さようなら、今日という日よ。

それが、あの日以来の俺の毎日。

抜け殻の日々。

終わりのない罪の意識。

初夏の夕立の中で、早くも蝉が死んでいる。

夏が、亡骸を残して旅立って逝く。

その中のどれだけの数が、あの人の所まで飛んでいくのだろう。

そんな思いを初夏の空に馳せていたりして………。

晴れ渡る空が顔を隠して雨が降る。

蒸し暑く、それでいて肌寒い。

雨は陰鬱になる。

雨は怖い。

あの人が泣いているようで悲しくなる。

俺は許されざる者。

何故なら、俺を責め続ける雨の日に彼女は還ってきたのだから…。




奇妙なものだ。
死んだはずの恋人、新免伊織に生き写しの女が俺の部屋にいる。
最初は雨に濡れた人間だと思っていたのだが、どうも違うらしい。
彼女とそっくりの黒髪は、まったく同じようだったが一本一本液体が固まって出来ているようだし、俺の頬を撫でてくれた懐かしい手付きは、人の手の弾力を持ちながら、やはり何か重たい液体が集まって出来たもののように感じた。
「伊織さん……じゃないの…？」
彼女の名を読んでも、目の前の人は首を傾げるばかり。
「いおり…。それが……わたしのなまえ…？」
「一体…、あなたは…。」
つい死んだ伊織さんを思い出し、口調は丁寧になる。
同じなんだ。
俺の記憶の中に残る伊織さんとまったく同じなんだ。
首を傾げる時の角度。
言葉こそ途切れ途切れなのに、同じアクセントで彼女は喋る。
「わからない……、わたし………だれなんだろう…。なんなんだろう…。」
彼女の言葉から、彼女自身、自分が何者なのかもわかっていないことがわかる。
「お………俺はこの部屋の住人で、川崎浩太郎って言うんだ。」
「こーたろー………こーたろー…？」
「ああ、浩太郎だ。もしもあんたに名前がないのなら……。」
ああ、本当に我侭だ。
俺の理不尽な我侭で、死んだ人が生き返ってきたなんて空想を満たそうとしている。
「伊織って名乗らないか？」
「いおり……いおり……わたしのなまえ……。」
「…………死んだ人の名前だけど…、嫌かな…？」
彼女はうーん、とぼんやりと考えると、プルプルと首を横に振る。
その仕草までがそっくりだった。
昔、死んだ人が生き返ってくれたら、きっと嬉しいんだろうと子供心に思ったことがあるのだが、現在の俺はその逆の心地を味わっていた。
心底、怖かった。
嬉しいと思う反面、心のどこかで言いようのない冷たい不安が生まれた。
その恐怖が、彼女に対してのものだったのか…。
それとも俺の彼女への、今は亡き伊織さんへの後ろめたさなのだろうか。
「いや……じゃないよ…。ありがとう……、わたしは…いおり。わたし……うれしいよ…。ありがとう、……なまえをくれて……。こーた。」
表情が凍り付いた。
彼女の発した『こーた』という俺の呼び方。
俺の恋人が笑顔で呼んでくれた………俺の呼び方だった…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


何もする気が起きない。
風呂に入ってから大学のゼミや部室に顔を出そうかと思っていたはずなのに…。
突然現れた伊織さんの亡霊に心は乱れ、ただぼんやりと部屋の隅から彼女を眺めていた。
１秒１秒、時を刻み続ける時計の音が五月蝿く感じる。
壁掛け時計なんか……、買わなければ良かった…。
雨の音も、時計の音も………、苛々が募る。
「……………。」
伊織さんの名前を与えた彼女は、うろうろと部屋の中を歩き回っている。
広くない室内。
棚の上に置かれた写真立てを胸に抱き続けながら、彼女はまるで懐かしむかのように部屋を歩き回り、時々あの頃と変わらない可愛らしい笑顔を浮かべる。
無言のまま。
俺の部屋に残る伊織さんの思い出の残骸を確かめるように歩き続ける。
いっそのこと……、恨み言を言ってくれ。
俺のせいで死んだんだと…。
そう言ってくれた方が楽になれるのに…。
「こーた……、これ……つかっても…い…い…？」
俺の思いと裏腹に、彼女は笑顔で語りかける。
手にしていたのは、使わなくなって久しくなる丸くて大きなティーポット。
いつも…、伊織さんが俺のためにお茶を淹れてくれていたティーポット。
何で………それを…。
食器棚の奥深くに俺の傷ごと隠していたはずなのに…。
「………いい？」
そんな俺の動揺など理解しているはずもなく、伊織さんと同じ顔の彼女は、思い出の中の彼女のまま微笑み、あの頃と同じ愛用の品を使おうと懐かしい言葉遣いで、俺に無邪気にねだるのだった。



「………どう…ぞ…。」
彼女の言葉は途切れ途切れ。
まるで言葉を思い出そうと必死に足掻いているようにも思える。
でもそんな彼女のお茶を淹れてくれる手付きだけは、思い出のままだった。
マグカップに淹れてくれたお茶。
あの頃と違うのは、伊織さんとの幸せな日々を思い出すのが辛くて、伊織さんがよく淹れてくれた銘柄と同じ紅茶を買わなくなったから、彼女が淹れてくれたのは近所のスーパーで買った特売の安い番茶だということぐらいだ。
温かい…。
誰かが淹れてくれたお茶が温かいだなんて忘れていた。
マグカップを握り締めたまま、ただお茶を見詰めていた。
マグカップの水面には、情けない俺の顔が浮かんでいる。
「…それ………きらい…？」
いつまでもお茶を見詰めている俺に、彼女は不安になったらしい。
不安そうな顔をして俺の顔を覗き込んでいた。
「いや………自分で買ったものだし…。」
嫌いじゃない。
そう伝えると、不安が和らいだのか嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
そしてそのまま、無言でずるり、という音を立てて俺の隣に座り込んだ。
「ねぇ……こーた…。」
彼女は写真立てをそっと見せて俺に尋ねた。
写真立ての中には、３年前の俺と伊織さんが笑っている。
現在の俺の未練。
捨てられない思い出の一つ。
「これ……わたし…？」
「たぶん、違う。」
「ふぅん……。」
たぶん、違う。
彼女は伊織さんじゃない。
伊織さんであってはならない。
思い出は、思い出のまま塵にならなければならない…。
「こーた……、こーたは……このひと…すき…？」
同じ顔が、微笑んでいた。
写真の中の伊織さんが好きかと、同じ顔の彼女が訊ねてくる。
「俺は……。」
募った苛立ちのままに、答えようとした。
余計なお世話だ。
あんたの知ったことじゃない。
そんな言葉が一瞬、胸を過ぎる。
だが、彼女の顔を見ていたら………そんな苛立ちが嘘のように消えていく。
「…………好きだったよ。今でもずっと。」
口から出て来たのは、偽りのない素直な言葉。
彼女の死を乗り越えたという嘘で塗り固めたではなく、心の奥底でずっと叫び続けている彼女の死を諦め切れない、死んでしまった今でも心から好きだという真実の言葉を、俺は静かに口にし始めていた。
「俺のせいで死んだんだ…。俺があの日、迎えに行くなんか言わなければ…、伊織さんは今でも俺に微笑みかけてくれたんだ…。」
マグカップを握り締めて、俺は語り始めた。
思い出すのは雨の情景。
突き刺すような強い雨。
割れた窓ガラス。
水溜りに伝う赤い川。
散乱した荷物。
悲しみが散らばっていた…。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


雨が降っていた。
晴れ間が続いていたのに、突然の夕立で視界が遮られる程の大雨が降った。
その日、３つ年上の伊織さんは一足先に社会へと羽ばたかんと就職活動のため朝から出かけていた。
傘を持って出かけただろうか…。
そう思って彼女の携帯電話に電話を入れると
『ごめーん、雨に降られて大変だったよー。』
「なら、迎えに行こうか？」
『助かるー。』
それから一言二言交わして電話を切った。
まさか、それが彼女の最後の言葉とは思いもしないで…。


「待ち合わせ場所の喫茶店にさ…、トラックが突っ込んだんだよ。」
「…………。」
「俺が呑気に待ち合わせ場所に着いたら、雨で滑ったトラックが伊織さんを押し潰していたんだ。あたりは人だかりが出来ていて、警察とか救急車とかサイレンを五月蝿く鳴らしていてさ…。」
人だかりを掻き分け、警察の非常線も突き破って彼女の下に駆け寄った。
半狂乱に彼女の名前を叫びながら。
あのトラックの下にいるのが伊織さんだと直感していた。
雨が五月蝿かった。
人の声が五月蝿かった。
サイレンが五月蝿かった。
ダラリと落ちた彼女の手。
彼女の無言が、五月蝿かった。
「…今でも好きなんだよ。どうしようもないくらい。伊織さんと同じ歳になってしまっても、俺は今でも彼女を引き摺っているんだ。今でも俺は雨が怖いんだよ。伊織さんが責めているようで……、何で迎えに行くなんか言ったんだって…。あの一言がなければ、伊織さんは死ななくて良かったんだ…。今でも俺に……。」
笑ってくれたんだ、と叫んだ。
マグカップがゴトンと落ちて、中のお茶が床に広がる。
顔を両手で覆って震えていた。
どうしようもなく、涙が溢れてくる。
どうしようもなく、ただ後悔が溢れてくる。
「…………こーた。」
ずるり、と音を立てて彼女が俺を抱き締めた。
強く、俺の泣き言を封じ込めるように抱き締めた。
「…………ごめん…ね…。つらいこと………き…いて…。」
「俺が勝手に喋り出しただけだから……、気にしないで…。」
プルプルと横に首を振る彼女。
「そのひと……うれしかったんだと…おもうよ…。」
「え…。」
「わたしも……ひとりは…さみしかった…。でも……こーた……むかえに…いくって…。だから……まって…いたんだよ…。こーたと……いっしょに…かえりたかった……。」
「わかるもんかよ！」
否定。
今の俺に出来ることは、声を荒げて憶測の否定することしかない。
「……………わかるよ。」
そう言って、彼女は泣き濡れた俺の頬に口付けをした。
しょっぱいね、と言って、ぺロリと頬を流れる涙を彼女は舐め取る。
「………わたしも……こーたのこと…きらいじゃないもん…。」
ごく自然な流れ。
あの頃失ったはずの流れで、頬を舐めていた彼女はそのまま舌を這わせて、俺の唇に冷たくて体温を感じないキスをした。
やさしく、お互いの存在を確かめ合うようなキス。
それは伊織さんが………、よく俺にしてくれたもの。
「何で…。」
「…………なんとなく…。そのひとのきもち……わかるし…、きっと……こーたは……こうすれば…おちついて……くれ…る…きがしてた…。」
はっと息を飲んだ。
この人は、伊織さんじゃないのかもしれない。
それでも……。
勘違いでも良いから………還ってきたと思わせてください…。
「伊織……さん…。」
「はぁーい…。」
目で、もう一度してほしいとせがむ。
ずるりとした粘液に顔を埋めて、俺は彼女の背中に手を回して、今度は俺から抱き付いた。
彼女はただ何も言わず、冷たい手で俺の頭を撫でてくれる。
それがあまりにも伊織さんにそっくりで、あまりにもやさしくて、また泣きそうになる。
「………なかない…で…ね…。」
涙を舌で掬うと、そのまま無言で唇を重ねた。
今度は、不意打ちではなく、お互いに望んで……。

この時、俺は忘れていた。

自分への苛立ち、ザアザアと降り続く雨の音を。

俺は忘れていたんだ…。

ささやかな温もりは、

小さな不幸の最悪なスパイスだということを……。

■作者メッセージ
久し振りの連日更新でっす★（きらっ）
いたっ！？痛いよ！？
すみません、調子に乗りました。
反省しているので、色んなものを投げないでください（グキッ）。
今回は、浩太郎の独白でしたが如何でしたでしょうか？
思い出と現実の否定を繰り返す彼の苦悩が、表現出来てたら嬉しい限りでございます。

さてさて、この宵闇夢怪譚『濡女子の残響』ですが
物語全体のイメージは、ムックの『雨のオーケストラ』を
聴きながら執筆しておりますが、
元ネタとなったお話は、童話「人魚姫」だったりします。
そのあたりをチョロっと頭の隅に置いておいて読んでいただけると
より一層楽しんでいただける………ような作品を目指しますｗ

では最後になりましたが、
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、ぬれおなご伊織さんが……。
お楽しみに〜＾＾。