第八十一話・クスコ川防衛ラインB
戦況はバフォメットの望んだ通りの膠着状態となった。
紅龍雅たちの手によって徐々に水かさを減らしていったクスコ川は、あの轟々と流れていたのが嘘のように穏やかになり、もっとも浅い所では歩いて渡れる程にまで水かさが減っていた。
もっとも歩いて渡れるポイントはごく限られた箇所のみ。
地図と地形を頭に叩き込んだバフォメットや龍雅らの布陣によって、その限られた箇所の防御は特に厚く、容易に突破出来ず、無駄に死者を出し続ける連合軍は土嚢を積みながら川を徐々に渡っていくしかなかった。
すでに帝国軍とセラエノ軍の放った矢で、1000を超える将兵が命を落とし、力なくクスコ川の流れに身を委ね、大地へ帰っていく。
「弓隊、構えぇー………、放て!!!」
最前線で指揮する皇帝、ノエルの号令で再び矢が命を奪う雨となって連合軍に降り注ぐ。
阿鼻叫喚の地獄絵は、連合軍を主役に据え置きクスコ川を朱に染める。
幅の広いクスコ川を半分ほど進んだ状態で連合軍の兵卒、傭兵合わせて約4000は一進一退の攻防を繰り広げていた。
このまま膠着状態が続くのは望ましくない。
しかし、勝利を決定付ける大将首が自ら目の前に現れているのだ、とフィリップ王以下将軍たちは色めき立ち、その膠着状態に兵を送り込んで決着を焦る。
何故、彼らはここまで戦の勝利を焦るのか。
それは彼らの今日までの境遇がもっとも大きく関係していた。
フィリップ王以下、旧フウム王国残党はヴァルハリア教会によって辛うじて王の位や教会直属の軍隊として生き残ったものの、実質国は彼の長男に奪われ、拠る地もない状態であった。
だがヴァルハリア教会大司教、ユリアスがルオゥム帝国を陥落した暁には、その領地を旧フウム王国残党に与えると宣言を出したため、旧フウム王国残党は必死になって攻撃の手を緩める訳にはいかなかったのである。
これには沈黙の天使騎士団などの、本来フウム王国に禄を貰わずとも生きてこれた騎士団や傭兵たちを除くと、旧フウム王国残党は主にジャン1世の政治体制の変革によって王国を追われた没落貴族で構成されていたことが大きかった。
もう一度貴族として、人々の上に立ちたい。
それが彼らの戦意高揚に一役買っていたというのは、もはや隠しようのない事実である。
後にこの混乱期を生き残った者たちが如何に、信仰のためになどと取り繕ったところで、貴族出身者が多かったという事実に、おそらく信仰はこの混乱期において忘れられていたと思われる。
しかし、ヴァルハリア領民兵は違った。
彼らは一層信仰に燃えていた。
ヴァルハリア教会の唱える神の国成就、魔物のいない清らかな正しき世界を作り上げようと剣を握る手に力が漲る。
元々、彼らは考えることを否定する。
教会の言葉は絶対的なもの。
教会は神、神は教会という狂信が常識として、その遺伝子の一片まで染み込んでおり、教会が敵だと言ったものはすべて悪魔であると、抑え込まれた狂暴な牙を剥き出しにする。
だから彼らは退かない。
川の真ん中で膠着するなどという、どんな危険な状況でも彼らは退かない。
そこに悪魔が見えているから。
そこに美しい悪魔が人々を騙し、正しき世界から目を逸らしていると信じている。
そしてその信仰の中に、薄ら暗い欲望が渦巻いていた。
あの美しい悪魔を切り刻みたい。
あの美しい悪魔を嬲り、犯したい。
それが彼らが初めて外の世界に交わったことで知った快感。
自らを悪と認識しない正義の使者を気取り、古の英雄譚に憧れた彼らは、自らを英雄に準えて、教会の信じる正義と神が与えてくれたと信じる快楽に、絶対的な危険の中で歯を食い縛って、土嚢を積み進行する。
虚栄と狂気が手を取り合い、クスコ川を進撃していく。
バフォメットの待ち望んだ、最高の形で膠着状態は訪れたのだった。
―――――――――――――――――――――――
「頃合、じゃな。」
セラエノ軍軍師、バフォメットのイチゴは帝国軍の兵士に退却のラッパを鳴らすように命じると白馬のポニーに跨り、最前線へと躍り出た。
軍師だとわかりやすいように、わざとらしく東洋系の着物を羽織り、羽扇をヒラヒラと扇ぎながら、彼女は誰の目にも明らかな程、禍々しく圧倒的な魔力を解放した姿を現した。
「汝ら、我が声を聞くが良い。」
それは魔力を込めた言霊。
連合軍兵士の耳ではなく、頭に直接語りかける威嚇。
突然、響き渡るイチゴの声にクスコ川を渡ろうとする連合軍兵士は混乱に陥った。
「我こそは神聖ルオゥム帝国の守護神、天魔大将軍バフォメットなり。」
無論、嘘である。
だが、彼女の放つ圧倒的な魔力と存在感が嘘に真実味を持たせていた。
放つ魔力で大気が震える。
イチゴが連合軍に向かって手を伸ばす。
何かが起こるような気がして、川の中の連合軍兵士はビクリと身体を硬直させて身構えた。
イチゴは無言の圧力をかけ続け、数秒の静寂がその場に流れた。
彼らにとっては何時間も感じたであろうその静寂。
不意にイチゴは静かに口を開いた。
「…………………死ね。貴様らにかける情けなど、ない。」
漆黒の魔力が迸る。
信仰と虚栄に満ちた兵士たちが身を竦ませて悲鳴を上げた。
それは彼らにとって恐怖そのもの。
ただ恐怖だけで圧死してしまうような重厚なプレッシャーが彼らを襲う。
その時、ザァという音が微かに兵士たちの耳に届いた。
何だ、何の音だ、と口々に慌てふためく中、イチゴの声がまた彼らの脳を直撃する。
「我が大魔法、貴様らには少々もったいないものじゃが、黄泉路へ旅立つ土産にとくと味わうが良い。案ずることはない。すべては一瞬で終わる。」
微かな音が一瞬で耳元まで届き、轟音となって近付いた。
迫り来る言い知れぬ恐怖に、彼らが轟音の方を振り向くと、その目に映ったのは視界一杯に広がった濁った壁。
岩や折れた樹木を巻き込んだ濁流が目の前に迫っていた。
イチゴの言う通り、それは一瞬。
冷たい水龍の顎は、一瞬にしてクスコ川を進む4000人の兵士を飲み込んだ。
流れてくる岩に潰され、樹木が突き刺さり、多くの幸運な者たちが水の流れで死んでいった。
これはもちろんイチゴの魔法ではない。
川上の龍雅たちが、彼女の合図の下に堰き止めていた川の流れを解き放っただけなのだが、イチゴはただの水計に一つだけアレンジを加えた。
自らの種族がバフォメットであることを利用して、強大な魔力を解放するだけ解放して、敵に恐怖を与え、この水計を彼女の魔法によって引き起こしたように見せかけたのである。
そうすることによって、彼女が対岸にいる間は何度でも同じ目に遭わせるぞという警告になり、連合軍の動きにも重い足枷を付けることが出来ると睨んだのであった。
凄まじい濁流はイチゴの立つ地点スレスレに、冷たい突風と共に荒れ狂う。
水計は大成功。
ノエル帝を餌に使い、クスコ川深く侵入した連合軍将兵の約4000のうち、約8割に当たる人数が死亡、もしくは行方不明となった。
無論、水の流れから命辛々逃れて岸に上がった者もいた。
しかし、運悪く帝国側の岸に上がってしまったものは待ち構えていた帝国軍によって、尽くその血をクスコ川に流し、未だ荒れ狂うクスコ川に捨てられて仲間たちと共に川の流れに消えていく。
「軍師殿、見事であった!」
ノエル帝が馬を走らせ、イチゴに駆け寄った。
イチゴは未だ厳しい表情のまま流されていく連合軍を見詰めていたが、ノエル帝の存在を認識すると、まるで壊れたブリキの玩具のようにギギギ、という音を出さんばかりに震えながら振り返った。
「ここここここ…。」
「……どうされた、軍師殿。鶏の真似か?」
「ここここ、こんなに水の流れが近いなんて聞いてなかったのじゃ…!」
実は当初の予定ではもっと離れた地点を水が流れるはずだったのだが、龍雅たちが堰き止めた水の量は彼女の思惑よりも更に多かったらしく、イチゴの位置スレスレに流れた濁流に、彼女は密かに怖がっていたのだった。
「ま、まぁ……、無事だったから良かったではないか。」
「無事じゃないのじゃ……。」
何のことだかわからないとノエル帝が頭を捻ると、ふとイチゴの足元に、川の水とは明らかに違う水溜りを彼女は発見した。
それはポニーの背中の鞍からチョロチョロと伝い降り、徐々に目に涙が溜まり、プルプルと震えるイチゴの様子と照らし合わせて、ノエル帝は一つの答えに辿り着く。
「ま、まさかそち!?」
「…………お、おちっこ、漏れちった。」
「…………………………………ぷふっ♪」
後にも先にも皇帝、ノエル=ルオゥムが感情を露わにして笑ったのはこれが最初で最後であると、ルオゥム帝国史に記述が残っている。
そして学園都市セラエノ軍が創設以来最初の功績を挙げた者としてイチゴの名が初めて歴史に登場することになるのだが、このお漏らしという事実も同時に記載されてしまったというのは、彼女にとっても不名誉な事件だったであろうと想像に難くない。
―――――――――――――――――――――――
「な、何ということだ!」
フィリップ王は我が目を疑った。
圧倒的な兵力差で優勢を保っていたはずの味方が一瞬にして、濁流に消えてしまったことに、未だ信じられないという表情を浮かべていた。
ノエル帝は正々堂々と信条とする人物。
策など弄するはずもなく、また連合軍も大軍を擁しているため策など弄するべきではないと信じていただけに、彼の落胆は大きかった。
彼がそんな表情を浮かべていると同時に、味方も混乱に陥っていた。
フィリップ王はその混乱を諸将に鎮めさせるよう命令を再三発したが、いずれも効果はなく、特にヴァルハリア領民兵は味方が一瞬で死んでしまったことを信じられずにパニックを起こして、連合軍指揮官の命令など耳に入らないでいた。
ヴァルハリア教会騎士団団長、ヒロ=ハイルの指摘がここで現実のものとなる。
帝国軍と違い、指揮系統が異なる混成軍であった上に、彼らは領民兵の攻撃力を喜び、彼らを厳しい規律で統率することを怠っていた。
無益な虐殺、略奪や凌辱、果ては快楽目的の拷問などの行為を連合軍は野放しにしてきたため、彼らはこの混乱においてもそれを鎮めるだけの技量を発揮出来ずにいたのである。
「帝国に援軍が到着したというのは旗を見てわかっておったが、まさか自然を操る程の大魔導士がいようとは…。しかし、後一押しすれば崩れるかと思えた死に体の帝国軍に味方するとは一体、何処の国からの援軍であろうか。それにあのような旗印、我が記憶にないぞ!」
対岸で魔力を解放していたのがバフォメットだったのを見て、彼は何処かの親魔物国家と神聖ルオゥム帝国が何らかの取引をして、味方しているのだと推理した。
しかし、フウム王国も仮初めとは言え親魔物国家として諸国同盟に連ねていたのだが、彼の記憶の中から魔物として名実共に大物であるバフォメットを、将軍として召抱え、重用する程の国家を検索することが出来なかった。
知らないはずである。
彼らが標的したのは神敵、ロウガ。
そして名もなき町だったからである。
この時、名もなき町が学園都市セラエノとその名を改め、赤い蝶の旗印を翻し何の見返りもなく、ただ連合軍の理不尽な侵攻を見過ごせないという大義だけで、反魔物国家である神聖ルオゥム帝国に味方したのだとは知る由もなかった。
「……だが、今考えている暇はない。こうまで態勢が崩れてしまっては、今日中にあの大河を渡るなど不可能に近い。ここは一刻も早く大司教猊下に進言し、本陣ごと一時後退し態勢を整え直さねば…。」
「ご、ご報告致します!」
混乱の最中、早馬に乗った伝令が、荒い息をして、もつれそうな足で駆け付けて来た。
「何事か!」
「りょ、両翼より所属不明の敵が上がって参りました!」
「何だと!?まさか、やつら我らよりも先にこちら側へと渡っておったと言うのか!」
その時、うわぁっ、という悲鳴が一斉に上がる。
紅蓮の蝶の群れが混乱し、浮き足立った連合軍を急襲した。
右翼から上がってくるセラエノ軍の先頭を行くのは、紅龍雅。
オリハルコン造りの大太刀を抜き、力強く駆け抜ける黒馬の速さと共に群がる連合軍兵を薙ぎ倒し、混乱に陥った敵陣を更なる混乱の渦へと引き摺り込むように、無人の野を行くが如く分断していく。
それに追随するのはアルフォンス以下、騎兵で構成された歴戦の傭兵たち。
傭兵を調達したヘンリー=ガルドは、ロウガが神聖ルオゥム帝国への援軍を送るとなると、兵は神速を尊ぶという兵法書にある通りの電撃戦となるであろうと睨み、熟練の騎兵を大勢雇った。
普通の行軍ならば1週間の道程を、1日でも短縮出来るようにという配慮と兵法書に則ったヘンリーの機転によって集められた騎兵たちは今、龍雅の指揮によって如何なくその機動力と威力を発揮していた。
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の兵の大半は歩兵で構成されていた。
元々練度の低い領民兵に馬術を学ぶ時間はなく、それ以前に古い伝統に固執した王国残党と教会首脳陣によって、騎兵は貴人や騎士だけに神から与えられた特権であるという意識の下、連合軍はその兵種の幅は狭かった。
頭上の有利は大きい。
アルフォンスが20kgもの超重量を誇る鋼造りの大薙刀を馬上から振り下ろす。
それだけで兵は兜ごと、鎧ごと斬り殺され、大地に血を流して倒れていく。
正面に大魔導士。
右翼からは紅蓮の豪将たち。
そして左翼からも紅蓮のアマゾネスたちが攻め上って来る。
アキ率いるアマゾネス部隊は龍雅たちとは対照的に、急襲をするのではなく、まるで連合軍を嬲るように、攻めては退き、攻めるかと思えば蛇行しながら近付かないというように彼らの不安を煽り、兵の数、兵の精神を削っていく。
逃げ惑う兵士たちで戦場の混乱が頂点に達する。
すると龍雅は自ら率いる右翼軍に制止の合図を送ると、ゆったりとした動作で戦場のど真ん中で逃げ惑う連合軍、未だ攻めの手を緩めないアキたちの進撃を眺め目を細めると、軍旗を一本大地に突き刺し、名乗りを上げた。
「我こそは学園都市セラエノ軍が総大将、紅龍雅。危機に瀕した神聖ルオゥム帝国を、汝ら不義の輩より救わんと義によって助太刀致す者なり!我が殿は沢木上総乃丞狼牙。汝らが神敵と謳う、かの男である!」
その声にフィリップ王は身を乗り出して、短く驚きの声を上げた。
龍雅の名乗りで初めて、援軍は彼らの本来の敵であることを知る。
そんな連合軍の様子を、腹の中で笑いを噛み殺して龍雅は大太刀を肩に担ぎ、再び進撃の号令を発した。
「さあ、諸君。これが我ら紅蝶旗の初陣ぞ。精々派手に名乗りを上げよ。精々派手に武功を立てよ。我らセラエノ軍の勇名を、この戦で人々の脳裏に刻むぞ!」
黒馬が再び力強く敵陣を駆ける。
彼らは改めて思い知る。
彼らが神敵と呼んだ者たちが如何に強かったかを。
クゥジュロ草原の敗戦に引き続き、フィリップ王はここでも混乱する兵卒たちを制御することが出来ず、再び前線崩壊を招き、クスコ川対岸からさらに3里後退するという汚名を歴史に残すこととなる。
これにより帝国はその勢力図を若干ではあるものの取り戻すことに成功する。
クスコ川両岸を再び勢力下に治めたことにより、前衛にセラエノ軍と皇帝直属軍が鉄壁の陣を敷き、後衛にイチゴたちが統括する双子将軍たちの弓兵がより堅固な防御柵を築き、開戦当初では想像も出来なかった鉄壁の防御を手に入れることになったのである
紅龍雅たちの手によって徐々に水かさを減らしていったクスコ川は、あの轟々と流れていたのが嘘のように穏やかになり、もっとも浅い所では歩いて渡れる程にまで水かさが減っていた。
もっとも歩いて渡れるポイントはごく限られた箇所のみ。
地図と地形を頭に叩き込んだバフォメットや龍雅らの布陣によって、その限られた箇所の防御は特に厚く、容易に突破出来ず、無駄に死者を出し続ける連合軍は土嚢を積みながら川を徐々に渡っていくしかなかった。
すでに帝国軍とセラエノ軍の放った矢で、1000を超える将兵が命を落とし、力なくクスコ川の流れに身を委ね、大地へ帰っていく。
「弓隊、構えぇー………、放て!!!」
最前線で指揮する皇帝、ノエルの号令で再び矢が命を奪う雨となって連合軍に降り注ぐ。
阿鼻叫喚の地獄絵は、連合軍を主役に据え置きクスコ川を朱に染める。
幅の広いクスコ川を半分ほど進んだ状態で連合軍の兵卒、傭兵合わせて約4000は一進一退の攻防を繰り広げていた。
このまま膠着状態が続くのは望ましくない。
しかし、勝利を決定付ける大将首が自ら目の前に現れているのだ、とフィリップ王以下将軍たちは色めき立ち、その膠着状態に兵を送り込んで決着を焦る。
何故、彼らはここまで戦の勝利を焦るのか。
それは彼らの今日までの境遇がもっとも大きく関係していた。
フィリップ王以下、旧フウム王国残党はヴァルハリア教会によって辛うじて王の位や教会直属の軍隊として生き残ったものの、実質国は彼の長男に奪われ、拠る地もない状態であった。
だがヴァルハリア教会大司教、ユリアスがルオゥム帝国を陥落した暁には、その領地を旧フウム王国残党に与えると宣言を出したため、旧フウム王国残党は必死になって攻撃の手を緩める訳にはいかなかったのである。
これには沈黙の天使騎士団などの、本来フウム王国に禄を貰わずとも生きてこれた騎士団や傭兵たちを除くと、旧フウム王国残党は主にジャン1世の政治体制の変革によって王国を追われた没落貴族で構成されていたことが大きかった。
もう一度貴族として、人々の上に立ちたい。
それが彼らの戦意高揚に一役買っていたというのは、もはや隠しようのない事実である。
後にこの混乱期を生き残った者たちが如何に、信仰のためになどと取り繕ったところで、貴族出身者が多かったという事実に、おそらく信仰はこの混乱期において忘れられていたと思われる。
しかし、ヴァルハリア領民兵は違った。
彼らは一層信仰に燃えていた。
ヴァルハリア教会の唱える神の国成就、魔物のいない清らかな正しき世界を作り上げようと剣を握る手に力が漲る。
元々、彼らは考えることを否定する。
教会の言葉は絶対的なもの。
教会は神、神は教会という狂信が常識として、その遺伝子の一片まで染み込んでおり、教会が敵だと言ったものはすべて悪魔であると、抑え込まれた狂暴な牙を剥き出しにする。
だから彼らは退かない。
川の真ん中で膠着するなどという、どんな危険な状況でも彼らは退かない。
そこに悪魔が見えているから。
そこに美しい悪魔が人々を騙し、正しき世界から目を逸らしていると信じている。
そしてその信仰の中に、薄ら暗い欲望が渦巻いていた。
あの美しい悪魔を切り刻みたい。
あの美しい悪魔を嬲り、犯したい。
それが彼らが初めて外の世界に交わったことで知った快感。
自らを悪と認識しない正義の使者を気取り、古の英雄譚に憧れた彼らは、自らを英雄に準えて、教会の信じる正義と神が与えてくれたと信じる快楽に、絶対的な危険の中で歯を食い縛って、土嚢を積み進行する。
虚栄と狂気が手を取り合い、クスコ川を進撃していく。
バフォメットの待ち望んだ、最高の形で膠着状態は訪れたのだった。
―――――――――――――――――――――――
「頃合、じゃな。」
セラエノ軍軍師、バフォメットのイチゴは帝国軍の兵士に退却のラッパを鳴らすように命じると白馬のポニーに跨り、最前線へと躍り出た。
軍師だとわかりやすいように、わざとらしく東洋系の着物を羽織り、羽扇をヒラヒラと扇ぎながら、彼女は誰の目にも明らかな程、禍々しく圧倒的な魔力を解放した姿を現した。
「汝ら、我が声を聞くが良い。」
それは魔力を込めた言霊。
連合軍兵士の耳ではなく、頭に直接語りかける威嚇。
突然、響き渡るイチゴの声にクスコ川を渡ろうとする連合軍兵士は混乱に陥った。
「我こそは神聖ルオゥム帝国の守護神、天魔大将軍バフォメットなり。」
無論、嘘である。
だが、彼女の放つ圧倒的な魔力と存在感が嘘に真実味を持たせていた。
放つ魔力で大気が震える。
イチゴが連合軍に向かって手を伸ばす。
何かが起こるような気がして、川の中の連合軍兵士はビクリと身体を硬直させて身構えた。
イチゴは無言の圧力をかけ続け、数秒の静寂がその場に流れた。
彼らにとっては何時間も感じたであろうその静寂。
不意にイチゴは静かに口を開いた。
「…………………死ね。貴様らにかける情けなど、ない。」
漆黒の魔力が迸る。
信仰と虚栄に満ちた兵士たちが身を竦ませて悲鳴を上げた。
それは彼らにとって恐怖そのもの。
ただ恐怖だけで圧死してしまうような重厚なプレッシャーが彼らを襲う。
その時、ザァという音が微かに兵士たちの耳に届いた。
何だ、何の音だ、と口々に慌てふためく中、イチゴの声がまた彼らの脳を直撃する。
「我が大魔法、貴様らには少々もったいないものじゃが、黄泉路へ旅立つ土産にとくと味わうが良い。案ずることはない。すべては一瞬で終わる。」
微かな音が一瞬で耳元まで届き、轟音となって近付いた。
迫り来る言い知れぬ恐怖に、彼らが轟音の方を振り向くと、その目に映ったのは視界一杯に広がった濁った壁。
岩や折れた樹木を巻き込んだ濁流が目の前に迫っていた。
イチゴの言う通り、それは一瞬。
冷たい水龍の顎は、一瞬にしてクスコ川を進む4000人の兵士を飲み込んだ。
流れてくる岩に潰され、樹木が突き刺さり、多くの幸運な者たちが水の流れで死んでいった。
これはもちろんイチゴの魔法ではない。
川上の龍雅たちが、彼女の合図の下に堰き止めていた川の流れを解き放っただけなのだが、イチゴはただの水計に一つだけアレンジを加えた。
自らの種族がバフォメットであることを利用して、強大な魔力を解放するだけ解放して、敵に恐怖を与え、この水計を彼女の魔法によって引き起こしたように見せかけたのである。
そうすることによって、彼女が対岸にいる間は何度でも同じ目に遭わせるぞという警告になり、連合軍の動きにも重い足枷を付けることが出来ると睨んだのであった。
凄まじい濁流はイチゴの立つ地点スレスレに、冷たい突風と共に荒れ狂う。
水計は大成功。
ノエル帝を餌に使い、クスコ川深く侵入した連合軍将兵の約4000のうち、約8割に当たる人数が死亡、もしくは行方不明となった。
無論、水の流れから命辛々逃れて岸に上がった者もいた。
しかし、運悪く帝国側の岸に上がってしまったものは待ち構えていた帝国軍によって、尽くその血をクスコ川に流し、未だ荒れ狂うクスコ川に捨てられて仲間たちと共に川の流れに消えていく。
「軍師殿、見事であった!」
ノエル帝が馬を走らせ、イチゴに駆け寄った。
イチゴは未だ厳しい表情のまま流されていく連合軍を見詰めていたが、ノエル帝の存在を認識すると、まるで壊れたブリキの玩具のようにギギギ、という音を出さんばかりに震えながら振り返った。
「ここここここ…。」
「……どうされた、軍師殿。鶏の真似か?」
「ここここ、こんなに水の流れが近いなんて聞いてなかったのじゃ…!」
実は当初の予定ではもっと離れた地点を水が流れるはずだったのだが、龍雅たちが堰き止めた水の量は彼女の思惑よりも更に多かったらしく、イチゴの位置スレスレに流れた濁流に、彼女は密かに怖がっていたのだった。
「ま、まぁ……、無事だったから良かったではないか。」
「無事じゃないのじゃ……。」
何のことだかわからないとノエル帝が頭を捻ると、ふとイチゴの足元に、川の水とは明らかに違う水溜りを彼女は発見した。
それはポニーの背中の鞍からチョロチョロと伝い降り、徐々に目に涙が溜まり、プルプルと震えるイチゴの様子と照らし合わせて、ノエル帝は一つの答えに辿り着く。
「ま、まさかそち!?」
「…………お、おちっこ、漏れちった。」
「…………………………………ぷふっ♪」
後にも先にも皇帝、ノエル=ルオゥムが感情を露わにして笑ったのはこれが最初で最後であると、ルオゥム帝国史に記述が残っている。
そして学園都市セラエノ軍が創設以来最初の功績を挙げた者としてイチゴの名が初めて歴史に登場することになるのだが、このお漏らしという事実も同時に記載されてしまったというのは、彼女にとっても不名誉な事件だったであろうと想像に難くない。
―――――――――――――――――――――――
「な、何ということだ!」
フィリップ王は我が目を疑った。
圧倒的な兵力差で優勢を保っていたはずの味方が一瞬にして、濁流に消えてしまったことに、未だ信じられないという表情を浮かべていた。
ノエル帝は正々堂々と信条とする人物。
策など弄するはずもなく、また連合軍も大軍を擁しているため策など弄するべきではないと信じていただけに、彼の落胆は大きかった。
彼がそんな表情を浮かべていると同時に、味方も混乱に陥っていた。
フィリップ王はその混乱を諸将に鎮めさせるよう命令を再三発したが、いずれも効果はなく、特にヴァルハリア領民兵は味方が一瞬で死んでしまったことを信じられずにパニックを起こして、連合軍指揮官の命令など耳に入らないでいた。
ヴァルハリア教会騎士団団長、ヒロ=ハイルの指摘がここで現実のものとなる。
帝国軍と違い、指揮系統が異なる混成軍であった上に、彼らは領民兵の攻撃力を喜び、彼らを厳しい規律で統率することを怠っていた。
無益な虐殺、略奪や凌辱、果ては快楽目的の拷問などの行為を連合軍は野放しにしてきたため、彼らはこの混乱においてもそれを鎮めるだけの技量を発揮出来ずにいたのである。
「帝国に援軍が到着したというのは旗を見てわかっておったが、まさか自然を操る程の大魔導士がいようとは…。しかし、後一押しすれば崩れるかと思えた死に体の帝国軍に味方するとは一体、何処の国からの援軍であろうか。それにあのような旗印、我が記憶にないぞ!」
対岸で魔力を解放していたのがバフォメットだったのを見て、彼は何処かの親魔物国家と神聖ルオゥム帝国が何らかの取引をして、味方しているのだと推理した。
しかし、フウム王国も仮初めとは言え親魔物国家として諸国同盟に連ねていたのだが、彼の記憶の中から魔物として名実共に大物であるバフォメットを、将軍として召抱え、重用する程の国家を検索することが出来なかった。
知らないはずである。
彼らが標的したのは神敵、ロウガ。
そして名もなき町だったからである。
この時、名もなき町が学園都市セラエノとその名を改め、赤い蝶の旗印を翻し何の見返りもなく、ただ連合軍の理不尽な侵攻を見過ごせないという大義だけで、反魔物国家である神聖ルオゥム帝国に味方したのだとは知る由もなかった。
「……だが、今考えている暇はない。こうまで態勢が崩れてしまっては、今日中にあの大河を渡るなど不可能に近い。ここは一刻も早く大司教猊下に進言し、本陣ごと一時後退し態勢を整え直さねば…。」
「ご、ご報告致します!」
混乱の最中、早馬に乗った伝令が、荒い息をして、もつれそうな足で駆け付けて来た。
「何事か!」
「りょ、両翼より所属不明の敵が上がって参りました!」
「何だと!?まさか、やつら我らよりも先にこちら側へと渡っておったと言うのか!」
その時、うわぁっ、という悲鳴が一斉に上がる。
紅蓮の蝶の群れが混乱し、浮き足立った連合軍を急襲した。
右翼から上がってくるセラエノ軍の先頭を行くのは、紅龍雅。
オリハルコン造りの大太刀を抜き、力強く駆け抜ける黒馬の速さと共に群がる連合軍兵を薙ぎ倒し、混乱に陥った敵陣を更なる混乱の渦へと引き摺り込むように、無人の野を行くが如く分断していく。
それに追随するのはアルフォンス以下、騎兵で構成された歴戦の傭兵たち。
傭兵を調達したヘンリー=ガルドは、ロウガが神聖ルオゥム帝国への援軍を送るとなると、兵は神速を尊ぶという兵法書にある通りの電撃戦となるであろうと睨み、熟練の騎兵を大勢雇った。
普通の行軍ならば1週間の道程を、1日でも短縮出来るようにという配慮と兵法書に則ったヘンリーの機転によって集められた騎兵たちは今、龍雅の指揮によって如何なくその機動力と威力を発揮していた。
ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍の兵の大半は歩兵で構成されていた。
元々練度の低い領民兵に馬術を学ぶ時間はなく、それ以前に古い伝統に固執した王国残党と教会首脳陣によって、騎兵は貴人や騎士だけに神から与えられた特権であるという意識の下、連合軍はその兵種の幅は狭かった。
頭上の有利は大きい。
アルフォンスが20kgもの超重量を誇る鋼造りの大薙刀を馬上から振り下ろす。
それだけで兵は兜ごと、鎧ごと斬り殺され、大地に血を流して倒れていく。
正面に大魔導士。
右翼からは紅蓮の豪将たち。
そして左翼からも紅蓮のアマゾネスたちが攻め上って来る。
アキ率いるアマゾネス部隊は龍雅たちとは対照的に、急襲をするのではなく、まるで連合軍を嬲るように、攻めては退き、攻めるかと思えば蛇行しながら近付かないというように彼らの不安を煽り、兵の数、兵の精神を削っていく。
逃げ惑う兵士たちで戦場の混乱が頂点に達する。
すると龍雅は自ら率いる右翼軍に制止の合図を送ると、ゆったりとした動作で戦場のど真ん中で逃げ惑う連合軍、未だ攻めの手を緩めないアキたちの進撃を眺め目を細めると、軍旗を一本大地に突き刺し、名乗りを上げた。
「我こそは学園都市セラエノ軍が総大将、紅龍雅。危機に瀕した神聖ルオゥム帝国を、汝ら不義の輩より救わんと義によって助太刀致す者なり!我が殿は沢木上総乃丞狼牙。汝らが神敵と謳う、かの男である!」
その声にフィリップ王は身を乗り出して、短く驚きの声を上げた。
龍雅の名乗りで初めて、援軍は彼らの本来の敵であることを知る。
そんな連合軍の様子を、腹の中で笑いを噛み殺して龍雅は大太刀を肩に担ぎ、再び進撃の号令を発した。
「さあ、諸君。これが我ら紅蝶旗の初陣ぞ。精々派手に名乗りを上げよ。精々派手に武功を立てよ。我らセラエノ軍の勇名を、この戦で人々の脳裏に刻むぞ!」
黒馬が再び力強く敵陣を駆ける。
彼らは改めて思い知る。
彼らが神敵と呼んだ者たちが如何に強かったかを。
クゥジュロ草原の敗戦に引き続き、フィリップ王はここでも混乱する兵卒たちを制御することが出来ず、再び前線崩壊を招き、クスコ川対岸からさらに3里後退するという汚名を歴史に残すこととなる。
これにより帝国はその勢力図を若干ではあるものの取り戻すことに成功する。
クスコ川両岸を再び勢力下に治めたことにより、前衛にセラエノ軍と皇帝直属軍が鉄壁の陣を敷き、後衛にイチゴたちが統括する双子将軍たちの弓兵がより堅固な防御柵を築き、開戦当初では想像も出来なかった鉄壁の防御を手に入れることになったのである
11/03/04 21:42更新 / 宿利京祐
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