もう少しだけ勇気が欲しい
僕のそばにある大樹の葉が、緩やかな風にそよいで揺れている。
どこまでも続く緑が見渡せる丘の上で、僕は今日もひとり、フルートを吹く。
僕の住んでいる町から離れたここは、僕のお気に入りの場所で、僕だけの練習場だ。
とてもじゃないけど、僕の演奏はまだまだ他人に聞かせられたものじゃない。
だから誰かの前で曲を吹いたことも、まだない。
自分の演奏を誰かに聞かれるのが恥ずかしい僕は、わざわざいつもここまで来て練習する。
もちろん、草原が横たわるこの景色が綺麗だから、というのもあるけれど。
特に気を入れて練習している曲が終わって、僕は一息つく。
その時突然、頭の後ろに何かが当たったのを感じた。
木の葉か何かだと思ったけど、よく見ると僕のそばには紙ひこうきが落ちていた。
誰が投げたんだろう、と思って周りを見渡してみるけれど、誰もいない。
よく見るとその紙ひこうきには、何か黒い物で文字が書いてあった。
気になった僕は、手に取って紙を開いてみる。
その紙には、子供が書いたような下手な字で『へたくそ』と書かれていた。
誰が書いたのかは分からないけれど、僕は少しムッとした。
練習中の曲なんだから、音が外れるのも仕方ないじゃないか――と、この紙飛行機を投げた人間に、心の中で抗議する。
これを投げたのが誰か突きとめたいけれど、その相手に直接言い訳をするのも気恥ずかしい。
僕は少し考えた後に、自分が一番自信のある曲を吹くことにした。
ちゃんと吹ける曲だってあるんだぞ、と、その人物に教えるように。
なんとか間違えずにその曲を吹き終わると、また僕の後ろ頭に紙ひこうきが当たった。
もう一度僕は周りを確かめるけれど、やっぱり誰もいない。
フルートを置いて中を開いてみると、やはり下手な字で『やるじゃん』と紙に書かれていた。
たったヒトコトだけど、僕はその言葉にちょっと嬉しくなる。
それからその紙をよく見てみると、僕はある事に気がついた。
この紙は楽譜で、その裏に文字が書いてある。しかもその楽譜は、前に僕がここでなくしてしまった物だった。
「……誰なんだろう」
折り跡のついた楽譜を見ながら、誰に言うでもなく僕はつぶやく。
もし紙ひこうきを投げた相手がいるとしたら、僕の傍にある大樹の後ろだろう。
でも僕は、それを確かめてみようとまでは思わなかった。
「誰か分からないけど、ありがとう。ちょっとだけ自信出たよ」
見えない誰かに答えるように、僕は言う。
けど、どこからも返事はなかった。
それから三日後。
また僕は草原の広がるいつもの丘で、木に寄りかかってフルートの練習をする。
何曲か吹いていると、前みたいに紙ひこうきが飛んできて、僕の頭へと当たった。
『あたしのうた きいてほしい』と、その紙には書かれていた。
この紙も僕がなくした楽譜で、やっぱり下手な字だったけど、ちょっとだけ上手になっている気がした。
それを読んだ僕は、聴かせてよ、と答えてみる。
少しだけ間をおいて、大樹の向こうから、メッゾソプラノの綺麗な声が流れてきた。
僕はその美しい声を聴いて、むかし両親と見に行った演劇に出てきた、男装をした麗人の歌声を思い出した。
芯があって重みのある、どちらかというと格好の良い声。
だけど子供のようなあどけなさも、その声の中にはあった。
そしてさらに、彼女が歌っているのが、僕の無くした楽譜の曲だということにも気が付いた。
曲が終わると、僕はその子に聞こえるように拍手をする。
「すごい。あんまり上手だから、びっくりしたよ」
僕がそう言うと、さっきの歌声とは違った優しい声で、「ありがと」と聞こえた。
その声でようやく僕は、大樹の向こうにいるのが女の子だと気づいた。
この樹の裏側にいるのは、一体どんな子なんだろう?
見に行って確かめてみたかったけれど、それをしてはいけないような気がした。
「君は、よくここに来るの?」
そう僕が聞くと、
「うん」
と、あの子が言った。
「僕も、練習する時はいつもここに来るんだ。
誰かに聞かれるのが恥ずかしくて、遠いのに、わざわざここまで来て練習しちゃう。
けど、君と会ってから、やっぱり誰かに聴いてもらいたくなって。
この前、勇気を出してみんなの前で吹いてみたんだ」
手元でフルートをいじりながら、僕は続ける。
「そしたら思った以上に褒められて、もうなんだか、どんどん練習したくなってきちゃって。
わざわざここに来る時間も、惜しくなっちゃうぐらい」
すると僕の言葉の後に、
「じゃあ……もうオマエは、ここに来なくなっちゃうのか?」
という、弱々しい、悲しそうな声が飛んできた。
「……そうでもないよ。ここの景色を見てると、やっぱりまた来たいって思う。
それに……迷惑かもしれないけど、なんだか君と会いたくなるんだ。
君のおかげで、なんていうか、踏み出せた気がする。
あのままだといつまで経っても、他人に聞かせようって、思わなかったかもしれない」
大樹の向こうから、「ありがと」という言葉が聞こえる。
どっちかというと、お礼を言いたいのは僕の方なのに。
「ねえ。君はどこに住んでるの? もし良かったら、僕のいる町に来てみない?
君の歌声なら、みんな聞き惚れると思うよ」
そう言って、僕は彼女の声が飛んでくるのを待つ。
けれど、いつまでたっても返事はない。
「……ごめん、無理に誘ったつもりじゃないんだ。
でも前から気になってたんだ、どうして君は、その、僕に会おうとしないの?」
もしかしたら、聞いてはいけない事を聞いてしまったのかもしれない。
風が少しだけ強く吹いて、木の葉が飛んでいく。
「あたしは、嫌われモノだから」
風に掻き消されそうなその言葉が、僕にはちゃんと聞こえた。
「……それって、どういうこと?」
僕が驚いて聞くと、すぐに返事が返ってくる。
「知りたい? ――あたしの姿を見たら、たぶん、分かるよ。
もう、あたしと会いたくなんてなくなるから。
それでもいいなら、見せてもいいけど。 ……どうする?」
突然の言葉に僕は、すぐに声がでない。
けれど「見たい」と言ってしまったら、きっと彼女を傷つけると、僕は思った。
僕は、彼女が投げてきた楽譜の紙ひこうきを思い出す。
「君のコトは見てみたい。けど、君が見てほしくないなら、見ようなんて思わないよ」
ただ紙ひこうきを投げたって、そうそう思い通りに、しかも同じところになんて飛ばせない。
つまり彼女には、それを可能にするような、普通じゃない何かがある。
わざわざこんな事をしてまで姿を見せないのには、とても重い理由があるはずなんだ。
「……そう言ってくれて、ほっとしたよ。
でも、あんたが『町に来て』って誘ってくれたの、嬉しかった。ありがとね」
僕と彼女はそのまま少しの間、樹を挟んで背中合わせでお喋りをしていた。
「――それでね、僕の友達は、ちゃんとした学校に行って、勉強してみたらって言うんだ。
そりゃ、僕だってそうしたいのは山々だけど、それにはお金も掛かるし、それで演奏家になれるかどうかも分かんない。
だったら今までどおり、気軽に練習していられればいいって――そう思う事もあるんだ」
「そうだねえ、どっちを選ぶかはあんた次第だけど。
あたしは、あんたならやれるって思うよ。お世辞なんかじゃなくてね」
「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ。
もう少しだけ、前向きに考えてみようかな」
「……そうだよ、それがいい。
あたしだってもっと、自分に自信があったらなぁって、思うんだよ。
そしたら――」
「そしたら?」
「――こうやって、あんたと背中越しで会う必要だってなくなるのに」
「たとえ君が誰だって、僕は驚かないよ。
君がその気になったら、いつだって君を見てみたい」
「……ありがと。でも、その一歩がまだ、あたしは踏み出せないんだ。
ほんの少し勇気を出せば、何かが変わるかもしれないのに。
それが出来ないんだ」
「僕と、同じだね」
「ああ、そういうコトさ」
それから、半年ほどが経って。
僕は結局、以前と変わらずあの丘に通っていたし、彼女も僕がいる時には、いつものように返事をしてくれた。
背中越しに会うたびに、僕らは他愛もない話をしたり、音楽を奏でていた。
あの子の歌に合わせてフルートを吹いて、二人の音色を交わらせる。
そうやって奏でる音が、僕は一番好きだった。
そしてある日、僕は一つの決断を迫られることになった。
両親や先生から、都会の音楽学校へ行って本格的に学んでみてはどうかと勧められたのだ。
もちろんそれは、音楽が好きな僕にとってこれ以上ない提案だろう。
しかし心を決めるには、都会で暮らす事への不安や、自分の才能への不信感と闘わなければいけなかった。
そして家族や親友と離れる事の辛さも、僕の決断に時間を取らせた。
あの丘で、僕の演奏を聴いてくれていたあの子とも会えなくなる。
姿も素性も知らない、謎の女の子。
なのに僕は一番先に、あの子との別れを惜しんでいたんだ。
ずっと迷ったままの僕は、いつの間にかあの丘へと来て、あの子と話をしていた。
「――君とは離れたくない。だけど、もっと音楽っていうものを学んでみたい。
僕は、どうすればいいんだろう。
もう明日には、行くか行かないか、決めなきゃいけないのに……」
それはいつものお喋りと同じく、大樹を挟んで、背中越しに。
「あたしだって、離れたくないよ。けど……そんなコトであんたを引き留めたくない。
ベツに、一生会えなくなるってわけじゃないんだから。
目の前にチャンスがあって、あんたはそれに手を伸ばせる。
だったら、飛びつかなきゃいけないだろ」
それは彼女が歌っている時のような、重く、深みを持った声で、僕に強く言い聞かせるようだった。
「……そうかもしれない。
けど今までなら、『遊びでやってたから』って言い訳が出来た。
その一言で周りのみんなも、自分も、誤魔化せたんだ。
でも学校に行って、ちゃんと勉強するって決めてしまったら、もう後には引けない。
もし自分の誇っていたものが、何の価値もないものだったらと思うと――怖いんだ」
あの子の深みある声に対して、僕の声は今にも泣きだしそうで、とても情けなかった。
こんなこと、友達や両親にだって打ち明けない。
僕の音楽をずっと聴いてくれていた、あの子にだからこそ零した、僕の本心だった。
「……ばあか。あんたなら、ちゃんとやれるよ。
それにさ、別に失敗したっていいじゃないか。どっちに転ぶかなんて、誰にだって分かるもんか。
好きになったんならさ、最後まで面倒見てやれよ」
彼女の言葉が、僕の胸に突き刺さっていく。
「僕には……勇気が、ないんだ……」
言葉を続けられなくなった僕は、体を丸くして、膝に顔を埋めてしまう。
「……勇気、か。
分かったよ。あたしも――カクゴ決める」
彼女の声が聞こえたけれど、僕は返事を返せなかった。
自信も勇気もない僕が、同じ土俵にいる他のみんなと比べられて、耐えられるワケが無い。
泥の中に埋もれるように、僕は卑屈な感情へと身を落としていく。
「ね。――カオ上げて、こっち見て」
ずっと背中からしか聞いた事がなかったあの子の声が、僕の前方から聞こえる。
つまり僕の目の前に、あの子がいる。
それに気が付いた僕は、ゆっくりと顔を上げていく。
「今までずっと黙ってて、ごめんね」
僕の目に映ったあの子の顔には、
「あたし、見ての通りの魔物なんだよ。
どう? 気持ち悪いだろ、こんな一つ目」
燃えるように赤い、一つ目があった。
「――けどさ、ちょっとだけガマンして、見ててくれよ。
――大丈夫。オマエの背中を、ほんのちょっと押してやるだけさ。あたしの”暗示”で、ね」
僕の視線は彼女の目玉に釘付けになって、そこから離すことが出来ない。
それはとても不思議な感覚だったけど、恐怖は感じなかった。
「――誰かと比べられることなんか、気にするな。
――オマエは自分の精一杯をやればいい。弱い所があるなら、ちょっとずつ強くしてけばいい。
――サイノウなんて関係ないんだ、楽しめばいいんだよ。
分かったら、」
あの子の綺麗な声が、僕の頭へ溶けていくように、染みわたっていく。
「――もっと自信を持って、堂々とした顔でいな。
オマエならきっとイイ演奏家になれるって、あたし、信じてるから」
ぼーっとしたまま、僕は彼女の声を受け入れていく。
彼女の、赤い一つ目に魅せられるように。
「……ははっ。
ほんとはオマエのこと、力ずくでだって、あたしのモノにしたかったけど……、
それでオマエが幸せになってくれるワケ、ないもんな。
でもさ、あたしは諦めてないよ。
あんたがいいオトコになるかどうか、もう少しの間……ガマンして、待ってるだけだ」
そう言って、彼女は大きな目をゆっくり閉じる。
彼女の長い黒髪が、さらさらと風に揺れていた。
「あれだけ格好つけて説教したんだ、あたしも、勇気出して言うよ。
だから……今から言うコトバは、”暗示”なんかにしない」
ぼんやりしていた僕の意識が戻ったかと思うと、また少しずつ、僕の体の感覚が薄れていく。
それでも、彼女が僕を強く抱きしめたのが分かった。
「もしあんたが、あたしの姿を見ても、また会いに来てくれるなら。
いつかここに、戻ってきて。
あたし、ずっと、待ってるっ、から……っ、 」
その言葉が終わった瞬間、僕は強烈な睡魔に襲われた。
彼女の赤い一つ目と黒髪と、真っ白な肌と、黒い蠢く何かが、僕の目に映る。
それはとても幻想的で、美しくて――
次に目覚めた瞬間、彼女の姿はどこにもなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
僕は久しぶりに故郷に戻り、家族や友人たちとの再会を祝った。
帰ってくるのはもう、七年ぶりになるだろうか。
帰郷する機会がなかったわけじゃないけど、自分の中で納得がいくまでは帰らなかった。
演奏家を志して生きる事は、予想以上に泥臭くて、厳しかったけれど、後悔はしていない。
何より僕が望んだ道なのだから、今からどう転んだって覚悟は決めている。
再会の祝いが落ち着いた次の日、僕は支度をして町の外へ出た。
お気に入りだった、草原を見渡せるあの丘へ行くために。
太陽が優しく照り、風と一緒に流れる草の匂いが春を告げる。
あの丘に着くと、どこまでも続く緑と、大きな樹が、いつものように僕を迎えてくれた。
けれど、彼女の姿はどこにもない。
もう使い古してしまったあの頃のフルートを取り出し、僕は音を奏でていく。
一音一音、確かめていくように。
演奏を続けるうちに、僕は彼女と過ごした日々を思い出す。
たとえ魔物だったとしても、彼女は僕にとってかけがえのない存在だった。
あの子の美しい歌声に、姿に、また会いたい。
そう思うたび涙で息が詰まって、フルートの音が崩れて、正しい音色が吹けなくなっていく。
君の為に吹こうと思っていた曲がたくさんあるのに、君の歌が聞こえてこないんだ。
背中越しだっていい、待たせた僕にどれだけ怒ったっていい。
また僕に、いつものように声を掛けてくれ。
こみ上げる嗚咽に耐え切れず、僕がフルートから口を離した瞬間。
温かい何かが、僕の背中を包む。
「おかえり」
あの子が、耳元で囁いた。
どこまでも続く緑が見渡せる丘の上で、僕は今日もひとり、フルートを吹く。
僕の住んでいる町から離れたここは、僕のお気に入りの場所で、僕だけの練習場だ。
とてもじゃないけど、僕の演奏はまだまだ他人に聞かせられたものじゃない。
だから誰かの前で曲を吹いたことも、まだない。
自分の演奏を誰かに聞かれるのが恥ずかしい僕は、わざわざいつもここまで来て練習する。
もちろん、草原が横たわるこの景色が綺麗だから、というのもあるけれど。
特に気を入れて練習している曲が終わって、僕は一息つく。
その時突然、頭の後ろに何かが当たったのを感じた。
木の葉か何かだと思ったけど、よく見ると僕のそばには紙ひこうきが落ちていた。
誰が投げたんだろう、と思って周りを見渡してみるけれど、誰もいない。
よく見るとその紙ひこうきには、何か黒い物で文字が書いてあった。
気になった僕は、手に取って紙を開いてみる。
その紙には、子供が書いたような下手な字で『へたくそ』と書かれていた。
誰が書いたのかは分からないけれど、僕は少しムッとした。
練習中の曲なんだから、音が外れるのも仕方ないじゃないか――と、この紙飛行機を投げた人間に、心の中で抗議する。
これを投げたのが誰か突きとめたいけれど、その相手に直接言い訳をするのも気恥ずかしい。
僕は少し考えた後に、自分が一番自信のある曲を吹くことにした。
ちゃんと吹ける曲だってあるんだぞ、と、その人物に教えるように。
なんとか間違えずにその曲を吹き終わると、また僕の後ろ頭に紙ひこうきが当たった。
もう一度僕は周りを確かめるけれど、やっぱり誰もいない。
フルートを置いて中を開いてみると、やはり下手な字で『やるじゃん』と紙に書かれていた。
たったヒトコトだけど、僕はその言葉にちょっと嬉しくなる。
それからその紙をよく見てみると、僕はある事に気がついた。
この紙は楽譜で、その裏に文字が書いてある。しかもその楽譜は、前に僕がここでなくしてしまった物だった。
「……誰なんだろう」
折り跡のついた楽譜を見ながら、誰に言うでもなく僕はつぶやく。
もし紙ひこうきを投げた相手がいるとしたら、僕の傍にある大樹の後ろだろう。
でも僕は、それを確かめてみようとまでは思わなかった。
「誰か分からないけど、ありがとう。ちょっとだけ自信出たよ」
見えない誰かに答えるように、僕は言う。
けど、どこからも返事はなかった。
それから三日後。
また僕は草原の広がるいつもの丘で、木に寄りかかってフルートの練習をする。
何曲か吹いていると、前みたいに紙ひこうきが飛んできて、僕の頭へと当たった。
『あたしのうた きいてほしい』と、その紙には書かれていた。
この紙も僕がなくした楽譜で、やっぱり下手な字だったけど、ちょっとだけ上手になっている気がした。
それを読んだ僕は、聴かせてよ、と答えてみる。
少しだけ間をおいて、大樹の向こうから、メッゾソプラノの綺麗な声が流れてきた。
僕はその美しい声を聴いて、むかし両親と見に行った演劇に出てきた、男装をした麗人の歌声を思い出した。
芯があって重みのある、どちらかというと格好の良い声。
だけど子供のようなあどけなさも、その声の中にはあった。
そしてさらに、彼女が歌っているのが、僕の無くした楽譜の曲だということにも気が付いた。
曲が終わると、僕はその子に聞こえるように拍手をする。
「すごい。あんまり上手だから、びっくりしたよ」
僕がそう言うと、さっきの歌声とは違った優しい声で、「ありがと」と聞こえた。
その声でようやく僕は、大樹の向こうにいるのが女の子だと気づいた。
この樹の裏側にいるのは、一体どんな子なんだろう?
見に行って確かめてみたかったけれど、それをしてはいけないような気がした。
「君は、よくここに来るの?」
そう僕が聞くと、
「うん」
と、あの子が言った。
「僕も、練習する時はいつもここに来るんだ。
誰かに聞かれるのが恥ずかしくて、遠いのに、わざわざここまで来て練習しちゃう。
けど、君と会ってから、やっぱり誰かに聴いてもらいたくなって。
この前、勇気を出してみんなの前で吹いてみたんだ」
手元でフルートをいじりながら、僕は続ける。
「そしたら思った以上に褒められて、もうなんだか、どんどん練習したくなってきちゃって。
わざわざここに来る時間も、惜しくなっちゃうぐらい」
すると僕の言葉の後に、
「じゃあ……もうオマエは、ここに来なくなっちゃうのか?」
という、弱々しい、悲しそうな声が飛んできた。
「……そうでもないよ。ここの景色を見てると、やっぱりまた来たいって思う。
それに……迷惑かもしれないけど、なんだか君と会いたくなるんだ。
君のおかげで、なんていうか、踏み出せた気がする。
あのままだといつまで経っても、他人に聞かせようって、思わなかったかもしれない」
大樹の向こうから、「ありがと」という言葉が聞こえる。
どっちかというと、お礼を言いたいのは僕の方なのに。
「ねえ。君はどこに住んでるの? もし良かったら、僕のいる町に来てみない?
君の歌声なら、みんな聞き惚れると思うよ」
そう言って、僕は彼女の声が飛んでくるのを待つ。
けれど、いつまでたっても返事はない。
「……ごめん、無理に誘ったつもりじゃないんだ。
でも前から気になってたんだ、どうして君は、その、僕に会おうとしないの?」
もしかしたら、聞いてはいけない事を聞いてしまったのかもしれない。
風が少しだけ強く吹いて、木の葉が飛んでいく。
「あたしは、嫌われモノだから」
風に掻き消されそうなその言葉が、僕にはちゃんと聞こえた。
「……それって、どういうこと?」
僕が驚いて聞くと、すぐに返事が返ってくる。
「知りたい? ――あたしの姿を見たら、たぶん、分かるよ。
もう、あたしと会いたくなんてなくなるから。
それでもいいなら、見せてもいいけど。 ……どうする?」
突然の言葉に僕は、すぐに声がでない。
けれど「見たい」と言ってしまったら、きっと彼女を傷つけると、僕は思った。
僕は、彼女が投げてきた楽譜の紙ひこうきを思い出す。
「君のコトは見てみたい。けど、君が見てほしくないなら、見ようなんて思わないよ」
ただ紙ひこうきを投げたって、そうそう思い通りに、しかも同じところになんて飛ばせない。
つまり彼女には、それを可能にするような、普通じゃない何かがある。
わざわざこんな事をしてまで姿を見せないのには、とても重い理由があるはずなんだ。
「……そう言ってくれて、ほっとしたよ。
でも、あんたが『町に来て』って誘ってくれたの、嬉しかった。ありがとね」
僕と彼女はそのまま少しの間、樹を挟んで背中合わせでお喋りをしていた。
「――それでね、僕の友達は、ちゃんとした学校に行って、勉強してみたらって言うんだ。
そりゃ、僕だってそうしたいのは山々だけど、それにはお金も掛かるし、それで演奏家になれるかどうかも分かんない。
だったら今までどおり、気軽に練習していられればいいって――そう思う事もあるんだ」
「そうだねえ、どっちを選ぶかはあんた次第だけど。
あたしは、あんたならやれるって思うよ。お世辞なんかじゃなくてね」
「ありがとう、そう言ってもらえて嬉しいよ。
もう少しだけ、前向きに考えてみようかな」
「……そうだよ、それがいい。
あたしだってもっと、自分に自信があったらなぁって、思うんだよ。
そしたら――」
「そしたら?」
「――こうやって、あんたと背中越しで会う必要だってなくなるのに」
「たとえ君が誰だって、僕は驚かないよ。
君がその気になったら、いつだって君を見てみたい」
「……ありがと。でも、その一歩がまだ、あたしは踏み出せないんだ。
ほんの少し勇気を出せば、何かが変わるかもしれないのに。
それが出来ないんだ」
「僕と、同じだね」
「ああ、そういうコトさ」
それから、半年ほどが経って。
僕は結局、以前と変わらずあの丘に通っていたし、彼女も僕がいる時には、いつものように返事をしてくれた。
背中越しに会うたびに、僕らは他愛もない話をしたり、音楽を奏でていた。
あの子の歌に合わせてフルートを吹いて、二人の音色を交わらせる。
そうやって奏でる音が、僕は一番好きだった。
そしてある日、僕は一つの決断を迫られることになった。
両親や先生から、都会の音楽学校へ行って本格的に学んでみてはどうかと勧められたのだ。
もちろんそれは、音楽が好きな僕にとってこれ以上ない提案だろう。
しかし心を決めるには、都会で暮らす事への不安や、自分の才能への不信感と闘わなければいけなかった。
そして家族や親友と離れる事の辛さも、僕の決断に時間を取らせた。
あの丘で、僕の演奏を聴いてくれていたあの子とも会えなくなる。
姿も素性も知らない、謎の女の子。
なのに僕は一番先に、あの子との別れを惜しんでいたんだ。
ずっと迷ったままの僕は、いつの間にかあの丘へと来て、あの子と話をしていた。
「――君とは離れたくない。だけど、もっと音楽っていうものを学んでみたい。
僕は、どうすればいいんだろう。
もう明日には、行くか行かないか、決めなきゃいけないのに……」
それはいつものお喋りと同じく、大樹を挟んで、背中越しに。
「あたしだって、離れたくないよ。けど……そんなコトであんたを引き留めたくない。
ベツに、一生会えなくなるってわけじゃないんだから。
目の前にチャンスがあって、あんたはそれに手を伸ばせる。
だったら、飛びつかなきゃいけないだろ」
それは彼女が歌っている時のような、重く、深みを持った声で、僕に強く言い聞かせるようだった。
「……そうかもしれない。
けど今までなら、『遊びでやってたから』って言い訳が出来た。
その一言で周りのみんなも、自分も、誤魔化せたんだ。
でも学校に行って、ちゃんと勉強するって決めてしまったら、もう後には引けない。
もし自分の誇っていたものが、何の価値もないものだったらと思うと――怖いんだ」
あの子の深みある声に対して、僕の声は今にも泣きだしそうで、とても情けなかった。
こんなこと、友達や両親にだって打ち明けない。
僕の音楽をずっと聴いてくれていた、あの子にだからこそ零した、僕の本心だった。
「……ばあか。あんたなら、ちゃんとやれるよ。
それにさ、別に失敗したっていいじゃないか。どっちに転ぶかなんて、誰にだって分かるもんか。
好きになったんならさ、最後まで面倒見てやれよ」
彼女の言葉が、僕の胸に突き刺さっていく。
「僕には……勇気が、ないんだ……」
言葉を続けられなくなった僕は、体を丸くして、膝に顔を埋めてしまう。
「……勇気、か。
分かったよ。あたしも――カクゴ決める」
彼女の声が聞こえたけれど、僕は返事を返せなかった。
自信も勇気もない僕が、同じ土俵にいる他のみんなと比べられて、耐えられるワケが無い。
泥の中に埋もれるように、僕は卑屈な感情へと身を落としていく。
「ね。――カオ上げて、こっち見て」
ずっと背中からしか聞いた事がなかったあの子の声が、僕の前方から聞こえる。
つまり僕の目の前に、あの子がいる。
それに気が付いた僕は、ゆっくりと顔を上げていく。
「今までずっと黙ってて、ごめんね」
僕の目に映ったあの子の顔には、
「あたし、見ての通りの魔物なんだよ。
どう? 気持ち悪いだろ、こんな一つ目」
燃えるように赤い、一つ目があった。
「――けどさ、ちょっとだけガマンして、見ててくれよ。
――大丈夫。オマエの背中を、ほんのちょっと押してやるだけさ。あたしの”暗示”で、ね」
僕の視線は彼女の目玉に釘付けになって、そこから離すことが出来ない。
それはとても不思議な感覚だったけど、恐怖は感じなかった。
「――誰かと比べられることなんか、気にするな。
――オマエは自分の精一杯をやればいい。弱い所があるなら、ちょっとずつ強くしてけばいい。
――サイノウなんて関係ないんだ、楽しめばいいんだよ。
分かったら、」
あの子の綺麗な声が、僕の頭へ溶けていくように、染みわたっていく。
「――もっと自信を持って、堂々とした顔でいな。
オマエならきっとイイ演奏家になれるって、あたし、信じてるから」
ぼーっとしたまま、僕は彼女の声を受け入れていく。
彼女の、赤い一つ目に魅せられるように。
「……ははっ。
ほんとはオマエのこと、力ずくでだって、あたしのモノにしたかったけど……、
それでオマエが幸せになってくれるワケ、ないもんな。
でもさ、あたしは諦めてないよ。
あんたがいいオトコになるかどうか、もう少しの間……ガマンして、待ってるだけだ」
そう言って、彼女は大きな目をゆっくり閉じる。
彼女の長い黒髪が、さらさらと風に揺れていた。
「あれだけ格好つけて説教したんだ、あたしも、勇気出して言うよ。
だから……今から言うコトバは、”暗示”なんかにしない」
ぼんやりしていた僕の意識が戻ったかと思うと、また少しずつ、僕の体の感覚が薄れていく。
それでも、彼女が僕を強く抱きしめたのが分かった。
「もしあんたが、あたしの姿を見ても、また会いに来てくれるなら。
いつかここに、戻ってきて。
あたし、ずっと、待ってるっ、から……っ、 」
その言葉が終わった瞬間、僕は強烈な睡魔に襲われた。
彼女の赤い一つ目と黒髪と、真っ白な肌と、黒い蠢く何かが、僕の目に映る。
それはとても幻想的で、美しくて――
次に目覚めた瞬間、彼女の姿はどこにもなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
僕は久しぶりに故郷に戻り、家族や友人たちとの再会を祝った。
帰ってくるのはもう、七年ぶりになるだろうか。
帰郷する機会がなかったわけじゃないけど、自分の中で納得がいくまでは帰らなかった。
演奏家を志して生きる事は、予想以上に泥臭くて、厳しかったけれど、後悔はしていない。
何より僕が望んだ道なのだから、今からどう転んだって覚悟は決めている。
再会の祝いが落ち着いた次の日、僕は支度をして町の外へ出た。
お気に入りだった、草原を見渡せるあの丘へ行くために。
太陽が優しく照り、風と一緒に流れる草の匂いが春を告げる。
あの丘に着くと、どこまでも続く緑と、大きな樹が、いつものように僕を迎えてくれた。
けれど、彼女の姿はどこにもない。
もう使い古してしまったあの頃のフルートを取り出し、僕は音を奏でていく。
一音一音、確かめていくように。
演奏を続けるうちに、僕は彼女と過ごした日々を思い出す。
たとえ魔物だったとしても、彼女は僕にとってかけがえのない存在だった。
あの子の美しい歌声に、姿に、また会いたい。
そう思うたび涙で息が詰まって、フルートの音が崩れて、正しい音色が吹けなくなっていく。
君の為に吹こうと思っていた曲がたくさんあるのに、君の歌が聞こえてこないんだ。
背中越しだっていい、待たせた僕にどれだけ怒ったっていい。
また僕に、いつものように声を掛けてくれ。
こみ上げる嗚咽に耐え切れず、僕がフルートから口を離した瞬間。
温かい何かが、僕の背中を包む。
「おかえり」
あの子が、耳元で囁いた。
13/11/24 19:46更新 / しおやき