母さんとナポリタン
安藤家の厨房で、今まさにナポリタンが出来上がろうとしています。
厨房につながるリビングにはブイヨンやトマトを炒めた香しい匂い、パスタを茹でる熱気が伝わり、さすがにはしたなく腹の音を鳴らすようなことはしていませんが、それでも抑えがたい空腹を抱える身としてはとてもつらい状況になっています。お腹が、空きました。
「お皿はここで大丈夫?」
料理が出来上がるのをただ座って待っている怠惰で自堕落な姉とは違い、妹の美緒は元気よく手伝いに精を出しています。
「ありがとう。そこで大丈夫だよ。」
「他に手伝うことある?」
「じゃあ、調味料を置いている所にこの間買ったばかりの粉チーズがあるはずだから、それをとって来てもらえるかな。」
「分かった。じゃあいってきます、お父さん!」
ただ、美緒が満面の笑みを浮かべ嬉しそうに手伝っているのは母である恭子ではなく、黒いエプロンをした父の安藤祐介なのです。
我が安藤家では休日に、時々父さんが料理をすることがあります。
どうも父さんは料理することが昔から好きで、私が生まれる前から普段母さんがあまり作らないパスタや粉物、カレー、カレーうどんなどを嬉々として作っているらしく、父さん専用の鍋やフライパンがあるほどの力の入れようです。
「ふふふ、美緒ったらはりきっちゃって。」
普段キッチンの主である母さんは、私の隣に座って料理に勤しむ夫と娘を楽しそうに眺めています。その横顔は魔物娘としての美しさだけではなく、母親としての慈愛に満ち、同性であり娘の私から見てもとても素敵な表情を浮かべています。
だからこそそんな母さんに質問をぶつけてみることにしました。
「ねえ、母さん。」
「なにかしら、咲。」
「父さんが料理をするのって母さん的にはどうなの?」
「ん。どういうことかしら。」
「友達に父さんが料理を作るって話をしたら随分驚かれちゃったものだから…」
少し前、学校での出来事でした。
調理実習のお題がパスタで、父さんが言っていたコツを思い出しながら作っていると、同じ班の、幼馴染である稲荷の友人がその調理方法は母親から教わったのかと質問してきたので、母ではなく父に教わったのだと答えたところ、咲ちゃんのお父様は厨房に立たれるのですかと心底驚かれたのです。
頻繁ではないとはいえそれが当たり前で育った身としては、そんな反応をされるとは思わなかったので逆に何故そんなに驚くのか聞いてみたところ、彼女は少しだけ頬を染めて囁きました。「だってもし私なら、旦那様になる方の面倒は衣食住全部見たいって思いますもの…咲ちゃんのお母様は違うのかしら。」と。
「そう言われてみれば…普段、父さんを献身的に愛している母さんって父さんの料理についてどう思っているのかなって。」
「なるほど、ねえ。」
母さんは一つ頷くと口を開きました。
「確かにお母さんもお父さんと結婚した当初はそのお友達のように考えていたし、最初に料理がしたいってお父さんに言われた時は…ショックだったわ。少しだけ…ほんの少しだけれど嫌だなって思ったわよ。だってねえ、食べたいものは言ってくれればなんだって作るし、そうしないならそれって普段作っている私の料理になにか不満や不足があったからそういうことを言い始めたんじゃないかって暗い気持ちになったもの。でも…」
「でも?」
「お父さんはね、そうじゃなくて単純に料理がしたいんだ、そして恭子に俺が作った料理を食べてほしいんだよって…私の目をまっすぐに見て言ったの。」
「へぇ。」
「まあ浮気したいなんて絶対に許可できないことではないし…お父さんがしたいことを遮ってまで全ての面倒を見るっていうのも、ある意味お母さんの傲慢でしかないのかなってその時考えたわ。そして気が付いたの。」
そう言って母さんは優しく微笑み、言葉を続けました。
「どちらかが上に立つのではなく、一緒に並んで人生を歩んでいくのが夫婦ですものね。」
その言葉を聞いて、私は先ほどまでの母さんの表情に納得しました。
あの、優しく夫と娘の立ち振る舞いを見つめる横顔が答えだったのです。
「それにね…」
そんな母さんへの尊敬の念を深めていると、その本人がほんのりと頬を染めながら顔を私の耳元に寄せて囁きました。
「やっぱりエプロン姿の素敵なお父さんを見たいじゃない。」
「へ?」
「腕まくりをしてフライパンをふるう二の腕、エプロン越しに浮かび上がる胸板、エプロンの紐を結ぶことで強調される肋骨から腰にかけてのラインとくびれ…堪らないわぁ。だってあの姿は料理をしている間でしか見ることができないものね。そんな官能的ともいえる姿なのにああやって無防備に、真剣な表情で料理を…私や娘たちのために作るあの様子は何度見ても飽きることはないわ!」
「………。」
母さんは顔をデレデレに緩めて熱弁をふるい、艶めかしく唇を舐めながら父さんを視姦します。
さっきまでの感動を、返してよ。母さん。
心の中でため息をつき、ヒートアップするお母様のお言葉を聞き流しながらふとどこか冷静な自分が疑問を感じていることに気が付きました。ほんの些細な、だけれども確かにある疑問。それは―――
「もうすぐできるから準備してね。」
「してねー」
厨房の二人の言葉で私の思案は破られました。
「はい。こちらはいつでも大丈夫ですよ。」
先程までの乱れようが嘘のように凛とした母さんの声が答えます。
三人の会話を聞いていると、母さんとのやり取りで忘れていた空腹感が急に首をもたげ、思わず鳴ってしまいそうになるお腹に手をやりました。
「おまたせ。」
「おまたせしましたー。」
厨房の二人が、楽し気にナポリタンを盛りつけた皿をお盆で運び、母さんと私の前に配膳してくれます。
完熟のホールトマトとブイヨンを使い、余計な水分をしっかり飛ばしたナポリタン。
しっかり炒められたベーコンの風味や絶妙な炒め具合の野菜の甘み。
少し硬めにゆでられた歯ごたえ絶妙なパスタ。
そしてその上にプレーンのスクランブルエッグを乗せるが父さんのナポリタンの特徴。
濃い目のナポリタンの味がまろやかな卵のうま味とあわさり、とても美味しい一品。
母さんの料理とはまた違った美味しさを私に教えてくれる父さんの料理が食卓に並び、家族が四人が食卓に着くと食事の挨拶が響きます。
「いただきます!」
………………………………
「ねえ、父さん。」
食事を終え、片付けも終えてしまった午後の一時。
母さんと美緒は、成長著しい妹の新しい着物を見繕いに出かけたため家にいるのは私と父さんだけ。それを絶好のチャンスと思い、先ほど食事前に抱いていた疑問を父さんにぶつけてみることにしました。
「父さんが休みの日に料理し始めた時、料理がしたいって母さんに言ったんだよね。」
「ああ、そうだよ。お母さんに聞いたのかい?」
読んでいた本を閉じ、父さんが視線をこちらに向けながら答えてくれます。
「うん。初めて言われたときはショックだったって。」
「ああ…すごく悲しそうな顔をしていたもんなあ。」
「でも、それでも料理がしたいって母さんにはっきりといったんだよね。」
「うん。お父さんは昔から料理が好きで実家にいたころよく作っていたから。まあ…腕前はお母さんに比べれば恥ずかしいばかりだけれど、お母さんへの感謝の気持ちを少しでも形にできればなあと思ってね。」
そう言って照れくさそうに笑う父さんへ核心をつく質問をしてみます。
「本当にそれだけ?」
「え?」
「本当にそれだけで、優しい父さんが母さんを悲しませてまで我を通すかなって聞いたときに思ったの。」
「…それは」
「日頃の感謝を伝えるなら、料理じゃなくてもいいといったら言い過ぎかもしれないし父さんには悪いと思うけれど、それこそいつもありがとうってセックスする方が納得できるもの。それなのに母さんがショックを受けるって分かった上で何故、料理だったの?」
それが先ほど私が抱いた疑問でした。
母さんにどこまでも優しく、誰よりも愛している父さんが、例え本心ではないにせよ母さんの嫌がるようなことをするかなと、そうまでして料理にこだわるその訳がどうしても知りたいと思ったのです。
「ははは。相変わらず咲はするどいなあ…。あの時の騒動を思い出しちゃうよ。」
諦めたように、でもどこか楽し気に笑いながら父さんは私に椅子へ座るよう促しつつ話し始めました。
「感謝の気持ちを伝えたいっていうのは本心だよ。だけど…それだけが理由の全てじゃない。」
「じゃあなんで…」
「ナポリタン。」
「へ。」
「咲は、知っているかな。お母さんはナポリタンが大好きなんだよ。」
「え?」
何故そんな話を父さんが語り始めたのか分からず当惑している私に、父さんが優しい目を向けながら言葉を繋げます。
「昔、まだお父さんたちが小学生のころの話なんだけど、お母さんと給食を食べる班が同じになったことがあって、しかもお父さんと対面する席にお母さんが座ったんだ。で、そんな時にお母さんが、心底嬉しそうにその日出されたナポリタンを食べていたからつい聞いちゃったんだよ。そんなにナポリタンが好きなのかって。」
「うん。」
「そしたらお母さんはすぐに肯定してにっこりと、満面の笑みを浮かべたんだよ。これは後から聞いたことなんだけど、どうもお母さんはナポリタンに母親、倫子おばあちゃんとの思い出があるみたいで、他の好物とは少し違う思い入れがあるらしいんだ。勿論その時は知らないわけだけど、なんだかその時のお母さんの笑顔と嬉しそうに答えた様子が記憶に残ったんだなあ。」
「それで、その話がどう料理に繋がるの?」
せっつく私にまあ慌てない、慌てないと笑顔を浮かべながら父さんが続けます。
「お母さんと結婚してそう経っていない頃のことだったと思うんだけれど、映画を見に行った帰りに喫茶店へ寄ったことがあってね。時間も良い頃合いだったから、晩御飯も兼ねて食事しようかとそういう流れになったのさ。で、メニューを開いたらそのお店の一押しがナポリタンだった。」
またも、ナポリタンです。
「その時、突発的に小学生のころ、ナポリタンが好きだって答えた笑顔のお母さんが脳裏に浮かんでね。だから『ここはナポリタンが美味しいみたいだよ、確か好きだったよねナポリタン』ってお母さんに水を向けたんだけど…お母さんはそうなんですねって返事だけでナポリタンを注文しなかったんだ。」
「え?」
「まあ子供の時と味覚が変わるってのはよくあるし、例え好物でも今は気分ではなかったのかなあとも思ったんだけど、やっぱり気になったから用事があって倫子おばあちゃんに電話した時に聞いてみたんだ。恭子ってナポリタン好きですよねって。」
「おばあちゃんはなんて?」
「その通りだって言われたよ。この前も結婚の報告を受けてお祝いに何か食べに行こうかってなった時、家族でよく行ったお店の、あのナポリタンが食べたいって言ったくらいで。あの子にしては珍しく子供っぽいわよねって、おばあちゃん楽しそうに笑っていたね。」
「じゃあなんで喫茶店ではナポリタンを頼まなかったんだろう、母さん。」
母さんの行動理由に思い当たることがなく、ただ首をひねるばかりです。
「父さんもそこが気になってね。つい倫子おばあちゃんに質問の経緯を掻い摘んで話してどう思うか尋ねたんだよ。そしたらくすくすと笑った後、あの子も乙女ねって言われたのさ。」
「乙女?」
おばあちゃんの言葉の真意が私も分からず、眉を顰めてしまいます。
「その時、お父さんも咲と同じように分からなかったからおばあちゃんにその真意はと聞き返したら、絶対こうだとは言い切れないけれどと断った上で推測を教えてくれてね。」
「うん。」
「ナポリタンを食べて汚れがついてしまうのが恥ずかしくって頼めなかったんじゃないかしらって。」
「私も旦那様と結婚して間もなくのころ、カレーうどんが絶品だって言うお店に旦那様が連れていってくれたことがあって、その時はとても困った。カレーうどんはどんなに気を付けて食べても信じられないところに汁が飛んで汚れになったりするし、丁寧に拭っても口の周りが汚れてしまったりする。何より私たちは白蛇、ただでさえ汚れがとても目立ってしまう。そんな情けない姿を、結婚して間もない夫に見られてしまう、そしてそんなはしたない妻を連れている旦那様が周りからどう見られるかと思うととても平常心ではいられなかったと。」
おばあちゃんの言葉の謎がまるで氷のように溶け、示された答えにただ納得するばかりです。
「その話を聞いて、お母さんの行動の意味がさすがに鈍いお父さんでも理解できてねえ。胸が熱くなって嬉しくなると共に…なんというか悲しくなったんだ。」
「なんで悲しくなったの?」
父さんは目を伏せながら呟きました。
「うーん、恭子がそこまで自分を想っていてくれる嬉しさ以上に、父さんが理由で恭子が自分の気持ちを抑え込んでしまっているっていうのがね。想像以上に悲しいなあって。」
「だから父さんは…料理を作り始めたんだ。」
「うん。自宅なら誰の目を気にする必要もないし、何より恭子には好きなことをして笑っていてほしい…俺は決してはしたないだなんで思わないからありのままの恭子でいてほしいんだって伝えてね。」
その言葉を聞いて、父さんがよく作ってくれる料理、ナポリタンやスープパスタ、お好み焼き、カレーうどんなどが頭に浮かぶと共に、そのメニューの意味が違った形で私に迫ります。
「どちらかが上に立つのではなく、一緒に並んで人生を歩んでいくのが夫婦ですものね。」
そして母さんの言ったあの言葉。
正直に言うと、母さんからこの言葉を聞いた時、感激すると同時に、料理で大げさなとも心の片隅で思ってしまいました。
けれどこの言葉は、母さんの若々しい妻としてのプライドや不安と、父さんの妻を慮る優しさと愛情の衝突から生まれたものなのでしょう。
母さんは言葉にしなかった、けれどその真の意味を知り、私は本当にこの両親への尊敬の念を深く感じました。
そんな両親の娘であることが、とても誇らしくて仕方ありません。
「まあ、そんな訳で偶にではあるけれどお母さんの美味しい料理じゃなくてお父さんの料理につき合わせてしまっている二人には申し訳ないなとは思って…」
「そんなことないよ!」
自分でもびっくりするほど大きな声を出してしまいました。
「とても美味しいし、家族みんなが笑顔で食べる父さん料理、私大好きだよ!!」
「そうか」
私の言葉を聞いた父さんは、ほんの刹那呆けたような表情を浮かべた後、みるみるその顔に笑みを広げて頷きました。
「そうだったらお父さんも嬉しいな。」
いつか、いつか私が誰かを愛する日が来るのなら。
こういう気遣いができるように、こういう風に相手のことを愛せるようになりたいなと思います。
そうすればきっと両親も、心から祝福してくれるでしょう。
そんな日が来ることを、私はそっと願いました。
厨房につながるリビングにはブイヨンやトマトを炒めた香しい匂い、パスタを茹でる熱気が伝わり、さすがにはしたなく腹の音を鳴らすようなことはしていませんが、それでも抑えがたい空腹を抱える身としてはとてもつらい状況になっています。お腹が、空きました。
「お皿はここで大丈夫?」
料理が出来上がるのをただ座って待っている怠惰で自堕落な姉とは違い、妹の美緒は元気よく手伝いに精を出しています。
「ありがとう。そこで大丈夫だよ。」
「他に手伝うことある?」
「じゃあ、調味料を置いている所にこの間買ったばかりの粉チーズがあるはずだから、それをとって来てもらえるかな。」
「分かった。じゃあいってきます、お父さん!」
ただ、美緒が満面の笑みを浮かべ嬉しそうに手伝っているのは母である恭子ではなく、黒いエプロンをした父の安藤祐介なのです。
我が安藤家では休日に、時々父さんが料理をすることがあります。
どうも父さんは料理することが昔から好きで、私が生まれる前から普段母さんがあまり作らないパスタや粉物、カレー、カレーうどんなどを嬉々として作っているらしく、父さん専用の鍋やフライパンがあるほどの力の入れようです。
「ふふふ、美緒ったらはりきっちゃって。」
普段キッチンの主である母さんは、私の隣に座って料理に勤しむ夫と娘を楽しそうに眺めています。その横顔は魔物娘としての美しさだけではなく、母親としての慈愛に満ち、同性であり娘の私から見てもとても素敵な表情を浮かべています。
だからこそそんな母さんに質問をぶつけてみることにしました。
「ねえ、母さん。」
「なにかしら、咲。」
「父さんが料理をするのって母さん的にはどうなの?」
「ん。どういうことかしら。」
「友達に父さんが料理を作るって話をしたら随分驚かれちゃったものだから…」
少し前、学校での出来事でした。
調理実習のお題がパスタで、父さんが言っていたコツを思い出しながら作っていると、同じ班の、幼馴染である稲荷の友人がその調理方法は母親から教わったのかと質問してきたので、母ではなく父に教わったのだと答えたところ、咲ちゃんのお父様は厨房に立たれるのですかと心底驚かれたのです。
頻繁ではないとはいえそれが当たり前で育った身としては、そんな反応をされるとは思わなかったので逆に何故そんなに驚くのか聞いてみたところ、彼女は少しだけ頬を染めて囁きました。「だってもし私なら、旦那様になる方の面倒は衣食住全部見たいって思いますもの…咲ちゃんのお母様は違うのかしら。」と。
「そう言われてみれば…普段、父さんを献身的に愛している母さんって父さんの料理についてどう思っているのかなって。」
「なるほど、ねえ。」
母さんは一つ頷くと口を開きました。
「確かにお母さんもお父さんと結婚した当初はそのお友達のように考えていたし、最初に料理がしたいってお父さんに言われた時は…ショックだったわ。少しだけ…ほんの少しだけれど嫌だなって思ったわよ。だってねえ、食べたいものは言ってくれればなんだって作るし、そうしないならそれって普段作っている私の料理になにか不満や不足があったからそういうことを言い始めたんじゃないかって暗い気持ちになったもの。でも…」
「でも?」
「お父さんはね、そうじゃなくて単純に料理がしたいんだ、そして恭子に俺が作った料理を食べてほしいんだよって…私の目をまっすぐに見て言ったの。」
「へぇ。」
「まあ浮気したいなんて絶対に許可できないことではないし…お父さんがしたいことを遮ってまで全ての面倒を見るっていうのも、ある意味お母さんの傲慢でしかないのかなってその時考えたわ。そして気が付いたの。」
そう言って母さんは優しく微笑み、言葉を続けました。
「どちらかが上に立つのではなく、一緒に並んで人生を歩んでいくのが夫婦ですものね。」
その言葉を聞いて、私は先ほどまでの母さんの表情に納得しました。
あの、優しく夫と娘の立ち振る舞いを見つめる横顔が答えだったのです。
「それにね…」
そんな母さんへの尊敬の念を深めていると、その本人がほんのりと頬を染めながら顔を私の耳元に寄せて囁きました。
「やっぱりエプロン姿の素敵なお父さんを見たいじゃない。」
「へ?」
「腕まくりをしてフライパンをふるう二の腕、エプロン越しに浮かび上がる胸板、エプロンの紐を結ぶことで強調される肋骨から腰にかけてのラインとくびれ…堪らないわぁ。だってあの姿は料理をしている間でしか見ることができないものね。そんな官能的ともいえる姿なのにああやって無防備に、真剣な表情で料理を…私や娘たちのために作るあの様子は何度見ても飽きることはないわ!」
「………。」
母さんは顔をデレデレに緩めて熱弁をふるい、艶めかしく唇を舐めながら父さんを視姦します。
さっきまでの感動を、返してよ。母さん。
心の中でため息をつき、ヒートアップするお母様のお言葉を聞き流しながらふとどこか冷静な自分が疑問を感じていることに気が付きました。ほんの些細な、だけれども確かにある疑問。それは―――
「もうすぐできるから準備してね。」
「してねー」
厨房の二人の言葉で私の思案は破られました。
「はい。こちらはいつでも大丈夫ですよ。」
先程までの乱れようが嘘のように凛とした母さんの声が答えます。
三人の会話を聞いていると、母さんとのやり取りで忘れていた空腹感が急に首をもたげ、思わず鳴ってしまいそうになるお腹に手をやりました。
「おまたせ。」
「おまたせしましたー。」
厨房の二人が、楽し気にナポリタンを盛りつけた皿をお盆で運び、母さんと私の前に配膳してくれます。
完熟のホールトマトとブイヨンを使い、余計な水分をしっかり飛ばしたナポリタン。
しっかり炒められたベーコンの風味や絶妙な炒め具合の野菜の甘み。
少し硬めにゆでられた歯ごたえ絶妙なパスタ。
そしてその上にプレーンのスクランブルエッグを乗せるが父さんのナポリタンの特徴。
濃い目のナポリタンの味がまろやかな卵のうま味とあわさり、とても美味しい一品。
母さんの料理とはまた違った美味しさを私に教えてくれる父さんの料理が食卓に並び、家族が四人が食卓に着くと食事の挨拶が響きます。
「いただきます!」
………………………………
「ねえ、父さん。」
食事を終え、片付けも終えてしまった午後の一時。
母さんと美緒は、成長著しい妹の新しい着物を見繕いに出かけたため家にいるのは私と父さんだけ。それを絶好のチャンスと思い、先ほど食事前に抱いていた疑問を父さんにぶつけてみることにしました。
「父さんが休みの日に料理し始めた時、料理がしたいって母さんに言ったんだよね。」
「ああ、そうだよ。お母さんに聞いたのかい?」
読んでいた本を閉じ、父さんが視線をこちらに向けながら答えてくれます。
「うん。初めて言われたときはショックだったって。」
「ああ…すごく悲しそうな顔をしていたもんなあ。」
「でも、それでも料理がしたいって母さんにはっきりといったんだよね。」
「うん。お父さんは昔から料理が好きで実家にいたころよく作っていたから。まあ…腕前はお母さんに比べれば恥ずかしいばかりだけれど、お母さんへの感謝の気持ちを少しでも形にできればなあと思ってね。」
そう言って照れくさそうに笑う父さんへ核心をつく質問をしてみます。
「本当にそれだけ?」
「え?」
「本当にそれだけで、優しい父さんが母さんを悲しませてまで我を通すかなって聞いたときに思ったの。」
「…それは」
「日頃の感謝を伝えるなら、料理じゃなくてもいいといったら言い過ぎかもしれないし父さんには悪いと思うけれど、それこそいつもありがとうってセックスする方が納得できるもの。それなのに母さんがショックを受けるって分かった上で何故、料理だったの?」
それが先ほど私が抱いた疑問でした。
母さんにどこまでも優しく、誰よりも愛している父さんが、例え本心ではないにせよ母さんの嫌がるようなことをするかなと、そうまでして料理にこだわるその訳がどうしても知りたいと思ったのです。
「ははは。相変わらず咲はするどいなあ…。あの時の騒動を思い出しちゃうよ。」
諦めたように、でもどこか楽し気に笑いながら父さんは私に椅子へ座るよう促しつつ話し始めました。
「感謝の気持ちを伝えたいっていうのは本心だよ。だけど…それだけが理由の全てじゃない。」
「じゃあなんで…」
「ナポリタン。」
「へ。」
「咲は、知っているかな。お母さんはナポリタンが大好きなんだよ。」
「え?」
何故そんな話を父さんが語り始めたのか分からず当惑している私に、父さんが優しい目を向けながら言葉を繋げます。
「昔、まだお父さんたちが小学生のころの話なんだけど、お母さんと給食を食べる班が同じになったことがあって、しかもお父さんと対面する席にお母さんが座ったんだ。で、そんな時にお母さんが、心底嬉しそうにその日出されたナポリタンを食べていたからつい聞いちゃったんだよ。そんなにナポリタンが好きなのかって。」
「うん。」
「そしたらお母さんはすぐに肯定してにっこりと、満面の笑みを浮かべたんだよ。これは後から聞いたことなんだけど、どうもお母さんはナポリタンに母親、倫子おばあちゃんとの思い出があるみたいで、他の好物とは少し違う思い入れがあるらしいんだ。勿論その時は知らないわけだけど、なんだかその時のお母さんの笑顔と嬉しそうに答えた様子が記憶に残ったんだなあ。」
「それで、その話がどう料理に繋がるの?」
せっつく私にまあ慌てない、慌てないと笑顔を浮かべながら父さんが続けます。
「お母さんと結婚してそう経っていない頃のことだったと思うんだけれど、映画を見に行った帰りに喫茶店へ寄ったことがあってね。時間も良い頃合いだったから、晩御飯も兼ねて食事しようかとそういう流れになったのさ。で、メニューを開いたらそのお店の一押しがナポリタンだった。」
またも、ナポリタンです。
「その時、突発的に小学生のころ、ナポリタンが好きだって答えた笑顔のお母さんが脳裏に浮かんでね。だから『ここはナポリタンが美味しいみたいだよ、確か好きだったよねナポリタン』ってお母さんに水を向けたんだけど…お母さんはそうなんですねって返事だけでナポリタンを注文しなかったんだ。」
「え?」
「まあ子供の時と味覚が変わるってのはよくあるし、例え好物でも今は気分ではなかったのかなあとも思ったんだけど、やっぱり気になったから用事があって倫子おばあちゃんに電話した時に聞いてみたんだ。恭子ってナポリタン好きですよねって。」
「おばあちゃんはなんて?」
「その通りだって言われたよ。この前も結婚の報告を受けてお祝いに何か食べに行こうかってなった時、家族でよく行ったお店の、あのナポリタンが食べたいって言ったくらいで。あの子にしては珍しく子供っぽいわよねって、おばあちゃん楽しそうに笑っていたね。」
「じゃあなんで喫茶店ではナポリタンを頼まなかったんだろう、母さん。」
母さんの行動理由に思い当たることがなく、ただ首をひねるばかりです。
「父さんもそこが気になってね。つい倫子おばあちゃんに質問の経緯を掻い摘んで話してどう思うか尋ねたんだよ。そしたらくすくすと笑った後、あの子も乙女ねって言われたのさ。」
「乙女?」
おばあちゃんの言葉の真意が私も分からず、眉を顰めてしまいます。
「その時、お父さんも咲と同じように分からなかったからおばあちゃんにその真意はと聞き返したら、絶対こうだとは言い切れないけれどと断った上で推測を教えてくれてね。」
「うん。」
「ナポリタンを食べて汚れがついてしまうのが恥ずかしくって頼めなかったんじゃないかしらって。」
「私も旦那様と結婚して間もなくのころ、カレーうどんが絶品だって言うお店に旦那様が連れていってくれたことがあって、その時はとても困った。カレーうどんはどんなに気を付けて食べても信じられないところに汁が飛んで汚れになったりするし、丁寧に拭っても口の周りが汚れてしまったりする。何より私たちは白蛇、ただでさえ汚れがとても目立ってしまう。そんな情けない姿を、結婚して間もない夫に見られてしまう、そしてそんなはしたない妻を連れている旦那様が周りからどう見られるかと思うととても平常心ではいられなかったと。」
おばあちゃんの言葉の謎がまるで氷のように溶け、示された答えにただ納得するばかりです。
「その話を聞いて、お母さんの行動の意味がさすがに鈍いお父さんでも理解できてねえ。胸が熱くなって嬉しくなると共に…なんというか悲しくなったんだ。」
「なんで悲しくなったの?」
父さんは目を伏せながら呟きました。
「うーん、恭子がそこまで自分を想っていてくれる嬉しさ以上に、父さんが理由で恭子が自分の気持ちを抑え込んでしまっているっていうのがね。想像以上に悲しいなあって。」
「だから父さんは…料理を作り始めたんだ。」
「うん。自宅なら誰の目を気にする必要もないし、何より恭子には好きなことをして笑っていてほしい…俺は決してはしたないだなんで思わないからありのままの恭子でいてほしいんだって伝えてね。」
その言葉を聞いて、父さんがよく作ってくれる料理、ナポリタンやスープパスタ、お好み焼き、カレーうどんなどが頭に浮かぶと共に、そのメニューの意味が違った形で私に迫ります。
「どちらかが上に立つのではなく、一緒に並んで人生を歩んでいくのが夫婦ですものね。」
そして母さんの言ったあの言葉。
正直に言うと、母さんからこの言葉を聞いた時、感激すると同時に、料理で大げさなとも心の片隅で思ってしまいました。
けれどこの言葉は、母さんの若々しい妻としてのプライドや不安と、父さんの妻を慮る優しさと愛情の衝突から生まれたものなのでしょう。
母さんは言葉にしなかった、けれどその真の意味を知り、私は本当にこの両親への尊敬の念を深く感じました。
そんな両親の娘であることが、とても誇らしくて仕方ありません。
「まあ、そんな訳で偶にではあるけれどお母さんの美味しい料理じゃなくてお父さんの料理につき合わせてしまっている二人には申し訳ないなとは思って…」
「そんなことないよ!」
自分でもびっくりするほど大きな声を出してしまいました。
「とても美味しいし、家族みんなが笑顔で食べる父さん料理、私大好きだよ!!」
「そうか」
私の言葉を聞いた父さんは、ほんの刹那呆けたような表情を浮かべた後、みるみるその顔に笑みを広げて頷きました。
「そうだったらお父さんも嬉しいな。」
いつか、いつか私が誰かを愛する日が来るのなら。
こういう気遣いができるように、こういう風に相手のことを愛せるようになりたいなと思います。
そうすればきっと両親も、心から祝福してくれるでしょう。
そんな日が来ることを、私はそっと願いました。
19/10/06 09:00更新 / 松崎 ノス
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