3・「さようなら」、たった五文字の苦痛
『願い事はは何ですか?』
子供の頃の夢は、両手で数え切れない程の数。
お花屋さん、ケーキ屋さん、お姫様、それから、それから……。
でも、何より綺麗な花嫁さんになりたかった…。
『願い事は何ですか?』
今の私の願いはひどく俗っぽい。
まともに学校を卒業して、まともに就職をして……。
でも変わらないものだってある。
彼と、幸せな家庭を築きたい。
年下の彼と一緒にウェディングドレスを着て……、
一緒にバージンロードを歩いて…。
『願い事は何ですか?』
もう…………、この手で愛する人の手を握ることは出来ない。
愛する人に声も届かない。
もしも………、もしも願いが叶うなら…。
『願い事は何ですか?』
あの人に、伝えたい。
私のすべてを犠牲にしてでも…。
『たった一つだけ叶えてあげましょう。』
こーたは『だいがく』にいきました。
よるがきて、またあさになるまで、こーたはわたしのむねでないていました。
どうしてでしょう?
こーたがなきやんでくれるとおもったんだけど、こーたはわんわんなきました。
うれしくてないているって、どういうことだったのでしょう。
わたしは、あたまのなかがぼーっとしてて、うんとよくかんがえたけれど、やっぱり、かんがえても、わからないものはわかりませんでした。
きょうも、あめ。
こーたは、かさをもって、でかけてしまいました…。
うちにいれば、ぬれないのに…とおもいましたが、こーたにはどうしてもしなければいけないことがあるらしく、わたしはこーたのへやで、おるすばんをすることにしました。
とりあえず、おそうじとおせんたく。
あまり、こまめにおそうじを、していないみたいなので、ぴかぴかに。
せんたくかごに、やまずみのせんたくものを、じゃぶじゃぶと。
あれ?
おせんたくのきかいって、どうつかえばよかったのかなぁ…?
あ、うごいた。
ごうんごうん〜。
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
おせんたくがおわって、わたしはこーたがしていたように、かべによりかかってすわると、『わたし』とこーたがうつっているしゃしんをながめていました。
『いおりさん』というわたしとおなじかおのひと。
しあわせそうにわらうひと。
しゃしんのなかの『いおりさん』をみていると、わたしまでしあわせになります。
このひとも『いおりさん』。
わたしも『いおりさん』。
わたしは、きのう、こーたになまえをもらいました。
「い……おりさ…ん…。」
くちにしてみると、ほほがゆるむ。
どうしてかわからないけれど、こーたにこのなまえをよばれると、むねのおくがうれしくて、せつなくなって、こころのなかがあたたかくなってきます。
「あ………そう……だ…。」
おさんぽにいこうかなぁ。
こーたのだいがくってところまで、おさんぽしてみようとおもいました。
あめがふるけれど、わたしはあめ、へいきです。
こーたにあえたら、うれしいなぁ。
くらいそら。
おもいくも。
しとしと、しとしと。
つめたいあめ。
からだがしっている、こーたのいるばしょ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
人一人いない、川崎浩太郎の通う大学へ続く坂。
冷たく、重苦しい雨は人の足を遠ざけ、ただ静けさだけを残すばかり。
雨に濡れて落ちた落ち葉。
初夏を飾る蝉たちも声を潜め、雨は音もなく降り注ぐ。
まるで、そこはすべてに忘れられた空間。
太陽に忘れられ、人々の息遣いすらどこかに置き忘れた場所。
ただ、そこが忘れられた場所でないことの証明に、時々通り過ぎる自動車がそれなりの騒音と水飛沫を立てて、伊織の傍を走り去る。
大学の坂を彩る並木道。
伊織と名付けられたぬれおなごは、雨の中、傘も差さずにぼんやり歩く。
忘れてしまった何かを思い出せそうな…。
そんな思いが表情から見て取れる。
(………しってる…。この……さか…。)
坂から見上げる空。
坂の上から見下ろす景色。
何一つ思い出せないのに、何もかもが懐かしいと彼女は感じていた。
(もうすこし……あるいたら…。)
浩太郎の通う大学の校舎が見えてくるはず。
何も覚えてはいないのに、彼女は知っていた。
その『知っている』という事実に、伊織は困惑して足を止めた。
「……なん…で………どうし……て…?」
突然頭に去来する知識と情報が怖くなり、彼女は思わず蹲り、頭を抱えて深く目を閉じた。
押し寄せる覚えのない記憶。
楽しかったこと。
辛かったこと。
親しい人たちの顔。
そして、浩太郎が笑っていた。
「……なんで…こーたが……。…………あ…。」
街路樹の根元、伸びた雑草がその姿を隠すように、猫が横たわっていた。
冷たい雨に晒されて、誰にも看取られることなく、野良猫らしきその猫は息絶えていた。
どうやら、自動車に轢かれたらしい。
いずれ、市の清掃や保健所が片付けるのだろう。
誰もが見ても見ないふりで放置し、冷たい仕打ちに追い討ちをかけるように、死んだ猫は冷たい雨に晒されて、非対称的な安らかな表情を浮かべて二度と覚めない眠りに就いていた。
「………かわい…そう…。」
誰もが触りたがらない猫の死体の側へ、伊織はゆっくりと歩み寄った。
苦しかったろう、辛かったろうと横たわる猫の頭を撫でると
「……お……おいで…。」
せめて少しだけでも温もりを感じてほしい、と伊織は死んだ猫を抱き上げると、ぐったりとした猫を優しく包むように抱き締めた。
このまま、どこかに埋めてあげよう。
寂しくないように、どこか賑やかな場所に埋めてあげよう。
慈しむように彼女は、当初の目的を変えて、猫を埋めてあげられる場所を探しに行こうと足を踏み出したその時だった。
『こんなところで何をしているの?』
「………え…?」
誰もいない。
空耳だと思い、その場を後にしようとすると、その声はまた聞こえてきた。
『こんなところで漂っているだけじゃ、どうしようもないわ。』
「………なに…この………こ…え…。」
確かに聞こえるその声は、本当に聞こえる声ではない。
思い出せない記憶の中から、リアルに、その場で語りかけられるように聞こえてくるのである。
伊織は、その声に苦しんだ。
思い出してはいけない。
思い出してはいけない、と何かを思い出したい彼女の意思とは裏腹に、必死にその声を否定し、思い出すことを頑なに拒み続けている。
「……いや…!…………なにも……いわない…で…!」
猫を落とさぬようにしながらも、動揺に震える身体は、ブルブルと未知への恐怖に震えていた。
『心残りがもしもあるのなら……。』
「……ない…!こころ……のこ…り…なんか…!!」
いつしか叫んでいた。
どんよりと暗い空に向かって悲鳴のような声で叫んでいた。
だが、それはまるでヒビの入ったダムの如く、一度溢れ始めた記憶の波は誰にも、彼女自身にも堰き止めることは出来ず、先程とは比べ物にならない膨大な思い出が、仮初めではない『本物』の彼女を再構築していく。
「わた………しは…ワタシ……は………私は……。」
ここに来て、すべてを思い出した彼女は、悲しい表情を浮かべた。
それはすべての終わりを意味しているのだから。
彼女はそのためだけに、再びここに来たのだから。
「私は……、こーた…。」
『では契約を……、あなたの願いを叶えてあげる。』
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「酷い雨だったよ…。ただいま、伊織さん。」
「おかえりなさい…。」
土砂降りの雨の中、留年の手続きや後輩たちに挨拶を終えて、俺は夕方になってやっと、伊織さんが待ってくれている我が家に帰り着いた。
わかってはいる。
この人は伊織さんじゃない。
でも、今は伊織さんだと思いたい。
そんな俺の我が侭も、全部理解しているような微笑で、伊織さんは出迎えてくれた。
「あ、洗濯物…、してくれたんだ。ありがとうな。」
「お掃除も…してあるからね…。」
良いなぁ、やっぱり。
思い出すと寂しくなってしまうけど、俺はやっと自分を取り戻したような気になれた。
コンビニで買ったビニール傘が役に立たなくなる程の雨に濡れた身体を拭いて、リビングと呼んでいる6畳の部屋に入ると、ふわりと良い匂いが鼻をくすぐった。
テーブルの上には2つのマグカップ。
まるで俺が帰るのを見計らったように、番茶が良い匂いを立てている。
「やっぱり、誰かがいてくれるのって嬉しいなぁ。」
「そう……だね…。」
早速、淹れてくれたお茶をいただこう。
そう言って彼女の脇をすり抜けようとした時、後ろから引き止めるように彼女が、細い腕で俺の背中から抱き締めていた。
「どうしたの、伊織さん。」
回された手に、俺は優しく手を重ねる。
また錯覚。
重ねた手の感触が、やはり伊織さんとそっくりだった。
他人なのかもしれない。
それだというのに、ひどく愛しい。
「ごめんね……ごめんね…、こーた…。」
「伊織さん、何を謝るの…?」
そう言って俺は違和感を感じた。
泣いているのか声が震えている。
いや、それ以前に………、伊織さんの言葉がスムーズだ…。
「こーたと…、もっと一緒にいたかった。こーたの温もりをもっと感じていたかった。でも………ごめんね…。そういう約束だったの…。私はそういう約束の下で………、またあなたに…。」
「え……、伊織さ…。」
声が続かない。
急に温度が下がったような気がした。
「でも…それもお終い…。私は……思い出してしまったから…。」
手が震えている。
「伊織さん!」
振り向こうとすると、まるで突き放すように彼女は軽やかに後ろに飛び退いた。
ただ、唇が『ごめんね』とだけ動く。
「こーた、ありがとう。ずっと……私のことを覚えていてくれて。ずっと…愛し続けてくれて…。でも、これからは……、私じゃない誰かと幸せになって。こーたがくれた温もりを、私じゃない誰かに分けてあげてね。」
「い……伊織さん…。何言ってるんだよ…。それじゃまるで…。」
さよならみたいじゃないか、と言えなかった。
それよりも、俺は自分の思いが勘違いでないことを知った。
彼女は…、伊織さんは還ってきた。
俺の下に還ってきてくれていたんだ、と。
だが、やっと伊織さん本人なんだとわかった矢先、彼女が口にしたのは別れの言葉だった。
きっと聞くことが出来なかった。
きっと永遠に知ることがなかった彼女の最期の言葉。
「さようなら、こーた。そして、ありがとう…。私に出会ってくれて。」
思い出せるのは彼女の笑顔。
その懐かしくて、綺麗な笑顔を残して彼女の身体は崩れていく。
まるで、砂の城が崩れていくように…。
慌てて飛び出して、手を伸ばしても、俺の手を握り返すこともなく。
最初からただの水がそこに広がっているかのように、
彼女は小さな水溜りになってしまった。
「泣かないで」と耳元で思い出が囁くが、俺は彼女の名を叫び続ける。
もう一度、二度と味わいたくなかった別れ。
俺には彼女をもう一度掬い上げることは出来ず、
ただただ悲しいまでの静寂と嫌いな雨の音が
耳の奥で五月蝿く木霊していた。
子供の頃の夢は、両手で数え切れない程の数。
お花屋さん、ケーキ屋さん、お姫様、それから、それから……。
でも、何より綺麗な花嫁さんになりたかった…。
『願い事は何ですか?』
今の私の願いはひどく俗っぽい。
まともに学校を卒業して、まともに就職をして……。
でも変わらないものだってある。
彼と、幸せな家庭を築きたい。
年下の彼と一緒にウェディングドレスを着て……、
一緒にバージンロードを歩いて…。
『願い事は何ですか?』
もう…………、この手で愛する人の手を握ることは出来ない。
愛する人に声も届かない。
もしも………、もしも願いが叶うなら…。
『願い事は何ですか?』
あの人に、伝えたい。
私のすべてを犠牲にしてでも…。
『たった一つだけ叶えてあげましょう。』
こーたは『だいがく』にいきました。
よるがきて、またあさになるまで、こーたはわたしのむねでないていました。
どうしてでしょう?
こーたがなきやんでくれるとおもったんだけど、こーたはわんわんなきました。
うれしくてないているって、どういうことだったのでしょう。
わたしは、あたまのなかがぼーっとしてて、うんとよくかんがえたけれど、やっぱり、かんがえても、わからないものはわかりませんでした。
きょうも、あめ。
こーたは、かさをもって、でかけてしまいました…。
うちにいれば、ぬれないのに…とおもいましたが、こーたにはどうしてもしなければいけないことがあるらしく、わたしはこーたのへやで、おるすばんをすることにしました。
とりあえず、おそうじとおせんたく。
あまり、こまめにおそうじを、していないみたいなので、ぴかぴかに。
せんたくかごに、やまずみのせんたくものを、じゃぶじゃぶと。
あれ?
おせんたくのきかいって、どうつかえばよかったのかなぁ…?
あ、うごいた。
ごうんごうん〜。
……………………………。
…………………………。
………………………。
……………………。
おせんたくがおわって、わたしはこーたがしていたように、かべによりかかってすわると、『わたし』とこーたがうつっているしゃしんをながめていました。
『いおりさん』というわたしとおなじかおのひと。
しあわせそうにわらうひと。
しゃしんのなかの『いおりさん』をみていると、わたしまでしあわせになります。
このひとも『いおりさん』。
わたしも『いおりさん』。
わたしは、きのう、こーたになまえをもらいました。
「い……おりさ…ん…。」
くちにしてみると、ほほがゆるむ。
どうしてかわからないけれど、こーたにこのなまえをよばれると、むねのおくがうれしくて、せつなくなって、こころのなかがあたたかくなってきます。
「あ………そう……だ…。」
おさんぽにいこうかなぁ。
こーたのだいがくってところまで、おさんぽしてみようとおもいました。
あめがふるけれど、わたしはあめ、へいきです。
こーたにあえたら、うれしいなぁ。
くらいそら。
おもいくも。
しとしと、しとしと。
つめたいあめ。
からだがしっている、こーたのいるばしょ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
人一人いない、川崎浩太郎の通う大学へ続く坂。
冷たく、重苦しい雨は人の足を遠ざけ、ただ静けさだけを残すばかり。
雨に濡れて落ちた落ち葉。
初夏を飾る蝉たちも声を潜め、雨は音もなく降り注ぐ。
まるで、そこはすべてに忘れられた空間。
太陽に忘れられ、人々の息遣いすらどこかに置き忘れた場所。
ただ、そこが忘れられた場所でないことの証明に、時々通り過ぎる自動車がそれなりの騒音と水飛沫を立てて、伊織の傍を走り去る。
大学の坂を彩る並木道。
伊織と名付けられたぬれおなごは、雨の中、傘も差さずにぼんやり歩く。
忘れてしまった何かを思い出せそうな…。
そんな思いが表情から見て取れる。
(………しってる…。この……さか…。)
坂から見上げる空。
坂の上から見下ろす景色。
何一つ思い出せないのに、何もかもが懐かしいと彼女は感じていた。
(もうすこし……あるいたら…。)
浩太郎の通う大学の校舎が見えてくるはず。
何も覚えてはいないのに、彼女は知っていた。
その『知っている』という事実に、伊織は困惑して足を止めた。
「……なん…で………どうし……て…?」
突然頭に去来する知識と情報が怖くなり、彼女は思わず蹲り、頭を抱えて深く目を閉じた。
押し寄せる覚えのない記憶。
楽しかったこと。
辛かったこと。
親しい人たちの顔。
そして、浩太郎が笑っていた。
「……なんで…こーたが……。…………あ…。」
街路樹の根元、伸びた雑草がその姿を隠すように、猫が横たわっていた。
冷たい雨に晒されて、誰にも看取られることなく、野良猫らしきその猫は息絶えていた。
どうやら、自動車に轢かれたらしい。
いずれ、市の清掃や保健所が片付けるのだろう。
誰もが見ても見ないふりで放置し、冷たい仕打ちに追い討ちをかけるように、死んだ猫は冷たい雨に晒されて、非対称的な安らかな表情を浮かべて二度と覚めない眠りに就いていた。
「………かわい…そう…。」
誰もが触りたがらない猫の死体の側へ、伊織はゆっくりと歩み寄った。
苦しかったろう、辛かったろうと横たわる猫の頭を撫でると
「……お……おいで…。」
せめて少しだけでも温もりを感じてほしい、と伊織は死んだ猫を抱き上げると、ぐったりとした猫を優しく包むように抱き締めた。
このまま、どこかに埋めてあげよう。
寂しくないように、どこか賑やかな場所に埋めてあげよう。
慈しむように彼女は、当初の目的を変えて、猫を埋めてあげられる場所を探しに行こうと足を踏み出したその時だった。
『こんなところで何をしているの?』
「………え…?」
誰もいない。
空耳だと思い、その場を後にしようとすると、その声はまた聞こえてきた。
『こんなところで漂っているだけじゃ、どうしようもないわ。』
「………なに…この………こ…え…。」
確かに聞こえるその声は、本当に聞こえる声ではない。
思い出せない記憶の中から、リアルに、その場で語りかけられるように聞こえてくるのである。
伊織は、その声に苦しんだ。
思い出してはいけない。
思い出してはいけない、と何かを思い出したい彼女の意思とは裏腹に、必死にその声を否定し、思い出すことを頑なに拒み続けている。
「……いや…!…………なにも……いわない…で…!」
猫を落とさぬようにしながらも、動揺に震える身体は、ブルブルと未知への恐怖に震えていた。
『心残りがもしもあるのなら……。』
「……ない…!こころ……のこ…り…なんか…!!」
いつしか叫んでいた。
どんよりと暗い空に向かって悲鳴のような声で叫んでいた。
だが、それはまるでヒビの入ったダムの如く、一度溢れ始めた記憶の波は誰にも、彼女自身にも堰き止めることは出来ず、先程とは比べ物にならない膨大な思い出が、仮初めではない『本物』の彼女を再構築していく。
「わた………しは…ワタシ……は………私は……。」
ここに来て、すべてを思い出した彼女は、悲しい表情を浮かべた。
それはすべての終わりを意味しているのだから。
彼女はそのためだけに、再びここに来たのだから。
「私は……、こーた…。」
『では契約を……、あなたの願いを叶えてあげる。』
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「酷い雨だったよ…。ただいま、伊織さん。」
「おかえりなさい…。」
土砂降りの雨の中、留年の手続きや後輩たちに挨拶を終えて、俺は夕方になってやっと、伊織さんが待ってくれている我が家に帰り着いた。
わかってはいる。
この人は伊織さんじゃない。
でも、今は伊織さんだと思いたい。
そんな俺の我が侭も、全部理解しているような微笑で、伊織さんは出迎えてくれた。
「あ、洗濯物…、してくれたんだ。ありがとうな。」
「お掃除も…してあるからね…。」
良いなぁ、やっぱり。
思い出すと寂しくなってしまうけど、俺はやっと自分を取り戻したような気になれた。
コンビニで買ったビニール傘が役に立たなくなる程の雨に濡れた身体を拭いて、リビングと呼んでいる6畳の部屋に入ると、ふわりと良い匂いが鼻をくすぐった。
テーブルの上には2つのマグカップ。
まるで俺が帰るのを見計らったように、番茶が良い匂いを立てている。
「やっぱり、誰かがいてくれるのって嬉しいなぁ。」
「そう……だね…。」
早速、淹れてくれたお茶をいただこう。
そう言って彼女の脇をすり抜けようとした時、後ろから引き止めるように彼女が、細い腕で俺の背中から抱き締めていた。
「どうしたの、伊織さん。」
回された手に、俺は優しく手を重ねる。
また錯覚。
重ねた手の感触が、やはり伊織さんとそっくりだった。
他人なのかもしれない。
それだというのに、ひどく愛しい。
「ごめんね……ごめんね…、こーた…。」
「伊織さん、何を謝るの…?」
そう言って俺は違和感を感じた。
泣いているのか声が震えている。
いや、それ以前に………、伊織さんの言葉がスムーズだ…。
「こーたと…、もっと一緒にいたかった。こーたの温もりをもっと感じていたかった。でも………ごめんね…。そういう約束だったの…。私はそういう約束の下で………、またあなたに…。」
「え……、伊織さ…。」
声が続かない。
急に温度が下がったような気がした。
「でも…それもお終い…。私は……思い出してしまったから…。」
手が震えている。
「伊織さん!」
振り向こうとすると、まるで突き放すように彼女は軽やかに後ろに飛び退いた。
ただ、唇が『ごめんね』とだけ動く。
「こーた、ありがとう。ずっと……私のことを覚えていてくれて。ずっと…愛し続けてくれて…。でも、これからは……、私じゃない誰かと幸せになって。こーたがくれた温もりを、私じゃない誰かに分けてあげてね。」
「い……伊織さん…。何言ってるんだよ…。それじゃまるで…。」
さよならみたいじゃないか、と言えなかった。
それよりも、俺は自分の思いが勘違いでないことを知った。
彼女は…、伊織さんは還ってきた。
俺の下に還ってきてくれていたんだ、と。
だが、やっと伊織さん本人なんだとわかった矢先、彼女が口にしたのは別れの言葉だった。
きっと聞くことが出来なかった。
きっと永遠に知ることがなかった彼女の最期の言葉。
「さようなら、こーた。そして、ありがとう…。私に出会ってくれて。」
思い出せるのは彼女の笑顔。
その懐かしくて、綺麗な笑顔を残して彼女の身体は崩れていく。
まるで、砂の城が崩れていくように…。
慌てて飛び出して、手を伸ばしても、俺の手を握り返すこともなく。
最初からただの水がそこに広がっているかのように、
彼女は小さな水溜りになってしまった。
「泣かないで」と耳元で思い出が囁くが、俺は彼女の名を叫び続ける。
もう一度、二度と味わいたくなかった別れ。
俺には彼女をもう一度掬い上げることは出来ず、
ただただ悲しいまでの静寂と嫌いな雨の音が
耳の奥で五月蝿く木霊していた。
11/09/13 01:07更新 / 宿利京祐
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