餓竜再び .4
その日、三人は狩りを終えて洞窟に帰ってきた所だった。
あり合せの材料で作った罠だったが、山鳥二羽は上々の成果だ。
そこへ三人以外の人間の声が響く。
「レオン!」
声の方を向くと、レオンと同じ様な登山姿の男が立っている。
その姿を見た瞬間、ラスティとエルの表情が、敵意を持った鋭い物に一変する。
その男がレオンを探しに来た事を直感的に察したのだ。当然、男の方もそれを察して身構える。
「待った!二人とも待った!」
二人の敵意を感じたレオンは、とっさに二人を制止する。レオンは彼をよく知っていたのだ。
「彼は僕の仲間だから、ちょっと待ってて」
二人にそう言うと、男に駆け寄った。
「久しぶりだな、シラー」
「・・・おう、久しぶり」
レオンが人間と話し握手をするのは、随分と久しぶりの事だった。
彼、シラーはレオンの『ランタン』での同僚であり、何回も共に偵察を行った仲でもある。
レオンと同様にベテランの斥候であるシラーも、二人のドラゴンゾンビに敵意を向けられたのは初めてだったのか、明らかに落ち着かない様子だ。
「誰かに捕まっていたとは思ったが、まさかドラゴンゾンビとはな・・・」
「最初は捕まった様なもんだけど、今は・・・まあ見ての通りだよ」
「・・・魅入られたか?」
レオンも思わず照れくさいような表情になるが、あくまでもシラーは斥候としての職分に忠実だった。彼等はそういう風に教育を受けている。
「・・・半分以上くらいには」
「まあ、この仕事には付き物だから驚かんが」
「ただ、魅入られてなくても離れられない理由がある」
「・・・いい話じゃ無さそうだ」
シラーが斥候として忠実な様に、レオンの表情も斥候のそれに戻っていた。
その意味を察したシラーも気構える。
「彼女の名前がラスタバンなんだ」
「!・・・冗談、じゃあないんだな?」
「冗談でこんな事は言わない」
その名を聞いたシラーも驚きを隠せない。それはツァイスの誰もが、聞けばまさかと思うような名前だった。
ラスタバンとは、初代ツァイス伯爵カール・フォン・リューポルドが、ツァイスから追い払ったとされる竜の名前なのだ。
それは、今の様に魔物がまだ魔物娘の姿ではない、人と魔物が終わりの見えない闘争を繰り返していた、遥か昔の時代の話だった。
「とりあえず、この事をエミール様に伝えてくれ」
「・・・エミール様にこの事を報告すれば、下手をするとお前も死ぬぞ?」
この時、シラーは本気でレオンの身を案じていた。
斥候としての職分を脇に置いてでもシラーがレオンの身を案ずるほど、想定される事態はシリアスな物になる可能性があった。
「半分以上は魅入られたって言っただろ」
レオンはスッパリとそう言い切る。
「・・・俺はあの二人を放って置けないし、エミール様も裏切れない。その時点で・・・命の覚悟はしてる」
生半可な気持ちで出した結論ではない。ラスティの名前を聞いた時から、考え続けていた末の結論である。
それがレオンが考え抜いた上での覚悟である事は、シラーにも痛いほど伝わってくる。
「・・・分かった。大丈夫だとは思うが、早まったりするなよ?」
「賽を振ったら、後は出目を待つだけさ」
覚悟を口にしてさっぱりしたのか、レオンの声は妙にさばさばとした物になっていた。
「ああ、それと」
大事な事を思い出した様に、レオンが声のトーンを変える。
「塩があったら分けてくれ。俺が持ってきた分はそろそろ切れそうなんだ」
レオンと別れたシラーは夜通し山を歩き続け、明け方には最寄りの『ランタン』の詰所にたどり着いた。
そこで馬を借りると首都フェリンツァイスへ一直線に駆けて行く。
その日の夜にフェリンツァイスの『ランタン』本部に着くと、シラーはすぐに一連の経緯を『ランタン』の長官に説明した。
そして、その深夜には長官と共に、現ツァイス伯爵エミール・フォン・リューポルドの執務室に居た。
「・・・話は分かりました。シラー君は下がって休んでください」
疲労の色が濃いシラーは、エミールの言葉を受けて執務室を退出する。
一連の報告を受けたエミールは椅子に座ったまま、しばらく机に両肘を着いて顔の前で手を合わせていた。
顎を親指に乗せて鼻を人差し指に付けている。
祈っている訳ではない。
「神に祈る暇があるなら頭を使え」とは、リューポルド家に密かに伝わるカール・フォン・リューポルドの遺言の一つである。
他にも幾つか在るのだが、罰当たりな物ばかりなので、全てリューポルド家の秘伝となっていた。
エミール・フォン・リューポルド。
リューポルド家の当主にして、現ツァイス伯爵。
未だ齢三十半ばを越えたばかりの、少壮の君主である。
「・・・話は漏れていないな、デルガード?」
「シラーは良く心得ている男です。脇目も振らずに私の所まで来ましたから、その恐れは無いでしょう」
『ランタン』の長官を務めるローラン・デルガードは冷静に答えた。
齢五十二歳。ツァイスでも指折りの要人であるが、その容姿は平凡極まりない。
中肉中背、頭の方は中途半端に禿げており、血色の良い頭がテカテカしている。
知らない者が街で彼を見掛けても、気の良い酒屋の主人程度にしか思わないだろう。
しかし、彼は先代ツァイス伯爵から二代に渡って『ランタン』の長官を務めている、筋金入りの情報畑の専門家である。
彼の平凡な容姿と非凡な能力という組み合わせは、『ランタン』という組織の有り様をよく表していた。
「この話が表に出た場合、厄介なのは主神教団でしょうな」
「初代の功績にケチが付けられるんだ。守旧派の坊主共は小躍りして喜ぶだろうよ」
忌々しいとでも言いたげに、エミールが顔を歪める。
ツァイス伯爵領は現在では実質的な独立国として扱われているが、正確には今でも主神教団領の飛び地である。
この領地は、初代伯爵のカールが教団の軍人として、多大な功績を上げた事で得た領地なのだ。
そして、そのカールが世に出るきっかけとなったのが、ツァイスを荒らし回ったラスタバンを追い払った事なのである。
その後、親魔物国家となった時には、主神教団と直接対峙するほどの事態になったのだが、魔物達の力も借りて実質的な独立国となったのだ。
問題なのは、主神教団におけるリューポルド家の身分が、未だに教団に授与された伯爵のままな点である。
当時の教団との講和において、教団の面子を潰さない為にあえて手を付けなかったのだが、カールの最初の功績であるラスタバン撃退に瑕疵が出来たとなれば、ツァイスを快く思っていない教団内の守旧派は、爵位の取り消しと領土の返上を騒ぎ出しかねない。
その命令に実質的な効力は無いが、教団がツァイス討伐軍を起こす理由としては十分な物だ。
「下手をすれば、あの馬鹿共はこの国に攻めこんでくるぞ?」
「レスカティエで丸潰れになった面子を取り戻す為に、ですか?今の教団がもう一度しくじれば、本格的な存亡の危機に陥る可能性も高いですが・・・」
「人並みの損得勘定も出来ない、口先だけの坊主が少なくないのは、デルガードもよく知っているだろう?」
そして、そういう観念的な過激派に限って、声だけは大きいのである。
仮に主神教団との戦争になったとしても、エミールは負ける気はしていない。
勢いを失いつつある主神教団とは対称的に、前の危機以来、ツァイスは次の戦争に対して営々と準備をしてきたのだ。
しかし、ツァイスが独立を成し遂げる事で、主神教団の権威が完全に崩壊してもらっても困る。
曲がりなりにも魔王軍への蓋となっている教団が崩壊してしまえば、ツァイスを含めた大陸全土の魔界化は一気に進んでしまうだろう。
仮に世界の全てが魔界化する運命だったとしても、エミールはその時計の針を自分の手で早めるつもりは無かった。
「それにしても、まさかラスタバンが生きているとはな・・・」
確かにカールはラスタバンを討ち取った訳ではなかった。
彼はラスタバンを罠に嵌め、大怪我を負わせて追い払ったに過ぎなかったのだ。
「正確には『生き返った』ですね。ドラゴンは長い年月を経て生き返ったりするとも聞きますから」
それまで黙って執務室の椅子に座っていた女性が間違いを訂正する。
エミールの事実上の妻であるメィイェンである。
理知的な目元に眼鏡、そして、その頭には二本の角。
彼女はこの大陸では珍しい白澤であった。
ツァイスが親魔物国家として運営される上で、彼女の知識は重要な役割を果たしている。
「ドラゴニアではよく見掛けると聞きますが、ツァイスでは初めてですね」
「ツァイスに定住する竜自体、元から少なかったからな」
「なら、貴重な竜なんですから、ツァイスに定住してもらえば良いんじゃないですか?」
あっけらかんとメィイェンは大胆な提案をした。
さすがにエミールも妻の真意を図りかねる。
「・・・さっきまでの話を聞いていたか?」
「ツァイスは自他共に認める親魔物国家なのですから、彼女を受け入れる事には何の矛盾もありませんよ?むしろ、人間と魔物の和解として国民には好意的に受け入れられると思いますが」
「だから、そうなれば主神教団を刺激する事になるんだよ」
「なら国外に追放する訳にもいかないですし、暗殺でもしますか?二人のドラゴンゾンビを殺すとなれば、兵士が十人や二十人では全く足りませんよ?」
「む・・・」
実は暗殺という手段も考えてなくはなかった。
不完全な状態のカールの功績を完成させるという意味では、取り得る手段である。
しかし、親魔物国家となった後のツァイスは、これまで魔物の命を奪った事は一度たりとて無かったのだ。
その禁忌を犯してでも、二人のドラゴンゾンビを排除するという選択肢を、エミールは完全には否定していなかった。
だが、そんな大勢で討伐に向かったのでは、暗殺どころの騒ぎではない。
魔物の知識ではツァイスの誰よりも博識な彼女にそう言われたのでは、エミールやデルガードは返す言葉も無かった。
「それに、親魔物国家が魔物を殺したり教団に差し出したとなれば、教団以上に魔王軍の過激派を刺激する事になります。そうなれば、ツァイスは第二のレスカティエになりかねません」
「むう・・・」
「確かに彼女達は教団よりも遥かに厄介ですな」
数多くの魔物を抱えるツァイスは、魔王軍の侵攻に対抗する事自体が不可能だと言っても過言ではない。
魔王に対しても友好を保つ為の外交努力を続けてはいるものの、人間の常識なぞ通用しない彼女達相手では、現状維持を続けるだけでも精一杯なのだ。
ラスタバンの排除は、その現状維持に致命的な一撃を与えかねない。
「第一ですね、貴方の御先祖様が殺した竜を、貴方がもう一度、それも親子とも殺すなんて酷い話、私は絶対に嫌ですからね?」
「ああ、分かっている。絶対にやらないから落ち着いてくれ」
魔物娘の暗殺という発想自体が許せないのか、メィイェンはかなり機嫌が悪くなっていた。
エミールとしても本当にただの仮定の一つだっただが、妻の機嫌がこう悪くなったのでは本格的に取り下げるしか無い。
「教団の守旧派と魔王軍の過激派。どちらを敵に回すのがマシかと聞かれれば、確かに教団の方がマシだろうな・・・」
エミールに与えられた選択肢は多くはない。
今のまま隠し続けてもリスクは減る事もなく、事が露見すれば教団は隠した事を非難するだろう。
ツァイスが教団と決定的な対立しない為には、周到な根回しと外交的な綱渡りを覚悟する必要がある。
最終的にはエミールがその覚悟をするかどうか、その一点に掛かっていた。
あり合せの材料で作った罠だったが、山鳥二羽は上々の成果だ。
そこへ三人以外の人間の声が響く。
「レオン!」
声の方を向くと、レオンと同じ様な登山姿の男が立っている。
その姿を見た瞬間、ラスティとエルの表情が、敵意を持った鋭い物に一変する。
その男がレオンを探しに来た事を直感的に察したのだ。当然、男の方もそれを察して身構える。
「待った!二人とも待った!」
二人の敵意を感じたレオンは、とっさに二人を制止する。レオンは彼をよく知っていたのだ。
「彼は僕の仲間だから、ちょっと待ってて」
二人にそう言うと、男に駆け寄った。
「久しぶりだな、シラー」
「・・・おう、久しぶり」
レオンが人間と話し握手をするのは、随分と久しぶりの事だった。
彼、シラーはレオンの『ランタン』での同僚であり、何回も共に偵察を行った仲でもある。
レオンと同様にベテランの斥候であるシラーも、二人のドラゴンゾンビに敵意を向けられたのは初めてだったのか、明らかに落ち着かない様子だ。
「誰かに捕まっていたとは思ったが、まさかドラゴンゾンビとはな・・・」
「最初は捕まった様なもんだけど、今は・・・まあ見ての通りだよ」
「・・・魅入られたか?」
レオンも思わず照れくさいような表情になるが、あくまでもシラーは斥候としての職分に忠実だった。彼等はそういう風に教育を受けている。
「・・・半分以上くらいには」
「まあ、この仕事には付き物だから驚かんが」
「ただ、魅入られてなくても離れられない理由がある」
「・・・いい話じゃ無さそうだ」
シラーが斥候として忠実な様に、レオンの表情も斥候のそれに戻っていた。
その意味を察したシラーも気構える。
「彼女の名前がラスタバンなんだ」
「!・・・冗談、じゃあないんだな?」
「冗談でこんな事は言わない」
その名を聞いたシラーも驚きを隠せない。それはツァイスの誰もが、聞けばまさかと思うような名前だった。
ラスタバンとは、初代ツァイス伯爵カール・フォン・リューポルドが、ツァイスから追い払ったとされる竜の名前なのだ。
それは、今の様に魔物がまだ魔物娘の姿ではない、人と魔物が終わりの見えない闘争を繰り返していた、遥か昔の時代の話だった。
「とりあえず、この事をエミール様に伝えてくれ」
「・・・エミール様にこの事を報告すれば、下手をするとお前も死ぬぞ?」
この時、シラーは本気でレオンの身を案じていた。
斥候としての職分を脇に置いてでもシラーがレオンの身を案ずるほど、想定される事態はシリアスな物になる可能性があった。
「半分以上は魅入られたって言っただろ」
レオンはスッパリとそう言い切る。
「・・・俺はあの二人を放って置けないし、エミール様も裏切れない。その時点で・・・命の覚悟はしてる」
生半可な気持ちで出した結論ではない。ラスティの名前を聞いた時から、考え続けていた末の結論である。
それがレオンが考え抜いた上での覚悟である事は、シラーにも痛いほど伝わってくる。
「・・・分かった。大丈夫だとは思うが、早まったりするなよ?」
「賽を振ったら、後は出目を待つだけさ」
覚悟を口にしてさっぱりしたのか、レオンの声は妙にさばさばとした物になっていた。
「ああ、それと」
大事な事を思い出した様に、レオンが声のトーンを変える。
「塩があったら分けてくれ。俺が持ってきた分はそろそろ切れそうなんだ」
レオンと別れたシラーは夜通し山を歩き続け、明け方には最寄りの『ランタン』の詰所にたどり着いた。
そこで馬を借りると首都フェリンツァイスへ一直線に駆けて行く。
その日の夜にフェリンツァイスの『ランタン』本部に着くと、シラーはすぐに一連の経緯を『ランタン』の長官に説明した。
そして、その深夜には長官と共に、現ツァイス伯爵エミール・フォン・リューポルドの執務室に居た。
「・・・話は分かりました。シラー君は下がって休んでください」
疲労の色が濃いシラーは、エミールの言葉を受けて執務室を退出する。
一連の報告を受けたエミールは椅子に座ったまま、しばらく机に両肘を着いて顔の前で手を合わせていた。
顎を親指に乗せて鼻を人差し指に付けている。
祈っている訳ではない。
「神に祈る暇があるなら頭を使え」とは、リューポルド家に密かに伝わるカール・フォン・リューポルドの遺言の一つである。
他にも幾つか在るのだが、罰当たりな物ばかりなので、全てリューポルド家の秘伝となっていた。
エミール・フォン・リューポルド。
リューポルド家の当主にして、現ツァイス伯爵。
未だ齢三十半ばを越えたばかりの、少壮の君主である。
「・・・話は漏れていないな、デルガード?」
「シラーは良く心得ている男です。脇目も振らずに私の所まで来ましたから、その恐れは無いでしょう」
『ランタン』の長官を務めるローラン・デルガードは冷静に答えた。
齢五十二歳。ツァイスでも指折りの要人であるが、その容姿は平凡極まりない。
中肉中背、頭の方は中途半端に禿げており、血色の良い頭がテカテカしている。
知らない者が街で彼を見掛けても、気の良い酒屋の主人程度にしか思わないだろう。
しかし、彼は先代ツァイス伯爵から二代に渡って『ランタン』の長官を務めている、筋金入りの情報畑の専門家である。
彼の平凡な容姿と非凡な能力という組み合わせは、『ランタン』という組織の有り様をよく表していた。
「この話が表に出た場合、厄介なのは主神教団でしょうな」
「初代の功績にケチが付けられるんだ。守旧派の坊主共は小躍りして喜ぶだろうよ」
忌々しいとでも言いたげに、エミールが顔を歪める。
ツァイス伯爵領は現在では実質的な独立国として扱われているが、正確には今でも主神教団領の飛び地である。
この領地は、初代伯爵のカールが教団の軍人として、多大な功績を上げた事で得た領地なのだ。
そして、そのカールが世に出るきっかけとなったのが、ツァイスを荒らし回ったラスタバンを追い払った事なのである。
その後、親魔物国家となった時には、主神教団と直接対峙するほどの事態になったのだが、魔物達の力も借りて実質的な独立国となったのだ。
問題なのは、主神教団におけるリューポルド家の身分が、未だに教団に授与された伯爵のままな点である。
当時の教団との講和において、教団の面子を潰さない為にあえて手を付けなかったのだが、カールの最初の功績であるラスタバン撃退に瑕疵が出来たとなれば、ツァイスを快く思っていない教団内の守旧派は、爵位の取り消しと領土の返上を騒ぎ出しかねない。
その命令に実質的な効力は無いが、教団がツァイス討伐軍を起こす理由としては十分な物だ。
「下手をすれば、あの馬鹿共はこの国に攻めこんでくるぞ?」
「レスカティエで丸潰れになった面子を取り戻す為に、ですか?今の教団がもう一度しくじれば、本格的な存亡の危機に陥る可能性も高いですが・・・」
「人並みの損得勘定も出来ない、口先だけの坊主が少なくないのは、デルガードもよく知っているだろう?」
そして、そういう観念的な過激派に限って、声だけは大きいのである。
仮に主神教団との戦争になったとしても、エミールは負ける気はしていない。
勢いを失いつつある主神教団とは対称的に、前の危機以来、ツァイスは次の戦争に対して営々と準備をしてきたのだ。
しかし、ツァイスが独立を成し遂げる事で、主神教団の権威が完全に崩壊してもらっても困る。
曲がりなりにも魔王軍への蓋となっている教団が崩壊してしまえば、ツァイスを含めた大陸全土の魔界化は一気に進んでしまうだろう。
仮に世界の全てが魔界化する運命だったとしても、エミールはその時計の針を自分の手で早めるつもりは無かった。
「それにしても、まさかラスタバンが生きているとはな・・・」
確かにカールはラスタバンを討ち取った訳ではなかった。
彼はラスタバンを罠に嵌め、大怪我を負わせて追い払ったに過ぎなかったのだ。
「正確には『生き返った』ですね。ドラゴンは長い年月を経て生き返ったりするとも聞きますから」
それまで黙って執務室の椅子に座っていた女性が間違いを訂正する。
エミールの事実上の妻であるメィイェンである。
理知的な目元に眼鏡、そして、その頭には二本の角。
彼女はこの大陸では珍しい白澤であった。
ツァイスが親魔物国家として運営される上で、彼女の知識は重要な役割を果たしている。
「ドラゴニアではよく見掛けると聞きますが、ツァイスでは初めてですね」
「ツァイスに定住する竜自体、元から少なかったからな」
「なら、貴重な竜なんですから、ツァイスに定住してもらえば良いんじゃないですか?」
あっけらかんとメィイェンは大胆な提案をした。
さすがにエミールも妻の真意を図りかねる。
「・・・さっきまでの話を聞いていたか?」
「ツァイスは自他共に認める親魔物国家なのですから、彼女を受け入れる事には何の矛盾もありませんよ?むしろ、人間と魔物の和解として国民には好意的に受け入れられると思いますが」
「だから、そうなれば主神教団を刺激する事になるんだよ」
「なら国外に追放する訳にもいかないですし、暗殺でもしますか?二人のドラゴンゾンビを殺すとなれば、兵士が十人や二十人では全く足りませんよ?」
「む・・・」
実は暗殺という手段も考えてなくはなかった。
不完全な状態のカールの功績を完成させるという意味では、取り得る手段である。
しかし、親魔物国家となった後のツァイスは、これまで魔物の命を奪った事は一度たりとて無かったのだ。
その禁忌を犯してでも、二人のドラゴンゾンビを排除するという選択肢を、エミールは完全には否定していなかった。
だが、そんな大勢で討伐に向かったのでは、暗殺どころの騒ぎではない。
魔物の知識ではツァイスの誰よりも博識な彼女にそう言われたのでは、エミールやデルガードは返す言葉も無かった。
「それに、親魔物国家が魔物を殺したり教団に差し出したとなれば、教団以上に魔王軍の過激派を刺激する事になります。そうなれば、ツァイスは第二のレスカティエになりかねません」
「むう・・・」
「確かに彼女達は教団よりも遥かに厄介ですな」
数多くの魔物を抱えるツァイスは、魔王軍の侵攻に対抗する事自体が不可能だと言っても過言ではない。
魔王に対しても友好を保つ為の外交努力を続けてはいるものの、人間の常識なぞ通用しない彼女達相手では、現状維持を続けるだけでも精一杯なのだ。
ラスタバンの排除は、その現状維持に致命的な一撃を与えかねない。
「第一ですね、貴方の御先祖様が殺した竜を、貴方がもう一度、それも親子とも殺すなんて酷い話、私は絶対に嫌ですからね?」
「ああ、分かっている。絶対にやらないから落ち着いてくれ」
魔物娘の暗殺という発想自体が許せないのか、メィイェンはかなり機嫌が悪くなっていた。
エミールとしても本当にただの仮定の一つだっただが、妻の機嫌がこう悪くなったのでは本格的に取り下げるしか無い。
「教団の守旧派と魔王軍の過激派。どちらを敵に回すのがマシかと聞かれれば、確かに教団の方がマシだろうな・・・」
エミールに与えられた選択肢は多くはない。
今のまま隠し続けてもリスクは減る事もなく、事が露見すれば教団は隠した事を非難するだろう。
ツァイスが教団と決定的な対立しない為には、周到な根回しと外交的な綱渡りを覚悟する必要がある。
最終的にはエミールがその覚悟をするかどうか、その一点に掛かっていた。
17/03/16 19:41更新 / ドグスター
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