前篇
「どうか今日も無事に戻ってこられますように。よろしくお願いいたします。」
一人の男が山の入口に佇む石像に向かって手を合わせている。
石像は地元の人間たちによって綺麗に清められ、足元には少量の白米や地元でとれた野菜、そしてお神酒が供えられている。その石像は男がこの地に生まれる何世紀も前に、異界として恐れられる山から入山した人間が無事に戻ってこられるようにと作られた守り神だ。
「よし、それじゃあ行きますか。」
入山時に必ずする儀礼を終え、男は一つ大きく深呼吸をして中身がパンパンに詰められたリュックサックを背負い歩き出した。
男の名は木村篤という。
この一帯の土地を何代にもわたって守り育んできた木村家の次男坊だ。
高校、大学と農業科を専攻し、この辺りでは少なくなった農家の担い手となるべく知識を身に付けた。元々長時間パソコンの前でデータを処理したり、汗を流して営業に奔走する自分の姿が想像できなかったというのも本音ではある。
元来篤はそういった生活に興味は薄く、例え厳しい生活となろうが自然と向き合い、生きているという実感を得る事が出来る農業が好きだった。どうやらそれは五歳年上の兄であり木村家の次期当主となるであろう恵一も同じ性分であるらしく、兄も大学を出てすぐに実家に戻り、身に付けた最新の農業方法を活用してこの土地をさらに豊かにするべく奔走している。
ちなみに兄は大学時代に知り合ったデザイナー志望のユニコーンである由美江と恋に落ち、この地に帰ると同時に結婚した。義姉は現在兄の農業を手伝う傍ら、長年の夢であったデザイナーとしても活躍している。気立てのよさや誰からも好かれる人柄で両親や篤との関係は良好そのものだ。
そんな二人は広大な土地を維持するため、役割分担をしていた。
まず農家にとって一番の生命線であり、自分たちの食料確保として何よりも大切な水田の管理は二人で行う。そして大学でアレロパシーや無農薬農業を研究していた恵一は畑を、竹などを使用した新世代のバイオマス研究をしてきた篤は山(竹山と蜜柑を栽培している山の両方)をそれぞれ担当する、と。
元々兄弟の仲もよく、身に付けた知識を存分に活用できる分担によって木村家と木村家が管理する土地はより一層の繁栄をみせていた。
「うん。台風による大きな被害も無いみたいだしよかった、よかった。」
そんな篤が今日山に入ったのには幾つかの目的があるからだ。
一つは先日この一帯を襲った台風による被害の確認であった。竹林というのは以外にもデリケートであったりする。台風の風によって倒れてしまった竹が他の竹を傷つけてしまったりすると、来年の春に出てくる筍が少なくなってしまったりするのだ。だが、幸いにもしばらく山を見て歩いたが、竹が倒れている様子は無い。どの竹も台風の風雨に負けず、しっかりと根を生やし生きている。
主だった被害が無いこともあり、篤は足取り軽くずんずんと登っていく。すると、ある意味で一番確かめたいことであり楽しみでもある目的地が見えてきた。
それは山の中腹辺り、竹や木が人為的に切り拓かれた土地に忽然と現れる民家。家というには小さいような気がするし、掘立小屋と言うには立派なそれは篤の祖父が山で作業中に休息するために建てたもので、きちんとした休息が出来るよう水道や電気もちゃんと母屋からひいている。これは篤の邪推であるのだが、祖父は半ば別荘の様な気分で建てたのではないかと思っている。
そして現在、この家には一人の魔物娘が住んでいる。その彼女に会いに行くのが、ある意味山に入った理由の本丸であったりする。
「こんにちは、月子さん。」
「やあ、篤殿か。いらっしゃい。」
ちょうど彼女は家の前に切り拓いた畑での作業中であったらしいく、首から下げた手拭で顔の汗をぬぐいながら作業を中断し歓迎してくれた。ただ、勢いよく鍬を地面に突き刺す様は彼女が武人であるだけに少し怖い。
彼女の名前は竹内月子。誇り高き獣人の一族である「人虎」だ。
手足には金色に近い黄色の美しい毛並みに黒い縞模様が入った独特の体毛が生え、美しい肌を保護している。そして鍛え抜かれた見事な肢体や思わず生唾を飲んでしまうような特大の乳房が実に際どいビキニ型アーマーによって守られている。その血色や艶のいい肌に目がいかない男はいないのではと思ってしまう。
「昨日の台風は大丈夫でしたか?」
「篤殿が知らせてくれた御蔭で難なく過ごす事が出来た。ありがとう。」
「お役に立てて何よりです!!」
「いつもすまない。さあ、立話もなんだしよければ上がってくれ。」
武人ならではの鋭い目つきや肉食獣の証である様な鋭い両の手の爪の所為で勘違いされやすいが、月子は常に理知的で誰にでも非常に優しい。本当の武人は相手に強さを悟らせないという言葉を篤は月子と出会って実感した。
「そうさせていただきます。」
月子が台風の被害を受けていないことに安心しつつ、篤は彼女のあとに続いて家へと入って行った。
通された部屋には様々な書画が飾られ、すっかり月子の家としての色を持っていた。それらのほとんどは彼女自身が描いたものである。「ただの嗜みだ。」といつも彼女は謙遜するが、素人目に見てもそれが相当のレベルであることは分かった。その証拠に彼女の作品は美術界でも人気らしく、かなりの額で取引されているのだと兄から聞いた事がある。どうやら伝説の二刀による戦法を駆使した剣豪や封建時代に最高と謳われてきた絵師たちに武士が多かったように、武芸を極めんとする者達の描く書画というのはただの絵師では描き出せない空気感や世界観があるのかもしれないと篤は思ったりしていた。
そんな彼女がこの山に住むことになったのは今年の初頭の事だった。
元々月子は義姉である由美江の親友で、学生時代悪漢に襲われそうになった由美江を救ったのが縁で、それ以来まるで本当の家族の様な付き合いを続けているそうだ。篤も何度かその時の様子を義姉から聞いた事があった。そんな月子が武人として精進するため山籠りをしたいと考えているのを知った由美江は夫である恵一に相談した。兄は勿論月子と面識があったし、最愛の妻を助けてくれた恩人に恩を返すのは今だと快くこの山と小屋を提供することを決めたのだった。
「どうしたんですか。何か可笑しい事でもあったんですか?」
そんな事をぼんやり考えていると、月子がこちらを見て何故か楽しそうに笑っている事に気が付き、理由を尋ねる。
「いや、なに。このごろは由美江よりも篤殿の方がここを訪ねてくれるものだと思うとなんだか可笑しくて、な。」
柔和な笑顔を浮かべた月子はよく冷えた麦茶を出してくれた。麦茶を一口飲み、丁寧に炒られた上等な麦ならではの豊潤な香りを堪能しつつ、篤は口を開く。
「それは、なんといっても月子さんは由美江姉さんだけではなく俺の恩人でもありますから。」
実は、篤にとっても月子は恩人であった。
それは月子が山に籠り始めてしばらくたったある日の事。
山に降り積もった雪が完全に解け、日の光が春の訪れを実感させるようになった頃のことだった。気温も上がり、気の早い筍が顔を出す時期という事もあって、篤は荷支度を整え嬉々として山へと繰り出した。
この時期の筍を見つけるのには幾つかのコツがあるが、一番確実なのは地表に現れる“ひび割れ”を見つけることだ。竹が自然に自生する山では難しいが、丁寧に手が加えられた竹山では馴れた者であればそれを見つけることは容易せある。そしてその下に眠る筍はまさに初物ならではの美味しさを誇り、一度食べたら忘れられない味だ。
「おお、あるある♪」
まだ早いかとも思ったが、上々の収穫で家から持ってきた籠はすぐに一杯になった。籠から覗く空気に触れず育った証でもある先端の黄色く瑞々しい美しさと肩に伝わる重みが収穫の喜びを幾重にも増幅させた。
だが、筍を掘るのに夢中で、かなり山奥に分け入っている事に篤は気がつかなかった。
そんな篤の目の前に現れたのは、数頭のウリボウを引き連れた体長1.5メートルはあろうかという巨大なイノシシだった。この時期のイノシシ、特に子供を連れた母イノシシは子供を守るため非常に攻撃的で危険だ。彼らはこちらが考える以上に素早く、真っ直ぐに決して怯むことなく突進してくる。これは実際に遭遇した者でしか分からないと思うが、非常に…恐ろしい。野性的な勘というか本能が、目の前の獣は「危険だ」と警告を一斉に鳴らし始め、嫌な汗が背中を伝う。
篤はすぐにでもこの場から避難しようと行動した。だが、その動きをいち早く察したイノシシは機敏に動き突進してきた。
なんとかものすごい速さで繰り出される初撃を避けることに成功したが、不運にも転倒し右足をくじいてしまい、まともに動けなくなってしまった。そんな篤の様子を慎重に観察しつつ、イノシシは自分の縄張りにずかずかと入ってきた侵入者を確実に仕留めるためゆっくりと態勢を整える。その様子をまるで死刑を待つ死刑囚のように眺めながら篤は明確な死のイメージ、とまではいかなかったが、骨折や縫合が必要な怪我を負うであろうことを覚悟した。農業を生業とする者にとって、しかもこれからの期間しか収穫できない筍の時期に大きなけがを負うと言う事は死活問題だ。
そしてイノシシが右足の蹄を大きく跳ねあげた瞬間、篤は眼を瞑りわが身に降りかかるであろう衝撃に備える。
しかし、その衝撃は何時まで経っても篤の身に降りかからなかった。
疑問に思いつつ、恐る恐る目を開くと今までそこにはいなかった、独特の美しい虎皮を纏った一人の女性が片手でイノシシの猛烈な突進を止めたまま立っていた。
「大丈夫か、篤殿。今…助ける!!」
そして月子は低い声で短く叫び、目にもとまらない早さでイノシシにあて身をくらわせ、あっという間に気絶させてしまったのだった。篤はその分野に明るいわけではないので詳しくは分からないが、彼女はこのジパング独自の護身術である柔術を極めているらしく、その素早くも正確な攻撃には彼女の実力を疑う余地はない。「母親を奪うのは忍びない。」月子は固まってこちらを警戒するウリボウを一瞥し、一度家にまで引き返し足を捻挫した篤に手厚く応急処置を施してくれ、山の出入り口まで送ってくれたのだった。
それ以来、篤はよく月子を訪ねるようになった。
その際には必ず“恩返し”という名目で、彼女が好きな食べ物やお酒を届けている。今回も知り合いが作り、分けてもらった上等な酒などを入るだけリュックサックに詰めてきた。最初は「申し訳ない」と拒んでいた月子も篤の根気に負けたのか今ではすんなり受け取ってくれるようになっていた。そして土産を渡した後、長ければ数時間世間話をするというのが定番になっている。彼女は博学で、話もウィットに富んでおり話し始めると楽しくて止まらないのだ。
「あの時の恩返しはまだまだ出来ていませんから。」
「ふふ、本当に木村家の人間は恩返しが好きなのだな。」
よっぽど可笑しかったのか、月子は口元を手で隠しつつカラカラと楽しそうに笑う。それを見た篤も自然と笑顔になってしまう。
この笑顔が見たくて月子の元に通っているといても過言ではないとふとした瞬間に思うことすらある。助けてもらったあの瞬間から篤は淡い恋心、というよりも尊敬に近い好意を月子に抱いていた。それは他の魔物娘には見られないほど強い精神力からくる彼女の強烈な理性がそうさせるのかもしれない。その美しく高潔な精神は誰もが惹きつけられるのではないだろうか。いつまでもその笑顔を見ていたいという欲望にかられるが、ぐっと堪えて今日来た目的を果たすべくリュックサックから荷物を取りだした。
「そんな恩返し好きな木村家の次男坊は本日、美味しいお酒が手に入ったので、月子さんにお裾分けと思いまして参りました。」
どうぞ、といって一升瓶を月子に渡す。月子はおおと喜びの声を上げつつそれを嬉しそうに受け取り瓶に張られたラベルをまじまじと眺める。月子は酒が好きだが決して乱れるほど飲むという事はせず、まさに嗜むと言う言葉がぴったりな程度に酒を飲む。過去に幾度か酒宴に誘われ、篤は月子と一緒に酒を飲んだ事があるが、酒が入っても彼女は決して乱れなかった。
「それにしても…毎回毎回こんなに豪勢なものを“恩返し”としてただでいただくのは、なんだか心苦しいものだ。」
「俺が好きでやっていることなのでお気になさらないでください!!」
「しかし…。っとそうだ。」
悩ましげに何かを考えていた月子は妙案を思いついたのか、ぱあっと明るい表情になり口を開いた。
「私にしてほしい事があれば、遠慮なしに言ってくれ。なんでも…と言うわけにはいかないが、篤殿のためなら大抵の事ならば善処するつもりだ!!」
「!?」
それは、篤にとって願ってもいない申し出であった。
実をいうと、篤はどうしても彼女の“耳”が見たかった。
ジパングでよく見られる稲荷を代表に、獣人と呼ばれる魔物娘たちの耳は、好きな者にとっては胸や足などよりも堪らないフェティシズムの対象となっている。篤もそこまで重度ではないがそういった嗜好を持っていて、獣人と会った際には失礼と分かっていてもついピコピコと動く彼女たちの耳を凝視してしまうのだった。ちなみに義姉である由美江の耳も大好きであったりする。
だが、月子は初対面の時から現在まで、理由は分からないが時には帽子をかぶり、時には手拭やバンダナを頭にまきその獣耳を隠している。今日の月子は紺色の麻布に鮮やかな金魚の刺繍が施された何ともお洒落な手拭を巻いている。
だからこそ。
だからこそ彼女のこの申し出を聞いた瞬間、篤の頭は一つの欲望に支配された。
「じゃ、じゃあ…一つよろしいでしょう、か。」
「ふふ、そんな鼻息荒くして。エッチなのは、無しだぞ〜。」
「そ、そんなこと考えていません。あの…月子さんの耳を見せていただけないでしょうか!?」
「!?」
だが、篤の申し出を聞いた月子は予想もしていなかった申し出であったのか、目を見開き固まった。
「俺は、月子さんの耳が見たいんです!!」
「・・・は!?」
「お願いします。例え一瞬でもいいので、俺に月子さんの耳を見せてください!!」
「い、いや…」
「獣人のみなさんの耳は最高です!!」
「ちょ、ちょっと落ち着い…」
「先っぽ、先っぽだけでもいいんで。お願いします!!」
完全に煩悩に支配された篤は今までにないほど熱く月子に迫る。だが、月子は何かを恐れるかのように声を震わせ、なんとか一言を絞り出した。
「それは、無理…。」
「何故です!?」
だが、篤は食い下がる。後から考えても不思議なくらい、篤は月子の耳を見ると言う事に執着していた。だからこそ、強気でいられたのだと思う。
「とにかく無理だ!!」
「じゃあダメな理由を話してください!!それで俺が納得すれば、もう二度とこんなことをいいません!!」
「な、何故そんな必要がある!?」
「先ほど…月子さんは言いました。“篤殿のためなら大抵の事ならば善処する”と。」
「だから、これは本当に嫌…」
「何も裸になれとか犯罪の手助けをしろと言っているわけじゃあないじゃないですか!!」
「それは…そうだけれども…」
「誰よりも高潔で誠実な武人である月子さんは嘘をつくんですか!?」
「な!?」
とてつもなく安く卑怯な挑発だった。普段の彼女であれば全く相手にしないほどの安易な誘い手であったが、予期せぬ展開に混乱した彼女には効果てきめんだった。
「いくら篤殿でもその言い方は許せん!!」
「なら、月子さんの耳を俺に見せるという行動で、発言が嘘ではないことを示してください!!」
「わ、分かった。私も誇り高き武人のはしくれ。自分の言葉には責任を持つ!!」
「なら…。」
「ああ、耳でもなんでも見るがいい!!」
月子は顔を真っ赤にさせてやけくそに叫ぶ。その声の大きさに思わずおされそうになるが、念願が遂に叶うという歓喜が篤を強力にバックアップした。
「やっぱりダメなんてことは無いですよね?」
「ええい、くどい。さっさとしろ!!」
「では、失礼します。」
先程あれだけ嫌がっていたのが嘘のように、月子は篤の方に頭を突き出す。そこには未だ見た事のない桃源郷が広がっている。そう思うと、篤の手は震えて仕方がなかった。それでもぐっと堪え堅く結ばれた手拭の結び目に、手をかけた。
上質な麻で作られた藍色の手拭が外れ、ピコンと二つの獣耳が姿を現す。
「こ、これは!?」
「…ぅう。だから、見せたくなかったのだ…。」
手拭を外すと同時に先程まで農作業をしていた所為か、篤の鼻孔にむわっと汗の匂いが届く。だがそれは微かに甘く、まるで柑橘系の果実の様な爽やかさまで伴い鼻孔を駆け抜けていく。その汗に濡れ、濃い鼈甲色と一房だけ黒い髪の毛さえもが得も言われぬ色香を放っている。
そしてその美しくしなやかな髪の毛を湛える頭頂部から二つの虎の耳が覗く。
だが、それは篤が想像していたものとは想像すらしなかった様相を呈していた。
姿を現した月子の耳は。
垂れていた。
「た、た、た、垂れ耳、だとぉ!?」
篤はてっきり、やや可愛らしいフォルムながらピンと天を突く雄々しい虎の耳を想像していた。おそらくは人虎と聞いた人の九割が同じものを想像するのではないかと思う。しかし目の前に現れた獣耳は、スコティッシュホールドのようななんとも愛らしい垂れ耳であった。
「うぅ…。だから見せたくなかった…こんな情けない耳なんて。」
「私は小さい頃より、母様と父様に厳しい稽古をしてもらってきた。二人は古今東西、多種多様な武芸に秀で様々な武術を私に教授してくれた。そんな中、私は誰かを傷つけるのではなく誰かを守る柔術が好きで、それを生涯にわたって極めんと修行に打ち込んだ…」
月子はおもむろに大きな手でそっと耳を隠すように頭を覆いながら言葉を続ける。
「強くなるため厳しい修行に打ち込んだことになんの迷いも後悔も無い。だが、私が一心不乱に技術を習得するべく日夜両親のもとで修練した結果、私の耳は…もはや自然治癒できないほど重度の耳介血腫になってしまった…。しかも腫瘍の重みで耳は無様に垂れさがり、武道の手合わせをした相手が思わず笑ってしまい、道行く人がすれ違いざまに二度見してくるほど情けない耳になってしまったのだ!!」
「………。」
そこまで一気にまくし立て、瞳にうっすらと涙を浮かべた月子がきっと篤を睨みつける。だが、篤はまるで魂が抜けてしまったかのようにぼおっと月子の耳を見つめたまま呆けていた。月子は必死に恥ずかしさを堪え今までコンプレックスである耳の説明をしてきた自分が急に滑稽に思え、声を荒げて篤に詰め寄った。
「ちょっとちゃんと聞いて…」
「触らせてください!!」
だが、部屋一杯に響くほど大きな篤の声によって月子の声は遮られてしまった。
「こんなに可愛らしくて、素敵な垂れ耳に触らない方がむしろ失礼です!!」
「え、可愛い?素敵?」
「はい。俺は今までこんなに魅力的な獣耳に出会った事がありません!!そんな垂れ耳を前にしてもう我慢なんてできません。触らせて、いただきます!!」
その時、篤の中で理性や自制心と言ったものが音を崩壊していた。
凛々しい雰囲気を全身から醸し出す普段の月子からは考えられないほど可愛らしい印象とギャップを与える垂れ耳に、そして数多ある獣耳の中でもっとも篤が愛してやまない垂れ耳を目の前にした篤の理性は風の前の塵のごとく消し飛んでしまったのだった。
「え!?ちょ、ちょっと待って!!」
「失礼します!!」
慌てふためき咄嗟に手で耳を隠し拒否を示す月子を無視し、鋭い爪が生える巨大な虎の手を押しのけ、垂れ耳という名のユートピアへと一気に篤は攻めかかった。
「や、やめ…ふあぁぁ!?」
「なんだ、これは!?」
月子の耳に触った瞬間、篤は一瞬鼓動が止まる様な強い衝撃に襲われた。
この世にこんなに触り心地がよく、気持ちのいい耳があるなんて。
見た目以上に肉厚な垂れ耳は、想像を絶するような柔らかさと今まで体感した事のない波動感を伴って篤の神経に襲いかかる。まるで発酵したてのパン生地の様な柔らかな外耳、一揉みする度に手の中でぷかぷかと揺れる耳の心地よさ、耳の内部に生える綿毛のような白く美しいフカフカで柔らかい体毛、そしてドクドクとこだまする鼓動がもたらす不思議な安心感と血液の温かさが強烈で筆舌に尽くし難い快感と中毒性をもたらす。
篤は未知の快感に身を任せ、無我夢中で月子の耳を貪った。
月子の制止の声は、篤の耳に届くことはなかった。
……………。
………。
……。
「はッ!?」
篤が我に返ったのはたっぷり一刻が過ぎたころだった。台風一過で晴れ渡った空は確実に夕暮れへと向かっていた。今まで抑え込んでいた「月子の耳を見たい」という欲求と、想像すらしなかった最良であり至高の光景によって時間が経つのを忘れさせるほど完全に理性が飛んでしまっていた。
「すみません、月子さん!!」
急いで彼女の耳から手を離し、謝罪の言葉を口にする。
「……。」
だが、月子は反応を返してはくれない。彼女は完全に呆けてしまっていた。あれほど凛々しく鋭い視線を向けていた瞳は光を失い、切れ長で美しい目尻からのびる乾ききった涙の跡が痛々しさを助長する。
「あ、ああ…ああああ!!」
その表情が、その反応が、いかに自分がしでかした事の重大さや取り返しのつかない事であったのかを雄弁に語っていた。
尊敬に近い好意を抱いていた相手との関係を壊してしまったという事実や月子に軽蔑されてしまうという恐怖に襲われた篤は、声を上げてその場を逃げ出した。
山道を転げるように走っている最中、先ほど見た呆然自失の月子の顔が何度もフラッシュバックのように脳裏に浮かんでは消えた。
一人の男が山の入口に佇む石像に向かって手を合わせている。
石像は地元の人間たちによって綺麗に清められ、足元には少量の白米や地元でとれた野菜、そしてお神酒が供えられている。その石像は男がこの地に生まれる何世紀も前に、異界として恐れられる山から入山した人間が無事に戻ってこられるようにと作られた守り神だ。
「よし、それじゃあ行きますか。」
入山時に必ずする儀礼を終え、男は一つ大きく深呼吸をして中身がパンパンに詰められたリュックサックを背負い歩き出した。
男の名は木村篤という。
この一帯の土地を何代にもわたって守り育んできた木村家の次男坊だ。
高校、大学と農業科を専攻し、この辺りでは少なくなった農家の担い手となるべく知識を身に付けた。元々長時間パソコンの前でデータを処理したり、汗を流して営業に奔走する自分の姿が想像できなかったというのも本音ではある。
元来篤はそういった生活に興味は薄く、例え厳しい生活となろうが自然と向き合い、生きているという実感を得る事が出来る農業が好きだった。どうやらそれは五歳年上の兄であり木村家の次期当主となるであろう恵一も同じ性分であるらしく、兄も大学を出てすぐに実家に戻り、身に付けた最新の農業方法を活用してこの土地をさらに豊かにするべく奔走している。
ちなみに兄は大学時代に知り合ったデザイナー志望のユニコーンである由美江と恋に落ち、この地に帰ると同時に結婚した。義姉は現在兄の農業を手伝う傍ら、長年の夢であったデザイナーとしても活躍している。気立てのよさや誰からも好かれる人柄で両親や篤との関係は良好そのものだ。
そんな二人は広大な土地を維持するため、役割分担をしていた。
まず農家にとって一番の生命線であり、自分たちの食料確保として何よりも大切な水田の管理は二人で行う。そして大学でアレロパシーや無農薬農業を研究していた恵一は畑を、竹などを使用した新世代のバイオマス研究をしてきた篤は山(竹山と蜜柑を栽培している山の両方)をそれぞれ担当する、と。
元々兄弟の仲もよく、身に付けた知識を存分に活用できる分担によって木村家と木村家が管理する土地はより一層の繁栄をみせていた。
「うん。台風による大きな被害も無いみたいだしよかった、よかった。」
そんな篤が今日山に入ったのには幾つかの目的があるからだ。
一つは先日この一帯を襲った台風による被害の確認であった。竹林というのは以外にもデリケートであったりする。台風の風によって倒れてしまった竹が他の竹を傷つけてしまったりすると、来年の春に出てくる筍が少なくなってしまったりするのだ。だが、幸いにもしばらく山を見て歩いたが、竹が倒れている様子は無い。どの竹も台風の風雨に負けず、しっかりと根を生やし生きている。
主だった被害が無いこともあり、篤は足取り軽くずんずんと登っていく。すると、ある意味で一番確かめたいことであり楽しみでもある目的地が見えてきた。
それは山の中腹辺り、竹や木が人為的に切り拓かれた土地に忽然と現れる民家。家というには小さいような気がするし、掘立小屋と言うには立派なそれは篤の祖父が山で作業中に休息するために建てたもので、きちんとした休息が出来るよう水道や電気もちゃんと母屋からひいている。これは篤の邪推であるのだが、祖父は半ば別荘の様な気分で建てたのではないかと思っている。
そして現在、この家には一人の魔物娘が住んでいる。その彼女に会いに行くのが、ある意味山に入った理由の本丸であったりする。
「こんにちは、月子さん。」
「やあ、篤殿か。いらっしゃい。」
ちょうど彼女は家の前に切り拓いた畑での作業中であったらしいく、首から下げた手拭で顔の汗をぬぐいながら作業を中断し歓迎してくれた。ただ、勢いよく鍬を地面に突き刺す様は彼女が武人であるだけに少し怖い。
彼女の名前は竹内月子。誇り高き獣人の一族である「人虎」だ。
手足には金色に近い黄色の美しい毛並みに黒い縞模様が入った独特の体毛が生え、美しい肌を保護している。そして鍛え抜かれた見事な肢体や思わず生唾を飲んでしまうような特大の乳房が実に際どいビキニ型アーマーによって守られている。その血色や艶のいい肌に目がいかない男はいないのではと思ってしまう。
「昨日の台風は大丈夫でしたか?」
「篤殿が知らせてくれた御蔭で難なく過ごす事が出来た。ありがとう。」
「お役に立てて何よりです!!」
「いつもすまない。さあ、立話もなんだしよければ上がってくれ。」
武人ならではの鋭い目つきや肉食獣の証である様な鋭い両の手の爪の所為で勘違いされやすいが、月子は常に理知的で誰にでも非常に優しい。本当の武人は相手に強さを悟らせないという言葉を篤は月子と出会って実感した。
「そうさせていただきます。」
月子が台風の被害を受けていないことに安心しつつ、篤は彼女のあとに続いて家へと入って行った。
通された部屋には様々な書画が飾られ、すっかり月子の家としての色を持っていた。それらのほとんどは彼女自身が描いたものである。「ただの嗜みだ。」といつも彼女は謙遜するが、素人目に見てもそれが相当のレベルであることは分かった。その証拠に彼女の作品は美術界でも人気らしく、かなりの額で取引されているのだと兄から聞いた事がある。どうやら伝説の二刀による戦法を駆使した剣豪や封建時代に最高と謳われてきた絵師たちに武士が多かったように、武芸を極めんとする者達の描く書画というのはただの絵師では描き出せない空気感や世界観があるのかもしれないと篤は思ったりしていた。
そんな彼女がこの山に住むことになったのは今年の初頭の事だった。
元々月子は義姉である由美江の親友で、学生時代悪漢に襲われそうになった由美江を救ったのが縁で、それ以来まるで本当の家族の様な付き合いを続けているそうだ。篤も何度かその時の様子を義姉から聞いた事があった。そんな月子が武人として精進するため山籠りをしたいと考えているのを知った由美江は夫である恵一に相談した。兄は勿論月子と面識があったし、最愛の妻を助けてくれた恩人に恩を返すのは今だと快くこの山と小屋を提供することを決めたのだった。
「どうしたんですか。何か可笑しい事でもあったんですか?」
そんな事をぼんやり考えていると、月子がこちらを見て何故か楽しそうに笑っている事に気が付き、理由を尋ねる。
「いや、なに。このごろは由美江よりも篤殿の方がここを訪ねてくれるものだと思うとなんだか可笑しくて、な。」
柔和な笑顔を浮かべた月子はよく冷えた麦茶を出してくれた。麦茶を一口飲み、丁寧に炒られた上等な麦ならではの豊潤な香りを堪能しつつ、篤は口を開く。
「それは、なんといっても月子さんは由美江姉さんだけではなく俺の恩人でもありますから。」
実は、篤にとっても月子は恩人であった。
それは月子が山に籠り始めてしばらくたったある日の事。
山に降り積もった雪が完全に解け、日の光が春の訪れを実感させるようになった頃のことだった。気温も上がり、気の早い筍が顔を出す時期という事もあって、篤は荷支度を整え嬉々として山へと繰り出した。
この時期の筍を見つけるのには幾つかのコツがあるが、一番確実なのは地表に現れる“ひび割れ”を見つけることだ。竹が自然に自生する山では難しいが、丁寧に手が加えられた竹山では馴れた者であればそれを見つけることは容易せある。そしてその下に眠る筍はまさに初物ならではの美味しさを誇り、一度食べたら忘れられない味だ。
「おお、あるある♪」
まだ早いかとも思ったが、上々の収穫で家から持ってきた籠はすぐに一杯になった。籠から覗く空気に触れず育った証でもある先端の黄色く瑞々しい美しさと肩に伝わる重みが収穫の喜びを幾重にも増幅させた。
だが、筍を掘るのに夢中で、かなり山奥に分け入っている事に篤は気がつかなかった。
そんな篤の目の前に現れたのは、数頭のウリボウを引き連れた体長1.5メートルはあろうかという巨大なイノシシだった。この時期のイノシシ、特に子供を連れた母イノシシは子供を守るため非常に攻撃的で危険だ。彼らはこちらが考える以上に素早く、真っ直ぐに決して怯むことなく突進してくる。これは実際に遭遇した者でしか分からないと思うが、非常に…恐ろしい。野性的な勘というか本能が、目の前の獣は「危険だ」と警告を一斉に鳴らし始め、嫌な汗が背中を伝う。
篤はすぐにでもこの場から避難しようと行動した。だが、その動きをいち早く察したイノシシは機敏に動き突進してきた。
なんとかものすごい速さで繰り出される初撃を避けることに成功したが、不運にも転倒し右足をくじいてしまい、まともに動けなくなってしまった。そんな篤の様子を慎重に観察しつつ、イノシシは自分の縄張りにずかずかと入ってきた侵入者を確実に仕留めるためゆっくりと態勢を整える。その様子をまるで死刑を待つ死刑囚のように眺めながら篤は明確な死のイメージ、とまではいかなかったが、骨折や縫合が必要な怪我を負うであろうことを覚悟した。農業を生業とする者にとって、しかもこれからの期間しか収穫できない筍の時期に大きなけがを負うと言う事は死活問題だ。
そしてイノシシが右足の蹄を大きく跳ねあげた瞬間、篤は眼を瞑りわが身に降りかかるであろう衝撃に備える。
しかし、その衝撃は何時まで経っても篤の身に降りかからなかった。
疑問に思いつつ、恐る恐る目を開くと今までそこにはいなかった、独特の美しい虎皮を纏った一人の女性が片手でイノシシの猛烈な突進を止めたまま立っていた。
「大丈夫か、篤殿。今…助ける!!」
そして月子は低い声で短く叫び、目にもとまらない早さでイノシシにあて身をくらわせ、あっという間に気絶させてしまったのだった。篤はその分野に明るいわけではないので詳しくは分からないが、彼女はこのジパング独自の護身術である柔術を極めているらしく、その素早くも正確な攻撃には彼女の実力を疑う余地はない。「母親を奪うのは忍びない。」月子は固まってこちらを警戒するウリボウを一瞥し、一度家にまで引き返し足を捻挫した篤に手厚く応急処置を施してくれ、山の出入り口まで送ってくれたのだった。
それ以来、篤はよく月子を訪ねるようになった。
その際には必ず“恩返し”という名目で、彼女が好きな食べ物やお酒を届けている。今回も知り合いが作り、分けてもらった上等な酒などを入るだけリュックサックに詰めてきた。最初は「申し訳ない」と拒んでいた月子も篤の根気に負けたのか今ではすんなり受け取ってくれるようになっていた。そして土産を渡した後、長ければ数時間世間話をするというのが定番になっている。彼女は博学で、話もウィットに富んでおり話し始めると楽しくて止まらないのだ。
「あの時の恩返しはまだまだ出来ていませんから。」
「ふふ、本当に木村家の人間は恩返しが好きなのだな。」
よっぽど可笑しかったのか、月子は口元を手で隠しつつカラカラと楽しそうに笑う。それを見た篤も自然と笑顔になってしまう。
この笑顔が見たくて月子の元に通っているといても過言ではないとふとした瞬間に思うことすらある。助けてもらったあの瞬間から篤は淡い恋心、というよりも尊敬に近い好意を月子に抱いていた。それは他の魔物娘には見られないほど強い精神力からくる彼女の強烈な理性がそうさせるのかもしれない。その美しく高潔な精神は誰もが惹きつけられるのではないだろうか。いつまでもその笑顔を見ていたいという欲望にかられるが、ぐっと堪えて今日来た目的を果たすべくリュックサックから荷物を取りだした。
「そんな恩返し好きな木村家の次男坊は本日、美味しいお酒が手に入ったので、月子さんにお裾分けと思いまして参りました。」
どうぞ、といって一升瓶を月子に渡す。月子はおおと喜びの声を上げつつそれを嬉しそうに受け取り瓶に張られたラベルをまじまじと眺める。月子は酒が好きだが決して乱れるほど飲むという事はせず、まさに嗜むと言う言葉がぴったりな程度に酒を飲む。過去に幾度か酒宴に誘われ、篤は月子と一緒に酒を飲んだ事があるが、酒が入っても彼女は決して乱れなかった。
「それにしても…毎回毎回こんなに豪勢なものを“恩返し”としてただでいただくのは、なんだか心苦しいものだ。」
「俺が好きでやっていることなのでお気になさらないでください!!」
「しかし…。っとそうだ。」
悩ましげに何かを考えていた月子は妙案を思いついたのか、ぱあっと明るい表情になり口を開いた。
「私にしてほしい事があれば、遠慮なしに言ってくれ。なんでも…と言うわけにはいかないが、篤殿のためなら大抵の事ならば善処するつもりだ!!」
「!?」
それは、篤にとって願ってもいない申し出であった。
実をいうと、篤はどうしても彼女の“耳”が見たかった。
ジパングでよく見られる稲荷を代表に、獣人と呼ばれる魔物娘たちの耳は、好きな者にとっては胸や足などよりも堪らないフェティシズムの対象となっている。篤もそこまで重度ではないがそういった嗜好を持っていて、獣人と会った際には失礼と分かっていてもついピコピコと動く彼女たちの耳を凝視してしまうのだった。ちなみに義姉である由美江の耳も大好きであったりする。
だが、月子は初対面の時から現在まで、理由は分からないが時には帽子をかぶり、時には手拭やバンダナを頭にまきその獣耳を隠している。今日の月子は紺色の麻布に鮮やかな金魚の刺繍が施された何ともお洒落な手拭を巻いている。
だからこそ。
だからこそ彼女のこの申し出を聞いた瞬間、篤の頭は一つの欲望に支配された。
「じゃ、じゃあ…一つよろしいでしょう、か。」
「ふふ、そんな鼻息荒くして。エッチなのは、無しだぞ〜。」
「そ、そんなこと考えていません。あの…月子さんの耳を見せていただけないでしょうか!?」
「!?」
だが、篤の申し出を聞いた月子は予想もしていなかった申し出であったのか、目を見開き固まった。
「俺は、月子さんの耳が見たいんです!!」
「・・・は!?」
「お願いします。例え一瞬でもいいので、俺に月子さんの耳を見せてください!!」
「い、いや…」
「獣人のみなさんの耳は最高です!!」
「ちょ、ちょっと落ち着い…」
「先っぽ、先っぽだけでもいいんで。お願いします!!」
完全に煩悩に支配された篤は今までにないほど熱く月子に迫る。だが、月子は何かを恐れるかのように声を震わせ、なんとか一言を絞り出した。
「それは、無理…。」
「何故です!?」
だが、篤は食い下がる。後から考えても不思議なくらい、篤は月子の耳を見ると言う事に執着していた。だからこそ、強気でいられたのだと思う。
「とにかく無理だ!!」
「じゃあダメな理由を話してください!!それで俺が納得すれば、もう二度とこんなことをいいません!!」
「な、何故そんな必要がある!?」
「先ほど…月子さんは言いました。“篤殿のためなら大抵の事ならば善処する”と。」
「だから、これは本当に嫌…」
「何も裸になれとか犯罪の手助けをしろと言っているわけじゃあないじゃないですか!!」
「それは…そうだけれども…」
「誰よりも高潔で誠実な武人である月子さんは嘘をつくんですか!?」
「な!?」
とてつもなく安く卑怯な挑発だった。普段の彼女であれば全く相手にしないほどの安易な誘い手であったが、予期せぬ展開に混乱した彼女には効果てきめんだった。
「いくら篤殿でもその言い方は許せん!!」
「なら、月子さんの耳を俺に見せるという行動で、発言が嘘ではないことを示してください!!」
「わ、分かった。私も誇り高き武人のはしくれ。自分の言葉には責任を持つ!!」
「なら…。」
「ああ、耳でもなんでも見るがいい!!」
月子は顔を真っ赤にさせてやけくそに叫ぶ。その声の大きさに思わずおされそうになるが、念願が遂に叶うという歓喜が篤を強力にバックアップした。
「やっぱりダメなんてことは無いですよね?」
「ええい、くどい。さっさとしろ!!」
「では、失礼します。」
先程あれだけ嫌がっていたのが嘘のように、月子は篤の方に頭を突き出す。そこには未だ見た事のない桃源郷が広がっている。そう思うと、篤の手は震えて仕方がなかった。それでもぐっと堪え堅く結ばれた手拭の結び目に、手をかけた。
上質な麻で作られた藍色の手拭が外れ、ピコンと二つの獣耳が姿を現す。
「こ、これは!?」
「…ぅう。だから、見せたくなかったのだ…。」
手拭を外すと同時に先程まで農作業をしていた所為か、篤の鼻孔にむわっと汗の匂いが届く。だがそれは微かに甘く、まるで柑橘系の果実の様な爽やかさまで伴い鼻孔を駆け抜けていく。その汗に濡れ、濃い鼈甲色と一房だけ黒い髪の毛さえもが得も言われぬ色香を放っている。
そしてその美しくしなやかな髪の毛を湛える頭頂部から二つの虎の耳が覗く。
だが、それは篤が想像していたものとは想像すらしなかった様相を呈していた。
姿を現した月子の耳は。
垂れていた。
「た、た、た、垂れ耳、だとぉ!?」
篤はてっきり、やや可愛らしいフォルムながらピンと天を突く雄々しい虎の耳を想像していた。おそらくは人虎と聞いた人の九割が同じものを想像するのではないかと思う。しかし目の前に現れた獣耳は、スコティッシュホールドのようななんとも愛らしい垂れ耳であった。
「うぅ…。だから見せたくなかった…こんな情けない耳なんて。」
「私は小さい頃より、母様と父様に厳しい稽古をしてもらってきた。二人は古今東西、多種多様な武芸に秀で様々な武術を私に教授してくれた。そんな中、私は誰かを傷つけるのではなく誰かを守る柔術が好きで、それを生涯にわたって極めんと修行に打ち込んだ…」
月子はおもむろに大きな手でそっと耳を隠すように頭を覆いながら言葉を続ける。
「強くなるため厳しい修行に打ち込んだことになんの迷いも後悔も無い。だが、私が一心不乱に技術を習得するべく日夜両親のもとで修練した結果、私の耳は…もはや自然治癒できないほど重度の耳介血腫になってしまった…。しかも腫瘍の重みで耳は無様に垂れさがり、武道の手合わせをした相手が思わず笑ってしまい、道行く人がすれ違いざまに二度見してくるほど情けない耳になってしまったのだ!!」
「………。」
そこまで一気にまくし立て、瞳にうっすらと涙を浮かべた月子がきっと篤を睨みつける。だが、篤はまるで魂が抜けてしまったかのようにぼおっと月子の耳を見つめたまま呆けていた。月子は必死に恥ずかしさを堪え今までコンプレックスである耳の説明をしてきた自分が急に滑稽に思え、声を荒げて篤に詰め寄った。
「ちょっとちゃんと聞いて…」
「触らせてください!!」
だが、部屋一杯に響くほど大きな篤の声によって月子の声は遮られてしまった。
「こんなに可愛らしくて、素敵な垂れ耳に触らない方がむしろ失礼です!!」
「え、可愛い?素敵?」
「はい。俺は今までこんなに魅力的な獣耳に出会った事がありません!!そんな垂れ耳を前にしてもう我慢なんてできません。触らせて、いただきます!!」
その時、篤の中で理性や自制心と言ったものが音を崩壊していた。
凛々しい雰囲気を全身から醸し出す普段の月子からは考えられないほど可愛らしい印象とギャップを与える垂れ耳に、そして数多ある獣耳の中でもっとも篤が愛してやまない垂れ耳を目の前にした篤の理性は風の前の塵のごとく消し飛んでしまったのだった。
「え!?ちょ、ちょっと待って!!」
「失礼します!!」
慌てふためき咄嗟に手で耳を隠し拒否を示す月子を無視し、鋭い爪が生える巨大な虎の手を押しのけ、垂れ耳という名のユートピアへと一気に篤は攻めかかった。
「や、やめ…ふあぁぁ!?」
「なんだ、これは!?」
月子の耳に触った瞬間、篤は一瞬鼓動が止まる様な強い衝撃に襲われた。
この世にこんなに触り心地がよく、気持ちのいい耳があるなんて。
見た目以上に肉厚な垂れ耳は、想像を絶するような柔らかさと今まで体感した事のない波動感を伴って篤の神経に襲いかかる。まるで発酵したてのパン生地の様な柔らかな外耳、一揉みする度に手の中でぷかぷかと揺れる耳の心地よさ、耳の内部に生える綿毛のような白く美しいフカフカで柔らかい体毛、そしてドクドクとこだまする鼓動がもたらす不思議な安心感と血液の温かさが強烈で筆舌に尽くし難い快感と中毒性をもたらす。
篤は未知の快感に身を任せ、無我夢中で月子の耳を貪った。
月子の制止の声は、篤の耳に届くことはなかった。
……………。
………。
……。
「はッ!?」
篤が我に返ったのはたっぷり一刻が過ぎたころだった。台風一過で晴れ渡った空は確実に夕暮れへと向かっていた。今まで抑え込んでいた「月子の耳を見たい」という欲求と、想像すらしなかった最良であり至高の光景によって時間が経つのを忘れさせるほど完全に理性が飛んでしまっていた。
「すみません、月子さん!!」
急いで彼女の耳から手を離し、謝罪の言葉を口にする。
「……。」
だが、月子は反応を返してはくれない。彼女は完全に呆けてしまっていた。あれほど凛々しく鋭い視線を向けていた瞳は光を失い、切れ長で美しい目尻からのびる乾ききった涙の跡が痛々しさを助長する。
「あ、ああ…ああああ!!」
その表情が、その反応が、いかに自分がしでかした事の重大さや取り返しのつかない事であったのかを雄弁に語っていた。
尊敬に近い好意を抱いていた相手との関係を壊してしまったという事実や月子に軽蔑されてしまうという恐怖に襲われた篤は、声を上げてその場を逃げ出した。
山道を転げるように走っている最中、先ほど見た呆然自失の月子の顔が何度もフラッシュバックのように脳裏に浮かんでは消えた。
13/09/17 22:43更新 / 松崎 ノス
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