連載小説
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『暗転と明滅』の11〜20日(前編)
 
 
「ご、ごほッ…………か、はっ!!」

 咳き込む。

 足元のコンクリートを踏みしめると、水気を含んで重くなった靴がバシャリと湿った音を鳴らした。

 ボタボタと、あまり清潔ではない水が雫となって濡れた髪から滴る。

 ところどころ泥の付いたシャツは肌にへばりつき、不快感とともに身体の体温を奪っていく。
 ブルリと身ぶるいしたところで、ちっともマシにならなかった。

 川に架けられた名前もわからない石橋の真下で膝から崩れ落ちて座り込み、夕暮れの中で荒くなった息を整える。

「マミヤマ…………おい、マミヤマ……!」

 隣に倒れている大柄の男からの返事はない。
 あああ……、と虚ろなうめき声をあげるのみだ。

 彼は膝を抱えたような姿勢で横たわり、親指をちゅぱちゅぱと咥えて震えていた。
 川から引き揚げた時には既にこのような状態だったのだ。

 まずい、一刻も早くマミヤマの応急処置をしなければ。
 しかし自分の身体が思ったように動いてくれない。
 くそ、僕もかなり体力を消耗してしまっていた。

 一刻も早く回復せねばと、冷えきった自分の身体よりはまだ温かみがある地面にうつ伏せになる。
 頭を横たえると、途端に思考が飛びそうになった。

 これはダメだと思いつつも、川の流れるゴウゴウという音に自分の意識が散逸していく。







『ほ、本部! 聞こえますか! こちらM班!』

『こちら本部だ、聞こえている。何があった?』

『他校にてサバトと遭遇しましたッ!』

『なんだと!?』

『1名が誘惑系と推測される攻撃を受けて意識不明の重症、現在負傷者を担ぎ逃走中です!』

『人混みを利用してただちに大学の裏門から離脱しろ! 負傷者は肩から支え、日中から泥酔した困ったちゃんな友人を仕方なく引きずっていく大学生という演出で搬出するんだ!』







『本部! 相手は魔女型が1体、そして堕天使型が1体! 他の追っ手は見当たりません!』

『堕天使型だと!? サバトはそんなヤツまで揃えていたのか!?』

『こちらが捕捉されています! 堕天使型、長時間の滞空能力がある模様!』

『くそ、面妖な! ……北にある商店街はアーケードが張られている、そこに向かえるか!?』

『了解ッ!』







『商店街を北上中ですが、堕天使型がまだ引き離せません! 魔物娘由来のなんらかの能力で、攻撃を受けた1名がマークされている可能性があります!!』

『マズいな、どうにか撒く方法を……。む、フタバ姉妹? ……なるほど、そうか、東側に流れている川は知っているか!?』

『はい!』

『そこに飛び込め! 流水なら追跡を欺ける可能性がある! 下方に漂流物回収用のネットが仕掛けてあるはずだ、今から送るL班とそこで合流しろ!』

『……分かりました! ケータイ等の所持品を処理したのち、すみやかに実行します――――』







 閉じた目の向こうで、光がチカチカと瞬いた。

 眩しさに対する反射的な行動でまぶたをわずかに開くと、川沿いの遊歩道の向こうから、光源が2つほどこちらに向かってきているのが分かった。

「いたよ、姉さん!」
「分かってる! イズミっ! マミヤマ!」

 ケータイの明かりを頼りにやって来た2人が双子のフタバ姉妹、つまりL班であると分かって安堵した。

 駆け寄ってきた瓜二つな顔の2人に抱え起こされ、どうにか口を開いて必要なことを伝える。

 伝えなければ。

 これだけは、言わなければ。

「僕のことはいい! マミヤマにっ――!」


 ――早く、粉ミルクを投与してあげてくれッ!!


 それだけを伝えて、僕の意識も完全に途絶えてしまった。












 《11日目》


 深夜の部室に静寂が満ちている。

 元より照明的な意味であまり明るくはない部室ではあるが、今の暗い雰囲気はそれだけではないだろう。

 時計を見れば、もう日付も変わっていた。

 他のメンバーはまだしも、僕の隣にいる妹……イマリに望まぬ夜更かしをさせてしまったという事実が、予想外に胸に刺さった。
 あるいはそれは、もっと重要な事柄から目を背けているだけのような、この状況からの現実逃避でしかなかったのかもしれない。

 視線が向いているのを敏感に察したのだろう、イマリがこちらに不安げな表情を見せた。
 だが、キュッと口元を引き締める。

「兄さんは、大丈夫なの?」
「心配してくれるのか」
「そりゃ当たり前だよ! マミヤマ先輩もそうだけど、兄さんもかなり無茶したんでしょ?」
「そうするしかなかったんだ。ただ、僕は直接の被害は負わなかったからまだマシだ」

 健気な妹を安心させるためにそう言ってから、自分の身体を見下ろす。

 今は川に飛び込んだせいでびしょ濡れの泥まみれになった服は全て脱ぎ去り、校内の運動部用のシャワー室を借りることで身体の洗浄・服の洗濯は済ませている。
 財布やケータイなどの貴重品は、逃げる最中に適当なコインロッカーに隠しておいたから、後日回収に行けば問題ない。

 だから、僕に関してはもうほとんど復調している。

 強いて問題点を挙げるなら、代替品として借りた服がオカ研にあった物であり、黒ずくめの衣装に用途不明のじゃらじゃらした鎖が幾本も繋がれ、背側に飾りの羽まで付いていることだろうか。
 そのためこの部室の中で、1人だけやたらと気合いの入ったV系ヴォーカリストみたいになっていた。
 もちろん今は緊急時なので、四の五の言ってはいられないのは理解しているのだけれど。

 ……もう少し普通の服はなかったのだろうか。
 ほら、今フタバ姉妹がこっちから目を逸らした。
 いたたまれないといった表情が非常に不本意だ。

 いや違う違う、今は僕よりもマミヤマだ。
 よほど酷く手傷を負わされた彼は、今はアネサキ先輩によって応急処置を受けていた。

「そろそろ『代表』も戻って来ると思うんだが……」
「皆、すまない。待たせたな」

 噂をすればで、おもむろに部室のドアが開けられれば、そこから黒いカーテンを持ち上げてアネサキ先輩が戻ってきた。

 彼の帰りを待っていた僕らは、慌てて先輩の元へ駆け寄る。
 ネクリですら、緩慢な動きではあるが近寄ってきていた。

「アネサキ先輩! マミヤマの容体は!?」
「ぬ!? ……あ、ああ、イズミか」

 走り寄ってきた僕を見て一瞬ギョッとなった先輩は、肩で支えていたジャージ姿の大男を近くのイスに座らせた。

「一応できる限りの手当てはしたが……。かなり酷い状態だぞ、マミヤマは」

 えっ…………?

「あぶー! あぶぅー!」

 見ればマミヤマは、おしゃぶりを咥えていた。

 それも、とても澄んだ目で。

「ま、マミヤマさんっ…………!?」
「あぶぶぅ! キャッキャッ!」

 イマリの悲痛な声にも応えることなく、その大柄なマッチョは無邪気に赤ちゃん言葉を辺りに振りまいている。
 あまりにも残酷な光景だった。

「……イズミ、これでも多少は回復したほうなんだよ。私たちが橋の下で拾い上げた時には、マミヤマは」
「唇を真っ青にして震えていたほどだったから。イズミの言う通りにすぐさま近くのコンビニで粉ミルクを買って来なければ……」

 フタバ姉妹がマミヤマから少し距離を置きながら、回収した時の状態を説明する。

 本当にギリギリのところだったらしい。あと数分も粉ミルクが遅れていれば、生命に関わっていた可能性すらあるかもしれない。

「……僕たちはかなり長い時間水に浸かっていたからな。ただ、原因はそれだけじゃない」

 ふと部室の隅を見ると、笑顔の乳児の絵がプリントされた空き缶が乱雑に転がっているのが見えた。
 フタバ姉妹、君らまさか粉ミルクを粉末のままマミヤマに投与してないだろうな?

「イズミ、心当たりがあるんだな?」
「はい、アネサキ先輩。彼はサバト所属とみられる魔物娘、それも堕天使型からの攻撃を受けていました」
「まんま! まんまー!」

 ここに居る全員にその時の事情を説明しつつ、僕はぐずりだしたマミヤマに、部室のロッカーから幼児用のガラガラを取り出して振ってみせた。
 振るだけで絵柄が変わっていく、マミヤマのお気に入りの一品。1〜3歳児用だ。

「キャッキャッ!」
「……堕天使型は異性の性的嗜好を読み取り、自身を順応させて対応する特性を持っています。その時にマミヤマのマザコンという性質が無理やり、かつ劇的に発現させられてしまったと……僕はそう考えています」

 あるいはマミヤマは、あの堕天使型の攻撃から、退廃的なロリータへの誘惑から、マザコンという殻に閉じこもることで自意識を守ろうとしたのかもしれない。
 それは蟷螂の斧じみた、涙の出るようないじましい抵抗だった。

「そうか……マミヤマ…………」

 『代表』であるアネサキ先輩ですら、目を閉じて瞑目している。

「『代表』、申し訳ありませんでした! 学校内にサバトが潜伏している可能性を、もっとマミヤマに言い含めておけばっ……!」
「いいんだ、イズミ。今は君たち2人が帰還できたことを喜ぶべきだろう。こうした負傷も、サバトと戦う限りは避けられないという面もある」

 そうかもしれない。
 だが、素直に頷いてしまえるものでもなかった。

「ばーぶ! まーま、まーま!」
「く、危険だ。バイタル……いや、メンタルが安定していない。このままでは――!」

 マミヤマがまたぐずりだしてしまった。

 アネサキ先輩も危惧するように、このままでは最悪の場合、彼がマザコンの暗黒面に堕ちてしまう可能性すらあり得るだろう。

 くそ、どうすれば良い……?

「………………イマリ。確かこの前、遊びに来てた伯母さんの子どもの面倒見てたよな?」
「え"っ!?」
「ぱいぱい! ぱいぱい!」
「いやぁ……さすがにそれと一緒には、って、ぱ、ぱいぱい!?」

 野太い声で母乳を要求するマミヤマ。
 タイミングがあまりにも悪かった。

 しかし、冷や汗をかきながら後退する僕の妹の横から、対照的な様子で平然と進み出てくる影があった。

「………………任せて……」

 それは、まさかのネクリだった。

 ここにいる女子連中で『まーま』という単語から一番遠そうな小柄な彼女に何ができるのか……と周囲の空気が緊張する中、ネクリはススッとマミヤマに接近する。

「あぶぅ?」
「………………せいっ」

 と思ったら突然、汗くさいジャージ姿の乳児の耳にイヤホンを突き刺していた。

 何をする、と僕が叫びかけたところで、ネクリがイヤホンの先に付いたMP3プレーヤーを操作する。

 『再生』が押されたかと思うと、なんとも驚くべきことに、すぐさまマミヤマは鬼子母神も顔をほころばせるような筋肉質な笑みを浮かべた。

「う、うわぁ……。ネクリさん、それは?」
「…………ボイスドラマ。確か…………なんだっけ」
「そうか、ネクリっ! 『あなたの眠れない夜に❤ 甘やかしママのこもりうたCD(バイノーラル録音)』だな!?」
「…………そんなかんじ……」
「なんで兄さん、そんな詳しいの……?」

 マミヤマ本人が部室に持ち寄っていた品の一つが、そのボイスドラマCDだ。

 ネクリ、このオカ研部室の管理人ということもあるのだろうが、データコピーされたプレーヤーの場所まで彼女は把握していたのか!

「あーう、キャッキャッ! キャッキャッ!」
「マミヤマの容体が安定していくぞ……!」

 あれだけぐずっていた大男が、今や無害な子犬のようになっていた
 恍惚としてヨダレまで垂らしている。

「…………リピートボタンも、ばっちり」
「ネクリ、よくやった!!」

 そうして我々はネクリの機転により、最悪の事態を免れることができた。

 改めてネクリの有能さを思い知らされる形となり、この場の全員が彼女に尊敬の念を抱いたのは間違いないだろう。

「良かった……。『代表』、もう夜も遅いですが、これからどうしましょうか?」

 そう言った時、僕の腹が思いきり大きな音を立てて鳴ってしまった。
 緊張が解けてふとした拍子に、といった感じだ。

 思い返せば、他大学からの撤退を経て今に至るまで、まったく食事を摂っていなかった。川の水を誤って多少飲んだくらいだ。

「あー……。どうだろう諸君、こうしてイズミの腹も訴えていることだし、今から外でファストフードにでも行ってみるというのは? 臨時会議もそこで行おうじゃないか」

 アネサキ先輩が提示したその議題は満場一致で可決され、めでたく僕たちは大学近所の深夜のマッ◯に繰り出し、遅い晩飯を摂ることとなった。

 マミヤマの不調により一時は沈んでいた『アンチ・サバト』の空気もその頃にはすっかり元通りになっており、僕らは行ってきた活動の振り返りと、今後の作戦についての話題で盛り上がったのは言うまでもないだろう。










 《13日目》


 ケータイがメッセージの受信を告げたのは、僕が表向きのサークルである調理同好会で桃のコンポートを作っていた時だった。

 手を洗っていそいそと部室の隅に向かう。

「イマリさん、お兄さんどうしたの? まさかジョカノ!? ジョカノなの!? いいの? お兄さん取られちゃうよ!?」
「そ、そんなわけないでしょ! あれは多分、アン……じゃなくてなんというか、あれよ、あれ!」

 後ろからサークルの後輩と妹との会話が聞こえてくるが、もちろんジョカノなどという珍妙な外国人では決してない。

 来たメッセージの主は、僕と志を同じくする『アンチ・サバト』所属の瓜二つの顔の双子だ。

 ちなみに正確にどちらが送ってきたのかは分からない。彼女らはそれぞれがケータイを持ってはいるものの、なぜか外部とやり取りをする時は片方のケータイのみしか使用していないのだ。
 逆に外から連絡が来た場合は、自動転送で2つのケータイに来るらしい。
 まさに一心同体だった。

 来たメッセージの内容はこうだ。

『アポは取れたから、交渉頼むよっ!』

 短い文章だが、言わんとする事はすぐに分かった。
 すぐに向かう、とこちらも簡潔に返信し、男物のエプロンをさっさと脱いでしまう。

 周りには用事があるとだけ伝えて早退し、自作した菓子を手土産に目的の教室に向かう。
 イマリは既に事情を知っているから、安心して去ることができる。

 あとは、僕と服飾部との交渉次第だ。











 《14日目》


「ごめんなさい、委員会の会議で遅れましたっ!」

 部室棟地下1Fの部屋に最後にやって来たフタバを加えて、『アンチ・サバト』の全員が集まった。

「全員揃ったな。では、今日の『集会』を始めよう」

 フタバの1人が部室のドアをしっかり閉めるのを用心深く確認してから、アネサキ先輩が口火を切って立ち上がる。

 他のメンバーは古ぼけた円卓に着席し、ホワイトボードはひっくり返されて『アンチ・サバト』としての本来の姿を現した。

「まずは先日のアンケート回収の話から始めよう。フタバ、解析したデータの提示を」

 正面にいた2人が同時に起立し、プリントを全員に回していく。
 プリントには、シンプルに『データ解析結果』とのみ題字が記されていた。

「えー、私たちはこれまで、意識調査アンケートの集計を行なっておりました。手元の資料の見方ですが…………」

 姉妹が交互に話し、解説が行われる。

 結論としては、データを回収できたこの大学と近隣の2つ、これらの学生の潜在的なサバト支持率は予想よりも低いというものだった。

「ふむ。大学というある程度成熟した男女の集まる環境では、幼い少女を求めることへの欲求は順位が繰り下がる…………か。決めつけは危険だが、フタバの見解に納得できる部分はあるな」
「ありがとうございます。付け加えるなら、大学生にもなると性的なものへの知識もかなり付いており、ロリータ嗜好以外への分化が進んでいる、ということもあるのかもしれません」
「また、どの大学にも『心理学』の授業が存在し、聞くところによると単位を楽に取れる教科として有名だそうです」

 流暢に自分たちの意見を伝えるフタバ姉妹。
 広報活動やデータ処理に関しては、彼女らは他のメンバーの追随を許さない。

 そして心理学の授業では、まさしく我々の作製したアンケートと同じような『男女の心理面での発達』を取り扱っていたのこちらでも確認済みだ。
 というか授業取ってるし。

 ここの大学に関して付け加えるなら、心理学講師はダークメイジ教授であり、なおさら幼児性愛的な思想からは対極的な授業内容だった。
 教授の服の露出度の高さは気になったが、今はその話は無関係だろう。

「大学内の世論的には、サバトが布教しづらい環境であると確認できたのは僥倖だな」
「また、今回のアンケートでサバトを牽制することもできています」

 サバトが警戒したからこそ、僕とマミヤマに接触してきたのだろう。
 しかも、あんな強硬手段を選ぶほどに。

 そんなことを、僕はおしゃぶりを咥えてあぶあぶ言っているマミヤマを見ながら考えた。
 治るまではもう少しかかる見込みだ。
 彼がどうやって日々の授業を受けているのかは謎に包まれている。

「………………ただ、目は付けられた」

 鋭く指摘したのはネクリだ。
 普段からボーッとしているが、見るところは見ているのが彼女だ。

「そうだな、イズミとマミヤマは既に一度襲撃を受けている。また、アンケートでなくとも似たような活動をすれば、すぐに嗅ぎつけられるだろう。……そこで、だ」

 アネサキ先輩の視線を受けて、フタバ達が頷いた。

「ボランティア部からの了承は得ています」
「もう服飾部からも受け取ってるんだよね、イズミ」
「ああ、もちろん」

 よし、と先輩は四角メガネのアーチ部分をクイッと持ち上げた。

「大学でのサバトの支配圏は停滞、あるいは多少の縮小に成功したと考えて良いだろう。次はより相手の懐に、つまり活動能力の供給元へと踏み込み、それを断ち切る必要がある」

 そして、高らかに宣言する。

「『アンチ・サバト』はこれより、作戦の第2段階に移行する。作戦名は――――」


 ――『キレイなおねえさんは好きですか?』作戦。


 僕らの次の戦場は、小学校だ。

17/04/27 03:01更新 / しっぽ屋
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