”先輩” / シリアス / 現代
小学校へと向かう歩道を行く途中。
くいくい、と僕のシャツの右袖が三回、リズミカルに引っ張られた。
この合図は――、なんだろう?
歩みを止めることなく僕がふっと右下を向くのと同時に、先輩の小さな体がふわりと浮きあがっていた。
大きな赤い一つ目――比喩でなく本当に一つだけの目を――先輩はきゅっと閉じていた。白肌にほんの少しだけ桜色の混じった唇と、僕の唇が重なるようで……重ならない。
けど、先輩がほんの少しだけ漏らした吐息は妙に温く感じた。
「……、」
稀にこんなことをするせいで、僕の顔は火が出そうなほど赤い。
先輩は何も言わず、また僕の右側に身体を落ち着かせる。満足したのかもしれない。
歩くスピード(先輩は浮いているけれど)も全く変わらないままで、僕と先輩の距離感はまた元に戻った。
表情をあまり作らない先輩の心情は、数千ピースのミルクパズルより難解だろう。
「先輩、」
僕が呼びかけると、大きな一つ目をごろんと転がして、なんだと言わんばかりの目線を先輩はこっちに向ける。
「今日は早く帰れるといいですね」
先輩は聞いたような聞いてないような、投げやりなうなずきを返した。
先輩は人間ではない、らしい。
先輩は僕より年上だから”先輩”、らしい。
先輩はゲイザーという大きな一つ目と触手がうねうねな魔物らしい。
先輩は……、
先輩がどうして僕を気に入ったかは分からないけれど、先輩は僕のそばに付いて回っている。
登下校から休み時間に給食中、それに何故か授業中までも僕の横に浮いているのだ。自分の授業はいいのかと聞いてみても、
「……?」
と首を傾げるだけ。
しかも周りの人も何も言わない。周りの子も両親も先生もだ。
明らかにおかしいはずなのに――先輩に何か言っている人を見たことがない。
なので僕が机にかじりついて先生の話を聞いている今も、僕の横にふわふわと浮いているのだ。
そんな先輩を見ているとちょっとだけ羨ましい。
「……」
やがて先輩は話を聴くだけなのに飽きて、僕のノートに落書きをし始める。
もちろん鉛筆も僕のものを使って。
ぐりぐりと力強いタッチで描かれた大きな目玉から察するに、たぶん自画像のつもりなのだろう。
鋭そうなぎざっとした歯と、水晶玉みたいに大きな眼はかわいらしくデフォルメされている。
「……!」
そうしてにんまりと笑いながら、先輩は僕にそっと絵を見せつけてきた。
何も初めてのことじゃなく、何度か先輩は絵を描いたりする。
僕を描こうとして四苦八苦していることもあった。その時の絵は気に入らなかったのか、くしゃくしゃにして先輩がぽいっと捨ててしまったんだけど。
「マコトくん、授業中に落書きはだめよ。それに、あんな変な落書きは……」
放課後。
もう皆が出ていった教室で、先生は僕に言った。
産休で前までの先生が休みになり、代わりに入ってきた三年目の若い女先生だ。
そうはいっても――、
「あれはぼくが描いた絵じゃないですよ」
「でも……」
その先生は何故か、僕が”先輩”について話す事を咎める。
「たしかにまあ、ちょっと変な絵ですけど。でも僕の絵はもっと下手くそですから」
僕の横にいた先輩にはどうやら聞こえていないようでよかった。
もし聞かれていたら頭をはたかれていたに違いない。
「……先生ね、お話がしたいの。マコトくんのお母さんと」
「え、」
先生にそう言われるのは心外だった。
だってそれは、きっと良くない事をしたからに違いないから。
僕が何をしでかしたは分からないけれど、きっと怒られるような事なんだというのが僕には分かる。
「どうしてですか?」
「……あなたぐらいの子には、たまにあることなの。
”イマジナリー・フレンド”って言ってね。
でもそれは、お母さんとお話しすることだから、だいじょうぶ……」
「いまじなりい、ふれんど?」
僕の両肩に先生が優しく手を置く。
先輩は、小首を傾げているだけだった。
「あなたが見ているものはね――、」
僕は学校から帰ってきて、自分の部屋に籠る。
先生の言ったことが引っかかっていた。
「先輩、」
今も先輩は僕の傍にいる。
僕の部屋だけれど、先輩は我が物顔でふわふわと入ってくるから。
「先輩の事が見えるのは、僕だけなんですか」
僕の言葉に気付いた先輩は、
「……、」
『当たり前だ』と言いたげにうなずく。
「先生は、先輩が幻なんじゃないかって。本当はそんなヒトいないんだって言うんです」
「……!」
そう言うと先輩は怒ったように目つきを鋭くする。ちょっと怖い。
「先輩が書いた絵も、僕が書いたものなんだ――って」
言葉には出さず、先輩の表情ばかりが何か言いたげに変わっていく。
「でも、大丈夫です」
そう言った途端、先輩の訝しむ目はぴたっと止んで、
「僕は先輩の事、ちゃんと分かりますから」
それでいい、と言わんばかりにうなずいた。
――ある日。
山へ遠足に行く行事の日のコトだ。
そしてその日も、自由時間になってからどたばたと男子が暴れていた。
「や、やめてよ……っ」
「るっせーなー、おとなしくしろっ」
芝崎くんは、よく『プロレスごっこ』に付き合わされている。
それは遊びというより、ストレスの解消のようなもの。
『プロレスごっこ』と言いながら、一人の子をぶったり蹴ったりするだけでしかない。
教室でよくやっていたそれを、山の中でもクラスの皆がしていた。
”先輩”も、僕の後ろで怒ったような表情をして、その光景を見ていた。
「……やめなよ」
「あ?」
僕はやんわりと、芝崎くんを叩く手を遮るようにして言った。
「やめてあげて」
どうしてそうしようと思ったのかは分からない。
先輩が何か言ったわけじゃない。
芝崎くんに恩を売ろうと思ったわけでもない。
「……ふんっ」
「あいつ、最近調子乗ってるよな」
「そーそー、なんかヒトリゴトばっか言ってるし。気味悪い」
そして。
そのごっこ遊びを僕が止めようとした時に、何かが変わる気がした。
クラスの皆が僕を見る目つき。
芝崎くんは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「じゃあ芝崎の代わりにさ――これからあいつのコト―― しようぜ」
「さんせー。じゃあ、今からな――」
その言葉を、誰が言いだしたのかは分からない。
けれど、今まで話してくれていた子も、遊んでくれていた子も、僕のそばには来てくれなくなった。
それでも僕は平気だった。
僕の傍には先輩がいるから。
そのはずだった。
そのはずだったのに、
突然、先輩の姿は見えなくなった。
「先輩、」
いくら呼んでも、先輩の姿が見えない。
僕は先輩を探した。
山の中を、駆け巡った。
転んで足から血が出ても、泥まみれになっても、気にしなかった。
それでも先輩が、どこにも見つからない。
いつもそばにいてくれていたはずの先輩が、どこにもいない。
雨が降り始めた。
傘を持ってくるのを忘れた僕は、もうずぶ濡れになっていた。肌に濡れて張り付く服が気持ち悪い。
僕は一人だけ、何処か分からない獣道を歩いていて――
土が湿ってとても滑りやすくなっていたのに気づかなかった。
「うわっ!」
泥でぬかるんで、足を滑らせて――
「――っ、」
崖から滑り落ちそうになるところで、出っ張った木の根になんとかしがみ付いた。
細いそれは今にも折れそうにしなっている。
思わず僕は崖の下を見て、その高さに恐怖する。
ここから落ちたら助からない。
このままだと、落ちてしまう。
誰か。
誰か、助けて。
「先輩――」
その瞬間に、気づいた。
僕は今まで”先輩”と、触れ合ったことがないことに。
先輩の身体に触れた事なんて、たったの一度だってなかった。
「……ははっ」
そうか。
全部、嘘だった。
僕が見ていた物も、感じた物も、全部嘘だった。
全部、幻想だった。
「――初めて手を繋ぐんだから、もっとロマンチックにしたかったね」
僕が次に起きたのは、病院のベッドの上だった。
先生は「怪我がなくて良かったね」というばかりで、一体何があったのか教えてくれない。
クラスの皆も心配してくれたのか、僕のお見舞いに来てくれた。
その中に混じるようにして、病院にやってきた一人の女の子。
その子の、大きな赤い一つ目がごろんと動いて、僕を見る。
見えていた。
けれどそれが誰かは、見えなくても分かる気がした。
「先輩、」
にっこりと、先輩が微笑んだ。
くいくい、と僕のシャツの右袖が三回、リズミカルに引っ張られた。
この合図は――、なんだろう?
歩みを止めることなく僕がふっと右下を向くのと同時に、先輩の小さな体がふわりと浮きあがっていた。
大きな赤い一つ目――比喩でなく本当に一つだけの目を――先輩はきゅっと閉じていた。白肌にほんの少しだけ桜色の混じった唇と、僕の唇が重なるようで……重ならない。
けど、先輩がほんの少しだけ漏らした吐息は妙に温く感じた。
「……、」
稀にこんなことをするせいで、僕の顔は火が出そうなほど赤い。
先輩は何も言わず、また僕の右側に身体を落ち着かせる。満足したのかもしれない。
歩くスピード(先輩は浮いているけれど)も全く変わらないままで、僕と先輩の距離感はまた元に戻った。
表情をあまり作らない先輩の心情は、数千ピースのミルクパズルより難解だろう。
「先輩、」
僕が呼びかけると、大きな一つ目をごろんと転がして、なんだと言わんばかりの目線を先輩はこっちに向ける。
「今日は早く帰れるといいですね」
先輩は聞いたような聞いてないような、投げやりなうなずきを返した。
先輩は人間ではない、らしい。
先輩は僕より年上だから”先輩”、らしい。
先輩はゲイザーという大きな一つ目と触手がうねうねな魔物らしい。
先輩は……、
先輩がどうして僕を気に入ったかは分からないけれど、先輩は僕のそばに付いて回っている。
登下校から休み時間に給食中、それに何故か授業中までも僕の横に浮いているのだ。自分の授業はいいのかと聞いてみても、
「……?」
と首を傾げるだけ。
しかも周りの人も何も言わない。周りの子も両親も先生もだ。
明らかにおかしいはずなのに――先輩に何か言っている人を見たことがない。
なので僕が机にかじりついて先生の話を聞いている今も、僕の横にふわふわと浮いているのだ。
そんな先輩を見ているとちょっとだけ羨ましい。
「……」
やがて先輩は話を聴くだけなのに飽きて、僕のノートに落書きをし始める。
もちろん鉛筆も僕のものを使って。
ぐりぐりと力強いタッチで描かれた大きな目玉から察するに、たぶん自画像のつもりなのだろう。
鋭そうなぎざっとした歯と、水晶玉みたいに大きな眼はかわいらしくデフォルメされている。
「……!」
そうしてにんまりと笑いながら、先輩は僕にそっと絵を見せつけてきた。
何も初めてのことじゃなく、何度か先輩は絵を描いたりする。
僕を描こうとして四苦八苦していることもあった。その時の絵は気に入らなかったのか、くしゃくしゃにして先輩がぽいっと捨ててしまったんだけど。
「マコトくん、授業中に落書きはだめよ。それに、あんな変な落書きは……」
放課後。
もう皆が出ていった教室で、先生は僕に言った。
産休で前までの先生が休みになり、代わりに入ってきた三年目の若い女先生だ。
そうはいっても――、
「あれはぼくが描いた絵じゃないですよ」
「でも……」
その先生は何故か、僕が”先輩”について話す事を咎める。
「たしかにまあ、ちょっと変な絵ですけど。でも僕の絵はもっと下手くそですから」
僕の横にいた先輩にはどうやら聞こえていないようでよかった。
もし聞かれていたら頭をはたかれていたに違いない。
「……先生ね、お話がしたいの。マコトくんのお母さんと」
「え、」
先生にそう言われるのは心外だった。
だってそれは、きっと良くない事をしたからに違いないから。
僕が何をしでかしたは分からないけれど、きっと怒られるような事なんだというのが僕には分かる。
「どうしてですか?」
「……あなたぐらいの子には、たまにあることなの。
”イマジナリー・フレンド”って言ってね。
でもそれは、お母さんとお話しすることだから、だいじょうぶ……」
「いまじなりい、ふれんど?」
僕の両肩に先生が優しく手を置く。
先輩は、小首を傾げているだけだった。
「あなたが見ているものはね――、」
僕は学校から帰ってきて、自分の部屋に籠る。
先生の言ったことが引っかかっていた。
「先輩、」
今も先輩は僕の傍にいる。
僕の部屋だけれど、先輩は我が物顔でふわふわと入ってくるから。
「先輩の事が見えるのは、僕だけなんですか」
僕の言葉に気付いた先輩は、
「……、」
『当たり前だ』と言いたげにうなずく。
「先生は、先輩が幻なんじゃないかって。本当はそんなヒトいないんだって言うんです」
「……!」
そう言うと先輩は怒ったように目つきを鋭くする。ちょっと怖い。
「先輩が書いた絵も、僕が書いたものなんだ――って」
言葉には出さず、先輩の表情ばかりが何か言いたげに変わっていく。
「でも、大丈夫です」
そう言った途端、先輩の訝しむ目はぴたっと止んで、
「僕は先輩の事、ちゃんと分かりますから」
それでいい、と言わんばかりにうなずいた。
――ある日。
山へ遠足に行く行事の日のコトだ。
そしてその日も、自由時間になってからどたばたと男子が暴れていた。
「や、やめてよ……っ」
「るっせーなー、おとなしくしろっ」
芝崎くんは、よく『プロレスごっこ』に付き合わされている。
それは遊びというより、ストレスの解消のようなもの。
『プロレスごっこ』と言いながら、一人の子をぶったり蹴ったりするだけでしかない。
教室でよくやっていたそれを、山の中でもクラスの皆がしていた。
”先輩”も、僕の後ろで怒ったような表情をして、その光景を見ていた。
「……やめなよ」
「あ?」
僕はやんわりと、芝崎くんを叩く手を遮るようにして言った。
「やめてあげて」
どうしてそうしようと思ったのかは分からない。
先輩が何か言ったわけじゃない。
芝崎くんに恩を売ろうと思ったわけでもない。
「……ふんっ」
「あいつ、最近調子乗ってるよな」
「そーそー、なんかヒトリゴトばっか言ってるし。気味悪い」
そして。
そのごっこ遊びを僕が止めようとした時に、何かが変わる気がした。
クラスの皆が僕を見る目つき。
芝崎くんは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「じゃあ芝崎の代わりにさ――これからあいつのコト―― しようぜ」
「さんせー。じゃあ、今からな――」
その言葉を、誰が言いだしたのかは分からない。
けれど、今まで話してくれていた子も、遊んでくれていた子も、僕のそばには来てくれなくなった。
それでも僕は平気だった。
僕の傍には先輩がいるから。
そのはずだった。
そのはずだったのに、
突然、先輩の姿は見えなくなった。
「先輩、」
いくら呼んでも、先輩の姿が見えない。
僕は先輩を探した。
山の中を、駆け巡った。
転んで足から血が出ても、泥まみれになっても、気にしなかった。
それでも先輩が、どこにも見つからない。
いつもそばにいてくれていたはずの先輩が、どこにもいない。
雨が降り始めた。
傘を持ってくるのを忘れた僕は、もうずぶ濡れになっていた。肌に濡れて張り付く服が気持ち悪い。
僕は一人だけ、何処か分からない獣道を歩いていて――
土が湿ってとても滑りやすくなっていたのに気づかなかった。
「うわっ!」
泥でぬかるんで、足を滑らせて――
「――っ、」
崖から滑り落ちそうになるところで、出っ張った木の根になんとかしがみ付いた。
細いそれは今にも折れそうにしなっている。
思わず僕は崖の下を見て、その高さに恐怖する。
ここから落ちたら助からない。
このままだと、落ちてしまう。
誰か。
誰か、助けて。
「先輩――」
その瞬間に、気づいた。
僕は今まで”先輩”と、触れ合ったことがないことに。
先輩の身体に触れた事なんて、たったの一度だってなかった。
「……ははっ」
そうか。
全部、嘘だった。
僕が見ていた物も、感じた物も、全部嘘だった。
全部、幻想だった。
「――初めて手を繋ぐんだから、もっとロマンチックにしたかったね」
僕が次に起きたのは、病院のベッドの上だった。
先生は「怪我がなくて良かったね」というばかりで、一体何があったのか教えてくれない。
クラスの皆も心配してくれたのか、僕のお見舞いに来てくれた。
その中に混じるようにして、病院にやってきた一人の女の子。
その子の、大きな赤い一つ目がごろんと動いて、僕を見る。
見えていた。
けれどそれが誰かは、見えなくても分かる気がした。
「先輩、」
にっこりと、先輩が微笑んだ。
15/07/10 22:29更新 / しおやき
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