連載小説
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1・雨の憧憬
僕らは待っている。

いつ雨が降り止むかもわからないのに待ち続けている。

木陰の鳥たちは、晴れ渡る空を待ちわびている。

濡れて萎んだ猫は、震えながら空を睨んでいる。

雨はいつか止むよ。

天気予報通りにはいかないけれど、どれだけ長く続く雨だっていつかは止む。

僕も、

私も、

君も、

あなたにも。

心に降り続く冷たい雨はいつか止む。

いつまでも、明けない夜がないように………。

ああ、今日も酷い雨が降り続いている。

行き交う人々数だけの色取り取りの鮮やかな傘が咲いている。

あなたは……………、傘を持って出かけただろうか……。




俺は、雨が嫌いだ。
それもこんな強い雨の日は特に嫌いなんだ…。
俺、川崎浩太郎は一人暮らしの自分のマンションのオートロックを開けると、苛立ち紛れにネクタイをシャツから引き抜き、ガチガチとエレベーターの呼び出しボタンを連打していた。
本当に嫌になる。
就職試験に落ちるわ、大学から単位が足りないと呼び出され留年が決まるわ…。
しかも天気予報が外れたせいで、ずぶ濡れになる始末だ。
「まだかよ…、遅え…。苛々する…。」
ぼやいていると、やっとエレベーターが来た。
急いで乗り込むと、5階の番号を押して一息吐く。
やっと、雨の音が聞こえなくなった。
上へと上がっていくモーター音と無機質な機械の音。
そんな無機質な音が俺を癒してくれる。
腕時計を見れば、深夜1時を回ったばかり。
自分のツキのなさを嘆き、大学のゼミの仲間と一緒に居酒屋で飲んで騒いで日頃の憂さ晴らしをしてきたのだが、今日の俺はいつも苛付いていて、飲めば飲む程頭が覚めてしまって、どれだけ飲んでも酔えなかった。
わかっているさ…、俺だって…、そのくらい…。
飲んで騒いだって、何の解決にもならない。
でもどうすれば良いんだよ…。
何も考えられないのに、一時の享楽で紛らわそうとする自分が嫌だった。
『先輩、飲みすぎですよ…。何だったら少し休んで行きませんか…?』
と後輩の女の子にも誘われたが、そういう気分にもなれなかった。
少し考えれば、あの子も勇気を出して申し出たのだろうと思える。
だが、俺はぶっきら棒に拒否をした。
まだ…………そういう気分にはなれない。
『まだ引き摺ってるのかよ。』
気心知れた同輩がそんな俺に声をかけたが、やはりそいつにも同じように返事をした。
「五月蝿え………五月蝿えよ…!!」
苛立っている。
自分のツキのなさ。
自分の不甲斐なさ。
そして、いなくなったあいつのこと。
永遠に手の届かない場所に行ってしまったあいつのことが、まだ亡霊のようにフラッシュバックして何度も何度も甦っては俺を無言で責め続ける。
3年だ。
3年かけて、ようやく心の整理が出来たと思ったのに………。
少しでも心が崩れてしまったら、馬鹿みたいに引き摺ってしまっている。
引き摺りもするさ。
俺が、殺したようなものなんだから…。
俺があの時………。

『5階デス。』

エレベーターの機械的なアナウンスに我に返った。
今更だよな…。
そう自分を馬鹿にするように笑うと、エレベーターをギッと揺らして降りた。
エレベーターを降りると、嫌でも雨の音が響き渡る。
俺があの時、もう少し早く迎えに行っていれば……。
いや、最初から傘を持たせていれば……。
クソッ………クソ、クソクソクソクソ…。
無意味だ。
そんな無意味なifの話を俺は何度自分に問い続けた。
変えられないんだ。
還らないんだ。
声を殺して心で叫ぶ俺を罵倒するように、雨はいよいよ強く振り続ける。
「会いたいよ…………、伊織さん……。」
好きだった、今でも愛しているあの人の名前を呟くことが、最近の俺の泣き言。
だがそんな俺の泣き言さえ、雨は掻き消していく。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


ポツリポツリと空から雫が落ちてきたかと思えば、一瞬で世界が水に沈んでしまったかのように思えるような土砂降りになった初夏の夕立。
ついさっきまで灼熱の太陽に焼かれていたアスファルトは、振り続ける雨にもなかなか冷えることなく、夕立がにわかに生んだ湿気に、誰もが息苦しいと不快な表情を浮かべる。
雨に溺れてしまいまいそうだ、と誰かが呟いた。
雨の日は暗い。
不思議な程、蒸し暑い大気と心細くなる雨の冷たさに人肌恋しくなる。
ある喫茶店の軒下で雨宿りをするように、彼女はそこにいた。
何をする訳でもなく、ただそこに佇んでいた。
傘も差さず、ずぶ濡れの彼女は、光のない瞳で空を眺めていた。
ぼんやりと口を開いたままで彼女はそこにいる。
鴉の水浴びした後のような見事な黒髪、濡れて透けてしまいそうな着物。
憂いを帯びた虚ろな目線に、ある種のエロティシズムが漂うのだが彼女は人間ではない。
よくよく見れば、彼女を構成するそれらは液体の集合体のようであり、彼女の足下には、指先や身体を粘液がぬたり、ぬたりと滴り落ちて小さな水溜りを作っていた。
彼女はスライム種。
種の名をぬれおなご。
「…………………………おぼれそう。」
それが初めて口にした言葉だったのだが、彼女は自分で発したその声に驚いて目を見開いた。
自分が存在している。
そのことが彼女には信じられなかった。
「………………でも。」
彼女は自分の手を見て呟いた。
「わたし………………だれ……?」
何一つわからなかった。
彼女は突然、その場で自分の存在を認識した。
窓に映っているのは間違いなく自分と思しき濡れて艶かしい姿。
彼女は生まれて初めて自分の存在を認識し、そして自分の姿を知った、
だが彼女は自分の名前も、何故ここにいるのかも何もかもがわからなかった。
またぼんやりと彼女は佇み、開いた手の平から滴る粘液を見詰めながら考えた。
答えは出なくても考え続ける。
自分は誰なのか。
何をしたいのか。
まるで『人は考える葦である』や『我考える故に我あり』という言葉を体現するように、自分の意識深くまで考え続けていると、彼女の耳にバタバタバタという音が聞こえてきた。
手の平から視線を上げると、そこには道行く人たちが傘を差して歩いている。
音の正体は、傘にぶつかる雨音だった。
「あ………………わたし……このおと……すき…。」
好きだった。
色鮮やかなたくさんの傘に降り注ぐ雨を弾く音が好きだったと、彼女は思い出す。
行き交う人々は、彼女にまるで気付かないかのように通り過ぎる。
そんな人々を彼女は見詰めていた。
何かとても大切なことを忘れているような気がして、行き交う人々から忘れてしまった記憶を引き寄せようと見詰めていた。
やがて人々の往来が少なくなり、街灯に明かりが灯る頃、彼女の脳裏に去来したのは思い出とも呼べない朧気な暖かな思い出。
赤いビニール傘の下、寄り添って歩いた記憶。
隣で笑いかけているのは、名前も思い出せないよく知った顔。
「そうだ………、わたし……いかなきゃ…。」
どこに行くのかもわからないまま、彼女は足下の粘液を纏ったまま、ぺしゃ…ぺしゃ…という音を引き摺って、頼りない足取りで裸足のまま歩き始めた。
自分でもどこに行くのだろうと思いながら。
ただ、心の導くまま。
真っ白なノートにペンを走らせるように。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


目が覚めると朝だった。
昨日の晩、どうやら部屋に入った途端に眠ってしまったらしく、俺は玄関に突っ伏して寝ていた。
まだ雨が降っている。
どうやら今日も止まないらしい。
「今………何時だよ…。」
眠い目を擦って腕時計を見るとすでに12時を回っていた。
「やばい……、必修単位が…!」
と言って気が付いた。
どうせ、今更単位を稼いだところで留年は変わらない。
「クソ…、身体がバキバキしやがる。」
就職活動に着ていたスーツも脱がないままで、玄関で眠ってしまえば当然身体が凝る。
「あぁー………とりあえず風呂でも入って、ゼミか部室にでも顔出すか。」
留年の挨拶に。
そうだ、昨日のことも謝らなきゃな…。
そんなことを考えながらのっそりと動き出した、その時…。

ベチャッ…

部屋の奥から、何か重たい液体が落ちたような…、そんな音が聞こえた。
「誰か…誰かいるのか?」
返事はない。
薄気味悪いくらい静寂が返ってくるだけ。
俺の部屋はそんなに広くはない。
玄関から真っ直ぐに行くと、六畳程度の部屋がドアで玄関と仕切られて一つ。
そして六畳の部屋のすぐ隣に、三畳の物置として使っている小さな部屋が一つ。
それに風呂と台所とトイレが付いている大学生向けの部屋。
物音が聞こえてきたのは、六畳の部屋。
仕切りのドアの向こうで聞こえてきた。
何かがいる。
俺の直感がそう言っている。
泥棒だろうか…。
もしそうなら、と俺は玄関の靴箱に隠している護身用のナイフを取り出した。
然程大きくも切れ味もないナイフなので、出来ることなら使わないに越したことはないが、俺は呼吸を落ち着けてヒヤリと冷たいナイフをスーツの胸ポケットに忍ばせて、意を決して玄関と部屋を仕切るドアのノブに手を掛けた。
「誰だ!!」
バン、と勢いよくドアを開けて、俺は部屋の中にいる何かに向かって叫んだ。
ザアザアと雨の音が五月蝿い。
締めて出かけたはずなのに、窓が開いていた。
部屋の中にいたのは、ずぶ濡れの女。
重たそうな液体が滴り落ちていることなど気にかけず、ただ俯き加減で部屋の棚の上に置いている写真立てを、一心不乱に見詰め続けていた。
顔は濡れた髪が垂れてて見えない。
「おい…!ここで何を……。」
している、と言いかけて俺は不思議な違和感に襲われた。
目の前の女は誰なんだろう。
そう考えていて、女の佇む姿に懐かしさが胸に溢れた。
いや、そんなはずはない。
いるはずがないんだ。
自分の考えを否定し、自らの夢想を一つずつ殺していく。
そう思わなければ悲しい。
そうしなければならない自分が悲しい。
女が写真立てを触ろうとした。
「やめろ!触るな!!」
「…………………………。」
俺の声に驚いたような表情をして、女の顔が俺を見た途端、俺は呼吸が止まった。
懐かしい顔だった。
3年前に別れを告げた顔だった。
彼女であることを否定しなければならない顔だった。
「あ…………あ………。」
腰を抜かして、へたり込んだ。
ずっと抑え込んでいた感情が、一気に吹き出るように俺は声を震わせ、切ない胸の内を吐き出すように涙が溢れて止まらなかった。
「……何で…何で今頃現れたんだよ!俺に恨みがあるなら、あの日のすぐに来れば良かったじゃないか…!やっと……整理出来たんだ…。やっと整理出来たのに、何で今頃になって……。やっと………あなたが死んだって受け入れられるようになったってのに……!!何でこんな悪夢を見ているんだよ俺は!!何で今頃になってまた俺を苦しめに来るんだよ……伊織さん!!!」
泣き喚いた。
頭が焼き切れるかと思うくらい泣き喚いた。
すると伊織さんと同じ顔をした女は、ゆっくりとした動作で俺に近付き、俺と同じ目線になるように膝を突くと、冷たく濡れた手の平で俺の頬を撫でて流れる涙を拭った。
「……………なか……ないで…。」
記憶の中にしか存在しない声。
記憶の中にしか存在しない微笑で、彼女は笑いかけた。
そして棚の上に飾っていた写真を俺に見せながら言った。
「……あなた………わたしを……しっていますか…?」

今は亡き年上の恋人。

3年前、俺のせいで死んでしまった彼女が俺に復讐に来たんだ。

この時、俺はそう思った。

二度と来るはずのなかった時間。

二度と交わすことのなかった言葉。

これが俺・川崎浩太郎が、ぬれおなごとして還ってきた新免伊織との

不思議な3日間の始まりだったのである。


11/09/02 22:48更新 / 宿利京祐
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■作者メッセージ
はい、始まりました完全新作!
コンセプトは『目指せ、ハッピーエンド!!』
他の連載はどうしたー!と言われるのは覚悟の上ですが、
その前にちょっと書きたい話だったので書かせていただきました。
台風接近しているし、雨模様の今日明日には調度良いですよね……ね?

浩太郎の下に還ってきた伊織。
記憶も肉体も失って還ってきた伊織の目的は。
そして何故ぬれおなごになってしまったのか……。
次回以降に乞うご期待?

では最後になりましたが、
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
どうか短い連載予定ですが、生暖かい目で応援してくだされば幸いです^^;

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