連載小説
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前編
 「あ、ど……うも」

「お邪魔してます」

夏の猛暑がやわらぎ、虫の鳴き声から秋の気配を感じる季節だった。
学校から帰って玄関で靴を脱いだ中垣 聡(なかがき さとし)はそこで鉢合わせた人物にたどたどしい挨拶をした。
相手は表情一つ変えずに返事をする。
思わず竦み上がる。
別に睨まれた訳でも嫌な顔をされた訳でもない。
前述の通り、相手は無表情だ。
むしろ状況としては相手の方が自分の家にお邪魔しているのだから、こちらが挙動不審になるいわれはない。
だが、それでも気負いを感じさせるのはその少女の顔面偏差値の暴力。
ほっそりとした顎に首、通った鼻筋に小ぶりな鼻梁。
ぱっちりとした目に黒目勝ちな大きな瞳、それを彩る長い長い睫毛。
小さく、リップを塗ってもいないのにほんのり色づいて艶やかな弾力を示す唇。
その小顔を縁どる黒髪は、少しの動きでも天使の輪が輝く光沢と艶を有している
それは例えば女の子が化粧をする時に追い求める「完成形」。
そして過度に完成され、崩れた部分が無いが故の「愛嬌」の欠落。
それが相手にプレッシャーを与えるのだ。
視線を下げて見ると、その黒を基調にしたほんのりゴシック調の洋服に飾られる肉体もそうだ。
華奢な肩に、つんと上を向いて女性を主張する膨らみ。
細く、長く、整えられたネイルが良く似合う指。
日本人離れした高い位置の腰から伸びる長く、ほど良い肉付きのスレンダーな足。
女性の憧れを一部の隙も無く凝縮した存在。
それが白木 真子(しらき まこ)という少女だった。
ぺこ、と小さく会釈すると真子は妹のいる二階へスタスタと上がって行った。
無意識の緊張を解いて聡はため息をついた。
真子は妹の奈津美(なつみ)の同級生で友人だ。
時折こうして家に遊びに来るのだが、その度に聡は奇妙な緊張を強いられる。
それは、彼女の並外れた美貌だけが原因ではない。
聡は部屋に引っ込むとなるべく音を立てないように過ごし、玄関の開閉音で察して部屋から顔を出した。
「……帰ったか?」
「んー、帰ったよ」
「そっか……」
奈津美は部屋から顔を出している兄を不審そうに見る。
「兄ちゃん、もしかしてマコの事狙ってる?」
「何でそうなるんだよ?」
「家来るたびにめっちゃ意識してんじゃん」
「そりゃあ、あんだけ美人だったら思わず見るけど……狙ってるとかじゃねえし」
「そう?ならよかった、あの子兄ちゃんの事なんか完全に眼中にないから」
「言い方ぁ……」
そんな事はわかってる。
それは聡の見た目が冴えないからとか、そういう問題ではない。
学年が違ってもあれだけの容姿だ、下級生に凄い可愛い子がいるという噂は知れ渡っている。
そして、もう一つの噂も。

 白木真子は、同性愛者であると。

 最初に聞いた時には彼女に振られた男がやっかんで根も葉もない噂を流しているのだと思った。
だが、聡はそれを見たのだ。







 「んっ……んん……ん……」
放課後、学校の美術室に忘れ物を取りに戻った時だ。
聡がドアに手を掛けて開ける直前、異変に気付いて手を止めた。
猫の鳴き声かと思ったが、どうも、中から聞こえるのは人間の声のようだ。
たちまち脳内があやしい妄想で満ちたが、まさか、とも思った。
だが、忘れ物は取らなくてはいけない。
正体を確かめるため、窓からこっそり中の様子を伺った。
「……っ!」
息を呑んだ。
中で行われていたのは本当に想像の通りの光景。
ただ、想定外だったのはその二人共が女子の制服を着ている事だった。
一人が机に両手を付き、もう一人がその上から覆い被さっている。
「うっ……くぅぅん……」
その上に覆い被さる方が下から手を回し、服の中に手を差し込んでいる。
その手が蠢く度に下の女の子が子犬のような鳴き声を上げるのだ。
角度から二人の顔は見えない。
しかし責めを受けている女の子の小鹿のように震える膝はよく見えた。
AV以外のリアルで初めて目にする性的な事情としては余りに刺激が強すぎる光景。
聡の頭には瞬時に血が上り、耳鳴りがするほどに顔が熱くなった。
「……っっ!」
と、次の瞬間責めている側の女の子が不意にこちらを向いた。
目が、合ってしまう。
全身に鳥肌が立った。
覗きがバレてしまった動揺より、その少女の余りの美しさと妖艶さに意識を完全に持っていかれる。
少女は明らかにこちらを認識していたが、全く慌てる様子もなくこちらを見つめている。
そしてすぐに興味を失ったように目を逸らし、下になっている少女の下腹部から手を引き抜く。
「あんむ、んむぅ、ちゅ、むんん」
そして、濡れて光るその指先を少女に咥えさせる。
少女は自分の蜜を舐めさせられながらくぐもった嬌声を上げ続ける。
そうして指を舐めさせながら、首筋にちゅ、ちゅ、とキスを落としていく。
その度に嬌声は跳ね上がり、膝が崩れ落ちる。
ずるずると机からずり落ちていく少女に追い打ちをかけながら、責めている少女も体勢を低くして行き……。
やがて、机の下へと二人の姿は消えた。
そこでようやく我に返った聡は音を立てないようにその場こそこそと後にした。
姿が消えた後も、少女達の嬌声は背後から微かに聞こえ続けていた。
美術室から撤退した後、聡は困ってしまった。
あの部屋には明日提出する課題が置きっぱなしになっている。
このまま帰る訳にはいかない。
かといってあの中に乱入する訳にもいかない……。
頭の中で何度も繰り返されるあの情景をどうにか振り払おうとしながら聡が悶々としていると、足音が近づいて来た。
美術室の方からだ。
慌てて隠れようとするが、身を隠す前にその足音の主が視界に入ってしまう。
先程の二人だ。
長い髪の少女と、ショートカットの少女。
責めていた長髪の娘は服装に乱れも無く、その肌も雪のように白い。
対してショートの娘は取り繕ったように胸元が乱れ、髪も少し崩れている。
何より顔は真っ赤で目はとろん、としており、足元もおぼつかない様子だった。
長髪の娘はその娘の腰に手を回して支え、歩かせている。
ショートの娘もこちらに気付いたらしく、はっと目を見開いて緊張した様子を見せる。
対して長髪の娘は堂々とした態度でつかつかと聡の目の前を通り過ぎていく。
聡はその二人を白昼夢でも見るような心地で見送ったのだった。







 妹の友人であり、物凄い美少女であり、同性愛者である。
真子は極めて目を引く存在であるが、聡にとっては妹の友人という以上の接点は無い。
なので、その日妹が部屋にやってきて伝えた要件には驚いた。
「マコがね、今度の週末兄ちゃんと会いたいんだって」
「え……何で?」
「さあ?……私も何で?って聞いたけど濁されたし、とりあえず会ってお話してみたら?」
「目的わからないって怖いんだけど……金?」
「大丈夫、それは絶対無い、あの子んちめっちゃお金持ちだし」
それも噂で聞いた事がある。
「あと、色っぽい展開はそれ以上にあり得ないから期待しないように」
「わかってるって……まあ、何だ、別に暇だからいいけど……」
「じゃ、そう伝えとくね、日時とか場所とかはまた教えるから」
そう言って妹は部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送った後、聡は考え込んだ。
あの真子が自分に用事?
どんな?
勉強教えてもらいたいとか……。
いや、妹の話だと成績も優秀だという。
対して自分は特に勉強ができるとかでもない。
だとすると……。
(もしかして……いや、有り得るか……?)
思いついた可能性を吟味するうち、聡の眉間には深い皺が刻まれて行くのだった。







 真子が指定したのは、繁華街にあるコーヒーショップだった。
別にデートという訳でもないので気取る必要もないと思い、いつも通りのラフな格好で待ち合わせ場所に向かった。
「いらっしゃいませー」
店員の声を聞き流しながら店内を見回す。
いや、見回すまでもなく目に飛び込んでくる。
ロングスカートにオープンショルダーのトップス。
黒系で統一されたその姿は、ただ席に座ってスマホを弄っているだけでもはやファッション雑誌の表紙のように決まっている。
自然に周囲の視線というか、意識がそこに集中しているのがわかる。
気付かれないようチラチラと視線を寄こしたり、彼女に関する話題をひそひそと囁く声も聞こえる。
だから、探すまでもなく目に入るのだ。
一方、当の真子はそんな雰囲気も慣れたものという感じで一切気にしていない様子だ。
(……嫌だなあ……)
どちらかというと目立つ事を嫌う聡は抵抗を覚えたが、突っ立ってる訳にもいかないのでぎくしゃくとその空間に入り込んだ。
予想通り、周囲の意識がこちらに向くのを感じる。
「どうも、妹がお世話になってます」
あらかじめ準備しておいた言葉を掛けると、真子はスマホから目線を上げた。
「どうも、いつもお邪魔してます」
そう言ってスマホをテーブルの脇に置く。
聡はその向かいに腰を下ろすと、店員にコーヒーを注文した。
真子はじっと聡を見ている。
緊張する。
本当にビビるほどに綺麗だ。
普段は家に遊びに来た時にすれ違う程度しか接触がなかったから、向かい合うと改めてそう感じる。
「なっちゃんは元気ですか」
「あー、元気してるよ」
「こうしてゆっくり話すのは初めてですね」
「そうだな……その、用事っていうのは……」
「少し、センシティブな内容なので」
そう言って真子は聡の背後に視線をやった。
「お待たせしました」
店員がコーヒーを持って来た。
どうやら会話の途中で店員に来られる事を嫌ったようだった。
聡は心の中で確信を強める。
「単刀直入に言っていいですか」
「いいよ」
聡はコーヒーに砂糖とミルクを入れる。
真子は手元のコーヒーをブラックのまま一口啜る。
「私はなっちゃんを狙っています」
「……あー……なるほど……」
それはまさに予想していた言葉だった。
予想はしていたが、実際に本人から告げられると頭がくらりとする。
「私、モテるんです、男女問わず」
それはそうだろう。
「ですけど、なっちゃんは中々ガードが堅いんです」
「そうかい」
一体どう反応するのが正しいのかわからないので、聡はぼんやり答える。
「なので、できればお兄さんに協力してもらえたらな、と思う次第なんです」
「……協力」
「別に薬を盛ってくれとか、秘密を寄こせなんて事は言いません」
真子は悪びれる様子も恥ずかしがる様子も無く、あくまで淡々と話す。
「なっちゃんの好みのプレゼントとか、好きな物とか、好きな人がいるのかとか、そういうのを教えて貰えるだけで」
「……本人に聞けばいいだろ」
「そこがガード堅いんですなっちゃん、結構一線引いて来るので」
「俺に頼まなくても……」
「家族なんですからクラスメートより詳しいですよね?何より」
ずい、と身を乗り出して来た。
少し距離を詰められる、たったそれだけで鼓動を跳ねさせられる。
「お兄さんは信用できそうなので」
「何でそんな事言い切れる……」
「言いふらしませんでしたよね?」
「……」
あの時、やはり自分だと気付いていたらしい。
「平然装ってましたけど結構焦ったんですよあの時」
そうは見えなかったが……。
「ああいうの見られると大抵は面倒な事になるのに、お兄さんは誰にも言わなかったし脅迫しようともしなかった」
「そんな事する意味ないよ……」
「よくありました、関係バラされたくなかったら体の関係を持てとか、付き合えとか」
嫌な話だが、分かる気がする、してしまう。
この少女は何か、相手の正気を失わせる魅力を発している。
「まあ、そういった輩はお灸を据えてやりましたが」
「……」
何となく、「灸を据える」というレベルで済ませていないような気がする。
「多様性においても寛容なようですし、できれば恋路を手伝っていただけたらな……と」
「一つ質問していい?」
「何でしょう」
「本気か遊びかどっち?奈津美の事」
「……」
真子は、聡の目がどろりと暗い色を宿している事に気付く。
「……本気です」
「じゃあ、あの時の娘は?」
聡が真子の情事を見たのは数か月前の事だ。
「あの娘は恋人ではありません、セックスフレンドというやつです」
「……あの子だけ?」
「いえ、他にも何人かとそういう関係は続けています」
「……正直でいいね、で、奈津美もその中に加えたい、と」
「違います」
真子は聡の暗い目を真っ直ぐに見返す。
「他の娘は身体目当てですが、なっちゃんとは真剣にお付き合いしたいと考えています」
「乱れてんなぁ……」
聡はため息交じりに小声で呟いた。
何もかも刺激の強過ぎる話だ。
目の前の絶世の美少女が女性を食い散らす存在だとは。
世の男性が知ったら嘆くだろう。
「もしなっちゃんと付き合えたら、他の娘達との関係を続けるつもりはありません」
「その辺りはいい」
遮るように聡は言う。
「もし奈津美が付き合うと決めたならそれはもう二人の問題で、俺が口出しする事じゃない」
「なるほど」
「でもね」
視線を手元のコーヒーカップに落とした。
「奈津美を傷付けたら俺は許さない」
「……本気で気持ちをぶつけたら、傷つける事もあるかもしれません」
「そういう事じゃない、それはいい」
聡は視線を落としたままで、真子と目を合わせない。
「今、今日ここで言った言葉が嘘で、ほんのつまみ食いのような気分で奈津美を軽んじたり、侮辱するようなことがあったら」
聡はテーブルに視線を固定したままぼそぼそと言う。

「殺すから」

 言葉の内容に反して、恫喝するような響きもない。
普通の事を普通に言うような口調で、でも確かにそう言った。
「お兄さんは……」
真子は何かを言いかけて口をつぐんだ。
「ごめんごめん、冗談だよ」
聡は顔を上げるとぎこちなく笑って言った。
「でも、そのくらいの気持ちでって事、ね……わかってくれる?」
「……はい、少なくとも先程の言葉に嘘はありません」
「うん、そうか、で、奈津美の何が知りたい?」
「協力してくれるんですか?」
「別に教えてあげるくらいいいよ、下着が欲しいとかは駄目だけど」
「駄目ですか……」
「要求しようとしてたの……?」
目に見えてしょんぼりする真子に聡は驚愕する。
「いえ、大丈夫です、もしお願いできたら嬉しかったですけど」
「……白木さんって随分その……」
「そういう関係を複数持つような女ですよ?とても強いです、肉欲」
(肉欲て……)
聡は思わず天井を仰ぐ。
「私はレズビアンなんですけどその中でも特に性欲強いみたいで、とにかく女の子の身体が好きなんです」
ジュニアモデルばりの美少女がコーヒー飲みながらする話題ではない。
「相手が好きな娘であれば尚更そういう欲望も強くなる、男の人なら理解できるんじゃないですか?」
「まあ、ね」
にこ、と真子は貼り付けたような笑顔を見せる。
そんな営業スマイルであっても一目で理性をぐらつかせるような威力がある、怖い。
「ラインやってますか」
「まあ、一応」
「じゃ、アドレス交換しましょう、基本的にやり取りはこれでしようと思います」
「いいけど」
「こうして会うのは最低限にしましょう、なっちゃんにお兄さんと私がそういう関係だと誤解される事は一番避けたいですし」
「あー、そうだね」
そうして互いにアドレスを教え合った。
ちらりと見えた真子のラインのホーム画面はずらりと色とりどりのアイコンが並んでいる。
……もしかしてあれ全部セックスフレンドなんだろうか。
「で、報酬の話です」
「報酬?」
「私はお兄さんにお願いごとをする訳ですから、見返りがないと筋が通りません」
「義理堅いんだね」
「貸しを作るのが嫌なだけです、何がいいですか、とりあえずお金であれば手っ取り早いんですが」
聡は顔をしかめる。
「お金でなければ……そうですね、ラインで定期的に私のエッチな写真でも送りましょうか」
「なんっ……」
聡の顔が真っ赤になる。
「それがいいですか」
「待て、待ってくれ、それは駄目だ」
「どうしてですか、自分で言うのもなんですが、男の人に見せるのは非常にレアですよ」
「そういう問題じゃなくてだな」
女相手なら見せるのか、見せるんだろうな、と思いながら聡は手をぱたぱた振る。
「そもそも報酬を貰うのは駄目だ」
「どうしてですか?欲しいでしょう?」
「本音を言うなら欲しいけど!」
では何故?というように真子は小首を傾げる。
それに合わせてさらりと髪が揺れて輝く。
別に他意はないだろうけど、そんな仕草一つが悪魔的に可愛い。
「いいかい、報酬を受け取ると言う事は俺は君に妹の情報を売る、という事になる」
「問題ありますか」
「俺の心情の問題だ、家族の情報を売って何かを貰ってるなんて罪悪感がある、例え他愛のない情報でもだ」
じゃあどうしろというのだと言うように真子がムス、と顔をしかめる。
それすら可愛い。
「友達になろう」
「友達?」
真子は不可解な物を見るような目になる
「いいかい、俺と君は友達で、友達のよしみで妹の事を教えてあげてる……という体だ」
「実質情報を売るのとどう違うんですか」
「さっきも言ったように俺の心情的な問題だ、あくまでそういう体であって、本当に友達だというつもりはない」
「……」
真子の目が細くなる。
その奥から探るような冷たい視線が覗く。
聡は視線に耐えられずに顔をそむける、何と言うか、彼女に見つめられると平常心を保てない。
「……何か下心がある、と言う事もなさそうですね」
「無いよ、誓って」
「いいでしょう、では友達として、協力してくれますか、お兄さん」
「ああ、いいよ、下着を盗む以外は」
「ケチですね」







 「ふうう」
聡は家に帰るなりどさり、とベッドに身を投げ出した。
えらく消耗してしまった。
考えてみれば訳の分からない事態になった。
妹を狙うレズビアンの友人に協力するはめになるとは。
ヴー、ヴー
と、スマホが振動して聡は飛び上がる。
立ち上げて見ると、早速真子からだった。
極めて事務的な口調で奈津美に関する質問が複数投げられていた。
よく買い物に行く場所はどこか、とか、好きな色は、とか、食べ物の好みは、等々……。
友達だったら普通に聞けばいいのに、というような質問ばかりだが、どうも真子は奈津美に自分の気持ちを気付かれたくないようでもあった。
それだけ慎重に距離を詰めようとしている。
(……と言う事は、やっぱり本気って言葉に嘘はないか……)
一通りその質問に返答を返しながら聡は考える。
そうであればいい。
相手が異性であろうが同性であろうが、奈津美の事を本気で好きなのならば。
それが、奈津美の幸福に繋がるのであれば。







 「……」
真子はラインで聡からの返信を確認し、それを丁寧にメモしていく。
恋愛に限らず、対人関係においては情報が物を言う事を真子は知っている。
些細な事の積み重ねが人の印象を決めるのだ。
それだけ時間を掛ける価値が、奈津美にはある、真子はそう思っている。
「性欲」以外の好感をこれほど人に抱いたのは本当に久しぶりなのだ。
ぽき。
と、走らせていたシャーペンの芯が折れる。
カチカチとノックして、また書き始める。
ぽき。
また折れる。
カチカチとノックして、書き始める。
ぽき。
「……」
真子はシャーペンを机の上に置くと、手をぶらぶらと振る。
指が震えている。
「ふふ」
小さく笑うと、指をすりすりと擦り合わせる。
気付けば、指だけでなく肩も震えている。
「ふふ、ふ」
心臓がドクドクと鳴り響いている。
カタカタと全身の震えが止まらない。
真子は、人から大きな感情をぶつけられる事に慣れている。
恐らくは常人の想像もつかない濃度の感情を常に向けられて生きて来た。

 「殺すから」

 殺意を向けられた事すら初めてではない。
だが、その多くは怒りの果てに発露する激しい感情だ。
あれだけ淡々と向けられた事は無かった。
冗談のような言い方をしていたが、人の機微に敏感な真子のセンサーはあの瞬間最大級の警鐘を鳴らしたのだ。
多分、本気だ。
人の事を、増して男の事をこれほど怖い、と感じたのはもしかしたら初めてかもしれない。
「ふふ、ふふふ……」
真子は艶やかな唇の端を吊り上げ、笑い続けた。







 聡は深夜の部屋で一人、これまで集めた真子の情報を整理していた。

 白木 真子

父は大手IT企業のCEO、母は専業主婦。
家が非常に裕福で、欲しいと言えば大抵の物は買って貰える。
が、仕事に傾倒する父に母は愛想を尽かしており、夫婦仲は冷え切っているとの事。
互いに不倫相手がいる事も容認しているというような状態だという、あくまで噂だが。
両親共に子供に余り興味がない様子で、無断で外泊をしても何も言われない。
そんな環境で真子はその優れた容姿を生かしたモデル等のアルバイトでより懐を潤わせている。
豊富な財力と、美貌と、人心掌握術と、「天にも昇るような」テクニックを駆使し、好みの女の子を手籠めにしている。
中には社会人の女性までいるらしい。

(……ある意味、可哀想だな……)
普通でも目立つ娘だったが、調べれば出るわ出るわ憶測ともゴシップともつかない白木真子に対する風評。
一応情報を精査しても家族構成やその内情まで出て来た。
人間関係が派手な事もあるが、裏では散々な言われようだ。
だからこそあのある種のふてぶてしさを備えているのか、と妙な納得もあった。
(……経歴を見るとかなり「遊んで」いる、奈津美の事もやっぱり……遊びなんじゃないか……?)
「……」
聡はじっと考え込む。
(家族を不幸にするなら、相応の対策を考えないと……まだ、わからないけど)







 真子は深夜の部屋で一人、これまで集めた聡の情報を整理していた。

 中垣 聡

 中垣奈津美の兄である……「戸籍上」は。
旧姓、野本 聡(のもと さとし)
11歳の時、児童養護施設から中垣家へ特別養子縁組で引き取られた子供である。
詳しい事はわからなかったが、元の親から虐待を受けていたらしい。
養子を迎えたいという家庭は不妊である事が殆どだが、中垣家は奈津美がいる状態で受け入れたようだ。
その理由までは分からなかったが、かなり特殊な家庭事情があるという事はわかった。
ここまで調べが付いたのは真子の広い情報網があってこそであり、彼が養子である事を学校の人間は知らない。
「……」
この過去が、聡から感じる小さな異常性と関係があるのか。
奈津美自身に危険が及ぶ事がなければ構わない、だがどうも、彼からは危うい気配がするのだ。
(……もし奈津美に害が及びそうなら、私があなたを社会的に殺しますよ、お兄さん)







 二人のやり取りは寝る前の時間が多かった。
今日も聡はベッドに横になりながらスマホの画面に向き合って真子の質問に答えている。



 なっちゃんはカレーが好き、と聞きましたが、それはどういうタイプのカレーでしょうか

 タイプ、というと?

 インド、スリランカ、欧風、色々とありますが。

 欧風?

 欧風というのは、いわゆる一般家庭で作られる市販のルウを使って作られるようなカレーの事です

 じゃあそれだ、辛いのは苦手で甘口が好きなんだ。

 なるほど、どのお店のが一番好きとか分かりますか。

 家で作るのが一番好きだ。

 おふくろの味というやつですか

 いや、俺が作ったやつ。



 「……」
「……」
「……」
返信が長い。



 そうですか

 料理はできる?

 できません

 いらないアドバイスかもしれないけど、胃袋を掴むのが早いかもしれないよ、あいつ食いしん坊だから

 いらないアドバイスどうもありがとうございます



 思わず苦笑が漏れた。
冷静に見えて、彼女は意外とこちらに対抗心を出してくる。



 お兄さん、前々から思っていた事ですが、不躾な質問をしてよろしいでしょうか

 言われてみないとわからないよ

 では、単刀直入に伺いますが、なっちゃんに対して独占欲はありますか。

 独占欲?

 誰にも渡したくない、という意思です、もっと言うなら、家族以上の感情を抱いていると言う事はありませんか。



 聡はすっと、頭の片隅が冷えていく感覚を覚えた。
真子のこの質問は……



 それは異性として見ているか、と言う事?

 はい

 それは無いから大丈夫。

 本当ですか

 本当だよ、証明のしようもないけど

 でも、かなり過保護ですよね

 家族なら心配するのは当たり前だよ

 そういうものですか

 一つ聞くけど、俺の事調べた?



 「……」
真子はじり、とベッドの中で身じろぎをした。
明かすべきか、明かすべきだろう、下手に誤魔化してもいい事は無い。



 失礼ながら、調べさせてもらいました

 血の繋がりが無いから疑っているって事?

 そうです

 

 「……」
「……」
「……」
「……」
長い間が空く。



 繰り返しになるけど、奈津美にそういう感情は無いよ。

 私は、少しお兄さんに信用が置けません

 それを言うならこちらも



 一瞬の間を置いて「それを言うならこちらも」の一文は削除された。



 俺と白木さんの目的は同じだ。

 どういう意味でしょう。

 奈津美を幸せにしたい、という事
 俺は白木さんが奈津美の事を幸せにできるというなら、全然構わない。
 でもいざ付き合ってないがしろにする事だけは家族として許さない

 あり得ないから大丈夫です

 それは証明できない、こちらが証明できないのと同じように

 水掛け論ですね

 そうだね、だからこの話はやめよう、俺は白木さんが本当に奈津美の事を考えて行動できるなら応援する

 わかりました、言葉でなく行動で示しましょう

 なら、協力するよ、友達として

 友達としてよろしくお願いします

 

 その日の会話はそれで終わった。
聡は疲れを感じてスマホをベッドに投げ出した。
変な状況だ。
二人共が互いに奈津美に害を成す存在ではないかと疑い合っている。
聡は真子が奈津美を弄ぼうとしているのではないかと疑い。
真子は聡の経歴を知って、聡こそ奈津美に手を出すのではないかと疑っている。
「……馬鹿だなあ」
ぼそりと呟く。
奈津美は大切な家族だ。
その家族を壊すだなんて、有り得ない。
壊そうとする相手がいるなら許さない。
それが、家族だ。



 真子は先程のやり取りを見返していた。
やはり、多い。
聡の会話の中には「家族」という単語が頻繁に出て来る。
恐らく無意識にだと思うが、少し不自然な程に。
(……彼の執着は妹ではなく、「家族」そのもの……?)







 「んー、そうだね、血は繋がってないらしいね」
放課後、夕日の差し込む教室に真子と二人で残った奈津美はあっさりと言った。
「抵抗はなかったんですか?」
「何で?」
「家族に、その、他人が入り込むというのは……」
遠慮がちに言う真子に奈津美は笑って見せる。
「私まだちっちゃい頃だったからね、何か、新しい友達が家に住み始めたくらいな感じでさ」
ちゅー、とリンゴジュースのパックを吸いつつ、気負った様子もなく話す。
「で、それなりに長く付き合ってるともう、普通に兄ちゃんだ、って違和感なく思ってたね」
「失礼な事を言うかもしれないんですけど……お兄さん少し、普通じゃないところってない?」
「あー、まあ、あるあるだね」
「と、言うと?」
「うーん」
ぽい、と空のパックをゴミ箱に捨てて奈津美は腕組みをする。
「いい兄ちゃんであろうとしてるんだ」
「……?」
「「兄」って役割をこなそうと必死なんだ、いっつも」
ほんの少し、その表情に陰りが見えた。
「そうしないと捨てられるって思ってるみたいに見えんの、いっつも」
くしゃくしゃと短い髪を搔き回す。
「そんな風に思わなくったってさ、気にしないのにこっちは……まあ、難しいのかなあ、これだけ一緒に過ごしても」
「……お兄さんは、昔……」
「来た時の事覚えてるよ、こーんなんだったの」
自分の頬を指で押して瘦せこけた頬を表現する。
「手も、足も、枝みたいに細くってさ、ちょっと転んだら死んじゃいそうに見えてさ、あの時は何でそんなに痩せてんの?って思ってたけど……」
少し憂いを含んだ目を、真子に向けた。
「だから、ちょっと変な人だけど、兄ちゃんと仲良くしてやってくれないかな、ほら、マコにしても珍しく積極的に男の人と関わってるみたいだし」
真子は言葉に詰まる。
「知らないって思ってた?二人でこそこそやり取りしてさー、意外な組み合わせ過ぎてびっくりたけど」
「あのっ、お兄さんとはそう言う感じの関係って訳じゃ……」
「わかってるわかってるってぇ」
ニヤニヤする奈津美に真子は危機感を抱く。
「……本当にそういうのじゃなくて……」
「うんうん」
「あのっ……」
ぎゅう、と胸が詰まる。
「わたしが……本当にそういう関係になりたい人は……」
「お?他にそんな人が?」
鈍感な彼女は興味津々という様子でにじり寄る。
その奈津美に二の句が継げない。
真子は、いつでも相手の望む言葉がわかる。
どう言えば相手が喜ぶか、どう言えば相手が傷付くか、自分に向かう感情をコントロールする術を心得ている。
でも奈津美には、彼女にはいつもうまく伝えられない。
肝心な時に勇気が出ない。
「……あ」
押し黙っていると、奈津美が時計を見上げた。
「ごめん、ちょっと約束あるんだ」
「……誰とですか?」
「えっとね、ちょっとね、川内(かわうち)の奴とね」
「……ああ、なるほど」
はにかみながら、野球部員の名前を言う奈津美。
真子の顔から赤みと表情がすっと消える。
「ってことで!今日はちょっと一緒に帰れないんだ、先に帰ってて?」
「わかりました」
いそいそと教室を出ていく奈津美の後ろ姿を、人形のような表情で真子は見つめた。







 「……ずっと好きでした、付き合って下さい」
校舎裏、坊主頭の少年が呟く。
ちなみに呼び出した相手はまだ来ていない。
「……ち、違うかな……すぅー、はぁー」
深呼吸をする。
「俺と付き合ったらきっと楽しいぜ……?いや、違う、絶対……すぅー、はぁー」
頭をぶんぶん振る。
「おれと付き合って……付き合っ……ええと、お付き合い……ええと……」
川内渉(かわうち わたる)は何度もシミュレーションしたはずの告白の言葉が頭から飛んでいる事に気付いた。
それを思い出そうと必死になるが、どうしても思い出せない、一晩掛けて考えた言葉のはずなのに。
「俺と……俺と……付きあ「ワッ!!!!!!!!!」ぎゃああああああ!」
背後から突然大声を掛けられて跳ね上がった。
「なんっ……!?だっ……!だはぁ……!?」
「あっはっはっはっはっはっひゃひゃひゃひゃ!」
心臓が止まりそうになっている川内を指差して奈津美は爆笑する。
「なんっっだお前マジ……シャレになんねえよマジ……」
「ぎゃあーだってさ、えっへへへひひひひひひ」
余程ツボに入ったのか、涙を流すほどに笑う奈津美を川内は睨み付ける。
「おっまえなあ……そういうとこだぞお前……折角俺が……」
「折角、何?」
「いや、その、あの……」
「付き合って欲しいって?いいよ」
「え?」
ざざあ、と校舎裏を風が吹き抜けた。
「……え……え?」
「だから、付き合おうって話だよね?いいよ」
「いや、あの……」
「違う?やっぱ付き合わない?」
「いやいやいや!付き合う!付き合いましょう!付き合ってください!」
「あははははは」
また、奈津美は笑う。
ひとしきり笑った後、改めて川内に向き合う。
「よろしくお願いします」
「お、おぅ……お願いします」
「ふふふ」
「……」
何とも言えない空気が、二人の間に漂う。
「じゃあね、また明日」
「おう……また、な」
二人はそれぞれ帰路に付いた。
「……」
二人の居なくなった校舎裏。
そこから死角になる曲がり角に少女は、真子は居た。
「……」
膝を抱えて、座り込んでいた。
長い事そうしてじっとしていたが、やがてふらりと立ち上がると歩き去って行った。







 「0点」
ぼそりと壁に寄りかかった状態で真子は呟いた。
「……まあ、普段お洒落に気を使わないならあのくらいじゃないか?」
「彼の普段がどうとかはしりません、この日会う奈津美に対して失礼なセンスの無さです」
真子と聡の二人は駅の時計台の下でそわそわしている坊主頭の少年……川内の方をこっそり伺いながら話す。
先程の0点、というのは川内の服装を一目見た真子の一言である。
そう、今日は奈津美と川内のデートの日。
奈津美が浮かれて話したのを聞いて、よせばいいのにそれの後をつけ回そうというのだ。
何故か聡にも声を掛けて来た。
聡自身はもう二人が付き合うというのなら干渉しなければいいという考えなのだが……。
目立たないように変装していても周囲の視線を集めまくるこの少女には通じない考えのようだ。
と、待ち合わせの時間ぴったりに普段は履かないスカート姿の奈津美がやってきた。
少し恥ずかしそうに川内の方に手を振ると、川内もその姿に一瞬見惚れた後にぶっきらぼうに手を振り返す。
「百万点」
奈津美の方を見ながらうっとりと言う真子を聡はジト目で見た。

 「歩く時道路側を歩かせている、0点」

 「話題のバリエーションが貧弱、0点」

 「映画のチョイス、0点」

 「食事がラーメン屋、0点」

 「0点」

 「0点」

 「0点」







 徐々に日は沈み、街に酔っ払い達の姿が目立ち始め、ネオンが輝きを増し始める時刻。
よく待ち合わせに使われる駅前の噴水に真子は腰掛けている。
黒を基調にした目立たない恰好だが、それでも通り過ぎる人々が一瞬目を奪われる。
その視線を気にする事もなく真子は噴水のばしゃばしゃという音に耳を傾けるようにして俯いている。
「はい」
そこに、聡が缶コーヒーを差し出す。
「ありがとうございます」
視線を向けないままに真子はそれを受け取る。
聡は自分の分の缶のプルタブを開けながら適度に距離を置いて隣に座る。
すわ彼氏か、と、また周囲の注意が向く。
聡もいい加減慣れた。
彼女と一緒に行動するとわかるのだが、いちいち人の視線を気にしていてはキリがないのだ。
なるほど生まれてからずっとこの調子なら神経も太くなろうというものだ。
その真子は、受け取った缶を開けようともせず下を向いている。
長い黒髪でその表情は伺えない。
「で、どうするの」
「全然……相応しくありません」
呟くように言う。

「私なら、もっとファッションに気を使います」
「もっと巧みにエスコートできます」
「もっと会話を弾ませられます」
「もっと相応しい映画を選べます」
「もっと高級でいいお店に連れていけます」
「きっと、天国みたいに気持ち良くさせてあげられます」
「私だったら、もっと……もっと……」

 聡は黙って聞いている。
「でも……」
 顔を上げた。

「だから何なんでしょうね」

 ぼんやりと暗い目をしていた。
そしてまた、自分の膝を抱きかかえるようにして顔を俯かせた。
「なっちゃん、楽しそうでしたね」
「そうだな」
「幸せそうでしたね」
「そうだな」
「お兄さんにもそう見えましたか」
「見えたね」
「はぁー……」
深いため息をついた。
そのまま、暫くの間じっと動かなかったかと思うとひょいと顔を上げた。
そして、缶コーヒーのプルタブを開けるとぐびぐびとビールのように飲み干した。
べっと舌を出す。
「ブラックじゃなかった……うぇ……」
「甘いの駄目か」
「缶のカフェオレ嫌いです」
そう言って立ち上がると、近くのごみ箱に缶を捨てる。
「ご馳走様です、帰ります」
「そうか、お疲れ」
「お疲れ様です、お付き合いいただいてありがとうございました」
「ところで」
「はい」
「奈津美の事は?」
くるりと振り返った。
「諦めます」
「そうか」
ぺこり、と頭を下げて真子は帰って行った。
その後ろ姿を聡は穏やかな目で見送った。

23/04/08 23:09更新 / 雑兵
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■作者メッセージ
お久しぶりです生きてます。
これは完成しています。
三つを三日に分けて投稿します。

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