第七十話・裂けた胸踊らせ空しさに問う
「……ふぅ。」
ウェールズを店の裏口から見送って、私はちょっとだけ溜息を吐く。
まったくもって面倒臭い子。
なまじ知恵なんか持っているから、あそこまで落ち込まなきゃいけない。
もっとも、落ち込んで悩んで色んな可能性を秘めているから人間とは面白い。
さて……、もう一個だけ片付けようかしら。
「出て来なさいな。もう、行っちゃいましたよ。」
裏路地の向こう側で何かがビクリと驚く気配がする。
「完璧に気配が消えていましたけど、残念でしたね。あの子は本当に気が付いていませんでしたけど、私は死人。死んでいる者は生きている者を敏感に感じ取るんですよ♪」
もちろん、嘘。
でも、生前から私の耳は地獄耳だったから、僅かな息遣いでも私の耳には十分届く。
死なない限り人は呼吸をして、心臓は絶えず鼓動を鳴らして生きていることをアピールする。
もう、私には思い出でしかないけれど…。
物陰から出てきたのは傷だらけのドラゴン。
もう何日も前からうちの店を外から見ていた人。
「……気付いていたんだ。」
「ええ、ずっと前から。あの子を見張って……、違いますね。ずっと見守っていた視線には気が付いていましたよ。」
作業着姿のドラゴンは一言、そっか、と呟いて安堵したように大きく息を吐く。
この人が、きっとあの子の母親…。
いや、育ての親か。
「飛び出したかったでしょう。ずっと会いたかった我が子を、その手で抱きしめたかったでしょう。でも、よく我慢してくれました。そうでなければ、彼の成長はありえませんでしたから…。」
「……別に、そんな殊勝な考えじゃないよ。あたいはただ…、どんな顔してあの子に会えば良いのかわからなかっただけなんだから。あの子を見捨てて、あの子が苦しんでいる時に、あたいは命辛々逃げ続けていた。そんなあたいに、母親面が出来るとは思えなかっただけさ…。」
「………よく似た親子。」
本当に真面目で融通が利かなくて、自分に厳しいですこと。
「そんなあなたを彼は待っていますよ。待ってて、今も探して、追い続けて…。憎しみに心を歪めて鬼に成りかけていたくらいです。会えば良いんですよ、親子なら。」
「…………………………。」
あらら、黙っちゃった。
「別に悲嘆にくれる必要はないですよ。これ、私が出した占いの結果です♪」
割烹着の袖から一枚のカードを取り出す。
彼が休んだ時、私が休憩中の時に何度やっても、このカードだけは必ず出てきた。
「そりゃあ…、一体?」
「愚者のカード。名前からしたら彼にピッタリのカードですけど、悪い意味じゃありません。出発、自由…、あらゆる意味での出発点を意味するカードが、ウェールズを占うと必ず出るのです。彼はまだ出発すらしていない、この町に来るまで時間が止まったままだった。でも、彼は私でもない、そしてあなたでもない。彼はきっと生まれて初めてガーベラという少女を救いたいと、他の誰でもない、ウェールズ=ドライグという人間によって突き動かされた。これは他の誰でもなく、あなたが喜ぶべきではないでしょうか。」
「……あたいは喜んでも良いのかな。」
「ええ、もちろん。あなたでなければ、誰が喜ぶというんですか。さぁ、こんなとこで立ち話も何ですから、是非うちの店で飲んでいってくださいな。私も今日は気分が良いんで、奢りますよ♪」
―――――――――――――――――――――――
臨時休業の札が下がったテンダーは静寂に包まれていた。
ルゥとその夫、ジャックがもしも店の女の子や、客に何かがあったら大変だと、その日の営業を9時までにして、ネヴィアを狙う暗殺者に備えていた。
ネヴィアの部屋にはアスティアが。
そしてその隣の部屋にはロウガが待機する。
ルゥは力になれない、と自室で3人の無事を祈った。
ジャックはそんな自分の無力さを嘆く妻を気遣い、暖かいミルクを作って励ましの言葉をかけた。
娼婦たちは事情を知らず、いつもより早い終業を喜び、ある者は仲間内で夜の繁華街へ繰り出し、ある者は自分を待つ思い人の下へと走るなど思い思いに過ごしていた。
時間だけがゆっくりと過ぎていく。
予告時刻まで後僅か。
ネヴィアの部屋はランプの頼りない灯りの中、重苦しい空気が漂っていた。
「…アスティア様、もしもの時はどうぞ私のことなどお構いくださいませんよう。」
それは、もしものことがあれば自害するという宣言だった。
「私がこの町へ来なければ…、皆様に迷惑がかかることもございませんでした。元々、来るべきではなかったのです。我らの主も、あなた方の傍観者でいることを望んでおりました。しかし……、私はこの町へ来たかったのです。私の我侭のために、単身あなた方の下へと参りました。その結果が……、こんなことになろうとは思いもしませんでした。」
壁にもたれたアスティアは、静かな笑顔で答えた。
「もしもの時は……、と言いましても、私は聞けませんね。私はあなたを守るため夫と共にこうして張り込んでいますが、あなたを見殺しにするように私は命令を受けてはいませんから。それに、あなたの言うもしもはありえない。」
「…それはどうしてでしょう。私の命を狙う者はその顔を自在に変え、余程のことがない限り失敗をしないという者ではなかったのですか?」
アスティアは何の迷いもない声で言う。
「確かに良い腕をした暗殺者だと聞いてはいますね。ですが、ここにいるのは私だ。かつてエレナと名乗り、教会と敵対し、この剣一本で世界を滅ぼし、その憎しみで自ら滅ぶことを望んだ私と、その憎しみに負けず、遥か彼方の地平から来たロウガがいるのです。高が暗殺者風情に遅れを取る程、二人とも歳は取っていないつもりですよ。なぁ、ロウガ。」
アスティアは壁をノックして、ロウガを呼ぶ。
しかし、ロウガの返事はない。
まさかすでに刺客が侵入したのか、とアスティアとネヴィアに戦慄が走った。
「アスティア様…!」
「静かに……。様子を探ってみます。」
アスティアが壁に耳を付けて、隣の部屋の音を探る。
娼館の一室であるため壁はそこそこ厚く、音を拾いにくい状態ではあるが、アスティアは意識を集中して隣のロウガの様子を探った。
「……………………………グゥ。」
間抜けなイビキにアスティアはこけて、思わず壁に頭を叩き付けてしまった。
アスティアの肩がワナワナと震えている。
「ア……、アスティア様…?」
何が起こったのかわからないネヴィアは困惑していた。
だが、そんなネヴィアを尻目にアスティアは怒りを露わにしていた。
「ロウガ!だからあれ程昼間に少し寝ておけと言っておいただろう!!起きろ、さっさと起きて少し準備体操くらいしておけこの馬鹿ッ!!!」
ドガン
アスティアが怒鳴って壁を蹴り飛ばす。
壁の向こうで何かが落ちる音が聞こえた後、しばらくして弱々しく隣の部屋のドアが開く。
そして何かが這いずり回るような音が二人の部屋の前で止まると、キィとドアが開き、今にも眠りそうな顔のロウガが顔を出す。
「………すまん。コーヒー淹れてくれ。」
言い終わる前にロウガは倒れ、そのまま寝息を立てていた。
刺客に睡眠薬を盛られたのではない。
彼は、本当に眠かったのである。
ネヴィアもアスティアも連日連夜の彼の仕事振りを知っているため、起こすのが少々気の毒になり、予告時刻までの数分間だけでも寝かせてあげることにしたのであった。
そして、12時の鐘が鳴り響く。
どこからともなく、圧倒的な闇を纏ったような男が娼館の前に立っていた。
時刻通り。
代行者アルスタイトらしい、開幕のはずだった。
時刻通りにゲームを始めるつもりだった彼の目の前、風にカタカタと鳴る臨時休業の札のかかったドアの前に、一人の少女が腕組みをして仁王立ちしていた。
足りない技量は、ありったけの勇気で。
足りない勇気は、ありったけの憧れで。
腰に短剣を差したガーベラは、強く真っ直ぐな瞳でアルスタイトを待ち構えていた。
―――――――――――――――――――――――
「こんばんは、お嬢さん。良い夜ですね。」
この人が天使様を狙う人。
顔も名前も知らないけど、これだけはわかる。
この人は人間じゃない。
人間はこんなに怖くないもの。
笑顔がひどく氷のように冷たくて、腕を組んでいないと怖くて逃げてしまいそうになる。
お願い……、剣士さん…。
あなたが来てくれなくても良いの。
私に……、あなたの強さをちょっとだけください。
「退いていただけませんか。私はこれから、とてもとても大事なお仕事があるのですよ。あなたのような世界の汚物が存在していることは許せませんが、今は見逃してあげますよ。私は斬奸状を送った以上は、送った方以外を殺すのは主義に反しますのでね。さぁ、私の気が変わらないうちにお逃げなさい。早くしないと、嬲り殺しますからね。」
嘘はない。
この人は、本気だ。
この人も教会の人。
私たちを、命として見ていない悪魔なんだとわかる。
「ど、退かない!私はここからいなくなったら、あんたは天使様を狙うんでしょ!?」
「狙う?違いますよ。これだから低脳なゴミは嫌なんですよね。私は彼女を本来あるべき姿に戻してあげるのです。完璧な美を持つ者は、神の所有物。元々彼女は神の物。それを堕落した神が奪い去ったのですよ。ならば、簡単。穢れた肉体から彼女の魂を解き放ち、安息に満ちた神の御許で星のように煌々と輝き続けることこそが、彼女にとっても唯一絶対にして、至高の喜びなのです。斬奸状など送りましたが、これはあくまで聖なる儀式なのです。」
闇だ。
深くて、絶対の光も届かない闇そのものだ…。
「さぁ……、お退きなさい。」
闇が右腕を振ると、その手首から銀色の刃物が飛び出した。
笑顔のまま、近付いてくる闇に逃げ出したい衝動に駆られた。
怖い…。
怖いよ…!
こんなことするんじゃなかった…。
こんなに怖い思いを思い出すくらいなら最初から逃げるんだった…!
「退かない!」
でも…、逃げちゃ駄目だ。
私は…、天使様を守りたい!
「……やはり、ゴミはゴミですか。神に唾する輩に、説得など所詮無駄な時間だったようですね。死になさい。死んで神の御許で許しを請い、地獄に落ちてしまいなさい。」
「死んだって…、私は退くもんか!!」
死神の鎌のように、闇が腕を引く。
きっとこのまま腕を突き出されて、私は死ぬ。
それでも、絶対に退いちゃいけない。
天使様のためにも。
そして、きっと剣士さんなら絶対に退かないから。
「さようなら。あなたが地獄で受ける責め苦で、その穢れた魂が消滅しますように。」
右腕に力が入って、突き出される。
私は怖くて、力一杯目を閉じて、唇を噛んでいた。
―――――――――――――――――――――――
アルスタイトの右腕にガーベラを突き刺した感触はなかった。
ただ空を切り、ガーベラの姿は消え失せていた。
アルスタイトが視線を移すと、自分によく似た空気を纏う男が恐怖に震えるガーベラを大事そうに抱きかかえていた。
「……………今夜は邪魔が多いのですね。」
「…ああ、そのようだな。もっとも、俺はお前たち教会に恨みを持っていて、俺はお前が嫌いらしい。邪魔だと思うんだったら、何度でも邪魔をしてやろう。」
力一杯目を閉じていたガーベラはウェールズの声に驚いて、目を見開き震える声で彼の名を呼ぶ。
「剣士……さん…、どうして…。」
「…どうしても何も、俺を呼んだのはお前だ。」
ウェールズは乱暴に彼女の頭を撫でる。
「…よく、頑張った。」
その光景を呆れる様に見ていたアルスタイトは、手元の懐中時計を見て驚きの声を上げた。
「これはいけない。約束の時間に5分も遅れてしまいました。」
「安心しろ。貴様に約束の時間など来ない。永遠にな。」
ゆらりとウェールズが、ガーベラを放し立ち上がる。
自分の着けていたマントで震えるガーベラを包むと、彼は彼女にしか聞こえない声で呟いた。
「……………ガーベラ。お前の勇気を分けてもらうぞ。」
「え。」
彼女は驚いた。
初めてウェールズに柔らかい口調で話しかけられ、名前を呼んでもらったことに。
ウェールズとアルスタイトが歩み寄る。
お互いが無遠慮に間合いに侵入し合う。
ウェールズの居合いの間合いにアルスタイトは自然体のまま。
アルスタイトの短い間合いをウェールズが嘲笑うかのように警戒すらしない。
「神への供物を待たせてしまいますので、手短に済ませましょう。お退きなさいとは言いません。……死ね。」
「やはり、思った通りのようだな。貴様は神の下僕を気取っているが、所詮ただの殺人鬼。殺しが楽しくて楽しくて堪らない典型的な殺人鬼。俺と同類の…、いや、俺の同類だった者よ。俺は死ぬ訳にはいかぬ。お前と違って俺には待っている者がいるんでな。」
それはまるで西部劇の決闘の場面のように。
二人は示し合わせたように互いに剣を抜く。
「特に貴様には負けられん。俺と同類に殺られるなど、目覚めが悪くて適わない。」
傷だらけの刃が暗殺者を襲う。
暗殺者はまるで見透かすように距離を開けては、踏み込んで間合いを詰める。
それは僅か一瞬の出来事。
ウェールズのマントを握り締めて見守るガーベラの目には、一瞬だけ月明かりに刃が煌いたような気がしたくらいにしか映らなかった。
アルスタイトは驚いていた。
これまでどんな妨害にも決して避けることなく、痛みを感じられない身体に任せてどんな刃も最小の動きで急所を避けて標的を仕留めていた彼が、ウェールズの閃光に、言い知れぬ恐怖を感じて、暗殺者として生きて以来初めて自ら下がったのである。
一方でウェールズは冷静だった。
自分の抜刀術に自信過剰になってサクラに敗北したことで、彼の中に自らの技に絶対的な自信はなくなっていた。
あらゆる敵を屠った技であろうと、避けられる者は難なく避けるのだ。
そういった他者を認められるようになったのも、すべては敗北から学んだこと。
そして命ある限り、何度でも立ち上がる勇気を少女にもらったから。
アルスタイトの右腕に仕込んだブレードが、まるで殴りかかるような軌道でウェールズを襲う。
紙一重で避けるウェールズの耳に、ヒュンという風を切る死神の足音が届く。
何度も耳にした音だというのに、ウェールズの中に初めて、氷のような恐怖が走る。
彼は復讐に身を染めていた時は、死を恐れていなかった。
いや、恐れていなかったのではない。
自分の命から目を逸らしていたのであった。
だが、彼は生まれて初めて死にたくないと思っていた。
それは初めて知った自分の居場所のため。
初めて理解した自分の剣を取る意味のため。
そして自分を信じ続ける少女の目の前で死にたくないという思いのために。
「遅いですね。」
「チィ!」
しばらくの間、剣から逃げていたツケなのか。
それとも死にたくないという迷いが身体を鈍らせたのか。
迫るアルスタイトのブレードに、ウェールズは苦し紛れに抜刀術で加速した剣をぶつけ離脱を図る。
ガギィッ
金属が弾かれる鈍い音がして、二人が距離を開ける。
ガーベラの目には何が起こったのかが見えていない。
しかし、事態はウェールズにとって深刻だった。
傷だらけの剣は亀裂が入り、衝撃で彼の右腕は痺れてしまって言うことを聞かない。
カタカタと右腕の震えに合わせて、剣が落ち着きなく鳴った。
一方でアルスタイトは無傷。
それどころかウェールズの右腕の感覚を奪ったような衝撃でも、痛みを感じない身体は普段と変わらず、軽快な動きを見せていた。
痛みを感じない、ということは生物として痛みを恐怖する本能の欠如と言って良いだろう。
痛みに恐怖しないのだから、彼はしっかりとウェールズの剣がぶつかる瞬間まで、どのポイントでぶつければ自分の得物を無傷に済まし、相手の得物や身体に致命的な衝撃を与えられるかというところまで見ていたのである。
ウェールズは、もう抜刀術を使えない。
それは彼にとって翼をもがれたようなものである。
「剣士さん…!」
不安そうなガーベラの声がウェールズの耳に届く。
だが、振り返って安心させる余裕などなかった。
不用意に振り向けば、首と胴体が分かれてしまう。
「初めてでしたよ。私が恐怖で一歩下がるなんて。こういう決闘は野蛮で私の好むところではありませんでしたが、たまには食わず嫌いもやってみるものですね。素敵でした。実に素敵で有意義な時間でしたが、約束の時刻に、もう8分も遅刻です。女性を待たせるのもせめて10分というのが紳士の嗜みだと聞きますから、そろそろ失礼をさせていただきましょうか。」
氷のような柔らかい笑顔のアルスタイトはスッと構える。
それは力強いものではなく、彼の笑顔のように柔らかい物腰で立つように。
しかし、そこに圧倒的な闇を秘めて、アルスタイトはブレードを構える。
ガーベラの目から闇が消え、ウェールズの間合いに無遠慮に侵入したアルスタイトが突然現れるように姿を見せた。
さっきよりも一段階早く。
ウェールズは虚を突かれ、亀裂の入った剣で防御を取る。
「無意味。嗚呼、無常哉。」
ウェールズの剣が、無情にも砕かれる。
そして彼の剣を砕いたブレードが振り抜かれ、ウェールズの胸を横一文字に切り裂いた。
「ぐあぁぁっ!?」
刃物独特の鋭い痛みに、摩擦で焼けた熱さが彼を襲う。
僅かに退いたため、致命傷にはならなかったものの、反射的にウェールズは身体を丸めた。
ズグン
大きな隙を見せたウェールズに止めを刺そうと大きく振り被ったアルスタイトの腰に、彼にとって今まで聞いたことのない生理的に嫌悪を催す音が響いた。
「…フゥ、…フゥ…フゥ!!」
ガーベラが泣いて、荒い息を吐きながら彼女の持っていた短剣でアルスタイトの腰を突き刺していた。
「………ガーベラ?」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。」
ガーベラが叫んで、握る短剣に更なる力を込める。
グリ、ブチ、という音がアルスタイトの体内で響き渡る。
「…邪魔です。」
アルスタイトが力任せにガーベラを殴る。
痛みを感じないアルスタイトはいつもと変わらない風で、彼にとって邪魔なガーベラを何度も殴るのだが、彼女は短剣から手を放さない。
重くもない体重をすべてかけるように、非力を補うように、突き刺した短剣が根元に達するまで何度も何度も殴られながら、殴られた箇所が青くなって腫れても短剣を押し込み続ける。
「この!」
「…お前の相手は、俺だろ?」
左腕の鋼鉄の義手がアルスタイトのブレードを握り締める。
万力のような力で握られて、アルスタイトは動けなくなった。
「どこにそんな力が…!?」
「ガーベラ、力を込めろ。込めたら、思いっ切り捻じ切ってやれ!!」
「はい!!!」
ガーベラがウェールズに言われた通り、突き刺した短剣を抉るように捻った。
ベキッ
如何に幼く非力とは言え、リザードマン。
大人並みの力でアルスタイトの腰を抉った短剣が、アルスタイトの筋肉や骨に阻まれ、切っ先を彼の体内に残し、折れてしまった。
だが、
「……!?アァァァァァァァァァァ!!!!!」
アルスタイトが悲鳴を上げた。
それは神が残していたアルスタイトの最後の奇跡と言えるだろう。
彼は痛みを感じなかった。
だが、ガーベラに刺され、腰に異物を残したままとなった瞬間、傷付いた神経が彼の人生で初めて命の危険を脳に伝えたのである。
生まれて初めての痛み。
生まれて初めて自分の命に触れたアルスタイトは、何が起こったのかわからないままに膝から崩れ落ちる。
圧倒的な隙を見逃すウェールズではなかった。
右腕は動かない。
だが、左腕はまだ生きている。
「ダァァァッ!!!!」
感覚をなくした右腕と左腕で挟み込むように、ブレードを渾身の力で叩き折る。
その衝撃で、せっかく直った義手は無残にも再び砕け散った。
しかし、ブレードを折られてアルスタイトは無力化する。
「今更…!!」
アルスタイトが左腕で予備の剣を掴もうと身体を捻る。
その時、グギリ、という音が彼の身体の中に、身体の外に響き渡る。
それは関節が壊れる音。
それは抉られた腰が崩壊した音。
痛覚だけを失った身体は、腰から下の感覚を失い、膝から力をなくしたまま崩れていく。
「な、何故だ!何故、足が動かない…、ハッ!!」
アルスタイトの目に叩き折った自分のブレードを空中で口で咥え、口の端から血を流しながら身体全体で、巻き付くように斬りかかるウェールズの姿が映った。
「ほっは(獲った)!!!!」
ドガッ
これまで幾人もの要人の命を奪ったブレードが、アルスタイトの右鎖骨を砕く。
ブレードは鎖骨を割ったまま、そこで止まっていた。
顔を腫らしたガーベラが倒れそうになるウェールズに駆け寄り、その小さな身体で抱きとめる。
そして自分に何が起こったのかわからない、という顔をしたアルスタイトは初めて知った痛みと破壊された脊髄に逆らえず、血溜まりの中、大地に倒れた。
―――――――――――――――――――――――
ギリギリか…。
少し前の俺ならば、こんなギリギリは選択しなかったはずだ。
「剣士さん、剣士さん…!」
ガーベラが泣きながら俺にしがみ付く。
鬱陶しいと思うが、不思議と悪い気はしなかった。
少しずつ感覚の戻り始めた右手で頭を撫でる。
「泣くな。生きてるから…。」
「ごめんなさい…!私のせいで……、私のせいで剣士さんを…、危ない目に合わせて!」
「ああ、お前のせいだ。お前のせいだから、帰ったら義手を直すのを手伝え。」
こいつが、ガーベラの言う天使を狙ったのか…。
奇妙な使い手だった…。
感情が……、いや、何かが欠落した使い手は初めてだったな…。
「……おい、暗殺者。」
「…ああ、駄目だなぁ。もう10分を大幅に超えてしまった。今日は本当に災難続きだ。安宿のおばさんが癪に障って、町で私にぶつかった若者が因縁を付けて来て、町中で女の子が私を馬鹿にしたような気がしたから、みんな殺してしまったけど、本当に今日は厄日だったようですね。こんなことなら、今日は止めて明日出直せば良かったなぁ。」
割れた懐中時計を見ながら、暗殺者はブツブツと独り言を言っている。
「今度はもっとうまくやらなきゃ。今度はもっとうまくやらなきゃ。教会のおじさんが僕を苛めるんだ。僕がみんなに大事にされるのが気に食わないから、おじさんは僕をいつも苛めるんだ。いつも嫌だって言っているのに、僕を縛ってお仕置きするんだ。泣いても泣いても許してくれなくて、僕を裸にして折檻するんだよ。僕は怖いから、ずっとおじさんに逆らわないように、おじさんにお仕置きされ続けなきゃいけないんだ。」
「…暗殺者、お前の生い立ちには興味がない。だが、一つだけ言っておくが次はない。もうお前は歩けもしないし、剣も握れないだろう。理解出来ないのか、自分の脊髄がやられて、倒れた時に膝の皿まで砕いているんだ。鎖骨も砕いた手応えがあった。だから、お前はこれまでだ。お前は、もうこの仕事を出来ない。」
「…………………………。」
暗殺者がにこりと笑う。
その瞬間、残った左腕で暗殺者が肩に刺さったままのブレードの欠片を抜き、そのまま自分の首に突き刺した。
「見るな!」
慌てて、ガーベラの目を塞ぐ。
しかし、見えてしまっただろう。
ガーベラの手が震えている。
初めて自分の手で他人を刺し、そして狂った男の最後をこの目で見てしまったから。
それからしばらくして、ビクン、ビクンと何度かの痙攣と赤い噴水の中で男は息絶えていた。
まるで、痛みを感じていないかのような穏やかな顔で…。
「ねぇ、剣士さん…。この人、自分のしてきたことを後悔して…、死んじゃったの?」
「それは……。」
違う。
この男は、生粋の殺人鬼。
人を殺すということは息をするのと同じ。
人を殺すということは心臓の鼓動と同じ。
それを辞めなければいけないということは、この男にとって耐え難い苦痛なのだ。
だから、この男は後悔しない。
殺人鬼を更生させるには、殺してやるしかないのだ。
「そうかもしれないな。」
俺は嘘を吐く。
せめて、純粋に果てしない夢を追いかける少女には知らなくても良い世界だ。
こんな矛盾を、こんな歳で知らなくても良いだろう…。
そう思って俺は、真実を捻じ曲げたやさしい嘘を吐いた。
「さぁ、帰るぞ…………。」
そう言ってガーベラを促し、歩き出そうとした瞬間、視界が真っ暗になった。
「剣士さん!?」
ああ、畜生。
剣から逃げていたツケだ。
こんなにまで命を差し出して、戦ったせいだ…。
自分が立っているのか、座っているのかもわからない。
くそったれめ。
僅かな時間の集中で、この有様か…。
本当に危なかったのは、この暗殺者でもガーベラでもない。
命を賭けて戦うということは…、これ程のことだったのか…!
ガーベラが何かを言っていたが、理解出来なかった。
俺はそのまま深い闇に落ちていく。
闇の向こうで、あの男が手招きをしていた。
そんな気がする。
ウェールズを店の裏口から見送って、私はちょっとだけ溜息を吐く。
まったくもって面倒臭い子。
なまじ知恵なんか持っているから、あそこまで落ち込まなきゃいけない。
もっとも、落ち込んで悩んで色んな可能性を秘めているから人間とは面白い。
さて……、もう一個だけ片付けようかしら。
「出て来なさいな。もう、行っちゃいましたよ。」
裏路地の向こう側で何かがビクリと驚く気配がする。
「完璧に気配が消えていましたけど、残念でしたね。あの子は本当に気が付いていませんでしたけど、私は死人。死んでいる者は生きている者を敏感に感じ取るんですよ♪」
もちろん、嘘。
でも、生前から私の耳は地獄耳だったから、僅かな息遣いでも私の耳には十分届く。
死なない限り人は呼吸をして、心臓は絶えず鼓動を鳴らして生きていることをアピールする。
もう、私には思い出でしかないけれど…。
物陰から出てきたのは傷だらけのドラゴン。
もう何日も前からうちの店を外から見ていた人。
「……気付いていたんだ。」
「ええ、ずっと前から。あの子を見張って……、違いますね。ずっと見守っていた視線には気が付いていましたよ。」
作業着姿のドラゴンは一言、そっか、と呟いて安堵したように大きく息を吐く。
この人が、きっとあの子の母親…。
いや、育ての親か。
「飛び出したかったでしょう。ずっと会いたかった我が子を、その手で抱きしめたかったでしょう。でも、よく我慢してくれました。そうでなければ、彼の成長はありえませんでしたから…。」
「……別に、そんな殊勝な考えじゃないよ。あたいはただ…、どんな顔してあの子に会えば良いのかわからなかっただけなんだから。あの子を見捨てて、あの子が苦しんでいる時に、あたいは命辛々逃げ続けていた。そんなあたいに、母親面が出来るとは思えなかっただけさ…。」
「………よく似た親子。」
本当に真面目で融通が利かなくて、自分に厳しいですこと。
「そんなあなたを彼は待っていますよ。待ってて、今も探して、追い続けて…。憎しみに心を歪めて鬼に成りかけていたくらいです。会えば良いんですよ、親子なら。」
「…………………………。」
あらら、黙っちゃった。
「別に悲嘆にくれる必要はないですよ。これ、私が出した占いの結果です♪」
割烹着の袖から一枚のカードを取り出す。
彼が休んだ時、私が休憩中の時に何度やっても、このカードだけは必ず出てきた。
「そりゃあ…、一体?」
「愚者のカード。名前からしたら彼にピッタリのカードですけど、悪い意味じゃありません。出発、自由…、あらゆる意味での出発点を意味するカードが、ウェールズを占うと必ず出るのです。彼はまだ出発すらしていない、この町に来るまで時間が止まったままだった。でも、彼は私でもない、そしてあなたでもない。彼はきっと生まれて初めてガーベラという少女を救いたいと、他の誰でもない、ウェールズ=ドライグという人間によって突き動かされた。これは他の誰でもなく、あなたが喜ぶべきではないでしょうか。」
「……あたいは喜んでも良いのかな。」
「ええ、もちろん。あなたでなければ、誰が喜ぶというんですか。さぁ、こんなとこで立ち話も何ですから、是非うちの店で飲んでいってくださいな。私も今日は気分が良いんで、奢りますよ♪」
―――――――――――――――――――――――
臨時休業の札が下がったテンダーは静寂に包まれていた。
ルゥとその夫、ジャックがもしも店の女の子や、客に何かがあったら大変だと、その日の営業を9時までにして、ネヴィアを狙う暗殺者に備えていた。
ネヴィアの部屋にはアスティアが。
そしてその隣の部屋にはロウガが待機する。
ルゥは力になれない、と自室で3人の無事を祈った。
ジャックはそんな自分の無力さを嘆く妻を気遣い、暖かいミルクを作って励ましの言葉をかけた。
娼婦たちは事情を知らず、いつもより早い終業を喜び、ある者は仲間内で夜の繁華街へ繰り出し、ある者は自分を待つ思い人の下へと走るなど思い思いに過ごしていた。
時間だけがゆっくりと過ぎていく。
予告時刻まで後僅か。
ネヴィアの部屋はランプの頼りない灯りの中、重苦しい空気が漂っていた。
「…アスティア様、もしもの時はどうぞ私のことなどお構いくださいませんよう。」
それは、もしものことがあれば自害するという宣言だった。
「私がこの町へ来なければ…、皆様に迷惑がかかることもございませんでした。元々、来るべきではなかったのです。我らの主も、あなた方の傍観者でいることを望んでおりました。しかし……、私はこの町へ来たかったのです。私の我侭のために、単身あなた方の下へと参りました。その結果が……、こんなことになろうとは思いもしませんでした。」
壁にもたれたアスティアは、静かな笑顔で答えた。
「もしもの時は……、と言いましても、私は聞けませんね。私はあなたを守るため夫と共にこうして張り込んでいますが、あなたを見殺しにするように私は命令を受けてはいませんから。それに、あなたの言うもしもはありえない。」
「…それはどうしてでしょう。私の命を狙う者はその顔を自在に変え、余程のことがない限り失敗をしないという者ではなかったのですか?」
アスティアは何の迷いもない声で言う。
「確かに良い腕をした暗殺者だと聞いてはいますね。ですが、ここにいるのは私だ。かつてエレナと名乗り、教会と敵対し、この剣一本で世界を滅ぼし、その憎しみで自ら滅ぶことを望んだ私と、その憎しみに負けず、遥か彼方の地平から来たロウガがいるのです。高が暗殺者風情に遅れを取る程、二人とも歳は取っていないつもりですよ。なぁ、ロウガ。」
アスティアは壁をノックして、ロウガを呼ぶ。
しかし、ロウガの返事はない。
まさかすでに刺客が侵入したのか、とアスティアとネヴィアに戦慄が走った。
「アスティア様…!」
「静かに……。様子を探ってみます。」
アスティアが壁に耳を付けて、隣の部屋の音を探る。
娼館の一室であるため壁はそこそこ厚く、音を拾いにくい状態ではあるが、アスティアは意識を集中して隣のロウガの様子を探った。
「……………………………グゥ。」
間抜けなイビキにアスティアはこけて、思わず壁に頭を叩き付けてしまった。
アスティアの肩がワナワナと震えている。
「ア……、アスティア様…?」
何が起こったのかわからないネヴィアは困惑していた。
だが、そんなネヴィアを尻目にアスティアは怒りを露わにしていた。
「ロウガ!だからあれ程昼間に少し寝ておけと言っておいただろう!!起きろ、さっさと起きて少し準備体操くらいしておけこの馬鹿ッ!!!」
ドガン
アスティアが怒鳴って壁を蹴り飛ばす。
壁の向こうで何かが落ちる音が聞こえた後、しばらくして弱々しく隣の部屋のドアが開く。
そして何かが這いずり回るような音が二人の部屋の前で止まると、キィとドアが開き、今にも眠りそうな顔のロウガが顔を出す。
「………すまん。コーヒー淹れてくれ。」
言い終わる前にロウガは倒れ、そのまま寝息を立てていた。
刺客に睡眠薬を盛られたのではない。
彼は、本当に眠かったのである。
ネヴィアもアスティアも連日連夜の彼の仕事振りを知っているため、起こすのが少々気の毒になり、予告時刻までの数分間だけでも寝かせてあげることにしたのであった。
そして、12時の鐘が鳴り響く。
どこからともなく、圧倒的な闇を纏ったような男が娼館の前に立っていた。
時刻通り。
代行者アルスタイトらしい、開幕のはずだった。
時刻通りにゲームを始めるつもりだった彼の目の前、風にカタカタと鳴る臨時休業の札のかかったドアの前に、一人の少女が腕組みをして仁王立ちしていた。
足りない技量は、ありったけの勇気で。
足りない勇気は、ありったけの憧れで。
腰に短剣を差したガーベラは、強く真っ直ぐな瞳でアルスタイトを待ち構えていた。
―――――――――――――――――――――――
「こんばんは、お嬢さん。良い夜ですね。」
この人が天使様を狙う人。
顔も名前も知らないけど、これだけはわかる。
この人は人間じゃない。
人間はこんなに怖くないもの。
笑顔がひどく氷のように冷たくて、腕を組んでいないと怖くて逃げてしまいそうになる。
お願い……、剣士さん…。
あなたが来てくれなくても良いの。
私に……、あなたの強さをちょっとだけください。
「退いていただけませんか。私はこれから、とてもとても大事なお仕事があるのですよ。あなたのような世界の汚物が存在していることは許せませんが、今は見逃してあげますよ。私は斬奸状を送った以上は、送った方以外を殺すのは主義に反しますのでね。さぁ、私の気が変わらないうちにお逃げなさい。早くしないと、嬲り殺しますからね。」
嘘はない。
この人は、本気だ。
この人も教会の人。
私たちを、命として見ていない悪魔なんだとわかる。
「ど、退かない!私はここからいなくなったら、あんたは天使様を狙うんでしょ!?」
「狙う?違いますよ。これだから低脳なゴミは嫌なんですよね。私は彼女を本来あるべき姿に戻してあげるのです。完璧な美を持つ者は、神の所有物。元々彼女は神の物。それを堕落した神が奪い去ったのですよ。ならば、簡単。穢れた肉体から彼女の魂を解き放ち、安息に満ちた神の御許で星のように煌々と輝き続けることこそが、彼女にとっても唯一絶対にして、至高の喜びなのです。斬奸状など送りましたが、これはあくまで聖なる儀式なのです。」
闇だ。
深くて、絶対の光も届かない闇そのものだ…。
「さぁ……、お退きなさい。」
闇が右腕を振ると、その手首から銀色の刃物が飛び出した。
笑顔のまま、近付いてくる闇に逃げ出したい衝動に駆られた。
怖い…。
怖いよ…!
こんなことするんじゃなかった…。
こんなに怖い思いを思い出すくらいなら最初から逃げるんだった…!
「退かない!」
でも…、逃げちゃ駄目だ。
私は…、天使様を守りたい!
「……やはり、ゴミはゴミですか。神に唾する輩に、説得など所詮無駄な時間だったようですね。死になさい。死んで神の御許で許しを請い、地獄に落ちてしまいなさい。」
「死んだって…、私は退くもんか!!」
死神の鎌のように、闇が腕を引く。
きっとこのまま腕を突き出されて、私は死ぬ。
それでも、絶対に退いちゃいけない。
天使様のためにも。
そして、きっと剣士さんなら絶対に退かないから。
「さようなら。あなたが地獄で受ける責め苦で、その穢れた魂が消滅しますように。」
右腕に力が入って、突き出される。
私は怖くて、力一杯目を閉じて、唇を噛んでいた。
―――――――――――――――――――――――
アルスタイトの右腕にガーベラを突き刺した感触はなかった。
ただ空を切り、ガーベラの姿は消え失せていた。
アルスタイトが視線を移すと、自分によく似た空気を纏う男が恐怖に震えるガーベラを大事そうに抱きかかえていた。
「……………今夜は邪魔が多いのですね。」
「…ああ、そのようだな。もっとも、俺はお前たち教会に恨みを持っていて、俺はお前が嫌いらしい。邪魔だと思うんだったら、何度でも邪魔をしてやろう。」
力一杯目を閉じていたガーベラはウェールズの声に驚いて、目を見開き震える声で彼の名を呼ぶ。
「剣士……さん…、どうして…。」
「…どうしても何も、俺を呼んだのはお前だ。」
ウェールズは乱暴に彼女の頭を撫でる。
「…よく、頑張った。」
その光景を呆れる様に見ていたアルスタイトは、手元の懐中時計を見て驚きの声を上げた。
「これはいけない。約束の時間に5分も遅れてしまいました。」
「安心しろ。貴様に約束の時間など来ない。永遠にな。」
ゆらりとウェールズが、ガーベラを放し立ち上がる。
自分の着けていたマントで震えるガーベラを包むと、彼は彼女にしか聞こえない声で呟いた。
「……………ガーベラ。お前の勇気を分けてもらうぞ。」
「え。」
彼女は驚いた。
初めてウェールズに柔らかい口調で話しかけられ、名前を呼んでもらったことに。
ウェールズとアルスタイトが歩み寄る。
お互いが無遠慮に間合いに侵入し合う。
ウェールズの居合いの間合いにアルスタイトは自然体のまま。
アルスタイトの短い間合いをウェールズが嘲笑うかのように警戒すらしない。
「神への供物を待たせてしまいますので、手短に済ませましょう。お退きなさいとは言いません。……死ね。」
「やはり、思った通りのようだな。貴様は神の下僕を気取っているが、所詮ただの殺人鬼。殺しが楽しくて楽しくて堪らない典型的な殺人鬼。俺と同類の…、いや、俺の同類だった者よ。俺は死ぬ訳にはいかぬ。お前と違って俺には待っている者がいるんでな。」
それはまるで西部劇の決闘の場面のように。
二人は示し合わせたように互いに剣を抜く。
「特に貴様には負けられん。俺と同類に殺られるなど、目覚めが悪くて適わない。」
傷だらけの刃が暗殺者を襲う。
暗殺者はまるで見透かすように距離を開けては、踏み込んで間合いを詰める。
それは僅か一瞬の出来事。
ウェールズのマントを握り締めて見守るガーベラの目には、一瞬だけ月明かりに刃が煌いたような気がしたくらいにしか映らなかった。
アルスタイトは驚いていた。
これまでどんな妨害にも決して避けることなく、痛みを感じられない身体に任せてどんな刃も最小の動きで急所を避けて標的を仕留めていた彼が、ウェールズの閃光に、言い知れぬ恐怖を感じて、暗殺者として生きて以来初めて自ら下がったのである。
一方でウェールズは冷静だった。
自分の抜刀術に自信過剰になってサクラに敗北したことで、彼の中に自らの技に絶対的な自信はなくなっていた。
あらゆる敵を屠った技であろうと、避けられる者は難なく避けるのだ。
そういった他者を認められるようになったのも、すべては敗北から学んだこと。
そして命ある限り、何度でも立ち上がる勇気を少女にもらったから。
アルスタイトの右腕に仕込んだブレードが、まるで殴りかかるような軌道でウェールズを襲う。
紙一重で避けるウェールズの耳に、ヒュンという風を切る死神の足音が届く。
何度も耳にした音だというのに、ウェールズの中に初めて、氷のような恐怖が走る。
彼は復讐に身を染めていた時は、死を恐れていなかった。
いや、恐れていなかったのではない。
自分の命から目を逸らしていたのであった。
だが、彼は生まれて初めて死にたくないと思っていた。
それは初めて知った自分の居場所のため。
初めて理解した自分の剣を取る意味のため。
そして自分を信じ続ける少女の目の前で死にたくないという思いのために。
「遅いですね。」
「チィ!」
しばらくの間、剣から逃げていたツケなのか。
それとも死にたくないという迷いが身体を鈍らせたのか。
迫るアルスタイトのブレードに、ウェールズは苦し紛れに抜刀術で加速した剣をぶつけ離脱を図る。
ガギィッ
金属が弾かれる鈍い音がして、二人が距離を開ける。
ガーベラの目には何が起こったのかが見えていない。
しかし、事態はウェールズにとって深刻だった。
傷だらけの剣は亀裂が入り、衝撃で彼の右腕は痺れてしまって言うことを聞かない。
カタカタと右腕の震えに合わせて、剣が落ち着きなく鳴った。
一方でアルスタイトは無傷。
それどころかウェールズの右腕の感覚を奪ったような衝撃でも、痛みを感じない身体は普段と変わらず、軽快な動きを見せていた。
痛みを感じない、ということは生物として痛みを恐怖する本能の欠如と言って良いだろう。
痛みに恐怖しないのだから、彼はしっかりとウェールズの剣がぶつかる瞬間まで、どのポイントでぶつければ自分の得物を無傷に済まし、相手の得物や身体に致命的な衝撃を与えられるかというところまで見ていたのである。
ウェールズは、もう抜刀術を使えない。
それは彼にとって翼をもがれたようなものである。
「剣士さん…!」
不安そうなガーベラの声がウェールズの耳に届く。
だが、振り返って安心させる余裕などなかった。
不用意に振り向けば、首と胴体が分かれてしまう。
「初めてでしたよ。私が恐怖で一歩下がるなんて。こういう決闘は野蛮で私の好むところではありませんでしたが、たまには食わず嫌いもやってみるものですね。素敵でした。実に素敵で有意義な時間でしたが、約束の時刻に、もう8分も遅刻です。女性を待たせるのもせめて10分というのが紳士の嗜みだと聞きますから、そろそろ失礼をさせていただきましょうか。」
氷のような柔らかい笑顔のアルスタイトはスッと構える。
それは力強いものではなく、彼の笑顔のように柔らかい物腰で立つように。
しかし、そこに圧倒的な闇を秘めて、アルスタイトはブレードを構える。
ガーベラの目から闇が消え、ウェールズの間合いに無遠慮に侵入したアルスタイトが突然現れるように姿を見せた。
さっきよりも一段階早く。
ウェールズは虚を突かれ、亀裂の入った剣で防御を取る。
「無意味。嗚呼、無常哉。」
ウェールズの剣が、無情にも砕かれる。
そして彼の剣を砕いたブレードが振り抜かれ、ウェールズの胸を横一文字に切り裂いた。
「ぐあぁぁっ!?」
刃物独特の鋭い痛みに、摩擦で焼けた熱さが彼を襲う。
僅かに退いたため、致命傷にはならなかったものの、反射的にウェールズは身体を丸めた。
ズグン
大きな隙を見せたウェールズに止めを刺そうと大きく振り被ったアルスタイトの腰に、彼にとって今まで聞いたことのない生理的に嫌悪を催す音が響いた。
「…フゥ、…フゥ…フゥ!!」
ガーベラが泣いて、荒い息を吐きながら彼女の持っていた短剣でアルスタイトの腰を突き刺していた。
「………ガーベラ?」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。」
ガーベラが叫んで、握る短剣に更なる力を込める。
グリ、ブチ、という音がアルスタイトの体内で響き渡る。
「…邪魔です。」
アルスタイトが力任せにガーベラを殴る。
痛みを感じないアルスタイトはいつもと変わらない風で、彼にとって邪魔なガーベラを何度も殴るのだが、彼女は短剣から手を放さない。
重くもない体重をすべてかけるように、非力を補うように、突き刺した短剣が根元に達するまで何度も何度も殴られながら、殴られた箇所が青くなって腫れても短剣を押し込み続ける。
「この!」
「…お前の相手は、俺だろ?」
左腕の鋼鉄の義手がアルスタイトのブレードを握り締める。
万力のような力で握られて、アルスタイトは動けなくなった。
「どこにそんな力が…!?」
「ガーベラ、力を込めろ。込めたら、思いっ切り捻じ切ってやれ!!」
「はい!!!」
ガーベラがウェールズに言われた通り、突き刺した短剣を抉るように捻った。
ベキッ
如何に幼く非力とは言え、リザードマン。
大人並みの力でアルスタイトの腰を抉った短剣が、アルスタイトの筋肉や骨に阻まれ、切っ先を彼の体内に残し、折れてしまった。
だが、
「……!?アァァァァァァァァァァ!!!!!」
アルスタイトが悲鳴を上げた。
それは神が残していたアルスタイトの最後の奇跡と言えるだろう。
彼は痛みを感じなかった。
だが、ガーベラに刺され、腰に異物を残したままとなった瞬間、傷付いた神経が彼の人生で初めて命の危険を脳に伝えたのである。
生まれて初めての痛み。
生まれて初めて自分の命に触れたアルスタイトは、何が起こったのかわからないままに膝から崩れ落ちる。
圧倒的な隙を見逃すウェールズではなかった。
右腕は動かない。
だが、左腕はまだ生きている。
「ダァァァッ!!!!」
感覚をなくした右腕と左腕で挟み込むように、ブレードを渾身の力で叩き折る。
その衝撃で、せっかく直った義手は無残にも再び砕け散った。
しかし、ブレードを折られてアルスタイトは無力化する。
「今更…!!」
アルスタイトが左腕で予備の剣を掴もうと身体を捻る。
その時、グギリ、という音が彼の身体の中に、身体の外に響き渡る。
それは関節が壊れる音。
それは抉られた腰が崩壊した音。
痛覚だけを失った身体は、腰から下の感覚を失い、膝から力をなくしたまま崩れていく。
「な、何故だ!何故、足が動かない…、ハッ!!」
アルスタイトの目に叩き折った自分のブレードを空中で口で咥え、口の端から血を流しながら身体全体で、巻き付くように斬りかかるウェールズの姿が映った。
「ほっは(獲った)!!!!」
ドガッ
これまで幾人もの要人の命を奪ったブレードが、アルスタイトの右鎖骨を砕く。
ブレードは鎖骨を割ったまま、そこで止まっていた。
顔を腫らしたガーベラが倒れそうになるウェールズに駆け寄り、その小さな身体で抱きとめる。
そして自分に何が起こったのかわからない、という顔をしたアルスタイトは初めて知った痛みと破壊された脊髄に逆らえず、血溜まりの中、大地に倒れた。
―――――――――――――――――――――――
ギリギリか…。
少し前の俺ならば、こんなギリギリは選択しなかったはずだ。
「剣士さん、剣士さん…!」
ガーベラが泣きながら俺にしがみ付く。
鬱陶しいと思うが、不思議と悪い気はしなかった。
少しずつ感覚の戻り始めた右手で頭を撫でる。
「泣くな。生きてるから…。」
「ごめんなさい…!私のせいで……、私のせいで剣士さんを…、危ない目に合わせて!」
「ああ、お前のせいだ。お前のせいだから、帰ったら義手を直すのを手伝え。」
こいつが、ガーベラの言う天使を狙ったのか…。
奇妙な使い手だった…。
感情が……、いや、何かが欠落した使い手は初めてだったな…。
「……おい、暗殺者。」
「…ああ、駄目だなぁ。もう10分を大幅に超えてしまった。今日は本当に災難続きだ。安宿のおばさんが癪に障って、町で私にぶつかった若者が因縁を付けて来て、町中で女の子が私を馬鹿にしたような気がしたから、みんな殺してしまったけど、本当に今日は厄日だったようですね。こんなことなら、今日は止めて明日出直せば良かったなぁ。」
割れた懐中時計を見ながら、暗殺者はブツブツと独り言を言っている。
「今度はもっとうまくやらなきゃ。今度はもっとうまくやらなきゃ。教会のおじさんが僕を苛めるんだ。僕がみんなに大事にされるのが気に食わないから、おじさんは僕をいつも苛めるんだ。いつも嫌だって言っているのに、僕を縛ってお仕置きするんだ。泣いても泣いても許してくれなくて、僕を裸にして折檻するんだよ。僕は怖いから、ずっとおじさんに逆らわないように、おじさんにお仕置きされ続けなきゃいけないんだ。」
「…暗殺者、お前の生い立ちには興味がない。だが、一つだけ言っておくが次はない。もうお前は歩けもしないし、剣も握れないだろう。理解出来ないのか、自分の脊髄がやられて、倒れた時に膝の皿まで砕いているんだ。鎖骨も砕いた手応えがあった。だから、お前はこれまでだ。お前は、もうこの仕事を出来ない。」
「…………………………。」
暗殺者がにこりと笑う。
その瞬間、残った左腕で暗殺者が肩に刺さったままのブレードの欠片を抜き、そのまま自分の首に突き刺した。
「見るな!」
慌てて、ガーベラの目を塞ぐ。
しかし、見えてしまっただろう。
ガーベラの手が震えている。
初めて自分の手で他人を刺し、そして狂った男の最後をこの目で見てしまったから。
それからしばらくして、ビクン、ビクンと何度かの痙攣と赤い噴水の中で男は息絶えていた。
まるで、痛みを感じていないかのような穏やかな顔で…。
「ねぇ、剣士さん…。この人、自分のしてきたことを後悔して…、死んじゃったの?」
「それは……。」
違う。
この男は、生粋の殺人鬼。
人を殺すということは息をするのと同じ。
人を殺すということは心臓の鼓動と同じ。
それを辞めなければいけないということは、この男にとって耐え難い苦痛なのだ。
だから、この男は後悔しない。
殺人鬼を更生させるには、殺してやるしかないのだ。
「そうかもしれないな。」
俺は嘘を吐く。
せめて、純粋に果てしない夢を追いかける少女には知らなくても良い世界だ。
こんな矛盾を、こんな歳で知らなくても良いだろう…。
そう思って俺は、真実を捻じ曲げたやさしい嘘を吐いた。
「さぁ、帰るぞ…………。」
そう言ってガーベラを促し、歩き出そうとした瞬間、視界が真っ暗になった。
「剣士さん!?」
ああ、畜生。
剣から逃げていたツケだ。
こんなにまで命を差し出して、戦ったせいだ…。
自分が立っているのか、座っているのかもわからない。
くそったれめ。
僅かな時間の集中で、この有様か…。
本当に危なかったのは、この暗殺者でもガーベラでもない。
命を賭けて戦うということは…、これ程のことだったのか…!
ガーベラが何かを言っていたが、理解出来なかった。
俺はそのまま深い闇に落ちていく。
闇の向こうで、あの男が手招きをしていた。
そんな気がする。
11/01/21 00:34更新 / 宿利京祐
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