前篇
シュリ、シュリ
静かな室内に刃物を研ぐ音が響く。
人が訪れることない山の中腹に建てられた小屋の中で、毛利佳也子は先日自分が作り出した刃物たちを丹念に仕上げている。佳也子が立っている流し台は上段、中段、下段と分けられていて、それぞれに仕上げ用である触れば手に吸い付くような目の細かい最高級の天然砥石、中研ぎ用の人造中砥、大きな刃こぼれを直したりするときに使う非常に目の粗い荒砥が井戸からくみ上げられた冷たい水に沈められていた。
佳也子は今、薄刃を中砥で研いでいる。
刃物を研ぐという行為は、実に難しい。赤く蕩ける素直な鉄と違って、冷たくわがままな刃物たちを仕上げるのは大変だ。しかも研ぐ刃物に合わせた研ぎ方、例えば鉋や日本刀、包丁と刃物それぞれに研ぎ方があるし、使用方法、使用者によって研ぎ方が変わってくる。木材を加工するなら刃先の角度を立てるし、布などを裁つ場合には角度を寝かせて研ぎ出し、包丁などであれば使用者の利き手によって両刃である左右の刃先の角度を調整する。人間の職業に研ぎ師というものがあるのがうなずけるほど繊細で、大切な作業だ。一般的にサイクロプスの作り出す刃物は人間のそれに比べて非常に優れているといわれるが、刃物であることは変わりない。しっかりと大事に仕上げをしてあげなければ、いい刃物にはなりえない。
「…………」
薄刃についた砥糞を水で落とし、窓から差し込む光に刃物を翳してゆっくりと刃面を確認する。金床や金槌などを使い、刃がまっすぐになるよう丁寧に調整したかいもあって、光を反射する刃先までしっかりと研ぎだされ、切れ味もよさそうだ。自分の作業にある程度満足しつつ、あとは天然砥で数度優しくなでるように仕上げをしてあげればいいなと頭の中で次の作業の算段をつけていたその時…
「佳也子ちゃ〜ん、いるかしら?」
玄関の戸を叩く音と、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
佳也子は乾いた布で薄刃についた水分を丁寧に拭き取り、さび防止のために少量の椿油をしみこませている綿で鋼の表面を拭く。そして服が汚れないようにかけていた前掛けを外し急いで玄関へと向かい、扉の鍵を開けた。
「………涼子さん。」
「こんにちは。お久しぶりね。元気にしていたかしら?」
玄関には、予想通りの人物が立っていた。
畦森涼子―――このあたりの広大な土地を所有する畦森家の当主であり、現在佳也子が住んでいるこの小屋を貸してくれている方だ。山深い場所だというのに普段と変わらず黒のロングドレスを纏い、その身から近寄りがたい人外の、魔物娘の中でも貴族と称されるヴァンパイアの気高さを発する彼女は、対照的に人懐っこい笑みを向けてくれる。
「…こんにちは。」
「あら、そんなに畏まらないで。私と佳也子ちゃんの仲じゃない。」
「…いえ。………涼子さんは、私の恩人ですから。」
佳也子が小さな声でそういうと、涼子は右手で手を振りつつ大げさねと言って笑った。
涼子は笑うが、目の前で優しく畦森涼子が恩人であることは変わりない。
その出会いは数年前に遡る。
涼子と初めて出会った時、佳也子は途方に暮れていた。母親と初めて喧嘩し、着の身着のままに家を飛び出したはいいが、交友関係の乏しい佳也子にとって世間はあまりにも広すぎる。それでもとにかく母から離れたいと思い、最寄りの駅から行先も見ずに電車に飛び乗った。しかし乗ったはいいものの、これから自分がどうしていけばいいのか全く分からない。冷静になっていく頭と、確実に離れていく故郷のギャップに、佳也子は立ち尽くすほかなかった。
「ねえ、あなた。どうしたの?」
そんな計画性の全くない行動の末たどり着いた、電車の終着駅で呆然としていると、突然声をかけられた。
「…………。」
人前に姿を現すことが少ないサイクロプスが一人でいることに奇異な目を向けられることが嫌でたまらず、広い駅の片隅で壁を向いて立ち尽くしていた佳也子は最初、自分に話しかけているとは思わなかった。だから振り返ることもなく隅で立ち尽くしていると突然肩を叩かれた。
「あなたのことよ、そんな隅の方に立ってどうしたの?」
「…………え?」
ようやく自分に話しかけられたのだと気が付き振り返ると、そこには今日と同じく黒のロングドレスを着た涼子が立っていた。勿論彼女と面識はないし、なぜ自分に話しかけてきたのかその意図がわからず端正な涼子の顔を凝視していると、涼子は驚いたように目を剥いた。
「あなた、ひどく疲れているみたいじゃない…。一人なの?いったいどうしてここにいるの?」
よほど、その時の自分は情けない顔をしていたのだと思う。
初対面であるのに加え表情が乏しいといわれるサイクロプスの顔を見て、こんなに心配してくれたというのはそうだったに間違いない。涼子はみるみるその顔にこちらを心配する表情を浮かべて質問をしてくる。
「…………え、いや。…………その」
しかし、私は見ず知らずのヴァンパイアに話しかけられたというだけでどうしていいかわからず、涼子の質問に一つも満足に答えるができず、下を向いてしまった。
「…何か事情があるのね?」
「………。」
涼子は佳也子の反応を見て、何かを察したように表情を引き締めて尋ねてきた。
その質問に無言でうなずくと、ヴァンパイアは明後日の方向へしばらく視線を泳がせた後、思いもしなかった提案をしてきた。
「話しかけた手前、あなたをこのままここに置いていくのは忍びないわ。もしあなたにこれから行くあてがあるというのならいいけれど、ないのなら私が宿泊する予定のホテルで、あなたの事情を聞かせてくれないかしら?私が力になれることなら協力するわ。あ、お金だとか迷惑だとかは心配しなくていいからね。」
涼子にしてみれば、ほんの気まぐれだったと思う。
しかし佳也子にとってみれば、まさに地獄に仏だった。何の考えもなく、感情に任せて実家を飛び出し、見知らぬ土地で立ち尽くすしかない現状で、たとえ全く知らない人であっても自分を心配してくれるというのは嬉しかった。今その当時を振り返り、涼子が悪人だったらと考えるとぞっとするが、あの時の自分はそんなことを考える余裕を持ってはいなかった。
「………。」
だから厚顔無恥であるとは自覚しつつも、彼女の好意に甘えることにした。
「それはよかった。さ、いきましょう。」
涼子は佳也子が押し黙って頷くのを見て、初めて明るく微笑んだ。
こうして佳也子は、涼子が滞在するホテルへと向かったのだった。
涼子は道中で実に気さくに話をしてくれた。
はじめは彼女の話に相槌を打つこともできなかったが、それまで聞いていたヴァンパイアとは違う彼女の親しみやすい人柄に惹かれたのか、ホテルに着くころにはかなりしっかりと受け答えできるようになっていた。そしてホテルのレストランで一緒に食事をとり、風呂に入って落ち着いたところでぽつりぽつりと自分の境遇を話し始めたのだった。
佳也子の母は、エキドナと呼ばれる魔物娘だ。
魔物の母と呼ばれる種族の母は、佳也子が知る誰よりも優しく、母性にあふれ慈愛に満ちた美しい人だった。どこまでも深く父を愛し、父とともに授かった娘たちを大切に育むその姿はまさに自分の理想をそのまま体現しているといっても過言ではない。姉たちと楽しげに遊ぶ姿に、妹たちを大切に抱きかかえ母乳を与える姿に何度見とれてしまったのか数えることができないほどだ。母が佳也子に微笑みを向けてくれるだけで、嬉しくて嬉しくてその日一日幸せだった。それほど、佳也子は母が好きだった。
だが佳也子は、成長していくにつれていつからかそんな母をまっすぐに見ることができなくなっていた。
「なんで、私はお母さんと違ってこんなにも醜いの?」
それは初めて鏡を見た時から、どうしてもぬぐいされない疑問だった。
魔物娘という存在は、みな等しく美しい。母や姉妹を見ていると、それを実感する。下半身や体格などが人ならざる者もいたが、そのどれもが美形だった。しかし、佳也子は違った。一つ目のサイクロプスは、万人受けするような姿をしていない。家族と一緒に歩いていると、佳也子は悪い意味で目立ってしまう。母に向けられる羨望のまなざしとは正反対の、好奇の視線は容赦なく佳也子を苛んでいった。自分の風貌を憎む気持ちや、母に対するコンプレックスは泥のように腹の中にたまっていき、いつしか自分は他人とほとんどコミュニケーションをとらない性格へと変貌していた。
そんな佳也子を母は心の底から心配してくれた。
母が気にかけてくれたことは嬉しい。
けれども美しい姿をした母に…煌めく金色の二つの眼に見つめられると途端に憎しみが沸き上がった。母の瞳に映る自分がまるで別の生き物のような錯覚を覚え腹が立った。なぜ、自分は母のように美しくないのだろう…自分はなぜこんなにも醜いのだろう、と。
「なんで私をこんな姿に生んだの!?」
いっそのこと、母にその気持ちをぶつけてみようかとも思った。
しかし同時に母は何も悪くないことを痛いほど分かっていたし、誰よりも自分たちを愛してくれている母にそんなことを言ってしまえば、どれだけ母が悲しむのかも簡単に想像ができた。それを思うと、どうしても佳也子は母に本音を話すことはできなかった。だから佳也子は自分の中にうごめく負の感情を必死に抑え込み生きていくことを決めた。
だというのに、自分はついにそんな母親と喧嘩をしてしまった。
決して傷つけまいと何年も我慢してきたのに、その日なぜか感情が高ぶっていた佳也子はつい口を滑らせてしまった。母への嫉妬にも似た汚い感情、自分の容姿に対する不満を…そしてもっとも自分の中で大きくなっていた醜い自分を誰も愛してくれないのではないかという不安を口にしてしまった。
すぐに謝ろうと思った。
だが佳也子の言葉を聞き、悲しみに染まる母の顔を見て佳也子は息をのんだ。
涙を浮かべた母は、実に美しかった。
魔物娘だというのに見た目に悩み苦しんでいる自分は、こんなにも不細工だというのに母はどんな時でも美しいのだと…わかっていたのに、目を背けていたのに、その事実を突き付けられた自分はもう耐えられなかった。
とにかく母から離れたい。
大好きな母だからこそ、母に憎悪感を抱きたくないからこそ佳也子は母から離れたかった。
そうして、佳也子は無鉄砲な家出をしてしまったのである。
生来の口数の少なさや口下手さが災いして、かなりの時間を要してしまったが、涼子は辛抱強く話を聞いてくれた。そして全てを聞いた後、涼子はじっとこちらを見据えまたしても予想外の言葉を口にした。
「ねえ、佳也子ちゃん。もしよかったら私の住んでいる土地にこない?」
「え?」
「ちょうど昔建てた山小屋があるから、そこを好きに使ってくれて構わないわ。」
「で、でも…」
「袖すり合うも他生の縁というやつよ、佳也子ちゃん。これだけあなたの事情を聴いてしまったからには、はいそうですかって放っておけないもの。」
そう言ってほほ笑む涼子の顔は、どこか母に似ていた。
「ただ、ね。」
「?」
「その代わりにというわけではないけど、こちらで鍛冶の道具を用意するから…月にいくつか、私のために刃物を拵えてくれないかしら?そうすれば、佳也子ちゃんはただ住んでいるわけじゃなく、私のために頑張っていてくれることになる。そうでしょ?」
「……。」
佳也子は、その申し出をすぐに受け入れた。
身勝手に家出をし、困っていたところを助けられ、あまつさえ佳也子の顔を立てつつ今後の世話までしようといわれて断るバカはいない。そしてそれ以上に、なんの義理もない自分にここまでしてくれる涼子に何か恩返しをしたい、そう強く思ったことが背中を押した。
そうしてあてがわれたのが、この山小屋だった。
畦森家が所有する、山の中腹に建てられたペンションのような建物。初めて来たときには炉や窯、研ぎ場などはなかったが、涼子がすぐに手配しひと月もすれば刃物を作り出せる環境へと姿を変えた。畦森家というのはこちらが想像するよりも資金が潤沢にあるらしく、佳也子が想像したより何倍も優れた設備と材料が寄せられた。
それからは、ただ良い刃物を作ることだけを考えて生活してきた。
母のことも、故郷のこともなにも考えず、涼子への恩返しをするために注文された品物をひたすら黙々と作り続ける。その時間は佳也子にとって何事にも代えがたい大切な時間となっている。
「それでね、佳也子ちゃん。」
そんな佳也子にとって大恩人の涼子は、そう頻繁に来るわけではない。
彼女に頼まれた、彼女の近しい人たちのために依頼された刃物が出来上がるころにこうしてふらりと訪れ、のんびりと世間話を交わしていくのが常だった。しかし、涼子と約束した日時にはまだ余裕があるし、彼女が刃物を受け取りに来たとは考えにくい。では彼女はいったいどんな用事があってきたのだというのだろうか。
「今日、ここに来たのは佳也子ちゃんにお知らせしたいことがあって。」
「……。」
黙って頷くと、涼子は一度後ろを振り返ったかと思うと来訪の意図をゆるゆると話し始める。
「実は、私の娘が結婚することになったの。そのお相手が実は私の住んでいる家のすぐ横に住んでいる一家の方でね。お互いに意識しているのに中々くっつかないから親としてやきもきしていたのだけれど、ようやく結ばれて胸を撫で下ろしているのよ。」
「………おめでとうございます。」
「ありがとう。それでね、そのお相手の一家はこのあたりで昔から林業や農業を生業にされているの。」
一向に話が見えず、佳也子は黙って頷く。
「そこで私は考えたわ。義理とはいえ、親戚…家族となったご一家が林業をなさっているのだから、ずっとほったらかしにしてしまっているこの山も一緒に管理してもらえないかってね。」
「…………え?」
「そう。だからこれからは私と佳也子ちゃんの中継を…刃物の注文や受け取りを徹君に任せようと思うの。」
そう言って涼子が横にそれると、佳也子の目の前に一人の男性の姿が現れる。
髪を短く刈り込み、健康的に日焼けした肌や服の上からもわかるしっかりとした筋肉がついた逞しい肢体が印象的だ。ここに移り住み、ずっと出会うことのない生活を続けていたのに異性が突然目の前に現れ、佳也子は息をのみ立ち尽くしてしまう。
「初めまして、緑川徹です。これからよろしくお願いします。」
動けない佳也子とは対照的に、徹はまっすぐにこちらを見つめた後、見惚れるような美しい所作で頭を下げる。
これが彼と佳也子の出会いだった。
静かな室内に刃物を研ぐ音が響く。
人が訪れることない山の中腹に建てられた小屋の中で、毛利佳也子は先日自分が作り出した刃物たちを丹念に仕上げている。佳也子が立っている流し台は上段、中段、下段と分けられていて、それぞれに仕上げ用である触れば手に吸い付くような目の細かい最高級の天然砥石、中研ぎ用の人造中砥、大きな刃こぼれを直したりするときに使う非常に目の粗い荒砥が井戸からくみ上げられた冷たい水に沈められていた。
佳也子は今、薄刃を中砥で研いでいる。
刃物を研ぐという行為は、実に難しい。赤く蕩ける素直な鉄と違って、冷たくわがままな刃物たちを仕上げるのは大変だ。しかも研ぐ刃物に合わせた研ぎ方、例えば鉋や日本刀、包丁と刃物それぞれに研ぎ方があるし、使用方法、使用者によって研ぎ方が変わってくる。木材を加工するなら刃先の角度を立てるし、布などを裁つ場合には角度を寝かせて研ぎ出し、包丁などであれば使用者の利き手によって両刃である左右の刃先の角度を調整する。人間の職業に研ぎ師というものがあるのがうなずけるほど繊細で、大切な作業だ。一般的にサイクロプスの作り出す刃物は人間のそれに比べて非常に優れているといわれるが、刃物であることは変わりない。しっかりと大事に仕上げをしてあげなければ、いい刃物にはなりえない。
「…………」
薄刃についた砥糞を水で落とし、窓から差し込む光に刃物を翳してゆっくりと刃面を確認する。金床や金槌などを使い、刃がまっすぐになるよう丁寧に調整したかいもあって、光を反射する刃先までしっかりと研ぎだされ、切れ味もよさそうだ。自分の作業にある程度満足しつつ、あとは天然砥で数度優しくなでるように仕上げをしてあげればいいなと頭の中で次の作業の算段をつけていたその時…
「佳也子ちゃ〜ん、いるかしら?」
玄関の戸を叩く音と、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
佳也子は乾いた布で薄刃についた水分を丁寧に拭き取り、さび防止のために少量の椿油をしみこませている綿で鋼の表面を拭く。そして服が汚れないようにかけていた前掛けを外し急いで玄関へと向かい、扉の鍵を開けた。
「………涼子さん。」
「こんにちは。お久しぶりね。元気にしていたかしら?」
玄関には、予想通りの人物が立っていた。
畦森涼子―――このあたりの広大な土地を所有する畦森家の当主であり、現在佳也子が住んでいるこの小屋を貸してくれている方だ。山深い場所だというのに普段と変わらず黒のロングドレスを纏い、その身から近寄りがたい人外の、魔物娘の中でも貴族と称されるヴァンパイアの気高さを発する彼女は、対照的に人懐っこい笑みを向けてくれる。
「…こんにちは。」
「あら、そんなに畏まらないで。私と佳也子ちゃんの仲じゃない。」
「…いえ。………涼子さんは、私の恩人ですから。」
佳也子が小さな声でそういうと、涼子は右手で手を振りつつ大げさねと言って笑った。
涼子は笑うが、目の前で優しく畦森涼子が恩人であることは変わりない。
その出会いは数年前に遡る。
涼子と初めて出会った時、佳也子は途方に暮れていた。母親と初めて喧嘩し、着の身着のままに家を飛び出したはいいが、交友関係の乏しい佳也子にとって世間はあまりにも広すぎる。それでもとにかく母から離れたいと思い、最寄りの駅から行先も見ずに電車に飛び乗った。しかし乗ったはいいものの、これから自分がどうしていけばいいのか全く分からない。冷静になっていく頭と、確実に離れていく故郷のギャップに、佳也子は立ち尽くすほかなかった。
「ねえ、あなた。どうしたの?」
そんな計画性の全くない行動の末たどり着いた、電車の終着駅で呆然としていると、突然声をかけられた。
「…………。」
人前に姿を現すことが少ないサイクロプスが一人でいることに奇異な目を向けられることが嫌でたまらず、広い駅の片隅で壁を向いて立ち尽くしていた佳也子は最初、自分に話しかけているとは思わなかった。だから振り返ることもなく隅で立ち尽くしていると突然肩を叩かれた。
「あなたのことよ、そんな隅の方に立ってどうしたの?」
「…………え?」
ようやく自分に話しかけられたのだと気が付き振り返ると、そこには今日と同じく黒のロングドレスを着た涼子が立っていた。勿論彼女と面識はないし、なぜ自分に話しかけてきたのかその意図がわからず端正な涼子の顔を凝視していると、涼子は驚いたように目を剥いた。
「あなた、ひどく疲れているみたいじゃない…。一人なの?いったいどうしてここにいるの?」
よほど、その時の自分は情けない顔をしていたのだと思う。
初対面であるのに加え表情が乏しいといわれるサイクロプスの顔を見て、こんなに心配してくれたというのはそうだったに間違いない。涼子はみるみるその顔にこちらを心配する表情を浮かべて質問をしてくる。
「…………え、いや。…………その」
しかし、私は見ず知らずのヴァンパイアに話しかけられたというだけでどうしていいかわからず、涼子の質問に一つも満足に答えるができず、下を向いてしまった。
「…何か事情があるのね?」
「………。」
涼子は佳也子の反応を見て、何かを察したように表情を引き締めて尋ねてきた。
その質問に無言でうなずくと、ヴァンパイアは明後日の方向へしばらく視線を泳がせた後、思いもしなかった提案をしてきた。
「話しかけた手前、あなたをこのままここに置いていくのは忍びないわ。もしあなたにこれから行くあてがあるというのならいいけれど、ないのなら私が宿泊する予定のホテルで、あなたの事情を聞かせてくれないかしら?私が力になれることなら協力するわ。あ、お金だとか迷惑だとかは心配しなくていいからね。」
涼子にしてみれば、ほんの気まぐれだったと思う。
しかし佳也子にとってみれば、まさに地獄に仏だった。何の考えもなく、感情に任せて実家を飛び出し、見知らぬ土地で立ち尽くすしかない現状で、たとえ全く知らない人であっても自分を心配してくれるというのは嬉しかった。今その当時を振り返り、涼子が悪人だったらと考えるとぞっとするが、あの時の自分はそんなことを考える余裕を持ってはいなかった。
「………。」
だから厚顔無恥であるとは自覚しつつも、彼女の好意に甘えることにした。
「それはよかった。さ、いきましょう。」
涼子は佳也子が押し黙って頷くのを見て、初めて明るく微笑んだ。
こうして佳也子は、涼子が滞在するホテルへと向かったのだった。
涼子は道中で実に気さくに話をしてくれた。
はじめは彼女の話に相槌を打つこともできなかったが、それまで聞いていたヴァンパイアとは違う彼女の親しみやすい人柄に惹かれたのか、ホテルに着くころにはかなりしっかりと受け答えできるようになっていた。そしてホテルのレストランで一緒に食事をとり、風呂に入って落ち着いたところでぽつりぽつりと自分の境遇を話し始めたのだった。
佳也子の母は、エキドナと呼ばれる魔物娘だ。
魔物の母と呼ばれる種族の母は、佳也子が知る誰よりも優しく、母性にあふれ慈愛に満ちた美しい人だった。どこまでも深く父を愛し、父とともに授かった娘たちを大切に育むその姿はまさに自分の理想をそのまま体現しているといっても過言ではない。姉たちと楽しげに遊ぶ姿に、妹たちを大切に抱きかかえ母乳を与える姿に何度見とれてしまったのか数えることができないほどだ。母が佳也子に微笑みを向けてくれるだけで、嬉しくて嬉しくてその日一日幸せだった。それほど、佳也子は母が好きだった。
だが佳也子は、成長していくにつれていつからかそんな母をまっすぐに見ることができなくなっていた。
「なんで、私はお母さんと違ってこんなにも醜いの?」
それは初めて鏡を見た時から、どうしてもぬぐいされない疑問だった。
魔物娘という存在は、みな等しく美しい。母や姉妹を見ていると、それを実感する。下半身や体格などが人ならざる者もいたが、そのどれもが美形だった。しかし、佳也子は違った。一つ目のサイクロプスは、万人受けするような姿をしていない。家族と一緒に歩いていると、佳也子は悪い意味で目立ってしまう。母に向けられる羨望のまなざしとは正反対の、好奇の視線は容赦なく佳也子を苛んでいった。自分の風貌を憎む気持ちや、母に対するコンプレックスは泥のように腹の中にたまっていき、いつしか自分は他人とほとんどコミュニケーションをとらない性格へと変貌していた。
そんな佳也子を母は心の底から心配してくれた。
母が気にかけてくれたことは嬉しい。
けれども美しい姿をした母に…煌めく金色の二つの眼に見つめられると途端に憎しみが沸き上がった。母の瞳に映る自分がまるで別の生き物のような錯覚を覚え腹が立った。なぜ、自分は母のように美しくないのだろう…自分はなぜこんなにも醜いのだろう、と。
「なんで私をこんな姿に生んだの!?」
いっそのこと、母にその気持ちをぶつけてみようかとも思った。
しかし同時に母は何も悪くないことを痛いほど分かっていたし、誰よりも自分たちを愛してくれている母にそんなことを言ってしまえば、どれだけ母が悲しむのかも簡単に想像ができた。それを思うと、どうしても佳也子は母に本音を話すことはできなかった。だから佳也子は自分の中にうごめく負の感情を必死に抑え込み生きていくことを決めた。
だというのに、自分はついにそんな母親と喧嘩をしてしまった。
決して傷つけまいと何年も我慢してきたのに、その日なぜか感情が高ぶっていた佳也子はつい口を滑らせてしまった。母への嫉妬にも似た汚い感情、自分の容姿に対する不満を…そしてもっとも自分の中で大きくなっていた醜い自分を誰も愛してくれないのではないかという不安を口にしてしまった。
すぐに謝ろうと思った。
だが佳也子の言葉を聞き、悲しみに染まる母の顔を見て佳也子は息をのんだ。
涙を浮かべた母は、実に美しかった。
魔物娘だというのに見た目に悩み苦しんでいる自分は、こんなにも不細工だというのに母はどんな時でも美しいのだと…わかっていたのに、目を背けていたのに、その事実を突き付けられた自分はもう耐えられなかった。
とにかく母から離れたい。
大好きな母だからこそ、母に憎悪感を抱きたくないからこそ佳也子は母から離れたかった。
そうして、佳也子は無鉄砲な家出をしてしまったのである。
生来の口数の少なさや口下手さが災いして、かなりの時間を要してしまったが、涼子は辛抱強く話を聞いてくれた。そして全てを聞いた後、涼子はじっとこちらを見据えまたしても予想外の言葉を口にした。
「ねえ、佳也子ちゃん。もしよかったら私の住んでいる土地にこない?」
「え?」
「ちょうど昔建てた山小屋があるから、そこを好きに使ってくれて構わないわ。」
「で、でも…」
「袖すり合うも他生の縁というやつよ、佳也子ちゃん。これだけあなたの事情を聴いてしまったからには、はいそうですかって放っておけないもの。」
そう言ってほほ笑む涼子の顔は、どこか母に似ていた。
「ただ、ね。」
「?」
「その代わりにというわけではないけど、こちらで鍛冶の道具を用意するから…月にいくつか、私のために刃物を拵えてくれないかしら?そうすれば、佳也子ちゃんはただ住んでいるわけじゃなく、私のために頑張っていてくれることになる。そうでしょ?」
「……。」
佳也子は、その申し出をすぐに受け入れた。
身勝手に家出をし、困っていたところを助けられ、あまつさえ佳也子の顔を立てつつ今後の世話までしようといわれて断るバカはいない。そしてそれ以上に、なんの義理もない自分にここまでしてくれる涼子に何か恩返しをしたい、そう強く思ったことが背中を押した。
そうしてあてがわれたのが、この山小屋だった。
畦森家が所有する、山の中腹に建てられたペンションのような建物。初めて来たときには炉や窯、研ぎ場などはなかったが、涼子がすぐに手配しひと月もすれば刃物を作り出せる環境へと姿を変えた。畦森家というのはこちらが想像するよりも資金が潤沢にあるらしく、佳也子が想像したより何倍も優れた設備と材料が寄せられた。
それからは、ただ良い刃物を作ることだけを考えて生活してきた。
母のことも、故郷のこともなにも考えず、涼子への恩返しをするために注文された品物をひたすら黙々と作り続ける。その時間は佳也子にとって何事にも代えがたい大切な時間となっている。
「それでね、佳也子ちゃん。」
そんな佳也子にとって大恩人の涼子は、そう頻繁に来るわけではない。
彼女に頼まれた、彼女の近しい人たちのために依頼された刃物が出来上がるころにこうしてふらりと訪れ、のんびりと世間話を交わしていくのが常だった。しかし、涼子と約束した日時にはまだ余裕があるし、彼女が刃物を受け取りに来たとは考えにくい。では彼女はいったいどんな用事があってきたのだというのだろうか。
「今日、ここに来たのは佳也子ちゃんにお知らせしたいことがあって。」
「……。」
黙って頷くと、涼子は一度後ろを振り返ったかと思うと来訪の意図をゆるゆると話し始める。
「実は、私の娘が結婚することになったの。そのお相手が実は私の住んでいる家のすぐ横に住んでいる一家の方でね。お互いに意識しているのに中々くっつかないから親としてやきもきしていたのだけれど、ようやく結ばれて胸を撫で下ろしているのよ。」
「………おめでとうございます。」
「ありがとう。それでね、そのお相手の一家はこのあたりで昔から林業や農業を生業にされているの。」
一向に話が見えず、佳也子は黙って頷く。
「そこで私は考えたわ。義理とはいえ、親戚…家族となったご一家が林業をなさっているのだから、ずっとほったらかしにしてしまっているこの山も一緒に管理してもらえないかってね。」
「…………え?」
「そう。だからこれからは私と佳也子ちゃんの中継を…刃物の注文や受け取りを徹君に任せようと思うの。」
そう言って涼子が横にそれると、佳也子の目の前に一人の男性の姿が現れる。
髪を短く刈り込み、健康的に日焼けした肌や服の上からもわかるしっかりとした筋肉がついた逞しい肢体が印象的だ。ここに移り住み、ずっと出会うことのない生活を続けていたのに異性が突然目の前に現れ、佳也子は息をのみ立ち尽くしてしまう。
「初めまして、緑川徹です。これからよろしくお願いします。」
動けない佳也子とは対照的に、徹はまっすぐにこちらを見つめた後、見惚れるような美しい所作で頭を下げる。
これが彼と佳也子の出会いだった。
14/08/01 22:08更新 / 松崎 ノス
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