに入った。
時折、目だけチラリと僕を見る。
「……訂正だ、リトル=アロンダイト。お前は本当に嫌なやつだな。」
「ありがとう、ハインケル。君は本当に良いやつだね。」
舌打ちして、ハインケルはそっぽを向く。
今にも悪態を吐きそうな不機嫌な表情を浮かべているが、彼の耳だけが真っ赤に染まっているのを僕は見逃さなかった。
照れている。
このままからかっても面白いかもしれないが、それはそれで本当にハインケルの怒りを買いかねない。
地位もある。
名誉もある。
何より圧倒的な力がある。
でも、今目の前にいる彼は紛れもなく17歳の少年なのだと思うと僕は嬉しくなった。
「……何が可笑しいんだ。」
「あ、笑ってた?いやいや、何となく気が晴れただけだから。」
「……………………いつか殴る。」
程良く冷めたお茶を一気にハインケルは煽った。
よく……、そのお茶を一気飲み出来るね…。
そのお茶……、紅茶葉どころかジパング茶葉でも、薬草やハーブの類でもないんだ。
実は、何の葉っぱかわからないんだよね。
ゲイオルーク伍長が『食べられるかもしれない、きっとたぶん。』とか言って、どこからか採ってきた野草で、そもそも本当に食べても大丈夫なものなのかすら怪しい野草を大量に干して、じっくり乾燥させて作った茶葉なんだ。
噂では便所の隣に生えてたらしいけど…。
何も知らないカタリナは、来客時にお茶として客に振舞ってはいる。
ハインケルには悪いけど、真相は伏せておこう。
彼も真実を語らないから、お相子になって調度良いだろう。
………たぶん。
「……で、ハインケル。状況は良くないって言ってたけど、どう良くないんだい?」
「………ああ、そうだな。元々、そのつもりで俺はお前のところに出向いてきたんだからな。」
僕らもよくわからない謎のお茶を楽しんでいたハインケルはカップを静かにテーブルに置くと、地図に置いた駒を手に取り、彼らしく率直に説明した。
「この駒が帝国軍…、つまりセラエノの連中も含んでいる。よせば良いのに、連中は民草を引き連れて帝都、いや旧帝都コクトゥと言えば良いな。旧帝都を脱出した訳なんだが、民草を引き連れている限り帝国軍は、否が応にも機動力を殺さざるを得ない。」
「ふむふむ…、つまり……ヒロ=ハイル上級大将の騎兵隊がそこに追い付く、ということだね。」
そう、と言ってハインケルは、ヒロ=ハイルと思しき駒を物凄い速さで動かした。
「ちょっと!?」
「どうした、この駒の動きが速すぎるとでも言いたそうな顔しているじゃないか。速いんだよ、冗談抜きに。あの男、本気で新皇帝を降伏させるつもりだから、足並みなんて考えずに我武者羅に兵を進めているんだ。馬鹿王の本隊が合流する前に降伏させることが出来れば、新皇帝やその一味の助命も夢じゃない。自ら降伏してきたとなれば、宗教馬鹿も助命を認めるかもしれない。」
宗教馬鹿と罵られているのは、僕ら連合軍の一応の最高権力者であるヴァルハリア教会大司教ことユリアス大司教のこと。
馬鹿王、宗教馬鹿で通じ合えるあたり、僕にもハインケルにも彼らを敬う気持ちが欠片もないことがわかる。
「あれでも馬鹿王より地位は上だからな、あの宗教馬鹿も。何よりあの宗教馬鹿は、馬鹿王よりも簡単に丸め込める。もしも降伏してきたなら……、ヒロ=ハイルの手助けになるのは癪だが、俺も手を貸さないでもない。」
ハインケルの『手を貸さないでもない』は『貸してやる』ということらしい。
もっとも降伏はしないだろう、とハインケルは言葉を繋げた。
「降伏しない、というのは?」
「簡単だ。帝国軍が連れている民草は弱点であり、利点でもある。」
どうして弱点が利点なのか、それがわからず僕は首を捻る。
するとハインケルは本当に安堵したように微笑んだ。
「お前は本当に良い男だ。出来ることなら、この戦争が終わってもそのままでいて欲しい。」
そう言って、民草を表す駒を地図のある一点に固定した。
「いざという時は、この重荷の民草をすべてここに捨ててしまえば良い。」
「そんな……!?」
そんな非道なことを、という言葉が最後まで出なかった。
民草を捨ててしまえば良いという地点は、大軍が通るには非常に時間のかかると予想される場所。
狭く、道は悪く、険しいと思われる場所である。
誰かが生き残るためには…。
ハインケルの言葉を聞いて、それが納得出来てしまった自分に、酷く自己嫌悪した。
「ヒロ=ハイルの率いる部隊は、本来の編成とは大きく違う。ヒロ=ハイル本人の部下だけでは足りず、フウム残党が大勢混ざっているのがあいつには不利益。新皇帝には大きな利点になっている。あいつの本来の部下だけなら民草に手を出すことはないが、フウム残党は訳が違う。一応、形だけの騎士道とやらを叩き込まれているが、帝国の民草は悪魔の類だという建前の下、兵も民も自分たちの鬱憤を晴らす道具として、お構いなしに惨殺するだろう。あいつはその部下の凶行を鎮圧することに追われ、民草を切り離した帝国軍はフウムの連中が起こす凶行に乗じて素早く離脱し、新帝都、もしくはセラエノ軍本隊と合流を果たす。」
帝国軍の駒が地図上から消える。
ハインケルの予想、今後の対策に、不愉快ではあるけど僕は頷くしかなかった。
すでに彼の部下が新皇帝に接触し、今頃は自身の献策を採用しているはずだとハインケルは言う。
果たしてそうなのか…。
確かに新皇帝・紅龍雅は優れた武人であると同時に優れた戦略家でもあった。
あの人なら、そうするのだろうか…。
僕が自己嫌悪と答えの出ない思案に暮れていると、ハインケルは急にそっぽを向き、優しい声で語り掛けた。
「まぁ、俺ならそうするという話だ。事実、こうすることが………紅龍雅やノエル=ルオゥムたちみたいな、次の時代を生き残るべきやつらが一番手っ取り早く、しかも誰にも恨まれることなく生き残れる方法だ。民草は自分たちの命を盾に新皇帝や先帝を逃がすだろう。万全を期すためにクロコには、民草どもが自発的にそう行動するように煽動する指示を出している。あいつの隠密能力は、そういう時に大いに役立つ。誰にも恨まれず、重要人物を逃がすことが出来る状況を作れるなんて…、なかなかないもんだぜ…。出来ることなら………、俺の思い通りに事が運んでくれることを祈る。」
ハインケルが、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
今になってわかった。
ハインケルも、ギリギリの選択だったんだって…。
「でも……、ヒロ=ハイル上級大将たちの目的は帝都陥落だろ?皇帝は逃してしまっても、帝都を少数の勢力で陥落させれば、それは物凄い手柄じゃないのかな。それがわからない彼とは思えない。」
僕がそう言うと、ハインケルは少し意外そうな表情を浮かべた。
「……お前、実戦経験は少ないって言ってたよな。しかも城攻めの経験はゼロだって。」
「それは馬鹿にしてる?」
少し意地悪に答えると、ハインケルは慌てて手を振った。
「いや、悪い。馬鹿にしたつもりはなかった。その通り、ヒロ=ハイルは気が付かない訳がない。帝都はおそらく空っぽに近い。歴代皇帝の宝物もすでに新帝都へ移送されているし、略奪出来るものは食料ですら乏しいだろう。残っているとすれば、精々旧帝都を離れ難い者たちだけ。ヒロ=ハイルであれば、紅龍雅説得を一旦諦め、実質陥落したコクトゥに入って、旧帝都を離れ難い人心を落ち着けさせ、連合軍への恭順を説き、連合軍への心からの降伏の願う。その上で宗教馬鹿や現在別行動を取っている馬鹿王を迎え入れる。そうすれば旧帝都は連合軍にとっては最重要拠点となり、未だ帝国領内に残る人民に連合軍がただの殺戮者でないこともアピール出来る…。もっとも、この場合は連合軍への求心力ではなく、やつ自身への求心力を集めるだけなんだが、あいつはそこまで考えていないだろうがな。」
聞いているだけで、桁外れな手柄だと思えてしまった。
帝都陥落、しかも実質もぬけの殻だから兵卒一人の犠牲も出さない無血開城そのものになるだろう。
そんなことを実行出来る者は、一体どれだけの天運に恵まれた人間なのだろうか。
それが実現したら、敵将の首を二つ三つ挙げたところで、その功績には到底及ぶものではない。
「間違いなく彼なら、そうすると思う。でも…、それが何故逃げる皇帝を追わなきゃいけないんだ?」
「ヒロ=ハイルだけならな。だが、旧帝都に辿り着いても、そこには望むものがない。」
望むもの、と聞いて首を傾げる。
手柄なら、そこに転がっているじゃないか…?
いや、待てよ…。
それはヒロ=ハイル……、いや、ある意味で傍観者にとっての手柄じゃないだろうか…。
価値観の違いだ。
よく考えて……いや、この場合は考えない方が良いんだ。
彼の傍にいるのは、騎士道精神の塊という部下ばかりではない…。
ヴァルハリア領民に負けず劣らずという、醜悪な邪鬼が傍に大勢いるじゃないか。
「気が付いたな。そうだ、あいつの周りには…。」
そうだ、フウム王国残党がいる。
彼らにとって、手柄とは帝都陥落ではない。
あくまで『神敵』の同胞である新皇帝・紅龍雅や先帝・ノエル=ルオゥムたちの首なんだ。
「首でなくても良い。要は自分たちの欲望を満たしたいだけだ。今まで散々煮え湯を飲まされたのに、むざむざ逃がしてたまるものか、という逆恨みだ。犯しても、侵しても、冒しても、何度殺っても足りない人間の醜く、抗い難い本能にも似た純粋な部分が、帝国軍や民草の撤退を許さないし、赦さない。連中が帝都無血開城がどれ程大きな手柄かを認識しているかは怪しいが、ヒロ=ハイルは恐慌状態に陥る連中をやがて抑制出来なくなり、今度は逆に紅龍雅たちを助けるために帝国軍を追いかけなきゃならなくなる。自分が率いるのではなく、率いられる感覚でな。」
淡々と話すハインケルの目に、暗い光を見た僕は、ゾクリと背筋が凍った。
彼は、一体どれだけの人間の闇をその目で見てきたのだろうか。
「だからヒロ=ハイルは帝国軍に追い付かされる。皇帝の首を挙げんと、目に見える手柄だけに目を奪われた、クソみたいに無価値な俗物どもに強要されてな。まったく……腹が立つ。俺の策をぶっ壊した張本人が、無価値なゴミに振り回されるなんてよ。」
ハインケルは不機嫌に言葉を吐き捨てて、冷めてしまったお茶を一気に飲んでしまった。
イライラとした仕草で、人差し指でヒロ=ハイル上級大将を表す駒を何度も弾き飛ばす。
好敵手、という言葉で括って良いのかはわからないが、ヒロ=ハイル上級大将は魔界勇者ハインケル=ゼファーにとって、ある意味で自分と同等の価値観で見れる唯一の人物なのだろう。
それは友情、或いは慕情に近い感傷なのかもしれない。
「………リトル=アロンダイト。」
「何だい?」
「…………あまり人の顔をジロジロ見るな。」
ごめん、と僕は笑って言った。
もしかして、顔を見られることで自分の内面を覗かれるの思ったのか。
「ハインケル、お茶のお代わりいるかい?」
「……………よこせ。」
こちらを見ずに、ハインケルはお代わりを要求する。
その姿が何だか可笑しくて、僕は外で待機しているだろうと思うカタリナに声をかけた。
もしも、僕に弟がいれば……、こんな関係だったのだろうか…。
そう思うと、ハインケル=ゼファーという男が、そう悪い人物だとは思えなくなっていた。
「…………邪魔を……するぞ…。」
お茶のポットを手に取って現れたのは、僕が声を掛けたカタリナではなく、沈黙の天使騎士団団長にして僕を育ててくれた義父と呼べる人、ファラ=アロンダイトだった。
「義父上!?」
「……何だ、ファラ=アロンダイト。」
突然の来訪に驚く僕と、義父上に対しても呼び捨てるハインケル。
そんな僕らの様子が楽しいのか、珍しく微笑むような柔らかい表情を義父上は浮かべると、ハインケルが所望した原材料不明ではあるものの、暖かそうな湯気が昇る謎のお茶のポットをハインケルの傍に置き、地図上に展開された連合軍と同盟軍の動向を示す駒を興味深そうに眺めていた。
「………ん、この香りは…。」
義父上を無視して手酌でお茶をカップに注ぐと、ハインケルは立ち昇る香りに思わず手が止まる。
まさか……産地がバレたのか…。
「…新しくも芳醇な香り。それでいて新緑の森の如き爽やかさ。ファラ=アロンダイト、この茶葉は新茶だな!?それも絶妙なブレンドと程良い焙煎で旨みと香りを増した最上級品…。やるな、さすがは俺が目を付けた男だけはある!」
思わず椅子から滑り落ちそうになった。
ハインケルが……、あのハインケルが……、目を輝かせて、義父上の持って来たお茶に感動している。
「………ゲイオルークが……改良した…らしい…。」
「やはり!そうか、ゲイオルーク。お前のところの伍長か。あの男はこんな素晴らしい才能を秘めていたぞ。きっとこの戦争が終われば、伝説的なティーソムリエとして世界中に名を轟かすだろう。ああ、ファラ=アロンダイト。それにリトル=アロンダイト、心配するな。この俺の悪逆勇者の名に賭けて、彼もまた次の時代を生きるべき人間として、しっかり五体満足で生き残らせてやる。」
ハインケルは勘違いをしたまま、上機嫌にカップのお茶の味と香りを楽しんでいた。
原材料がバレたら殺される…。
僕も、義父上も、ゲイオルーク伍長も…。
それにしても彼がここまでお茶が好きだったは意外だった。
一見無趣味な冷血漢に見えなくもない。
しかし、こうやって無邪気にお茶を楽しんでいる姿は、年齢よりもやや幼く見える。
もしかして……彼もまた、僕と同じように幼少期を殺された生い立ちだったのだろうか。
「…………………ハインケル…………これは……帝国…か…?」
地図上から退けられた大きな駒を見て、義父上は疑問の声を上げた。
「ああ、そうだ。俺の……、いや紅龍雅程の冷静な軍略家であれば、絶対に取るであろうという行動だ。」
ハインケルの言を補足するように、僕はハインケルが語った連合軍と同盟軍の予想される動きを説明した。
義父上は一つ一つ、頷きながら駒を動かして確認していく。
だがその手の動きが、ある一手を説明した時にピタリと止まった。
「…………………………違う。」
義父上の言葉に、ハインケルの眉が僅かに上がる。
「おいおい、ファラ=アロンダイト。何が違うんだ。まぁ、お前より遥かに年下の俺の完璧な推測が面白くなくて、ケチを付けたい気持ちもわからなくはねえ。一応何が違うのか聞いておいてやるよ。たちどころにケチ付けたことを後悔させてやるけどな。」
「………………………………こ、………ここだ…。」
義父上の言葉が僅かに詰まる。
ハインケルは義父上が動揺していると受け取ったように笑顔を浮かべたが、僕はその言葉の詰まりが、義父上の頭の中で何万言、何十万語、何百万行にも及ぶ言葉の中から、本当に必要な言葉を取り出している作業なのだと知っている。
義父上は、言葉が出ない。
ネヴィア義母さんを失い、獄を抱いた深く冷たい絶望の日々の中のどこかに置き忘れてしまった。
僕はそう認識している。
「………………………紅……は……逃げぬ…。」
「はっ、何を馬鹿な。」
話にならない、と言いたげにハインケルは義父上を鼻で笑った。
「あいつらもわかっているはずだ。このくだらない戦争において、最悪の敗北とは兵を失うことではなく、あくまで自分たち、紅龍雅やノエル=ルオゥムみたいな重要人物が戦場で消えてしまうことだ。それが逃げない?馬鹿馬鹿しい、苦し紛れのケチにしても苦しすぎるぜ、ファラ=アロンダイト。ノエル=ルオゥムはともかく、紅龍雅は生粋の軍略家だ。兵を犠牲にして、民草どもを犠牲にしても、自分たちが生き残るという確実な方法を手堅く使うに決まっているだろう。」
「…………………………お前は…………若い……な…。」
そう言って、義父上は紅龍雅を示す駒を手に取る。
義父上が再びその駒から地図上で手を放したのは、まさにハインケルが民草を切り離し、ヒロ上級騎兵大将の率いるフウム兵への生贄として犠牲とすべきだと示した地点だった。
「……おい、ファラ=アロンダイト。駒を間違っちゃいないか?そこに留まるのはお荷物と言える民草どもだ。紅龍雅はそこじゃねえ。紅龍雅は…。」
さっさとこの地図から消える、と言ってハインケルは義父上から駒を取り上げようとするのだが、義父上は首を横に振り、間違っていないのだとハインケルにもわかるような仕草で答えた。
「………………………あの男は………軍略家……戦略家の…類に……あ…あらず…。」
「じゃあ、何だって言うんだ。」
「………………ぶ……武人だ…。」
それも騎士物語にしか登場しないような武人である、と義父上は言葉を続けた。
紅龍雅という男は、不当な権力から民を守護し、如何なる時も民を見捨てない武侠の者であると言う。
義父上の言葉が正しいのであれば……。
「それこそ馬鹿馬鹿しい。そんなもの神話伝説の類じゃねえか!?」
そうだ、神話や伝説だ。
古今、歴史として人々の生き様が記録されるようになって以来、そのような人物は存在しない。
王家や聖人として名を残す人物が、そういう所業を多々記録されてはいるものの、その多くは都合の良い風聞を得たり、自らの血筋の良さを示す道具に使ったり、また宗教的プロパガンダのために人々を集めるために捏造されたものばかりだ。
……あまり思い出したくはないけど、義父上に引き取られる前、地方教会の高僧だった実父もそうだった。
実父として接してもらった記憶はないけれど、彼が何をしていたのかは妙に覚えている。
たぶん、1歳か2歳くらいの記憶。
記憶と呼ぶには曖昧なものだけど、彼の偽善的な微笑が嫌いだったのを覚えている。
それは実子の僕には決して向かうことのない慈愛。
決して手の届かない愛情に、飢えにも似た渇きを感じていたあの頃。
義父上と義母さんの愛情が、どれだけ僕の心を救っただろうか。
……トラウマかな。
こんな記憶が時々蘇ってしまうのは。
「………………俺は………天を………か……神を……信じぬ…。……だ…だが……、時代は……紅を……遣わした…。」
「何を根拠に…!」
「………………………俺が……刃を……交えた…。」
刃を交えたから、と義父は自信に満ちた表情で答えた。
それだけで、ハインケルは言葉が出なくなり、苦虫を潰したような表情を浮かべる。
そうだ、これだったんだ。
僕の中でハインケルの予想に納得しつつ、納得出来ない部分があったのは…!
僅かばかりとは言え、僕は彼の一太刀を受けた。
命辛々の生還ではあったけど、あの一太刀はあんなにも雄弁だったじゃないか。
あの人は、あのヒロ上級騎兵大将が憧れた紅龍雅は、人々を捨てて逃げるような男じゃない。
「…………紅は…領土も……権力も…血筋も…必要とせ………せず……ただ民の声のみで………天を掴み………民の心に住まい…………無限に広がる……て…天下の主たる……資格を持つ…。………ハインケル……、……お前の…予測は……見事…だ…。……だが……、お前は人を………知りつつ…人を省みな…い……。………お前は……もっと…民に……人に揉まれろ……。……策に…誤りはない……が…お前は………あまりに……人間……というもの……を……知らない……。」
義父上の言葉にハインケルは反論するのではなく、ただ舌打ちをしてカップに口を付ける。
人間を知りつつ、あまりに人間を知らない。
それは彼が多くの人間を軽視しているところなのか…。
軽視するあまりに、多くの策をヒロ上級騎兵大将に潰されたのは、それが大きな要因ではないだろうか。
僕はそんなことを考えながら、義父上とハインケルの論議に耳を傾けつつ、ハインケルを観察していた。
ハインケル=ゼファーという未完の傑物が描く未来に興味を引かれながら…。
この後も日が暮れるまで、僕らは多くの『もしも』を議論していた。
その多くの『もしも』が現実として起こらないことを祈りながら。
しかし、数年経った頃に僕らは思うのだ。
ああ、あの時語り合った『もしも』は、その後に起こった悲劇への衝撃を和らげるためのものだった。
いくつもの後悔と乗り越えてきた別れを胸に、
そう自分に言い聞かせて、この日のことを何度も思い出す。
そう言って、目の前の男は難しい顔をしながら、地図の上に置いた兵に見立てた駒を動かし始めた。
なるほど、この大軍のような駒が僕ら連合軍。
そしてこっちの寡兵のように寂しい駒は同盟軍を表しているのか……って。
「何で君がこっちに来て説明してるんだよ、ハインケル=ゼファー。」
「硬い事言ってるんじゃねえよ、リトル=アロンダイト。俺だってたまには息を抜きたい時だってあるんだ。」
目の前の難しい顔をしている年下の男、ハインケル=ゼファーはテーブルに頬杖をして気だるそうに答えた。
ここは僕ら『沈黙の天使騎士団』の駐屯地。
駐屯地とは言えば聞こえは良いが、連合軍総司令官であるフウム王国先主フィリップ=バーントゥスクルに監視しやすく、例え裏切っても本陣を急襲出来ないような遠すぎず近すぎずという場所に僕ら沈黙の天使騎士団は駐屯させられている。
「いやいや、それ以前にさ…。君、こんなところに出入りして大丈夫なの?」
僕らは馬鹿王…、いやフィリップ王に謀反人の嫌疑を掛けられている。
つまり危険分子扱いだ。
一応、表向きは教会勢力最強の勇者としての顔があるハインケル。
実際は教会勢力どころか、彼らと敵対する最強勢力である魔王軍の魔界勇者の一人な訳なんだが…。
そんな危険な場所に、この男は単身、しかも散歩のついでに立ち寄ったような雰囲気で僕の帷幕を訊ねてきたのだった。
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆうううう…ゆう、勇者様…!!!そ、そちゃ!粗茶でございま!!」
明らかに緊張し切って、プルプルと震えながら上擦った声を上げるカタリナ。
そういえばカタリナの村…、いや神聖ルオゥム帝国も一応は教会勢力の辺境大国だったけ。
元々ただの村娘だったカタリナからすれば、勇者ハインケル=ゼファーと言えば雲の上の人物なのだろう。
………何故だか、面白くない。
「……お茶はいらないよ、カタリナ。この人、すぐ帰るから。」
「酷いな、リトル=アロンダイト。ああ、お嬢さん、お茶はそこに置いておいてくれないかな。」
優しい笑顔を向けるハインケル。
そんなハインケルにカタリナは、よく零れないな、と思うくらいにプルプルと震えながら、テーブルの上にお茶独特の良い香りと湯気が立ち上る二人分のカップを置くと、足早に頭を下げて僕の帷幕から赤い顔で立ち去って行った。
……やっぱり面白くない。
「ああ、良い香りだ。おい、リトル=アロンダイト。男の嫉妬は醜いぜ……っと、お前はそれなりに頭は切れるが、どこかの誰か並みに事そっちの方面には鈍感だったっけな。いやぁ、悪い悪い。お前の邪魔しに来たんじゃないんだ。もう少しここに居させろよ。」
何だかわからない内にハインケルは自己完結してしまった。
その内、無言でカップのお茶を啜りながら、彼は再び真剣な顔になると無言で駒を動かし始めた。
しばし、駒を動かす彼の手を見ながら、僕はこの地図上で起こっていることを想像しながら、ハインケルの無言劇にお茶を飲みながら付き合うことにした。
「……安心しろよ。俺は病気と称してこっちに残ったが、正直言えば本陣はほとんどもぬけの殻だ。もっとも用心に用心を重ねて、それなりに結界を張っておいたし、ここを監視しているやつらも全員俺の部下に交代させておいた。」
地図から目を放さないまま、彼は突然僕の疑問に答える。
「まさか…、殺したのか?」
「交代だ。ただ突然、行方不明になってもらっただけさ。」
ハインケルは多くを語らなかった。
ただ、監視者は行方不明になったのだ。
永遠に、誰にも見付かることなく。
彼の本来の顔を知ってはいるのだが、言い知れぬ後味の悪さを感じていた。
「……お前は良い男だな、リトル=アロンダイト。敵に情けではなく、心の底から敵の死を悼んでいる。ヒロ=ハイルにしてもそうだ。あいつもこれまで敵と信じたセラエノの連中と戦うことに心を痛めている。だから敢えて帝都コクトゥを僅か1000程度の少数兵力で急襲し、電光石火の進撃で連合軍の出鼻を挫き、根気良く投降を促すつもりでいる。それも偽善ではなく、本気だから……、俺も頭が下がる。」
「君だって色々軍略や策略、果てはえげつない謀略までその頭で描いているじゃないか。自分のためじゃなく、誰かのために…。一見あくどいけど、出来る限り被害を最小限にはしている。ヴァルハリア領民やフウム残党の中でも、死なせちゃいけない人は死なないように手を打っている。悪ぶっちゃいるけど、君こそ心から相手の死を悼んでいるんじゃないのかな?」
よせよ、と言いたげにハインケルは気だるそうに手を振った。
再び無言。
ハインケルは口元を手で隠し、ぼんやりと遠くを見るような仕草で長考の構えに入った。
時折、目だけチラリと僕を見る。
「……訂正だ、リトル=アロンダイト。お前は本当に嫌なやつだな。」
「ありがとう、ハインケル。君は本当に良いやつだね。」
舌打ちして、ハインケルはそっぽを向く。
今にも悪態を吐きそうな不機嫌な表情を浮かべているが、彼の耳だけが真っ赤に染まっているのを僕は見逃さなかった。
照れている。
このままからかっても面白いかもしれないが、それはそれで本当にハインケルの怒りを買いかねない。
地位もある。
名誉もある。
何より圧倒的な力がある。
でも、今目の前にいる彼は紛れもなく17歳の少年なのだと思うと僕は嬉しくなった。
「……何が可笑しいんだ。」
「あ、笑ってた?いやいや、何となく気が晴れただけだから。」
「……………………いつか殴る。」
程良く冷めたお茶を一気にハインケルは煽った。
よく……、そのお茶を一気飲み出来るね…。
そのお茶……、紅茶葉どころかジパング茶葉でも、薬草やハーブの類でもないんだ。
実は、何の葉っぱかわからないんだよね。
ゲイオルーク伍長が『食べられるかもしれない、きっとたぶん。』とか言って、どこからか採ってきた野草で、そもそも本当に食べても大丈夫なものなのかすら怪しい野草を大量に干して、じっくり乾燥させて作った茶葉なんだ。
噂では便所の隣に生えてたらしいけど…。
何も知らないカタリナは、来客時にお茶として客に振舞ってはいる。
ハインケルには悪いけど、真相は伏せておこう。
彼も真実を語らないから、お相子になって調度良いだろう。
………たぶん。
「……で、ハインケル。状況は良くないって言ってたけど、どう良くないんだい?」
「………ああ、そうだな。元々、そのつもりで俺はお前のところに出向いてきたんだからな。」
僕らもよくわからない謎のお茶を楽しんでいたハインケルはカップを静かにテーブルに置くと、地図に置いた駒を手に取り、彼らしく率直に説明した。
「この駒が帝国軍…、つまりセラエノの連中も含んでいる。よせば良いのに、連中は民草を引き連れて帝都、いや旧帝都コクトゥと言えば良いな。旧帝都を脱出した訳なんだが、民草を引き連れている限り帝国軍は、否が応にも機動力を殺さざるを得ない。」
「ふむふむ…、つまり……ヒロ=ハイル上級大将の騎兵隊がそこに追い付く、ということだね。」
そう、と言ってハインケルは、ヒロ=ハイルと思しき駒を物凄い速さで動かした。
「ちょっと!?」
「どうした、この駒の動きが速すぎるとでも言いたそうな顔しているじゃないか。速いんだよ、冗談抜きに。あの男、本気で新皇帝を降伏させるつもりだから、足並みなんて考えずに我武者羅に兵を進めているんだ。馬鹿王の本隊が合流する前に降伏させることが出来れば、新皇帝やその一味の助命も夢じゃない。自ら降伏してきたとなれば、宗教馬鹿も助命を認めるかもしれない。」
宗教馬鹿と罵られているのは、僕ら連合軍の一応の最高権力者であるヴァルハリア教会大司教ことユリアス大司教のこと。
馬鹿王、宗教馬鹿で通じ合えるあたり、僕にもハインケルにも彼らを敬う気持ちが欠片もないことがわかる。
「あれでも馬鹿王より地位は上だからな、あの宗教馬鹿も。何よりあの宗教馬鹿は、馬鹿王よりも簡単に丸め込める。もしも降伏してきたなら……、ヒロ=ハイルの手助けになるのは癪だが、俺も手を貸さないでもない。」
ハインケルの『手を貸さないでもない』は『貸してやる』ということらしい。
もっとも降伏はしないだろう、とハインケルは言葉を繋げた。
「降伏しない、というのは?」
「簡単だ。帝国軍が連れている民草は弱点であり、利点でもある。」
どうして弱点が利点なのか、それがわからず僕は首を捻る。
するとハインケルは本当に安堵したように微笑んだ。
「お前は本当に良い男だ。出来ることなら、この戦争が終わってもそのままでいて欲しい。」
そう言って、民草を表す駒を地図のある一点に固定した。
「いざという時は、この重荷の民草をすべてここに捨ててしまえば良い。」
「そんな……!?」
そんな非道なことを、という言葉が最後まで出なかった。
民草を捨ててしまえば良いという地点は、大軍が通るには非常に時間のかかると予想される場所。
狭く、道は悪く、険しいと思われる場所である。
誰かが生き残るためには…。
ハインケルの言葉を聞いて、それが納得出来てしまった自分に、酷く自己嫌悪した。
「ヒロ=ハイルの率いる部隊は、本来の編成とは大きく違う。ヒロ=ハイル本人の部下だけでは足りず、フウム残党が大勢混ざっているのがあいつには不利益。新皇帝には大きな利点になっている。あいつの本来の部下だけなら民草に手を出すことはないが、フウム残党は訳が違う。一応、形だけの騎士道とやらを叩き込まれているが、帝国の民草は悪魔の類だという建前の下、兵も民も自分たちの鬱憤を晴らす道具として、お構いなしに惨殺するだろう。あいつはその部下の凶行を鎮圧することに追われ、民草を切り離した帝国軍はフウムの連中が起こす凶行に乗じて素早く離脱し、新帝都、もしくはセラエノ軍本隊と合流を果たす。」
帝国軍の駒が地図上から消える。
ハインケルの予想、今後の対策に、不愉快ではあるけど僕は頷くしかなかった。
すでに彼の部下が新皇帝に接触し、今頃は自身の献策を採用しているはずだとハインケルは言う。
果たしてそうなのか…。
確かに新皇帝・紅龍雅は優れた武人であると同時に優れた戦略家でもあった。
あの人なら、そうするのだろうか…。
僕が自己嫌悪と答えの出ない思案に暮れていると、ハインケルは急にそっぽを向き、優しい声で語り掛けた。
「まぁ、俺ならそうするという話だ。事実、こうすることが………紅龍雅やノエル=ルオゥムたちみたいな、次の時代を生き残るべきやつらが一番手っ取り早く、しかも誰にも恨まれることなく生き残れる方法だ。民草は自分たちの命を盾に新皇帝や先帝を逃がすだろう。万全を期すためにクロコには、民草どもが自発的にそう行動するように煽動する指示を出している。あいつの隠密能力は、そういう時に大いに役立つ。誰にも恨まれず、重要人物を逃がすことが出来る状況を作れるなんて…、なかなかないもんだぜ…。出来ることなら………、俺の思い通りに事が運んでくれることを祈る。」
ハインケルが、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
今になってわかった。
ハインケルも、ギリギリの選択だったんだって…。
「でも……、ヒロ=ハイル上級大将たちの目的は帝都陥落だろ?皇帝は逃してしまっても、帝都を少数の勢力で陥落させれば、それは物凄い手柄じゃないのかな。それがわからない彼とは思えない。」
僕がそう言うと、ハインケルは少し意外そうな表情を浮かべた。
「……お前、実戦経験は少ないって言ってたよな。しかも城攻めの経験はゼロだって。」
「それは馬鹿にしてる?」
少し意地悪に答えると、ハインケルは慌てて手を振った。
「いや、悪い。馬鹿にしたつもりはなかった。その通り、ヒロ=ハイルは気が付かない訳がない。帝都はおそらく空っぽに近い。歴代皇帝の宝物もすでに新帝都へ移送されているし、略奪出来るものは食料ですら乏しいだろう。残っているとすれば、精々旧帝都を離れ難い者たちだけ。ヒロ=ハイルであれば、紅龍雅説得を一旦諦め、実質陥落したコクトゥに入って、旧帝都を離れ難い人心を落ち着けさせ、連合軍への恭順を説き、連合軍への心からの降伏の願う。その上で宗教馬鹿や現在別行動を取っている馬鹿王を迎え入れる。そうすれば旧帝都は連合軍にとっては最重要拠点となり、未だ帝国領内に残る人民に連合軍がただの殺戮者でないこともアピール出来る…。もっとも、この場合は連合軍への求心力ではなく、やつ自身への求心力を集めるだけなんだが、あいつはそこまで考えていないだろうがな。」
聞いているだけで、桁外れな手柄だと思えてしまった。
帝都陥落、しかも実質もぬけの殻だから兵卒一人の犠牲も出さない無血開城そのものになるだろう。
そんなことを実行出来る者は、一体どれだけの天運に恵まれた人間なのだろうか。
それが実現したら、敵将の首を二つ三つ挙げたところで、その功績には到底及ぶものではない。
「間違いなく彼なら、そうすると思う。でも…、それが何故逃げる皇帝を追わなきゃいけないんだ?」
「ヒロ=ハイルだけならな。だが、旧帝都に辿り着いても、そこには望むものがない。」
望むもの、と聞いて首を傾げる。
手柄なら、そこに転がっているじゃないか…?
いや、待てよ…。
それはヒロ=ハイル……、いや、ある意味で傍観者にとっての手柄じゃないだろうか…。
価値観の違いだ。
よく考えて……いや、この場合は考えない方が良いんだ。
彼の傍にいるのは、騎士道精神の塊という部下ばかりではない…。
ヴァルハリア領民に負けず劣らずという、醜悪な邪鬼が傍に大勢いるじゃないか。
「気が付いたな。そうだ、あいつの周りには…。」
そうだ、フウム王国残党がいる。
彼らにとって、手柄とは帝都陥落ではない。
あくまで『神敵』の同胞である新皇帝・紅龍雅や先帝・ノエル=ルオゥムたちの首なんだ。
「首でなくても良い。要は自分たちの欲望を満たしたいだけだ。今まで散々煮え湯を飲まされたのに、むざむざ逃がしてたまるものか、という逆恨みだ。犯しても、侵しても、冒しても、何度殺っても足りない人間の醜く、抗い難い本能にも似た純粋な部分が、帝国軍や民草の撤退を許さないし、赦さない。連中が帝都無血開城がどれ程大きな手柄かを認識しているかは怪しいが、ヒロ=ハイルは恐慌状態に陥る連中をやがて抑制出来なくなり、今度は逆に紅龍雅たちを助けるために帝国軍を追いかけなきゃならなくなる。自分が率いるのではなく、率いられる感覚でな。」
淡々と話すハインケルの目に、暗い光を見た僕は、ゾクリと背筋が凍った。
彼は、一体どれだけの人間の闇をその目で見てきたのだろうか。
「だからヒロ=ハイルは帝国軍に追い付かされる。皇帝の首を挙げんと、目に見える手柄だけに目を奪われた、クソみたいに無価値な俗物どもに強要されてな。まったく……腹が立つ。俺の策をぶっ壊した張本人が、無価値なゴミに振り回されるなんてよ。」
ハインケルは不機嫌に言葉を吐き捨てて、冷めてしまったお茶を一気に飲んでしまった。
イライラとした仕草で、人差し指でヒロ=ハイル上級大将を表す駒を何度も弾き飛ばす。
好敵手、という言葉で括って良いのかはわからないが、ヒロ=ハイル上級大将は魔界勇者ハインケル=ゼファーにとって、ある意味で自分と同等の価値観で見れる唯一の人物なのだろう。
それは友情、或いは慕情に近い感傷なのかもしれない。
「………リトル=アロンダイト。」
「何だい?」
「…………あまり人の顔をジロジロ見るな。」
ごめん、と僕は笑って言った。
もしかして、顔を見られることで自分の内面を覗かれるの思ったのか。
「ハインケル、お茶のお代わりいるかい?」
「……………よこせ。」
こちらを見ずに、ハインケルはお代わりを要求する。
その姿が何だか可笑しくて、僕は外で待機しているだろうと思うカタリナに声をかけた。
もしも、僕に弟がいれば……、こんな関係だったのだろうか…。
そう思うと、ハインケル=ゼファーという男が、そう悪い人物だとは思えなくなっていた。
「…………邪魔を……するぞ…。」
お茶のポットを手に取って現れたのは、僕が声を掛けたカタリナではなく、沈黙の天使騎士団団長にして僕を育ててくれた義父と呼べる人、ファラ=アロンダイトだった。
「義父上!?」
「……何だ、ファラ=アロンダイト。」
突然の来訪に驚く僕と、義父上に対しても呼び捨てるハインケル。
そんな僕らの様子が楽しいのか、珍しく微笑むような柔らかい表情を義父上は浮かべると、ハインケルが所望した原材料不明ではあるものの、暖かそうな湯気が昇る謎のお茶のポットをハインケルの傍に置き、地図上に展開された連合軍と同盟軍の動向を示す駒を興味深そうに眺めていた。
「………ん、この香りは…。」
義父上を無視して手酌でお茶をカップに注ぐと、ハインケルは立ち昇る香りに思わず手が止まる。
まさか……産地がバレたのか…。
「…新しくも芳醇な香り。それでいて新緑の森の如き爽やかさ。ファラ=アロンダイト、この茶葉は新茶だな!?それも絶妙なブレンドと程良い焙煎で旨みと香りを増した最上級品…。やるな、さすがは俺が目を付けた男だけはある!」
思わず椅子から滑り落ちそうになった。
ハインケルが……、あのハインケルが……、目を輝かせて、義父上の持って来たお茶に感動している。
「………ゲイオルークが……改良した…らしい…。」
「やはり!そうか、ゲイオルーク。お前のところの伍長か。あの男はこんな素晴らしい才能を秘めていたぞ。きっとこの戦争が終われば、伝説的なティーソムリエとして世界中に名を轟かすだろう。ああ、ファラ=アロンダイト。それにリトル=アロンダイト、心配するな。この俺の悪逆勇者の名に賭けて、彼もまた次の時代を生きるべき人間として、しっかり五体満足で生き残らせてやる。」
ハインケルは勘違いをしたまま、上機嫌にカップのお茶の味と香りを楽しんでいた。
原材料がバレたら殺される…。
僕も、義父上も、ゲイオルーク伍長も…。
それにしても彼がここまでお茶が好きだったは意外だった。
一見無趣味な冷血漢に見えなくもない。
しかし、こうやって無邪気にお茶を楽しんでいる姿は、年齢よりもやや幼く見える。
もしかして……彼もまた、僕と同じように幼少期を殺された生い立ちだったのだろうか。
「…………………ハインケル…………これは……帝国…か…?」
地図上から退けられた大きな駒を見て、義父上は疑問の声を上げた。
「ああ、そうだ。俺の……、いや紅龍雅程の冷静な軍略家であれば、絶対に取るであろうという行動だ。」
ハインケルの言を補足するように、僕はハインケルが語った連合軍と同盟軍の予想される動きを説明した。
義父上は一つ一つ、頷きながら駒を動かして確認していく。
だがその手の動きが、ある一手を説明した時にピタリと止まった。
「…………………………違う。」
義父上の言葉に、ハインケルの眉が僅かに上がる。
「おいおい、ファラ=アロンダイト。何が違うんだ。まぁ、お前より遥かに年下の俺の完璧な推測が面白くなくて、ケチを付けたい気持ちもわからなくはねえ。一応何が違うのか聞いておいてやるよ。たちどころにケチ付けたことを後悔させてやるけどな。」
「………………………………こ、………ここだ…。」
義父上の言葉が僅かに詰まる。
ハインケルは義父上が動揺していると受け取ったように笑顔を浮かべたが、僕はその言葉の詰まりが、義父上の頭の中で何万言、何十万語、何百万行にも及ぶ言葉の中から、本当に必要な言葉を取り出している作業なのだと知っている。
義父上は、言葉が出ない。
ネヴィア義母さんを失い、獄を抱いた深く冷たい絶望の日々の中のどこかに置き忘れてしまった。
僕はそう認識している。
「………………………紅……は……逃げぬ…。」
「はっ、何を馬鹿な。」
話にならない、と言いたげにハインケルは義父上を鼻で笑った。
「あいつらもわかっているはずだ。このくだらない戦争において、最悪の敗北とは兵を失うことではなく、あくまで自分たち、紅龍雅やノエル=ルオゥムみたいな重要人物が戦場で消えてしまうことだ。それが逃げない?馬鹿馬鹿しい、苦し紛れのケチにしても苦しすぎるぜ、ファラ=アロンダイト。ノエル=ルオゥムはともかく、紅龍雅は生粋の軍略家だ。兵を犠牲にして、民草どもを犠牲にしても、自分たちが生き残るという確実な方法を手堅く使うに決まっているだろう。」
「…………………………お前は…………若い……な…。」
そう言って、義父上は紅龍雅を示す駒を手に取る。
義父上が再びその駒から地図上で手を放したのは、まさにハインケルが民草を切り離し、ヒロ上級騎兵大将の率いるフウム兵への生贄として犠牲とすべきだと示した地点だった。
「……おい、ファラ=アロンダイト。駒を間違っちゃいないか?そこに留まるのはお荷物と言える民草どもだ。紅龍雅はそこじゃねえ。紅龍雅は…。」
さっさとこの地図から消える、と言ってハインケルは義父上から駒を取り上げようとするのだが、義父上は首を横に振り、間違っていないのだとハインケルにもわかるような仕草で答えた。
「………………………あの男は………軍略家……戦略家の…類に……あ…あらず…。」
「じゃあ、何だって言うんだ。」
「………………ぶ……武人だ…。」
それも騎士物語にしか登場しないような武人である、と義父上は言葉を続けた。
紅龍雅という男は、不当な権力から民を守護し、如何なる時も民を見捨てない武侠の者であると言う。
義父上の言葉が正しいのであれば……。
「それこそ馬鹿馬鹿しい。そんなもの神話伝説の類じゃねえか!?」
そうだ、神話や伝説だ。
古今、歴史として人々の生き様が記録されるようになって以来、そのような人物は存在しない。
王家や聖人として名を残す人物が、そういう所業を多々記録されてはいるものの、その多くは都合の良い風聞を得たり、自らの血筋の良さを示す道具に使ったり、また宗教的プロパガンダのために人々を集めるために捏造されたものばかりだ。
……あまり思い出したくはないけど、義父上に引き取られる前、地方教会の高僧だった実父もそうだった。
実父として接してもらった記憶はないけれど、彼が何をしていたのかは妙に覚えている。
たぶん、1歳か2歳くらいの記憶。
記憶と呼ぶには曖昧なものだけど、彼の偽善的な微笑が嫌いだったのを覚えている。
それは実子の僕には決して向かうことのない慈愛。
決して手の届かない愛情に、飢えにも似た渇きを感じていたあの頃。
義父上と義母さんの愛情が、どれだけ僕の心を救っただろうか。
……トラウマかな。
こんな記憶が時々蘇ってしまうのは。
「………………俺は………天を………か……神を……信じぬ…。……だ…だが……、時代は……紅を……遣わした…。」
「何を根拠に…!」
「………………………俺が……刃を……交えた…。」
刃を交えたから、と義父は自信に満ちた表情で答えた。
それだけで、ハインケルは言葉が出なくなり、苦虫を潰したような表情を浮かべる。
そうだ、これだったんだ。
僕の中でハインケルの予想に納得しつつ、納得出来ない部分があったのは…!
僅かばかりとは言え、僕は彼の一太刀を受けた。
命辛々の生還ではあったけど、あの一太刀はあんなにも雄弁だったじゃないか。
あの人は、あのヒロ上級騎兵大将が憧れた紅龍雅は、人々を捨てて逃げるような男じゃない。
「…………紅は…領土も……権力も…血筋も…必要とせ………せず……ただ民の声のみで………天を掴み………民の心に住まい…………無限に広がる……て…天下の主たる……資格を持つ…。………ハインケル……、……お前の…予測は……見事…だ…。……だが……、お前は人を………知りつつ…人を省みな…い……。………お前は……もっと…民に……人に揉まれろ……。……策に…誤りはない……が…お前は………あまりに……人間……というもの……を……知らない……。」
義父上の言葉にハインケルは反論するのではなく、ただ舌打ちをしてカップに口を付ける。
人間を知りつつ、あまりに人間を知らない。
それは彼が多くの人間を軽視しているところなのか…。
軽視するあまりに、多くの策をヒロ上級騎兵大将に潰されたのは、それが大きな要因ではないだろうか。
僕はそんなことを考えながら、義父上とハインケルの論議に耳を傾けつつ、ハインケルを観察していた。
ハインケル=ゼファーという未完の傑物が描く未来に興味を引かれながら…。
この後も日が暮れるまで、僕らは多くの『もしも』を議論していた。
その多くの『もしも』が現実として起こらないことを祈りながら。
しかし、数年経った頃に僕らは思うのだ。
ああ、あの時語り合った『もしも』は、その後に起こった悲劇への衝撃を和らげるためのものだった。
いくつもの後悔と乗り越えてきた別れを胸に、
そう自分に言い聞かせて、この日のことを何度も思い出す。
13/05/19 22:50更新 / 宿利京祐
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