人間嫌いのあなたへ
俺は、人間が嫌いだった。
だから俺は、”魔物娘”という人間を軽く凌駕する、未知の存在が現れたときにとても喜びを感じた。
そう、これで愚かな人間共はこの世界からいなくなるのだ。
今日は記念すべき、魔物娘たちが大々的に存在と思想を表明した日。
七月二十一日だ。
自宅にある古いパソコンを使い、魔物娘に関するネットの記事を読みながら、俺はにやにやしていた。知性を持った集団ゆえか、魔物たちにも色々な派閥はあるようだが、その中でも”過激派”はとにかく人間を魔物にしていっているらしい。
以前から魔物娘たちは人間社会の中に潜伏していたらしく、世界が魔に包まれる日はそう遠くないだろう、というのが人間と魔物との共通見解だった。
「きっと、俺のところにも魔物娘が来るんだろうな」
そのあと、ネットに転がる女性や魔物の痴態を映した画像や動画を見る。中には違法アップロードされた物もあったようだが、俺に損はないので関係ない。それを見ながら、ただ一つ昔から続いていた趣味ともいえる自慰をしていた。
絶頂による疲れのあと、カーテンが閉まり長年掃除もせず散らかり放題の部屋の中、俺はかろうじてまだ汚れのマシなベッドに寝転がった。
ここで寝ていれば魔物たちがやってきて、世界を変えてくれるだろう。
そして、俺も。
魔物たちに救われるのだ。
三日が経った。
あれから俺の日常はいつもと変わらず、ネットの記事を読んだり最寄りのコンビニに出かけたりはしているが、まだ魔物娘たちは俺の所に来ていない。
まあ、流石にそこまで早く来るわけでもないだろう。
アングラな掲示板やチャットで適当な書き込みをしたり読んだり、ネットで違法アップロードされていた動画やゲーム、アニメを見たり、また女たちの痴態がふんだんに盛りこまれた画像などを見ながら自慰をして、暇を潰す。
一週間も経てば周りに変化が起きるだろう。
一週間後。
まだ魔物娘は俺の前に現れていない。
コンビニの店員や客も傍目には普通の人間に見えるので、普通の人間女性なのか魔物娘なのかは分からない。魔物娘たちの殆どは人間に化ける魔法が使えるからだ。これはネットの記事に書いてあった。
声を掛けたところでそう簡単には何者か教えてくれないだろう。魔物娘たちは好意を示した相手や、伴侶となった男性以外にはほとんど興味を持たないということらしいので、なおさらだ。
おおよそ褒められたことのない俺の醜悪な顔を見たからか、何かそいつにとって不都合なものを俺に感じたのか、通りすがった女性が嫌そうな顔をしたように見えた。つまりあいつはきっとまだ人間女性なのだろう。
これだから人間は嫌いなんだ。
二週間後。
まだ魔物娘は来ないのか、と苛々する。
周りの変化としては、すれ違う人間の中、稀に人外だとはっきり分かる女性を見る程度だ。
ただ、暴走族とでも言うべき深夜にうるさく走り回る車やバイクの音は聞かなくなったが、それが魔物娘たちによるものかどうかは分からなかった。
代わりに、かすかにだが男女の情事のような甘い声が聞こえるようになって、俺はそれを自慰のレパートリーの一つにした。
そういえばコンビニの商品を見て思ったが、物価も多少だが安くなっていっている気がする。
あとは、ネットやテレビのニュースを見ても、陰惨な事件の報道がほとんど流れない。ただ報道規制がなされているだけかもしれないが。
三週間後。
もうそろそろ何者かが俺の所に来てもいいはずだが、やはり魔物娘は現れない。魔物娘たちが己の存在を大々的に公表した七月二十一日――いやもっと前からそうだが、俺が誰かと会うのは自宅に宅配しに来る配達員か、コンビニで見る店員や客か、たまに外出した時に通りすがる人間だけだ。
見かける女性の数が多くなった気はするが、やはりほとんどの女性は傍目では人間か魔物か分からない。
ごく稀にはっきりと人外だと分かる風貌をしている者はいるが、何らかの用でならともかく、”そういう意図”で俺に声を掛けてくる魔物はいなかった。
大体の女性や魔物には、その傍にかなりの確率で男がいた。
さすがに不安になってくるが、きっと大丈夫だろう。
魔物娘たちはすべてを救ってくれるのだから。
四週間……いや、もう一か月以上が過ぎた。
あれから俺に好意や興味を持って話しかけてくる魔物も、それらしき言動をする女性に見える奴もいない。
不安は日に日に増していく。
どうして誰も俺の所に来ないのか?
まだこの一帯は魔物娘たちに支配されていないのか?
いや、ネットの書き込みもニュースも周囲も、もう以前とはあまりにも違いすぎる。
不幸な事故や陰鬱なニュースはどこにも見なくなり、アングラな裏サイトの掲示板でようやく数件見ることができるぐらいで、それもイタズラ目的のフェイクであったり、またアップロードされてもすぐに削除や訂正をされる。
ネットにある配信動画や成年向け動画も、目に見えて魔物娘ばかり。人間とよく似た外見の魔物娘がいるのも知ってはいるが、もう純粋な人間の動画があるとは思えない。
コンビニ、いやそれ以外の場所に出て行っても、どこもかしこも二人や複数で歩く男女ばかりを見かけた。
必ず、誰かと誰かが一緒にいた。
なぜ? どうして、俺だけに魔物娘が来ないのか?
どうしようもない不安と焦燥に駆られ、思わず俺は家を転がるように飛び出す。
運動不足だった身体は満足に走ることさえできないし、どこに行くかも考えられなかったが、とにかくどこかへ行きたかった。この思考をぼやけさせたかった。
しかし道行く者はみな複数で、仲良く談笑している。
男女。
カップル。
夫婦。
愛しあう二人。
男一人と、女二人以上で愛し合う者たち。
どこを見ても、そんな光景ばかり。
なんだ、これは?
確かに周りはみんな不自然なほど色恋に塗れていて、人間ではなくなったように思えた。
だが、俺だけが人間のまま。
大嫌いな、人間のまま。
「――どうして!どうして俺だけが救われてないんだ!?」
訳も分からず、俺は大声で叫んでいた。
通りすがる人のいる道だったが、そんなことを気にする余裕はなかった。
「こんなの不公平だ!平等じゃない!ふざけるな!
お前らは、人間を根絶やしにしたいんじゃなかったのか?!」
しかし。
「お前らは、無償の愛を全員に分け与えるんじゃなかったのか!?」
どれだけ叫んでも、道を通る奴らは何も言わない。
俺の事をただ一度か二度、一瞬だけ見たかと思うと、そのまま何も言わず、自分の傍にいる誰かとまた親しげに会話や触れ合いを続ける。
まるでそこには存在していないかのように、誰もが俺の事を無視する。
「――――っ、」
憤りに憤りが重なって、もはや意味のある言葉が出てこなかった。
ただ声を張り上げた時の喉の痛みと、混濁する意識だけが俺を苛む。
どうして? どうしてだ?
そんなわめくような問いにも、誰も耳を貸さない。
俺に意を介さず、ただ楽しそうに傍の誰かと話したり、スキンシップしたり。
そんな奴らが俺の傍を通っていくだけ。
「――――……っ」
その時。
見覚えのある女性が通ったのが分かった。
「あ……あ、……ああ……」
それは昔、俺と同級生のクラスメイトで、顔が良い子で。
思春期真っ盛りだった俺は、その子の事を考えながら何度も自慰をしていた。
そして彼女と――をしてみたかったけれど、俺には話しかけることすらできず。
いつの間にか、知りもしない他の男が、その子の彼氏という関係になっていて。
「――ッ」
その彼女もまた、仲睦まじそうに。
大きく膨らんだお腹をさすりながら、傍にいる男と、楽しそうに話していた。
「あ、ああ、う゛あ゛あ゛あ゛っっっ――――」
何分叫んでいたのか、もう叫んでいるのかいないのかも、分からない。
いつの間にか俺は、すっかり訛った身体を支えることすらできなくなり、路上で倒れこむ。
四つん這いになって頭を伏せたまま、俺は動けない。
それなりの数の誰かが行き交い続ける道なのに、やはり誰も俺に声を掛けない。
俺に気づく者がいても、きっとまた無視されている。
「……あ゛……ぁ……」
血が出そうなほどの喉の痛み、頭痛、吐き気。
痛みと孤独の感情だけが、俺に構ってくれる相手だった。
電気が切れるように、一瞬で、俺の意識が闇に落ちる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
ここは、どこなのか?
俺はどこに立っているのか?
ただ太陽が照り、白い砂だけが地平線まで続く、無限に広がる砂漠のような――。
その中を俺は、ただ一人、孤独に歩いていた。
「……俺、は……」
どこまでも続くような地平線の向こうに、真っ黒い服で全身を包んだ奴らがいた。
永遠とも思えるほどの時間を掛け、そいつらの前にようやく俺はたどり着く。
そこに立つ十人の黒服どもは、目と口以外はほとんど服と布で隠れているが、異形の姿をした女性だとなぜか分かった。魔物娘のようでもあり、そうでないようにも見える。
そして俺には、そいつらが裁判官だということも、分かった。
「あなたの罪状は分かっている?」
おそらくは、中心にいる黒服の一人が、荘厳な女の声で俺に向けて言う。
「……罪? 罪だと? 俺は罪など犯していない! 無罪だ!」
俺は今にも倒れそうな疲労の中、力を振り絞って声を荒げる。
「まだ、理解できないのね」
「ふざけるな! 俺が何をした! 誰に大きな迷惑をかけた?!
俺は確かに良い人間だったとは思わない!
だが、俺より悪い奴らなんかいくらでもいる!
俺は人間を殺してやりたいぐらい嫌いだが、人殺しも、盗みもしていないぞ!」
どれだけ俺が声を強めようとも、彼らは意に介することなく、淡々と口を動かす。
さっきとは別の魔物の声が響く。
「お前の本当の罪は、そんなことではない」
風の吹かない、ひたすらに静かな砂漠だが、その声はなぜか響いて聞こえる。
「なら、俺がどんな罪を犯したというんだ!」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「まだ、分からないの?」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「人間が嫌いだという君もまた、どこまでいこうと、人間なんだよ」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「それは、アナタが人間以外の何者にも成れない――いいえ。
人間、魔物。そんな次元にすら立てない存在であるということを、これ以上なく表しているの」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「だから貴様は他の誰にも、何者にも選ばれなかった」
そして。
真ん中にいた魔物が、罪状を述べる裁判官のように俺を睨み。
どこまでも厳粛な声を持って、告げた。
「あなたは、人間が犯しうる、最も忌むべき罪を犯した。
私は、”人生を無為にし、何一つも愛さなかった罪”で、あなたを起訴したのよ」
その言葉に、俺は途方もなく大きな木槌で叩き潰されるような錯覚を覚えた。
「あなたは誰一人も、何一つも愛さなかった。
だからこそあなたの周囲も、あなた自身も。
誰一人あなたを愛さなかった。
それは人生を無為にする事と同義で、相互の作用結果であり、当然の帰結なの」
「…………そうか、それが、俺の罪か」
俺は他に何ひとつ言えず、彼らに背を向ける。
そしてまた、歩いてきた白い砂漠を歩いて、戻っていく。
「……有罪だ、ああ……有罪だ」
俺の後ろから、さっきと同じ声が響いてくる。
「その罪は、極刑に値するわ。 ――をもって裁く」
そうか、俺は裁かれるのか。
漠然と毎日を過ごし、何の努力もせず、時間と年齢だけを重ね。
両親が突然の事故で亡くなってからは、労働に従事するさえもなく、その遺産だけを食い潰して生きてきた。
何も志すことなく、何も成さず、何も愛さず、ひたすら無為に生きたことの結果。
それが今の俺だった。
「…………有罪だ」
もう俺に感情は残っていなかった。
何かを恨む気力も、自分を嘲笑し卑下する根性もなかった。
ただ、自分の犯した罪を認め、呟くだけだった。
過ぎ去った時は、二度と戻らない。
それが、どうしようもないこの俺にでも分かる、たった一つの事実で――
―――――――――――――――――――――――――――――――――
――気が付くと、そこは俺の部屋で、いつものベッドの上だった。
「……」
夢。
いや、夢ではなかった。そうとは思えない程の感触と、現実感と、苦しみがあった。
「……何が、起きたんだ?」
分からない。
分からないがとにかく俺は起き上がり、ベッドに座ったまま、いつものように枕元の横にあるスマートフォンを起動させた。
今日の日付が目に入る。
七月二十一日。
その日付は――、一体何を表していた日だったか?
はっきりとは思い出せない。
起きたばかりで寝ぼけているのか?
今日は今日だ、それ以外に何物でもない、はずなのに。
「ようやく起きたのね、お寝坊さん」
突然、俺以外に誰もいないはずの部屋から、艶っぽい女の声がした。
寝ぼけによる幻聴などではない。
それほど広くもない部屋の中をぐるりと見渡すと、誰もいなかったはずの、部屋の扉の前に彼女はいた。比喩でなく、浮いていた。
流れるような、腰まで伸びた長く白い髪に、白い翼と尻尾、頭から生えた二本の黒い角。
そして宙に浮き、何もないはずの場所に腰掛けるように、足を組んで座っていた。
「朝のニュースは見た?もちろんまだでしょうね。私が付けてあげるわ」
彼女は片手にテレビのリモコンを持っていて、スイッチを押して電源を入れる。
そこには異形の姿をした、しかし女性であるとは思えるほどの群衆が映っていた。
「彼女たちは”魔物娘”というのよ。まあ名前のまま、魔物の女の子たちね」
魔物娘。その言葉は、何回も何回も聞いたことのある言葉だと、思い出す。
目の前で浮く女性は――たしか、”リリム”という種族の魔物によく似ていた。
リリム。
”魔王”という存在の血を引いた、その娘たちがそう呼ばれると聞いた事がある。
「……俺は、彼女たちを……君を、少しだけなら知っている」
「あら、そうだったの。それは話が早いわ」
「これは……どういうことなんだ?まるで……時間が……。
ずっと、長い間……俺は、彷徨っていたはずなのに……」
何ひとつ思考が追い付かず、呆然としている俺を見ながら、彼女は続けた。
「さあ。あなたに何が起きたのかなんて、私にもよく分からないわねえ。
私はあなたではないもの。
でも――そうね。きっと、あなたは”帰ってきた”のよ」
「……帰ってきた?」
「やり直したいと、思ったのでしょう。だから、帰ってきた。
ほんの少し――そう、それがたとえ、一か月ほどの僅かな時間だったとしても。
時間を遡るという行為が、どれだけ神を冒涜し、万物の理に反しようとも。
今のあなたがいるのは、七月二十一日の、この日、この時。
それが、紛れもない事実でしょう?」
「……それが、事実なのか? ……正しいのか?」
「ええ、正しいのよ。少なくとも私の思う中ではね」
どこまでも俺の理解と想像を超えた状況の中。
突然、彼女は質問を投げかけてくる。
「ところで――あなた、人間は好き?嫌い?」
「……え?」
「どっち?」
不意の問いかけに思わず俺は彼女の方をじっと見た。
思わず息を呑むほど美しい容姿に、見惚れてしまいそうにさえなる。
彼女の赤い双眸は、俺を射貫こうとしているかのように、俺を見つめていた。
「……嫌いだ」
「そう。何が嫌いなのかしら」
「俺……は……」
もう頭は起きているはずなのに、上手く思考が回らない。言葉が出てこない。
「すぐに言えないのなら、大した悪い記憶も理由もないんじゃないの?」
「……人間は愚かだ。どいつもこいつも、愚かなんだ」
「へえ。人間はいっぱいいるけれど、だれが、どのように、愚かなのかしら」
ただ口に出しただけのような言葉は、その返答であっさりと行き詰る、
「お、俺が好きだった子も、周りの人間も……俺を知ってくれなかった。愛してくれなかった」
「そう。じゃあ、あなたはその人達をちゃんと知っていたのね?
その子が、みんなが、『なぜ自分を見てくれないか』も、分かっているのよね?」
「それは……俺が醜悪で、俺もまた人間で、愚か……だからだ」
「ふーん。つまり、あなたはその好きな子に、他の全員に、そう言われたことがあるの?
相手と話して、考えを、思いを、ちゃんと聞いたからこそ、そう思っているのよね?」
「……」
彼女に言われる前から、言葉に出す前から、心のどこかでは分かっていた。
そんな当たり前の事すら俺はしていなかった。
その地点にすら立っていなかった。
「な、なら……犯罪者は……いくらでもいる」
「そうねえ。罪を犯す人も少なくはないわ。
でも、”愚かな”人間の考えたルールだもの。
どれだけ丁寧でも穴はあるでしょうし、たとえ完全だったとしても、それを誰しもが守れるとは思えない。
まあ――罪を犯したすべての人が”愚か”だなんて根拠も、ないわよね?」
「……人間の考えた尺度の罪でなくたって、悪い奴はたくさんいる」
「悪い、ね。そもそも、あなたは何をもって悪いとするのかしら」
「たとえば……その、環境や生き物に良くないことをするとか、ルールを破る奴とか、迷惑な奴、とか……」
突然教師に回答を強制された小学生のように、俺は曖昧な言葉しか返せない。
「うん、迷惑をかけるのは悪いことね。どれぐらいで悪いことにされるのかしら」
「……それは……」
「誰が決めてくれるのかしら。何が迷惑で、何が悪いことかって」
「……」
何を言おうとしても、彼女に言い返される。
テレビの中で魔物娘たちが何か騒ぐ声と、彼女の言葉だけが俺に響いてくる。
「お話は好きだけど、そろそろこんな不毛な問答は止めましょう。
あなたが何を思おうと、それだけよ。世界も周りも、何も変わらない。
あなた一人の思想や決意だけで変わるものなんて、何ひとつないのよ」
「……あんたは、俺に説教でもしに来たのか」
「いいえ。あなたを”救いたくて”ここに来たの」
救う。
その言葉に、聞かずにはいられない。
「俺に……何をしてくれるというんだ」
俺の問いに、感情の籠もらない冷淡な口調で、彼女は返す。
「何もしないわ。本当に変わらなけれならないのは、あなた自身なのだから」
「……じゃあ、意味がないじゃないか」
「そう。人間を愛せないあなたには、きっと魔物を愛することもできない。
そして、魔物に愛されることもない」
「そんなこと――」
ないはずだ、という言葉が口から出せない。
俺は覚えている。
誰も彼もが俺を見て見ぬふりをして、無視していくあの光景を。
世界に一人きりでいるよりも辛いであろう孤独を。
「……っ」
もはや現実か夢かも定かではないが――以前の俺はただ、誰かが自分の方に来てくれればいいなと、怠惰に、無意味に、待つだけだった。
心の中では多少の興味こそあれど、ただ願望を抱くだけで何もしない。
さらには、俺の手には届かないと決めつけて、俺には必要ないと見下しさえしていた。
そんな”愚かな”存在だったと、俺は、俺自身をそう思った。
「……俺は……どうすれば、いいんだ……」
絞り出すようにしか声が出せない。
何もしない自分を看過し、本当の意味で孤独になるのだけはもう、嫌だった。
「顔を上げて」
彼女はさっきまでとは打って変わって、感情のある、しかし厳粛な声になった。
どこかで聞いた覚えのある、厳しくも真っすぐな声。
「優劣ではない。まずは、今のあなた自身を受け入れましょう。全てはそこから」
「……でも、」
二の句が告げず、顔も上げられない。
今の俺にどうやって、自信を持てと言うのか――
「……やはり、俺は、」
その瞬間、途方もなく柔らかい何かに押し倒され、俺はベッドに転がった。
「――っ」
途端に身体で感じる、感触。匂い。雰囲気。
俺の全身と精神が、何かを理解する。理解させられる。
さっきまでは自覚こそできてなかった、0が1に、そして一瞬で100に変わる感覚。
「……ああ、とても嬉しいわ。
空っぽに見えるあなたでも、まだ亡くしていなかった。
顔を見なくても、答えを聞かなくても。 あなたを抱きしめるだけで、分かるわ」
何が自分に起きたのかは、はっきりと分からない。
ただ、どこか清々しい気分で、そして心臓が何度も強く跳ねて、頬が紅潮していた。
「……さあ。どうする? 朝起きてすぐだから、一日はまだ始まったばかりよ。
何をしたい?どこに行きたい?」
彼女に抱きしめられていたのだと、ようやく理解して、俺はただ答えた。
「あ……ああ。とりあえず、飯を食って、身なりを整えよう。
腹は減ったし、髪も髭も伸び放題、ろくに入浴も洗濯もしてない……。
このままじゃ、誰かに会いに行くのはよくない」
「ふふふ、そうね。格好つける必要はないから、まずは清潔さだけ気を付けましょう」
「……洗濯機を回して、その間に食事、終わったらシャワー……。
ああでも結局、今日着る服がないままか……」
「あらあら。それは大変ねえ。
……ところで、ベランダに干してあった服は、あなたのじゃないの?」
「え……?」
彼女が俺からゆっくり離れてカーテンを開けると、もうすでに日差しが差し込んできて、夏の片鱗を見せていた。
俺が窓からベランダを覗くと、確かにそこには夏によく着ていた服が何着か干してある。それらは汚れもなく、ちゃんと乾いていた。
「あ、あれ?」
「ちょうどいいわ、これを着ましょう。ちゃんと綺麗になってるみたいだし。
もちろん、お風呂場で身体を隅々まで綺麗にしてからね」
横に立つ彼女に促され、俺は髭を剃り、シャワーを浴び、全身をくまなく石鹸とシャンプーで洗い流す。それからベランダの服を取り込み、それを着た。
「ふう……さっぱりした。でも髪はさすがに、床屋にでも行かないと……」
「――そうかしら。凝った髪型じゃないけど、短めに纏まってるわよ?」
「短めなんて、そんな、わけ……」
その瞬間、気づいた時には頭が軽く感じた。
違和感に襲われながら鏡を見に行くと、肩ぐらいまで伸ばしっぱなしだった髪はショートヘアに切り揃えられ、風通しが随分良くなっていた。
「わけが……ないのに……いつの間に、こんな……」
「マアマア、変って程でもないし、それでいいじゃないの。そんなことより朝ごはんよ」
「……じゃあ、朝飯……ん?」
「あーら。いつの間にか、パンと目玉焼きが焼けたみたいね。それに珈琲のいい匂いも」
「え?……え?」
鼻をくすぐる、パンと卵の焼ける匂いと、香り高い珈琲の匂い。
「あ、そうだ、部屋の掃除もしないと食べる場所が――」
「そうかしら?大体片付いてて、けっこう綺麗に見えるけれど?」
「……な、」
周りを見ると、さっきまで部屋中にあったはずの、散らかった物やゴミがどこにもない。
「い……一体、これは……」
「そんなことより、ごはんをたべましょう。冷めちゃうと勿体ないわ」
「……」
すっかり綺麗に片付いた床に座り、二人で向かい合ってテーブルに着く。
「いただきます……うーん、もっとちゃんと勉強しないとだわ。
やはり初めてのことはなんだって難しいわ。あなたはもちろん、私もまだまだ浅学ね」
「……ん」
思考が状況についていかないまま、ただ珈琲と目玉焼きの乗ったパンを頬張る。
簡素な食事ではあるが、どこか美味しく感じた。
十分もしないうちに朝食は食べ終わり、俺は食器をシンクに置いた。
「大した量ではないし、今のうちに洗っておいたほうがいいんじゃない?」
「そう……するか」
何時ぶりにするかも分からない、食器の後片付け。
シンク自体も掃除した覚えがないのに、放置していたはずの食器や、汚れやくすみがない。
何もかもを不思議に感じながら、俺は食器を洗い終える。
「ほら、一人でできたわ。やるじゃない」
「……皿を洗ってただけじゃないか」
「それでも進歩でしょう?前まではやろうと思っても、しなかった事なんだから」
どこまでも優しい声とともに、彼女が背中をぽん、と叩いた。
「……そうかも、しれない」
「ええ。そうよ」
片づけが終わって部屋に戻ると、彼女は部屋のテレビをつけていた。
楽しそうなBGMとともに、はしゃぐ男女の姿が色々映されていく。
「……へえー。ここの近所で、遊園地タイプの、新しくできたデートスポットだって。
とっても広いから混みすぎないし、費用もお手頃。それに眺めもいいのね」
「あ……ああ」
「もう七月だし日差しはちょっと熱そうだけど、プールもあるのねえ。
ふんふん、水着や道具のレンタルもあるし、アトラクションもたくさん」
「……うん」
「映ってる子たちも楽しそうねえ。もし泳げなくても、いろんな遊びができるみたい」
テレビを眺める彼女の横顔は楽しそうに、にんまりと微笑んでいて。
さっきまでの厳粛な目つきも声色も、全く感じない。
破滅的なほど美しく思えた美貌は、今は子供のような純真さや、可愛らしさも多分に含んでいて。
「……ちょっと、待ってて」
俺は彼女には見えないように自分の鞄から財布を取り出し、中身を確認した。
「こんなに……お札、あったか?」
「どうしたのー?」
「い、いや。何でもない」
明らかに財布に入っていた金額は増えている。
銀行に貯金こそあったが、いつ卸したものかも分からない。
そして銀行通帳の残高も見たが、その金額は記憶とは殆ど誤差がなく、全く減っていないように思えた。
「……今回だけだ。
二回目からはちゃんと自分の力で稼いで、自分で納得できる金を使う……そうだ」
彼女に聞こえてしまわないように、俺は小さく呟く。
テレビの音量にかき消されたか、そもそも声にも出ていなかったかは分からない。
ともかく決意は固まった、後は行動するだけ。
「わっ、夏の間は二人だけで行くと割引なんだー。それも全費用の合計からなんて太っ腹ねえ」
俺の行動がどう転ぶかは分からない。それは不安で仕方がない。
何たって彼女はリリムだ。今の俺なんかと釣り合う相手か、と計算することさえ馬鹿らしくなる程の、圧倒的な差がそこにはある。
「……でも、」
たとえ上手くいかなくても、取り返しがつかない事じゃないはずだ。
俺はまだ彼女の事を殆ど知らない。
だからこそ不安だけど、そんなのは何だって当たり前なんだ。
もう二度と待つだけだった自分には戻らないと、ようやく決められた。
「あー、あの店のランチ、美味しそう。さっきの遊園地からすぐ近くだって」
テレビを見ながら、楽しそうにはしゃぐ彼女を見て。
「話があるんだけど、いいかな」
「もちろん。何か考え事をしてたみたいだけど、どうかした?」
「……俺、は……」
俺は、震える唇で言った。
「まだ俺は、君の事も、君の名前さえも知らないけど――今からでいい、知りたい。
もしよかったら、一緒に。俺と、遊びに行ってください」
一瞬だけ、”時間”が止まったような感覚がして。
「――ふふっ、奇遇だね。
私も、あなたをもっと知りたいって。
あなたと遊びに行ってみたいって、思ってたとこ」
夏のように眩しい、彼女の無垢な笑顔が、俺の記憶に焼き付いて。
俺が伸ばした手を、彼女は握ってくれて。
「さあ、早く行きましょう。 善は急げ、だもんね」
俺の時間が、動き出した。
だから俺は、”魔物娘”という人間を軽く凌駕する、未知の存在が現れたときにとても喜びを感じた。
そう、これで愚かな人間共はこの世界からいなくなるのだ。
今日は記念すべき、魔物娘たちが大々的に存在と思想を表明した日。
七月二十一日だ。
自宅にある古いパソコンを使い、魔物娘に関するネットの記事を読みながら、俺はにやにやしていた。知性を持った集団ゆえか、魔物たちにも色々な派閥はあるようだが、その中でも”過激派”はとにかく人間を魔物にしていっているらしい。
以前から魔物娘たちは人間社会の中に潜伏していたらしく、世界が魔に包まれる日はそう遠くないだろう、というのが人間と魔物との共通見解だった。
「きっと、俺のところにも魔物娘が来るんだろうな」
そのあと、ネットに転がる女性や魔物の痴態を映した画像や動画を見る。中には違法アップロードされた物もあったようだが、俺に損はないので関係ない。それを見ながら、ただ一つ昔から続いていた趣味ともいえる自慰をしていた。
絶頂による疲れのあと、カーテンが閉まり長年掃除もせず散らかり放題の部屋の中、俺はかろうじてまだ汚れのマシなベッドに寝転がった。
ここで寝ていれば魔物たちがやってきて、世界を変えてくれるだろう。
そして、俺も。
魔物たちに救われるのだ。
三日が経った。
あれから俺の日常はいつもと変わらず、ネットの記事を読んだり最寄りのコンビニに出かけたりはしているが、まだ魔物娘たちは俺の所に来ていない。
まあ、流石にそこまで早く来るわけでもないだろう。
アングラな掲示板やチャットで適当な書き込みをしたり読んだり、ネットで違法アップロードされていた動画やゲーム、アニメを見たり、また女たちの痴態がふんだんに盛りこまれた画像などを見ながら自慰をして、暇を潰す。
一週間も経てば周りに変化が起きるだろう。
一週間後。
まだ魔物娘は俺の前に現れていない。
コンビニの店員や客も傍目には普通の人間に見えるので、普通の人間女性なのか魔物娘なのかは分からない。魔物娘たちの殆どは人間に化ける魔法が使えるからだ。これはネットの記事に書いてあった。
声を掛けたところでそう簡単には何者か教えてくれないだろう。魔物娘たちは好意を示した相手や、伴侶となった男性以外にはほとんど興味を持たないということらしいので、なおさらだ。
おおよそ褒められたことのない俺の醜悪な顔を見たからか、何かそいつにとって不都合なものを俺に感じたのか、通りすがった女性が嫌そうな顔をしたように見えた。つまりあいつはきっとまだ人間女性なのだろう。
これだから人間は嫌いなんだ。
二週間後。
まだ魔物娘は来ないのか、と苛々する。
周りの変化としては、すれ違う人間の中、稀に人外だとはっきり分かる女性を見る程度だ。
ただ、暴走族とでも言うべき深夜にうるさく走り回る車やバイクの音は聞かなくなったが、それが魔物娘たちによるものかどうかは分からなかった。
代わりに、かすかにだが男女の情事のような甘い声が聞こえるようになって、俺はそれを自慰のレパートリーの一つにした。
そういえばコンビニの商品を見て思ったが、物価も多少だが安くなっていっている気がする。
あとは、ネットやテレビのニュースを見ても、陰惨な事件の報道がほとんど流れない。ただ報道規制がなされているだけかもしれないが。
三週間後。
もうそろそろ何者かが俺の所に来てもいいはずだが、やはり魔物娘は現れない。魔物娘たちが己の存在を大々的に公表した七月二十一日――いやもっと前からそうだが、俺が誰かと会うのは自宅に宅配しに来る配達員か、コンビニで見る店員や客か、たまに外出した時に通りすがる人間だけだ。
見かける女性の数が多くなった気はするが、やはりほとんどの女性は傍目では人間か魔物か分からない。
ごく稀にはっきりと人外だと分かる風貌をしている者はいるが、何らかの用でならともかく、”そういう意図”で俺に声を掛けてくる魔物はいなかった。
大体の女性や魔物には、その傍にかなりの確率で男がいた。
さすがに不安になってくるが、きっと大丈夫だろう。
魔物娘たちはすべてを救ってくれるのだから。
四週間……いや、もう一か月以上が過ぎた。
あれから俺に好意や興味を持って話しかけてくる魔物も、それらしき言動をする女性に見える奴もいない。
不安は日に日に増していく。
どうして誰も俺の所に来ないのか?
まだこの一帯は魔物娘たちに支配されていないのか?
いや、ネットの書き込みもニュースも周囲も、もう以前とはあまりにも違いすぎる。
不幸な事故や陰鬱なニュースはどこにも見なくなり、アングラな裏サイトの掲示板でようやく数件見ることができるぐらいで、それもイタズラ目的のフェイクであったり、またアップロードされてもすぐに削除や訂正をされる。
ネットにある配信動画や成年向け動画も、目に見えて魔物娘ばかり。人間とよく似た外見の魔物娘がいるのも知ってはいるが、もう純粋な人間の動画があるとは思えない。
コンビニ、いやそれ以外の場所に出て行っても、どこもかしこも二人や複数で歩く男女ばかりを見かけた。
必ず、誰かと誰かが一緒にいた。
なぜ? どうして、俺だけに魔物娘が来ないのか?
どうしようもない不安と焦燥に駆られ、思わず俺は家を転がるように飛び出す。
運動不足だった身体は満足に走ることさえできないし、どこに行くかも考えられなかったが、とにかくどこかへ行きたかった。この思考をぼやけさせたかった。
しかし道行く者はみな複数で、仲良く談笑している。
男女。
カップル。
夫婦。
愛しあう二人。
男一人と、女二人以上で愛し合う者たち。
どこを見ても、そんな光景ばかり。
なんだ、これは?
確かに周りはみんな不自然なほど色恋に塗れていて、人間ではなくなったように思えた。
だが、俺だけが人間のまま。
大嫌いな、人間のまま。
「――どうして!どうして俺だけが救われてないんだ!?」
訳も分からず、俺は大声で叫んでいた。
通りすがる人のいる道だったが、そんなことを気にする余裕はなかった。
「こんなの不公平だ!平等じゃない!ふざけるな!
お前らは、人間を根絶やしにしたいんじゃなかったのか?!」
しかし。
「お前らは、無償の愛を全員に分け与えるんじゃなかったのか!?」
どれだけ叫んでも、道を通る奴らは何も言わない。
俺の事をただ一度か二度、一瞬だけ見たかと思うと、そのまま何も言わず、自分の傍にいる誰かとまた親しげに会話や触れ合いを続ける。
まるでそこには存在していないかのように、誰もが俺の事を無視する。
「――――っ、」
憤りに憤りが重なって、もはや意味のある言葉が出てこなかった。
ただ声を張り上げた時の喉の痛みと、混濁する意識だけが俺を苛む。
どうして? どうしてだ?
そんなわめくような問いにも、誰も耳を貸さない。
俺に意を介さず、ただ楽しそうに傍の誰かと話したり、スキンシップしたり。
そんな奴らが俺の傍を通っていくだけ。
「――――……っ」
その時。
見覚えのある女性が通ったのが分かった。
「あ……あ、……ああ……」
それは昔、俺と同級生のクラスメイトで、顔が良い子で。
思春期真っ盛りだった俺は、その子の事を考えながら何度も自慰をしていた。
そして彼女と――をしてみたかったけれど、俺には話しかけることすらできず。
いつの間にか、知りもしない他の男が、その子の彼氏という関係になっていて。
「――ッ」
その彼女もまた、仲睦まじそうに。
大きく膨らんだお腹をさすりながら、傍にいる男と、楽しそうに話していた。
「あ、ああ、う゛あ゛あ゛あ゛っっっ――――」
何分叫んでいたのか、もう叫んでいるのかいないのかも、分からない。
いつの間にか俺は、すっかり訛った身体を支えることすらできなくなり、路上で倒れこむ。
四つん這いになって頭を伏せたまま、俺は動けない。
それなりの数の誰かが行き交い続ける道なのに、やはり誰も俺に声を掛けない。
俺に気づく者がいても、きっとまた無視されている。
「……あ゛……ぁ……」
血が出そうなほどの喉の痛み、頭痛、吐き気。
痛みと孤独の感情だけが、俺に構ってくれる相手だった。
電気が切れるように、一瞬で、俺の意識が闇に落ちる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
ここは、どこなのか?
俺はどこに立っているのか?
ただ太陽が照り、白い砂だけが地平線まで続く、無限に広がる砂漠のような――。
その中を俺は、ただ一人、孤独に歩いていた。
「……俺、は……」
どこまでも続くような地平線の向こうに、真っ黒い服で全身を包んだ奴らがいた。
永遠とも思えるほどの時間を掛け、そいつらの前にようやく俺はたどり着く。
そこに立つ十人の黒服どもは、目と口以外はほとんど服と布で隠れているが、異形の姿をした女性だとなぜか分かった。魔物娘のようでもあり、そうでないようにも見える。
そして俺には、そいつらが裁判官だということも、分かった。
「あなたの罪状は分かっている?」
おそらくは、中心にいる黒服の一人が、荘厳な女の声で俺に向けて言う。
「……罪? 罪だと? 俺は罪など犯していない! 無罪だ!」
俺は今にも倒れそうな疲労の中、力を振り絞って声を荒げる。
「まだ、理解できないのね」
「ふざけるな! 俺が何をした! 誰に大きな迷惑をかけた?!
俺は確かに良い人間だったとは思わない!
だが、俺より悪い奴らなんかいくらでもいる!
俺は人間を殺してやりたいぐらい嫌いだが、人殺しも、盗みもしていないぞ!」
どれだけ俺が声を強めようとも、彼らは意に介することなく、淡々と口を動かす。
さっきとは別の魔物の声が響く。
「お前の本当の罪は、そんなことではない」
風の吹かない、ひたすらに静かな砂漠だが、その声はなぜか響いて聞こえる。
「なら、俺がどんな罪を犯したというんだ!」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「まだ、分からないの?」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「人間が嫌いだという君もまた、どこまでいこうと、人間なんだよ」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「それは、アナタが人間以外の何者にも成れない――いいえ。
人間、魔物。そんな次元にすら立てない存在であるということを、これ以上なく表しているの」
さっきとは別の魔物の声が響く。
「だから貴様は他の誰にも、何者にも選ばれなかった」
そして。
真ん中にいた魔物が、罪状を述べる裁判官のように俺を睨み。
どこまでも厳粛な声を持って、告げた。
「あなたは、人間が犯しうる、最も忌むべき罪を犯した。
私は、”人生を無為にし、何一つも愛さなかった罪”で、あなたを起訴したのよ」
その言葉に、俺は途方もなく大きな木槌で叩き潰されるような錯覚を覚えた。
「あなたは誰一人も、何一つも愛さなかった。
だからこそあなたの周囲も、あなた自身も。
誰一人あなたを愛さなかった。
それは人生を無為にする事と同義で、相互の作用結果であり、当然の帰結なの」
「…………そうか、それが、俺の罪か」
俺は他に何ひとつ言えず、彼らに背を向ける。
そしてまた、歩いてきた白い砂漠を歩いて、戻っていく。
「……有罪だ、ああ……有罪だ」
俺の後ろから、さっきと同じ声が響いてくる。
「その罪は、極刑に値するわ。 ――をもって裁く」
そうか、俺は裁かれるのか。
漠然と毎日を過ごし、何の努力もせず、時間と年齢だけを重ね。
両親が突然の事故で亡くなってからは、労働に従事するさえもなく、その遺産だけを食い潰して生きてきた。
何も志すことなく、何も成さず、何も愛さず、ひたすら無為に生きたことの結果。
それが今の俺だった。
「…………有罪だ」
もう俺に感情は残っていなかった。
何かを恨む気力も、自分を嘲笑し卑下する根性もなかった。
ただ、自分の犯した罪を認め、呟くだけだった。
過ぎ去った時は、二度と戻らない。
それが、どうしようもないこの俺にでも分かる、たった一つの事実で――
―――――――――――――――――――――――――――――――――
――気が付くと、そこは俺の部屋で、いつものベッドの上だった。
「……」
夢。
いや、夢ではなかった。そうとは思えない程の感触と、現実感と、苦しみがあった。
「……何が、起きたんだ?」
分からない。
分からないがとにかく俺は起き上がり、ベッドに座ったまま、いつものように枕元の横にあるスマートフォンを起動させた。
今日の日付が目に入る。
七月二十一日。
その日付は――、一体何を表していた日だったか?
はっきりとは思い出せない。
起きたばかりで寝ぼけているのか?
今日は今日だ、それ以外に何物でもない、はずなのに。
「ようやく起きたのね、お寝坊さん」
突然、俺以外に誰もいないはずの部屋から、艶っぽい女の声がした。
寝ぼけによる幻聴などではない。
それほど広くもない部屋の中をぐるりと見渡すと、誰もいなかったはずの、部屋の扉の前に彼女はいた。比喩でなく、浮いていた。
流れるような、腰まで伸びた長く白い髪に、白い翼と尻尾、頭から生えた二本の黒い角。
そして宙に浮き、何もないはずの場所に腰掛けるように、足を組んで座っていた。
「朝のニュースは見た?もちろんまだでしょうね。私が付けてあげるわ」
彼女は片手にテレビのリモコンを持っていて、スイッチを押して電源を入れる。
そこには異形の姿をした、しかし女性であるとは思えるほどの群衆が映っていた。
「彼女たちは”魔物娘”というのよ。まあ名前のまま、魔物の女の子たちね」
魔物娘。その言葉は、何回も何回も聞いたことのある言葉だと、思い出す。
目の前で浮く女性は――たしか、”リリム”という種族の魔物によく似ていた。
リリム。
”魔王”という存在の血を引いた、その娘たちがそう呼ばれると聞いた事がある。
「……俺は、彼女たちを……君を、少しだけなら知っている」
「あら、そうだったの。それは話が早いわ」
「これは……どういうことなんだ?まるで……時間が……。
ずっと、長い間……俺は、彷徨っていたはずなのに……」
何ひとつ思考が追い付かず、呆然としている俺を見ながら、彼女は続けた。
「さあ。あなたに何が起きたのかなんて、私にもよく分からないわねえ。
私はあなたではないもの。
でも――そうね。きっと、あなたは”帰ってきた”のよ」
「……帰ってきた?」
「やり直したいと、思ったのでしょう。だから、帰ってきた。
ほんの少し――そう、それがたとえ、一か月ほどの僅かな時間だったとしても。
時間を遡るという行為が、どれだけ神を冒涜し、万物の理に反しようとも。
今のあなたがいるのは、七月二十一日の、この日、この時。
それが、紛れもない事実でしょう?」
「……それが、事実なのか? ……正しいのか?」
「ええ、正しいのよ。少なくとも私の思う中ではね」
どこまでも俺の理解と想像を超えた状況の中。
突然、彼女は質問を投げかけてくる。
「ところで――あなた、人間は好き?嫌い?」
「……え?」
「どっち?」
不意の問いかけに思わず俺は彼女の方をじっと見た。
思わず息を呑むほど美しい容姿に、見惚れてしまいそうにさえなる。
彼女の赤い双眸は、俺を射貫こうとしているかのように、俺を見つめていた。
「……嫌いだ」
「そう。何が嫌いなのかしら」
「俺……は……」
もう頭は起きているはずなのに、上手く思考が回らない。言葉が出てこない。
「すぐに言えないのなら、大した悪い記憶も理由もないんじゃないの?」
「……人間は愚かだ。どいつもこいつも、愚かなんだ」
「へえ。人間はいっぱいいるけれど、だれが、どのように、愚かなのかしら」
ただ口に出しただけのような言葉は、その返答であっさりと行き詰る、
「お、俺が好きだった子も、周りの人間も……俺を知ってくれなかった。愛してくれなかった」
「そう。じゃあ、あなたはその人達をちゃんと知っていたのね?
その子が、みんなが、『なぜ自分を見てくれないか』も、分かっているのよね?」
「それは……俺が醜悪で、俺もまた人間で、愚か……だからだ」
「ふーん。つまり、あなたはその好きな子に、他の全員に、そう言われたことがあるの?
相手と話して、考えを、思いを、ちゃんと聞いたからこそ、そう思っているのよね?」
「……」
彼女に言われる前から、言葉に出す前から、心のどこかでは分かっていた。
そんな当たり前の事すら俺はしていなかった。
その地点にすら立っていなかった。
「な、なら……犯罪者は……いくらでもいる」
「そうねえ。罪を犯す人も少なくはないわ。
でも、”愚かな”人間の考えたルールだもの。
どれだけ丁寧でも穴はあるでしょうし、たとえ完全だったとしても、それを誰しもが守れるとは思えない。
まあ――罪を犯したすべての人が”愚か”だなんて根拠も、ないわよね?」
「……人間の考えた尺度の罪でなくたって、悪い奴はたくさんいる」
「悪い、ね。そもそも、あなたは何をもって悪いとするのかしら」
「たとえば……その、環境や生き物に良くないことをするとか、ルールを破る奴とか、迷惑な奴、とか……」
突然教師に回答を強制された小学生のように、俺は曖昧な言葉しか返せない。
「うん、迷惑をかけるのは悪いことね。どれぐらいで悪いことにされるのかしら」
「……それは……」
「誰が決めてくれるのかしら。何が迷惑で、何が悪いことかって」
「……」
何を言おうとしても、彼女に言い返される。
テレビの中で魔物娘たちが何か騒ぐ声と、彼女の言葉だけが俺に響いてくる。
「お話は好きだけど、そろそろこんな不毛な問答は止めましょう。
あなたが何を思おうと、それだけよ。世界も周りも、何も変わらない。
あなた一人の思想や決意だけで変わるものなんて、何ひとつないのよ」
「……あんたは、俺に説教でもしに来たのか」
「いいえ。あなたを”救いたくて”ここに来たの」
救う。
その言葉に、聞かずにはいられない。
「俺に……何をしてくれるというんだ」
俺の問いに、感情の籠もらない冷淡な口調で、彼女は返す。
「何もしないわ。本当に変わらなけれならないのは、あなた自身なのだから」
「……じゃあ、意味がないじゃないか」
「そう。人間を愛せないあなたには、きっと魔物を愛することもできない。
そして、魔物に愛されることもない」
「そんなこと――」
ないはずだ、という言葉が口から出せない。
俺は覚えている。
誰も彼もが俺を見て見ぬふりをして、無視していくあの光景を。
世界に一人きりでいるよりも辛いであろう孤独を。
「……っ」
もはや現実か夢かも定かではないが――以前の俺はただ、誰かが自分の方に来てくれればいいなと、怠惰に、無意味に、待つだけだった。
心の中では多少の興味こそあれど、ただ願望を抱くだけで何もしない。
さらには、俺の手には届かないと決めつけて、俺には必要ないと見下しさえしていた。
そんな”愚かな”存在だったと、俺は、俺自身をそう思った。
「……俺は……どうすれば、いいんだ……」
絞り出すようにしか声が出せない。
何もしない自分を看過し、本当の意味で孤独になるのだけはもう、嫌だった。
「顔を上げて」
彼女はさっきまでとは打って変わって、感情のある、しかし厳粛な声になった。
どこかで聞いた覚えのある、厳しくも真っすぐな声。
「優劣ではない。まずは、今のあなた自身を受け入れましょう。全てはそこから」
「……でも、」
二の句が告げず、顔も上げられない。
今の俺にどうやって、自信を持てと言うのか――
「……やはり、俺は、」
その瞬間、途方もなく柔らかい何かに押し倒され、俺はベッドに転がった。
「――っ」
途端に身体で感じる、感触。匂い。雰囲気。
俺の全身と精神が、何かを理解する。理解させられる。
さっきまでは自覚こそできてなかった、0が1に、そして一瞬で100に変わる感覚。
「……ああ、とても嬉しいわ。
空っぽに見えるあなたでも、まだ亡くしていなかった。
顔を見なくても、答えを聞かなくても。 あなたを抱きしめるだけで、分かるわ」
何が自分に起きたのかは、はっきりと分からない。
ただ、どこか清々しい気分で、そして心臓が何度も強く跳ねて、頬が紅潮していた。
「……さあ。どうする? 朝起きてすぐだから、一日はまだ始まったばかりよ。
何をしたい?どこに行きたい?」
彼女に抱きしめられていたのだと、ようやく理解して、俺はただ答えた。
「あ……ああ。とりあえず、飯を食って、身なりを整えよう。
腹は減ったし、髪も髭も伸び放題、ろくに入浴も洗濯もしてない……。
このままじゃ、誰かに会いに行くのはよくない」
「ふふふ、そうね。格好つける必要はないから、まずは清潔さだけ気を付けましょう」
「……洗濯機を回して、その間に食事、終わったらシャワー……。
ああでも結局、今日着る服がないままか……」
「あらあら。それは大変ねえ。
……ところで、ベランダに干してあった服は、あなたのじゃないの?」
「え……?」
彼女が俺からゆっくり離れてカーテンを開けると、もうすでに日差しが差し込んできて、夏の片鱗を見せていた。
俺が窓からベランダを覗くと、確かにそこには夏によく着ていた服が何着か干してある。それらは汚れもなく、ちゃんと乾いていた。
「あ、あれ?」
「ちょうどいいわ、これを着ましょう。ちゃんと綺麗になってるみたいだし。
もちろん、お風呂場で身体を隅々まで綺麗にしてからね」
横に立つ彼女に促され、俺は髭を剃り、シャワーを浴び、全身をくまなく石鹸とシャンプーで洗い流す。それからベランダの服を取り込み、それを着た。
「ふう……さっぱりした。でも髪はさすがに、床屋にでも行かないと……」
「――そうかしら。凝った髪型じゃないけど、短めに纏まってるわよ?」
「短めなんて、そんな、わけ……」
その瞬間、気づいた時には頭が軽く感じた。
違和感に襲われながら鏡を見に行くと、肩ぐらいまで伸ばしっぱなしだった髪はショートヘアに切り揃えられ、風通しが随分良くなっていた。
「わけが……ないのに……いつの間に、こんな……」
「マアマア、変って程でもないし、それでいいじゃないの。そんなことより朝ごはんよ」
「……じゃあ、朝飯……ん?」
「あーら。いつの間にか、パンと目玉焼きが焼けたみたいね。それに珈琲のいい匂いも」
「え?……え?」
鼻をくすぐる、パンと卵の焼ける匂いと、香り高い珈琲の匂い。
「あ、そうだ、部屋の掃除もしないと食べる場所が――」
「そうかしら?大体片付いてて、けっこう綺麗に見えるけれど?」
「……な、」
周りを見ると、さっきまで部屋中にあったはずの、散らかった物やゴミがどこにもない。
「い……一体、これは……」
「そんなことより、ごはんをたべましょう。冷めちゃうと勿体ないわ」
「……」
すっかり綺麗に片付いた床に座り、二人で向かい合ってテーブルに着く。
「いただきます……うーん、もっとちゃんと勉強しないとだわ。
やはり初めてのことはなんだって難しいわ。あなたはもちろん、私もまだまだ浅学ね」
「……ん」
思考が状況についていかないまま、ただ珈琲と目玉焼きの乗ったパンを頬張る。
簡素な食事ではあるが、どこか美味しく感じた。
十分もしないうちに朝食は食べ終わり、俺は食器をシンクに置いた。
「大した量ではないし、今のうちに洗っておいたほうがいいんじゃない?」
「そう……するか」
何時ぶりにするかも分からない、食器の後片付け。
シンク自体も掃除した覚えがないのに、放置していたはずの食器や、汚れやくすみがない。
何もかもを不思議に感じながら、俺は食器を洗い終える。
「ほら、一人でできたわ。やるじゃない」
「……皿を洗ってただけじゃないか」
「それでも進歩でしょう?前まではやろうと思っても、しなかった事なんだから」
どこまでも優しい声とともに、彼女が背中をぽん、と叩いた。
「……そうかも、しれない」
「ええ。そうよ」
片づけが終わって部屋に戻ると、彼女は部屋のテレビをつけていた。
楽しそうなBGMとともに、はしゃぐ男女の姿が色々映されていく。
「……へえー。ここの近所で、遊園地タイプの、新しくできたデートスポットだって。
とっても広いから混みすぎないし、費用もお手頃。それに眺めもいいのね」
「あ……ああ」
「もう七月だし日差しはちょっと熱そうだけど、プールもあるのねえ。
ふんふん、水着や道具のレンタルもあるし、アトラクションもたくさん」
「……うん」
「映ってる子たちも楽しそうねえ。もし泳げなくても、いろんな遊びができるみたい」
テレビを眺める彼女の横顔は楽しそうに、にんまりと微笑んでいて。
さっきまでの厳粛な目つきも声色も、全く感じない。
破滅的なほど美しく思えた美貌は、今は子供のような純真さや、可愛らしさも多分に含んでいて。
「……ちょっと、待ってて」
俺は彼女には見えないように自分の鞄から財布を取り出し、中身を確認した。
「こんなに……お札、あったか?」
「どうしたのー?」
「い、いや。何でもない」
明らかに財布に入っていた金額は増えている。
銀行に貯金こそあったが、いつ卸したものかも分からない。
そして銀行通帳の残高も見たが、その金額は記憶とは殆ど誤差がなく、全く減っていないように思えた。
「……今回だけだ。
二回目からはちゃんと自分の力で稼いで、自分で納得できる金を使う……そうだ」
彼女に聞こえてしまわないように、俺は小さく呟く。
テレビの音量にかき消されたか、そもそも声にも出ていなかったかは分からない。
ともかく決意は固まった、後は行動するだけ。
「わっ、夏の間は二人だけで行くと割引なんだー。それも全費用の合計からなんて太っ腹ねえ」
俺の行動がどう転ぶかは分からない。それは不安で仕方がない。
何たって彼女はリリムだ。今の俺なんかと釣り合う相手か、と計算することさえ馬鹿らしくなる程の、圧倒的な差がそこにはある。
「……でも、」
たとえ上手くいかなくても、取り返しがつかない事じゃないはずだ。
俺はまだ彼女の事を殆ど知らない。
だからこそ不安だけど、そんなのは何だって当たり前なんだ。
もう二度と待つだけだった自分には戻らないと、ようやく決められた。
「あー、あの店のランチ、美味しそう。さっきの遊園地からすぐ近くだって」
テレビを見ながら、楽しそうにはしゃぐ彼女を見て。
「話があるんだけど、いいかな」
「もちろん。何か考え事をしてたみたいだけど、どうかした?」
「……俺、は……」
俺は、震える唇で言った。
「まだ俺は、君の事も、君の名前さえも知らないけど――今からでいい、知りたい。
もしよかったら、一緒に。俺と、遊びに行ってください」
一瞬だけ、”時間”が止まったような感覚がして。
「――ふふっ、奇遇だね。
私も、あなたをもっと知りたいって。
あなたと遊びに行ってみたいって、思ってたとこ」
夏のように眩しい、彼女の無垢な笑顔が、俺の記憶に焼き付いて。
俺が伸ばした手を、彼女は握ってくれて。
「さあ、早く行きましょう。 善は急げ、だもんね」
俺の時間が、動き出した。
18/11/28 16:46更新 / しおやき