薔薇と蜘蛛
時は天下泰平。
権現様こと徳川家康公が無事に130歳の誕生日を迎えて、人々が『実は本物の権現様は遥か昔に逝去されていて、大御所様として政を行っているのは刑部狸が化けているのでは』という例え真実であっても、悩んだところでどうしようもない不安が一種の笑い話となっていた頃のお話。
どういう訳か、我が家には一本だけ薔薇の木がある。
私が植えた訳ではなく、今は亡き両親も祖父母も植えた覚えはなかったと言う。
昔はそれはそれは立派なものだったのだが、先代たちとは違って私は植物に対する興味を持ち合わせておらず、手入れが面倒なために二尺五寸ほどまでいつだったか短く切ってしまった。
植木趣味(むしろ植木道楽)の知り合いに怒られるほど無計画に無造作に切ってしまったにも関わらず、何故かそれでも毎年必ず、真っ赤な美しい花弁を一輪咲かせる姿には自然に対する敬意を抱かずにはおれない。
先述したように、私には植物を育てるという行為には興味はない。
十石余りの扶持を貰ってはいるが、武士とは名ばかりの無役の貧乏一人身。
ちなみに嫁の当てもない。
武芸もそこそこ、学問もそこそこ、家柄悪しでは致し方なし。
武士であるが故に金ばかり出て行って私一人の生活にもあまり余裕はなく、当然のように傘張りなどの内職で賄っているが、下男を雇う余裕もないので当然庭も家も荒れ放題。
雑草だけなら問題はないのだが、本格的に夏を迎えると蚊などの害虫が心配になってくるので、いつまでもこの荒れ放題を放置しておく訳にもいかないと、私は一念発起して庭の草刈をすべく、物置にしまい込んだ錆びに錆びた鎌を見付け出すと、溜息混じりで雑草に覆い尽くされた庭という魔界に踏み込んだ。
そこで私は目を奪われた。
私の背丈の半分ほどに成長した雑草で覆い尽くされた庭で、真っ赤に咲き誇る一輪の薔薇をじぃっと見詰める大きな蜘蛛の妖かし。
私の存在に気付いてはいないらしく、大きな蜘蛛の妖かしは食い入るように薔薇の花を見詰めており、時折『ほぉ…』とか『ふぅ…』と言った何とも背筋がゾクリとするような艶のある溜息を柔らかそうな桜色の唇から漏らしている。
荒れた庭と咲き誇る一輪の薔薇、そしてそれを見詰める蜘蛛の妖かし。
その組み合わせがこれほどまでに美しいとは思わなかった。
いや妖かしそのものを目にするのは初めてだったのだが、私は人ならざる者に出会った恐ろしさよりも、蜘蛛の妖かしの美しさに心奪われてしまい、恐怖を忘れて手にしていた鎌を落としそうになった。
「あの……。」
何と声をかけて良いかもわからぬまま私は彼女に声をかける。
すると彼女は短い声を挙げて、やっと私の存在に気が付いた。
「……薔薇、お好きですか?」
そう問いかけると蜘蛛の妖かしの顔は赤くなり、そしてそのまま両袖で顔を半分隠して俯いたまま、恥ずかしいのか消え入りそうな声で『はい』と短く答えてくれた。
ああ、何だ。
おどろおどろしい講談や芝居小屋の出し物と違って、異形なる者もこうして見ると何とも素直で可愛らしいじゃないか、と私は内心認識を改めていた。
「何もお構い出来ませんが、縁側へ上がりませんか?」
「……お邪魔ではありませんか?」
お邪魔なんてと私は笑って、縁側から家に上がると押入れから、先祖の法要の時に寺の坊主が座るような上等な座布団を手に取ると、彼女にその座布団に座ることを勧めた。
「それではお言葉に甘えまして。」
と彼女は可愛らしい笑顔で座布団の上に腰を落ち着けた。
蜘蛛の下半身ではあるものの、その所作物腰はまるで貴人のそれである。
「あら……ここから見る薔薇も素敵…。」
なるほど、彼女の言う通りだった。
雑草は生い茂り、荒れ果てた庭に薔薇の真っ赤な花は小さいものの良く栄える。
時折聞こえてくる艶のある溜息を聞きながら、私と彼女はしばし無言で庭を眺めていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「申し遅れました。女郎蜘蛛の蓮華と申します。」
人ならざる者の急な来訪とは言え、私は来客に対し何のもてなしもしていなかったことに気付き、慌てて台所からお茶の入った急須とお茶請けの大根漬けをお盆に乗せて縁側で待つ彼女の下に戻ると、彼女は上手に三つ指を突いて深々と頭を下げると自らの名を名乗った。
やはり貴人のような物腰で、言葉尻にかなりの教養を感じさせる。
「家主様のお断りもなく、お庭を踏み荒らしましたことお詫びさせていただきます。」
「あ、いえ、お気になさらず!」
私は慌てて蓮華と名乗る彼女の謝罪を遮った。
この漂う知性と気品を考えれば、どこかの名のある神かもしれない。
そう感じた私は申し訳なさそうに頭を垂れる蓮華さんに、逆にこのまったく手入れしていない庭に踏み入らせ、尚且つそのようなことで頭を下げさせてしまったことに申し訳なさを感じていた。
「私はこの家の主で真田 兵衛と申します。」
「あらあら……まぁまぁ…真田、ですのね。あの有名な?」
「あ………いえ…まぁ…その…。」
私の苗字を聞いて蓮華さんは感嘆の声を挙げた。
そう思うよな、普通。
残念ながら大御所様を最後まで苦しめたという『日の本一の兵』と言わしめたあの真田家と同じ苗字ではあるものの、残念なことに私とは何の縁もゆかりもないために誤解を招かぬようにと表札すら出していない。
そのことを蓮華さんにしどろもどろで伝えると、彼女は楽しそうに目を細めた。
「でも素敵な話ですね。かの有名な真田と同じ苗字だなんて。」
「いやいや、とんでもないですよ。大大名家と同じ苗字なんてまるで針のムシロに座る心地しかしませんし、いずれお上に申し上げて苗字を変える許可を頂こうかと思っている次第でして。」
口元を袖で隠して、蓮華さんが笑う。
コロコロと鈴がなるように朗らかで綺麗な笑い声が、長らく一人暮らしで染み付いた無言を払拭するように部屋に染み込んでいく錯覚を覚える。
「蓮華さんは、江戸の方ですか?」
「生まれは伊豆です。ですが幼い頃に奉公に出されてからは江戸住まいですね。」
人ならざる者の世界にも奉公というものがあるらしい。
聞けば蓮華さんは俺よりもずっと年上で(正確な歳は教えてくれなかった)、江戸にはかなり長い間住んでいるのだという。
妖かしの言う『かなり長い間』なのだから、人間で言う十年二十年なんてものではないだろう。
「では、折角ですのでお茶をいただきますね。」
あまり上等ではない蚤の市で二束三文で買った湯のみなのだが、彼女が手に取るだけで二束三文の湯飲みは、千両万両もするような大名物に化けたように感じられた。
「ああ……良い香り…。」
湯飲みから立ち昇る香りを楽しみ、ゆっくりとお茶を啜る。
一つ一つが実に絵になる。
私はただ、お茶で濡れた唇に目が釘付けとなっていた。
「あの……すみません…。もっと良いお茶葉があれば良かったんですが…。」
「そんなことはありませんよ。」
蓮華さんはやさしく湯飲みを手で包み込むと穏やかな表情を浮かべて言った。
「私を精一杯もてなそうとするお心が嬉しいのです。見ず知らずで勝手にお庭に侵入したにも関わらず、あなたは精一杯丁寧にもてなしてくださいました。兵衛様の素朴な優しさ、それが堪らなく幸福でならないのです。」
一口湯飲みを啜ると、彼女は幸せそうな溜息を『ほぅ』と吐く。
外で今年最初の蝉が啼いている。
夏がもうすぐそこまで来ている証拠なのだ。
「風鈴……出しましょうか…?」
蝉と風鈴の掛け合わせ。
風流と感じ取ったのか、蓮華さんは目を細めて微笑んでいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
楽しい時間というものは、あまりに過ぎ去るのが早すぎる。
幼い頃から感じていたことだが、それは年々速さを増しているような気がする。
孤独と静寂を忘れられたこの時間を終わらせたのは、悲しいかな天の恵みとも言える雨だったというのは皮肉以外の何者でもないだろう。
「あ……。」
突如降り始めた激しい夕立に蓮華さんは短い声を挙げた。
ポツリと降り始めた雨は、あっという間に激しさを増していき、気が付けば二人で眺めていた景色をまるで雨の線が見える程までに埋め尽くし、あたりに真新しい土の匂いを漂わせていた。
「大変、今夜はお座敷が…。もうこんな時間に…。」
お座敷、と言うと蓮華さんは遊女なのだろうか。
昔からの知り合いに、私と違って家柄の良い男で吉原狂いの助平がいるのだが、大変珍しいものが好きで阿蘭陀人の遊女目当てに長崎まで足を伸ばすような彼から、吉原に彼女のような妖かしがいるとは聞いたことがない。
つまり、彼女は吉原のお座敷ではなく……、どこかの御大臣個人のお座敷なのか…。
彼女程美しい女性をお座敷に上げるには……どれ程の金を積まねばならないのだろう…。
嫉ましい…。
気が付けば顔も分からぬ御大臣の腕に抱かれる彼女を思い描き、私は正体の知れない激しい嫉妬と自己嫌悪に囚われて、邪念と妄想を振り払うように頭を振った。
何を考えているのだろうか。
初対面だというのに、私は一体何を…。
「勝手にお邪魔をして長居をしてしまって申し訳ありません。兵衛様のおもてなしにすっかり気を良くしてしまい、兵衛様のご都合も考えず…。」
まだ雨が降っている。
彼女はそれでもお座敷に間に合うようにと帰り支度をしていた。
「……蓮華さん、傘はお持ちですか?」
「いえ、雨が降るとは思いもしなかったので…。」
濡れ鼠で帰ります、と笑顔で言う彼女が本当に綺麗で…。
蓮華さんを濡れ鼠で帰してはいけない。
そう思った私は彼女に少しだけ待っていてほしいと言い残して玄関まで走ると、以前内職の報酬のついでに貰った新品の唐傘を手に取って縁側まで戻ってきた。
「あの……これを…、良かったら使ってください…。」
「え………あの…よ…よろしいのですか…?」
少しばかり大きめに作られていて、内職の賃金が足りないからその代わりにと半ば版元に押し付けられた唐傘ではあるが、これならば彼女の蜘蛛の半身を完全には覆えないとしても、濡れる面積を少なくすることは出来るだろう。
「この雨です。ずぶ濡れになったら風邪を引きます。」
心に嫉妬は残っている。
それでも悟らせまいと、私は出来る限りの笑顔で蓮華さんに傘を手渡した。
彼女は傘を抱き締めたまま何か言おうと口を開くが、何度も口を噤んだり、真っ赤になって俯いたりして、最後には嬉しそうにはにかんだ顔を私に見せてくれた。
「兵衛様……、縁(えにし)が出来ましたね。」
「…え?」
ススス、と蓮華さんは私に擦り寄ると、まるで陶器のように美しい指で私の手を握る。
距離が、あまりに近い。
「私は一期一会のつもりでした。兵衛様の庭の薔薇があまりに美しく、勝手に入り込んだのは本当に偶然。兵衛様の如く良きお方と出会ったのも何かの縁だと思いましたが、あなたの如く良きお方を妖かしの縁に巻き込むのも少々気が引けておりました。ですからこの稀有な出会いを大事な思い出にしようと心に決めておりましたのに…。」
それも無理です、と蓮華さんはグッと顔を近付ける。
魔に魅入られるとはこのような心地なのだろう。
目が、離せない。
甘い吐息を漏らす唇に鼓動は高鳴っていく。
「あなたは親切心で傘を貸してくださいました。私はこの傘を持って、再びあなたを訪ねます。偶然の一度きりと心に決めましたのに、必然の二度目の出会いが待っているのであれば、これを縁と呼ばずに何と呼べばよろしいでしょう…。」
不意に視界が白い壁に塞がれた。
梵字に似た文字が書かれた紙が私の視界を塞いでいるのだと気が付くには、少々彼女にのぼせ上がっていた頭では時間がかかった。
「私は隠り世の『与祇原』で太夫をしております。この紙は言わば通行手形。この紙を持って、夕暮れに浮世と隠り世を行き来する船を川のほとりでお待ちくだされば与祇原へ船頭が導いてくれるでしょう。」
言い終わるか終わらぬかの内だった。
しっかりと私の首に腕を絡め、通行手形越しに彼女は私と唇を重ねた。
紙越しに感じる彼女の体温に気持ち良くなり、目を閉じて絹のように気持ち良い彼女の長い髪ごと抱き寄せると、一瞬だけピクリと身体を震わせ、すぐに私に身体を預けてお互いに無言で体温を感じ合っていた。
そしてフッと力が抜ける。
蓮華さんは名残惜しそうに唇を放すと、今度は私の左小指を咥え込んだ。
ねっとりと舌を這わせ、まるで飴を舐めるように私の指を舐る姿に軽い興奮を覚える。
「………はぁ。」
蕩けたような赤い顔で、蓮華さんは私の指を解放した。
彼女の唾液で濡れた小指は、ぬらぬらとした妖しい輝きを放っていて、私はこれだけのことで、まるで性行為に及んだかのような不思議な切なさと愛しさに心が満たされていた。
よく見ると、私の小指にはキラキラとした細い糸が巻き付いている。
これは何かと訊ねると、恥ずかしそうな困ったようなと曖昧な笑みを浮かべて彼女は答えた。
「……兵衛様、もしも浮世に飽きてしまいましたらこの糸をお引きください。兵衛様が私への未練がなくなった時、この糸は切れてしまいますが……、もしも未練が断ち切れないのであればこの糸を引き寄せてくださいまし。その時は――――――。」
目が覚めるとあれだけ激しく降っていた雨は小雨になっていた。
家の中は私一人。
夢だったのかと疑ってみたが、縁側に座布団と湯飲みが二つずつ。
そして私には読めない通行手形らしき証文が一枚。
そうか……、帰ってしまったのか…。
そう思うと私はひどく寂しい気持ちになった。
「これが恋なのかな…。」
考えてみれば初恋もまだだった気がする。
妖かしとは言え、あんな極上の美女を相手にあんなことを…。
思い返すと顔から火が出そうだ。
彼女の香り、柔らかい肌の感触、艶やかな髪。
柔らかな唇を重ねた時の高揚感は何とも言い難かった。
左の小指にはまだ彼女の舌の感触が残っている。
寝転がって天井に手をかざして見ると、小指にキラリと透明な糸が見えた。
『もしも未練が断ち切れないのであればこの糸を引き寄せてくださいまし。』
「その時は、これが二人の赤い糸……か…。」
彼女への未練を断ち切れる自信はない。
ということは私はいずれ浮世に見切りを付け、彼女の待つ隠り世に一人戻らぬ旅に出るだろう。
それも遠くなく、限りなく近い未来に。
不思議なことに私は恐ろしいとか怖いだとか感じなかった。
例えそれが人ならざる者が住む都だとわかっていても、あの美しい女郎蜘蛛の姿をした彼女が私を思い待っているのだと思えば、それは極楽浄土に行けるという幸福に近い安心感に溺れることが出来る。
ふと庭を見ると、彼女が愛でていた薔薇の木に蜘蛛が大きな巣を作っていた。
よくよく観察してみると、それは平面ではなく縦横無尽に広がる多面的な立派なもの。
「……薔薇は…好きかい…?」
思わず声をかけてしまい、私は声を上げて笑った。
荒れ果てた庭に一輪の薔薇。
薔薇の木に掛かるは美しい幾何学模様で飾られた女郎蜘蛛の巣。
風鈴の音が夏の夕べに響き渡り、蜘蛛の巣は小雨に濡れて妖しい輝きを放つ。
次に彼女とこの風景を見る時は、果たして浮世か隠り世か…。
その時はあの人が好きなあの花を一輪贈ろうか。
権現様こと徳川家康公が無事に130歳の誕生日を迎えて、人々が『実は本物の権現様は遥か昔に逝去されていて、大御所様として政を行っているのは刑部狸が化けているのでは』という例え真実であっても、悩んだところでどうしようもない不安が一種の笑い話となっていた頃のお話。
どういう訳か、我が家には一本だけ薔薇の木がある。
私が植えた訳ではなく、今は亡き両親も祖父母も植えた覚えはなかったと言う。
昔はそれはそれは立派なものだったのだが、先代たちとは違って私は植物に対する興味を持ち合わせておらず、手入れが面倒なために二尺五寸ほどまでいつだったか短く切ってしまった。
植木趣味(むしろ植木道楽)の知り合いに怒られるほど無計画に無造作に切ってしまったにも関わらず、何故かそれでも毎年必ず、真っ赤な美しい花弁を一輪咲かせる姿には自然に対する敬意を抱かずにはおれない。
先述したように、私には植物を育てるという行為には興味はない。
十石余りの扶持を貰ってはいるが、武士とは名ばかりの無役の貧乏一人身。
ちなみに嫁の当てもない。
武芸もそこそこ、学問もそこそこ、家柄悪しでは致し方なし。
武士であるが故に金ばかり出て行って私一人の生活にもあまり余裕はなく、当然のように傘張りなどの内職で賄っているが、下男を雇う余裕もないので当然庭も家も荒れ放題。
雑草だけなら問題はないのだが、本格的に夏を迎えると蚊などの害虫が心配になってくるので、いつまでもこの荒れ放題を放置しておく訳にもいかないと、私は一念発起して庭の草刈をすべく、物置にしまい込んだ錆びに錆びた鎌を見付け出すと、溜息混じりで雑草に覆い尽くされた庭という魔界に踏み込んだ。
そこで私は目を奪われた。
私の背丈の半分ほどに成長した雑草で覆い尽くされた庭で、真っ赤に咲き誇る一輪の薔薇をじぃっと見詰める大きな蜘蛛の妖かし。
私の存在に気付いてはいないらしく、大きな蜘蛛の妖かしは食い入るように薔薇の花を見詰めており、時折『ほぉ…』とか『ふぅ…』と言った何とも背筋がゾクリとするような艶のある溜息を柔らかそうな桜色の唇から漏らしている。
荒れた庭と咲き誇る一輪の薔薇、そしてそれを見詰める蜘蛛の妖かし。
その組み合わせがこれほどまでに美しいとは思わなかった。
いや妖かしそのものを目にするのは初めてだったのだが、私は人ならざる者に出会った恐ろしさよりも、蜘蛛の妖かしの美しさに心奪われてしまい、恐怖を忘れて手にしていた鎌を落としそうになった。
「あの……。」
何と声をかけて良いかもわからぬまま私は彼女に声をかける。
すると彼女は短い声を挙げて、やっと私の存在に気が付いた。
「……薔薇、お好きですか?」
そう問いかけると蜘蛛の妖かしの顔は赤くなり、そしてそのまま両袖で顔を半分隠して俯いたまま、恥ずかしいのか消え入りそうな声で『はい』と短く答えてくれた。
ああ、何だ。
おどろおどろしい講談や芝居小屋の出し物と違って、異形なる者もこうして見ると何とも素直で可愛らしいじゃないか、と私は内心認識を改めていた。
「何もお構い出来ませんが、縁側へ上がりませんか?」
「……お邪魔ではありませんか?」
お邪魔なんてと私は笑って、縁側から家に上がると押入れから、先祖の法要の時に寺の坊主が座るような上等な座布団を手に取ると、彼女にその座布団に座ることを勧めた。
「それではお言葉に甘えまして。」
と彼女は可愛らしい笑顔で座布団の上に腰を落ち着けた。
蜘蛛の下半身ではあるものの、その所作物腰はまるで貴人のそれである。
「あら……ここから見る薔薇も素敵…。」
なるほど、彼女の言う通りだった。
雑草は生い茂り、荒れ果てた庭に薔薇の真っ赤な花は小さいものの良く栄える。
時折聞こえてくる艶のある溜息を聞きながら、私と彼女はしばし無言で庭を眺めていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「申し遅れました。女郎蜘蛛の蓮華と申します。」
人ならざる者の急な来訪とは言え、私は来客に対し何のもてなしもしていなかったことに気付き、慌てて台所からお茶の入った急須とお茶請けの大根漬けをお盆に乗せて縁側で待つ彼女の下に戻ると、彼女は上手に三つ指を突いて深々と頭を下げると自らの名を名乗った。
やはり貴人のような物腰で、言葉尻にかなりの教養を感じさせる。
「家主様のお断りもなく、お庭を踏み荒らしましたことお詫びさせていただきます。」
「あ、いえ、お気になさらず!」
私は慌てて蓮華と名乗る彼女の謝罪を遮った。
この漂う知性と気品を考えれば、どこかの名のある神かもしれない。
そう感じた私は申し訳なさそうに頭を垂れる蓮華さんに、逆にこのまったく手入れしていない庭に踏み入らせ、尚且つそのようなことで頭を下げさせてしまったことに申し訳なさを感じていた。
「私はこの家の主で真田 兵衛と申します。」
「あらあら……まぁまぁ…真田、ですのね。あの有名な?」
「あ………いえ…まぁ…その…。」
私の苗字を聞いて蓮華さんは感嘆の声を挙げた。
そう思うよな、普通。
残念ながら大御所様を最後まで苦しめたという『日の本一の兵』と言わしめたあの真田家と同じ苗字ではあるものの、残念なことに私とは何の縁もゆかりもないために誤解を招かぬようにと表札すら出していない。
そのことを蓮華さんにしどろもどろで伝えると、彼女は楽しそうに目を細めた。
「でも素敵な話ですね。かの有名な真田と同じ苗字だなんて。」
「いやいや、とんでもないですよ。大大名家と同じ苗字なんてまるで針のムシロに座る心地しかしませんし、いずれお上に申し上げて苗字を変える許可を頂こうかと思っている次第でして。」
口元を袖で隠して、蓮華さんが笑う。
コロコロと鈴がなるように朗らかで綺麗な笑い声が、長らく一人暮らしで染み付いた無言を払拭するように部屋に染み込んでいく錯覚を覚える。
「蓮華さんは、江戸の方ですか?」
「生まれは伊豆です。ですが幼い頃に奉公に出されてからは江戸住まいですね。」
人ならざる者の世界にも奉公というものがあるらしい。
聞けば蓮華さんは俺よりもずっと年上で(正確な歳は教えてくれなかった)、江戸にはかなり長い間住んでいるのだという。
妖かしの言う『かなり長い間』なのだから、人間で言う十年二十年なんてものではないだろう。
「では、折角ですのでお茶をいただきますね。」
あまり上等ではない蚤の市で二束三文で買った湯のみなのだが、彼女が手に取るだけで二束三文の湯飲みは、千両万両もするような大名物に化けたように感じられた。
「ああ……良い香り…。」
湯飲みから立ち昇る香りを楽しみ、ゆっくりとお茶を啜る。
一つ一つが実に絵になる。
私はただ、お茶で濡れた唇に目が釘付けとなっていた。
「あの……すみません…。もっと良いお茶葉があれば良かったんですが…。」
「そんなことはありませんよ。」
蓮華さんはやさしく湯飲みを手で包み込むと穏やかな表情を浮かべて言った。
「私を精一杯もてなそうとするお心が嬉しいのです。見ず知らずで勝手にお庭に侵入したにも関わらず、あなたは精一杯丁寧にもてなしてくださいました。兵衛様の素朴な優しさ、それが堪らなく幸福でならないのです。」
一口湯飲みを啜ると、彼女は幸せそうな溜息を『ほぅ』と吐く。
外で今年最初の蝉が啼いている。
夏がもうすぐそこまで来ている証拠なのだ。
「風鈴……出しましょうか…?」
蝉と風鈴の掛け合わせ。
風流と感じ取ったのか、蓮華さんは目を細めて微笑んでいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
楽しい時間というものは、あまりに過ぎ去るのが早すぎる。
幼い頃から感じていたことだが、それは年々速さを増しているような気がする。
孤独と静寂を忘れられたこの時間を終わらせたのは、悲しいかな天の恵みとも言える雨だったというのは皮肉以外の何者でもないだろう。
「あ……。」
突如降り始めた激しい夕立に蓮華さんは短い声を挙げた。
ポツリと降り始めた雨は、あっという間に激しさを増していき、気が付けば二人で眺めていた景色をまるで雨の線が見える程までに埋め尽くし、あたりに真新しい土の匂いを漂わせていた。
「大変、今夜はお座敷が…。もうこんな時間に…。」
お座敷、と言うと蓮華さんは遊女なのだろうか。
昔からの知り合いに、私と違って家柄の良い男で吉原狂いの助平がいるのだが、大変珍しいものが好きで阿蘭陀人の遊女目当てに長崎まで足を伸ばすような彼から、吉原に彼女のような妖かしがいるとは聞いたことがない。
つまり、彼女は吉原のお座敷ではなく……、どこかの御大臣個人のお座敷なのか…。
彼女程美しい女性をお座敷に上げるには……どれ程の金を積まねばならないのだろう…。
嫉ましい…。
気が付けば顔も分からぬ御大臣の腕に抱かれる彼女を思い描き、私は正体の知れない激しい嫉妬と自己嫌悪に囚われて、邪念と妄想を振り払うように頭を振った。
何を考えているのだろうか。
初対面だというのに、私は一体何を…。
「勝手にお邪魔をして長居をしてしまって申し訳ありません。兵衛様のおもてなしにすっかり気を良くしてしまい、兵衛様のご都合も考えず…。」
まだ雨が降っている。
彼女はそれでもお座敷に間に合うようにと帰り支度をしていた。
「……蓮華さん、傘はお持ちですか?」
「いえ、雨が降るとは思いもしなかったので…。」
濡れ鼠で帰ります、と笑顔で言う彼女が本当に綺麗で…。
蓮華さんを濡れ鼠で帰してはいけない。
そう思った私は彼女に少しだけ待っていてほしいと言い残して玄関まで走ると、以前内職の報酬のついでに貰った新品の唐傘を手に取って縁側まで戻ってきた。
「あの……これを…、良かったら使ってください…。」
「え………あの…よ…よろしいのですか…?」
少しばかり大きめに作られていて、内職の賃金が足りないからその代わりにと半ば版元に押し付けられた唐傘ではあるが、これならば彼女の蜘蛛の半身を完全には覆えないとしても、濡れる面積を少なくすることは出来るだろう。
「この雨です。ずぶ濡れになったら風邪を引きます。」
心に嫉妬は残っている。
それでも悟らせまいと、私は出来る限りの笑顔で蓮華さんに傘を手渡した。
彼女は傘を抱き締めたまま何か言おうと口を開くが、何度も口を噤んだり、真っ赤になって俯いたりして、最後には嬉しそうにはにかんだ顔を私に見せてくれた。
「兵衛様……、縁(えにし)が出来ましたね。」
「…え?」
ススス、と蓮華さんは私に擦り寄ると、まるで陶器のように美しい指で私の手を握る。
距離が、あまりに近い。
「私は一期一会のつもりでした。兵衛様の庭の薔薇があまりに美しく、勝手に入り込んだのは本当に偶然。兵衛様の如く良きお方と出会ったのも何かの縁だと思いましたが、あなたの如く良きお方を妖かしの縁に巻き込むのも少々気が引けておりました。ですからこの稀有な出会いを大事な思い出にしようと心に決めておりましたのに…。」
それも無理です、と蓮華さんはグッと顔を近付ける。
魔に魅入られるとはこのような心地なのだろう。
目が、離せない。
甘い吐息を漏らす唇に鼓動は高鳴っていく。
「あなたは親切心で傘を貸してくださいました。私はこの傘を持って、再びあなたを訪ねます。偶然の一度きりと心に決めましたのに、必然の二度目の出会いが待っているのであれば、これを縁と呼ばずに何と呼べばよろしいでしょう…。」
不意に視界が白い壁に塞がれた。
梵字に似た文字が書かれた紙が私の視界を塞いでいるのだと気が付くには、少々彼女にのぼせ上がっていた頭では時間がかかった。
「私は隠り世の『与祇原』で太夫をしております。この紙は言わば通行手形。この紙を持って、夕暮れに浮世と隠り世を行き来する船を川のほとりでお待ちくだされば与祇原へ船頭が導いてくれるでしょう。」
言い終わるか終わらぬかの内だった。
しっかりと私の首に腕を絡め、通行手形越しに彼女は私と唇を重ねた。
紙越しに感じる彼女の体温に気持ち良くなり、目を閉じて絹のように気持ち良い彼女の長い髪ごと抱き寄せると、一瞬だけピクリと身体を震わせ、すぐに私に身体を預けてお互いに無言で体温を感じ合っていた。
そしてフッと力が抜ける。
蓮華さんは名残惜しそうに唇を放すと、今度は私の左小指を咥え込んだ。
ねっとりと舌を這わせ、まるで飴を舐めるように私の指を舐る姿に軽い興奮を覚える。
「………はぁ。」
蕩けたような赤い顔で、蓮華さんは私の指を解放した。
彼女の唾液で濡れた小指は、ぬらぬらとした妖しい輝きを放っていて、私はこれだけのことで、まるで性行為に及んだかのような不思議な切なさと愛しさに心が満たされていた。
よく見ると、私の小指にはキラキラとした細い糸が巻き付いている。
これは何かと訊ねると、恥ずかしそうな困ったようなと曖昧な笑みを浮かべて彼女は答えた。
「……兵衛様、もしも浮世に飽きてしまいましたらこの糸をお引きください。兵衛様が私への未練がなくなった時、この糸は切れてしまいますが……、もしも未練が断ち切れないのであればこの糸を引き寄せてくださいまし。その時は――――――。」
目が覚めるとあれだけ激しく降っていた雨は小雨になっていた。
家の中は私一人。
夢だったのかと疑ってみたが、縁側に座布団と湯飲みが二つずつ。
そして私には読めない通行手形らしき証文が一枚。
そうか……、帰ってしまったのか…。
そう思うと私はひどく寂しい気持ちになった。
「これが恋なのかな…。」
考えてみれば初恋もまだだった気がする。
妖かしとは言え、あんな極上の美女を相手にあんなことを…。
思い返すと顔から火が出そうだ。
彼女の香り、柔らかい肌の感触、艶やかな髪。
柔らかな唇を重ねた時の高揚感は何とも言い難かった。
左の小指にはまだ彼女の舌の感触が残っている。
寝転がって天井に手をかざして見ると、小指にキラリと透明な糸が見えた。
『もしも未練が断ち切れないのであればこの糸を引き寄せてくださいまし。』
「その時は、これが二人の赤い糸……か…。」
彼女への未練を断ち切れる自信はない。
ということは私はいずれ浮世に見切りを付け、彼女の待つ隠り世に一人戻らぬ旅に出るだろう。
それも遠くなく、限りなく近い未来に。
不思議なことに私は恐ろしいとか怖いだとか感じなかった。
例えそれが人ならざる者が住む都だとわかっていても、あの美しい女郎蜘蛛の姿をした彼女が私を思い待っているのだと思えば、それは極楽浄土に行けるという幸福に近い安心感に溺れることが出来る。
ふと庭を見ると、彼女が愛でていた薔薇の木に蜘蛛が大きな巣を作っていた。
よくよく観察してみると、それは平面ではなく縦横無尽に広がる多面的な立派なもの。
「……薔薇は…好きかい…?」
思わず声をかけてしまい、私は声を上げて笑った。
荒れ果てた庭に一輪の薔薇。
薔薇の木に掛かるは美しい幾何学模様で飾られた女郎蜘蛛の巣。
風鈴の音が夏の夕べに響き渡り、蜘蛛の巣は小雨に濡れて妖しい輝きを放つ。
次に彼女とこの風景を見る時は、果たして浮世か隠り世か…。
その時はあの人が好きなあの花を一輪贈ろうか。
12/09/28 00:27更新 / 宿利京祐