第九十九話・紅蓮の救世主【メシア】前編
時代が流れる瞬間は唐突だ。
それは時に絡み付いた乱麻の如くもどかしく、
時に物語の如く痛快に、激しく動き出す。
城壁を前にして龍雅は考える。
何度目の城攻めだったか。
何度目の戦だったか。
何度目の敗戦だったか。
浮かんでは消えていく思い出に、彼はふっ、と笑いを漏らす。
これから大事な瞬間を迎えるのだというのに、龍雅の心は大空を舞う鳥の如く軽やかに、そして長く戦場を枕にした人生において、かつてない高揚感を味わっていた。
「悪くない…。」
幾度もの敗戦を越えて生き残った結果、故郷を捨て、彼の憧れと同じ世界に足を踏み入れ、追いかけ続けたその旗を掲げて、新たな仲間と愛しい人と共に戦場を駆け抜ける喜び。
さらに皇帝を奉戴して、存分に軍略を巡らし、自らの太刀で敵を打ち倒す。
その喜びを、彼は悪くないという一言に集約していた。
「悪いはずはあるまい。」
先頭を征くノエル帝は、微笑を浮かべて僅かに龍雅に振り向いた。
「美女を二人も侍らせているのに、悪くないでは無礼であろう？」
「へ、陛下…。」
ノエル帝はまるでからかうようにニヤリと笑うと、龍雅の横で馬を並べるリザードマンのアルフォンスは、美女と言われて赤くなって俯いてしまった。
確実にノエル帝は、セラエノ軍ひいては軍師であるバフォメットのイチゴの悪影響に染まりつつあるのだが、そんな彼女とアルフォンスの様子を龍雅は楽しそうに眺めていた。
よく笑うようになった、と龍雅は兜を深く被るとコッソリ頬を緩める。
アルフォンスとノエル帝の華やかな女性らしいやり取りをする光景。
初めて出会った頃のような張り詰めた人生ではなく、出来ることなら、まだ未来ある彼女たちには、いつまでもこの笑顔のままで在り続けて欲しいと、彼は願った。
「さて、紅将軍。余はそなたの言う通りに軍を動かしたぞ。我が帝都を取り囲み、猫の子一匹通さぬようにしたぞ。さぁ、策を申せ。我が帝都を奪い返す起死回生の策を。」
ノエル帝の言葉に龍雅は頷いた。
布陣とも呼べぬ布陣、龍雅の指示でただ帝国軍とセラエノ軍全軍で帝都を取り囲むという行動に、ノエル帝は何の疑いもなく従った。
リヒャルト老人などは奪い返すというのだから、全軍を以って攻撃に移るものと思い込んで息巻いていただけに、取り囲んだだけの龍雅の指揮には懐疑的ではあったが、これまで幾度も帝国軍の危機を策で救ってきた龍雅の言葉をノエル帝は完全に信用していたのであった。
次はどうすれば良い。
次は何をすれば良い、とまるで子供のように楽しそうな目で、ノエル帝は物語の続きをせがむ。
「ではノエル、全軍をこのまま待機させよ。」
「やはり動かさぬのか？」
ああ、と龍雅は短く答えると帝国の皇帝旗を手に取った。
「城壁の向こうに残る連中に見せてやれ。お前の無事な姿を。お前の言葉を届けてやれ。さすれば、もはや策など策に非ず。お前の言葉通りなら、彼らは勝手に踊り、勝手に俺の書いた脚本通りに動き、お前の下へ平伏す。さあ、行くぞ。この舞台には大軍で攻めるなど無粋にして愚の骨頂。役者はお前と俺とアルフォンスだけで十分だ。」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい……、あれ…、陛下じゃないのか！？」
城壁を守る兵士たちは口々に言う。
城壁から落ちそうになる程、身を乗り出してその姿を見ようとする者。
望遠鏡を取り出して、その姿を確認しようとする者。
城壁に近付くのは死んだはずの皇帝だという噂は城壁内部に広がり、様々な方法でその姿を一目見ようと、兵士も民も関係なく城壁に集った。
中には我慢出来ず、帝都を抜け出し、近付いてくる姿に駆け寄る者の姿もあった。
人々が一目見ようとした姿は、帝都コクトゥを取り囲む同胞たちの中から、堂々と正面からゆったりとした気品ある動作で白馬に跨りやって来る。
純白の軍服、波打つ長い金髪が風に靡く姿は神話の中の女神の如く。
皇帝旗を持つ男は、真紅の鎧を纏う東方の武人。
皇帝を守護するのは、赤い鱗のリザードマン。
たった３機の騎兵に、城兵たちは釘付けとなった。
「陛下だ…。陛下はあそこに生きておわすぞ！！」
やがて、誰ともなしに口々にノエル帝生還を喜ぶ声を上げた。
静まり返った城兵たちは、瞬く間に歓声を上げ、ノエル帝の無事を祝った。
誰もが諦めていた皇帝討ち死の報が覆された。
だが、それは一部の人間にとって最悪な事態であることを自覚せずにはいられなかった。
皇帝討ち死を理由に宮廷を制圧した教会派の貴族たちである。
彼らはこの歓声の中で、帝国軍が帝都を包囲するや否やすぐに宮廷の一室に立て籠もり、軍議と証した責任の擦り付け合いと卑屈な机上の空論を披露し合っていた。
皇族を人質に取って、徹底抗戦を訴えるべきか。
それとも帝都を捨てて、ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍に一刻も早く合流すべきか。
様々な思惑が交差し、意見はまとまらない。
謀叛の中心人物であるグルジア公こと、グルジア＝クラミスもこの軍議と証した席に顔を出していたのだが、醜い自己正当化を謀る彼らの中にいて、彼は押し黙ったまま何も口を開かなかったと伝えられている。
それはグルジアの起こした謀叛の理想は、すでに彼ら教会派貴族や女性蔑視観に基く女帝に対する反発者によって歪められていたからに他ならないと、後世の歴史家は口を揃えて答えている。
教会派貴族が軍議を重ねている頃、皇帝・ノエル＝ルオゥムは白馬に跨ったまま、堂々と城門の前に姿を現した。
供は同盟軍総司令官・紅龍雅と彼の恋人であるリザードマンのアルフォンスのみ。
傍らに二人を侍らせて、ノエル帝は声を張り上げた。
「帝都防衛の任に就く兵士たちよ。任務、ご苦労である！」
彼女の声は決して大きくはない。
だが、その身から溢れる気品と覇気が実際の声以上に兵士たちの耳に届いていた。
誰もが呼吸すら憚るように息を飲む。
ノエル帝はそんな彼らに、静かに、それでも誰の耳にも届くように話しかけた。
「余が敬愛する兵士諸君。諸君らは立派に職務を果たした。余が討ち死にすれば門を固く閉ざし、外敵を退けんとする。それはまさに余が命じたことである。諸君らに罪はない。」
城壁の上で大きなざわめきが起こった。
ノエル帝が生きている以上、自分たちは謀反人であり、城外の帝国兵が雪崩れ込めば、有無を言わさず粛清されるのだろうと考えていただけに、ノエル帝の言葉の威力は絶大だった。
死にたくないから皇帝と戦わなければ、と考える者でさえ、ノエル帝が発した彼らの無罪宣言により、誰もが戦意をなくしたのである。
「もしも、諸君らにまだ余に従いたいと思ってくれる者がいるのであれば、城門を開き、我らを受け入れよ。余は諸君らに約束しよう。同じ帝国の民たる諸君らに剣を向けぬ。同じ帝国の民たる諸君らを侮蔑する者を余は軽蔑するだろう。諸君らに罪はない。諸君らは職務に忠実であったのだから。」
ノエル帝の言葉が終わると同時に、アルフォンスが弓を構えた。
矢の先には文（ふみ）。
その内容はノエル帝の宣言を綴ったものである。
「仔細はこの中にございます。もしもこの場におられぬ方がおりましたら、この文をお見せして安心させておあげなさい。１時間だけお待ちします。どうか、良いお返事がいただけることを祈っております。」
ヒョウ、と放たれる鏃のない矢。
事実上の最後通告をアルフォンスが打ち込みノエル帝たちは引き返した。
城兵たちは動揺していたものの、すぐに矢文を読み回しては書き写して、同じ守備兵として帝都に残る仲間たちに届けていったので、ノエル帝の宣言はすぐに広まった。
その結果、兵士たちの意思は統一され、一つの大きなうねりとなって事態を動かした。
この動きに軍議として一室に篭っていた教会派貴族たちが気付いたのは、まさに後の祭りだったと言わざるを得ないであろう。
ようやく軍議の結論が出て、徹底抗戦を選択し、命令を発しようとしたその時、突如乱入してきた兵士たちの手によって、次々と捕らえられ拘束されたのである。
抵抗しようにも、彼らに特別武力があった訳ではなかったために、あっさりと捕らえられてしまい、これによりこの謀叛劇は僅か数日で幕を下ろし、教会派貴族によって幽閉、もしくは投獄されていたノエル帝の親族である皇族は、誰一人欠けることなく無事に解放されたのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
兵士たちや民衆の歓喜の声に祝福されながら、私は私に付き従ってくれた帝国軍を率いて帝都コクトゥの城門を潜り抜けた。
この度、私の不甲斐なさから帝都を奪われ、せっかくの防衛ラインを放棄しなければならないという失態を犯したにも関わらず、一人の脱走、脱落者も出さずに私に付いて来てくれたのだと思うと、私は彼らに対して感謝してもし切れない。
「陛下…。」
「あ、ああ、すまない、アルフォンス。少し考え事をしていたよ。」
アルフォンスが考え込んでしまっていた私に声をかけてくれた。
どうやら、私は考えすぎて彼女に心配をかけてしまったらしい。
民衆に手を振って応えると、一際大きな歓声が返ってきた。
「良かったです…。陛下はこの後のことを考えねばなりませんから、ご心労が絶えないとわかっておりますが……、あなたも人の上に立って人々を導くお方です。あまり暗い表情をなさっていますと、下々が不安になります。」
「そ、そうか…。いや、確かにそうであるな。アルフォンス、そなたの助言に感謝する。」
「ふふ、伊達に陛下より長生きはしておりませんから。」
………私もまだまだだな。
だが、アルフォンスの言う通り、やらねばならないことが多すぎる。
まずはこの度の謀叛を起こした者たちの処分だ。
帝国法に照らし合わせれば、大逆罪の適応は免れまい。
皇帝に謀叛を起こせし者の末路は、一族郎党、それも女子供関係なく処刑。
帝国史によれば２代皇帝の頃に大規模な粛清が行われ、広場が謀叛人やその関係者の死体で埋め尽くされ、一時的に帝国の機能が麻痺したと伝わる。
私に……、それが出来るだろうか。
いや、出来ない。
彼らに怒りはあっても憎しみを感じないのだから。
それに……………。
「どうかされましたか？」
「いや、何でもない。」
同じ男を愛する友と呼ぶに相応しいアルフォンスに、生まれて初めて恋焦がれる紅将軍に、この手を無益な血で染める私の姿を見せたくないのだ。
何という卑怯者だ。
何という都合の良いことを考えるのだ。
そしてさらにヴァルハリア教会を擁する連合軍が迫っている。
あの防衛ラインを維持出来ていれば、と悔いが残るが……。
「陛下……。」
「あ……、すまない。また考え込んでしまったな…。」
アルフォンスが心配そうに声を掛けてきてくれた。
また難しい顔をしてしまっていたらしい。
「…いえ。あの、お尋ねします。陛下は……、龍雅を今でも配下に置きたいのですか？」
「む……、ま…まぁな。」
突然何を聞くのかと思えば…。
私に仕えぬかと誘ったが……、本当は……。
「余にとっても帝国にとっても、紅将軍が余に仕えてくれるなら、これ程有益な話は他にないであろう。クスコ川で共に戦った者であれば、紅将軍の武勇、智略は嫌という程感じていよう。それは敵味方に知れ渡り、彼の存在そのものが帝国を安寧へと導いて……。」
「ふふふ……、それだけではないのではないでしょうか？」
「…………！？」
「私、気が付いていますよ。龍雅への陛下の目線が、日に日に熱を帯びていくのを…。」
「あわわ！？」
か、顔が熱くなる！！
何故だ！
何故バレた！！
だが、公衆の面前で慌てふためくなど、私のプライドが許さない。
冷静に、冷静に…。
龍雅のことを考えないようにすれば…！
考えないように……、駄目だ！！
意識しないようにすればする程、意識してしまう！！
「ふふ、可愛いですよ♪」
「ア、アルフォンス、からかうのはよせ！！！」
「別に責めている訳ではないのです。陛下が誰を想おうと自由です。龍雅が私を愛してくれている。その事実さえあれば、もしも彼が陛下の命に従って、陛下の夫になったとしても構いません。私には……。」
と、言いながらアルフォンスは自分の腹を擦る。
「彼と私の時間を継いでくれる者がいるのですから。」
「な…！？」
「……３ヶ月だそうです。」
はにかんだ笑顔でアルフォンスは答えた。
「紅将軍はそれを…！？」
「いえ……、まだ…。帝都攻略を前にして…、余計な心配をかけさせたくなくて…。」
「こ…、このうつけ！何故、それを早く言わない。ええい……、アルフォンス！余はそなたに勅命を出すぞ！！帝都が落ち着いたら、ヴァルハリアの馬鹿どもが来る前にさっさと紅将軍と結婚してしまえ！！！そうでなければ、余とて諦めが付かないのだぞ！！」
「……よろしいのですか？」
やかましい、よろしいもクソもないだろうに。
あぁ…、クソ…。
叶わぬ恋だと理解していたが、こうまで決定的な失恋を味わうと落ち込むな…。
「では……、その勅命、謹んでお受け致します。ですが、条件がございます。」
「条件、とな？」
「はい、この子の名付け親になっていただきたいと存じます。それも皇帝としてではなく、同じ人を愛した良き戦友として、生まれてくる命を祝福していただきたく思います。」
皇帝としてではなく、友として…。
私はその言葉を聞けただけで、この戦争の収穫を得た心地であった。
「約束しよう…。そなたの子は、余……いや、私にとっても愛すべき子である。神など足下にも及ばぬくらいに祝福しよう。」
「ありがとうございます。そのお約束をいただければ、陛下のお望みを少しだけ叶えて差し上げても良いですよ。」
「え…？」
「大恩あるロウガ様のお許しをいただいてから、ということになるでしょうが、龍雅と私。二人揃って帝国にお仕えすることをお約束します。もしもお望みでしたら他の方々もお誘い致しますよ。」
ガガガッ
「陛下、火急のようなれば馬上より失礼致します！！」
「……すまぬ、アルフォンス。返事は後だ。許す、何事か！」
アルフォンスの申し出に驚きのあまりに固まっていると、伝令兵が馬に跨って駆けて来た。
男は余程慌てているようで、息も絶え絶えである。
「レユア広場にて…、乱闘が…！」
「乱闘？」
レユア広場。
それは帝都コクトゥの中央にある美しい景観を誇る広場である。
自然と芸術の調和を目指した広場は、私の曾お爺様の時代に建造されたもの。
しかし、今はこの度の謀叛人たちが繋がれている。
謀叛を起こした張本人たち、その家族、親族肉親。
ほとんど他人と言える程の親戚であろうと捕らえられている。
私の裁きを待つ間、広場で晒し者になっているのだ。
大叔父様が……、あの広場にいるはずなのだが…？
「して、乱闘を起こしているのは何者か。」
まったく…。
こんな時に乱闘など起こして…。
まさか、私の裁可を待たずして報復をしようとしているのか…。
急がねばならない。
それでは教会と何一つ変わらないではないか。
「それが……。」
伝令兵の言葉で、私は弾かれるように馬の腹を蹴って広場に急行した。
同じようにアルフォンスも慌てて、馬を走らせる。
何故。
何故彼らが…！？
乱闘を起こしている者の名。
それは私の片思い、紅龍雅。
そして私の大叔父、リヒャルト＝ルオゥムであった。
それは時に絡み付いた乱麻の如くもどかしく、
時に物語の如く痛快に、激しく動き出す。
城壁を前にして龍雅は考える。
何度目の城攻めだったか。
何度目の戦だったか。
何度目の敗戦だったか。
浮かんでは消えていく思い出に、彼はふっ、と笑いを漏らす。
これから大事な瞬間を迎えるのだというのに、龍雅の心は大空を舞う鳥の如く軽やかに、そして長く戦場を枕にした人生において、かつてない高揚感を味わっていた。
「悪くない…。」
幾度もの敗戦を越えて生き残った結果、故郷を捨て、彼の憧れと同じ世界に足を踏み入れ、追いかけ続けたその旗を掲げて、新たな仲間と愛しい人と共に戦場を駆け抜ける喜び。
さらに皇帝を奉戴して、存分に軍略を巡らし、自らの太刀で敵を打ち倒す。
その喜びを、彼は悪くないという一言に集約していた。
「悪いはずはあるまい。」
先頭を征くノエル帝は、微笑を浮かべて僅かに龍雅に振り向いた。
「美女を二人も侍らせているのに、悪くないでは無礼であろう？」
「へ、陛下…。」
ノエル帝はまるでからかうようにニヤリと笑うと、龍雅の横で馬を並べるリザードマンのアルフォンスは、美女と言われて赤くなって俯いてしまった。
確実にノエル帝は、セラエノ軍ひいては軍師であるバフォメットのイチゴの悪影響に染まりつつあるのだが、そんな彼女とアルフォンスの様子を龍雅は楽しそうに眺めていた。
よく笑うようになった、と龍雅は兜を深く被るとコッソリ頬を緩める。
アルフォンスとノエル帝の華やかな女性らしいやり取りをする光景。
初めて出会った頃のような張り詰めた人生ではなく、出来ることなら、まだ未来ある彼女たちには、いつまでもこの笑顔のままで在り続けて欲しいと、彼は願った。
「さて、紅将軍。余はそなたの言う通りに軍を動かしたぞ。我が帝都を取り囲み、猫の子一匹通さぬようにしたぞ。さぁ、策を申せ。我が帝都を奪い返す起死回生の策を。」
ノエル帝の言葉に龍雅は頷いた。
布陣とも呼べぬ布陣、龍雅の指示でただ帝国軍とセラエノ軍全軍で帝都を取り囲むという行動に、ノエル帝は何の疑いもなく従った。
リヒャルト老人などは奪い返すというのだから、全軍を以って攻撃に移るものと思い込んで息巻いていただけに、取り囲んだだけの龍雅の指揮には懐疑的ではあったが、これまで幾度も帝国軍の危機を策で救ってきた龍雅の言葉をノエル帝は完全に信用していたのであった。
次はどうすれば良い。
次は何をすれば良い、とまるで子供のように楽しそうな目で、ノエル帝は物語の続きをせがむ。
「ではノエル、全軍をこのまま待機させよ。」
「やはり動かさぬのか？」
ああ、と龍雅は短く答えると帝国の皇帝旗を手に取った。
「城壁の向こうに残る連中に見せてやれ。お前の無事な姿を。お前の言葉を届けてやれ。さすれば、もはや策など策に非ず。お前の言葉通りなら、彼らは勝手に踊り、勝手に俺の書いた脚本通りに動き、お前の下へ平伏す。さあ、行くぞ。この舞台には大軍で攻めるなど無粋にして愚の骨頂。役者はお前と俺とアルフォンスだけで十分だ。」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい……、あれ…、陛下じゃないのか！？」
城壁を守る兵士たちは口々に言う。
城壁から落ちそうになる程、身を乗り出してその姿を見ようとする者。
望遠鏡を取り出して、その姿を確認しようとする者。
城壁に近付くのは死んだはずの皇帝だという噂は城壁内部に広がり、様々な方法でその姿を一目見ようと、兵士も民も関係なく城壁に集った。
中には我慢出来ず、帝都を抜け出し、近付いてくる姿に駆け寄る者の姿もあった。
人々が一目見ようとした姿は、帝都コクトゥを取り囲む同胞たちの中から、堂々と正面からゆったりとした気品ある動作で白馬に跨りやって来る。
純白の軍服、波打つ長い金髪が風に靡く姿は神話の中の女神の如く。
皇帝旗を持つ男は、真紅の鎧を纏う東方の武人。
皇帝を守護するのは、赤い鱗のリザードマン。
たった３機の騎兵に、城兵たちは釘付けとなった。
「陛下だ…。陛下はあそこに生きておわすぞ！！」
やがて、誰ともなしに口々にノエル帝生還を喜ぶ声を上げた。
静まり返った城兵たちは、瞬く間に歓声を上げ、ノエル帝の無事を祝った。
誰もが諦めていた皇帝討ち死の報が覆された。
だが、それは一部の人間にとって最悪な事態であることを自覚せずにはいられなかった。
皇帝討ち死を理由に宮廷を制圧した教会派の貴族たちである。
彼らはこの歓声の中で、帝国軍が帝都を包囲するや否やすぐに宮廷の一室に立て籠もり、軍議と証した責任の擦り付け合いと卑屈な机上の空論を披露し合っていた。
皇族を人質に取って、徹底抗戦を訴えるべきか。
それとも帝都を捨てて、ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍に一刻も早く合流すべきか。
様々な思惑が交差し、意見はまとまらない。
謀叛の中心人物であるグルジア公こと、グルジア＝クラミスもこの軍議と証した席に顔を出していたのだが、醜い自己正当化を謀る彼らの中にいて、彼は押し黙ったまま何も口を開かなかったと伝えられている。
それはグルジアの起こした謀叛の理想は、すでに彼ら教会派貴族や女性蔑視観に基く女帝に対する反発者によって歪められていたからに他ならないと、後世の歴史家は口を揃えて答えている。
教会派貴族が軍議を重ねている頃、皇帝・ノエル＝ルオゥムは白馬に跨ったまま、堂々と城門の前に姿を現した。
供は同盟軍総司令官・紅龍雅と彼の恋人であるリザードマンのアルフォンスのみ。
傍らに二人を侍らせて、ノエル帝は声を張り上げた。
「帝都防衛の任に就く兵士たちよ。任務、ご苦労である！」
彼女の声は決して大きくはない。
だが、その身から溢れる気品と覇気が実際の声以上に兵士たちの耳に届いていた。
誰もが呼吸すら憚るように息を飲む。
ノエル帝はそんな彼らに、静かに、それでも誰の耳にも届くように話しかけた。
「余が敬愛する兵士諸君。諸君らは立派に職務を果たした。余が討ち死にすれば門を固く閉ざし、外敵を退けんとする。それはまさに余が命じたことである。諸君らに罪はない。」
城壁の上で大きなざわめきが起こった。
ノエル帝が生きている以上、自分たちは謀反人であり、城外の帝国兵が雪崩れ込めば、有無を言わさず粛清されるのだろうと考えていただけに、ノエル帝の言葉の威力は絶大だった。
死にたくないから皇帝と戦わなければ、と考える者でさえ、ノエル帝が発した彼らの無罪宣言により、誰もが戦意をなくしたのである。
「もしも、諸君らにまだ余に従いたいと思ってくれる者がいるのであれば、城門を開き、我らを受け入れよ。余は諸君らに約束しよう。同じ帝国の民たる諸君らに剣を向けぬ。同じ帝国の民たる諸君らを侮蔑する者を余は軽蔑するだろう。諸君らに罪はない。諸君らは職務に忠実であったのだから。」
ノエル帝の言葉が終わると同時に、アルフォンスが弓を構えた。
矢の先には文（ふみ）。
その内容はノエル帝の宣言を綴ったものである。
「仔細はこの中にございます。もしもこの場におられぬ方がおりましたら、この文をお見せして安心させておあげなさい。１時間だけお待ちします。どうか、良いお返事がいただけることを祈っております。」
ヒョウ、と放たれる鏃のない矢。
事実上の最後通告をアルフォンスが打ち込みノエル帝たちは引き返した。
城兵たちは動揺していたものの、すぐに矢文を読み回しては書き写して、同じ守備兵として帝都に残る仲間たちに届けていったので、ノエル帝の宣言はすぐに広まった。
その結果、兵士たちの意思は統一され、一つの大きなうねりとなって事態を動かした。
この動きに軍議として一室に篭っていた教会派貴族たちが気付いたのは、まさに後の祭りだったと言わざるを得ないであろう。
ようやく軍議の結論が出て、徹底抗戦を選択し、命令を発しようとしたその時、突如乱入してきた兵士たちの手によって、次々と捕らえられ拘束されたのである。
抵抗しようにも、彼らに特別武力があった訳ではなかったために、あっさりと捕らえられてしまい、これによりこの謀叛劇は僅か数日で幕を下ろし、教会派貴族によって幽閉、もしくは投獄されていたノエル帝の親族である皇族は、誰一人欠けることなく無事に解放されたのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
兵士たちや民衆の歓喜の声に祝福されながら、私は私に付き従ってくれた帝国軍を率いて帝都コクトゥの城門を潜り抜けた。
この度、私の不甲斐なさから帝都を奪われ、せっかくの防衛ラインを放棄しなければならないという失態を犯したにも関わらず、一人の脱走、脱落者も出さずに私に付いて来てくれたのだと思うと、私は彼らに対して感謝してもし切れない。
「陛下…。」
「あ、ああ、すまない、アルフォンス。少し考え事をしていたよ。」
アルフォンスが考え込んでしまっていた私に声をかけてくれた。
どうやら、私は考えすぎて彼女に心配をかけてしまったらしい。
民衆に手を振って応えると、一際大きな歓声が返ってきた。
「良かったです…。陛下はこの後のことを考えねばなりませんから、ご心労が絶えないとわかっておりますが……、あなたも人の上に立って人々を導くお方です。あまり暗い表情をなさっていますと、下々が不安になります。」
「そ、そうか…。いや、確かにそうであるな。アルフォンス、そなたの助言に感謝する。」
「ふふ、伊達に陛下より長生きはしておりませんから。」
………私もまだまだだな。
だが、アルフォンスの言う通り、やらねばならないことが多すぎる。
まずはこの度の謀叛を起こした者たちの処分だ。
帝国法に照らし合わせれば、大逆罪の適応は免れまい。
皇帝に謀叛を起こせし者の末路は、一族郎党、それも女子供関係なく処刑。
帝国史によれば２代皇帝の頃に大規模な粛清が行われ、広場が謀叛人やその関係者の死体で埋め尽くされ、一時的に帝国の機能が麻痺したと伝わる。
私に……、それが出来るだろうか。
いや、出来ない。
彼らに怒りはあっても憎しみを感じないのだから。
それに……………。
「どうかされましたか？」
「いや、何でもない。」
同じ男を愛する友と呼ぶに相応しいアルフォンスに、生まれて初めて恋焦がれる紅将軍に、この手を無益な血で染める私の姿を見せたくないのだ。
何という卑怯者だ。
何という都合の良いことを考えるのだ。
そしてさらにヴァルハリア教会を擁する連合軍が迫っている。
あの防衛ラインを維持出来ていれば、と悔いが残るが……。
「陛下……。」
「あ……、すまない。また考え込んでしまったな…。」
アルフォンスが心配そうに声を掛けてきてくれた。
また難しい顔をしてしまっていたらしい。
「…いえ。あの、お尋ねします。陛下は……、龍雅を今でも配下に置きたいのですか？」
「む……、ま…まぁな。」
突然何を聞くのかと思えば…。
私に仕えぬかと誘ったが……、本当は……。
「余にとっても帝国にとっても、紅将軍が余に仕えてくれるなら、これ程有益な話は他にないであろう。クスコ川で共に戦った者であれば、紅将軍の武勇、智略は嫌という程感じていよう。それは敵味方に知れ渡り、彼の存在そのものが帝国を安寧へと導いて……。」
「ふふふ……、それだけではないのではないでしょうか？」
「…………！？」
「私、気が付いていますよ。龍雅への陛下の目線が、日に日に熱を帯びていくのを…。」
「あわわ！？」
か、顔が熱くなる！！
何故だ！
何故バレた！！
だが、公衆の面前で慌てふためくなど、私のプライドが許さない。
冷静に、冷静に…。
龍雅のことを考えないようにすれば…！
考えないように……、駄目だ！！
意識しないようにすればする程、意識してしまう！！
「ふふ、可愛いですよ♪」
「ア、アルフォンス、からかうのはよせ！！！」
「別に責めている訳ではないのです。陛下が誰を想おうと自由です。龍雅が私を愛してくれている。その事実さえあれば、もしも彼が陛下の命に従って、陛下の夫になったとしても構いません。私には……。」
と、言いながらアルフォンスは自分の腹を擦る。
「彼と私の時間を継いでくれる者がいるのですから。」
「な…！？」
「……３ヶ月だそうです。」
はにかんだ笑顔でアルフォンスは答えた。
「紅将軍はそれを…！？」
「いえ……、まだ…。帝都攻略を前にして…、余計な心配をかけさせたくなくて…。」
「こ…、このうつけ！何故、それを早く言わない。ええい……、アルフォンス！余はそなたに勅命を出すぞ！！帝都が落ち着いたら、ヴァルハリアの馬鹿どもが来る前にさっさと紅将軍と結婚してしまえ！！！そうでなければ、余とて諦めが付かないのだぞ！！」
「……よろしいのですか？」
やかましい、よろしいもクソもないだろうに。
あぁ…、クソ…。
叶わぬ恋だと理解していたが、こうまで決定的な失恋を味わうと落ち込むな…。
「では……、その勅命、謹んでお受け致します。ですが、条件がございます。」
「条件、とな？」
「はい、この子の名付け親になっていただきたいと存じます。それも皇帝としてではなく、同じ人を愛した良き戦友として、生まれてくる命を祝福していただきたく思います。」
皇帝としてではなく、友として…。
私はその言葉を聞けただけで、この戦争の収穫を得た心地であった。
「約束しよう…。そなたの子は、余……いや、私にとっても愛すべき子である。神など足下にも及ばぬくらいに祝福しよう。」
「ありがとうございます。そのお約束をいただければ、陛下のお望みを少しだけ叶えて差し上げても良いですよ。」
「え…？」
「大恩あるロウガ様のお許しをいただいてから、ということになるでしょうが、龍雅と私。二人揃って帝国にお仕えすることをお約束します。もしもお望みでしたら他の方々もお誘い致しますよ。」
ガガガッ
「陛下、火急のようなれば馬上より失礼致します！！」
「……すまぬ、アルフォンス。返事は後だ。許す、何事か！」
アルフォンスの申し出に驚きのあまりに固まっていると、伝令兵が馬に跨って駆けて来た。
男は余程慌てているようで、息も絶え絶えである。
「レユア広場にて…、乱闘が…！」
「乱闘？」
レユア広場。
それは帝都コクトゥの中央にある美しい景観を誇る広場である。
自然と芸術の調和を目指した広場は、私の曾お爺様の時代に建造されたもの。
しかし、今はこの度の謀叛人たちが繋がれている。
謀叛を起こした張本人たち、その家族、親族肉親。
ほとんど他人と言える程の親戚であろうと捕らえられている。
私の裁きを待つ間、広場で晒し者になっているのだ。
大叔父様が……、あの広場にいるはずなのだが…？
「して、乱闘を起こしているのは何者か。」
まったく…。
こんな時に乱闘など起こして…。
まさか、私の裁可を待たずして報復をしようとしているのか…。
急がねばならない。
それでは教会と何一つ変わらないではないか。
「それが……。」
伝令兵の言葉で、私は弾かれるように馬の腹を蹴って広場に急行した。
同じようにアルフォンスも慌てて、馬を走らせる。
何故。
何故彼らが…！？
乱闘を起こしている者の名。
それは私の片思い、紅龍雅。
そして私の大叔父、リヒャルト＝ルオゥムであった。
11/06/20 00:11更新 / 宿利京祐
戻る
次へ