あまがみシャーク
「……(あむあむ)」
「あの」
「……(かぷかぷ)」
「ねえ」
「……(がじがじ)」
「サーシャさん?」
僕が名前を呼ぶと、ようやく彼女は口を動かすのを止めて、僕の顔を見た。
「あぐあぐ……どうかしたか?」
変哲のない単身者用マンションで、僕と彼女は一ヶ月前から暮らすようになった。
僕はいたって普通の大学生だが、彼女、サーシャさんは女性ではあっても人間ではない。
彼女は『マーシャーク』という魔物だ。
鋭そうなぎざっとした歯や鮫肌など、サメの特徴を持った人魚、というのが近いだろう。白目の部分が黒くて、金色の瞳という特徴的な眼もその一つだ。
「ずーっと気になってたんだけど……どうしていっつも僕の手を噛んでくるの」
「これは……その、あたしらマーシャークの習性みたいなモンだ」
「ホネを齧る犬じゃないんだから……」
「そっ、そーいうんじゃねえよ!一緒にすんなっ!」
鮫のような鋭い歯を見せて威嚇してきたかと思うと、彼女はぷうっと小さく頬を膨らませる。
「ともかく、手を噛まれてるとパソコン触るのに困るから、ちょっと離して」
僕が強引に彼女から自分の左手を引きはがす。
すると名残惜しそうに上目づかいで僕を見た――かと思うと、
「あ。じゃあ、腕ならいいよな!」
「ダメ」
とか言って、今度は僕の二の腕を噛もうとしてくる。
サーシャさんと海で出会って助けられ、なぜか流れで初めて噛まれたときのように赤い飛沫こそ出ていないが、むずむずして仕方がない。
あの時は……強烈な疼きと熱さに襲われて、そのまま彼女に食べられてしまった。もちろん性的な意味で。
「じゃあ、どこならいいんだよ」
「今は忙しいから後で」
指の先っぽですら噛まれていると変な気分がこみ上げてしまうのに、腕まで噛まれたらどうなるか分かったものじゃない。
結局僕の長袖が捲り上げられなくて邪魔になり、どこも噛みにくいと判断したようだ。
「……ちぇっ」
まさしくお預けを食らった犬のようにしゅんとする彼女。
それを見ると、流石に悪いことをしてしまった気分になってくる。
「……レポート終わらせた後ならいいよ」
「! じゃあ終わったら、サカナ食べよう、サカナ!」
分かりやすく表情がぱあっと変わる。本当の姿でなら、ぶんぶんと尾を振っている所だろう。その光景が目に浮かぶ。
サーシャさんは魔物で、本来は人魚のような身体なのだが、今は人化の魔法とやらで人の姿になっている。見た目だけならどう見ても人間だ。
人間になった彼女は僕より少し背が高いし、肉付きもスタイルもいい。
でも服はファッション以前の問題で下着すら身に着けてくれず、着るのは大体黒いシャツと青のジーパンだけ。豊かな胸がシャツから透けて見えたりこぼれ出てしまわないかといつも心配になる。
「もう冷蔵庫には残ってないから、スーパーに行かないと」
「わかった!あたしもついてく!」
ただ、その見た目に反して中身は子供っぽいので、なんというかアンバランスである。
年齢が気になるが、流石に女性には面と向かって聞きづらい。『アンタよりは上だから、あたしがお姉さんだ!』とは彼女の弁だが。
「でもサーシャさん、歩くのは苦手でしょ。すぐに転びそうになるし、危ないよ」
ただ、人間の姿には成れても、慣れてるわけではないらしく、勝手が違うのか二本の足で歩く姿はどこかたどたどしい。
普通に歩くだけならともかく、階段や坂道ではよくバランスを崩して転びかける。
「やだ、一緒に行く!あたしがちゃんと守ってやらないとだからな!」
「……大丈夫かなあ」
相変わらず隙を見て僕を噛もうとする彼女を制しながら、課題のレポートを片付けていった。
「今日はいっぱいサカナが買えてよかったな!」
「うん、特売で安くなっててラッキーだったね」
結局レポートが終わった後、二人で買い物に行って食材を買ってきた。
案の定サーシャさんは何度か転びそうにはなったものの、僕が手を繋いで引いていくと途端にそれはなくなった。
不思議な話だが、彼女にもしものことがなかったのは幸いである。
あと、学校の制服を着た変わった女の子に「かっこいい、特に歯が」と言われたからか、サーシャさんはわりと上機嫌にもなっていた。
「じゃあ、今日もあたしが料理だ!あっちで待ってろよ!」
「うん、じゃあ頼むよ。後片付けは僕がするから」
彼女は魔物ゆえに生でも頭から魚を食せるが、流石に僕はそうはいかない。
”料理”という言葉すら知らなかったはずの彼女は、最初の最初こそまともな料理は作れなかった。
しかし、料理の基本知識やレシピを書いた本を渡すと、熱心にそれを読んでくれて、その次からは少なくとも食べられる物を出してくれるようになった。頭と要領はとても良いらしい。
「しゃーくねー、おーしゃんもんすた〜♪げらう〜、わいるゆーきゃん♪」
機嫌良さそうに歌いながら、調理する音が聞こえてくる。前に彼女と一緒に見た何かの曲らしかった。
そしてしばらく待っていると、サーシャさんが料理を運んでくる。
「おゆはんできたぞー!さあ、たーんと食べろ!」
「ありがとう。いただきます」
今日の献立は鮭のムニエルらしい。
二人で手を合わせ、一緒に夕ご飯を食べる。
最初の最初はやはり彼女の食べ方も滅茶苦茶だったのだが、食器の使い方や、こうしたほうが良いという所を教えると文句を言いながらも従ってくれたし、すぐに覚えてくれた。
見た目こそとても凶暴そうだけど、素直で優しい子なのは分かる。
「どうだ、今日のは? ”たるたるそーす”も自分で作ったんだぞ!」
「すごくおいしいよ。サーシャさんの優しさがこもってるみたい」
「そ、そっかな……くしし」
そして褒められると弱いらしく、すぐに照れる。強面な顔つきがぐにゃりと子供のような笑顔に変わる。
やはり人は……いやサメは見た目によらないらしい。
夕飯を食べ終えて、後片付けも終わると、自由な時間になる。
昨日給料が入ったので、僕は久しぶりにお酒とおつまみを買ってきた。
サーシャさんに興味津々な目で見つめられたため、一応二人分を買ってきたのだが、サーシャさんはお酒に強いのか。というか飲んでも大丈夫なのか。
アルコール度数の低いチューハイを選んだので、問題はないと思うけれど。
「がぶがぶ……このニク、美味いな!ホネもないからすごく食べやすい!」
「カルパスのほうが気に入ったかぁ……」
ご飯を食べたばかりなのに、凄いペースでカルパスが開けられていく。
肉と魚が主食で好物らしいので致し方ないところだ。
おつまみを齧るのに夢中で、僕を噛もうとしてこないのは少し安心だけど。
「よいしょ、っと。ちょっとトイレ」
「んぐんぐ……あーい」
カルパスを噛みながら彼女が返事する。
結局僕がチューハイ一缶飲む間に、彼女は一口も飲んでいなかった。
タブは開けたけれど、何度も匂いを嗅いでは飲まずに置いていた。サメは嗅覚がとても鋭いので危険だと感じたのかもしれない。
とにかく満足そうだしまあいいかと思いながら、用を足してまたリビングに戻る。
「ふう、じゃあサーシャさんのお酒はぼく……が……?」
すると、缶を逆さまにして、勢いよく中身のチューハイをごくごく飲み干していくサーシャさんが目に入った。
「ちょちょ、そんな一気に飲んだら……!」
慌てて止めようとしたものの、時すでに遅し。
「んぐっんぐっんぐっ、ふはぁ〜。しゅわしゅわしてヘンな味だけどこれもウマい!
あー、なんかイイ気分になってきたなぁ〜」
「だ、大丈夫、サーシャさん?」
「なーに言ってんだ、こんな水ぐらい、へーきに決まってるだろー?」
とは言うものの、明らかに体が揺れているし、目がとろんとしている。頬はまだ赤くなっていないが、単に皮膚には出ない体質ではないかと思えた。
チューハイ一缶とはいえ、酒に弱い体質で一気飲みすればこうなってもおかしくない。
「そんなことより……さあ。もうさっきのおやつ、なくなっちゃったんだよお。
今度はアンタのこと、噛んでもいいよな……?”めいんでぃっしゅ”にさあ……♪」
「もう……すぐにちゃんとしたお水持ってくるから待ってて」
僕は一度部屋から出て、冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに注ぎ、彼女に持っていく。
「はい、冷えたお水。悪酔いするといけないから水分を摂って」
彼女の傍に座って、テーブルにコップを置いてもそれには意を介さず、サーシャさんは僕の方へしなだれかかってくる。
「だからあ、大丈夫だって……。それより、さあ……ぎゅーっと、してくれよ」
「ちょ、ちょっと……どうしたの?」
サーシャさんは僕の胸元へ顔を近づけ、猫のように頬をすりすりと寄せてきた。
いつもの鋭い目つきが消え、眉が垂れて、悲しみに暮れるような表情と声。
「あたし……ほんとはとっても、コワいんだよ。
抱きしめたり、噛んだりしたら……アンタを傷つけちゃうんじゃないかって。
でもそれ以上に、コワいのは……。
こうでもして一緒にいないと……いつかあたしのそばから、離れていっちゃうかもってコトで……」
「サーシャさん……?」
彼女は恐々と怪我にでも触るかのように背中へ手を回してきながら、僕を見上げた。
「初めて会ったとき……あたしは海で怪我したアンタを助けて、海辺まで運んだけどさ。
あの時だって、次にまた、この海まで会いに来てくれるのかって……不安で仕方なかったんだ。
ヤクソクしてもらっても……心からは信じられなくて」
「でも、ちゃんと約束は守れたよ」
「うん……そう。あれから何度も、会いに来てくれた。晴れの日も、雨の日も……。
なのにさ、あたしは……もっと一緒に居たい、離れたくないって、思っちゃったんだ」
子供のようにおずおずとした口調と、ぎゅうっと僕にしがみついてくる身体。
さらに昼間の時みたいに、ときおり手もむぐむぐと噛んでくる。痛みこそ全くないけど、僕の体はやはり疼いてしまう。
「だから、使ったこともない、人の姿に成れる魔法を必死で覚えた。
慣れない陸に上がってでも、あんたと一緒にいたくて……仕方なかったんだ」
「……サーシャさん」
「なのに、こうやって一緒に住めて、それでも……そばにいないと、噛んでないと……落ち着かない。
ホントはもう、歩くのにも慣れてきたのに、手を繋いでてほしくて……転びそうなフリまでして。
また会えない時間が出来ちゃったら――って考えるだけで、カラダがぶるぶるするんだよ」
いつの間にか、サーシャさんはサメの混じった人魚のような、本来の姿に戻っていた。
白と蒼の肌やサメに似た尾、鮫肌であるざらっとした鱗が肌着越しに当たって、僕の全身が疼きそうになる。
さらによく見ると、長い耳(のようなもの)やヒレが小刻みに、不安さを訴えかけるように震えていた。
「大丈夫だよ、ちゃんと僕はここにいるから」
「それだけじゃ……足りない。
アンタに、よく頑張ったねって、褒められたい……撫でてほしい。
いっぱい、いっぱい甘えたいっ……なあっ、おねがいだよお……」
普段ならまず見せないであろう、強気で本音をごまかしたがる彼女の裏側が、酩酊で浮き彫りになっている。
凶暴なのに臆病。 強気だけど甘えたがり。
そんな彼女が見れて嬉しくて、愛おしくて、サーシャさんの頭を撫でる。
少しツンとした髪の毛も、ざらっとした鱗もさわり心地がよくて、夢中になりそうだった。
「んんっ……」
「僕のために頑張ってくれてありがとう、サーシャさん。
いつものちょっと怖そうな顔も、今の蕩けた顔も、どっちも可愛いよ」
「くしっ……♪嬉しいよぉっ、もっと、いっぱいなでなでしてぇ……♪」
「もちろん。頭が終わったら、全身を撫でてあげる」
「かぷぅ……ふあっ……そ、そこ、ビンカンだからぁ……やさしくぅっ……」
鮫肌を撫でるたびに、彼女の口から甘い吐息が零れる。かぷかぷと僕の身体を噛んでいた力がどんどん弱くなっていく。
そしてざらっとした肌に触れるたび、僕の興奮も高まっていく。理性が薄れて、とめどない欲望が溢れ出す。
それを決して見過ごさない彼女は、僕の耳元でささやいた。
「ね……べっど、つれてって……。
あたしのこと……好きって、いっぱい言って……アンタので、いっぱいにして……♪」
金色の瞳に見つめられながら、口づけを交わす。
その言葉から先は、よく覚えていない。
二人ともぎゅっとくっついたまま、ベッドの上で目覚めたので、一応は彼女を運んであげられたようだ。
僕の体には咬み跡がそこら中に付いていたし、シーツには匂いが染みつくくらい、滅茶苦茶に汚れてしまっていたけれど。
「……もうぜったい、あんなの飲まない」
ベッドの後片付けが終わったあと。
サーシャさんは僕から顔を隠すように背中を向けて、サメの姿のままでベッドに寝転がり続けていた。
「そんなに落ち込まなくても……」
「……あんなこと、思ってても、言うつもりなかったのに。
淋しがりで、面倒くさいヤツだなんて……思われたくなかったのに」
寝転がった彼女の背中から、そっと僕は近づく。
添い寝をするようにサーシャさんを抱きしめると、ほんのりした温かさと瑞々しい髪の匂いが伝わってきた。
あまり肌を擦りつけると興奮でまた二の舞になりそうなので、身体は動かさずにぎゅっとしたまま、優しく頭を撫でる。
「……サーシャさん。僕は、そんなサーシャさんも大好きだから。
たまにはまた、一緒に飲もうよ」
僕がそう言うと、彼女はくるりと身を反転させた。
そしてまた表情を隠すように素早く、僕の胸元へ顔を押し当てて抱きついてくる。
「……もうあんなのに、頼りたくない。
だから……飲まなくても……こうやって、甘えて……いいか」
「うん、もちろん」
咬み跡の残った僕の体を撫でながら、ぽつりぽつりと彼女がつぶやく。
「……いっぱい噛んで、ごめん」
「痛くないから大丈夫だよ」
「……ずっと抱きついてて、ごめん」
「ぎゅっとされてると安心するからいいよ」
「……ごめん」
少しの沈黙が続いて、また彼女のヒレが少し震えているのと、僕の服をきゅっと掴んでいるのとに、僕は気づく。
「謝られるよりも……僕はサーシャさんに、『ありがとう』って言って貰えたら、嬉しいな」
「……ぅ、」
また少しだけ静かになって。
彼女の震えが止まったかと思うと、サーシャさんが小さく言った。
「……ありがとう。……だいすき、だから……あたしも」
その声とともに、彼女がそっと顔を上げて、僕も下を向く。
頬を染め、ぎざっとした歯を見せて微笑むサーシャさんは、とても可愛らしく思えた。
「あの」
「……(かぷかぷ)」
「ねえ」
「……(がじがじ)」
「サーシャさん?」
僕が名前を呼ぶと、ようやく彼女は口を動かすのを止めて、僕の顔を見た。
「あぐあぐ……どうかしたか?」
変哲のない単身者用マンションで、僕と彼女は一ヶ月前から暮らすようになった。
僕はいたって普通の大学生だが、彼女、サーシャさんは女性ではあっても人間ではない。
彼女は『マーシャーク』という魔物だ。
鋭そうなぎざっとした歯や鮫肌など、サメの特徴を持った人魚、というのが近いだろう。白目の部分が黒くて、金色の瞳という特徴的な眼もその一つだ。
「ずーっと気になってたんだけど……どうしていっつも僕の手を噛んでくるの」
「これは……その、あたしらマーシャークの習性みたいなモンだ」
「ホネを齧る犬じゃないんだから……」
「そっ、そーいうんじゃねえよ!一緒にすんなっ!」
鮫のような鋭い歯を見せて威嚇してきたかと思うと、彼女はぷうっと小さく頬を膨らませる。
「ともかく、手を噛まれてるとパソコン触るのに困るから、ちょっと離して」
僕が強引に彼女から自分の左手を引きはがす。
すると名残惜しそうに上目づかいで僕を見た――かと思うと、
「あ。じゃあ、腕ならいいよな!」
「ダメ」
とか言って、今度は僕の二の腕を噛もうとしてくる。
サーシャさんと海で出会って助けられ、なぜか流れで初めて噛まれたときのように赤い飛沫こそ出ていないが、むずむずして仕方がない。
あの時は……強烈な疼きと熱さに襲われて、そのまま彼女に食べられてしまった。もちろん性的な意味で。
「じゃあ、どこならいいんだよ」
「今は忙しいから後で」
指の先っぽですら噛まれていると変な気分がこみ上げてしまうのに、腕まで噛まれたらどうなるか分かったものじゃない。
結局僕の長袖が捲り上げられなくて邪魔になり、どこも噛みにくいと判断したようだ。
「……ちぇっ」
まさしくお預けを食らった犬のようにしゅんとする彼女。
それを見ると、流石に悪いことをしてしまった気分になってくる。
「……レポート終わらせた後ならいいよ」
「! じゃあ終わったら、サカナ食べよう、サカナ!」
分かりやすく表情がぱあっと変わる。本当の姿でなら、ぶんぶんと尾を振っている所だろう。その光景が目に浮かぶ。
サーシャさんは魔物で、本来は人魚のような身体なのだが、今は人化の魔法とやらで人の姿になっている。見た目だけならどう見ても人間だ。
人間になった彼女は僕より少し背が高いし、肉付きもスタイルもいい。
でも服はファッション以前の問題で下着すら身に着けてくれず、着るのは大体黒いシャツと青のジーパンだけ。豊かな胸がシャツから透けて見えたりこぼれ出てしまわないかといつも心配になる。
「もう冷蔵庫には残ってないから、スーパーに行かないと」
「わかった!あたしもついてく!」
ただ、その見た目に反して中身は子供っぽいので、なんというかアンバランスである。
年齢が気になるが、流石に女性には面と向かって聞きづらい。『アンタよりは上だから、あたしがお姉さんだ!』とは彼女の弁だが。
「でもサーシャさん、歩くのは苦手でしょ。すぐに転びそうになるし、危ないよ」
ただ、人間の姿には成れても、慣れてるわけではないらしく、勝手が違うのか二本の足で歩く姿はどこかたどたどしい。
普通に歩くだけならともかく、階段や坂道ではよくバランスを崩して転びかける。
「やだ、一緒に行く!あたしがちゃんと守ってやらないとだからな!」
「……大丈夫かなあ」
相変わらず隙を見て僕を噛もうとする彼女を制しながら、課題のレポートを片付けていった。
「今日はいっぱいサカナが買えてよかったな!」
「うん、特売で安くなっててラッキーだったね」
結局レポートが終わった後、二人で買い物に行って食材を買ってきた。
案の定サーシャさんは何度か転びそうにはなったものの、僕が手を繋いで引いていくと途端にそれはなくなった。
不思議な話だが、彼女にもしものことがなかったのは幸いである。
あと、学校の制服を着た変わった女の子に「かっこいい、特に歯が」と言われたからか、サーシャさんはわりと上機嫌にもなっていた。
「じゃあ、今日もあたしが料理だ!あっちで待ってろよ!」
「うん、じゃあ頼むよ。後片付けは僕がするから」
彼女は魔物ゆえに生でも頭から魚を食せるが、流石に僕はそうはいかない。
”料理”という言葉すら知らなかったはずの彼女は、最初の最初こそまともな料理は作れなかった。
しかし、料理の基本知識やレシピを書いた本を渡すと、熱心にそれを読んでくれて、その次からは少なくとも食べられる物を出してくれるようになった。頭と要領はとても良いらしい。
「しゃーくねー、おーしゃんもんすた〜♪げらう〜、わいるゆーきゃん♪」
機嫌良さそうに歌いながら、調理する音が聞こえてくる。前に彼女と一緒に見た何かの曲らしかった。
そしてしばらく待っていると、サーシャさんが料理を運んでくる。
「おゆはんできたぞー!さあ、たーんと食べろ!」
「ありがとう。いただきます」
今日の献立は鮭のムニエルらしい。
二人で手を合わせ、一緒に夕ご飯を食べる。
最初の最初はやはり彼女の食べ方も滅茶苦茶だったのだが、食器の使い方や、こうしたほうが良いという所を教えると文句を言いながらも従ってくれたし、すぐに覚えてくれた。
見た目こそとても凶暴そうだけど、素直で優しい子なのは分かる。
「どうだ、今日のは? ”たるたるそーす”も自分で作ったんだぞ!」
「すごくおいしいよ。サーシャさんの優しさがこもってるみたい」
「そ、そっかな……くしし」
そして褒められると弱いらしく、すぐに照れる。強面な顔つきがぐにゃりと子供のような笑顔に変わる。
やはり人は……いやサメは見た目によらないらしい。
夕飯を食べ終えて、後片付けも終わると、自由な時間になる。
昨日給料が入ったので、僕は久しぶりにお酒とおつまみを買ってきた。
サーシャさんに興味津々な目で見つめられたため、一応二人分を買ってきたのだが、サーシャさんはお酒に強いのか。というか飲んでも大丈夫なのか。
アルコール度数の低いチューハイを選んだので、問題はないと思うけれど。
「がぶがぶ……このニク、美味いな!ホネもないからすごく食べやすい!」
「カルパスのほうが気に入ったかぁ……」
ご飯を食べたばかりなのに、凄いペースでカルパスが開けられていく。
肉と魚が主食で好物らしいので致し方ないところだ。
おつまみを齧るのに夢中で、僕を噛もうとしてこないのは少し安心だけど。
「よいしょ、っと。ちょっとトイレ」
「んぐんぐ……あーい」
カルパスを噛みながら彼女が返事する。
結局僕がチューハイ一缶飲む間に、彼女は一口も飲んでいなかった。
タブは開けたけれど、何度も匂いを嗅いでは飲まずに置いていた。サメは嗅覚がとても鋭いので危険だと感じたのかもしれない。
とにかく満足そうだしまあいいかと思いながら、用を足してまたリビングに戻る。
「ふう、じゃあサーシャさんのお酒はぼく……が……?」
すると、缶を逆さまにして、勢いよく中身のチューハイをごくごく飲み干していくサーシャさんが目に入った。
「ちょちょ、そんな一気に飲んだら……!」
慌てて止めようとしたものの、時すでに遅し。
「んぐっんぐっんぐっ、ふはぁ〜。しゅわしゅわしてヘンな味だけどこれもウマい!
あー、なんかイイ気分になってきたなぁ〜」
「だ、大丈夫、サーシャさん?」
「なーに言ってんだ、こんな水ぐらい、へーきに決まってるだろー?」
とは言うものの、明らかに体が揺れているし、目がとろんとしている。頬はまだ赤くなっていないが、単に皮膚には出ない体質ではないかと思えた。
チューハイ一缶とはいえ、酒に弱い体質で一気飲みすればこうなってもおかしくない。
「そんなことより……さあ。もうさっきのおやつ、なくなっちゃったんだよお。
今度はアンタのこと、噛んでもいいよな……?”めいんでぃっしゅ”にさあ……♪」
「もう……すぐにちゃんとしたお水持ってくるから待ってて」
僕は一度部屋から出て、冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに注ぎ、彼女に持っていく。
「はい、冷えたお水。悪酔いするといけないから水分を摂って」
彼女の傍に座って、テーブルにコップを置いてもそれには意を介さず、サーシャさんは僕の方へしなだれかかってくる。
「だからあ、大丈夫だって……。それより、さあ……ぎゅーっと、してくれよ」
「ちょ、ちょっと……どうしたの?」
サーシャさんは僕の胸元へ顔を近づけ、猫のように頬をすりすりと寄せてきた。
いつもの鋭い目つきが消え、眉が垂れて、悲しみに暮れるような表情と声。
「あたし……ほんとはとっても、コワいんだよ。
抱きしめたり、噛んだりしたら……アンタを傷つけちゃうんじゃないかって。
でもそれ以上に、コワいのは……。
こうでもして一緒にいないと……いつかあたしのそばから、離れていっちゃうかもってコトで……」
「サーシャさん……?」
彼女は恐々と怪我にでも触るかのように背中へ手を回してきながら、僕を見上げた。
「初めて会ったとき……あたしは海で怪我したアンタを助けて、海辺まで運んだけどさ。
あの時だって、次にまた、この海まで会いに来てくれるのかって……不安で仕方なかったんだ。
ヤクソクしてもらっても……心からは信じられなくて」
「でも、ちゃんと約束は守れたよ」
「うん……そう。あれから何度も、会いに来てくれた。晴れの日も、雨の日も……。
なのにさ、あたしは……もっと一緒に居たい、離れたくないって、思っちゃったんだ」
子供のようにおずおずとした口調と、ぎゅうっと僕にしがみついてくる身体。
さらに昼間の時みたいに、ときおり手もむぐむぐと噛んでくる。痛みこそ全くないけど、僕の体はやはり疼いてしまう。
「だから、使ったこともない、人の姿に成れる魔法を必死で覚えた。
慣れない陸に上がってでも、あんたと一緒にいたくて……仕方なかったんだ」
「……サーシャさん」
「なのに、こうやって一緒に住めて、それでも……そばにいないと、噛んでないと……落ち着かない。
ホントはもう、歩くのにも慣れてきたのに、手を繋いでてほしくて……転びそうなフリまでして。
また会えない時間が出来ちゃったら――って考えるだけで、カラダがぶるぶるするんだよ」
いつの間にか、サーシャさんはサメの混じった人魚のような、本来の姿に戻っていた。
白と蒼の肌やサメに似た尾、鮫肌であるざらっとした鱗が肌着越しに当たって、僕の全身が疼きそうになる。
さらによく見ると、長い耳(のようなもの)やヒレが小刻みに、不安さを訴えかけるように震えていた。
「大丈夫だよ、ちゃんと僕はここにいるから」
「それだけじゃ……足りない。
アンタに、よく頑張ったねって、褒められたい……撫でてほしい。
いっぱい、いっぱい甘えたいっ……なあっ、おねがいだよお……」
普段ならまず見せないであろう、強気で本音をごまかしたがる彼女の裏側が、酩酊で浮き彫りになっている。
凶暴なのに臆病。 強気だけど甘えたがり。
そんな彼女が見れて嬉しくて、愛おしくて、サーシャさんの頭を撫でる。
少しツンとした髪の毛も、ざらっとした鱗もさわり心地がよくて、夢中になりそうだった。
「んんっ……」
「僕のために頑張ってくれてありがとう、サーシャさん。
いつものちょっと怖そうな顔も、今の蕩けた顔も、どっちも可愛いよ」
「くしっ……♪嬉しいよぉっ、もっと、いっぱいなでなでしてぇ……♪」
「もちろん。頭が終わったら、全身を撫でてあげる」
「かぷぅ……ふあっ……そ、そこ、ビンカンだからぁ……やさしくぅっ……」
鮫肌を撫でるたびに、彼女の口から甘い吐息が零れる。かぷかぷと僕の身体を噛んでいた力がどんどん弱くなっていく。
そしてざらっとした肌に触れるたび、僕の興奮も高まっていく。理性が薄れて、とめどない欲望が溢れ出す。
それを決して見過ごさない彼女は、僕の耳元でささやいた。
「ね……べっど、つれてって……。
あたしのこと……好きって、いっぱい言って……アンタので、いっぱいにして……♪」
金色の瞳に見つめられながら、口づけを交わす。
その言葉から先は、よく覚えていない。
二人ともぎゅっとくっついたまま、ベッドの上で目覚めたので、一応は彼女を運んであげられたようだ。
僕の体には咬み跡がそこら中に付いていたし、シーツには匂いが染みつくくらい、滅茶苦茶に汚れてしまっていたけれど。
「……もうぜったい、あんなの飲まない」
ベッドの後片付けが終わったあと。
サーシャさんは僕から顔を隠すように背中を向けて、サメの姿のままでベッドに寝転がり続けていた。
「そんなに落ち込まなくても……」
「……あんなこと、思ってても、言うつもりなかったのに。
淋しがりで、面倒くさいヤツだなんて……思われたくなかったのに」
寝転がった彼女の背中から、そっと僕は近づく。
添い寝をするようにサーシャさんを抱きしめると、ほんのりした温かさと瑞々しい髪の匂いが伝わってきた。
あまり肌を擦りつけると興奮でまた二の舞になりそうなので、身体は動かさずにぎゅっとしたまま、優しく頭を撫でる。
「……サーシャさん。僕は、そんなサーシャさんも大好きだから。
たまにはまた、一緒に飲もうよ」
僕がそう言うと、彼女はくるりと身を反転させた。
そしてまた表情を隠すように素早く、僕の胸元へ顔を押し当てて抱きついてくる。
「……もうあんなのに、頼りたくない。
だから……飲まなくても……こうやって、甘えて……いいか」
「うん、もちろん」
咬み跡の残った僕の体を撫でながら、ぽつりぽつりと彼女がつぶやく。
「……いっぱい噛んで、ごめん」
「痛くないから大丈夫だよ」
「……ずっと抱きついてて、ごめん」
「ぎゅっとされてると安心するからいいよ」
「……ごめん」
少しの沈黙が続いて、また彼女のヒレが少し震えているのと、僕の服をきゅっと掴んでいるのとに、僕は気づく。
「謝られるよりも……僕はサーシャさんに、『ありがとう』って言って貰えたら、嬉しいな」
「……ぅ、」
また少しだけ静かになって。
彼女の震えが止まったかと思うと、サーシャさんが小さく言った。
「……ありがとう。……だいすき、だから……あたしも」
その声とともに、彼女がそっと顔を上げて、僕も下を向く。
頬を染め、ぎざっとした歯を見せて微笑むサーシャさんは、とても可愛らしく思えた。
18/10/25 01:16更新 / しおやき