親心
「あら?」
務めている神社の神事を終え自宅に帰宅した恭子は、玄関の鍵がかかっていないことに首をひねった。
今日は日曜日ということもあり、夫と次女は映画を見に行き、長女は友人と遊ぶとのことで家を出ている。昨日予定を聞いた限り家族たちは夕方までは外出のはずであったし、予定通りならばおそらく最後に家を出たのは戸締りに几帳面な夫のはず。そんな我が家の鍵が開いているということは…。
「まさか泥棒…?」
真っ昼間であり、もう何年も泥棒騒ぎなど聞かない町内ではあるが、念には念をと片手に持っていた荷物を置き、魔力を研ぎ澄まして何者かがいるか気配を探ってみると。
「咲?」
遊びに行ったはずの長女、咲の気配が居間の方からする。
空き巣ではなかったことにひとまずは胸を撫で下ろしつつ、扉を開けてただいまと声をかけて家に入っていくと、居間の机にふてくされたように突っ伏して本を読んでいる娘が小さな声でお帰りなさぁいと気の抜けた挨拶を返してきた。
「どうしたの、咲。遊びに行くんじゃなかったの。」
自室に荷物を置き普段着に着替えた後、咲も好きなアセロラジュースを二人分コップに入れていれながら声をかける。
「それがねえ…ドタキャンされちゃったの。」
「え?確か今日一緒に遊びに行く予定だったのって大山さんよね、アヌビスの。」
「そう、その眞砂子ちゃん。」
咲の口からも結構な頻度で話題に上る、我が家にもたびたび遊びに来るアヌビスの面影を思い浮かべる。
彼女はまさにこれぞアヌビスといった真面目な性格で、十分にお構いできないからいいと言っても遊びに来るときには毎回手土産を持参してくるほどの堅物というイメージしかない。そんなアヌビスとしてステレオタイプな彼女が、良好な関係を築いている娘との約束を反故にするというのは俄かに信じがたい。話を促すように飲み物を娘の前に置き恭子が椅子に座ると、ありがとうと言いつつ体を起こした咲が話し始めた。
集合場所に選んだ駅前に、約束の五分前に辿り着いた時点で友人の姿がないことに娘は驚いたという。
というのも、過去に幾度こうして落ち合った時、咲が約束した時間に余裕をもって行っても必ず友人は先に来ていたからだそうだ。だからこそ、珍しいこともあるものだと思いつつ鞄から本を取り出し、読書をしながら友人がやってくるのを待ったのだが、約束の時間になり、五分過ぎても、十五分経っても大山眞砂子が姿を現すことはなかった。それまでは彼女が遅刻するなんて、今日は雪どころか槍でも降るかもしれないと気楽に考えていた咲も、もしかして友人に何かあったのではないかとさすがに心配になり電話してみると…。
「聞こえてきたのは眞砂子ちゃんのあられもない喘ぎ声だったの。」
「え?」
娘の言った言葉に一瞬理解が及ばず、気の抜けた声を漏らすと、咲はすっかり空になったコップを両手で弄びながら、まあ驚くよねと納得したように頷いた。
「結論から言うと、ね。土曜日に出会った男の人とその場で恋人同士になって、私が電話するまで約束したのも忘れてセックスしていたんだって。」
「あらまあ、それは…」
「それを聞きだすまでに、眞砂子ちゃんは、散々彼は私の運命の人よ、出会った瞬間雷に打たれたような衝撃を受けた、それから彼のことしか考えられないって惚気っぱなしだし、喋りながら本気で三回絶頂して、それでも性行を止めようとしなかったから、電話でただ話を聞いているだけなのにすっかり遊びに行く気力も無くなっちゃって…なんとか最後に一言おめでとうって言って帰ってきたの。」
そう言って再び娘は机に突っ伏した。
普段であればだらしない行動だと窘めるのかもしれないが、さすがにこの経緯で不貞腐れている娘の気持ちが痛いほど分かるので、手を伸ばし咲の頭を優しく撫でながら言葉をかける。
「咲にとっては、災難だったわね。」
「魔物娘同士の友情なんて、愛しい異性の前じゃなんの意味もないんだぁ。」
恨みの籠った娘の言葉を聞いて、つい苦笑してしまう。
それは恭子自身も覚えがある出来事であるし、感情であった。自分よりも先に親しい友人が想い人と結ばれることを素直に喜ぶ気持ちと、未だに独り身であることへの焦りや悲しみがない混ぜになって、自分でもどうしようもなくなってしまうあの気持ち。思春期の魔物娘にはとてもつらい自己矛盾を伴うあの瞬間。
「でもお母さんは、嬉しいかな。」
「え?」
それまでじっと頭を撫でられていた咲は頭だけを起こして疑わし気な視線をこちらに向けてくる。
「そういう辛い状況になっても、咲はちゃんと友達を祝福できる優しい子に育ってくれているって分かって…お母さんは嬉しいわ。」
真っ直ぐ娘の目を見つめながらそう言って、優しく綺麗な髪を撫でてやると、目を見開きうっすらと頬を染めた咲は、その表情を隠すように顔を伏せたかと思うと、小さな声でありがとうと言ったのだった。親の、母親の恭子がこうしてやることでどれだけ咲の気持ちを慰めてあげられるかは分からないが、今はただ、娘を慰めることだけを考え彼女が嫌というまでしっかりと甘やかしてあげようと思った。
……………
「ねえ、お母さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど…いいかな。」
そうして暫く経った後、おずおずと顔を上げ、上目遣いにこちらを見上げる咲が質問してきた。
「ええ、いいわよ。お母さんが答えられることなら。」
「あの、さ。お母さんはお父さんを運命の人だって思う?」
「勿論そうよ。お父さん意外に運命の人なんかあり得ないわ。」
「じゃあお母さんは…お父さんと最初に会った時って、やっぱり鮮烈で忘れがたいものだった?」
心配そうに尋ねる娘の気持ちが恭子も十二分に理解できた。
自分が独身だった学生時代、咲と同じように自分の友人の中にも忘れがたい出会いを通して結ばれたカップルが出現する度に、自分自身の出会いは何時なのか、そもそもそんな運命の人に出会えるのかと焦り、必要以上に心配になったものだ。
しかし、そう考えると自分と良人との出会いは娘の不安を薄める要因となるかどうか…。
「それがねえ…」
「…うん。」
「お母さん…お父さんとの初対面、いつだったか、どんなものだったか全然覚えていないのよ。」
「ええ!?」
恭子の言葉を聞いた咲は、予想もしていなかったのか驚きの色を浮かべて前のめりに身を乗り出してきた。
「お父さんとは中学校で同じ学校に通い始めて、一年生の時に同じクラスになったからその時が初対面だったはずなのだけどねえ。」
「え。」
「必要があれば言葉を交わすこともあったし、休み時間とかによく分厚い煉瓦みたいな本を読んでいるなと思ったりはしていたのだけれど、席が近かったわけでも、委員会や部活動で一緒だったわけでもないから、本当にクラスメイトの一人ってことしか思わなかったのよ。」
休み時間に本を読んでいるからと言って、決して夫は孤立していたというわけではなく、よく男友達となにやら楽しそうに話したりしていたのだが、どうにも恭子の記憶の中では、どこか少し小難しそうな表情で本を読む夫の、その顔が印象に残っているのだ。今でも同じような表情で本を読む姿の夫を見ながら思うことは、どうやら自分は彼のそういう表情がとても好きなようだ。だからこそ、過去を回想すると鮮明に思い出されるのだろう。…それを現状のろけ話に食傷気味の娘に話すわけにはいかないのでぐっと飲み込む。
「雷に打たれるような衝撃は…」
「夢を壊すようで申し訳ないけれど、静電気すら起こらなかったわ。」
「…。」
恭子の言葉を聞き、たっぷりと呆けた後ぎこちなく首を傾げた咲が質問を続ける。
「じゃあどうしてお母さんは父さんと付き合い始めたの?」
「それは、高校生の時にお父さんから数回デートに誘われた後、あちらから交際してほしいって告白されて…お母さんが了承したって感じかしらね。」
初対面は覚えていないが、夫が初めてデートを申し込んできた時のことは覚えている。
こちらの顔をまともに見ず、少し早口で週末に映画を見に行かないかと誘われた。正直、その様子を見てどうしようかとも思ったが、今まで友だちがデートした話は聞いていたが自分にそういうお誘いがかかったことは一度もなかったし、無碍にするのは申し訳ないかと思い、提案を受けたのだ。
「なら…デートも最初はそんなに楽しみってわけでは」
「なかったわねえ。最初のデートはむしろ終盤までいい思い出はなかったわ。」
「ええ?」
困惑気味に眉を寄せる娘の様子を見て、つい笑ってしまいそうになる。
咲の当惑を解消するためであったとしても、あの当時の話を夫は放さないでほしいと思うであろうが、娘の気分転換になるのならあの人も納得してくれるだろうと心の中で謝罪して、小声で話を続けた。
「お父さんね、あちらからデートに誘ってきたのに、デート中終始むっつりとした感じだったのよ。映画館までの道中も、映画を見終わって入った喫茶店でも口数が少なくってねえ。せっかく映画を見たって言うのにその感想を言っても一言か二言しか返ってこないからさすがのお母さんも困惑しちゃったわ。何を目的に私とデートしたいなんて言ったんだろうって。」
「なんというか…よくお母さんも我慢して最後まで付き合ったね。」
「でしょう?」
「それで…そんなデートの終盤に何があったの?」
「お腹が痛いってお父さんがトイレに駆け込んだの。」
「………はあ?」
「お母さんもあまりのことに怒るよりもあきれちゃってトイレから戻ってきたお父さんに聞いたの。もしかして今日終始無口だったのは体調が悪かったのかって。」
今でも脳裏に浮かぶ。
その時の夫は少し顔を青くしながらぶっきら棒にそうじゃないとだけ呟いた。その態度を見て、恭子は無性に腹が立った。この人は何がしたいのだろうと。そちらから誘ってきたのに少しも楽しそうではないし、こちらの気を引こうとするわけでもない。もしや私を揶揄う為だけにこんなことをしたのかと詰め寄った。
そんな恭子の詰問に、青い顔を少しだけ赤くさせながら
「ごめん。君とデートできるって思ったら、とっても嬉しいのに…話したいことも、したいこともあるのに…どうしていいか分からなくなっちゃって…。」
と、彼は答えたのだった。
その言葉を聞いて、恭子は愕然とした。
こちらは気軽にやってきた今日の約束を、この人は腹痛を催すほど真剣に考えていたのかと。それは例え傍からはただ不愛想に見えたとしても彼の中でこれほど熱い思いが滾っていたのかと。
「正直にいえば…その時点で旦那様に運命を感じたりはしなかったけれど…もっとこの人を知りたい、自分のことをそれだけ考えてくれる彼のことを私も理解したいって思ったの。」
「それから、少しずつ対話を重ね、お互いの行きたい場所にデートへ行って…十分に心が通じたところでお父さんから告白をしてもらったの。…ねえ、咲。」
「………。」
「確かに劇的な出会いから始まる恋愛に魅かれるのも分かるけれどね、それだけが全てではないわ。お母さんはまるで人間のようにお父さんと恋愛をして結ばれたけれど、こうして咲や美緒にも恵まれて幸せな人生を歩んでいる。お友達がそうだからといって…咲は焦る必要も無理することもないわ。咲を心から愛してくれる人と、絶対に出会うことが出来るから、今は焦らずにいなさい。」
「……うん。」
恭子は静かに移動して咲の横に座り、かずかに震える娘を抱きしめる。
「話を聞いてくれて、聞かせてくれてありがとう。お母さん。」
小さく細い中を優しく撫でながらふと思う。
こうして純粋な母と娘でいられるのはあとどれくらいなのだろう。
子供として私を頼ってくれるのはいつまでなのだろうかと。
残り少ないのかもしれないし、まだたっぷりとあるのかもしれない。
だが彼女たちが愛するパートナーと結ばれて。
いつか私たちの元を巣立つその時まで。
私は…できうるかぎり親としてこの子を支えてあげたいと。
心の底からそう思う。
「当たり前でしょう、私はあなたのお母さんなんだから。」
務めている神社の神事を終え自宅に帰宅した恭子は、玄関の鍵がかかっていないことに首をひねった。
今日は日曜日ということもあり、夫と次女は映画を見に行き、長女は友人と遊ぶとのことで家を出ている。昨日予定を聞いた限り家族たちは夕方までは外出のはずであったし、予定通りならばおそらく最後に家を出たのは戸締りに几帳面な夫のはず。そんな我が家の鍵が開いているということは…。
「まさか泥棒…?」
真っ昼間であり、もう何年も泥棒騒ぎなど聞かない町内ではあるが、念には念をと片手に持っていた荷物を置き、魔力を研ぎ澄まして何者かがいるか気配を探ってみると。
「咲?」
遊びに行ったはずの長女、咲の気配が居間の方からする。
空き巣ではなかったことにひとまずは胸を撫で下ろしつつ、扉を開けてただいまと声をかけて家に入っていくと、居間の机にふてくされたように突っ伏して本を読んでいる娘が小さな声でお帰りなさぁいと気の抜けた挨拶を返してきた。
「どうしたの、咲。遊びに行くんじゃなかったの。」
自室に荷物を置き普段着に着替えた後、咲も好きなアセロラジュースを二人分コップに入れていれながら声をかける。
「それがねえ…ドタキャンされちゃったの。」
「え?確か今日一緒に遊びに行く予定だったのって大山さんよね、アヌビスの。」
「そう、その眞砂子ちゃん。」
咲の口からも結構な頻度で話題に上る、我が家にもたびたび遊びに来るアヌビスの面影を思い浮かべる。
彼女はまさにこれぞアヌビスといった真面目な性格で、十分にお構いできないからいいと言っても遊びに来るときには毎回手土産を持参してくるほどの堅物というイメージしかない。そんなアヌビスとしてステレオタイプな彼女が、良好な関係を築いている娘との約束を反故にするというのは俄かに信じがたい。話を促すように飲み物を娘の前に置き恭子が椅子に座ると、ありがとうと言いつつ体を起こした咲が話し始めた。
集合場所に選んだ駅前に、約束の五分前に辿り着いた時点で友人の姿がないことに娘は驚いたという。
というのも、過去に幾度こうして落ち合った時、咲が約束した時間に余裕をもって行っても必ず友人は先に来ていたからだそうだ。だからこそ、珍しいこともあるものだと思いつつ鞄から本を取り出し、読書をしながら友人がやってくるのを待ったのだが、約束の時間になり、五分過ぎても、十五分経っても大山眞砂子が姿を現すことはなかった。それまでは彼女が遅刻するなんて、今日は雪どころか槍でも降るかもしれないと気楽に考えていた咲も、もしかして友人に何かあったのではないかとさすがに心配になり電話してみると…。
「聞こえてきたのは眞砂子ちゃんのあられもない喘ぎ声だったの。」
「え?」
娘の言った言葉に一瞬理解が及ばず、気の抜けた声を漏らすと、咲はすっかり空になったコップを両手で弄びながら、まあ驚くよねと納得したように頷いた。
「結論から言うと、ね。土曜日に出会った男の人とその場で恋人同士になって、私が電話するまで約束したのも忘れてセックスしていたんだって。」
「あらまあ、それは…」
「それを聞きだすまでに、眞砂子ちゃんは、散々彼は私の運命の人よ、出会った瞬間雷に打たれたような衝撃を受けた、それから彼のことしか考えられないって惚気っぱなしだし、喋りながら本気で三回絶頂して、それでも性行を止めようとしなかったから、電話でただ話を聞いているだけなのにすっかり遊びに行く気力も無くなっちゃって…なんとか最後に一言おめでとうって言って帰ってきたの。」
そう言って再び娘は机に突っ伏した。
普段であればだらしない行動だと窘めるのかもしれないが、さすがにこの経緯で不貞腐れている娘の気持ちが痛いほど分かるので、手を伸ばし咲の頭を優しく撫でながら言葉をかける。
「咲にとっては、災難だったわね。」
「魔物娘同士の友情なんて、愛しい異性の前じゃなんの意味もないんだぁ。」
恨みの籠った娘の言葉を聞いて、つい苦笑してしまう。
それは恭子自身も覚えがある出来事であるし、感情であった。自分よりも先に親しい友人が想い人と結ばれることを素直に喜ぶ気持ちと、未だに独り身であることへの焦りや悲しみがない混ぜになって、自分でもどうしようもなくなってしまうあの気持ち。思春期の魔物娘にはとてもつらい自己矛盾を伴うあの瞬間。
「でもお母さんは、嬉しいかな。」
「え?」
それまでじっと頭を撫でられていた咲は頭だけを起こして疑わし気な視線をこちらに向けてくる。
「そういう辛い状況になっても、咲はちゃんと友達を祝福できる優しい子に育ってくれているって分かって…お母さんは嬉しいわ。」
真っ直ぐ娘の目を見つめながらそう言って、優しく綺麗な髪を撫でてやると、目を見開きうっすらと頬を染めた咲は、その表情を隠すように顔を伏せたかと思うと、小さな声でありがとうと言ったのだった。親の、母親の恭子がこうしてやることでどれだけ咲の気持ちを慰めてあげられるかは分からないが、今はただ、娘を慰めることだけを考え彼女が嫌というまでしっかりと甘やかしてあげようと思った。
……………
「ねえ、お母さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど…いいかな。」
そうして暫く経った後、おずおずと顔を上げ、上目遣いにこちらを見上げる咲が質問してきた。
「ええ、いいわよ。お母さんが答えられることなら。」
「あの、さ。お母さんはお父さんを運命の人だって思う?」
「勿論そうよ。お父さん意外に運命の人なんかあり得ないわ。」
「じゃあお母さんは…お父さんと最初に会った時って、やっぱり鮮烈で忘れがたいものだった?」
心配そうに尋ねる娘の気持ちが恭子も十二分に理解できた。
自分が独身だった学生時代、咲と同じように自分の友人の中にも忘れがたい出会いを通して結ばれたカップルが出現する度に、自分自身の出会いは何時なのか、そもそもそんな運命の人に出会えるのかと焦り、必要以上に心配になったものだ。
しかし、そう考えると自分と良人との出会いは娘の不安を薄める要因となるかどうか…。
「それがねえ…」
「…うん。」
「お母さん…お父さんとの初対面、いつだったか、どんなものだったか全然覚えていないのよ。」
「ええ!?」
恭子の言葉を聞いた咲は、予想もしていなかったのか驚きの色を浮かべて前のめりに身を乗り出してきた。
「お父さんとは中学校で同じ学校に通い始めて、一年生の時に同じクラスになったからその時が初対面だったはずなのだけどねえ。」
「え。」
「必要があれば言葉を交わすこともあったし、休み時間とかによく分厚い煉瓦みたいな本を読んでいるなと思ったりはしていたのだけれど、席が近かったわけでも、委員会や部活動で一緒だったわけでもないから、本当にクラスメイトの一人ってことしか思わなかったのよ。」
休み時間に本を読んでいるからと言って、決して夫は孤立していたというわけではなく、よく男友達となにやら楽しそうに話したりしていたのだが、どうにも恭子の記憶の中では、どこか少し小難しそうな表情で本を読む夫の、その顔が印象に残っているのだ。今でも同じような表情で本を読む姿の夫を見ながら思うことは、どうやら自分は彼のそういう表情がとても好きなようだ。だからこそ、過去を回想すると鮮明に思い出されるのだろう。…それを現状のろけ話に食傷気味の娘に話すわけにはいかないのでぐっと飲み込む。
「雷に打たれるような衝撃は…」
「夢を壊すようで申し訳ないけれど、静電気すら起こらなかったわ。」
「…。」
恭子の言葉を聞き、たっぷりと呆けた後ぎこちなく首を傾げた咲が質問を続ける。
「じゃあどうしてお母さんは父さんと付き合い始めたの?」
「それは、高校生の時にお父さんから数回デートに誘われた後、あちらから交際してほしいって告白されて…お母さんが了承したって感じかしらね。」
初対面は覚えていないが、夫が初めてデートを申し込んできた時のことは覚えている。
こちらの顔をまともに見ず、少し早口で週末に映画を見に行かないかと誘われた。正直、その様子を見てどうしようかとも思ったが、今まで友だちがデートした話は聞いていたが自分にそういうお誘いがかかったことは一度もなかったし、無碍にするのは申し訳ないかと思い、提案を受けたのだ。
「なら…デートも最初はそんなに楽しみってわけでは」
「なかったわねえ。最初のデートはむしろ終盤までいい思い出はなかったわ。」
「ええ?」
困惑気味に眉を寄せる娘の様子を見て、つい笑ってしまいそうになる。
咲の当惑を解消するためであったとしても、あの当時の話を夫は放さないでほしいと思うであろうが、娘の気分転換になるのならあの人も納得してくれるだろうと心の中で謝罪して、小声で話を続けた。
「お父さんね、あちらからデートに誘ってきたのに、デート中終始むっつりとした感じだったのよ。映画館までの道中も、映画を見終わって入った喫茶店でも口数が少なくってねえ。せっかく映画を見たって言うのにその感想を言っても一言か二言しか返ってこないからさすがのお母さんも困惑しちゃったわ。何を目的に私とデートしたいなんて言ったんだろうって。」
「なんというか…よくお母さんも我慢して最後まで付き合ったね。」
「でしょう?」
「それで…そんなデートの終盤に何があったの?」
「お腹が痛いってお父さんがトイレに駆け込んだの。」
「………はあ?」
「お母さんもあまりのことに怒るよりもあきれちゃってトイレから戻ってきたお父さんに聞いたの。もしかして今日終始無口だったのは体調が悪かったのかって。」
今でも脳裏に浮かぶ。
その時の夫は少し顔を青くしながらぶっきら棒にそうじゃないとだけ呟いた。その態度を見て、恭子は無性に腹が立った。この人は何がしたいのだろうと。そちらから誘ってきたのに少しも楽しそうではないし、こちらの気を引こうとするわけでもない。もしや私を揶揄う為だけにこんなことをしたのかと詰め寄った。
そんな恭子の詰問に、青い顔を少しだけ赤くさせながら
「ごめん。君とデートできるって思ったら、とっても嬉しいのに…話したいことも、したいこともあるのに…どうしていいか分からなくなっちゃって…。」
と、彼は答えたのだった。
その言葉を聞いて、恭子は愕然とした。
こちらは気軽にやってきた今日の約束を、この人は腹痛を催すほど真剣に考えていたのかと。それは例え傍からはただ不愛想に見えたとしても彼の中でこれほど熱い思いが滾っていたのかと。
「正直にいえば…その時点で旦那様に運命を感じたりはしなかったけれど…もっとこの人を知りたい、自分のことをそれだけ考えてくれる彼のことを私も理解したいって思ったの。」
「それから、少しずつ対話を重ね、お互いの行きたい場所にデートへ行って…十分に心が通じたところでお父さんから告白をしてもらったの。…ねえ、咲。」
「………。」
「確かに劇的な出会いから始まる恋愛に魅かれるのも分かるけれどね、それだけが全てではないわ。お母さんはまるで人間のようにお父さんと恋愛をして結ばれたけれど、こうして咲や美緒にも恵まれて幸せな人生を歩んでいる。お友達がそうだからといって…咲は焦る必要も無理することもないわ。咲を心から愛してくれる人と、絶対に出会うことが出来るから、今は焦らずにいなさい。」
「……うん。」
恭子は静かに移動して咲の横に座り、かずかに震える娘を抱きしめる。
「話を聞いてくれて、聞かせてくれてありがとう。お母さん。」
小さく細い中を優しく撫でながらふと思う。
こうして純粋な母と娘でいられるのはあとどれくらいなのだろう。
子供として私を頼ってくれるのはいつまでなのだろうかと。
残り少ないのかもしれないし、まだたっぷりとあるのかもしれない。
だが彼女たちが愛するパートナーと結ばれて。
いつか私たちの元を巣立つその時まで。
私は…できうるかぎり親としてこの子を支えてあげたいと。
心の底からそう思う。
「当たり前でしょう、私はあなたのお母さんなんだから。」
19/04/28 09:00更新 / 松崎 ノス
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