花火デート 前篇
夕暮れの町にどこか浮足立った空気が満ちている。
今日は妻の恭子が勤める神社主催の花火祭りが開催されるということで、最寄りの駅から神社までの道中には様々な出店や屋台が並び、店員の元気な掛け声が人々の喧騒と共に祭り気分を否応なく高めていく。そんな熱気にあふれる中、安藤祐介は一人駅前にある時計台の前で恭子がやってくるのを待っていた。同じ屋根の下に住む最愛の妻と何故こうして待ち合わせをすることになったかというと、話はしばらく前に遡る。
「お父さん、今年のお祭り…お友達と一緒に行きたいんだけど。いいかな?」
末の娘である美緒にそう言われたのは祭りの一週間前のことだった。
もう長いこと祭りには妻や娘たちと一緒に行っていたので、つい今年もそうなるだろうと思っていただけに少しだけ驚いた。
「そうか、だけど…」
就学先でできた友達との約束。
その約束を口にする彼女の顔は、期待に満ちた笑顔でキラキラと輝いている。普段から率先して妻の手伝いをし、年不相応に大人びたところのある美緒が見せる、年相応の子供らしい願いを叶えてあげたいとは思うが、やはり子供だけで外出するというのにはいささか不安が募るのも確かだ。まあ祭りとはいえ、ここ数年何事も起こっていない魔物娘が統治する平和な町内で過剰に心配する必要はないのかもしれないが、目に入れても痛くない愛娘のこととなるとどうしてもと考えてしまう。どう返答しようかと迷っていると、傍で本を読んでいた長女の咲が会話に入ってきた。
「大丈夫よ、父さん。その美緒の友だちは、私の同級生の妹で、私たち一緒に祭りを周ろうかって話になってるのよ。美緒の面倒は私がしっかりと見てあげるから安心して。」
「そうなのかい。」
「うん、だから…いいよね、お父さん。」
「咲が一緒ならいいけれど…」
「…けれど?」
「そうなったら、祭りで咲がへましないように美緒にはしっかり監督してもらわないといけないかな?」
「うん、分かった。ありがとう、お父さん!」
「もう、父さんったら失礼ね!!」
方や喜び、方やむくれながら姦しく騒ぎ始める娘たち。
その喧騒を心地良く聞きながら、今まで一緒に祭りへ行っていた娘が友だちを作り約束して遊びに行く、こうして日々成長していくのだなあと思うと、少しばかりの寂寥と確かな喜びに包まれる。そんな感傷に少しばかり浸っていながらふと思う。
「そしたら、父さんはどうしようかな…今年のお祭りは。」
するとその言葉を聞いた咲は、何を馬鹿なことをと言いたげな表情で提案した。
「母さんと二人でデートすればいいじゃない。」
「え?」
「父さんたちって私たちが生まれてから二人で花火デートなんかしてないんじゃないの?」
咲の言う通りだった。
娘たちが生まれてから、この祭りにはいつも家族で参加している。妻である恭子と最後に二人で行ったのはもう十数年前のこと。娘たちだけで遊びに行くと聞いてもそういう考えが浮かばなかったのは、二人でデートすることはあっても、既に祭りは家族で行くものだとどこかで思ってしまっていたようだ。
「父さんと二人で花火デート。母さん絶対に喜ぶよ。ね、美緒。」
「うん。お父さん、お母さんを誘ってあげて?」
「そうだ、な…」
「それにせっかく久しぶりのデートなんだから、駅前で待ち合わせをすれば雰囲気が出ていいんじゃない。どうせ私たち女組は祭り前に美容室にいく予定なんだから丁度いいわ。」
お母さんをしっかりエスコートしてあげてねとにっこり笑う二人の娘たちに背を押され、久しぶりにする愛妻との花火祭りのデートへ誘う言葉を、どうしようかと考え始めたのだった。
………………
駅前に立っていると、目の前を沢山の人たちが通り過ぎていく。
浴衣に着飾る女性たちの華やかさが、薄暮に染まる祭りの夕暮れをひときわ鮮やかに彩っている。それらの煌めく非日常を眺めながら、どこか自分が緊張しているのを感じていた。もう何十年と連れ添っている恭子とのデートだというのに、どうにも心拍が落ち着いてくれない。早くから連れ立って美容室に行った女性組のいない家にぽつねんと取り残されたころからそわそわとして落ち着かず、妻が好きだと褒めてくれた濃紺の浴衣を着て早々に家を飛び出した。まるで初めて恭子とデートの約束を取り付け、待ち合わせをした時のような気分を噛みしめているようだと自分に呆れていると、背後から誰よりも聞き慣れた女性の声が聞こえてきた。
「旦那様。お待たせしてしまってすみませんでした。」
「いや、待ってなんかいな…」
「どうか、しましたか?」
振り返って目に飛び込んできた妻に、言葉を忘れて見入ってしまう。
浅黄色の生地に朝顔の柄が織り込まれた涼し気な浴衣に落ち着いた濃い紫の帯を締め、混雑する祭りの中をめぐるため人化の術を施した足元は目の覚めるような赤い鼻緒の黒下駄。そして腰まである銀髪に近い美しい長髪は夜会巻きに巻かれ、白磁のように美しい項があらわになっている。露出した肌は、夏独特の湿気のせいでじんわりと汗が滲み、ほつれ髪が数本張り付いている様が、息を飲むほど壮絶な色気を滲ませている。我ながら単純だとは思うが、髪を結い上げた彼女の普段とは違う魅力に早まっていた心拍が今まで以上に上がるのを自覚した。
「いや、綺麗だから…思わず見とれてしまって。本当に素敵だよ、恭子。」
そう答えると、妻は嬉しそうに微笑み覗く項にさっと赤みがした。
「ありがとうございます。ふふ、念入りに美容室で綺麗にしてもらったかいがありました。旦那様も、浴衣姿がとても素敵ですよ。」
「ありがとう。それじゃあ…そろそろ祭りの方に行こうか。」
「はい。」
持っていた黒地に金魚が刺繍された巾着を左手に持ち替え、恭子が手を繋いでくる。
妻が傍に身を寄せると、彼女独特の甘く心地いい体臭がふわりと鼻をくすぐる。嗅ぎ慣れたはずのその匂いにドギマギとしつつ、夏だというのにどこか冷たさを感じる、妻の細く女性らしい手を壊れやすい貴重品のように優しく握りしめゆっくりと会場に向かって歩き出す。周りに数多いる美しい人外の、その誰よりも美しく自慢の妻とこうして同じ時間を共有できることに何よりも嬉しさを感じる。その喜びを噛みしめつつ、祐介は人並みの中へ恭子と共に雑踏へと踏み出していった。
……………
「あら、今年もあの屋台が出ていますね。」
「おお、本当だ。そろそろ小腹も空いてきたし、買っていこうか。」
「そうですね。」
立ち並ぶ出店を冷やかしつつ歩いていると、毎年買っているたこ焼き屋の屋台が見えてきた。
時代を感じさせる簡素な屋台で寡黙なご主人が一心不乱に焼き、その奥さんのデビルが愛嬌たっぷりに売り子をしているこのお店のたこ焼きは、とても美味しい。祐介自身、たこ焼きが好きなので色々な店を見つけては食べるのだが、この屋台のご主人が作るたこ焼きはそのなかでもぴかいちだ。恭子や娘たちもここのたこ焼きは気に入っており、祭りの楽しみの一つとなっている。そして同じ考えであろう人々は多いらしく、今回も屋台の前にはそれなりの人数のお客が列に並び自分の番を待っている。
恭子と二人で列に並び、会話を楽しみながら順番を待っているといよいよ自分たちの番がやってきた。
毎年数多くのお客さんに接客しているというのに、デビルの女将さんはこちらを覚えていてくれるようで、「いつも一緒の娘さんはどうされたんです?」とにっこり笑顔で話しかけてくれた。娘は友達と周るので今日は二人きりだというと、子供が親元を離れるのは悲喜交々ですねえと笑い、いつも贔屓にしてくださっているし、久しぶりに夫婦水入らずのデートだからサービスしますよとおまけに多くたこ焼きを入れてくれた。恭子と共に寡黙な旦那さんと旦那さんの分も賑やかな奥さんに礼を言って、空いていたベンチへと移動し、たこ焼きの入ったパックを袋から取り出す。
焼きたてのたこ焼きの、香ばしさとソースの胃を刺激する力強い匂いが堪らない。
恭子と一緒にいただきますと手を合わせ、添えられた楊枝で早速一つを頬張る。かりかりとした表面とは対照的に、中は絶妙な具合で柔らかく、その中にあるタコの身は大きく切られとても味が濃い。噛めば噛むほどシンプルな生地とタコのうま味に甘辛いソースが絶妙にマッチする。夫婦二人、並んではふはふと食べながらそっと目配せして笑い合う。美味しいものを食べると、自然と笑顔になる。その妻の笑顔がなによりのスパイスとなって美味しさを加速させていく。
「やっぱりあの屋台のたこ焼きは美味しいですねえ。思わず無言で食べてしまいます。」
そうして夫婦二人、黙々とたこ焼きに舌鼓を打っていると、恭子がしみじみと言った。
「うん。色々と食べているけれど、ここのたこ焼きには敵わないなあと自分も思うよ。」
その言葉を聞いた妻は、少しだけ恥ずかし気に頬を染めながら実はと切り出した。
「随分前…確か咲が今の美緒くらいの歳だったかと思うんですが、買い物に行った商店街の入り口のところに、たこ焼き屋の屋台が出ていたんですよ。」
「うん。」
「一通り買い物を終えて家に帰ろうと思ったんですが、その屋台から漂う美味しそうな匂いについ惹かれてしまって、買い食いしてしまったんです。」
「おや、珍しい。」
普段、たこ焼きのような味の濃い食べ物を自ら好んで食べることのあまりない妻の行動に驚いた。
「お恥ずかしいですが、普段たこ焼きを口にしないせいか、妙に食べたくなってしまって、誘惑に負けてしまいました。」
「それで、そのたこ焼きは美味しかった?」
「まあ…美味しかったんですよ。」
「おや、なんだか歯切れが悪いね。」
「ここのたこ焼きの美味しさに慣れているというのもあるのかもしれませんが、なんだか物足りない気がして。」
「ふんふん。」
「自分でも不思議で、そのたこ焼きを食べながら理由を考えていたんですが…ちょうど最後の一個を食べている時に分かったんです。」
妻はそう言ってこちらに顔を向け、気持ち上目遣いに見やりつつ告白した。
「普段食べることのないたこ焼きは、私の中ではこうしてお祭りで旦那様や娘たちと食べる思い出の味なんです…だから他所で食べるたこ焼きがどんなに美味しくても、あの屋台で買って、こうして一緒に食べるからこそ満たすことができる、他では決して超えることのできないものなのだなって。残念ながら娘たちはいませんが…でもこうして今年も旦那様と一緒に食べることができて、私は本当に嬉しいです。」
締めの言葉と共に、誰よりも幸せそうに微笑む妻の告白を聞いて、熱くなるほど顔が紅潮してしまうのを自覚する。
そしてワンテンポ遅れて胸に沸き起こる多幸感に胸が苦しくなる。
誰よりも自分を魅了し、愛してくれる彼女と、魔物娘の彼女とただ肉体的に交わるのではなく、心から通じ合っていることの幸せは、どこまでも強く祐介の心を揺さぶり乱す。魔物娘が刺激する、雄の本能とはまた違う、恭子がただひたすらに愛おしく大切だと思うこの気持ちは、どんなことがあっても決して忘れはしないし、忘れてはいけない感情なのだろうと思う。
「ありがとう。」
今は、その感情を全ては言葉にできないけれど
「自分も、こうして恭子と一緒に食べることができて、心から嬉しく思うよ。」
いつかはしっかりと自分の言葉で彼女に伝えられたらと、強く思う。
「さて、たこ焼きを食べて喉も乾きましたし、そろそろ他の屋台を見て回りませんか?」
「そうだね。」
「私、久しぶりにラムネを飲みたいです。」
「いいね、冷えた瓶のやつを自分も久しぶりに飲みたいや。」
他愛のない会話を交わしつつ、再び雑踏へと踏み出していく。
祭りは、始まったばかりだ。
今日は妻の恭子が勤める神社主催の花火祭りが開催されるということで、最寄りの駅から神社までの道中には様々な出店や屋台が並び、店員の元気な掛け声が人々の喧騒と共に祭り気分を否応なく高めていく。そんな熱気にあふれる中、安藤祐介は一人駅前にある時計台の前で恭子がやってくるのを待っていた。同じ屋根の下に住む最愛の妻と何故こうして待ち合わせをすることになったかというと、話はしばらく前に遡る。
「お父さん、今年のお祭り…お友達と一緒に行きたいんだけど。いいかな?」
末の娘である美緒にそう言われたのは祭りの一週間前のことだった。
もう長いこと祭りには妻や娘たちと一緒に行っていたので、つい今年もそうなるだろうと思っていただけに少しだけ驚いた。
「そうか、だけど…」
就学先でできた友達との約束。
その約束を口にする彼女の顔は、期待に満ちた笑顔でキラキラと輝いている。普段から率先して妻の手伝いをし、年不相応に大人びたところのある美緒が見せる、年相応の子供らしい願いを叶えてあげたいとは思うが、やはり子供だけで外出するというのにはいささか不安が募るのも確かだ。まあ祭りとはいえ、ここ数年何事も起こっていない魔物娘が統治する平和な町内で過剰に心配する必要はないのかもしれないが、目に入れても痛くない愛娘のこととなるとどうしてもと考えてしまう。どう返答しようかと迷っていると、傍で本を読んでいた長女の咲が会話に入ってきた。
「大丈夫よ、父さん。その美緒の友だちは、私の同級生の妹で、私たち一緒に祭りを周ろうかって話になってるのよ。美緒の面倒は私がしっかりと見てあげるから安心して。」
「そうなのかい。」
「うん、だから…いいよね、お父さん。」
「咲が一緒ならいいけれど…」
「…けれど?」
「そうなったら、祭りで咲がへましないように美緒にはしっかり監督してもらわないといけないかな?」
「うん、分かった。ありがとう、お父さん!」
「もう、父さんったら失礼ね!!」
方や喜び、方やむくれながら姦しく騒ぎ始める娘たち。
その喧騒を心地良く聞きながら、今まで一緒に祭りへ行っていた娘が友だちを作り約束して遊びに行く、こうして日々成長していくのだなあと思うと、少しばかりの寂寥と確かな喜びに包まれる。そんな感傷に少しばかり浸っていながらふと思う。
「そしたら、父さんはどうしようかな…今年のお祭りは。」
するとその言葉を聞いた咲は、何を馬鹿なことをと言いたげな表情で提案した。
「母さんと二人でデートすればいいじゃない。」
「え?」
「父さんたちって私たちが生まれてから二人で花火デートなんかしてないんじゃないの?」
咲の言う通りだった。
娘たちが生まれてから、この祭りにはいつも家族で参加している。妻である恭子と最後に二人で行ったのはもう十数年前のこと。娘たちだけで遊びに行くと聞いてもそういう考えが浮かばなかったのは、二人でデートすることはあっても、既に祭りは家族で行くものだとどこかで思ってしまっていたようだ。
「父さんと二人で花火デート。母さん絶対に喜ぶよ。ね、美緒。」
「うん。お父さん、お母さんを誘ってあげて?」
「そうだ、な…」
「それにせっかく久しぶりのデートなんだから、駅前で待ち合わせをすれば雰囲気が出ていいんじゃない。どうせ私たち女組は祭り前に美容室にいく予定なんだから丁度いいわ。」
お母さんをしっかりエスコートしてあげてねとにっこり笑う二人の娘たちに背を押され、久しぶりにする愛妻との花火祭りのデートへ誘う言葉を、どうしようかと考え始めたのだった。
………………
駅前に立っていると、目の前を沢山の人たちが通り過ぎていく。
浴衣に着飾る女性たちの華やかさが、薄暮に染まる祭りの夕暮れをひときわ鮮やかに彩っている。それらの煌めく非日常を眺めながら、どこか自分が緊張しているのを感じていた。もう何十年と連れ添っている恭子とのデートだというのに、どうにも心拍が落ち着いてくれない。早くから連れ立って美容室に行った女性組のいない家にぽつねんと取り残されたころからそわそわとして落ち着かず、妻が好きだと褒めてくれた濃紺の浴衣を着て早々に家を飛び出した。まるで初めて恭子とデートの約束を取り付け、待ち合わせをした時のような気分を噛みしめているようだと自分に呆れていると、背後から誰よりも聞き慣れた女性の声が聞こえてきた。
「旦那様。お待たせしてしまってすみませんでした。」
「いや、待ってなんかいな…」
「どうか、しましたか?」
振り返って目に飛び込んできた妻に、言葉を忘れて見入ってしまう。
浅黄色の生地に朝顔の柄が織り込まれた涼し気な浴衣に落ち着いた濃い紫の帯を締め、混雑する祭りの中をめぐるため人化の術を施した足元は目の覚めるような赤い鼻緒の黒下駄。そして腰まである銀髪に近い美しい長髪は夜会巻きに巻かれ、白磁のように美しい項があらわになっている。露出した肌は、夏独特の湿気のせいでじんわりと汗が滲み、ほつれ髪が数本張り付いている様が、息を飲むほど壮絶な色気を滲ませている。我ながら単純だとは思うが、髪を結い上げた彼女の普段とは違う魅力に早まっていた心拍が今まで以上に上がるのを自覚した。
「いや、綺麗だから…思わず見とれてしまって。本当に素敵だよ、恭子。」
そう答えると、妻は嬉しそうに微笑み覗く項にさっと赤みがした。
「ありがとうございます。ふふ、念入りに美容室で綺麗にしてもらったかいがありました。旦那様も、浴衣姿がとても素敵ですよ。」
「ありがとう。それじゃあ…そろそろ祭りの方に行こうか。」
「はい。」
持っていた黒地に金魚が刺繍された巾着を左手に持ち替え、恭子が手を繋いでくる。
妻が傍に身を寄せると、彼女独特の甘く心地いい体臭がふわりと鼻をくすぐる。嗅ぎ慣れたはずのその匂いにドギマギとしつつ、夏だというのにどこか冷たさを感じる、妻の細く女性らしい手を壊れやすい貴重品のように優しく握りしめゆっくりと会場に向かって歩き出す。周りに数多いる美しい人外の、その誰よりも美しく自慢の妻とこうして同じ時間を共有できることに何よりも嬉しさを感じる。その喜びを噛みしめつつ、祐介は人並みの中へ恭子と共に雑踏へと踏み出していった。
……………
「あら、今年もあの屋台が出ていますね。」
「おお、本当だ。そろそろ小腹も空いてきたし、買っていこうか。」
「そうですね。」
立ち並ぶ出店を冷やかしつつ歩いていると、毎年買っているたこ焼き屋の屋台が見えてきた。
時代を感じさせる簡素な屋台で寡黙なご主人が一心不乱に焼き、その奥さんのデビルが愛嬌たっぷりに売り子をしているこのお店のたこ焼きは、とても美味しい。祐介自身、たこ焼きが好きなので色々な店を見つけては食べるのだが、この屋台のご主人が作るたこ焼きはそのなかでもぴかいちだ。恭子や娘たちもここのたこ焼きは気に入っており、祭りの楽しみの一つとなっている。そして同じ考えであろう人々は多いらしく、今回も屋台の前にはそれなりの人数のお客が列に並び自分の番を待っている。
恭子と二人で列に並び、会話を楽しみながら順番を待っているといよいよ自分たちの番がやってきた。
毎年数多くのお客さんに接客しているというのに、デビルの女将さんはこちらを覚えていてくれるようで、「いつも一緒の娘さんはどうされたんです?」とにっこり笑顔で話しかけてくれた。娘は友達と周るので今日は二人きりだというと、子供が親元を離れるのは悲喜交々ですねえと笑い、いつも贔屓にしてくださっているし、久しぶりに夫婦水入らずのデートだからサービスしますよとおまけに多くたこ焼きを入れてくれた。恭子と共に寡黙な旦那さんと旦那さんの分も賑やかな奥さんに礼を言って、空いていたベンチへと移動し、たこ焼きの入ったパックを袋から取り出す。
焼きたてのたこ焼きの、香ばしさとソースの胃を刺激する力強い匂いが堪らない。
恭子と一緒にいただきますと手を合わせ、添えられた楊枝で早速一つを頬張る。かりかりとした表面とは対照的に、中は絶妙な具合で柔らかく、その中にあるタコの身は大きく切られとても味が濃い。噛めば噛むほどシンプルな生地とタコのうま味に甘辛いソースが絶妙にマッチする。夫婦二人、並んではふはふと食べながらそっと目配せして笑い合う。美味しいものを食べると、自然と笑顔になる。その妻の笑顔がなによりのスパイスとなって美味しさを加速させていく。
「やっぱりあの屋台のたこ焼きは美味しいですねえ。思わず無言で食べてしまいます。」
そうして夫婦二人、黙々とたこ焼きに舌鼓を打っていると、恭子がしみじみと言った。
「うん。色々と食べているけれど、ここのたこ焼きには敵わないなあと自分も思うよ。」
その言葉を聞いた妻は、少しだけ恥ずかし気に頬を染めながら実はと切り出した。
「随分前…確か咲が今の美緒くらいの歳だったかと思うんですが、買い物に行った商店街の入り口のところに、たこ焼き屋の屋台が出ていたんですよ。」
「うん。」
「一通り買い物を終えて家に帰ろうと思ったんですが、その屋台から漂う美味しそうな匂いについ惹かれてしまって、買い食いしてしまったんです。」
「おや、珍しい。」
普段、たこ焼きのような味の濃い食べ物を自ら好んで食べることのあまりない妻の行動に驚いた。
「お恥ずかしいですが、普段たこ焼きを口にしないせいか、妙に食べたくなってしまって、誘惑に負けてしまいました。」
「それで、そのたこ焼きは美味しかった?」
「まあ…美味しかったんですよ。」
「おや、なんだか歯切れが悪いね。」
「ここのたこ焼きの美味しさに慣れているというのもあるのかもしれませんが、なんだか物足りない気がして。」
「ふんふん。」
「自分でも不思議で、そのたこ焼きを食べながら理由を考えていたんですが…ちょうど最後の一個を食べている時に分かったんです。」
妻はそう言ってこちらに顔を向け、気持ち上目遣いに見やりつつ告白した。
「普段食べることのないたこ焼きは、私の中ではこうしてお祭りで旦那様や娘たちと食べる思い出の味なんです…だから他所で食べるたこ焼きがどんなに美味しくても、あの屋台で買って、こうして一緒に食べるからこそ満たすことができる、他では決して超えることのできないものなのだなって。残念ながら娘たちはいませんが…でもこうして今年も旦那様と一緒に食べることができて、私は本当に嬉しいです。」
締めの言葉と共に、誰よりも幸せそうに微笑む妻の告白を聞いて、熱くなるほど顔が紅潮してしまうのを自覚する。
そしてワンテンポ遅れて胸に沸き起こる多幸感に胸が苦しくなる。
誰よりも自分を魅了し、愛してくれる彼女と、魔物娘の彼女とただ肉体的に交わるのではなく、心から通じ合っていることの幸せは、どこまでも強く祐介の心を揺さぶり乱す。魔物娘が刺激する、雄の本能とはまた違う、恭子がただひたすらに愛おしく大切だと思うこの気持ちは、どんなことがあっても決して忘れはしないし、忘れてはいけない感情なのだろうと思う。
「ありがとう。」
今は、その感情を全ては言葉にできないけれど
「自分も、こうして恭子と一緒に食べることができて、心から嬉しく思うよ。」
いつかはしっかりと自分の言葉で彼女に伝えられたらと、強く思う。
「さて、たこ焼きを食べて喉も乾きましたし、そろそろ他の屋台を見て回りませんか?」
「そうだね。」
「私、久しぶりにラムネを飲みたいです。」
「いいね、冷えた瓶のやつを自分も久しぶりに飲みたいや。」
他愛のない会話を交わしつつ、再び雑踏へと踏み出していく。
祭りは、始まったばかりだ。
19/08/10 09:00更新 / 松崎 ノス
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