中編
「はぁ……はぁ……」
「……」
広く、物の少ない……ともすればミニマリストを思わせる殺風景な部屋。
そんな部屋に満ちているのは濃厚な雌の匂い。
ベッドの上で二人の女……いや、女と少女が身を寄せ合い、荒い息を吐いている。
一人は歳の頃二十台半ばの成熟した身体つきのセミロングの女性。
普段はバリキャリ然とした理知的な光を湛えた目はとろんと蕩けている。
一人は真子。
その雪のように白い肌をしっとりと汗ばませ、目を閉じている顔は精緻な人形のようだ。
「触らせてくれるなんて、珍しいのね……」
頬にかかった髪を払いながら女が言う。
「……」
真子は目を開く。
女は気付く、その目はこちらを向いていても、女の事を見ていない。
「嫌な事、あった……?」
「……ううん、別に……シャワー、浴びるね」
そう言うと真子はベッドを下りた。
「……」
背後に感じる寂しそうな視線を感じ取り、振り返る。
「……一緒に入る?」
「いいのかしら?」
「どうぞ」
二人の美しい肢体が浴室に消え、長い間水音が響いた。
・
・
・
女が帰った後、真子はベッドの上で胎児のように膝を抱えて横になっていた。
身体は満たされている、身体だけは。
ぼんやりと過去を思い浮かべている。
初恋はいつだったか。
中学生の頃。
友達の女の子を好きになって、独り占めしたいと思った事がある。
そこまで深く考えなかったがあれは恋愛感情だったと思う。
でも、その子には好きな男の子がいて……その男の子に自分は告白された。
無論、断った。
その次の日から女の子は自分と口を利かなくなった。
それで終わりだった。
他にもあった。
今の人のようにずっと年上の人と逢引を繰り返して、本当に好きになった事がある。
でも、いくら自分が相手を夢中にさせても、身体で篭絡しても。
それは相手にとって「火遊び」であって、自分をずっと一緒に居る相手とは捉えてはくれない。
だから遠回しに「飽きた」と伝えて会わなくなった。
本当はそんな事は言いたくなかったし、別れたくなかった。
だけど、その関係を続ける事が自分にとって苦しくなり過ぎた。
ずっとそうだ。
自分は人にとって快楽を与えてくれる相手、綺麗で可愛くて、連れて歩くと自慢できる存在。
それだけだ。
ヴヴッ
ベッドの上のスマホが振動する。
手を伸ばして見て見ると、聡からのラインだった。
お疲れ様、今度ピクニックにでも行きませんか。
それを見て、すぐにベッドに放り投げて体を丸めた。
(……ピクニック……?)
もう一度、手を伸ばしてスマホを引き寄せた。
・
・
・
「今時ピクニックとかだいぶ珍しいから思わず来ちゃいましたよ」
「まあ……自分が来たいからついでにって感じだけどね」
雲一つも無い晴天の元、二人は電車でやって来たコスモス園にいた。
周囲は家族連れが多く、子供のはしゃぐ声が遠巻きに聞こえる。
秋に差し掛かっているとはいえまだ夏の名残の日差しは強い。
「……日傘を持っている男の人初めて見ました」
「今時は珍しくないよ、はい」
「……どうも」
傘を差し、二人で歩き始める。
薄桃色に咲き誇るコスモスの絨毯を見ながら、さわさわと風に吹かれて歩く。
「……」
「……」
無言で歩く。
気になって聡の方を見ると、遠い目でその色彩を見つめていた。
無理に会話をしようという様子ではない。
自分が来たかったから、というのは本当のようだ。
「……もう、なっちゃんという繋がりもありません、どうして声を掛けたんですか」
「友達だしね」
「その設定、まだ続けるんですか」
「嫌ならいいよ」
「別に嫌ではないです」
「じゃ、続けよう」
会話と言う会話もなく花を眺めながら歩く。
風が吹き渡り、日差しが足元を照らす。
子供の声が響く。
コスモスは綺麗だ。
「ちょっと早いけどお昼にする?」
「はい」
「待ってて」
聡はリュックを下ろすと、レジャーシートを敷き、その上に弁当を広げ始めた。
弁当は聡が用意すると事前に聞いていたので真子は何も持っておらず、聡を手伝った。
お重形式の弁当箱で、次々広げていくと予想以上の品数とボリュームが広がった。
「これは……何とも……」
全て広げ終えて真子は思わず呟く。
ふりかけで色づけられたおにぎり。
ウインナー、唐揚げ、ハンバーグ、肉巻き等の肉類。
ブロッコリー、トマト、アスパラ、スパゲティーのサラダ類。
筑前煮、煮豆、卵焼き等の和食類。
カットフルーツ類。
彩りも豊かで、どう見ても手間のかかっている品々だ。
「おにぎりはちゃんとラップ越しに握ったから衛生面は大丈夫だよ」
麦茶を注ぎながら聡が言う。
「私は気にしません」
「そっか、気にする人は気にするからね」
お茶とおしぼりと割り箸を渡すと、弁当を挟んで真子の向かいに胡坐をかいて座る。
真子も膝を崩して座る。
「「いただきます」」
二人で手を合わせた。
「中身はおかか、昆布、梅干し、明太子、牛しぐれ、ね、好きなの取って」
一つ一つ指差して説明する。
真子はおかかを取った。
聡は昆布を取る。
「……おいしいです」
「うん、良かった」
筑前煮に箸を伸ばしてタケノコを食べた時、真子は口元に手をやって目を見開いた。
「おいしい……これ、既製品じゃなくて……」
「うん、俺が煮た」
「これって……これって……なっちゃんの……」
「あー……弁当に入れてやってたな」
そう、奈津美の弁当をちょっと分けて貰った時の筑前煮だ。
お母さんが料理上手なのだと思っていたが、まさか……。
「親が忙しくて、朝は弁当いつも俺が作ってるよ……ショックだった?」
何とも言えない表情をしている真子に苦笑しながら言う。
「……いつもなっちゃんに美味しい物を作ってくれてありがとうという気持ちと……あむ」
唐揚げを一つ食べて、ジト目になる。
「なっちゃんの身体がお兄さんの料理で作られているという嫉妬で半々です」
「何だそりゃ」
「他も全部お兄さんが?」
「そうだよ」
「私への当てつけですか」
「その通り」
「ひどいです」
聡は笑った、真子も少し笑った。
その後、二人はただ食事に集中した。
急ぐことなく、ゆっくりとしたペースで。
青空を、コスモスを見ながら、ゆっくりと。
「本当においしいこれ……ほんと……」
呟くような言葉が途切れた。
真子の両目から、すぅー、と涙が零れた。
真子は箸を置いてハンカチを取り出し、涙を拭った。
箸を持って食事を再開しようとしたが、また、涙が溢れてくる。
キリがないので、目元を拭いながら食べた。
「んっ……あむ……んっ……なっちゃん……うっ……なっちゃん……」
肩を震わせながら食べる。
「……」
聡は真子の方は見ずに、ただ黙々と食べている。
「なっちゃん……なっちゃん……」
コスモスが、風に揺れている。
・
・
・
空が茜色に染まる頃、二人は駅前に立っていた。
「今日はありがとうございます、ご馳走様でした」
「いえいえ、それじゃあ」
手を振ると、聡は背を向けた。
「あの」
「ん?」
真子が呼び止めた。
「本当に、美味しかったです……その、機会があったら」
「聡ぃ?ね、聡だよね?」
声が割り込んだ。
女の声だった。
視線を向けると派手な服装をした女がこちらを向いて立っていた。
化粧が濃くてはっきりとはわからないが、装いの割にかなり年齢がいっているように見える。
女は聡から隣の真子へ視線を移すと、値踏みをするように頭からつま先まで視線で舐めた。
「……」
「なあにぃ聡、彼女?すっごい可愛い子じゃあん、お金持ってそうだし」
真子は不快さを隠さず表情に出したが、女は気にした様子もない。
ニヤニヤ笑うと聡に近付いた。
「ね、今幾らある?」
「……今はこれだけ」
聡は財布を取り出すと、中にある札類を全部出した。
「ふーん……バイトしてんのにそんだけ?無駄遣いしてんじゃないの」
それをがさりと受け取ると、自分の財布に突っ込む。
「ほら、ほら、まだあるじゃん」
「……」
聡は黙って小銭類も手に出した。
「ほれ、ここ、ここ」
財布の小銭入れを開く。
そこに、聡は一円も残さずじゃらじゃらと流し入れた。
「あの、すみません」
真子が耐えかねたように声を掛ける。
「何?」
女が不機嫌そうに応える。
「今からお兄さん、電車に乗るんですが」
「だから?あたしはね、この子の母親なのよ、親子間に他人が首突っ込むんじゃないわよ」
真子は思い出していた。
聡は養子縁組で引き取られて来た子供であり、それ以前、彼を虐待していた親がいた。
「ね、聡、この彼女からもちょっと援助してもらってよ、お母さんねえ、今すっごい困ってるの」
「彼女じゃないよ」
「あぁ?じゃ、友達ぃ?どっちでもいいよ、ね、ね、お金持ちなんでしょ?ちょっとぐらいいいじゃないかさあ」
「それは出来ないよ」
「はぁ?」
声のトーンが下がり、女の表情が歪む。
「……ごめん、それは出来ない」
「聡」
女が低い声で呼ぶと、聡はその目に明らかに怯えの色を浮かべた。
「……」
真子は無言で二人の間に割って入ろうとしたが、聡が来るな、と言うように手で制した。
女は怯える聡を睨んでいる。
「どした?その子達何?」
と、女の後ろから声が掛かった。
スーツ姿に高そうな指輪、時計、革靴、金に染まった髪、一目でそういう職業の者とわかる雰囲気だ。
「何でもなぁい♪」
ぱっと表情を変えて女がその男に駆け寄った。
「ね、ね、それよりさ、臨時収入あったのよぉ♪もう一軒いこうじゃなぁい♪」
そう言って男の肩にしな垂れかかると、そのまま繁華街の方へ行ってしまった。
「……」
聡は大きなため息をつくと、真子に頭を下げた。
「ごめん、嫌なもの見せちゃって」
「お兄さん」
「今の事、奈津美に内緒にして欲しい」
「ですが……」
「頼む、この通りだ」
手まで合わせてくる。
「交通費はどうするんですか、電車は……」
「それについてだけど、もし奈津美から俺の事について聞かれても用事があるから遅くなったって……」
「待って下さい、徒歩で行く気ですか?すごい距離ですよ」
「だから、口裏を合わせて欲しいんだ」
「お金なら私が……」
「駄目だ、白木さんとお金の貸し借りはしたくない」
財布を出そうとする真子の手を抑える。
「勝手なお願いしてごめんね、それじゃあ」
そう言って、呼び止める間もなく足早に去ってしまった。
駅に取り残された真子は、消えて行く聡の背を見送るしかできなかった。
・
・
・
家に帰った真子はシャワーを浴びていた。
滑らかな髪を、肌を、熱い湯が滑り落ち、洗い流していく。
だが清められていく身体と裏腹に、胸に何かずっしりと重い物があるようだった。
あの時、あのピクニックで、真子は何か救われたような、そんな気持ちになっていた。
胸が軽くなるような、切ないけれども、すっきりするような、そんな心地になっていた。
それが、別れ際の出来事でべったりと黒く汚されたような気分だった。
心臓がどくどくと脈打つのがよく聞こえる。
胸がむかむかする。
何かどうしようもなく黒い感情が渦巻いている。
どん!
それに耐えかねたように、真子は浴室の壁を拳で叩いた。
痛い、自分は何をしているのか。
何を。
お兄さん。
ぽっかりと、聡の事が頭に浮かんだ。
まだ、歩いているだろうか。
駅から家までは相当に遠い、まだ辿り着いていない可能性は十分ある。
黙々と歩いているのだろうか。
夜が更けてもまだ暑いこの季節に、汗だくになりながら、
母親に、あの女に有り金巻き上げられて。
文句一つ言わずに……。
「……かつく……」
無意識に口から言葉が零れる。
呟く事で、自分の抱える黒いモヤモヤの正体が輪郭をはっきりとさせ始めた。
「……むかつく……」
どん!
と、また拳が痛むに関わらず、壁を叩く。
「ムカつく」
白木真子は、どうしようもなく苛立っていた。
・
・
・
「真子ちゃん、悩み事でもある?」
「ん?どうしてですか?」
「いや、何となく」
学校での休み時間、奈津美に言われて聞き返した。
「別に大丈夫ですよ」
「そっか、それならいいんだけど……まあ、何かあったら遠慮なく相談してよね?」
「ふふ、ありがとうございます」
純粋に嬉しかった。
真子は自分の機嫌を表に出さない事に慣れているので、他の友人達は気付かない。真子だけがそう言ってくれた。
そう、表に出さないだけで、あの一件からずっとだ。
自分でも何に対してそんなに苛ついているのか、その正体もわからないままにモヤモヤを抱えている。
いや、原因はわかっている、奈津美の兄、聡の事だ。
見ていて胸糞悪かったのは確かだが、そこまで自分が引きずる理由が分からない。
そして、聡には妹に対して口止めされている。
奈津美に相談する訳にはいかない。
表面上、自分の心の揺れを全く表に出さないままに学校生活を滞りなく送り、家に帰る。
どさり、とベッドに倒れ込む。
疲れる。
ストレスを抱えていると体に応える。
(……嫌だな……)
スマホを取り出してラインを見る。
互いに何も連絡は取っていない。
ピクニックに誘われた言葉を最後に途切れている。
(……ピクニック、楽しかったな)
いや、楽しかったというよりは、癒された、というか……。
だが、それを思い出すとあの場面も合わせて思い出してしまう。
あの母親の顔。
あの時の聡の顔……。
親。
真子はベッドから顔を上げて自分の部屋を見る。
必要最低限の物しか置いていない殺風景な部屋。
本当は色々とある。
人形、ぬいぐるみ、ゲーム機からポスターまで。
およそ子供が欲しがるであろう物はあらゆるものを持っている。
だが、それらは全て物置に仕舞いこまれて埃を被っている。
全て親にねだって買って貰った物だ。
共働きをしている両親は殆ど家に居る事が無い。
代わりに欲しいと言った物は何でも買って貰えた。
そう、何でもだ。
色々な物をねだり、色々な物を買ってもらい……。
それでも真子は満たされなかった。
あれもこれも買ってもらって、満たされなかった。
両親はそんな自分に辟易していたように思う。
今だから分かるが、自分は本当は物が欲しくておねだりをしていた訳ではなかった。
自分は叱って欲しかったのだ。
いい加減にしなさい、と。
他の子達がおねだりをするとそうされるように。
もっと言うと自分に興味を持って欲しかった、構って欲しかった。
だが両親は怒りもせず、面倒そうに何でも買い与える。
ちゃんと面倒見てるでしょう?だから面倒掛けないで。
そう言外に言われているようで、実際にそうだった。
やがて、真子はねだるのを止めた。
買って貰った物を見るのも嫌になって物置に全て押し込んだ。
そうして、真子は諦めた。
親の事を。
興味を持ってくれない親。
搾取する親。
どっちがマシなのだろうか。
「……」
馬鹿らしい、どっちがマシも何もあるものか。
とにかく今はこのささくれ立った心をどうにかしたい。
ベッドに寝そべったままスマホを立ち上げ、枕元にあるワイヤレスイヤホンを耳に押し込む。
アプリでヒーリングミュージックを流し、目を閉じる。
「……」
落ち着かない。
いや、むしろ落ち着いた旋律に神経を逆撫でされているようにすら感じる。
舌打ちを打って曲を止め、他に何か無いか選曲する。
ふと、指が止まった。
画面に映るジャケットは月夜を背景に抽象的な悪魔?が描かれている下手な絵。
「luna」(ルナ)というバンドらしい。
覚えている。
奈津美が好きなバンドだ。
スマホで聴いている所を、彼女の事なら何でも知りたい自分がちょっと聴かせてもらった。
聴かせてくれる前に「多分、マコには合わないと思うなあ」と苦笑していた。
実際、自分には合わなかった。
というか、彼女がメタルを聴いているとは意外だった。
合わないとは思ったが、同じ物を欲しいという思いでデータを購入していたのだった。
それを、再生してみる。
「〜〜〜〜()|=||())|||$$%$%’(〜〜〜!!!!!!」
日本語とも、英語とも、そして他のどの言語とも似ていない。
騒音のような声と音が耳に雪崩れ込む。
「何語?」と聞いたらどうやら創作された言語で意味は無いらしい。
初めて聴いた時には、思わずすぐに耳から外してしまったうるさい音。
だが、今は不思議な程その音がしっくりくる。
怒りだ。
この歌は怒っている。
自分の内に秘められた怒りを宥めるのではなく、誤魔化すのではなく、引きずり出してくる。
掠れて濁っていながら、奇妙に色っぽいその女性ボーカルの声が脳に突き刺さる。
何で?
どうして?
どうして、こんなに苦しい事ばっかり。
ままならない事ばっかり。
理不尽な事ばっかり。
誰もかれも傷付けあって、傷付いて。
あいつ
あの女
あのババア
くそったれが
どれだけお兄さんに寄生してきた?
どれだけお兄さんから巻き上げて来た?
どれだけお兄さんを小さい頃から傷付けて来た?
あんなに、
あんなに優しい人を、悲しい人を、親と言うだけで。
そうだ、怒れ、怒れ、
見て見ぬふりをするな、しょうがないと妥協するな、当たり前だと納得するな、そういうものだと諦めるな。
女の声が叫ぶ。
当然、言葉が聞き取れる訳ではない。
でもそう言っている気がする。
これはいけない、危険だ。
自分の中の理性的な部分が叫んでいる。
聴くのをやめろ、自分を抑えろ、と。
真子はベッドの上で体を胎児のように丸めた。
心臓がどくどくとうるさい。
身体が熱い。
何だか……。
何だか、頭と、お尻と、背中がうずうずする。
・
・
・
「クッソ、ざけんな」
野木真紀(のぎまき)は悪態をつきながらパチンコ店を出た。
大負けだ。
引き際を間違えるのは毎度の事だが、今回は明らかに負け過ぎた。
タバコ代もケチる事態になっている。
これではお気に入りのホストと遊ぶ事もできやしない。
まず、金を調達する方法を思い浮かべる。
その中にまともに働くという選択肢は存在しない。
自分はもはや体も心もまともに働けなくなっている事は分かり切っている。
最も手っ取り早く思い浮かぶのは息子の聡だ。
しかし、この前かなり毟ったから今は少ないか。
いや、聡のバイトの時給を考えるともう少しあるはずだ。
それと合わせて、何人か知り合いから引っ張れば今週楽しむ分くらいは確保できるはず……。
「お金、困ってますか」
「ああん?」
頭の中で皮算用をしている最中に声をかけられた。
不機嫌に返事をした真紀は声の主を睨み付けて……固まった。
少女だった。
夜の街にいるには不健全な年齢。
高校生ぐらいか。
別に不良学生など珍しくも無い。
だが、そのパチンコのネオンに照らし出されるその姿を見て、真紀は頭が真っ白になる。
こんなに美しい少女を見た事が無かったからだ。
いや、覚えてはいる。
あの時聡の横にいた少女だ。
だが、今目の前にいる薄く笑みを浮かべる少女は、余りに蠱惑的に見えた。
ある意味、この猥雑な街に相応しい破滅的な空気を身に纏っているのだ。
自分を魅了しようと意識してそうしているという事が分かった。
真紀に同性の趣味は無い。
それなのに、自分の女が疼いてしまうのを自覚した。
「な、なあに?」
思わず奇妙な猫なで声を出してしまう。
「いえ、だいぶん厳しそうな感じだったので」
パチンコの看板を見上げながら少女が言う。
「まーね……何?聡の彼女じゃない、お金くれんの?」
少女はにっこり笑う。
「マコっていいます、ちょっと遊んでくれたら、お金あげますよ」
「遊ぶ?」
「ええ……実は私、女の人にしか興味がないんです」
「へえ?」
だとしたら、と微かに下卑た期待が頭をよぎる。
真紀は自分でも驚いたが、この少女は相手の性癖すら捻じ曲げる色香を発している。
「ですから、ちょっと貴女に興味あるんです」
そう言って近づくとひた、と真紀の腕に触れる。ぶわ、とその触れられた箇所から鳥肌が立った。
快感によって鳥肌が立ったのは初めてだ。
するりと指を絡めて手を握られると、そこから腕を伝って脳を侵食されるようだった。
「あ、あ、あ、あ……?」
真紀は手を引かれるがままにふらふらと妖しいネオンの輝くホテルに入った。
夢見心地のまま部屋に入り、シャワーを浴び、気付けばベッドの上でその夢のように美しい少女と向かい合っていた。
自分は下着で、少女は服を着たままだ。
脱がせたい、という思いとこのままマコの好きなようにさせたい、という思いが同時に湧き上がる。
マコは蠱惑的な微笑を崩さず、そっと真紀の肩を押してベッドにうつ伏せに寝かせた。
腰の上に体重を感じ、茹だった頭がこれから至上の快楽を与えられるのだと確信して全身の力が抜ける。
マコの指が背筋をゆっくりとつたう、指の通った後を快感がさざ波のように追って駆けのぼる。
うっとりと視線を枕から上げると、ホテルの鏡張りの壁に跨るマコの姿が映って見える。
(え?)
目が合った。
マコは、鏡の中の真紀の顔を見ている。
つい先程までの微笑は無く、無表情だ。
暗い目をしている。
ひょい、と右手が持ち上げられる。
ゴグン
「ーーーーーーーーー」
真紀の身体の中にだけ響く鈍い音が鳴り。
高くなり過ぎて声にならなかった悲鳴が口から洩れる。
快楽の予感に弛緩していた分、不意打ちの激痛が脳に突き刺さる。
体の火照りが、一気に冷や汗に変わる。
「折ってませんよ、外しただけです」
平坦な声でマコが言う。
凄い力で背後から髪を掴んで持ち上げられ、潰れた悲鳴が上がる。
「さて、野木さん、要求したい事があります」
無理矢理上を向かされた真紀の顔を覗き込みながらマコが言う。
「あなたの息子である聡さんに、金輪際近付かない事を誓って下さい」
「……っの……ガキぃ……!」
ゴグン
警告も無く、もう片方の肩も外された。
「きはっーーーー」
また悲鳴が上がる。
反射的に腰を跳ねさせて振り落とそうとするが、マコは微動だにしない。
体重で要点を抑えられている。
「ご心配なく、当分たからずに済むくらいのお金は払いますよ、治療代も、ね」
ぞろ、と、何か大きな影がホテルの照明を遮った。
激痛に耐えながら鏡を見た真紀は、一瞬その痛みすら忘れてそこに映る光景を凝視した。
マコの背中から、蝙蝠のような翼が生えている。
そして、額に一対の角。
どう見ても作り物には見えない。
「あがっ……あっ……悪魔……」
「さあ、悪魔でしょうか、何でしょうか」
無意識の呟きに、無表情だったマコは冷たく微笑んだ。
真紀は荒事に巻き込まれた経験は何度もある。ヤクザに殴られた事だってある。
それなりに肝は座っているつもりだった。
だが、目の前のこれは完全に常識から外れた存在だ。
「まあ、誓わなくてもいいですよ、そうした時どうなるか想像できないほど頭が悪いならそれもいいでしょう」
ゆっくりと、腰の上から体重が移動する。
真紀は動けない。激痛と、何より恐怖に。
恐ろしくて直視できないが、何をされるか分からないのが怖いから鏡越しにマコの動きを見る。
マコは後ろに置いてあったバッグからごそりと、札束を取り出す。
両手に札束を持ってまたベッドに戻ってくると真紀の上に跨り、両手を高く掲げた。
「どうぞ」
バラバラと札が頭の上に落ちて来る。
美しい少女の悪魔が、金を頭上から降らせる。
質の悪い風刺画のようだった。
ベッドの上に札束をまき散らした後、マコはベッドの上で震える真紀をそのままにバッグを持ってドアに歩いて行く。
「それでは、もう二度と会わない事を期待します」
「さとし……」
ぴた、とドアノブに掛けたマコの手が止まる。
「聡を……どうする気……」
部屋の空気が急激に張り詰めた。
ドアの方から射殺すような視線を感じた。
それだけで心臓がぎゅん、と収縮する。
「今更お前に関係ない」
抑えきれない怒気を無理やりに抑えたような、無機質な声が響き。
ドアが閉まった。
・
・
・
これから少し、会えるかな
真子は公園のベンチに座り、スマホに届いたメッセージを見ている。
久々に送られてきた聡からの言葉だ。
周辺の木々はもう秋色に染まり、風が吹けば落ち葉がかさかさと音を立てて舞う。
子供達が遊ぶ時間も過ぎ、沈みかけた太陽が茜色の夕日を投げかけている。
そんな人気のない公園で座って待つ真子の元に、聡が歩み寄って来た。
ジャケットを着込み、肩から鞄を下げている。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
一言挨拶を交わすと、聡は真子の隣に腰を下ろした。
「……」
「……」
挨拶以降、二人は何も言葉を交わさない。
真子は聡の横顔を見る。
じっと目を伏せているその横顔に、何故だか真子は小さな子供の顔を見た気がした。
昔、今の家族に出会う以前の痩せこけて小さい子供の姿。
不思議な事にそのこけた頬や痩せた手足まで、詳細に思い浮かべる事ができた。
「やらないんですか」
真子から声をかけた。
聡は初めて真子の方を向く。
疲れたような、悲しむような表情が夕日に照らされている。
言葉には答えず、聡はまた顔を正面に戻した。
日が沈み、周囲は徐々に暗くなってくる。
聡は小さく、溜息をついた。
「やらないよ」
「そうですか」
真子は聡の横に置いてある鞄を見た。
「中、見ていいですか」
「いいよ」
鞄に手を伸ばして手元に引き寄せる。
重い。
ガシャガシャと中から金属の音が鳴る。
チャックを開くと、中から革製の鞘に収まったサバイバルナイフが現れた。
その他には消臭剤とガムテープ、そして大量のぼろ布。
「予想してた?」
「してましたけど……」
真子がそれを鞘から引き抜くと、黒光りする刃が現れる。
夕日にかざしてしげしげと観察する。
「想像より刃渡りが大きくてびっくりです、どこで買ったんですかこれ」
「通販」
「へー」
「警察に行く?」
「行きませんよ、何もされてませんし」
「それで俺を刺す?訴えないよ」
「嫌ですよ、何ですかそれ」
「じゃあ、しまった方がいいよ、通報されるかも」
「まあ、銃刀法違反ですね」
そう言って鞘に入れると、鞄にしまった。
聡はまた溜息をつく。
本当に、疲れ果てたような溜息だった。
「お母さんからですか」
「「あの女は悪魔だから殺せ」だって」
「まぁー……間違ってないか……」
「出来なかったよ」
聡は背を丸めて言った。
「出来なかったなぁ……」
もう一度言った。
「いっそ警察に突き出してくれないかな」
「しませんよ、奈津美が悲しむじゃないですか、思いとどまったのも今の家族の為なんでしょう?」
「……」
「あのですね、私、親に好かれてないんです」
「……?」
唐突に関係のない話を始めた真子を、聡は怪訝な顔で見る。
「何でも買って貰えましたよ、何でもね、でも、それが愛情じゃないってすぐに気付くんです、子供って」
真子の表情は真剣だ。
ただ手間をかけたくないから、お金で手間がかからずに済むならそれでいいやって考えなんです。
だから物をねだるのを止めてあの手この手で気を引こうとしたんです、わざと非行じみた事したりして。
でも駄目だったんです、本当に、心の底から自分がどうでもいいと思われてる。
思われてすらいない事を自覚させられました。
親にとって価値がないからずっと自分に価値を見出せないんです、ずっと空っぽなんです。
それを埋めるために沢山の女の人と関係を持ちました。
でも、寂しさを埋めるためにそうしても、相手から向けられる価値観が透けて見えるとすぐ嫌いになりました。
不思議なくらい殆どの人が持ってる価値観です、他は賢くても、そこだけ判で押したみたいに同じなんです。
親に愛されてなくても「お金持ちで美人だから人生簡単なんだろう」って。
本気でそう思ってる人が驚く程多いんです。
そうして親がうっとおしいとか、怒る親がウザイとか、私がどんなに欲しがっても手に入れられなかった幸せをひけらかしてくるんです。
さらに最悪なのは「生まれた時からイージーモードなんだからハードモードの自分達に譲れ」みたいな考えを無意識に押し付けて来るんです。
そんな考えを持たない人に稀に出会えても、本気で愛してもらえないんです、女同士だから。
なっちゃんは、もしかしたら運命の人かもって思ってたんです。
受け入れて貰えるかもって淡い期待を抱いてたらさっさと男とくっ付きやがったんです、ちくしょうめ。
一気に語り終えてふー、と息をついた。
そうしてあっけにとられた表情をしている聡に言った。
「これが、私の不幸自慢です」
「……お、おう……」
「では、どうぞ」
「え?」
「そちらの「不幸自慢」どうぞ」
「……」
聡は視線を泳がせたのち、つっかえながら語り始めた。
「不幸って思われるのが嫌だ」
「思われるのが嫌?」
皆「大変だったね、辛かったね、苦しかったね」って同情してくるんだ。
確かに酷い事されたし、ろくに飯も食わせて貰えなかった。
でも、母さんと暮らしてた時間を全部ひっくるめて「不幸」の一言で済まされるのがたまらなく嫌なんだ。
絶対に、不幸一色じゃなかったんだよ。
学校からの帰りにさ、たまに自転車に乗った母さんに会うんだ。
多分、パチンコの帰りなんだけど勝って機嫌がいい時は「乗りな聡」って言って後ろに乗せくれるんだ。
よせばいいのに横の車線走る車と張り合ったりして「負けねえぞオラッ」とか言って汗だくになるまで漕いでさ。
当たり前だけど車に勝てる訳無くて、「あーくそっ、次は負けねえぞ、なあ聡!」とか言ってさ……。
スーパーの残り物いっぱい貰えた時とかわざわざ外で食ったりして。
機嫌がいいと「いっぱい食えよ、それで一週間分な!」とか、冗談言ったりさ……。
でもさあ、わかってんだよ。
そんなのされてきた事に対して小さすぎる幸せだって。
でも、大切なんだよ、腹が減ったり辛かったりもう死にたいって思った時。
こういう小さな事思い出して「大丈夫、俺不幸じゃない、幸せだ」って必死に考えて……。
ああ、やっぱり不幸だったのかなあ、誤魔化してるだけなのかなあ。
結局、母さんが俺を金づるにしか思ってないって本当は気付いてて。
それを認めたくないから不幸じゃないって思いたいだけなのかなあ……。
「不幸ですよ」
聡のとめどない話を聞いていた真子は、断定するように言った。
「そうかな……」
「百パーセントじゃないですよ、でも、自分で言ってたじゃないですか」
「自分で?」
「人生、全部が不幸でも全部が幸せでも無くて、割合じゃないですか」
「割合……」
「幸せな部分もあったんでしょう、でも、幸せの割合が少なすぎます、お兄さんには幸せが足りてません」
「なるほど」
「私も足りないんです、人からどう見えようとも」
「……ははは」
聡は小さく笑った。
「足りない同士かあ……傷の舐め合いみたいで情けないな」
「いいじゃないですか、舐め合って癒されるならどんどん舐めあったら」
真子は表情を和らげた。
そうして、後々何度思い返しても「あれはいくら何でも無い」と後悔する事になる言葉をぼそりと言った。
「どうせなら、別の所も舐め合いますか?」
・
・
・
真子に何かを言われた聡が驚いたような反応をし、真子がその聡の手を引いてどこかへ連れて行く。
「堕ちたな」
と、それを文字通り草葉の陰から見ていた影がキリッとした顔で呟いた。
「堕ちたな、じゃねえよ何だ今の……何かナイフ出してなかった……?」
そのそばに一緒に屈んでいた影がドン引きした様子で呟く。
「まあ、危ないとこだったね、兄ちゃん思い込み激しいから……」
奈津美だった。
帽子を目深にかぶった若干わざとらしいくらいの変装ルックだ。
「事件では……?」
隣の川内も似たような服装だ。
デートの名目で連れ出されたと思ったら謎の尾行に付き合わされて、その相手が奈津美の兄で。
なおかつその兄の鞄からどう見ても凶器にしか見えない刃渡りのナイフが現れたのを見てから顔を青くしている。
「そうなりそうになった時に、兄ちゃんの後頭部に飛び蹴りかますための尾行だったからね」
「お前の兄ちゃんヤバすぎるだろ、というか、そんな刃傷沙汰に首突っ込もうとするな」
「あたしなら大丈夫、知ってるでしょ?」
そう言って笑う奈津美の瞳が一瞬赤く光る。
普通の日本人には無い、というか、カラーコンタクトでもない限り存在しない瞳の光彩。
知っている、奈津美は人間ではない。
「だからって怪我していい訳ないだろ、か……彼女が危険な目に遭うのは嫌だし」
「彼女」という部分で恥ずかしそうにする川内を見て奈津美はぺろりと舌なめずりをする。
「あ、今のアウト、もう食べたくなった」
「えっ、いや、尾行は!?」
「あの二人ならもう大丈夫だよ、ほら、いこ」
「ちょっ」
そう言うと、おろおろする川内をがしっと捕まえていずこかへと連れ去ってしまうのだった。
「……」
広く、物の少ない……ともすればミニマリストを思わせる殺風景な部屋。
そんな部屋に満ちているのは濃厚な雌の匂い。
ベッドの上で二人の女……いや、女と少女が身を寄せ合い、荒い息を吐いている。
一人は歳の頃二十台半ばの成熟した身体つきのセミロングの女性。
普段はバリキャリ然とした理知的な光を湛えた目はとろんと蕩けている。
一人は真子。
その雪のように白い肌をしっとりと汗ばませ、目を閉じている顔は精緻な人形のようだ。
「触らせてくれるなんて、珍しいのね……」
頬にかかった髪を払いながら女が言う。
「……」
真子は目を開く。
女は気付く、その目はこちらを向いていても、女の事を見ていない。
「嫌な事、あった……?」
「……ううん、別に……シャワー、浴びるね」
そう言うと真子はベッドを下りた。
「……」
背後に感じる寂しそうな視線を感じ取り、振り返る。
「……一緒に入る?」
「いいのかしら?」
「どうぞ」
二人の美しい肢体が浴室に消え、長い間水音が響いた。
・
・
・
女が帰った後、真子はベッドの上で胎児のように膝を抱えて横になっていた。
身体は満たされている、身体だけは。
ぼんやりと過去を思い浮かべている。
初恋はいつだったか。
中学生の頃。
友達の女の子を好きになって、独り占めしたいと思った事がある。
そこまで深く考えなかったがあれは恋愛感情だったと思う。
でも、その子には好きな男の子がいて……その男の子に自分は告白された。
無論、断った。
その次の日から女の子は自分と口を利かなくなった。
それで終わりだった。
他にもあった。
今の人のようにずっと年上の人と逢引を繰り返して、本当に好きになった事がある。
でも、いくら自分が相手を夢中にさせても、身体で篭絡しても。
それは相手にとって「火遊び」であって、自分をずっと一緒に居る相手とは捉えてはくれない。
だから遠回しに「飽きた」と伝えて会わなくなった。
本当はそんな事は言いたくなかったし、別れたくなかった。
だけど、その関係を続ける事が自分にとって苦しくなり過ぎた。
ずっとそうだ。
自分は人にとって快楽を与えてくれる相手、綺麗で可愛くて、連れて歩くと自慢できる存在。
それだけだ。
ヴヴッ
ベッドの上のスマホが振動する。
手を伸ばして見て見ると、聡からのラインだった。
お疲れ様、今度ピクニックにでも行きませんか。
それを見て、すぐにベッドに放り投げて体を丸めた。
(……ピクニック……?)
もう一度、手を伸ばしてスマホを引き寄せた。
・
・
・
「今時ピクニックとかだいぶ珍しいから思わず来ちゃいましたよ」
「まあ……自分が来たいからついでにって感じだけどね」
雲一つも無い晴天の元、二人は電車でやって来たコスモス園にいた。
周囲は家族連れが多く、子供のはしゃぐ声が遠巻きに聞こえる。
秋に差し掛かっているとはいえまだ夏の名残の日差しは強い。
「……日傘を持っている男の人初めて見ました」
「今時は珍しくないよ、はい」
「……どうも」
傘を差し、二人で歩き始める。
薄桃色に咲き誇るコスモスの絨毯を見ながら、さわさわと風に吹かれて歩く。
「……」
「……」
無言で歩く。
気になって聡の方を見ると、遠い目でその色彩を見つめていた。
無理に会話をしようという様子ではない。
自分が来たかったから、というのは本当のようだ。
「……もう、なっちゃんという繋がりもありません、どうして声を掛けたんですか」
「友達だしね」
「その設定、まだ続けるんですか」
「嫌ならいいよ」
「別に嫌ではないです」
「じゃ、続けよう」
会話と言う会話もなく花を眺めながら歩く。
風が吹き渡り、日差しが足元を照らす。
子供の声が響く。
コスモスは綺麗だ。
「ちょっと早いけどお昼にする?」
「はい」
「待ってて」
聡はリュックを下ろすと、レジャーシートを敷き、その上に弁当を広げ始めた。
弁当は聡が用意すると事前に聞いていたので真子は何も持っておらず、聡を手伝った。
お重形式の弁当箱で、次々広げていくと予想以上の品数とボリュームが広がった。
「これは……何とも……」
全て広げ終えて真子は思わず呟く。
ふりかけで色づけられたおにぎり。
ウインナー、唐揚げ、ハンバーグ、肉巻き等の肉類。
ブロッコリー、トマト、アスパラ、スパゲティーのサラダ類。
筑前煮、煮豆、卵焼き等の和食類。
カットフルーツ類。
彩りも豊かで、どう見ても手間のかかっている品々だ。
「おにぎりはちゃんとラップ越しに握ったから衛生面は大丈夫だよ」
麦茶を注ぎながら聡が言う。
「私は気にしません」
「そっか、気にする人は気にするからね」
お茶とおしぼりと割り箸を渡すと、弁当を挟んで真子の向かいに胡坐をかいて座る。
真子も膝を崩して座る。
「「いただきます」」
二人で手を合わせた。
「中身はおかか、昆布、梅干し、明太子、牛しぐれ、ね、好きなの取って」
一つ一つ指差して説明する。
真子はおかかを取った。
聡は昆布を取る。
「……おいしいです」
「うん、良かった」
筑前煮に箸を伸ばしてタケノコを食べた時、真子は口元に手をやって目を見開いた。
「おいしい……これ、既製品じゃなくて……」
「うん、俺が煮た」
「これって……これって……なっちゃんの……」
「あー……弁当に入れてやってたな」
そう、奈津美の弁当をちょっと分けて貰った時の筑前煮だ。
お母さんが料理上手なのだと思っていたが、まさか……。
「親が忙しくて、朝は弁当いつも俺が作ってるよ……ショックだった?」
何とも言えない表情をしている真子に苦笑しながら言う。
「……いつもなっちゃんに美味しい物を作ってくれてありがとうという気持ちと……あむ」
唐揚げを一つ食べて、ジト目になる。
「なっちゃんの身体がお兄さんの料理で作られているという嫉妬で半々です」
「何だそりゃ」
「他も全部お兄さんが?」
「そうだよ」
「私への当てつけですか」
「その通り」
「ひどいです」
聡は笑った、真子も少し笑った。
その後、二人はただ食事に集中した。
急ぐことなく、ゆっくりとしたペースで。
青空を、コスモスを見ながら、ゆっくりと。
「本当においしいこれ……ほんと……」
呟くような言葉が途切れた。
真子の両目から、すぅー、と涙が零れた。
真子は箸を置いてハンカチを取り出し、涙を拭った。
箸を持って食事を再開しようとしたが、また、涙が溢れてくる。
キリがないので、目元を拭いながら食べた。
「んっ……あむ……んっ……なっちゃん……うっ……なっちゃん……」
肩を震わせながら食べる。
「……」
聡は真子の方は見ずに、ただ黙々と食べている。
「なっちゃん……なっちゃん……」
コスモスが、風に揺れている。
・
・
・
空が茜色に染まる頃、二人は駅前に立っていた。
「今日はありがとうございます、ご馳走様でした」
「いえいえ、それじゃあ」
手を振ると、聡は背を向けた。
「あの」
「ん?」
真子が呼び止めた。
「本当に、美味しかったです……その、機会があったら」
「聡ぃ?ね、聡だよね?」
声が割り込んだ。
女の声だった。
視線を向けると派手な服装をした女がこちらを向いて立っていた。
化粧が濃くてはっきりとはわからないが、装いの割にかなり年齢がいっているように見える。
女は聡から隣の真子へ視線を移すと、値踏みをするように頭からつま先まで視線で舐めた。
「……」
「なあにぃ聡、彼女?すっごい可愛い子じゃあん、お金持ってそうだし」
真子は不快さを隠さず表情に出したが、女は気にした様子もない。
ニヤニヤ笑うと聡に近付いた。
「ね、今幾らある?」
「……今はこれだけ」
聡は財布を取り出すと、中にある札類を全部出した。
「ふーん……バイトしてんのにそんだけ?無駄遣いしてんじゃないの」
それをがさりと受け取ると、自分の財布に突っ込む。
「ほら、ほら、まだあるじゃん」
「……」
聡は黙って小銭類も手に出した。
「ほれ、ここ、ここ」
財布の小銭入れを開く。
そこに、聡は一円も残さずじゃらじゃらと流し入れた。
「あの、すみません」
真子が耐えかねたように声を掛ける。
「何?」
女が不機嫌そうに応える。
「今からお兄さん、電車に乗るんですが」
「だから?あたしはね、この子の母親なのよ、親子間に他人が首突っ込むんじゃないわよ」
真子は思い出していた。
聡は養子縁組で引き取られて来た子供であり、それ以前、彼を虐待していた親がいた。
「ね、聡、この彼女からもちょっと援助してもらってよ、お母さんねえ、今すっごい困ってるの」
「彼女じゃないよ」
「あぁ?じゃ、友達ぃ?どっちでもいいよ、ね、ね、お金持ちなんでしょ?ちょっとぐらいいいじゃないかさあ」
「それは出来ないよ」
「はぁ?」
声のトーンが下がり、女の表情が歪む。
「……ごめん、それは出来ない」
「聡」
女が低い声で呼ぶと、聡はその目に明らかに怯えの色を浮かべた。
「……」
真子は無言で二人の間に割って入ろうとしたが、聡が来るな、と言うように手で制した。
女は怯える聡を睨んでいる。
「どした?その子達何?」
と、女の後ろから声が掛かった。
スーツ姿に高そうな指輪、時計、革靴、金に染まった髪、一目でそういう職業の者とわかる雰囲気だ。
「何でもなぁい♪」
ぱっと表情を変えて女がその男に駆け寄った。
「ね、ね、それよりさ、臨時収入あったのよぉ♪もう一軒いこうじゃなぁい♪」
そう言って男の肩にしな垂れかかると、そのまま繁華街の方へ行ってしまった。
「……」
聡は大きなため息をつくと、真子に頭を下げた。
「ごめん、嫌なもの見せちゃって」
「お兄さん」
「今の事、奈津美に内緒にして欲しい」
「ですが……」
「頼む、この通りだ」
手まで合わせてくる。
「交通費はどうするんですか、電車は……」
「それについてだけど、もし奈津美から俺の事について聞かれても用事があるから遅くなったって……」
「待って下さい、徒歩で行く気ですか?すごい距離ですよ」
「だから、口裏を合わせて欲しいんだ」
「お金なら私が……」
「駄目だ、白木さんとお金の貸し借りはしたくない」
財布を出そうとする真子の手を抑える。
「勝手なお願いしてごめんね、それじゃあ」
そう言って、呼び止める間もなく足早に去ってしまった。
駅に取り残された真子は、消えて行く聡の背を見送るしかできなかった。
・
・
・
家に帰った真子はシャワーを浴びていた。
滑らかな髪を、肌を、熱い湯が滑り落ち、洗い流していく。
だが清められていく身体と裏腹に、胸に何かずっしりと重い物があるようだった。
あの時、あのピクニックで、真子は何か救われたような、そんな気持ちになっていた。
胸が軽くなるような、切ないけれども、すっきりするような、そんな心地になっていた。
それが、別れ際の出来事でべったりと黒く汚されたような気分だった。
心臓がどくどくと脈打つのがよく聞こえる。
胸がむかむかする。
何かどうしようもなく黒い感情が渦巻いている。
どん!
それに耐えかねたように、真子は浴室の壁を拳で叩いた。
痛い、自分は何をしているのか。
何を。
お兄さん。
ぽっかりと、聡の事が頭に浮かんだ。
まだ、歩いているだろうか。
駅から家までは相当に遠い、まだ辿り着いていない可能性は十分ある。
黙々と歩いているのだろうか。
夜が更けてもまだ暑いこの季節に、汗だくになりながら、
母親に、あの女に有り金巻き上げられて。
文句一つ言わずに……。
「……かつく……」
無意識に口から言葉が零れる。
呟く事で、自分の抱える黒いモヤモヤの正体が輪郭をはっきりとさせ始めた。
「……むかつく……」
どん!
と、また拳が痛むに関わらず、壁を叩く。
「ムカつく」
白木真子は、どうしようもなく苛立っていた。
・
・
・
「真子ちゃん、悩み事でもある?」
「ん?どうしてですか?」
「いや、何となく」
学校での休み時間、奈津美に言われて聞き返した。
「別に大丈夫ですよ」
「そっか、それならいいんだけど……まあ、何かあったら遠慮なく相談してよね?」
「ふふ、ありがとうございます」
純粋に嬉しかった。
真子は自分の機嫌を表に出さない事に慣れているので、他の友人達は気付かない。真子だけがそう言ってくれた。
そう、表に出さないだけで、あの一件からずっとだ。
自分でも何に対してそんなに苛ついているのか、その正体もわからないままにモヤモヤを抱えている。
いや、原因はわかっている、奈津美の兄、聡の事だ。
見ていて胸糞悪かったのは確かだが、そこまで自分が引きずる理由が分からない。
そして、聡には妹に対して口止めされている。
奈津美に相談する訳にはいかない。
表面上、自分の心の揺れを全く表に出さないままに学校生活を滞りなく送り、家に帰る。
どさり、とベッドに倒れ込む。
疲れる。
ストレスを抱えていると体に応える。
(……嫌だな……)
スマホを取り出してラインを見る。
互いに何も連絡は取っていない。
ピクニックに誘われた言葉を最後に途切れている。
(……ピクニック、楽しかったな)
いや、楽しかったというよりは、癒された、というか……。
だが、それを思い出すとあの場面も合わせて思い出してしまう。
あの母親の顔。
あの時の聡の顔……。
親。
真子はベッドから顔を上げて自分の部屋を見る。
必要最低限の物しか置いていない殺風景な部屋。
本当は色々とある。
人形、ぬいぐるみ、ゲーム機からポスターまで。
およそ子供が欲しがるであろう物はあらゆるものを持っている。
だが、それらは全て物置に仕舞いこまれて埃を被っている。
全て親にねだって買って貰った物だ。
共働きをしている両親は殆ど家に居る事が無い。
代わりに欲しいと言った物は何でも買って貰えた。
そう、何でもだ。
色々な物をねだり、色々な物を買ってもらい……。
それでも真子は満たされなかった。
あれもこれも買ってもらって、満たされなかった。
両親はそんな自分に辟易していたように思う。
今だから分かるが、自分は本当は物が欲しくておねだりをしていた訳ではなかった。
自分は叱って欲しかったのだ。
いい加減にしなさい、と。
他の子達がおねだりをするとそうされるように。
もっと言うと自分に興味を持って欲しかった、構って欲しかった。
だが両親は怒りもせず、面倒そうに何でも買い与える。
ちゃんと面倒見てるでしょう?だから面倒掛けないで。
そう言外に言われているようで、実際にそうだった。
やがて、真子はねだるのを止めた。
買って貰った物を見るのも嫌になって物置に全て押し込んだ。
そうして、真子は諦めた。
親の事を。
興味を持ってくれない親。
搾取する親。
どっちがマシなのだろうか。
「……」
馬鹿らしい、どっちがマシも何もあるものか。
とにかく今はこのささくれ立った心をどうにかしたい。
ベッドに寝そべったままスマホを立ち上げ、枕元にあるワイヤレスイヤホンを耳に押し込む。
アプリでヒーリングミュージックを流し、目を閉じる。
「……」
落ち着かない。
いや、むしろ落ち着いた旋律に神経を逆撫でされているようにすら感じる。
舌打ちを打って曲を止め、他に何か無いか選曲する。
ふと、指が止まった。
画面に映るジャケットは月夜を背景に抽象的な悪魔?が描かれている下手な絵。
「luna」(ルナ)というバンドらしい。
覚えている。
奈津美が好きなバンドだ。
スマホで聴いている所を、彼女の事なら何でも知りたい自分がちょっと聴かせてもらった。
聴かせてくれる前に「多分、マコには合わないと思うなあ」と苦笑していた。
実際、自分には合わなかった。
というか、彼女がメタルを聴いているとは意外だった。
合わないとは思ったが、同じ物を欲しいという思いでデータを購入していたのだった。
それを、再生してみる。
「〜〜〜〜()|=||())|||$$%$%’(〜〜〜!!!!!!」
日本語とも、英語とも、そして他のどの言語とも似ていない。
騒音のような声と音が耳に雪崩れ込む。
「何語?」と聞いたらどうやら創作された言語で意味は無いらしい。
初めて聴いた時には、思わずすぐに耳から外してしまったうるさい音。
だが、今は不思議な程その音がしっくりくる。
怒りだ。
この歌は怒っている。
自分の内に秘められた怒りを宥めるのではなく、誤魔化すのではなく、引きずり出してくる。
掠れて濁っていながら、奇妙に色っぽいその女性ボーカルの声が脳に突き刺さる。
何で?
どうして?
どうして、こんなに苦しい事ばっかり。
ままならない事ばっかり。
理不尽な事ばっかり。
誰もかれも傷付けあって、傷付いて。
あいつ
あの女
あのババア
くそったれが
どれだけお兄さんに寄生してきた?
どれだけお兄さんから巻き上げて来た?
どれだけお兄さんを小さい頃から傷付けて来た?
あんなに、
あんなに優しい人を、悲しい人を、親と言うだけで。
そうだ、怒れ、怒れ、
見て見ぬふりをするな、しょうがないと妥協するな、当たり前だと納得するな、そういうものだと諦めるな。
女の声が叫ぶ。
当然、言葉が聞き取れる訳ではない。
でもそう言っている気がする。
これはいけない、危険だ。
自分の中の理性的な部分が叫んでいる。
聴くのをやめろ、自分を抑えろ、と。
真子はベッドの上で体を胎児のように丸めた。
心臓がどくどくとうるさい。
身体が熱い。
何だか……。
何だか、頭と、お尻と、背中がうずうずする。
・
・
・
「クッソ、ざけんな」
野木真紀(のぎまき)は悪態をつきながらパチンコ店を出た。
大負けだ。
引き際を間違えるのは毎度の事だが、今回は明らかに負け過ぎた。
タバコ代もケチる事態になっている。
これではお気に入りのホストと遊ぶ事もできやしない。
まず、金を調達する方法を思い浮かべる。
その中にまともに働くという選択肢は存在しない。
自分はもはや体も心もまともに働けなくなっている事は分かり切っている。
最も手っ取り早く思い浮かぶのは息子の聡だ。
しかし、この前かなり毟ったから今は少ないか。
いや、聡のバイトの時給を考えるともう少しあるはずだ。
それと合わせて、何人か知り合いから引っ張れば今週楽しむ分くらいは確保できるはず……。
「お金、困ってますか」
「ああん?」
頭の中で皮算用をしている最中に声をかけられた。
不機嫌に返事をした真紀は声の主を睨み付けて……固まった。
少女だった。
夜の街にいるには不健全な年齢。
高校生ぐらいか。
別に不良学生など珍しくも無い。
だが、そのパチンコのネオンに照らし出されるその姿を見て、真紀は頭が真っ白になる。
こんなに美しい少女を見た事が無かったからだ。
いや、覚えてはいる。
あの時聡の横にいた少女だ。
だが、今目の前にいる薄く笑みを浮かべる少女は、余りに蠱惑的に見えた。
ある意味、この猥雑な街に相応しい破滅的な空気を身に纏っているのだ。
自分を魅了しようと意識してそうしているという事が分かった。
真紀に同性の趣味は無い。
それなのに、自分の女が疼いてしまうのを自覚した。
「な、なあに?」
思わず奇妙な猫なで声を出してしまう。
「いえ、だいぶん厳しそうな感じだったので」
パチンコの看板を見上げながら少女が言う。
「まーね……何?聡の彼女じゃない、お金くれんの?」
少女はにっこり笑う。
「マコっていいます、ちょっと遊んでくれたら、お金あげますよ」
「遊ぶ?」
「ええ……実は私、女の人にしか興味がないんです」
「へえ?」
だとしたら、と微かに下卑た期待が頭をよぎる。
真紀は自分でも驚いたが、この少女は相手の性癖すら捻じ曲げる色香を発している。
「ですから、ちょっと貴女に興味あるんです」
そう言って近づくとひた、と真紀の腕に触れる。ぶわ、とその触れられた箇所から鳥肌が立った。
快感によって鳥肌が立ったのは初めてだ。
するりと指を絡めて手を握られると、そこから腕を伝って脳を侵食されるようだった。
「あ、あ、あ、あ……?」
真紀は手を引かれるがままにふらふらと妖しいネオンの輝くホテルに入った。
夢見心地のまま部屋に入り、シャワーを浴び、気付けばベッドの上でその夢のように美しい少女と向かい合っていた。
自分は下着で、少女は服を着たままだ。
脱がせたい、という思いとこのままマコの好きなようにさせたい、という思いが同時に湧き上がる。
マコは蠱惑的な微笑を崩さず、そっと真紀の肩を押してベッドにうつ伏せに寝かせた。
腰の上に体重を感じ、茹だった頭がこれから至上の快楽を与えられるのだと確信して全身の力が抜ける。
マコの指が背筋をゆっくりとつたう、指の通った後を快感がさざ波のように追って駆けのぼる。
うっとりと視線を枕から上げると、ホテルの鏡張りの壁に跨るマコの姿が映って見える。
(え?)
目が合った。
マコは、鏡の中の真紀の顔を見ている。
つい先程までの微笑は無く、無表情だ。
暗い目をしている。
ひょい、と右手が持ち上げられる。
ゴグン
「ーーーーーーーーー」
真紀の身体の中にだけ響く鈍い音が鳴り。
高くなり過ぎて声にならなかった悲鳴が口から洩れる。
快楽の予感に弛緩していた分、不意打ちの激痛が脳に突き刺さる。
体の火照りが、一気に冷や汗に変わる。
「折ってませんよ、外しただけです」
平坦な声でマコが言う。
凄い力で背後から髪を掴んで持ち上げられ、潰れた悲鳴が上がる。
「さて、野木さん、要求したい事があります」
無理矢理上を向かされた真紀の顔を覗き込みながらマコが言う。
「あなたの息子である聡さんに、金輪際近付かない事を誓って下さい」
「……っの……ガキぃ……!」
ゴグン
警告も無く、もう片方の肩も外された。
「きはっーーーー」
また悲鳴が上がる。
反射的に腰を跳ねさせて振り落とそうとするが、マコは微動だにしない。
体重で要点を抑えられている。
「ご心配なく、当分たからずに済むくらいのお金は払いますよ、治療代も、ね」
ぞろ、と、何か大きな影がホテルの照明を遮った。
激痛に耐えながら鏡を見た真紀は、一瞬その痛みすら忘れてそこに映る光景を凝視した。
マコの背中から、蝙蝠のような翼が生えている。
そして、額に一対の角。
どう見ても作り物には見えない。
「あがっ……あっ……悪魔……」
「さあ、悪魔でしょうか、何でしょうか」
無意識の呟きに、無表情だったマコは冷たく微笑んだ。
真紀は荒事に巻き込まれた経験は何度もある。ヤクザに殴られた事だってある。
それなりに肝は座っているつもりだった。
だが、目の前のこれは完全に常識から外れた存在だ。
「まあ、誓わなくてもいいですよ、そうした時どうなるか想像できないほど頭が悪いならそれもいいでしょう」
ゆっくりと、腰の上から体重が移動する。
真紀は動けない。激痛と、何より恐怖に。
恐ろしくて直視できないが、何をされるか分からないのが怖いから鏡越しにマコの動きを見る。
マコは後ろに置いてあったバッグからごそりと、札束を取り出す。
両手に札束を持ってまたベッドに戻ってくると真紀の上に跨り、両手を高く掲げた。
「どうぞ」
バラバラと札が頭の上に落ちて来る。
美しい少女の悪魔が、金を頭上から降らせる。
質の悪い風刺画のようだった。
ベッドの上に札束をまき散らした後、マコはベッドの上で震える真紀をそのままにバッグを持ってドアに歩いて行く。
「それでは、もう二度と会わない事を期待します」
「さとし……」
ぴた、とドアノブに掛けたマコの手が止まる。
「聡を……どうする気……」
部屋の空気が急激に張り詰めた。
ドアの方から射殺すような視線を感じた。
それだけで心臓がぎゅん、と収縮する。
「今更お前に関係ない」
抑えきれない怒気を無理やりに抑えたような、無機質な声が響き。
ドアが閉まった。
・
・
・
これから少し、会えるかな
真子は公園のベンチに座り、スマホに届いたメッセージを見ている。
久々に送られてきた聡からの言葉だ。
周辺の木々はもう秋色に染まり、風が吹けば落ち葉がかさかさと音を立てて舞う。
子供達が遊ぶ時間も過ぎ、沈みかけた太陽が茜色の夕日を投げかけている。
そんな人気のない公園で座って待つ真子の元に、聡が歩み寄って来た。
ジャケットを着込み、肩から鞄を下げている。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
一言挨拶を交わすと、聡は真子の隣に腰を下ろした。
「……」
「……」
挨拶以降、二人は何も言葉を交わさない。
真子は聡の横顔を見る。
じっと目を伏せているその横顔に、何故だか真子は小さな子供の顔を見た気がした。
昔、今の家族に出会う以前の痩せこけて小さい子供の姿。
不思議な事にそのこけた頬や痩せた手足まで、詳細に思い浮かべる事ができた。
「やらないんですか」
真子から声をかけた。
聡は初めて真子の方を向く。
疲れたような、悲しむような表情が夕日に照らされている。
言葉には答えず、聡はまた顔を正面に戻した。
日が沈み、周囲は徐々に暗くなってくる。
聡は小さく、溜息をついた。
「やらないよ」
「そうですか」
真子は聡の横に置いてある鞄を見た。
「中、見ていいですか」
「いいよ」
鞄に手を伸ばして手元に引き寄せる。
重い。
ガシャガシャと中から金属の音が鳴る。
チャックを開くと、中から革製の鞘に収まったサバイバルナイフが現れた。
その他には消臭剤とガムテープ、そして大量のぼろ布。
「予想してた?」
「してましたけど……」
真子がそれを鞘から引き抜くと、黒光りする刃が現れる。
夕日にかざしてしげしげと観察する。
「想像より刃渡りが大きくてびっくりです、どこで買ったんですかこれ」
「通販」
「へー」
「警察に行く?」
「行きませんよ、何もされてませんし」
「それで俺を刺す?訴えないよ」
「嫌ですよ、何ですかそれ」
「じゃあ、しまった方がいいよ、通報されるかも」
「まあ、銃刀法違反ですね」
そう言って鞘に入れると、鞄にしまった。
聡はまた溜息をつく。
本当に、疲れ果てたような溜息だった。
「お母さんからですか」
「「あの女は悪魔だから殺せ」だって」
「まぁー……間違ってないか……」
「出来なかったよ」
聡は背を丸めて言った。
「出来なかったなぁ……」
もう一度言った。
「いっそ警察に突き出してくれないかな」
「しませんよ、奈津美が悲しむじゃないですか、思いとどまったのも今の家族の為なんでしょう?」
「……」
「あのですね、私、親に好かれてないんです」
「……?」
唐突に関係のない話を始めた真子を、聡は怪訝な顔で見る。
「何でも買って貰えましたよ、何でもね、でも、それが愛情じゃないってすぐに気付くんです、子供って」
真子の表情は真剣だ。
ただ手間をかけたくないから、お金で手間がかからずに済むならそれでいいやって考えなんです。
だから物をねだるのを止めてあの手この手で気を引こうとしたんです、わざと非行じみた事したりして。
でも駄目だったんです、本当に、心の底から自分がどうでもいいと思われてる。
思われてすらいない事を自覚させられました。
親にとって価値がないからずっと自分に価値を見出せないんです、ずっと空っぽなんです。
それを埋めるために沢山の女の人と関係を持ちました。
でも、寂しさを埋めるためにそうしても、相手から向けられる価値観が透けて見えるとすぐ嫌いになりました。
不思議なくらい殆どの人が持ってる価値観です、他は賢くても、そこだけ判で押したみたいに同じなんです。
親に愛されてなくても「お金持ちで美人だから人生簡単なんだろう」って。
本気でそう思ってる人が驚く程多いんです。
そうして親がうっとおしいとか、怒る親がウザイとか、私がどんなに欲しがっても手に入れられなかった幸せをひけらかしてくるんです。
さらに最悪なのは「生まれた時からイージーモードなんだからハードモードの自分達に譲れ」みたいな考えを無意識に押し付けて来るんです。
そんな考えを持たない人に稀に出会えても、本気で愛してもらえないんです、女同士だから。
なっちゃんは、もしかしたら運命の人かもって思ってたんです。
受け入れて貰えるかもって淡い期待を抱いてたらさっさと男とくっ付きやがったんです、ちくしょうめ。
一気に語り終えてふー、と息をついた。
そうしてあっけにとられた表情をしている聡に言った。
「これが、私の不幸自慢です」
「……お、おう……」
「では、どうぞ」
「え?」
「そちらの「不幸自慢」どうぞ」
「……」
聡は視線を泳がせたのち、つっかえながら語り始めた。
「不幸って思われるのが嫌だ」
「思われるのが嫌?」
皆「大変だったね、辛かったね、苦しかったね」って同情してくるんだ。
確かに酷い事されたし、ろくに飯も食わせて貰えなかった。
でも、母さんと暮らしてた時間を全部ひっくるめて「不幸」の一言で済まされるのがたまらなく嫌なんだ。
絶対に、不幸一色じゃなかったんだよ。
学校からの帰りにさ、たまに自転車に乗った母さんに会うんだ。
多分、パチンコの帰りなんだけど勝って機嫌がいい時は「乗りな聡」って言って後ろに乗せくれるんだ。
よせばいいのに横の車線走る車と張り合ったりして「負けねえぞオラッ」とか言って汗だくになるまで漕いでさ。
当たり前だけど車に勝てる訳無くて、「あーくそっ、次は負けねえぞ、なあ聡!」とか言ってさ……。
スーパーの残り物いっぱい貰えた時とかわざわざ外で食ったりして。
機嫌がいいと「いっぱい食えよ、それで一週間分な!」とか、冗談言ったりさ……。
でもさあ、わかってんだよ。
そんなのされてきた事に対して小さすぎる幸せだって。
でも、大切なんだよ、腹が減ったり辛かったりもう死にたいって思った時。
こういう小さな事思い出して「大丈夫、俺不幸じゃない、幸せだ」って必死に考えて……。
ああ、やっぱり不幸だったのかなあ、誤魔化してるだけなのかなあ。
結局、母さんが俺を金づるにしか思ってないって本当は気付いてて。
それを認めたくないから不幸じゃないって思いたいだけなのかなあ……。
「不幸ですよ」
聡のとめどない話を聞いていた真子は、断定するように言った。
「そうかな……」
「百パーセントじゃないですよ、でも、自分で言ってたじゃないですか」
「自分で?」
「人生、全部が不幸でも全部が幸せでも無くて、割合じゃないですか」
「割合……」
「幸せな部分もあったんでしょう、でも、幸せの割合が少なすぎます、お兄さんには幸せが足りてません」
「なるほど」
「私も足りないんです、人からどう見えようとも」
「……ははは」
聡は小さく笑った。
「足りない同士かあ……傷の舐め合いみたいで情けないな」
「いいじゃないですか、舐め合って癒されるならどんどん舐めあったら」
真子は表情を和らげた。
そうして、後々何度思い返しても「あれはいくら何でも無い」と後悔する事になる言葉をぼそりと言った。
「どうせなら、別の所も舐め合いますか?」
・
・
・
真子に何かを言われた聡が驚いたような反応をし、真子がその聡の手を引いてどこかへ連れて行く。
「堕ちたな」
と、それを文字通り草葉の陰から見ていた影がキリッとした顔で呟いた。
「堕ちたな、じゃねえよ何だ今の……何かナイフ出してなかった……?」
そのそばに一緒に屈んでいた影がドン引きした様子で呟く。
「まあ、危ないとこだったね、兄ちゃん思い込み激しいから……」
奈津美だった。
帽子を目深にかぶった若干わざとらしいくらいの変装ルックだ。
「事件では……?」
隣の川内も似たような服装だ。
デートの名目で連れ出されたと思ったら謎の尾行に付き合わされて、その相手が奈津美の兄で。
なおかつその兄の鞄からどう見ても凶器にしか見えない刃渡りのナイフが現れたのを見てから顔を青くしている。
「そうなりそうになった時に、兄ちゃんの後頭部に飛び蹴りかますための尾行だったからね」
「お前の兄ちゃんヤバすぎるだろ、というか、そんな刃傷沙汰に首突っ込もうとするな」
「あたしなら大丈夫、知ってるでしょ?」
そう言って笑う奈津美の瞳が一瞬赤く光る。
普通の日本人には無い、というか、カラーコンタクトでもない限り存在しない瞳の光彩。
知っている、奈津美は人間ではない。
「だからって怪我していい訳ないだろ、か……彼女が危険な目に遭うのは嫌だし」
「彼女」という部分で恥ずかしそうにする川内を見て奈津美はぺろりと舌なめずりをする。
「あ、今のアウト、もう食べたくなった」
「えっ、いや、尾行は!?」
「あの二人ならもう大丈夫だよ、ほら、いこ」
「ちょっ」
そう言うと、おろおろする川内をがしっと捕まえていずこかへと連れ去ってしまうのだった。
23/05/30 21:14更新 / 雑兵
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