冬の色香
「父さん、咲です。用事があるんだけど、入っていい?」
穏やかな休日の午後。
両親が寝室兼私室に使っている和室の前で声をかけると、寝起きのようなぼやけた返事が返ってきた。
「ん…。ああ、どうぞぉ。」
その声を聞いて衾を開けると、しゅうしゅうと心地のいい音をたてる鉄瓶がかけられた常滑焼の大きく立派な火鉢の前に、半纏を着た父親である安藤祐介が座布団を敷いて座り、目を瞬かせながらこちらへ視線を向けている。どうやらうたた寝をしていたようだ。
「もう、父さん。駄目じゃない。いくら暖かくなってきたからといって火鉢の前でうたた寝なんかしたら風邪をひいちゃうわ。」
「ああ、すまんすまん。ついうとうとしてなあ。」
「それにいくら洋室みたいに密閉された部屋じゃないとはいえ、火を点けっぱなしの火鉢の前で寝るのは危ないわよ。もしなにかあれば母さんがどれだけ悲しむか分からないわ。しっかりしてよぉ。」
咲がぷりぷりと小言をたれていると、目を擦りながら黙って聞いていた父は、何故か少しだけにやけながらこちらを見ていた。
「なんだか嬉しそうだけどどうしたの、父さん。」
「いやあ、おっとりしていると思っていた我が長女が、いつのまにか母さんに似てしっかりしてきたなあっと思ってね。父として実に寂しいけれど、いつお嫁さんに行っても不思議はないなって考えていたのさ。」
「もう、冗談を言ってないでしゃんとしてよ。」
「あはは、すまん。許してくれ。」
傍へ寄り肩をぽかぽかと叩くと、父は楽しげに笑いながら謝りつつ、火鉢の対面に座るよう促して咲が訪ねてきた理由を尋ねる。
「それで、父さんに何の用事があって咲は来たんだい?」
「読む本が無くなったから、いくつかお勧めしてもらおうかなと思ってきたんだけど、大丈夫?」
「おお、いいとも。というか、この間勧めたのはもう全部読んだのかい?」
「うん。面白くてすぐに読んじゃった。これ、借りていた本。返すね。ありがとう。」
「そうかそうか。感想は…後で聞くとして、まずは貸す本を選ぶとしようか。また面白い本をお勧めせにゃならんな。」
そう言って父は本を受け取りつつ、一つ嬉しそうに膝を叩いて、いそいそと部屋に置かれた本棚へと向かっていった。
出版関係で仕事をしているだけあって、父は読書家であり、蔵書家であった。
仕事関連の資料を保管する書庫もあるし、十畳ほどのこの部屋も、壁は全て天井まで届く本棚で埋められ、部屋の隅に置かれた父の仕事机は何十冊もの本が積み上げられている。しかも新旧問わず、学術書から官能小説までジャンルレスで所蔵しており、普段図書館を利用しているが、ちょっとした本ならば父に借りた方が早かったりする。
「あれは貸したから…今度は」
火鉢で手を暖めながら、本棚の前で嬉々として本を選ぶ父の後姿に目をやる。
中学に上がり、読書の楽しみに目覚めて以来、こうして度々父におすすめの本を見繕ってもらうことがあるのだが、それを父は大層喜んでくれていた。「勉強が疎かにならないよう、ほどほどにしておいてくださいね。」と母から釘を刺されているそうなのだが、どこ吹く風と父は咲が求めればそれに見合った本を紹介してくれる。今や読書は父ととるコミュニケーションの大事な一つといっても過言ではない。
「よしよし。今回はこれくらいでいいかな。」
そう言って戻ってきた父の手には五、六冊の本が抱えられていた。
「まずはこれ、主人公とヴァンパイアのヒロインが紆余曲折あって結ばれる小説なんだが…」
「この作者ってアブノーマルって言うか被虐性癖の作品が主だったものって友だちに聞いたことがあるけど、これもそうなの?」
「そう、普段はマゾヒストな主人公とそれに応える魔物娘の関係をじっくりと描くことで有名な先生なんだが、これは珍しくマゾッ気がほとんどない主人公で、実に爽やかで王道な展開で進んでいくものなんだ。障害を手に手をとって乗り越えていくところなんかは実に感動的でいい。まあこの先生のファンたちからは、先生独自の特色が薄いなんて言う人もいるけれど、父さんは好きなんだ、この小説。」
「ふうん。」
「だから是非読んでみておくれ。」
「分かった。読んでみるね。」
それからしばらく父のお勧めの本や前回借りた本の感想を言ったり聞いたりして、父と過ごす楽しい時間はゆっくりと過ぎていった。
………………
「そういえばちょっと聞いてみたことがあるんだけど…」
本談議に一段落が付き、お茶でも飲もうかと父が急須に手を伸ばすのをぼんやりと眺めつつ長年気になっていたことを父に質問してみることにした。
「うん?なんだい。」
「父さんたちの部屋ってさ、暖房ってこの火鉢だけなの?」
「そうだね、この火鉢だけだねえ。」
そう言って急須にお湯を入れ、鉄瓶を五徳の上に静かに置いた後、優しい手つきで火鉢の縁を撫でながら続ける。
「父さんが暑がりの汗っかきだから、こうして半纏なんかを羽織って取る火鉢の温かみが丁度良くてね。寒がりの母さんには申し訳ないと思うけど、これだけなんだ。」
それを聞いて少しだけ意外な気がした。
というのも、自分や母、妹は白蛇と言われるラミア属の魔物娘。魔王様の力によって半分淫魔の体とはいえ、蛇の下半身が表すように、冬の寒さは苦手な種族。出来うる限りの防寒対策をしておきたいのは父も理解しているはず。
現に我が家のリビングや子供部屋、母が水仕事をする台所や風呂場には過分なほどヒーターやストーブ、加湿器が置かれ、常に温かく快適な空気が保たれている。
それに母のことを心から愛している父が、暑がりなのは事実かもしれないけれど、寒さに弱い愛妻と長時間過ごすであろう部屋の暖房を充実させないというのは、なんとも解せない。
…少しだけ、ほんの少しだけ汗臭い父を母が嫌がったのかなとも思ったが、むしろ目を輝かせて絡みつく母の姿がありありと脳裏に浮かんですぐに考えるのを止めた。
「この火鉢は結婚してしばらくの時に母さんと二人で選んだものでね。群青の深い色合いが水底のように綺麗で気に入ったのと、『お二人で使うのに具合がいいですし、使い込むとより一層味わいが出てよろしいですよ』ってお店の人に勧められて買ったんだ。使ってみると口が広くて炭の出し入れも楽だし、合わせて買った鉄瓶で入れるお茶は普通のやかんで沸かせたお湯で作るものより美味しくて実にいい。」
そう言って父は嬉しそうに火箸で新しく炭を加え、灰をならした。
「けど、部屋全体を暖めるには時間もかかるし、少し心もとないんじゃない?」
「…うん、まあストーブやなんかに比べれば心もとないのは、事実だね。うん。」
咲から視線を外し、ごにょごにょと歯切れ悪く話す父の様子を眺めていると、どうにも何かあると思わずにいられない。
「ねえ、父さん。」
「な、なんだい。」
「本当にそれだけ?」
「…。」
「暑がりだからって母さんに寒い思いをさせているなんて、私、父さんがそんな人だと思いたくないなあ。」
じとっと半目でもじもじする父を睨みつけていると、こちらの気迫に負けたのかぼそぼそと父が口を開いた。
「まあ、その…なんだ。父さんのエゴというか…なんというか。」
「エゴ?」
「その、恭子には、母さんには内緒にしてもらえるかい?」
「内容によると思うけど…」
「頼む、これは父さんにとって冬のなによりなんだ。」
懇願するように上目遣いでこちらを見る父の様子に気をされ、咲も神妙に頷くと、父は二つの湯呑にお茶を入れ、一つを咲の前に置き、愛用している自分の湯呑を大切に扱いながら一口飲んで唇を濡らし独白を始めた。
冬の朝は底冷えする。
そして夜が明けるのが遅くって、いつも父さんたちが目を覚ますころにはまだ暗いんだ。
そんな中母さんは、蛇の下半身で父さんをぎゅっと抱きしめ身を寄せつつ、火鉢の炭に火を熾してくれる。
父さんのように魔法や魔術が一切使えないインキュバスだと、炭に火をつけるのはガスを使ってもある程度時間がかかるものだけど、母さんのように魔術を自由自在に使いこなす人であれば瞬時に火を熾すことができるんだな。
炭の火花が爆ぜる音ばかりが聞こえる部屋の中。
寒い冬の空気や、火に翳した手がゆっくりと暖まっていく気持ちよさに浸りながら母さんを見ると、母さんの細く美しい指や、血管がうっすら見えるほど透き通った白い腕に炭火の発する柔らかな赤い光が、まるで化粧のようにじんわりと映り込む。
ストーブや焚火なんかのような、ぼうぼうと燃え盛る強い火とは違ってね、炭火の発する光はとても柔らかで儚い。
その赤い光が母さんのシミ一つない美しい肌に差す。
そうするとまだ日の光の差さない暗い室内の中、炭火の光でぼうっと浮かび上がるんだ、光に彩られた母さんの美しい肌が。
それがなんとも言えない、艶やかさでねえ。
まるで沈みゆく日輪の美しさに心奪われるようにその光景を眺めていると、火鉢の暖かさでだんだんと母さんの体が温まってくるのか、袷の隙間から覗く胸元や鎖骨、ほっそりとした首筋がだんだん血色がよくなってきて、ほんのりと桜色に染まっていく。
その薄らとした赤みに対して、いまだ寒い外気に面しているうなじは真っ白で、その対比が息を飲むほどに艶っぽい。
肉欲をかき立てる美しさとはまた違う、芸術性の美しさというのかなあ…本当に息を飲むほど可憐で、綺麗なんだ。
そしてその姿を毎朝見る度に、思う。
ああ…この人と出会うばかりか、結ばれることができて本当によかったって。心の底から、ね。
それから母さんが朝ご飯の用意を始めるまで、二人身を寄せ合って話をする。
昨日こんなことがあった。近所の人や同僚とこんな話をした。娘たちがこんな話をしていた。あの魚屋さんの鯵が安かったとかね。
本当に、実に他愛のない話をするんだけど、それが父さんにとってなによりも愛しい時間だったりするんだ。
勿論、インキュバスと魔物娘の夫婦だからセックスするのは好きだけれどね、肉体だけじゃなく言語でお互いを理解するっていうのも大事なんじゃないかなって父さん思うんだ。
それに寒い空気の中、ゆっくりと体を温めてくれる火鉢を前に、二人寄り添って温かさを共有していると、セックスでつながるのとはまた違う精神的な一体感を感じて幸せになれるだよ。
これが、父さんのエゴの正体だよ。
母さんの美しい姿をみたい、母さんと話がしたい。それが母さんに迷惑をかけてしまっていると分かっていても、ね。
このことは…なんだか気恥ずかしいし、変な意識をさせず、自然な仕草の母さんを見たいもんだから、母さんにはどうか内緒にしておいてくれると、助かる。
今のところ火鉢しか暖房を置いていないのは、父さんが暑がりなのと、一緒にイチャイチャしたいってことで母さんには納得してもらっているから、どうか話を聞いた咲の胸だけに収めておいてほしい。
お願いできるかいと、そういって火鉢の前ではにかむ父を前にして、先ほど飲んでいたお茶の後味が、入っていないはずなのに何十杯も砂糖をぶち込んだように甘ったるく感じてしょうがなかった。
悪戯に安藤家を騒然とさせるような趣味ではないので、勿論父が望むよう母に伝えることはしないと思いつつ、想像もしなかった父の壮大なノロケにどう反応すべきかと悩んでいると
「旦那様、恭子ですが入ってよろしいですか?」
話題の主役の声が衾の外から聞こえてきて、父と二人びくりと体を固くした。父は一つ咳ばらいをして、母に声をかける、
「ああ、どうぞ。」
「失礼します。あら、咲も一緒だったの…って」
先ほどまで母の、しかも内緒にしたい話をしていただけに二人でどきまぎしていると、その様子を見た母は、すっと火鉢の傍に積み上げられた本の山を一瞥して
「もう、旦那様。咲に本を貸すのはいいですが、ほどほどにと言っているじゃないですか。」
と、咲と父が慌てている理由を都合よく勘違いしてくれたので、二人してそっと胸を撫で下ろす。
「ああ、うん。ほどほどにね、ほどほどに。」
「それより、母さんは父さんに何の用事があったの?」
「そうでした。実は頂き物で上等の羊羹があるからおやつにいかがでしょうと思いまして、よければ咲もどうかしら?」
「え、本当!?やったあ、羊羹大好きだから嬉しいなあ。」
「こら、咲。嬉しいのは分かりますがはしたないからはしゃぐのはよしなさい。」
「まあまあ、二人とも。じゃあ僕はお茶の用意をしておくから、美緒もここに呼んでみんなでおやつとしようか。」
「はい、旦那様。じゃあ咲、あなたは美緒を呼んで来て頂戴。」
「はーい。」
羊羹を取りにおそらくは台所へ向かった母の後姿を見ながら、父に話しかける。
「ねえ、父さん。」
「うん?」
「母さんに、父さんから直接さっきの話をしてあげてね。」
「…父さんの身勝手な思いだから。」
「そんなことない。このままだって母さんは何も言わないだろうけど、父さんの本当の気持ちを伝えてあげた方がいいと、私は思うな。」
「………。」
「それに父さんだって言ってたじゃない、言語による理解が大事なんでしょ?」
「ははは、こりゃ一本取られたなあ。」
「ふふふ、母さん絶対に喜ぶわ。」
「そう、かなあ。」
「父さんは不思議なことを心配するのね。だってそうでしょ、夫に愛されて嫌がる魔物娘なんてこの世界のどこにだっていないもの。」
そう言うと、父はほんの少しだけ眩しそうに咲の顔を見つめたかと思うと、何かを決意したように数度深く頷いた。
……………
翌日の早朝。
安藤祐介と恭子の寝室から深夜よりも大きな睦み合う声が聞こえてきたのだった。
おわり
穏やかな休日の午後。
両親が寝室兼私室に使っている和室の前で声をかけると、寝起きのようなぼやけた返事が返ってきた。
「ん…。ああ、どうぞぉ。」
その声を聞いて衾を開けると、しゅうしゅうと心地のいい音をたてる鉄瓶がかけられた常滑焼の大きく立派な火鉢の前に、半纏を着た父親である安藤祐介が座布団を敷いて座り、目を瞬かせながらこちらへ視線を向けている。どうやらうたた寝をしていたようだ。
「もう、父さん。駄目じゃない。いくら暖かくなってきたからといって火鉢の前でうたた寝なんかしたら風邪をひいちゃうわ。」
「ああ、すまんすまん。ついうとうとしてなあ。」
「それにいくら洋室みたいに密閉された部屋じゃないとはいえ、火を点けっぱなしの火鉢の前で寝るのは危ないわよ。もしなにかあれば母さんがどれだけ悲しむか分からないわ。しっかりしてよぉ。」
咲がぷりぷりと小言をたれていると、目を擦りながら黙って聞いていた父は、何故か少しだけにやけながらこちらを見ていた。
「なんだか嬉しそうだけどどうしたの、父さん。」
「いやあ、おっとりしていると思っていた我が長女が、いつのまにか母さんに似てしっかりしてきたなあっと思ってね。父として実に寂しいけれど、いつお嫁さんに行っても不思議はないなって考えていたのさ。」
「もう、冗談を言ってないでしゃんとしてよ。」
「あはは、すまん。許してくれ。」
傍へ寄り肩をぽかぽかと叩くと、父は楽しげに笑いながら謝りつつ、火鉢の対面に座るよう促して咲が訪ねてきた理由を尋ねる。
「それで、父さんに何の用事があって咲は来たんだい?」
「読む本が無くなったから、いくつかお勧めしてもらおうかなと思ってきたんだけど、大丈夫?」
「おお、いいとも。というか、この間勧めたのはもう全部読んだのかい?」
「うん。面白くてすぐに読んじゃった。これ、借りていた本。返すね。ありがとう。」
「そうかそうか。感想は…後で聞くとして、まずは貸す本を選ぶとしようか。また面白い本をお勧めせにゃならんな。」
そう言って父は本を受け取りつつ、一つ嬉しそうに膝を叩いて、いそいそと部屋に置かれた本棚へと向かっていった。
出版関係で仕事をしているだけあって、父は読書家であり、蔵書家であった。
仕事関連の資料を保管する書庫もあるし、十畳ほどのこの部屋も、壁は全て天井まで届く本棚で埋められ、部屋の隅に置かれた父の仕事机は何十冊もの本が積み上げられている。しかも新旧問わず、学術書から官能小説までジャンルレスで所蔵しており、普段図書館を利用しているが、ちょっとした本ならば父に借りた方が早かったりする。
「あれは貸したから…今度は」
火鉢で手を暖めながら、本棚の前で嬉々として本を選ぶ父の後姿に目をやる。
中学に上がり、読書の楽しみに目覚めて以来、こうして度々父におすすめの本を見繕ってもらうことがあるのだが、それを父は大層喜んでくれていた。「勉強が疎かにならないよう、ほどほどにしておいてくださいね。」と母から釘を刺されているそうなのだが、どこ吹く風と父は咲が求めればそれに見合った本を紹介してくれる。今や読書は父ととるコミュニケーションの大事な一つといっても過言ではない。
「よしよし。今回はこれくらいでいいかな。」
そう言って戻ってきた父の手には五、六冊の本が抱えられていた。
「まずはこれ、主人公とヴァンパイアのヒロインが紆余曲折あって結ばれる小説なんだが…」
「この作者ってアブノーマルって言うか被虐性癖の作品が主だったものって友だちに聞いたことがあるけど、これもそうなの?」
「そう、普段はマゾヒストな主人公とそれに応える魔物娘の関係をじっくりと描くことで有名な先生なんだが、これは珍しくマゾッ気がほとんどない主人公で、実に爽やかで王道な展開で進んでいくものなんだ。障害を手に手をとって乗り越えていくところなんかは実に感動的でいい。まあこの先生のファンたちからは、先生独自の特色が薄いなんて言う人もいるけれど、父さんは好きなんだ、この小説。」
「ふうん。」
「だから是非読んでみておくれ。」
「分かった。読んでみるね。」
それからしばらく父のお勧めの本や前回借りた本の感想を言ったり聞いたりして、父と過ごす楽しい時間はゆっくりと過ぎていった。
………………
「そういえばちょっと聞いてみたことがあるんだけど…」
本談議に一段落が付き、お茶でも飲もうかと父が急須に手を伸ばすのをぼんやりと眺めつつ長年気になっていたことを父に質問してみることにした。
「うん?なんだい。」
「父さんたちの部屋ってさ、暖房ってこの火鉢だけなの?」
「そうだね、この火鉢だけだねえ。」
そう言って急須にお湯を入れ、鉄瓶を五徳の上に静かに置いた後、優しい手つきで火鉢の縁を撫でながら続ける。
「父さんが暑がりの汗っかきだから、こうして半纏なんかを羽織って取る火鉢の温かみが丁度良くてね。寒がりの母さんには申し訳ないと思うけど、これだけなんだ。」
それを聞いて少しだけ意外な気がした。
というのも、自分や母、妹は白蛇と言われるラミア属の魔物娘。魔王様の力によって半分淫魔の体とはいえ、蛇の下半身が表すように、冬の寒さは苦手な種族。出来うる限りの防寒対策をしておきたいのは父も理解しているはず。
現に我が家のリビングや子供部屋、母が水仕事をする台所や風呂場には過分なほどヒーターやストーブ、加湿器が置かれ、常に温かく快適な空気が保たれている。
それに母のことを心から愛している父が、暑がりなのは事実かもしれないけれど、寒さに弱い愛妻と長時間過ごすであろう部屋の暖房を充実させないというのは、なんとも解せない。
…少しだけ、ほんの少しだけ汗臭い父を母が嫌がったのかなとも思ったが、むしろ目を輝かせて絡みつく母の姿がありありと脳裏に浮かんですぐに考えるのを止めた。
「この火鉢は結婚してしばらくの時に母さんと二人で選んだものでね。群青の深い色合いが水底のように綺麗で気に入ったのと、『お二人で使うのに具合がいいですし、使い込むとより一層味わいが出てよろしいですよ』ってお店の人に勧められて買ったんだ。使ってみると口が広くて炭の出し入れも楽だし、合わせて買った鉄瓶で入れるお茶は普通のやかんで沸かせたお湯で作るものより美味しくて実にいい。」
そう言って父は嬉しそうに火箸で新しく炭を加え、灰をならした。
「けど、部屋全体を暖めるには時間もかかるし、少し心もとないんじゃない?」
「…うん、まあストーブやなんかに比べれば心もとないのは、事実だね。うん。」
咲から視線を外し、ごにょごにょと歯切れ悪く話す父の様子を眺めていると、どうにも何かあると思わずにいられない。
「ねえ、父さん。」
「な、なんだい。」
「本当にそれだけ?」
「…。」
「暑がりだからって母さんに寒い思いをさせているなんて、私、父さんがそんな人だと思いたくないなあ。」
じとっと半目でもじもじする父を睨みつけていると、こちらの気迫に負けたのかぼそぼそと父が口を開いた。
「まあ、その…なんだ。父さんのエゴというか…なんというか。」
「エゴ?」
「その、恭子には、母さんには内緒にしてもらえるかい?」
「内容によると思うけど…」
「頼む、これは父さんにとって冬のなによりなんだ。」
懇願するように上目遣いでこちらを見る父の様子に気をされ、咲も神妙に頷くと、父は二つの湯呑にお茶を入れ、一つを咲の前に置き、愛用している自分の湯呑を大切に扱いながら一口飲んで唇を濡らし独白を始めた。
冬の朝は底冷えする。
そして夜が明けるのが遅くって、いつも父さんたちが目を覚ますころにはまだ暗いんだ。
そんな中母さんは、蛇の下半身で父さんをぎゅっと抱きしめ身を寄せつつ、火鉢の炭に火を熾してくれる。
父さんのように魔法や魔術が一切使えないインキュバスだと、炭に火をつけるのはガスを使ってもある程度時間がかかるものだけど、母さんのように魔術を自由自在に使いこなす人であれば瞬時に火を熾すことができるんだな。
炭の火花が爆ぜる音ばかりが聞こえる部屋の中。
寒い冬の空気や、火に翳した手がゆっくりと暖まっていく気持ちよさに浸りながら母さんを見ると、母さんの細く美しい指や、血管がうっすら見えるほど透き通った白い腕に炭火の発する柔らかな赤い光が、まるで化粧のようにじんわりと映り込む。
ストーブや焚火なんかのような、ぼうぼうと燃え盛る強い火とは違ってね、炭火の発する光はとても柔らかで儚い。
その赤い光が母さんのシミ一つない美しい肌に差す。
そうするとまだ日の光の差さない暗い室内の中、炭火の光でぼうっと浮かび上がるんだ、光に彩られた母さんの美しい肌が。
それがなんとも言えない、艶やかさでねえ。
まるで沈みゆく日輪の美しさに心奪われるようにその光景を眺めていると、火鉢の暖かさでだんだんと母さんの体が温まってくるのか、袷の隙間から覗く胸元や鎖骨、ほっそりとした首筋がだんだん血色がよくなってきて、ほんのりと桜色に染まっていく。
その薄らとした赤みに対して、いまだ寒い外気に面しているうなじは真っ白で、その対比が息を飲むほどに艶っぽい。
肉欲をかき立てる美しさとはまた違う、芸術性の美しさというのかなあ…本当に息を飲むほど可憐で、綺麗なんだ。
そしてその姿を毎朝見る度に、思う。
ああ…この人と出会うばかりか、結ばれることができて本当によかったって。心の底から、ね。
それから母さんが朝ご飯の用意を始めるまで、二人身を寄せ合って話をする。
昨日こんなことがあった。近所の人や同僚とこんな話をした。娘たちがこんな話をしていた。あの魚屋さんの鯵が安かったとかね。
本当に、実に他愛のない話をするんだけど、それが父さんにとってなによりも愛しい時間だったりするんだ。
勿論、インキュバスと魔物娘の夫婦だからセックスするのは好きだけれどね、肉体だけじゃなく言語でお互いを理解するっていうのも大事なんじゃないかなって父さん思うんだ。
それに寒い空気の中、ゆっくりと体を温めてくれる火鉢を前に、二人寄り添って温かさを共有していると、セックスでつながるのとはまた違う精神的な一体感を感じて幸せになれるだよ。
これが、父さんのエゴの正体だよ。
母さんの美しい姿をみたい、母さんと話がしたい。それが母さんに迷惑をかけてしまっていると分かっていても、ね。
このことは…なんだか気恥ずかしいし、変な意識をさせず、自然な仕草の母さんを見たいもんだから、母さんにはどうか内緒にしておいてくれると、助かる。
今のところ火鉢しか暖房を置いていないのは、父さんが暑がりなのと、一緒にイチャイチャしたいってことで母さんには納得してもらっているから、どうか話を聞いた咲の胸だけに収めておいてほしい。
お願いできるかいと、そういって火鉢の前ではにかむ父を前にして、先ほど飲んでいたお茶の後味が、入っていないはずなのに何十杯も砂糖をぶち込んだように甘ったるく感じてしょうがなかった。
悪戯に安藤家を騒然とさせるような趣味ではないので、勿論父が望むよう母に伝えることはしないと思いつつ、想像もしなかった父の壮大なノロケにどう反応すべきかと悩んでいると
「旦那様、恭子ですが入ってよろしいですか?」
話題の主役の声が衾の外から聞こえてきて、父と二人びくりと体を固くした。父は一つ咳ばらいをして、母に声をかける、
「ああ、どうぞ。」
「失礼します。あら、咲も一緒だったの…って」
先ほどまで母の、しかも内緒にしたい話をしていただけに二人でどきまぎしていると、その様子を見た母は、すっと火鉢の傍に積み上げられた本の山を一瞥して
「もう、旦那様。咲に本を貸すのはいいですが、ほどほどにと言っているじゃないですか。」
と、咲と父が慌てている理由を都合よく勘違いしてくれたので、二人してそっと胸を撫で下ろす。
「ああ、うん。ほどほどにね、ほどほどに。」
「それより、母さんは父さんに何の用事があったの?」
「そうでした。実は頂き物で上等の羊羹があるからおやつにいかがでしょうと思いまして、よければ咲もどうかしら?」
「え、本当!?やったあ、羊羹大好きだから嬉しいなあ。」
「こら、咲。嬉しいのは分かりますがはしたないからはしゃぐのはよしなさい。」
「まあまあ、二人とも。じゃあ僕はお茶の用意をしておくから、美緒もここに呼んでみんなでおやつとしようか。」
「はい、旦那様。じゃあ咲、あなたは美緒を呼んで来て頂戴。」
「はーい。」
羊羹を取りにおそらくは台所へ向かった母の後姿を見ながら、父に話しかける。
「ねえ、父さん。」
「うん?」
「母さんに、父さんから直接さっきの話をしてあげてね。」
「…父さんの身勝手な思いだから。」
「そんなことない。このままだって母さんは何も言わないだろうけど、父さんの本当の気持ちを伝えてあげた方がいいと、私は思うな。」
「………。」
「それに父さんだって言ってたじゃない、言語による理解が大事なんでしょ?」
「ははは、こりゃ一本取られたなあ。」
「ふふふ、母さん絶対に喜ぶわ。」
「そう、かなあ。」
「父さんは不思議なことを心配するのね。だってそうでしょ、夫に愛されて嫌がる魔物娘なんてこの世界のどこにだっていないもの。」
そう言うと、父はほんの少しだけ眩しそうに咲の顔を見つめたかと思うと、何かを決意したように数度深く頷いた。
……………
翌日の早朝。
安藤祐介と恭子の寝室から深夜よりも大きな睦み合う声が聞こえてきたのだった。
おわり
19/03/02 09:00更新 / 松崎 ノス
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