前篇
「皆様、今日はワタクシたちのためにお集まりくださりありがとうございます。夫と共に感謝いたしますわ。どうか皆様も最後までパーティーを楽しんでいってくださいませ。」
主催者による挨拶が終ると、盛大だが品を思わせる拍手がわき上がる。そしてその拍手にこたえるように主催者のワイトが上品に手を振る。側にいる夫に腕を絡ませ微笑む彼女は非常に幸せそうだ。
「はあ…」
舞台上で行われている一連の流れを遠巻きに見ながら、畦森竜治は一つため息をつく。
竜治が参加しているパーティーはワイトの婚約を祝うために開かれたもの。そしてそのワイトの一族がジパングでも指折りの名家であるため、会場や振舞われる料理、サービスの質のどれもが一流で、参加している者達の顔触れも豪華だ。普段彼女たちワイトを中心とするアンデット族の魔物娘たちだけで開かれている社交パーティーと違い、今日のパーティーは異種の魔物娘たちや有名な政治家、資産家から実業家、画家や小説家に歌手とテレビや新聞でよく見る顔が多く確認できる。なるほど上流階級やブルジョワと呼ばれる者達はこうやって人脈を築いているのだなと、このようなパーティーに参加する度に竜治は納得するばかりだ。
「(やはり根っからの庶民なんだな。)」
しかし、竜治はそんな華々しいパーティーに何度参加してもどうしても馴れないのだ。
竜治は有名人でも一流の経営者でもましてや政治家でもない。片田舎で代々林業や農家を営む一家の次男として生を受けた生まれも育ちも完全に庶民だ。はっきりいって場違いである。ではなぜ竜治がこの場にいるのかと言うと…
「それでは続きまして畦森綾様よりお祝いのお言葉を頂戴いたします。よろしくお願いいたします!!」
これまた有名なフリーアナウンサーの司会による紹介で、舞台上の隅に座っていた一人の女性が立ちあがる。
美しい金髪に紅の目、主催者であるワイトにも勝るとも劣らない病的なまでに美しい白い肌。そして柔らかく微笑む口から垣間見える鋭利な牙。漆黒と炎を纏うかのような濃い黒と赤のドレス。そして堂々とした立ち振舞いから醸し出される気品は、彼女が魔物娘の中でも「貴族」と称されるヴァンパイアであることを人々に強く印象付ける。
「紹介いただきました、畦森綾です。本来であれば畦森家当主の我が母である涼子が参加すべきところですが、どうしても母の都合がつかず代理として私が参りました無礼をどうかお許しください。………」
見る者を釘づけにする様な美しい所作で挨拶をする彼女こそが、竜治がこの場にいる原因となった人物である妻の綾だ。
綾との関係は幼馴染というベタなものから始まった。
二人が同い年であること、家が隣同士(ただ、畦森家はかなり広大な敷地を有しているのではっきりとお隣さんと言う感覚があるわけではないが、一応お隣さんではある)であること、そして竜治の実家が作る野菜を畦森家が多く買い取ってくれていた関係で、幼いころから接する機会が多かったのだ。だからなのかは分からないが、畦森家という名前や、ヴァンパイアという種族に特別な偏見や意識をすることはなかった。綾と顔を合わせれば他の友人たちと同じように話したり、遊んだものだった。
そんな関係が大きく変化したのは竜治が15歳をむかえた年の春の事。彼女に突然、衝撃の告白をされたのだった。
「竜治くん、私の家に来てもらえる?」
「ん?何か用事でもあるの?」
「実は、私の召使いとして住み込みで仕えてほしいの。」
「はい?召使い?」
「竜治くんのお父様とお母様からは既に許可を貰っています。はい、これ御両親がかかれたお手紙です。」
「え?なになに…『熨斗をつけて綾さんに息子をさしあげます。煮るなり焼くなり綾さんの好きにしてくださいませ。あ、でもちゃんとご飯は食べさせてあげてくださいねby両親』って何だこれ!?」
「というわけで今日から竜治くんの身柄は私のモノになりました。ですので、今この瞬間から私の召使いとして、身の回りの世話をよろしくお願いしま…お願いするわね、竜治。」
「……。」
「そうそう、竜治の荷物や日常品は既に移しておいた。勿論、引き出しの奥のエッチな写真も、な♡」
「ちょっと!?」
「さあ、では呆けていないで早速私たちの家に行こうじゃないか。」
「ええ!?」
という実に簡潔なやりとりの後、竜治は畦森家の一角に新しく作られた一戸建ての日本家屋に綾と二人で住むことになったのだった。
正直に言うと、その当時の自分は綾との関係がこのようになるとは予想もしていなかった。
何も知らない幼いころとは違ってそれなりに畦森家の影響力や存在の大きさを理解し始めていたし、何より美しく可憐に成長した綾は高嶺の花として手の届かない存在だと意識していたから気軽に話しかけることもできなくなっていた。絵に書いた様な平凡な自分と常に人の中心にいる人気者とでは比べるのも失礼だ。そんな彼女と久しぶりに、そしてまともに話をしたかと思えば…いきなり召使いとなり同居をしろというのだ。驚くなと言う方が無理な話だ。
だが、例え召使いであるとしても昔のように綾の側にいられるのだと思うと、不思議と嫌だとは感じなかった。
そうして突然始まった奇妙な主従関係は竜治が完全なインキュバスとなった18歳の夏に終りをむかえる。
「ようやく、この時が来たのだな…。」
「何か用事ですか?」
「私たちと同じ「貴族」となった竜治は…いや、竜治さんは…もうクビよ。」
「え!?」
「その代わり、今度は私の夫として共に生きてください。これは命令でありお願いです。」
「ちょ…何を!?」
「さあ、一緒に忘れられないような初夜を迎えましょう♡」
「ええええ!?」
「しっかり愛してくださいね、旦那様♡」
そうして竜治は綾の夫となり、畦森家に婿入りしたのだった。
切っ掛けは奇妙なものだったが、今となってはお互いに欠かす事の出来ない存在として深く愛し合っている。
ちなみに完全なインキュバスとなるのに三年もかかったのはヴァンパイアの夫としてはかなり遅い方なのだそうだ。これは後から彼女の母である涼子さんから聞いた話なのだが、記録がある中で今までで一番早い者では半月、平均で一年もあれば完全なインキュバスとなるものらしい。「あの娘ったら、魔物娘にしてはかなり奥手で、人一倍気を使う優しい子だから。…苦労したのねえ〜。それでも無事に竜治くんと結ばれてくれて安心したわ。」そうやって微笑む涼子の顔は間違いなく子を想う母親の顔だった。
「…以上で挨拶を終わらせていただきます。御清聴を感謝いたします。」
そんな事をぼんやり思い出していると、妻の挨拶に対する大きな拍手が巻き起こり、竜治は現実に引き戻された。
挨拶を終えた綾はドレスの端を踏まないように気をつけながらゆっくりと舞台の上から下りていく。すると直ぐに彼女の周りに数人の参加者が寄っていく。ある者は親しげに、ある者は恐縮しながら、そしてある者は羨望の眼差しを向けながら。畦森家のお嬢様、品行方正で人当たりがよく誰からも好かれる人柄、嫌でも目を引く美貌。それぞれ話しかける理由は違うのだろうが、妻が慕われているのを見るのは夫としても嬉しい。若干の嫉妬も覚えてしまうが、そんなみっともない感情は手に持ったグラスに入っているワインと共に飲みこんだ。
「もし、畦森綾さんの旦那様でいらっしゃいますよね?」
「え?」
突然の事だった。
話しかけてくる一人一人に優しく微笑む綾をぼんやりと眺めていた竜治は、突然声をかけられ驚いて振り向く。するとそこには一人の女性が立っていた。薄紫色の上品なドレスに身を包み、顔半分を黒いベールで隠している。そこからのぞく白い肌と赤い紅がさされた唇が何とも艶めかしい。
「えっと、どなたでしょう…か?」
もしかして以前どこかであったのかもしれないと急いで記憶を探るが、どの記憶にも彼女は存在しない。だから竜治は彼女の意図が読めず、相手に不快感を与えないよう気をつけながら質問する。
「そんなことはどうでもいいのです。それよりも質問に答えてください。」
「えっと、間違いなく自分は綾の夫、竜治ですが何か?」
彼女の態度にいささか面を食らいながら答えると、彼女はクスリと笑みをこぼして一歩踏み出し近付いてきた。
「以後、お見知りおきを。」
近付いた彼女はそういって白い腕をこちらに差し出した。
握手を求められることはこのような場ではよくあること。だから竜治は何の迷いも無く彼女の求めに応じて握手をしてしまった。彼女の正体を確かめもせずに。
「こちらこそ、よろし、…く?」
異変は急に訪れた。
突然甘い痺れと共に体に力が入らなくなっていた。
そして体の奥底から熱く滾る性欲がこみあげてくる。
「これ、は…!?」
「私の名は可奈。種族は…お分かりかとも思いますが、ワイトです。」
「ワイト、だって!?」
彼女の告白を聞いて、やっと自分の身に起こっている異変の正体に気がついた。ワイトたちは指先で触れるだけで吸精を行える。愚かにも安易に彼女と接触してしまった竜治は慌てて手を離そうとするが、体を襲う虚脱感はそれを許さなかった。
「ふふ。今更気がついても遅いですよ、竜治さん♪」
「は、なしてくれ。自分にはあ、やがいるんだ。」
「ええ、そんなこと存じております。」
吸精を続けながら可奈は何を当り前の事をと言いたげに笑い、言葉を続ける。口角がつり上がる様がなんとも恐ろしかった。
「私は…興味があったのです。」
「興味?」
「ええ。実は過去に何度か別のパーティーで綾さんと竜治さんをお見かけしておりました。そしてその度に思っていたのです。」
そこまで言うと、彼女は不敵に笑い竜治の耳元に口を近づけゆっくりと囁いた。
「あの素敵な綾さんがお選びになられた旦那様の精はどんなに美味しいのだろう、と。」
「…え!?」
「予想通り美味しい精ですわ、竜治さん。しかも竜治さんの精を吸っているのになり濃く綾さんの魔力まで感じますわ。…愛し合っておられるのですね♡」
そう言うと、突然彼女は握っていた手を放しじっと竜治の瞳を見つめてきた。
「御馳走様でした、竜治さん。もしあなたが誰のものでもないただの人間だったならば私の魔力で染め上げてあげたいほど美味しい精でした。ですが、既にあなたは綾さんのもの。」
それでも、そう言って彼女は顔を放して言葉を続ける。
「私のモノになりたいのならば是非、お声をかけてくださいね。直ぐに参上いたします。」
「誰が、そんなことを。」
「それではまた、どこかでお会いしましょう…竜治さん。よいお返事をお待ちしておりますわ♡」
一つウインクをして可奈は立ち去って行った。その後ろ姿は、パーティーの人波に飲まれ、あっという間に見えなくなっていく。
竜治は少し前まで想像もしていなかった出来事に放心しつつ、可奈の細く美しい手で先ほどまで握られていた腕に視線を落とす。
手には先ほどまでのゾッとするような甘い感覚が残っている。
それが嫌で、竜治は慌てて手をぬぐった。
摩擦で手が悲鳴を上げるが、やめようとは思わなかった。
「……。」
そしてその様子を、綾がじっと見つめていたのを竜治が知る由も無かったのだった。
グラスに琥珀色の美しいワインを注いでいく。
豊潤な香りが鼻孔をくすぐり、飲む前からその上等さを物語る。
グラスを回し香りを堪能しつつ、ゆっくりと傾け飲みほしていく。
豊潤な香りに隠れたアルコールがツンと鼻をかすめる。
美味しい。
実に、美味しい。
濃厚だが後味が爽やかで
口に広がる絶妙な甘み、酸味、渋みのバランスが堪らない。
酒は苦手だが、これならばいくらでも飲んでしまいそうだ。
だが、気分は晴れない。
何度杯を傾けても一向に晴れない。
最高級の美酒を口にしているのに全く駄目だ。
むしろ意識したくない負の感情が心の中で大きく膨れ上がっている。
その原因は少し前に起こった出来事。
舞台上で挨拶を終え、人々と挨拶を交わしている最中に起きた事だ。
最愛の夫がワイトと会話していた。
そんなことはどうでもいい。
あの様な場で世間話をするなんて当たり前の事。
私だって沢山の人と会話している。
その中にはいやでも異性がいる。
でも、夫はワイトと握手していた。
ワイトは触れるだけで精を貪れる。
夫と握手しているワイトは、素手だった。
それを見た瞬間、今まで感じた事の無い様な感情が沸き上がった。
「あの人が奪われるかもしれない。」
「それは絶対に嫌だ。」
「なら浅ましく一人占めしてしまえばいい。」
「体面なんか気にするな。」
「邪魔者は排除しろ」
「でも酷い事は絶対にしたくない。」
「いい子ぶるんじゃない。」
「本能に忠実になれ。」
様々な感情が通り過ぎていった。
だが結局
「あの人を信じよう。」
自分の下した結論は相手を信じるというものだった。
事実、あの人はワイトの誘惑に飲まれなかった。
ワイトが去り、必死に触られた手をぬぐっている光景は私を安心させた。
それで終わるはずだった。
だが、私はミスを犯してしまった。
「この度、グランプリを獲得しました我が蔵自慢の酒です。どうぞ。」
満面の笑みを浮かべた酒蔵の若旦那に勧められるがまま
―――度の強い日本酒を飲んでしまった。
すると先程なんとか押し込めていた利己的な考えが鎌首をもたげた。
「あれは立派な背徳行為だ。」
「浮気を許すな。」
「あなたは…お前は私だけのモノだ。」
「お前が私のモノである事を思い知らせてやれ。」
「そうだ、そうすることが正しいのだ。」
「私をこんな不安な気持ちにさせたお前が悪いのだ。」
「悪さをすればお仕置きされるのは当然だ。」
元々酒に強くない私の精神は瞬く間に利己的な思考に染まった。
普段では考えもしない様な恐ろしく自己中心的な考えに。
それからは早かった。
さらに日本酒を飲んで罪悪感を薄めそっと夫の背後に立つ。
魔物娘の中でも怪力を誇る我々にとって荒事は簡単な事。
インキュバスの一人や二人、造作も無い。
あっという間に夫の意識を刈り取り、介抱を装い会場を抜ける。
行き先は併設されたホテルの一室。
私たち夫婦にあてがわれた部屋。
部屋に向かう途中、フロントでワインなどの酒を注文する。
それは罪悪感を薄める自己防衛なのかもしれなかった。
注文を確認してきたボーイににこやかな笑みを返し
それから部屋にいき、夫をベッドに横たえ四肢を縛って自由を奪った。
そして、今。
私は届けられた大量のワインを自分でも信じられない速さで消費しつつ
ベッドで眠る夫が目覚めるのを待っている。
「目覚めないで…」
そんな良心的な自分もいるが、それは多数派では無い。
今自分を動かしているのはどす黒い汚い感情。
そしてその感情を後押しするように
ベッドから夫の声が聞こえてきた。
ついに夫が目を覚ましたようだ。
うめき声をあげつつ、もぞもぞと動いている。
それが喜ばしい事なのか
そうではないのか。
既にその時の私には分別がつかなかった。
だから私は
目の前のグラスに入ったワインを一気に飲み干す。
味は、分からなかった。
主催者による挨拶が終ると、盛大だが品を思わせる拍手がわき上がる。そしてその拍手にこたえるように主催者のワイトが上品に手を振る。側にいる夫に腕を絡ませ微笑む彼女は非常に幸せそうだ。
「はあ…」
舞台上で行われている一連の流れを遠巻きに見ながら、畦森竜治は一つため息をつく。
竜治が参加しているパーティーはワイトの婚約を祝うために開かれたもの。そしてそのワイトの一族がジパングでも指折りの名家であるため、会場や振舞われる料理、サービスの質のどれもが一流で、参加している者達の顔触れも豪華だ。普段彼女たちワイトを中心とするアンデット族の魔物娘たちだけで開かれている社交パーティーと違い、今日のパーティーは異種の魔物娘たちや有名な政治家、資産家から実業家、画家や小説家に歌手とテレビや新聞でよく見る顔が多く確認できる。なるほど上流階級やブルジョワと呼ばれる者達はこうやって人脈を築いているのだなと、このようなパーティーに参加する度に竜治は納得するばかりだ。
「(やはり根っからの庶民なんだな。)」
しかし、竜治はそんな華々しいパーティーに何度参加してもどうしても馴れないのだ。
竜治は有名人でも一流の経営者でもましてや政治家でもない。片田舎で代々林業や農家を営む一家の次男として生を受けた生まれも育ちも完全に庶民だ。はっきりいって場違いである。ではなぜ竜治がこの場にいるのかと言うと…
「それでは続きまして畦森綾様よりお祝いのお言葉を頂戴いたします。よろしくお願いいたします!!」
これまた有名なフリーアナウンサーの司会による紹介で、舞台上の隅に座っていた一人の女性が立ちあがる。
美しい金髪に紅の目、主催者であるワイトにも勝るとも劣らない病的なまでに美しい白い肌。そして柔らかく微笑む口から垣間見える鋭利な牙。漆黒と炎を纏うかのような濃い黒と赤のドレス。そして堂々とした立ち振舞いから醸し出される気品は、彼女が魔物娘の中でも「貴族」と称されるヴァンパイアであることを人々に強く印象付ける。
「紹介いただきました、畦森綾です。本来であれば畦森家当主の我が母である涼子が参加すべきところですが、どうしても母の都合がつかず代理として私が参りました無礼をどうかお許しください。………」
見る者を釘づけにする様な美しい所作で挨拶をする彼女こそが、竜治がこの場にいる原因となった人物である妻の綾だ。
綾との関係は幼馴染というベタなものから始まった。
二人が同い年であること、家が隣同士(ただ、畦森家はかなり広大な敷地を有しているのではっきりとお隣さんと言う感覚があるわけではないが、一応お隣さんではある)であること、そして竜治の実家が作る野菜を畦森家が多く買い取ってくれていた関係で、幼いころから接する機会が多かったのだ。だからなのかは分からないが、畦森家という名前や、ヴァンパイアという種族に特別な偏見や意識をすることはなかった。綾と顔を合わせれば他の友人たちと同じように話したり、遊んだものだった。
そんな関係が大きく変化したのは竜治が15歳をむかえた年の春の事。彼女に突然、衝撃の告白をされたのだった。
「竜治くん、私の家に来てもらえる?」
「ん?何か用事でもあるの?」
「実は、私の召使いとして住み込みで仕えてほしいの。」
「はい?召使い?」
「竜治くんのお父様とお母様からは既に許可を貰っています。はい、これ御両親がかかれたお手紙です。」
「え?なになに…『熨斗をつけて綾さんに息子をさしあげます。煮るなり焼くなり綾さんの好きにしてくださいませ。あ、でもちゃんとご飯は食べさせてあげてくださいねby両親』って何だこれ!?」
「というわけで今日から竜治くんの身柄は私のモノになりました。ですので、今この瞬間から私の召使いとして、身の回りの世話をよろしくお願いしま…お願いするわね、竜治。」
「……。」
「そうそう、竜治の荷物や日常品は既に移しておいた。勿論、引き出しの奥のエッチな写真も、な♡」
「ちょっと!?」
「さあ、では呆けていないで早速私たちの家に行こうじゃないか。」
「ええ!?」
という実に簡潔なやりとりの後、竜治は畦森家の一角に新しく作られた一戸建ての日本家屋に綾と二人で住むことになったのだった。
正直に言うと、その当時の自分は綾との関係がこのようになるとは予想もしていなかった。
何も知らない幼いころとは違ってそれなりに畦森家の影響力や存在の大きさを理解し始めていたし、何より美しく可憐に成長した綾は高嶺の花として手の届かない存在だと意識していたから気軽に話しかけることもできなくなっていた。絵に書いた様な平凡な自分と常に人の中心にいる人気者とでは比べるのも失礼だ。そんな彼女と久しぶりに、そしてまともに話をしたかと思えば…いきなり召使いとなり同居をしろというのだ。驚くなと言う方が無理な話だ。
だが、例え召使いであるとしても昔のように綾の側にいられるのだと思うと、不思議と嫌だとは感じなかった。
そうして突然始まった奇妙な主従関係は竜治が完全なインキュバスとなった18歳の夏に終りをむかえる。
「ようやく、この時が来たのだな…。」
「何か用事ですか?」
「私たちと同じ「貴族」となった竜治は…いや、竜治さんは…もうクビよ。」
「え!?」
「その代わり、今度は私の夫として共に生きてください。これは命令でありお願いです。」
「ちょ…何を!?」
「さあ、一緒に忘れられないような初夜を迎えましょう♡」
「ええええ!?」
「しっかり愛してくださいね、旦那様♡」
そうして竜治は綾の夫となり、畦森家に婿入りしたのだった。
切っ掛けは奇妙なものだったが、今となってはお互いに欠かす事の出来ない存在として深く愛し合っている。
ちなみに完全なインキュバスとなるのに三年もかかったのはヴァンパイアの夫としてはかなり遅い方なのだそうだ。これは後から彼女の母である涼子さんから聞いた話なのだが、記録がある中で今までで一番早い者では半月、平均で一年もあれば完全なインキュバスとなるものらしい。「あの娘ったら、魔物娘にしてはかなり奥手で、人一倍気を使う優しい子だから。…苦労したのねえ〜。それでも無事に竜治くんと結ばれてくれて安心したわ。」そうやって微笑む涼子の顔は間違いなく子を想う母親の顔だった。
「…以上で挨拶を終わらせていただきます。御清聴を感謝いたします。」
そんな事をぼんやり思い出していると、妻の挨拶に対する大きな拍手が巻き起こり、竜治は現実に引き戻された。
挨拶を終えた綾はドレスの端を踏まないように気をつけながらゆっくりと舞台の上から下りていく。すると直ぐに彼女の周りに数人の参加者が寄っていく。ある者は親しげに、ある者は恐縮しながら、そしてある者は羨望の眼差しを向けながら。畦森家のお嬢様、品行方正で人当たりがよく誰からも好かれる人柄、嫌でも目を引く美貌。それぞれ話しかける理由は違うのだろうが、妻が慕われているのを見るのは夫としても嬉しい。若干の嫉妬も覚えてしまうが、そんなみっともない感情は手に持ったグラスに入っているワインと共に飲みこんだ。
「もし、畦森綾さんの旦那様でいらっしゃいますよね?」
「え?」
突然の事だった。
話しかけてくる一人一人に優しく微笑む綾をぼんやりと眺めていた竜治は、突然声をかけられ驚いて振り向く。するとそこには一人の女性が立っていた。薄紫色の上品なドレスに身を包み、顔半分を黒いベールで隠している。そこからのぞく白い肌と赤い紅がさされた唇が何とも艶めかしい。
「えっと、どなたでしょう…か?」
もしかして以前どこかであったのかもしれないと急いで記憶を探るが、どの記憶にも彼女は存在しない。だから竜治は彼女の意図が読めず、相手に不快感を与えないよう気をつけながら質問する。
「そんなことはどうでもいいのです。それよりも質問に答えてください。」
「えっと、間違いなく自分は綾の夫、竜治ですが何か?」
彼女の態度にいささか面を食らいながら答えると、彼女はクスリと笑みをこぼして一歩踏み出し近付いてきた。
「以後、お見知りおきを。」
近付いた彼女はそういって白い腕をこちらに差し出した。
握手を求められることはこのような場ではよくあること。だから竜治は何の迷いも無く彼女の求めに応じて握手をしてしまった。彼女の正体を確かめもせずに。
「こちらこそ、よろし、…く?」
異変は急に訪れた。
突然甘い痺れと共に体に力が入らなくなっていた。
そして体の奥底から熱く滾る性欲がこみあげてくる。
「これ、は…!?」
「私の名は可奈。種族は…お分かりかとも思いますが、ワイトです。」
「ワイト、だって!?」
彼女の告白を聞いて、やっと自分の身に起こっている異変の正体に気がついた。ワイトたちは指先で触れるだけで吸精を行える。愚かにも安易に彼女と接触してしまった竜治は慌てて手を離そうとするが、体を襲う虚脱感はそれを許さなかった。
「ふふ。今更気がついても遅いですよ、竜治さん♪」
「は、なしてくれ。自分にはあ、やがいるんだ。」
「ええ、そんなこと存じております。」
吸精を続けながら可奈は何を当り前の事をと言いたげに笑い、言葉を続ける。口角がつり上がる様がなんとも恐ろしかった。
「私は…興味があったのです。」
「興味?」
「ええ。実は過去に何度か別のパーティーで綾さんと竜治さんをお見かけしておりました。そしてその度に思っていたのです。」
そこまで言うと、彼女は不敵に笑い竜治の耳元に口を近づけゆっくりと囁いた。
「あの素敵な綾さんがお選びになられた旦那様の精はどんなに美味しいのだろう、と。」
「…え!?」
「予想通り美味しい精ですわ、竜治さん。しかも竜治さんの精を吸っているのになり濃く綾さんの魔力まで感じますわ。…愛し合っておられるのですね♡」
そう言うと、突然彼女は握っていた手を放しじっと竜治の瞳を見つめてきた。
「御馳走様でした、竜治さん。もしあなたが誰のものでもないただの人間だったならば私の魔力で染め上げてあげたいほど美味しい精でした。ですが、既にあなたは綾さんのもの。」
それでも、そう言って彼女は顔を放して言葉を続ける。
「私のモノになりたいのならば是非、お声をかけてくださいね。直ぐに参上いたします。」
「誰が、そんなことを。」
「それではまた、どこかでお会いしましょう…竜治さん。よいお返事をお待ちしておりますわ♡」
一つウインクをして可奈は立ち去って行った。その後ろ姿は、パーティーの人波に飲まれ、あっという間に見えなくなっていく。
竜治は少し前まで想像もしていなかった出来事に放心しつつ、可奈の細く美しい手で先ほどまで握られていた腕に視線を落とす。
手には先ほどまでのゾッとするような甘い感覚が残っている。
それが嫌で、竜治は慌てて手をぬぐった。
摩擦で手が悲鳴を上げるが、やめようとは思わなかった。
「……。」
そしてその様子を、綾がじっと見つめていたのを竜治が知る由も無かったのだった。
グラスに琥珀色の美しいワインを注いでいく。
豊潤な香りが鼻孔をくすぐり、飲む前からその上等さを物語る。
グラスを回し香りを堪能しつつ、ゆっくりと傾け飲みほしていく。
豊潤な香りに隠れたアルコールがツンと鼻をかすめる。
美味しい。
実に、美味しい。
濃厚だが後味が爽やかで
口に広がる絶妙な甘み、酸味、渋みのバランスが堪らない。
酒は苦手だが、これならばいくらでも飲んでしまいそうだ。
だが、気分は晴れない。
何度杯を傾けても一向に晴れない。
最高級の美酒を口にしているのに全く駄目だ。
むしろ意識したくない負の感情が心の中で大きく膨れ上がっている。
その原因は少し前に起こった出来事。
舞台上で挨拶を終え、人々と挨拶を交わしている最中に起きた事だ。
最愛の夫がワイトと会話していた。
そんなことはどうでもいい。
あの様な場で世間話をするなんて当たり前の事。
私だって沢山の人と会話している。
その中にはいやでも異性がいる。
でも、夫はワイトと握手していた。
ワイトは触れるだけで精を貪れる。
夫と握手しているワイトは、素手だった。
それを見た瞬間、今まで感じた事の無い様な感情が沸き上がった。
「あの人が奪われるかもしれない。」
「それは絶対に嫌だ。」
「なら浅ましく一人占めしてしまえばいい。」
「体面なんか気にするな。」
「邪魔者は排除しろ」
「でも酷い事は絶対にしたくない。」
「いい子ぶるんじゃない。」
「本能に忠実になれ。」
様々な感情が通り過ぎていった。
だが結局
「あの人を信じよう。」
自分の下した結論は相手を信じるというものだった。
事実、あの人はワイトの誘惑に飲まれなかった。
ワイトが去り、必死に触られた手をぬぐっている光景は私を安心させた。
それで終わるはずだった。
だが、私はミスを犯してしまった。
「この度、グランプリを獲得しました我が蔵自慢の酒です。どうぞ。」
満面の笑みを浮かべた酒蔵の若旦那に勧められるがまま
―――度の強い日本酒を飲んでしまった。
すると先程なんとか押し込めていた利己的な考えが鎌首をもたげた。
「あれは立派な背徳行為だ。」
「浮気を許すな。」
「あなたは…お前は私だけのモノだ。」
「お前が私のモノである事を思い知らせてやれ。」
「そうだ、そうすることが正しいのだ。」
「私をこんな不安な気持ちにさせたお前が悪いのだ。」
「悪さをすればお仕置きされるのは当然だ。」
元々酒に強くない私の精神は瞬く間に利己的な思考に染まった。
普段では考えもしない様な恐ろしく自己中心的な考えに。
それからは早かった。
さらに日本酒を飲んで罪悪感を薄めそっと夫の背後に立つ。
魔物娘の中でも怪力を誇る我々にとって荒事は簡単な事。
インキュバスの一人や二人、造作も無い。
あっという間に夫の意識を刈り取り、介抱を装い会場を抜ける。
行き先は併設されたホテルの一室。
私たち夫婦にあてがわれた部屋。
部屋に向かう途中、フロントでワインなどの酒を注文する。
それは罪悪感を薄める自己防衛なのかもしれなかった。
注文を確認してきたボーイににこやかな笑みを返し
それから部屋にいき、夫をベッドに横たえ四肢を縛って自由を奪った。
そして、今。
私は届けられた大量のワインを自分でも信じられない速さで消費しつつ
ベッドで眠る夫が目覚めるのを待っている。
「目覚めないで…」
そんな良心的な自分もいるが、それは多数派では無い。
今自分を動かしているのはどす黒い汚い感情。
そしてその感情を後押しするように
ベッドから夫の声が聞こえてきた。
ついに夫が目を覚ましたようだ。
うめき声をあげつつ、もぞもぞと動いている。
それが喜ばしい事なのか
そうではないのか。
既にその時の私には分別がつかなかった。
だから私は
目の前のグラスに入ったワインを一気に飲み干す。
味は、分からなかった。
13/10/04 00:05更新 / 松崎 ノス
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