あまやかすおおかみ
『貴方をあまやかしてくれるけものさんはいりませんか?』
珍しくとても早い時間に起きた、出勤前の朝。
暇つぶしに触っていたパソコンの画面に現れたのは、そんな触れ込みの広告ページだ。
「変だな、こういうのは自動的にブロックされてたはずだけど」
訝しみながらも僕はついその広告に目が行ってしまう。
そこに映っていたある女性に目を奪われてしまったからだ。
凛々しい狼のような顔をしていて、しかし体毛がある以外は均整の取れたプロポーションの、獣人とでも言うべきその姿。
色々な獣人……なぜか特に幼く見える子が妙なほど多いが、僕はその中では浮いた存在に見える、凛々しい狼獣人の姿にくぎ付けになっていた。
「たぶん着ぐるみ……だよな? すごい、今だとこんな高いクオリティのがあるのか」
思わず見惚れてしまうぐらい妖艶なスタイルと美貌に、気高い狼のような瞳と人間の混ざり合った風貌。
実家で犬と暮らしていたことのある僕はもちろん、動物に愛着のない人間でも振り向かせてしまいそうだ。
そしてその狼が自宅までやって来て、あなたをあまやかしてくれる、という紹介文。
「い、一回目は完全無料……か。それなら、ちょっとくらい試してみても――」
一度ページをクリックしてしまったら、後は流れるように。
自分が呼びたい”けものさん”の選択、日にちの設定、利用規約、会員登録。
安全のために確かめたが、驚くことに国の認可まで貰っているようなので、まるっきり詐欺ということもなさそうだ。あの狼女性はともかく、他の幼く見える子たちは法令的に大丈夫なのだろうか。
具体的に何をやってくれるかはほとんど書いていないが、一目見るだけでも価値がある。
すると早速、明日の土曜日の朝からあの狼がやってきてくれるという。
「ま、まあ。フォトショ加工とかもしてるだろうし、こんな綺麗な子は来ないだろうな」
心の中で予防線を張りながら、その日もいつも通り仕事へ向かった。
玄関のチャイムの音で目が覚める。
……時計を見ると、朝八時だ。
昨日は飲み会帰りで、先輩たちに呑まされすぎてしまったせいか、頭が痛い。土日と続けて休みを貰えた日だから、先輩方も分かっててやったのだろう。
重い身体を引きずりながら、覗き窓も使わず玄関扉を不用心に開ける。
「はい、どなたで……」
扉の前に立っていたのは、女性の身体をしたとても背の高い獣人だった。
「おう、おはよう。『あまやかすおおかみ』の天音(あまね)だ。
今日はよろしく頼むぜ、優太(ゆうた)さん」
「……へ?」
彼女の豊かな胸がちょうど僕の頭に来る所を見ると、その身長は2m近いかもしれない。
しかし不思議と恐怖や威圧感をあまり感じさせない、独特な雰囲気があった。
「昨日申し込んでくれただろ、忘れたのか?」
女性だと分かる程度に低い、ハスキーな凛とした声。
獣っぽい匂いと、女性特有の石鹸のようなほのかに甘い香りが混ざって鼻をくすぐる。
そして狼らしいマズルと、その特徴的な精悍さのある顔つきで、昨日の自分がしたことを、自分が選んだ狼のことをようやく思い出した。
「……ぐるる、あまり顔色が良くないな。さっそくだが上がらせてもらうぜ」
「え、あ、あの」
止める隙もなく、その女性は家の中へ入ってきた。
「おいおい……こりゃひどいな。家の中がごちゃごちゃじゃないか」
「す、すみません。最近仕事が忙しくて」
今回の休みで片付けようとは思っていたのだが、昨日はいつ寝たかも覚えてないぐらい酔っていたので、掃除する余裕すらなかった。
洗濯物や空容器の詰まった袋、読んだ本などがそこかしこに散乱してしまっている。
「まっ、そういうヤツのためにアタシらがいるわけだからな。
とはいえ、少しだが片付けさせてもらうぜ。
こんなんじゃリラックス出来るモンも出来ねえだろ」
「ご、ごめんなさい」
僕が何か言うより早く、天音と名乗った狼女性は床に落ちているものを片し始める。
手伝いながら、僕は不自然にならない程度に彼女の外見を眺めた。
「これはここに置いていいか?」
「あ、はい」
全体的に黒い身体と体毛に包まれ、燃えるような赤い瞳をしている。
もさもさとした狼耳や毛皮はぶ厚くも柔らかそうで、触り心地が良さそうだ。
手足には大きな爪があって物々しいが、怖いという程ではない。
毛皮のない剥きだしになった部分の肉体は、有名モデルのように整った美しさがある。しかし、下着すら履いていないので破廉恥この上ない。
「まあ、大ざっぱだがこんなモンか……次は朝飯だな」
「朝ごはん?」
「当然だろ? 朝食はエネルギーの源だ、ちゃんと食ってもらう。
……とはいえ、バリバリ自炊してるって感じでもないし、家に食材も残ってないな。
ちょっと待ってろ、ひとっ走り行ってくる」
「え、いや、あの――」
そう言って天音さんは凄い速さで玄関から出て行ってしまった。
僕は一人ぽつんと家に残されて、部屋には獣っぽい残り香だけが漂っている。
さっきまで彼女が居たのは夢だったのではないか、と思えてくるぐらいに非現実的だ。
だが、彼女の姿はどう考えても着ぐるみなんかじゃない。
瞬きから鼻を動かす仕草まで、生きているとしか思えないリアルさだった。
「いやでも、そんな生物が現実にいるわけが……」
実際に居たら大騒ぎになるだろう。騒ぎにならず道を歩いてくることさえ難しいはずだ。
しかし、彼女の存在は否定できない。いや、したくない。
キツネやタヌキにでも化かされているのかもしれないが、それでもいい。
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、十分もしないうちに玄関がまた開いた。
「ふーっ。近場で24時間営業のスーパーがあって助かったぜ。
おっと、お迎えご苦労。マア後は座って待ってな、すぐにメシ作ってやる」
両手に持ったスーパーの袋を床に置くと、天音さんは僕の背中をぐいぐい押してリビングに押し込む。身体に触れる肉球の柔らかさが印象的だ。
「顔見りゃ分かるけど、かなり疲れてるんだろ?
しばらく掛かるから、お前はそっちで休んでな」
どうやって騒ぎにもならず買い物をしてきたのかーーなんて聞く暇もなく、僕をキッチンから追い出すと、リビングとの扉がばたんと閉められる。
それから、調子のいい鼻歌と共に調理の準備をする音が聞こえてきた。
「……おいしい」
二人分の朝食を用意してくれた天音さんと一緒に、テーブルへ向かい合って座る。
良い匂いを漂わせる豚肉の生姜焼きは、思わず声が零れるほどの味だった。
「ぐるる、アタシが心こめて作ったんだ、マズイわけないだろ?」
天音さんは肉をメインに、主菜副菜汁物と揃った献立を作ってくれた。
肉の分量がかなり多いのは気になるが、そのどれもが美味で、丹精込めて作られたのが伝わるほどの料理である。
普段は朝から食欲が湧く事さえ少ないのに、夢中になって食べてしまう。
「あの。これもその、『あまやかすおおかみ』のサービスの一環なんですか?」
「んん? まあそうだけど、やらなきゃダメってわけでもないし、もちろん禁止ってわけでもない。
その辺は選んだヤツによって十人十色に変わってくるトコだ」
じゃがいもと三つ葉の入った味噌汁も美味しい。
僕の好きな具材が多い気がするが……まあ、流石にそれは偶然だろう。
「そうなんですか……じゃあ、天音さんを選んだのは正解かもしれませんね」
「おいおい。褒めるのはまだ早いっての」
僕がそう言うと、天音さんはぷいっと顔を背けて眉を曲げる。
黒い肌の色のせいで判然とはしないが、顔がちょっと赤いように見えた。さりげなく確認すると、耳や尻尾もぴこぴこと細かく動いている。
「いえいえ、そんなことないですよ。こんなに嬉しい朝食は久しぶりです」
「んん……ったく。 あ、味噌汁とご飯のおかわり、入れてきてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
目敏く、そして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる天音さんに、殆ど僕は見惚れていたと言ってもいい。
「豚肉がお好きなんですか?」
「ああ、そうだな。ただ、こっちだと魔界豚は中々手に入らないのがザンネンだ。
それはもう、舌でとろけるぐらいにウマい肉なんだが……」
「へえ……でもきっと、天音さんが作ってくれるなら、普通の豚肉だって同じくらいに美味しいですよ」
「むぐっ、ぐるるる……ホントにクチの上手いヤツだな」
二人で朝ごはんを食べ終えると、天音さんは食器の片付けまでやってくれた。
手伝うと言っても聞いてくれず、有無を言わさない肉食獣のような迫力で黙らされてしまう。
「待たせたな」
「ありがとうございます。仕事とはいえこんなことまで」
「アタシが好きでやってるコトだ、気にすんな。
じゃ、そろそろ本気でいくぜ……?」
さっき見せた気迫とはまた違う、艶やかな表情。
「え、えっと……具体的には、何を?」
「そりゃまあ、平たく言うと交尾だ。セックスだよ」
「へっ?!」
驚く僕を見て、一瞬きょとんとした顔になる天音さん。
「なんだ、そういうつもりじゃなかったのか?」
「いや……それってその、風俗というか、いかがわしい店というか……。
そんな雰囲気のサイトじゃなかったので」
「あー、お客は広いほうがいいからな。
あえてそういう形態にしてるって副店長やらタヌキやらラタトスクやらが言ってたっけ……。
わりィな、なんか誤解させちまって。お前が嫌なら無理強いはしねえよ」
天音さんは申し訳なさそうな声で頬を掻く。
でも整った顔はそう崩れることはなく、うな垂れていても凛々しいままだ。
「と、とんでもないです。むしろ、凄く嬉しい、というか……。
天音さんみたいな綺麗で優しい人になら、いくらでも――わぷっ?!」
恥ずかしさで目を逸らしていると、突然視界が暗くなる。
気が付くと、例えようもなく柔らかくて丸い何かが顔を、もふもふした黒い毛が僕の上半身を包んでいた。
「ぐるるる……ゾクゾクさせるようなコト言ってくれるじゃねえか。
これだけアタシを誘惑させたんだ、喰われちまっても文句はねえよなぁ……?」
荒々しい言葉とは裏腹に、溶かされるような甘い抱擁。
僕の顔を包んでいるのは言うまでもなく、天音さんの豊かな乳房だ。
「あ……は、はいっ……」
弱々しい返事しか返せなかったが、彼女は満足してくれたらしい。
なんとか上を向くと、にんまりと笑う表情が見えた。
僕を抱きしめたまま、天音さんは凄い力で僕を抱きかかえると、仰向けでベッドに寝かせてくれた。
そして、僕は一枚ずつ服を脱がされ、下着一枚だけになる。
もうパンツの下で股間が突っ張っているが、天音さんはそこにはまだ触れてこない。
「なあに、心配するな。オマエに疲れが溜まってるのは分かってんだ。
滅茶苦茶に犯してやるなんてコトはしねえよ。
それで――ひとつオマエに問題を出してやろう」
「も、問題……?」
天音さんは寝転んだ僕の横に添い寝をするように、身体を寄せてくる。
肌に触れる黒い毛は見た目よりも柔らかく、ふさふさとしていた。
「気持ちのいいセックスをするとき、最も大事なものはなんだと思う?」
「え……と、相手を思いやれるかどうか、とか?」
「マア、ちょっと抽象的だがアタシの考えとも似てるし、及第点にしてやるか。
人によって答えは違うだろうが――アタシはな。
お互いがお互いをしっかり受け入れていること。
そのうえで、心の底からリラックスできる状況だと思ってるんだ」
そう言いながら、彼女は僕の胸板をゆっくりと撫でた。
天音さんの掌は狼のような肉球になっていて、触れられるとぷにぷにして気持ちがいい。
大きく鋭い爪が触れても、少しひやっとするだけで痛みなどは全く感じない。
「じゃ、身体を横にして、こっちを向いてくれ」
言われるまま、僕は天音さんの方を身体ごと向く。これで向かい合って寝転ぶ形になった。
彼女は少し僕の位置を調整したあと、僕の眼前にその大きな乳房がくるようにする。
身体に不釣り合いという程でもないが、掌から零れそうなほどの豊かな膨らみで、思わず息を呑んでしまう。
「おいおい、そんなに緊張するな。リラックスが大事だって言っただろ」
「す、すみません。こんなに立派な物を現実で、それも間近で見るのは初めてなので」
「ぐるる……今からこのおっぱいで蕩けさせてやるよ。
余計なコトは考えなくていい、アタシのコトだけ考えてればイイぜ」
天音さんは腕を僕の頭の下に差し入れて、己の膨らみの間へ高さを合わせる。
そして彼女が密着してきて、ゆっくりと僕の顔が二つの乳房の間に挟み込まれていく。
全身に触れる天音さんの毛皮と、顔全体を包み込んでいく魔性の柔らかさ。
水風船のようにむにゅりと形を変えて、じんわりとした温もりで頭が包まれる。
胸の谷間にあるふわっとした体毛がまた肌をくすぐった。
「あ……ぁ……」
そのうっとりするような感触に、声を漏らす事しかできない。
先輩たちに連れて行かされた風俗店で似たような経験は無いでもないが、その時の心地よさとは比べ物にならない。
これはきっと人間相手では味わえない、人外だからこそもたらす悦楽だ。
やっぱり天音さんは人間ではないのだろうけど――そんなことはどうでもよくなってくる。
「オマエの蕩けてる顔が見えないのは少しザンネンだが……マア、それは後のお楽しみだな。
どうだ?アタマもなでなでして欲しいか……?」
「は、はい……」
ぼおっとする頭の中、返事をするのがやっとだった。
毛と肉球の付いた天音さんの掌が、僕の後頭部を優しく撫でてくる。
さらにぎゅっ、と全身を密着させて、自分の胸に僕を掻き抱く天音さん。少しの息苦しささえ気持ちいい。
手触りの良い毛皮、肉付きの良いむちむちとした柔さの肢体、頭を包みこむ乳房の感触。
いつの間にか、もう全身の力が抜けきっていた。
「どうだ?誰かに受け入れられて、全身を包まれるのってのは。溶けちまうだろ……?
しばらくの間は、こうしていよう。眠たくなったら、寝ちまってもイイぜ」
「ん……ぁ……」
いつもとは少し違う、ささやくような優しい天音さんの声。
本当に溶かされてしまいそうなほど身体が弛緩して、意識が遠のいていく。
でもまだこの心地よさを味わっていたくて、睡魔の誘惑に抵抗しようとする。
しかし快楽に溶ければ溶けるほど、その意思もまた掻き消えていった。
「ぐるる……本当に、カワイイヤツだな、オマエは♥
お楽しみはまだこれからなんだ……アタシのモノになるまで、可愛がってやる……♥」
ふっと居眠りから起きるように突然、僕の意識が点く。
視界は暗く、目前の毛皮が顔を包んでいる。身体中を包む柔さで、ぼんやりとさっきまでの記憶を取り戻す。
身体を捩じらせて天音さんの抱擁を崩すと、案外それはカンタンに解けた。
少しだけ離れたことで、彼女のぼんやりした表情が目に入る。
「……ん。おっと、アタシのほうも寝ちまってたか。だいぶ時間が経っちまったな……。
どうだ? 少しは体の重さが抜けたか?」
時計を見ると、もうとっくに昼も過ぎて夕方近くになっている。
「あ、はい。あんなにゆっくりと眠れたのは久しぶりです」
「そうか、随分疲れてたみたいだな。
頑張るのはイイけどよ、根詰めすぎてたら意味ないぜ?」
「そう、ですね……でも、やらないといけない事ですから」
「……何か、理由でもあるのか?」
うまく言えないが、天音さんはどことなく神妙な顔をする。
それは今日一日では見ることのなかった表情だ。
「いやあ、仕事柄苦労が絶えなくって、休みも不定期で。
覚悟して就いたつもりの職ですけど、全然足りなかったって、いつでも思ってます」
「……なるほど。だが、ちょっと気になるな。
これはオンナと野生の勘……としか言えねえが、それだけでもねえんだろ」
「分かるん、ですか」
天音さんの言葉に、僕は驚きを隠せない。
最初から僕の事を知っていたんじゃないかと思うくらい、鋭い指摘だった。
そして言うべきでないと思っていたことまで、つい話し出してしまう。
「……僕が働き出して数年経った頃に、両親が二人とも難病を患ってしまって、完治するのも難しい状況で。
”新療法”はあるらしいので試してはほしいんですが、前例が無いのもあって中々当人にも主治医にも受け入れて貰えないんです。
本来なら介護もしたいんですけど、仕事との両立は無理だって両親にも皆にも止められました。
けれど一般治療にも入院にも、やっぱりお金は掛かるんです。
幸い、どこでも働いた分、給料はそれなりに貰える職種でしたから。
じゃあ自分にできることはやっぱり、頑張ることしかなさそうで」
「……」
「学費だけでも親に苦労させてしまったのに、僕は親孝行なんてほとんどしてこなかった。
だから、必死になってるんでしょうね、ようやく。遅すぎたかもしれないですけど」
僕がそう言うと、少しの間だけ天音さんは宙に視線を向けて、表情を曇らせる。時計を見ているようでもなかった。
「やっぱり……一日仕事とはいえ、ラタトスクたちの言ってたことは確かだったな」
ぽつり、と小さな呟きが彼女の口から漏れる。それからまた少し、黙ってしまう。
言うべき言葉を探しているかのように。
そして何かを決心したような顔で、また僕を見つめた。
「サービスは夕飯の準備までだ。いいな」
「え?」
「悪ィな、これ以上は……たぶん、やるべきじゃねえって、思っちまって」
耳と尻尾をぺたんと伏せながら天音さんは起き上がり、キッチンへと歩いて行く。
その声にも歩き方にも、朝のような勢いはなかった。
結局、僕の分だけの夕飯をさっと作ると、天音さんはすぐに帰ってしまった。
昼とは少し味付けを変えた豚の生姜焼きと、軽いサラダに温めなおした味噌汁がテーブルに残されている。
箸を付けると、その料理たちはやはり美味しくて、舌と体に沁み渡っていく。
この味はもう食べられなくなるのだろうか――と思うと、心をきゅっと掴まれる気分だ。
「……天音さん」
今日会ったばかりの女性に、なぜここまで心惹かれているのか、自分でもわからない。
たった一日で彼女のことを知りえるはずがない。
ただ、どうしようもない空白が出来てしまったような思いになる。
食事を終えると、僕はベッドに転がった。
かすかに残った天音さんの匂いに包まれていると、ますます気持ちの整理がつかなくなる。
あれだけ寝たのだから眠いはずがないのに、ずっと眠っていたくなる。
でもやはり、意識を飛ばすことは出来ない。
天音さんへの想いを振り払おうとするあまり、彼女をより意識してしまう。
それでも微睡んでいると、いつしか朝日が窓から射す時間がやってきた。
いつもなら土日続けて休める日は大抵すっきりした気分なのに、一睡もしていないような気分だ。
顔を洗い、トイレに行った後で、僕はパソコンの電源を入れる。
そして金曜の夜に見たあのウェブサイトを開く。
「……あれ?」
くまなくページを探すが、彼女の写真が入ったリンクはどこにもない。
呼ぶ相手を決める画面まで遷移しても、やはり”天音”という名前も姿もなかった。
「……」
僕は少しだけ迷ったが、ページの下部に小さく書いてある店の番号へ電話を掛ける。
ワンコールですぐに誰かが通話に出た。
『はい、こちら○○店ですっ!ご予約でしょうかっ?!
今ならバフォメットという子がおススメなのじゃ……ですよっ♥』
元気の良い子供のような、伸びやかな女の子の声。
言葉づかいはやや怪しいが、丁寧な口調ではあった。
「あ、いえ。少し聞きたいことがあるんですが……。
そちらのお店に、天音さんという方はいませんか?」
『えっ?なーんだ……あー、すみません、ちょっとお待ちください』
明らかにトーンの下がった声で、保留音のメロディが流れる。
三十秒ほどでまた同じ子が電話に出た。
『えーっと、天音さんは今ちょっとサービスのほうはお休みしておりまして……。
もしかして、お客様は以前に彼女をご指名された方でしょうか?』
「は、はい。そうですが」
『天音さんから伝言をいただいてるんです。読み上げますね。
”アタシがいたら、きっとオマエの人生を滅茶苦茶にしちまう”
……だそうです。もしかしてサービスの間に、何か不手際でもありましたか?』
伝言と聞いて身構えてしまったが、その言葉だけでは天音さんの真意をうまく汲み取ることはできそうもない。
「いえ……とても素晴らしい方だったと思います。
でも、一緒に寝たあと、僕の体調を労わってくれていたと思ったら、突然ヒトが変わったようによそよそしくなって……。
僕のほうにも問題があったかもしれないので、ちゃんと謝りたいんです」
『そうですかぁ……ーん、やっぱりなあ。
ヘルハウンドの性質(たち)を考えると、そう思っちゃうのもムリないのじゃ……』
「? どういうことです?」
ヘルハウンド、という単語に聞き覚えはない。
いや、空想上の生物の名前でなら聞いた事はあるが、それとは関係ない……はずだ。
『あー、えーっと……ほんとはホーリツとか個人情報がなんたらかんたらでダメなんですけど、天音さんのご住所をお伝えします。
後の事は彼女から直接聞いてあげてください』
「え?え?いや、まずいでしょう!
それにそんないきなり押しかけたら、彼女も迷惑じゃ……」
『大丈夫ですっ!副店長のワタシが言うんだから問題ありません!
でもすぐには顔を出してくれないかもしれないので、根気よく待ってあげてくださいっ!」
天音はああ見えて、とっても繊細なのじゃ!』
「で、でも」
『でももデーモンもないのじゃっ!住所読み上げますのでちゃんとメモしてくださいっ!』
――そして勢いに押され、躊躇するのも止めた僕は、天音さんが住んでいるというマンションの部屋の前までやってきた。
何回かここの住人らしき人達とすれ違ったものの、さすがに天音さんのような獣人らしき外見の人は見かけない。女性ばかりだったのも単なる偶然だろう。
僕は一度深呼吸をしてからインターホンを鳴らす。
しかし反応はない。
一分ほど経ってから、またボタンを押す。
……やはり何も反応がない。
もう一度だけ、と決めてまたチャイムのボタンを押す。
すると、外からでもかすかに分かるほど乱暴な足音が聞こえてくる。
「おいっ!店にはしばらく戻らねえって、きの……う……」
不機嫌そうな怒号とともに、内開きの玄関ドアが荒っぽく開かれる。
そこには天音さんの面影を色濃く残した普通の女性が立っていた。
「な、なんで、オマエが」
「すみません、天音さん。お店に電話したときに、教えてもらってしまいました」
「お節介なことしやがって……ったく」
「ちょっとだけ、話をさせてもらっていいですか」
「……くそっ。分かったよ、入ってくれ」
緊張しながら、天音さんの家に上がる。
「……そんで、アタシの家まで来て何の用だ」
いつもの調子とは違う、ぶっきらぼうな声。
テーブルを挟んで座り、僕と天音さんは向かい合っている。
あとはベッドぐらいしかない簡素な部屋。家具も含め、なぜかほとんど物は置かれていない。まるで引っ越してきたばかりのようだ。
そして家の中に入るといつの間にか、天音さんは以前自宅で見たあの狼の姿になっていた。
「先日は……すみません。僕が何か気分を害してしまったかもしれません。
それだけは謝りたくて、つい店にまで連絡をして、家まで来てしまって。
本当に――」
頭を下げながら僕がそう言うと、
「違う」
ぽつりと小さな声で、天音さんがつぶやく。
「オマエに非は何もなかった。あれはアタシが勝手にやったことだ」
「……本当ですか?」
僕は顔を上げて、天音さんを見据えた。
とても真剣で鋭いその眼差しには射抜かれそうな気さえする。
「そんなんじゃ納得できねえ、ってツラだな。
だがオマエの反応を見てきた限り、アタシらヘルハウンド、いや魔物娘についても何一つ知らねえって感じだろ」
「ヘルハウンド……まものむすめ?」
聞きなれない単語の数々。しかし、冗談や誤魔化しで言っているという顔ではない。
「ちょっとばかし面倒だがオマエのためだ、説明してやる」
天音さんが言うには――、
今この国には水面下で活動している『魔物娘』という生物が数多くいる。
彼女たちは伴侶となる男性を求めて別の世界からやってきたという。
そして魔物娘の一種族であるのが”ヘルハウンド”で、天音さんもその一人だ。
「アタシらヘルハウンドは中でも格別にワガママで、自我の強い魔物娘でな。
標的として認識しちまったら、自分のモノだけにしようとしちまう。
他のコトなんざどうでもいい、自分が満足すりゃそれでいい――そんな種族なんだよ」
苦虫を噛んでいるような天音さんの顔。
次第に項垂れる頭と、声のトーンもそれに比例して、重苦しくなっていく。
「アタシはそんな自分をどうにかしたくて、あの店にいた。色んなコトを勉強した。
ま、そんな考えを持つこと自体、ヘルハウンドとしちゃ異端者なんだろうがな。
だけど……やっぱり習性ってヤツには逆らえねえんだ、アタシがアタシである限り。
一度でも身体を重ねたら、きっと毎日のように相手を求め続ける。
どんな事情があろうとお構いなしに、ヘトヘトになるまで犯しちまうだろうよ」
こちらを見ようとせず、自分に言い聞かせるような言葉が並ぶ。
ついには、うなだれたまま僕に背を向けて、顔を隠してしまう。
「分かっただろ?アタシと居ると、そいつの人生は滅茶苦茶になっちまう。
ホントはあの店にもいるべきじゃなかった。
アタシみたいなヤツが、誰かを甘やかすだなんて、あまりにも不似合なんだよ。
だから、もう、アタシのことなんて忘れて――」
そんな苦しさの中、絞り出すような声を、僕はそれ以上聞きたくなかった。
だから、思わず言ってしまった。
「嫌だ」
静かだった部屋の中から、さらに一切の音が消えてしまったような感覚。
「僕は貴方と居る間、天音さんに甘やかしてもらっている間、すごく幸せでした。
あれがウソや繕いだけから出た行動だったなんて、一つも思わなかった。
天音さんは、自分が思っているよりずっと、優しい方です」
天音さんの顔は見えない。何かを言い出そうとする様子もない。
「そんな貴方に、僕は心の底から求められたいです。
自分がそれに相応しい人間かどうかはわからないけど、そんなのどうだっていい。
たとえ天音さんが僕を毎日のように求めたとしても、僕はしっかり自分の人生を生きてみせます。
もし出来なかったとしても、それは僕のせいにしてくれていいんです。
天音さんだけが背負うことなんかじゃ、決してない」
だがわずかに、天音さんの背中が震えている気がした。
「……たった一日会っただけの男に、こんなこと言われても迷惑かもしれません。
でも、僕に甘えさせてくれたぶん、僕は貴方にも甘えてほしいんです。
たとえ天音さんが自分自身を信じられなくても、僕は信じます。
こんな頼りない男でもいいなら、ですけど、どうか僕と一緒にいてください」
それから、また少しだけ音のない時間が流れて。
「……ごめん。何も言わずに、聞かずに。
五分だけ、家の外にいてくれ」
天音さんがそう言ったので、僕は言うとおりに玄関ドアを開けて出ていく。
出て行ったのが分かるように、大げさな音を立てながら。
耳をそばだてずともかすかに聞こえる、ほんの僅かに伝わってくる、隠しきれない嗚咽の音。
僕はそれを聞かなかった振りをした。
―――――――――――――――――――――――――――
「ゆうた――優太。朝ごはんの準備、できたぜ」
ハスキーで凛とした、けれど優しい声。
目覚ましで起きる習慣はいつの間にかなくなっていて、今では毎日この声に起こされる。
「ん。おはよう、天音さん」
「昨日も……随分絞っちまったからな。体調は大丈夫か?」
その大きな身体を覆いきれない小さめな、可愛らしいフリルの付いたエプロンを着ている天音さんが目に入った。
これを僕が選んで買った時は「似合わない」とか言ってあまり付けてくれなかったけれど、最近は毎日のように着てくれていた。
「うん。最近はむしろ、前よりずっと調子がいいぐらいだよ。
僕も”魔物”に近づいてるってことなのかな」
魔物娘と交わった人間は、遅かれ早かれインキュバスと呼ばれる魔物になる。
姿形はそのままだが、体力や魔力(僕にはまだよく分からないが)も人間とはかけ離れた程に強くなっていく。
天音さんはそのことを完全には知っておらず、彼女の周りにいた他の子たちのほとんども、それに気付くことはなかったらしい。
店から離れた魔物娘は夫と居るのに尽力するため、あまり話をする機会もなかったのだろう。
「まったく……あいつもヒトが、いやバフォメットが悪いぜ」
あのバフォメットの副店長だけは気付いていたようだが――それを知った上で天音さんを選ぶ者こそが彼女に相応しい、と考えていた節があったらしく、黙っていたと聞いた。
彼女には祝言ついでに外見が幼くなるという薬まで渡されたが、まだ使ったことはない。
「まあ、魔力に鈍感なアタシじゃまだ完全に成ったかどうかはわからねえ。
それにインキュバスとやらになっても疲れないワケじゃないんだし……」
「大丈夫、ちゃんと気を付けるよ。それより早く、君のご飯が食べたい」
僅かに漂ってくる匂いで、空腹はかなり刺激されていた。
「おっと……それもそうだな。冷める前に食べてほしいし。
そうだ、アタシが抱っこして運んでやろうか?」
「えっ? うーんと、」
さすがにそこまでは――と少しだけ思ったけれど、やっぱり断る気は起きなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ぐるるる……イイ子だ♪ 落ちたりしないように、ちゃんとアタシに抱きつくんだぞ♥」
「うん、ありがとう」
そういうと、天音さんは僕をお姫様抱っこでダイニングまで運んでいく。
恥ずかしさはもちろん多分にあるのだけど、それよりも遥かに嬉しさが増している。
何より、彼女の満足する顔を見ているのが僕にとっては一番の満足だった。
「そういやオマエの親御さん、かなり良くなったって聞いたぜ」
「うん。新しい”治療法”を試してもらうのに、だいぶ時間は掛かったけど。
説得に乗ってくれてよかったよ」
あれから約半年が経って、身近にでも色々なことが変わった。
僕を含めた説得の末に”魔物になる”という治療法を両親は受け入れてくれて、二人とも快方に向かっている。
「……たぶん、オマエの様子が変わってくれたおかげなんだろうな。
人間以外に成るなんて、そう簡単に受け入れられる話じゃない。
自分の子供が、本当に元気になってくれたから、親御さんも納得してくれたんだ」
洗い物を片付けながら、天音さんは背中越しで僕と話す。
「そうだね、僕も不安な所は……なかったと言えば、ウソになるかな。
でも、それで誰もが幸せになるなら、きっと他の人たちも受け入れてくれるはずだ」
世界はまだ彼女たち魔物娘を完全には受け入れていない。
甘言や快楽、そういった欲望に走ることを愚劣だと思い、拒否する人たちもいるという。
「ああ……ま、そうしたいヤツがそうすればいいさ。
欲望をゼンブ禁じた果てにあるモノなんて――大したモンじゃないとは思うけどな」
自分への戒めを込めるかのように、彼女は呟いた。
「あ、もうこんな時間か……そろそろ行かなきゃ。
今日は急患がなかったら、七時には帰れると思う」
「ああ。もし遅れそうなら電話頼むぞ」
いつものように、彼女は玄関先まで来て見送ってくれる。
ドアを開けようとしたところで、天音さんが僕の身体を掴んで強引に振り向かせた。
「おっと、忘れものだぜ」
そして優しく、そっと唇を重ねてくる。
「――っ」
そんな時間を忘れてしまいそうな口づけのあと、
『今夜も、たっぷり二人で甘えような』
他の誰にも聞こえないように、耳元で天音さんがささやく。
「ありがとう、天音さん。行ってきます」
「行ってらっしゃい、あなた」
僕の妻は、微笑みながら手と尻尾をぶんぶん振っていた。
珍しくとても早い時間に起きた、出勤前の朝。
暇つぶしに触っていたパソコンの画面に現れたのは、そんな触れ込みの広告ページだ。
「変だな、こういうのは自動的にブロックされてたはずだけど」
訝しみながらも僕はついその広告に目が行ってしまう。
そこに映っていたある女性に目を奪われてしまったからだ。
凛々しい狼のような顔をしていて、しかし体毛がある以外は均整の取れたプロポーションの、獣人とでも言うべきその姿。
色々な獣人……なぜか特に幼く見える子が妙なほど多いが、僕はその中では浮いた存在に見える、凛々しい狼獣人の姿にくぎ付けになっていた。
「たぶん着ぐるみ……だよな? すごい、今だとこんな高いクオリティのがあるのか」
思わず見惚れてしまうぐらい妖艶なスタイルと美貌に、気高い狼のような瞳と人間の混ざり合った風貌。
実家で犬と暮らしていたことのある僕はもちろん、動物に愛着のない人間でも振り向かせてしまいそうだ。
そしてその狼が自宅までやって来て、あなたをあまやかしてくれる、という紹介文。
「い、一回目は完全無料……か。それなら、ちょっとくらい試してみても――」
一度ページをクリックしてしまったら、後は流れるように。
自分が呼びたい”けものさん”の選択、日にちの設定、利用規約、会員登録。
安全のために確かめたが、驚くことに国の認可まで貰っているようなので、まるっきり詐欺ということもなさそうだ。あの狼女性はともかく、他の幼く見える子たちは法令的に大丈夫なのだろうか。
具体的に何をやってくれるかはほとんど書いていないが、一目見るだけでも価値がある。
すると早速、明日の土曜日の朝からあの狼がやってきてくれるという。
「ま、まあ。フォトショ加工とかもしてるだろうし、こんな綺麗な子は来ないだろうな」
心の中で予防線を張りながら、その日もいつも通り仕事へ向かった。
玄関のチャイムの音で目が覚める。
……時計を見ると、朝八時だ。
昨日は飲み会帰りで、先輩たちに呑まされすぎてしまったせいか、頭が痛い。土日と続けて休みを貰えた日だから、先輩方も分かっててやったのだろう。
重い身体を引きずりながら、覗き窓も使わず玄関扉を不用心に開ける。
「はい、どなたで……」
扉の前に立っていたのは、女性の身体をしたとても背の高い獣人だった。
「おう、おはよう。『あまやかすおおかみ』の天音(あまね)だ。
今日はよろしく頼むぜ、優太(ゆうた)さん」
「……へ?」
彼女の豊かな胸がちょうど僕の頭に来る所を見ると、その身長は2m近いかもしれない。
しかし不思議と恐怖や威圧感をあまり感じさせない、独特な雰囲気があった。
「昨日申し込んでくれただろ、忘れたのか?」
女性だと分かる程度に低い、ハスキーな凛とした声。
獣っぽい匂いと、女性特有の石鹸のようなほのかに甘い香りが混ざって鼻をくすぐる。
そして狼らしいマズルと、その特徴的な精悍さのある顔つきで、昨日の自分がしたことを、自分が選んだ狼のことをようやく思い出した。
「……ぐるる、あまり顔色が良くないな。さっそくだが上がらせてもらうぜ」
「え、あ、あの」
止める隙もなく、その女性は家の中へ入ってきた。
「おいおい……こりゃひどいな。家の中がごちゃごちゃじゃないか」
「す、すみません。最近仕事が忙しくて」
今回の休みで片付けようとは思っていたのだが、昨日はいつ寝たかも覚えてないぐらい酔っていたので、掃除する余裕すらなかった。
洗濯物や空容器の詰まった袋、読んだ本などがそこかしこに散乱してしまっている。
「まっ、そういうヤツのためにアタシらがいるわけだからな。
とはいえ、少しだが片付けさせてもらうぜ。
こんなんじゃリラックス出来るモンも出来ねえだろ」
「ご、ごめんなさい」
僕が何か言うより早く、天音と名乗った狼女性は床に落ちているものを片し始める。
手伝いながら、僕は不自然にならない程度に彼女の外見を眺めた。
「これはここに置いていいか?」
「あ、はい」
全体的に黒い身体と体毛に包まれ、燃えるような赤い瞳をしている。
もさもさとした狼耳や毛皮はぶ厚くも柔らかそうで、触り心地が良さそうだ。
手足には大きな爪があって物々しいが、怖いという程ではない。
毛皮のない剥きだしになった部分の肉体は、有名モデルのように整った美しさがある。しかし、下着すら履いていないので破廉恥この上ない。
「まあ、大ざっぱだがこんなモンか……次は朝飯だな」
「朝ごはん?」
「当然だろ? 朝食はエネルギーの源だ、ちゃんと食ってもらう。
……とはいえ、バリバリ自炊してるって感じでもないし、家に食材も残ってないな。
ちょっと待ってろ、ひとっ走り行ってくる」
「え、いや、あの――」
そう言って天音さんは凄い速さで玄関から出て行ってしまった。
僕は一人ぽつんと家に残されて、部屋には獣っぽい残り香だけが漂っている。
さっきまで彼女が居たのは夢だったのではないか、と思えてくるぐらいに非現実的だ。
だが、彼女の姿はどう考えても着ぐるみなんかじゃない。
瞬きから鼻を動かす仕草まで、生きているとしか思えないリアルさだった。
「いやでも、そんな生物が現実にいるわけが……」
実際に居たら大騒ぎになるだろう。騒ぎにならず道を歩いてくることさえ難しいはずだ。
しかし、彼女の存在は否定できない。いや、したくない。
キツネやタヌキにでも化かされているのかもしれないが、それでもいい。
そんなことを考えながら立ち尽くしていると、十分もしないうちに玄関がまた開いた。
「ふーっ。近場で24時間営業のスーパーがあって助かったぜ。
おっと、お迎えご苦労。マア後は座って待ってな、すぐにメシ作ってやる」
両手に持ったスーパーの袋を床に置くと、天音さんは僕の背中をぐいぐい押してリビングに押し込む。身体に触れる肉球の柔らかさが印象的だ。
「顔見りゃ分かるけど、かなり疲れてるんだろ?
しばらく掛かるから、お前はそっちで休んでな」
どうやって騒ぎにもならず買い物をしてきたのかーーなんて聞く暇もなく、僕をキッチンから追い出すと、リビングとの扉がばたんと閉められる。
それから、調子のいい鼻歌と共に調理の準備をする音が聞こえてきた。
「……おいしい」
二人分の朝食を用意してくれた天音さんと一緒に、テーブルへ向かい合って座る。
良い匂いを漂わせる豚肉の生姜焼きは、思わず声が零れるほどの味だった。
「ぐるる、アタシが心こめて作ったんだ、マズイわけないだろ?」
天音さんは肉をメインに、主菜副菜汁物と揃った献立を作ってくれた。
肉の分量がかなり多いのは気になるが、そのどれもが美味で、丹精込めて作られたのが伝わるほどの料理である。
普段は朝から食欲が湧く事さえ少ないのに、夢中になって食べてしまう。
「あの。これもその、『あまやかすおおかみ』のサービスの一環なんですか?」
「んん? まあそうだけど、やらなきゃダメってわけでもないし、もちろん禁止ってわけでもない。
その辺は選んだヤツによって十人十色に変わってくるトコだ」
じゃがいもと三つ葉の入った味噌汁も美味しい。
僕の好きな具材が多い気がするが……まあ、流石にそれは偶然だろう。
「そうなんですか……じゃあ、天音さんを選んだのは正解かもしれませんね」
「おいおい。褒めるのはまだ早いっての」
僕がそう言うと、天音さんはぷいっと顔を背けて眉を曲げる。
黒い肌の色のせいで判然とはしないが、顔がちょっと赤いように見えた。さりげなく確認すると、耳や尻尾もぴこぴこと細かく動いている。
「いえいえ、そんなことないですよ。こんなに嬉しい朝食は久しぶりです」
「んん……ったく。 あ、味噌汁とご飯のおかわり、入れてきてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
目敏く、そして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる天音さんに、殆ど僕は見惚れていたと言ってもいい。
「豚肉がお好きなんですか?」
「ああ、そうだな。ただ、こっちだと魔界豚は中々手に入らないのがザンネンだ。
それはもう、舌でとろけるぐらいにウマい肉なんだが……」
「へえ……でもきっと、天音さんが作ってくれるなら、普通の豚肉だって同じくらいに美味しいですよ」
「むぐっ、ぐるるる……ホントにクチの上手いヤツだな」
二人で朝ごはんを食べ終えると、天音さんは食器の片付けまでやってくれた。
手伝うと言っても聞いてくれず、有無を言わさない肉食獣のような迫力で黙らされてしまう。
「待たせたな」
「ありがとうございます。仕事とはいえこんなことまで」
「アタシが好きでやってるコトだ、気にすんな。
じゃ、そろそろ本気でいくぜ……?」
さっき見せた気迫とはまた違う、艶やかな表情。
「え、えっと……具体的には、何を?」
「そりゃまあ、平たく言うと交尾だ。セックスだよ」
「へっ?!」
驚く僕を見て、一瞬きょとんとした顔になる天音さん。
「なんだ、そういうつもりじゃなかったのか?」
「いや……それってその、風俗というか、いかがわしい店というか……。
そんな雰囲気のサイトじゃなかったので」
「あー、お客は広いほうがいいからな。
あえてそういう形態にしてるって副店長やらタヌキやらラタトスクやらが言ってたっけ……。
わりィな、なんか誤解させちまって。お前が嫌なら無理強いはしねえよ」
天音さんは申し訳なさそうな声で頬を掻く。
でも整った顔はそう崩れることはなく、うな垂れていても凛々しいままだ。
「と、とんでもないです。むしろ、凄く嬉しい、というか……。
天音さんみたいな綺麗で優しい人になら、いくらでも――わぷっ?!」
恥ずかしさで目を逸らしていると、突然視界が暗くなる。
気が付くと、例えようもなく柔らかくて丸い何かが顔を、もふもふした黒い毛が僕の上半身を包んでいた。
「ぐるるる……ゾクゾクさせるようなコト言ってくれるじゃねえか。
これだけアタシを誘惑させたんだ、喰われちまっても文句はねえよなぁ……?」
荒々しい言葉とは裏腹に、溶かされるような甘い抱擁。
僕の顔を包んでいるのは言うまでもなく、天音さんの豊かな乳房だ。
「あ……は、はいっ……」
弱々しい返事しか返せなかったが、彼女は満足してくれたらしい。
なんとか上を向くと、にんまりと笑う表情が見えた。
僕を抱きしめたまま、天音さんは凄い力で僕を抱きかかえると、仰向けでベッドに寝かせてくれた。
そして、僕は一枚ずつ服を脱がされ、下着一枚だけになる。
もうパンツの下で股間が突っ張っているが、天音さんはそこにはまだ触れてこない。
「なあに、心配するな。オマエに疲れが溜まってるのは分かってんだ。
滅茶苦茶に犯してやるなんてコトはしねえよ。
それで――ひとつオマエに問題を出してやろう」
「も、問題……?」
天音さんは寝転んだ僕の横に添い寝をするように、身体を寄せてくる。
肌に触れる黒い毛は見た目よりも柔らかく、ふさふさとしていた。
「気持ちのいいセックスをするとき、最も大事なものはなんだと思う?」
「え……と、相手を思いやれるかどうか、とか?」
「マア、ちょっと抽象的だがアタシの考えとも似てるし、及第点にしてやるか。
人によって答えは違うだろうが――アタシはな。
お互いがお互いをしっかり受け入れていること。
そのうえで、心の底からリラックスできる状況だと思ってるんだ」
そう言いながら、彼女は僕の胸板をゆっくりと撫でた。
天音さんの掌は狼のような肉球になっていて、触れられるとぷにぷにして気持ちがいい。
大きく鋭い爪が触れても、少しひやっとするだけで痛みなどは全く感じない。
「じゃ、身体を横にして、こっちを向いてくれ」
言われるまま、僕は天音さんの方を身体ごと向く。これで向かい合って寝転ぶ形になった。
彼女は少し僕の位置を調整したあと、僕の眼前にその大きな乳房がくるようにする。
身体に不釣り合いという程でもないが、掌から零れそうなほどの豊かな膨らみで、思わず息を呑んでしまう。
「おいおい、そんなに緊張するな。リラックスが大事だって言っただろ」
「す、すみません。こんなに立派な物を現実で、それも間近で見るのは初めてなので」
「ぐるる……今からこのおっぱいで蕩けさせてやるよ。
余計なコトは考えなくていい、アタシのコトだけ考えてればイイぜ」
天音さんは腕を僕の頭の下に差し入れて、己の膨らみの間へ高さを合わせる。
そして彼女が密着してきて、ゆっくりと僕の顔が二つの乳房の間に挟み込まれていく。
全身に触れる天音さんの毛皮と、顔全体を包み込んでいく魔性の柔らかさ。
水風船のようにむにゅりと形を変えて、じんわりとした温もりで頭が包まれる。
胸の谷間にあるふわっとした体毛がまた肌をくすぐった。
「あ……ぁ……」
そのうっとりするような感触に、声を漏らす事しかできない。
先輩たちに連れて行かされた風俗店で似たような経験は無いでもないが、その時の心地よさとは比べ物にならない。
これはきっと人間相手では味わえない、人外だからこそもたらす悦楽だ。
やっぱり天音さんは人間ではないのだろうけど――そんなことはどうでもよくなってくる。
「オマエの蕩けてる顔が見えないのは少しザンネンだが……マア、それは後のお楽しみだな。
どうだ?アタマもなでなでして欲しいか……?」
「は、はい……」
ぼおっとする頭の中、返事をするのがやっとだった。
毛と肉球の付いた天音さんの掌が、僕の後頭部を優しく撫でてくる。
さらにぎゅっ、と全身を密着させて、自分の胸に僕を掻き抱く天音さん。少しの息苦しささえ気持ちいい。
手触りの良い毛皮、肉付きの良いむちむちとした柔さの肢体、頭を包みこむ乳房の感触。
いつの間にか、もう全身の力が抜けきっていた。
「どうだ?誰かに受け入れられて、全身を包まれるのってのは。溶けちまうだろ……?
しばらくの間は、こうしていよう。眠たくなったら、寝ちまってもイイぜ」
「ん……ぁ……」
いつもとは少し違う、ささやくような優しい天音さんの声。
本当に溶かされてしまいそうなほど身体が弛緩して、意識が遠のいていく。
でもまだこの心地よさを味わっていたくて、睡魔の誘惑に抵抗しようとする。
しかし快楽に溶ければ溶けるほど、その意思もまた掻き消えていった。
「ぐるる……本当に、カワイイヤツだな、オマエは♥
お楽しみはまだこれからなんだ……アタシのモノになるまで、可愛がってやる……♥」
ふっと居眠りから起きるように突然、僕の意識が点く。
視界は暗く、目前の毛皮が顔を包んでいる。身体中を包む柔さで、ぼんやりとさっきまでの記憶を取り戻す。
身体を捩じらせて天音さんの抱擁を崩すと、案外それはカンタンに解けた。
少しだけ離れたことで、彼女のぼんやりした表情が目に入る。
「……ん。おっと、アタシのほうも寝ちまってたか。だいぶ時間が経っちまったな……。
どうだ? 少しは体の重さが抜けたか?」
時計を見ると、もうとっくに昼も過ぎて夕方近くになっている。
「あ、はい。あんなにゆっくりと眠れたのは久しぶりです」
「そうか、随分疲れてたみたいだな。
頑張るのはイイけどよ、根詰めすぎてたら意味ないぜ?」
「そう、ですね……でも、やらないといけない事ですから」
「……何か、理由でもあるのか?」
うまく言えないが、天音さんはどことなく神妙な顔をする。
それは今日一日では見ることのなかった表情だ。
「いやあ、仕事柄苦労が絶えなくって、休みも不定期で。
覚悟して就いたつもりの職ですけど、全然足りなかったって、いつでも思ってます」
「……なるほど。だが、ちょっと気になるな。
これはオンナと野生の勘……としか言えねえが、それだけでもねえんだろ」
「分かるん、ですか」
天音さんの言葉に、僕は驚きを隠せない。
最初から僕の事を知っていたんじゃないかと思うくらい、鋭い指摘だった。
そして言うべきでないと思っていたことまで、つい話し出してしまう。
「……僕が働き出して数年経った頃に、両親が二人とも難病を患ってしまって、完治するのも難しい状況で。
”新療法”はあるらしいので試してはほしいんですが、前例が無いのもあって中々当人にも主治医にも受け入れて貰えないんです。
本来なら介護もしたいんですけど、仕事との両立は無理だって両親にも皆にも止められました。
けれど一般治療にも入院にも、やっぱりお金は掛かるんです。
幸い、どこでも働いた分、給料はそれなりに貰える職種でしたから。
じゃあ自分にできることはやっぱり、頑張ることしかなさそうで」
「……」
「学費だけでも親に苦労させてしまったのに、僕は親孝行なんてほとんどしてこなかった。
だから、必死になってるんでしょうね、ようやく。遅すぎたかもしれないですけど」
僕がそう言うと、少しの間だけ天音さんは宙に視線を向けて、表情を曇らせる。時計を見ているようでもなかった。
「やっぱり……一日仕事とはいえ、ラタトスクたちの言ってたことは確かだったな」
ぽつり、と小さな呟きが彼女の口から漏れる。それからまた少し、黙ってしまう。
言うべき言葉を探しているかのように。
そして何かを決心したような顔で、また僕を見つめた。
「サービスは夕飯の準備までだ。いいな」
「え?」
「悪ィな、これ以上は……たぶん、やるべきじゃねえって、思っちまって」
耳と尻尾をぺたんと伏せながら天音さんは起き上がり、キッチンへと歩いて行く。
その声にも歩き方にも、朝のような勢いはなかった。
結局、僕の分だけの夕飯をさっと作ると、天音さんはすぐに帰ってしまった。
昼とは少し味付けを変えた豚の生姜焼きと、軽いサラダに温めなおした味噌汁がテーブルに残されている。
箸を付けると、その料理たちはやはり美味しくて、舌と体に沁み渡っていく。
この味はもう食べられなくなるのだろうか――と思うと、心をきゅっと掴まれる気分だ。
「……天音さん」
今日会ったばかりの女性に、なぜここまで心惹かれているのか、自分でもわからない。
たった一日で彼女のことを知りえるはずがない。
ただ、どうしようもない空白が出来てしまったような思いになる。
食事を終えると、僕はベッドに転がった。
かすかに残った天音さんの匂いに包まれていると、ますます気持ちの整理がつかなくなる。
あれだけ寝たのだから眠いはずがないのに、ずっと眠っていたくなる。
でもやはり、意識を飛ばすことは出来ない。
天音さんへの想いを振り払おうとするあまり、彼女をより意識してしまう。
それでも微睡んでいると、いつしか朝日が窓から射す時間がやってきた。
いつもなら土日続けて休める日は大抵すっきりした気分なのに、一睡もしていないような気分だ。
顔を洗い、トイレに行った後で、僕はパソコンの電源を入れる。
そして金曜の夜に見たあのウェブサイトを開く。
「……あれ?」
くまなくページを探すが、彼女の写真が入ったリンクはどこにもない。
呼ぶ相手を決める画面まで遷移しても、やはり”天音”という名前も姿もなかった。
「……」
僕は少しだけ迷ったが、ページの下部に小さく書いてある店の番号へ電話を掛ける。
ワンコールですぐに誰かが通話に出た。
『はい、こちら○○店ですっ!ご予約でしょうかっ?!
今ならバフォメットという子がおススメなのじゃ……ですよっ♥』
元気の良い子供のような、伸びやかな女の子の声。
言葉づかいはやや怪しいが、丁寧な口調ではあった。
「あ、いえ。少し聞きたいことがあるんですが……。
そちらのお店に、天音さんという方はいませんか?」
『えっ?なーんだ……あー、すみません、ちょっとお待ちください』
明らかにトーンの下がった声で、保留音のメロディが流れる。
三十秒ほどでまた同じ子が電話に出た。
『えーっと、天音さんは今ちょっとサービスのほうはお休みしておりまして……。
もしかして、お客様は以前に彼女をご指名された方でしょうか?』
「は、はい。そうですが」
『天音さんから伝言をいただいてるんです。読み上げますね。
”アタシがいたら、きっとオマエの人生を滅茶苦茶にしちまう”
……だそうです。もしかしてサービスの間に、何か不手際でもありましたか?』
伝言と聞いて身構えてしまったが、その言葉だけでは天音さんの真意をうまく汲み取ることはできそうもない。
「いえ……とても素晴らしい方だったと思います。
でも、一緒に寝たあと、僕の体調を労わってくれていたと思ったら、突然ヒトが変わったようによそよそしくなって……。
僕のほうにも問題があったかもしれないので、ちゃんと謝りたいんです」
『そうですかぁ……ーん、やっぱりなあ。
ヘルハウンドの性質(たち)を考えると、そう思っちゃうのもムリないのじゃ……』
「? どういうことです?」
ヘルハウンド、という単語に聞き覚えはない。
いや、空想上の生物の名前でなら聞いた事はあるが、それとは関係ない……はずだ。
『あー、えーっと……ほんとはホーリツとか個人情報がなんたらかんたらでダメなんですけど、天音さんのご住所をお伝えします。
後の事は彼女から直接聞いてあげてください』
「え?え?いや、まずいでしょう!
それにそんないきなり押しかけたら、彼女も迷惑じゃ……」
『大丈夫ですっ!副店長のワタシが言うんだから問題ありません!
でもすぐには顔を出してくれないかもしれないので、根気よく待ってあげてくださいっ!」
天音はああ見えて、とっても繊細なのじゃ!』
「で、でも」
『でももデーモンもないのじゃっ!住所読み上げますのでちゃんとメモしてくださいっ!』
――そして勢いに押され、躊躇するのも止めた僕は、天音さんが住んでいるというマンションの部屋の前までやってきた。
何回かここの住人らしき人達とすれ違ったものの、さすがに天音さんのような獣人らしき外見の人は見かけない。女性ばかりだったのも単なる偶然だろう。
僕は一度深呼吸をしてからインターホンを鳴らす。
しかし反応はない。
一分ほど経ってから、またボタンを押す。
……やはり何も反応がない。
もう一度だけ、と決めてまたチャイムのボタンを押す。
すると、外からでもかすかに分かるほど乱暴な足音が聞こえてくる。
「おいっ!店にはしばらく戻らねえって、きの……う……」
不機嫌そうな怒号とともに、内開きの玄関ドアが荒っぽく開かれる。
そこには天音さんの面影を色濃く残した普通の女性が立っていた。
「な、なんで、オマエが」
「すみません、天音さん。お店に電話したときに、教えてもらってしまいました」
「お節介なことしやがって……ったく」
「ちょっとだけ、話をさせてもらっていいですか」
「……くそっ。分かったよ、入ってくれ」
緊張しながら、天音さんの家に上がる。
「……そんで、アタシの家まで来て何の用だ」
いつもの調子とは違う、ぶっきらぼうな声。
テーブルを挟んで座り、僕と天音さんは向かい合っている。
あとはベッドぐらいしかない簡素な部屋。家具も含め、なぜかほとんど物は置かれていない。まるで引っ越してきたばかりのようだ。
そして家の中に入るといつの間にか、天音さんは以前自宅で見たあの狼の姿になっていた。
「先日は……すみません。僕が何か気分を害してしまったかもしれません。
それだけは謝りたくて、つい店にまで連絡をして、家まで来てしまって。
本当に――」
頭を下げながら僕がそう言うと、
「違う」
ぽつりと小さな声で、天音さんがつぶやく。
「オマエに非は何もなかった。あれはアタシが勝手にやったことだ」
「……本当ですか?」
僕は顔を上げて、天音さんを見据えた。
とても真剣で鋭いその眼差しには射抜かれそうな気さえする。
「そんなんじゃ納得できねえ、ってツラだな。
だがオマエの反応を見てきた限り、アタシらヘルハウンド、いや魔物娘についても何一つ知らねえって感じだろ」
「ヘルハウンド……まものむすめ?」
聞きなれない単語の数々。しかし、冗談や誤魔化しで言っているという顔ではない。
「ちょっとばかし面倒だがオマエのためだ、説明してやる」
天音さんが言うには――、
今この国には水面下で活動している『魔物娘』という生物が数多くいる。
彼女たちは伴侶となる男性を求めて別の世界からやってきたという。
そして魔物娘の一種族であるのが”ヘルハウンド”で、天音さんもその一人だ。
「アタシらヘルハウンドは中でも格別にワガママで、自我の強い魔物娘でな。
標的として認識しちまったら、自分のモノだけにしようとしちまう。
他のコトなんざどうでもいい、自分が満足すりゃそれでいい――そんな種族なんだよ」
苦虫を噛んでいるような天音さんの顔。
次第に項垂れる頭と、声のトーンもそれに比例して、重苦しくなっていく。
「アタシはそんな自分をどうにかしたくて、あの店にいた。色んなコトを勉強した。
ま、そんな考えを持つこと自体、ヘルハウンドとしちゃ異端者なんだろうがな。
だけど……やっぱり習性ってヤツには逆らえねえんだ、アタシがアタシである限り。
一度でも身体を重ねたら、きっと毎日のように相手を求め続ける。
どんな事情があろうとお構いなしに、ヘトヘトになるまで犯しちまうだろうよ」
こちらを見ようとせず、自分に言い聞かせるような言葉が並ぶ。
ついには、うなだれたまま僕に背を向けて、顔を隠してしまう。
「分かっただろ?アタシと居ると、そいつの人生は滅茶苦茶になっちまう。
ホントはあの店にもいるべきじゃなかった。
アタシみたいなヤツが、誰かを甘やかすだなんて、あまりにも不似合なんだよ。
だから、もう、アタシのことなんて忘れて――」
そんな苦しさの中、絞り出すような声を、僕はそれ以上聞きたくなかった。
だから、思わず言ってしまった。
「嫌だ」
静かだった部屋の中から、さらに一切の音が消えてしまったような感覚。
「僕は貴方と居る間、天音さんに甘やかしてもらっている間、すごく幸せでした。
あれがウソや繕いだけから出た行動だったなんて、一つも思わなかった。
天音さんは、自分が思っているよりずっと、優しい方です」
天音さんの顔は見えない。何かを言い出そうとする様子もない。
「そんな貴方に、僕は心の底から求められたいです。
自分がそれに相応しい人間かどうかはわからないけど、そんなのどうだっていい。
たとえ天音さんが僕を毎日のように求めたとしても、僕はしっかり自分の人生を生きてみせます。
もし出来なかったとしても、それは僕のせいにしてくれていいんです。
天音さんだけが背負うことなんかじゃ、決してない」
だがわずかに、天音さんの背中が震えている気がした。
「……たった一日会っただけの男に、こんなこと言われても迷惑かもしれません。
でも、僕に甘えさせてくれたぶん、僕は貴方にも甘えてほしいんです。
たとえ天音さんが自分自身を信じられなくても、僕は信じます。
こんな頼りない男でもいいなら、ですけど、どうか僕と一緒にいてください」
それから、また少しだけ音のない時間が流れて。
「……ごめん。何も言わずに、聞かずに。
五分だけ、家の外にいてくれ」
天音さんがそう言ったので、僕は言うとおりに玄関ドアを開けて出ていく。
出て行ったのが分かるように、大げさな音を立てながら。
耳をそばだてずともかすかに聞こえる、ほんの僅かに伝わってくる、隠しきれない嗚咽の音。
僕はそれを聞かなかった振りをした。
―――――――――――――――――――――――――――
「ゆうた――優太。朝ごはんの準備、できたぜ」
ハスキーで凛とした、けれど優しい声。
目覚ましで起きる習慣はいつの間にかなくなっていて、今では毎日この声に起こされる。
「ん。おはよう、天音さん」
「昨日も……随分絞っちまったからな。体調は大丈夫か?」
その大きな身体を覆いきれない小さめな、可愛らしいフリルの付いたエプロンを着ている天音さんが目に入った。
これを僕が選んで買った時は「似合わない」とか言ってあまり付けてくれなかったけれど、最近は毎日のように着てくれていた。
「うん。最近はむしろ、前よりずっと調子がいいぐらいだよ。
僕も”魔物”に近づいてるってことなのかな」
魔物娘と交わった人間は、遅かれ早かれインキュバスと呼ばれる魔物になる。
姿形はそのままだが、体力や魔力(僕にはまだよく分からないが)も人間とはかけ離れた程に強くなっていく。
天音さんはそのことを完全には知っておらず、彼女の周りにいた他の子たちのほとんども、それに気付くことはなかったらしい。
店から離れた魔物娘は夫と居るのに尽力するため、あまり話をする機会もなかったのだろう。
「まったく……あいつもヒトが、いやバフォメットが悪いぜ」
あのバフォメットの副店長だけは気付いていたようだが――それを知った上で天音さんを選ぶ者こそが彼女に相応しい、と考えていた節があったらしく、黙っていたと聞いた。
彼女には祝言ついでに外見が幼くなるという薬まで渡されたが、まだ使ったことはない。
「まあ、魔力に鈍感なアタシじゃまだ完全に成ったかどうかはわからねえ。
それにインキュバスとやらになっても疲れないワケじゃないんだし……」
「大丈夫、ちゃんと気を付けるよ。それより早く、君のご飯が食べたい」
僅かに漂ってくる匂いで、空腹はかなり刺激されていた。
「おっと……それもそうだな。冷める前に食べてほしいし。
そうだ、アタシが抱っこして運んでやろうか?」
「えっ? うーんと、」
さすがにそこまでは――と少しだけ思ったけれど、やっぱり断る気は起きなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ぐるるる……イイ子だ♪ 落ちたりしないように、ちゃんとアタシに抱きつくんだぞ♥」
「うん、ありがとう」
そういうと、天音さんは僕をお姫様抱っこでダイニングまで運んでいく。
恥ずかしさはもちろん多分にあるのだけど、それよりも遥かに嬉しさが増している。
何より、彼女の満足する顔を見ているのが僕にとっては一番の満足だった。
「そういやオマエの親御さん、かなり良くなったって聞いたぜ」
「うん。新しい”治療法”を試してもらうのに、だいぶ時間は掛かったけど。
説得に乗ってくれてよかったよ」
あれから約半年が経って、身近にでも色々なことが変わった。
僕を含めた説得の末に”魔物になる”という治療法を両親は受け入れてくれて、二人とも快方に向かっている。
「……たぶん、オマエの様子が変わってくれたおかげなんだろうな。
人間以外に成るなんて、そう簡単に受け入れられる話じゃない。
自分の子供が、本当に元気になってくれたから、親御さんも納得してくれたんだ」
洗い物を片付けながら、天音さんは背中越しで僕と話す。
「そうだね、僕も不安な所は……なかったと言えば、ウソになるかな。
でも、それで誰もが幸せになるなら、きっと他の人たちも受け入れてくれるはずだ」
世界はまだ彼女たち魔物娘を完全には受け入れていない。
甘言や快楽、そういった欲望に走ることを愚劣だと思い、拒否する人たちもいるという。
「ああ……ま、そうしたいヤツがそうすればいいさ。
欲望をゼンブ禁じた果てにあるモノなんて――大したモンじゃないとは思うけどな」
自分への戒めを込めるかのように、彼女は呟いた。
「あ、もうこんな時間か……そろそろ行かなきゃ。
今日は急患がなかったら、七時には帰れると思う」
「ああ。もし遅れそうなら電話頼むぞ」
いつものように、彼女は玄関先まで来て見送ってくれる。
ドアを開けようとしたところで、天音さんが僕の身体を掴んで強引に振り向かせた。
「おっと、忘れものだぜ」
そして優しく、そっと唇を重ねてくる。
「――っ」
そんな時間を忘れてしまいそうな口づけのあと、
『今夜も、たっぷり二人で甘えような』
他の誰にも聞こえないように、耳元で天音さんがささやく。
「ありがとう、天音さん。行ってきます」
「行ってらっしゃい、あなた」
僕の妻は、微笑みながら手と尻尾をぶんぶん振っていた。
18/10/11 19:59更新 / しおやき