『変わらぬ想い』を
いつから、わたしはお母さんとうまく話せなくなったんだろう。
父親は私が生まれてすぐに事故で亡くなり、母子家庭で育った私は、母よりもおじいちゃんが好きなおじいちゃんっ子だった。
おじいちゃんは「つゆりは母さんに似てるな」というのが口癖で、頑固なところはあったけど、父のいない私たち家族の事を、私のことを心配してくれて、よく家に遊びに来てくれた。
おばあちゃんが父よりも大分前に亡くなっていたことも、きっと関係あるとは思うけれど。
「つゆりは、どうしてお前の名前がつゆりだか知ってるか?」
「どうして?」
「ツユクサっていう、青い花を咲かせる花があるんだ。素朴な花で、あんまり見栄えはしないが。
うちの畑にも生えてる」
「お花なら、もっと大きいアサガオがよかったなぁ」
「たしかにツユクサは地味な花かもな。
ただ、お前の母さんの名前が梨由(りゆ)だから、そこから取ったとも言ってたよ。
それともうひとつ。ツユクサの花言葉、知ってるか」
「しらなーい」
溺愛されていたとは思うけれど、おじいちゃんは決して私を甘やかすわけではなく、悪い事は悪いとはっきり分別をつけて私を叱っていたと思う。
私は昔からいたずら好きな子だったけれど、おじいちゃんだけにはそんな事しなかった。
おじいちゃんが私に怒るのが、悲しむのが、心の底から怖くて。
だから、おじいちゃんがいつかはいなくなる事なんて、その時は知らなかったのだ。
幼稚園の頃は人見知りしない子だと言われて、どちらかといえばお転婆だった私。
小学生になってからも色んな友達ができていたし、外で遊ぶのも嫌いじゃなかった。砂遊びで男の子を泣かせたこともあった。
おじいちゃんに自分の考えたいたずらを話すのが、とても楽しかった。
少しずつ変わり出したのは中学校に入ってからだった。
私は勉強をそれなりにがんばって、家から遠い私立の中学校まで電車で通うことになった。
ただ夜まで頑張ったせいか目が悪くなって眼鏡を掛けるようになり、何度も眼鏡を踏んで割ってしまったのがきっかけで、激しいスポーツもしなくなった。
しかも小学校の頃にクラスで仲の良かった子が皆近くの公立中に行ってしまい、私は友達作りをまた一から始めなければならなかった。
人見知りじゃなかったはずの私はどこにも居なくて、クラスの子達と仲良くなれない。
電車で通わないといけないから放課後も一緒に遊びに行けない。
クラブ活動も、電車のせいで時間の縛られない文化系のものに入った。
おじいちゃんは手先が器用で、おばあちゃんより手芸が得意だった。それでよく私にそれを教えてくれたせいか、私もそれが趣味みたいになっていたので、結局私は手芸部に決めた。
でも母は、「それなら大丈夫そうね」と言うばかりで、またすぐに大きなノートパソコンへ目線を戻した。
ちょうどその一週間後。
学校まで母が迎えに来て「おじいちゃんの所へ行きましょうか」と、母さんに言われた。
母さんもその時だけは仕事を休んだらしく、病院へ私をそのまま運んで行ってくれた。
信号待ちをしていた車の中で私は、
「どうしてこんな急に会いに行くの?」
と、母さんに聞く。
車の中ではお母さんは答えてくれなかった。
病院に着いて、病室の前で初めて私に話しかけた。
「おじいちゃんに、甘えてあげて」
おじいちゃんは病室でずっと寝ていた。
私達が来ても起きず、病院にいた他の親戚のおじさんと話をしていても起きなかった。
その日の夜。
もうおじいちゃんはずっと起きないのだと、ようやく理解した。
「英語の小テストぜったいここ出るってー」
「範囲ここでしょ?それ昨日のだよ」
「うえーマジかー! やっちゃったわーははは」
中学校の教室の中、私はお弁当を食べ終わって一人静かに本を読んでいた。
周りは騒いでいるけれど、私に話しかける人はいない。あったとしても必要な用事だけ。
小学校で仲の良かった子達同士がグループを組んだり離れたりするのを、ただ黙って見ていた。
幸いと言っていいのか、誰かが学校に来れなくなるような、誰かが登校しなくなるような、そんないじめは私たちのクラスにないように思えた。少なくともわたしの見える範囲では。
友達と言えるような存在は私には無かったけれど、声を掛けて無視されたりすることもなかった。
ただ、それが無性に悲しいこともあった。
嫌悪されることはない、けれど意識されることもない。
いじめの気配には先生も敏感だったけれど、生徒の友人の有無には無関心だった。
私はスクールカーストの何処かも分からない場所で、ぼうっと立ちすくんでいたのだ。
家に帰っても、母さんはいつも夜遅くにようやく帰ってくる。
私は精一杯母さんが楽になるように、自分から家事のお手伝いもがんばっていたつもりだ。
洗濯だって掃除だって一人でできる、料理だって簡単なものなら作れる。
おじいちゃんが聞いたらきっと「わしの母さんみたいだな」と言ってくれた。頭を撫でてくれた。
家でさえ会う事が少なくて、”私のお母さん”に褒めてもらった記憶は、思い出せなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――私が覚えてることは、それぐらいかな」
僕の目前にたたずむ白髪の少女はそう言って、ゆっくり目を閉じた。彼女は大学生の僕より頭一つは小さく、話しぶりからしてまだ子供だろう。
僕とその少女は半径三メートルはあろうかという球状の大きな檻に囲まれ、その中で宙を浮くようにして向かい合っている。檻の中には灯火のような青い炎が入ったランプが吊るされていた。
昼のはずなのに薄暗い、大小たくさんの墓石が並んだ墓地の上空。
地面にも周囲をぐるりと囲む檻にも足は触れておらず、僕も少女もふわふわと浮いている。
まるで二人とも重力を持たなくなったみたいに。
「ね。そろそろ、落ち着いた?」
女の子は問いかけるように青い瞳で僕をじっと睨んだ。半眼でじとっとした目つきだったけれど口元は微笑んでいて、険悪な雰囲気は彼女から感じない。声色は暗いようにも、落ち着いているようにも聞き取れる。
黒いブラウスのような服(実体を持っているかどうかは分からないが)はスカートの部分が扇のように開いていて、そこからまた彼女の地肌が覗いている。
風が吹いたみたいに、腰まで伸びた長く真っ白い髪がふわりと揺れて、彼女の青白い肌が顔から覗く。それは幽霊のようにぼんやりとした色味だった。
そう、幽霊。
僕が彼女を見た時、最初に感じた印象がそれだ。
「ごめんなさいね、驚かせて」
この少女と僕はたぶん、会った事がない。もちろん顔つきや声から察した事で、つまり人外を際立たせる特徴を除いて判断してのことである。
僕がこの墓地にやってきた理由は、三年前に亡くなった母の墓参りだ。
しかしそれは少女も知っていたらしい、僕が言わずとも分かる、と言いたげな喋り方だったから。
ちょうど言葉が途切れた今、思い切って僕は口を開いてみる。
「ところで、君は、」
白髪の少女は驚くことなく、余裕をもって舐めるように僕を見た。
「どうして僕の前に現れたんだ?」
口元へ手をやって、ふふ、と少女が微笑む。切れ長なその唇は肌と同じで青白く光っている。
「もちろん。あなたに、会いたかったから」
「……でも悪いけど、僕は君を知らない。
君が言った蒼井 露理(あおい つゆり)っていう名前だって、聞き覚えがなくて」
「うん。私も、名乗ったことなんてなかったと思う」
少女はあっさりそう言って続ける。
「でもね私、あなたのお母さんと会った事あるの。名前だって知ってるよ」
「母さんと?」
「私のおじいちゃんとあなたのおかあさんとね、仲が良かったの。
どっちが手芸サークルで人気の作品を作れるかって、いっつも競ってたんだから。
だから……お葬式にも、行ってたよ。
おじいちゃん……『人前で泣くか』って言ってたのに、わんわん泣いちゃって」
おじいさん……おじいさん。もしかしたら会った事はあるかもしれない。
母さんに連れられて、僕もそのサークルというのは見たことがあるから。
でもそんなの二、三回程度のことで、そこでは彼女のような子と会ったことは覚えていない。
お葬式でも、おじいさんの事は思い出せそうでも、その孫は分からなかった。
「でも僕と君は、つまり直接的に会った事はないんだね?」
「ううん、」
そう言って彼女はちょっとだけ、そのべったりとした目線を他所にやった。
「電車だよ。電車で、何回も見てた。
いいや、見てただけじゃない。助けてもらったことだってある。
きっと覚えてないと思うけど」
言うとおり、僕には覚えがない。
「私ね、たまにだけど、街のほうに一人だけで遊びに行ってたの。
でも計算間違えて、帰りの分の電車代まで使っちゃったことがあって。
その日は母さんが仕事で帰れないのが分かってたから、迎えに来てもらう事もできなくて。
お金を借りられる友達もいなくて、歩いてなんてとても帰れる場所じゃなくて――、」
もしかして、と僕は言う。
「そう。そのとき、あなたが助けてくれたの」
なるほど――と納得しかけたけれど、やはりそんな記憶が僕には無い。
彼女のような女の子にお金を貸してあげたことも、車で送ったりしたこともない。
するとまた彼女は嬉しそうに、たっぷりと微笑んだ。
「もう、男のヒトっていっつもそう。ベツに隠さなくってもいいのに。
あの時あなたは走りながら――それもわざわざ誰もいない場所で、お金を落とす”フリ”をして。
私の目の前でお札を落としたから」
お金を、落とした?
「もちろん私だって、その時はあなたがホントに落としたって思ったの。
だからすぐに大声で呼びかけたけど返事がなくて、急いで走り去っちゃった」
お金を落とすフリをした? ……違う。
声が聞こえなかったのは、きっとその時イヤホンを着けていたからだ。
僕は、ポケットのお札を落したことはある。でもお金を渡すために嘘をついた事なんて一度もない。
「私のおじいちゃん、とぼけてよくやってたもん。お年玉をくれる時なんて、いっつもだった。
でも、すごく、すっごく嬉しかった。ずっと覚えてた。あなたの顔も、その服も。
いつかちゃんと、お礼を言わなきゃって」
それは違う。
その一言が、僕の口から出ない。出せない。
「けどごめんね、あの時のお金……返せないや。
わたし……もう、ほら。死んじゃった……から、」
僕の口はからりと渇いて動かない。言えない。
結果的には君へお金を渡すことになったのかもしれない。
でも。
お金を落としたのに僕が気付いていたら、きっと君には渡していなかっただろうって。
たとえ君から事情を話されても、そんな事は無視しただろうって。
そこまで僕は人のできた人間なんかじゃないって。
言えるわけがない。
「だから、この世界のヒトってみんな、私のこと見えてないみたいなの。
がんばったらモノにはさわれたから、最初はそれで……ちょっとだけ、いたずらもしちゃったけど。
それでも、なんか変な格好の綺麗な女の人だけは、私に話しかけてくれて……。
私が会いたいその人があなただって、わざわざ探して教えてくれた」
女の子は照れくさそうに自分の長い髪を撫で、
「それと、その女の人ね。
『あなたが強く会いたいって思ったら、きっとその人にも見えるわ』って、言ってくれたの」
僕たちを囲む檻から吊り下がったランプの、その中にある青い炎のように、ゆらりと髪が揺れた。
「だから、私は待ってた。
きっとこの日、ここに来てくれるって、思ってたから。
それであなたに、お返しがしたくて」
「お返し、って?」
僕の口はようやく動いて、ただ喉の渇きを強く感じた。
「あなたの暮らしを助けてあげたいの、わたし。 それしかできることって、ないと思うから」
「呼びかた? つゆりでもなんでもいいよ。
私の友だちだと、つゆちゃん、って呼ぶ子が多かったかな」
僕は――いや僕とつゆりは、僕の住むアパートに帰ってきた。
彼女の言うとおり、彼女の姿は誰にも見えていないらしく、道行く人々はふわふわと浮かぶ僕たちに目もくれなかった。
僕たちを囲んでいるはずの檻も、まるでただの映像みたいに物をすりぬけていく。
そして驚いた事に、この檻の中にいる僕さえも、人々は認識していないように見えた。
しかし檻から身体ごと全部出してしまうと、僕の姿は見えるようになるらしい。
「お、おじゃましまーす。へへ、なんか緊張するね」
玄関を開けた僕に続いてつゆりが入り、はにかんだ少女につられて僕も笑う。
まったく整理の付かない状況ではあるが、何とかこの不可思議な現実を僕は受け入れていた。
とりあえずは二人とも、座布団を敷いてテーブルに着く。
僕と目が合うと、えへ、とまた彼女が笑った。
「それで君は……その、どうしたら成仏……いや、満足してくれるのかな」
「満足、かあ」
「僕にお礼ができたら、つゆりさん……えーと、つゆちゃん……つゆりは、満足するの?」
「うん。 あ、でもわたし、簡単な家事を手伝うぐらいしかできないかも。
私の姿って、一度にたくさんの人には見えないみたいだから。
そうだ、晩ご飯作る用意するね。調理器具とか調味料とかって揃ってる?」
「たぶん、一応は」
少しは自炊していたから、と僕が言うと、つゆりはキッチンにあるものを確かめはじめた。
どうやら本気らしい。
戸棚や器具をそのおぼろげな色の手でも動かせているので、モノに触れられる幽霊であるというのは間違いないようだ。
「んー、包丁がちょっと悪くなってるね。フライパンも小さいのしかないし」
そういいながら、今度はつゆりが冷蔵庫の中身を開く。
「……あんまり入ってないね。お野菜ちゃんと取ってる?
戸棚にもインスタント食品がいっぱいあったけど」
そう言われると、あまり健康的な食生活をしていたとはいえない。
「ね。これから一緒に買い物、どうかな。
好きな食べ物とか、苦手なものとか、聞いておきたいの」
そういうわけで、僕たちは近所のスーパーまで一緒にやってきた。
いつも僕が買い物する場所だけれど、利用するのは惣菜コーナーやインスタントの商品の方が圧倒的に多い。
カートを押す僕の横でふわふわ浮いて、「実はあんまり料理得意じゃないんだけど、がんばるね」とはにかむつゆりは、色々考え事をしながらカゴへ食材を入れていく。つゆり自身の姿は周りに見えていないにしても、周りの人にはこの光景がどう見えているんだろうか。
案の定、近くにいた主婦のような若い女性が目を丸くして、売場にあるレタスと僕のカゴに入ったレタスを交互に見合わせていた。
「今日はお魚とお肉、どっちがいい?」
「じゃあ、魚で」
生鮮食品のコーナーに来ると、つゆりはまた色んな場所を見渡していた。商品の品定めだろうか、それとも値段の大小を計っているのだろうか。
消費期限の切れかけで安くなったものを少しと、特売のセール品を何パックかつゆりがカゴに入れる。
彼女の外見はまだ中学生ぐらいにしか見えないけれど、僕にはその手際はかなりのものに見えた。
黒のドレスとブラウスを組み合わせたような服装であるつゆりの外見は、もし現実に彼女がいたとしてもとにかく(物理的にでなく)浮くだろう。
それを考えると、幽霊という誰にも見えない姿だからこそ、彼女はこんな派手な装いをしているのかもしれない。
僕は彼女の生前をほとんど知らないけれど、なぜかそう思った。
「あ」
「どうしたの?」
「苦手なものとか、アレルギーとか、ある?」
「強いて言えば、野菜はあんまり」
「そっか。じゃあ好きな野菜は?」
「んー、キャベツとか、白菜とか」
彼女の姿はお嬢様のようであって、けれど幼馴染のような素朴さがあって。
年の離れた親戚のような会話をしながら、僕らはゆったりと買い物を続ける。
僕たちの会話もきっと、周りには僕の独り言に聞こえてしまうのだろうけど。
「はーい、おまちどうさま」
晩ご飯のメニューはサバの塩焼きと、卵の入った野菜サラダに、白菜入りのお味噌汁だ。特にインスタントでないお味噌汁は久しぶりかもしれない。
お皿やお茶を運ぶのを手伝って、僕とつゆりは一緒にテーブルに着く。
僕だけがその料理を食べる事に若干の気まずさを感じながらも、二人そろっていただきますをしてから、僕は早速手を付けた。
「うん、おいしいよ」
「ほんと?」
サバはよく焼けてパリッとしているし、サラダは僕がさっき話していたキャベツがメインに作ってある。お味噌汁も具材がごま油で炒めてあるらしく良い味をしている。
「嬉しいなぁ、誰かに作ってもらうのなんて久しぶりだから。
それもこんなにしっかりしておいしいのは」
キッチンで待っててねとつゆりが言うので、僕は少しだけ不安になりながら部屋で待っていたけれど、完全に杞憂だった。
ちょっと赤い頬を手で少し触りながら、つゆりが呟く。
「んへへ……照れちゃうよもう。
これから毎日、がんばって作るからね。
もし好みじゃなかったらすぐ言ってね、作り直すから」
「はは、どれもおいしいから、大丈夫だよ」
全部ご飯を食べ終えると、つゆりは洗い物を始めた。
「それぐらい僕がやるから」と言っても、
「大丈夫、ゆっくりしてて」
と、変に頑固になって断られてしまう。
嬉しいような、居た堪れないような気分で、僕は静かにテレビを見て待っていた。
キッチンから戻ってきたつゆりに僕が「ありがとう」と言うと、また照れくさそうに「んへへ」と笑った。
「じゃあ、僕はそろそろお風呂に」
「お風呂……あっごめんなさい、掃除してなかった!
すぐに掃除するから待っててね!」
「え? いやいや、そこまでしてもらわなくても――」
「大丈夫、洗剤と掃除用具のある場所はさっき見たから」
僕が止める間もなく、つゆりはふわっと浮いて行ってしまう。
そういえば霊体(?)のような身体のつゆりは、お風呂などは入る必要があるのだろうか。
二十分ほどかけて、つゆりが戻ってくる。
扉を開けた時の音からして、今から湯船を張るのだろう。
「ごめんなさい、ふだん簡単に届かないとこまで掃除できるって思うと、なんか熱が入っちゃって。
今からお湯入れるから、もうちょっとだけ待ってて」
それにしても、どれくらいしっかり掃除してくれたのだろう。
こうなると、どんどん罪悪感のほうが湧いて出てきてしまう。
いくら彼女が、偶然にでも僕の落したお金で助かったとはいえ、ここまで尽くしてもらう義理など本来、ないのだから。
そして彼女は敏感に、かつ迅速に、僕の表情の変化に気付いたらしい。
「……あ……ごめん、なさい。なんだか、逆に気を遣わせてるみたいで……」
「そ、そんなことないよ。
でも、やっぱり君にばかり家事をしてもらうのは、ちょっと気が引けちゃうから――」
「ううん、そんな事気にしなくていいの。 だって私はもう、あなたのもの。
あなたがして欲しいコト、なんだってするからね。
でもして欲しくないコトは、ゼッタイしないから、ちゃんと言ってね。
私、頭よくないから。 言ってくれないと分からないんだ……」
「う、うん」
その言葉には、彼女の纏う檻よりも堅そうな意思が見て取れた。
「ふー……」
僕はイスに座ってシャワーを浴びながら、彼女のことについて考えていた。
バスルームは僕が初めて入居した時と同じくらい綺麗になっていて、汚れのひとつもない。
彼女が幽霊なのはもう疑いようもない。
僕に何を要求しているのか、それは分からないけれど。
あんなに端正な料理を作ってくれて、丹念に掃除してくれているのだから敵意がないのも分かる。
しかしなぜあそこまで、親身になってくれるのだろう。
そしてそれは、彼女の勘違いによる僕の善意から始まっている。
言いださなければ。できるだけ早いうちにでも、
僕がシャンプーのために一度シャワーを止めたところで、こんこん、と後ろからノック音が聞こえた。
「ね。背中、流してもいいかな」
「……え、」
予想外の事に思わず言葉が詰まった。
まだ彼女が入ってきたわけじゃないはずなのに、僕はとっさにハンドタオルを引っ掴んで自分の前を隠してしまう。
一瞬の間に僕の頭の中では色々な想いが駆け巡る。
「……イヤなら、無理しなくてもいいよ?」
「あ……、いや、その……」
そんなわけない。
そんなわけないけれど、じゃあ頼むよ、なんて気軽に言えるはずもない。
でも、「別にいい」なんて、もっと言えるはずがなかった。
「……じゃ、じゃあ。悪いけど、お願いしても……いいかな」
「うんっ」
楽しそうな声とほぼ同時に、すぐにバスルームの扉がガラッと開いた。
服はもう脱いでいたんだろうか。いや霊体だから、すぐに姿も変わるのか?
そんな事を考えると彼女の裸体がぽうっと頭の中に浮かび上がってきて、顔が焼けそうに熱くなった。
後ろはもう振り向けない。
「じゃ、後ろからごめんね」
彼女がそう言って、僕の後ろから青白い肌をした手がにゅっと伸び、シャワーを手に取った。
アパートなので狭いバスルームではあるけど、幽霊である彼女なら何も問題はないのだろう。
「お湯、かけるよ」
「う、うん」
僕が目を瞑ると、温かいお湯とともに、細い指が僕の髪を根元から撫でていく。
自分とは違うその指の動きが、感触がくすぐったくて、声が出てしまいそうになった。
ゆっくりと頭を揉み解された後、シャンプーの付いた手がわさわさと髪をかき混ぜていく。
「かゆいところはございませんか? んへへ、なんちゃって」
気持ちいいよ、とだけ僕は答えたけど、それは変な意味に取られてしまっただろうか。
そんな想いがくすぶる羞恥に火をつけて、ますます顔が熱くなった。
「はい、流しますよー」
勢いよくお湯が頭を刺激し、一緒にまた彼女の指で髪をきめ細やかに濯がれていく。女の子であのロングヘアなのだから、髪の扱いは手馴れた物だ。
泡を落としたその後のコンディショナーも終わり、自分で洗うよりも数段すっきりした感じになった。
「じゃあ次は、お体の方を、だね」
「え、」
勿論そうなるのは当然だし、別に変な事ではないはずだけど、意識しないわけがない。
中学生ぐらいの女の子に身体を洗って、平然としろなんてほうが無茶だ。
「……ね。大丈夫だよ……ちゃんと、綺麗に、してみせる。
わたしまだお子さまだし、勉強も足りないと思うけど……ちょっとずつ、おぼえてく、から……」
僕の耳のそばで、つゆりがどこか色めいた声でささやく。
男の後ろめたい欲望を見透かすような、天使と小悪魔を併せ持つ音色。、
それでも、わずかに残った罪悪感のような何かが僕を頷かせなかった。
「つっ、つゆり。前は、僕が自分でやるよ。
つゆりは、背中を頼むね」
「……うん。わかった」
その声は、どう聞いてもさっきより元気のない返事だった。
「あっ、そうだ。つゆりの髪も綺麗にしたほうがいいのかな」
「うんとー……そーだね、たまには洗ってみたいかも」
「それじゃあ、後で手伝うよ」
「ほんと? じゃ、ますます気合い入れて洗ってあげないとっ」
もちろんつゆりの髪を洗う時も、ものすごく緊張したのは言うまでもない。
水を吸いコンディショナーで潤ったつゆりの長く白い髪は、木綿糸のように美しく、とても柔らかかった。
お互いの髪をドライヤーで乾かしあって、その後は二人でテレビを見たり、ノートパソコンで大学の課題に手を付けたりしていた。
そうしている間に夜は更け、寝る時間がやってくる。
つゆりの服はお風呂から僕が上がると、いつのまにかパジャマのような、モノトーンカラーの猫柄で子供っぽさのあるかわいらしい寝間着になっていた。ネグリジェのような大人の雰囲気を漂わせる服でも着ていたらどうしようと思ったけれど、これなら少しは緊張も緩められる。
「……そういえば、つゆりはどうやってその姿になってから、どうやって寝てたの?」
「わたし? ……わたし、寝るっていうの、ちょっとよく分からなくなってて。
暇なときは、ぽーっと、考え事してた、かな」
「うーん……と?」
「えっとね、寝なくても、いいけど……。
わたし幽霊だから、必要以上に場所もとらないし、寝返りの邪魔になったりしないし……。
せっかくだから、同じベッドに……いい、かな?」
「そう、だね。一緒に寝ようか」
僕とつゆりは同じベッドに並んで寝ることにした。
布団の中に二人で入ると、彼女からは僕と同じシャンプーのいい匂いがする。彼女と身体をくっつける事自体はやっぱり気恥ずかしいけれど、お風呂の出来事と比べればそれほどでもない。
青白い肌は見た目に反して、とても暖かい温もりを持っていた。
「……んへへ。わたしはベッドから落ちないから、真ん中に寝てもいいのに」
「あ、そっか……でも、こっちのほうが、いいかな」
「うん。わたしも」
その温さに触れていると溶けるように心地が良くて、勘違いで恩返しさせている彼女に対しての罪悪感さえ、どこか許されていける気がした。
目を瞑りながら、ぼくはゆっくりと眠りに落ちていく。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
……あのね。わたし、背も小さいし胸も大きくなくて、かわいくない目つきしてるけど。他の女の子よりも足りない所は、いっぱい、いっぱいあると思うけど。
きみが言ってくれるならどんなことだってするよ。
えっちなことにはやっぱり興味あるんだよね?ううん、責めてるわけじゃなくて、いちおうの確認と、それが私で満たせるかなって心配になっちゃっただけなのごめんね。わ、わたしもちろんはじめて、なんだけど、取り返しがつかなくなっちゃってもいいから。あっでも幽霊だからあんまり関係ないかもしれないね。んへへ。でもはじめてなのはほんとだよ。
きみが私を見てくれるなら、いくらでも君の好みに合わせられるからね。
体型だってもっとぽっちゃりして柔らかくしてあげられるし、もっとスレンダーにもなれるし。
髪もショートの方がいいかな。でも今のロングヘアは私も気に入ってるんだ。あ、きみに洗ってもらえる時間が長くなるからなんだけどね。
できるかぎり君の好きな性格になれるようにしたいし、きみが好きな仕草も覚えるよ。普通なら良心が咎めちゃうようなひどい事も人前だと恥ずかしくて出来ないような事も、私は全部してあげるから。
もしすぐにきみの望むように私ができなくても、ちょっとずつ覚えていくから。物覚えはよくないけどがんばるよ。優しくしてくれるなら私もその方がとっても嬉しいけど、きみが好きなコトしてくれたほうがきっと私も嬉しくなれるから。
他の誰かにきみが向ける笑顔以外なら、全部それは私の素敵な景色になるの。
わたしはあなたが喜ぶ顔が見たい。私に嬉しいって言ってくれるのが嬉しい。
心の底からそんな想いが湧いてきてずっと止まらない。
愛したい。
あなたが私だけを考えちゃうようにしたい。
でもそんなのあなたはイヤだよね。
私のことばかり考えて、だなんてできるわけがないもん。
だからもし他の誰かに気が移っちゃっても怒ったりしないよ。きみを振り向かせられなかった私が悪いの。
でも私はずっとあなたを見てるよ。きみに嘘をつかれても人が変わっちゃったようにきみがなってもきみに殺されても、あ、わたし幽霊だから、えっと除霊とかされちゃっても、ずっと想ってるから。
……。
ねえ。
昨日スーパーで見たカップル、すごく仲良さそうだったね。
私達もあんなふうになりたいなって、ちょっと思っちゃった。
でもきみは人前でああやって愛を見せつけるのって嫌いかな。嫌だったら私も我慢するから。でも私は見せつけてみたいな。私達もぜったい負けてないぞ、って。比べられる物じゃないし比べるものじゃないかもだけど、私はぜったいぜったい誰よりも勝ってると思ってるから。もちろん一番私の愛を見せたいのはあなたにだけどね。見せつけたいのはあなたへの愛だもん。
……。
ねえ。
愛したいよ。
あなたを愛したい。
きみが欲しい。
わたしのものにしたい。
わたしだけのものにしたい。
――トジコメタイ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝起きると、こんがりとパンの焼けるいい匂いがした。
「おはよう。昨日聞き忘れてたんだけど、コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
僕が寝間着を着替えると、彼女も少し目を放したとたんに白のエプロンドレスと黒のブラウスで、いわゆるメイドさんみたいな姿になっていた。昨日のパジャマもそうだったけど、どうやら服の色は白と黒だけが基調になるらしい。
「じゃ、コーヒーで」
「うん」
僕と彼女の生活はこうやって、僕が戸惑いを持ちながらもゆっくりと、ゆるやかに進んでいく。
なんとなくだけれど、そう思っていた。
僕は何気なく今日のニュースをノートパソコンで見ていた。
そこの『電車脱線事故から一ヶ月、その杜撰な体制を明らかに』というタイトルをクリックしてページを開く。
痛ましい現場写真とともに、事故の概要がつらつらと書き連ねてあるようだ。
■■駅という看板が写真の一つにあり、そこには見覚えがあった。僕の実家の近くだ。
「あ、この駅ってあれだよ。わたしがよく家から街まで行くときに通ってたとこ」
テレビと交互にしてたまにパソコンの画面を覗いていたらしく、つゆりも気づいたようだ。
「脱線事故かぁ。意外と電車も怖いねー」
そう言ってつゆりはまたテレビの方を見た。朝のニュースに番組に挟まれる簡単デザートの手作りレシピに興味を示したらしい。
僕は嫌な胸騒ぎを覚えながら記事を読み込んでいく。
――電車が土砂崩れに巻き込まれ脱線、死者数が三人。内訳は男性一人女性二人。軽傷者が男性一人。
これらの乗客は脱線による車体の揺れで、強く頭を打ちつけたのが外傷とみられ――。
ちょうど一ヶ月前、僕は実家に帰っていて、そこから街まで電車に乗って出掛けていた。
僕がお金を落としたのも、街から電車に乗って帰るその時。
つまり、ちょうど一か月前。
電車事故。
まさか。
そんなわけがない。
「んー、デザートもがんばって覚えないとね。
一人暮らしだと自分で作ったりってしないでしょ、手作りデザートはきっと新鮮だよ。んへへっ」
つゆりがまたパソコンの画面を見ないうちに、僕は素早くページを閉じる。
そんなわけがない――けど、確かめなければ。
「ごめん、つゆり。ちょっと出かけないといけない」
「あ、そうなの? じゃあ、着いてっても――」
「ごめん。つゆりは、ここで留守番しておいて。僕が帰ってくるまで、絶対にここを出ないで。
夜までには帰ってくるから……わかった?」
「ん……うん。じゃ、デザート作って待ってるね」
つゆりは残念そうな顔をしたけれど、それ以上は詰問してこなかった。
僕は財布と携帯だけ引っ掴んで、逃げ出すように部屋の外へ飛び出す。
ただやみくもに僕が向かおうとしたのは、つゆりの家。
つゆりの母親に会って、話を聞くためだった。
親戚に聞けば、つゆりの母が住む家の住所はすぐに突きとめられた。
僕は、ぐるぐると廻る胸中の嫌なもやもやが固まっていくような、そんな予感ばかりを感じている。
「……」
つゆり家の玄関前まではなんとか来れた。
しかしその後一歩が、インターホンを押す勇気がどこからも湧いてこない。
押せない。ただのスイッチのはずなのに、絞首刑を行うボタンのようなどす黒い何かに見える。
それでも、押さなければならない。
インターホンの音がエコーして、玄関からドアを通して僕の耳にも微かに聞こえる。
それ以外の物音はしない。
何分か待って、もう一度鳴らしてみる。
やはり、チャイム以外の音はなかった。
「留守……」
水面からずっと付けていた顔を上げるように、僕は安堵した。
そのとき、降ろそうとした僕の手が偶然レバータイプのドアノブに引っかかり、ノブが下に倒れ、
「――あ、」
鍵の掛かっていなかった玄関扉は、がたんと音を立てて開いた。
「……すみません、蒼井さん?」
僕は一歩だけ玄関に踏み込んで、家の中に向けて声を掛ける。
静まり返った廊下の中、返答はない。
嫌な予感が頂点に達して、僕はかまわず家の中へ飛んで入った。
どこがどの部屋かは分からない、けれどただがむしゃらに、扉を開けて中を確かめていく。
やめてくれ。これ以上、何も起こらないでくれ。
そう願いながら、扉を次々と乱暴に開け放ち。
四つ目の扉を開けた瞬間、そこには暗い部屋の中、フローリングの上にうずくまる女性の姿があった。
「蒼井さん!」
駆け寄って身体を起こさせる。長い黒髪はぼさぼさで、瞳にはまったく力がない。それでもつゆりの面影は残していて、つゆりの母であるという事は見て分かった。
ピクリとも身動きをしていないけれど、幸い息だけはしている。
「大丈夫ですか、蒼井さん、大丈夫ですか?」
泣きそうになる声を僕は押さえながら、必至で彼女を揺り起そうとする。
動かない。どこも見ていないかのように、目は半開きのまま動かない。
それでも刺激は与えられたのか、瞬きを数回、何度か繰り返す。
「……り、」
小さく開いた彼女の唇は乾ききっていて、空気とともにわずかな音が漏れ出た。
「り、 ごめん、ね。 あなた、は、 おんなのこ、だって」
ゆっくり、けれど、必死に。
「あ、なたに、 い、って、 あげられ、なく て、」
一つずつ、一つずつ言葉をその色を失った唇が、紡いでいく。
「 つゆ、 り、」
ほんの僅かな僕の安堵に応えるように、声は短く、拙く。
「 ごめ ん ね、」
耳をそばだてないと聞こえない、人間とは思えないほどの弱い声。
「――つゆ、り、」
「違うんだ……蒼井さん、あなたが謝る事なんて、なにひとつないんだ。
僕のせいなんだ。
僕があの時、お金を落とさなかったら。
僕が強引にでも奪い返していたら。
あの電車にさえ乗らなかったら、つゆりは、つゆりは――!!」
こみ上げる罪悪感はどうしようもない吐き気と頭痛に変わり、僕を襲う。
頭が痛い。胸が痛い。刃物で体内を抉りまわされるような、どこにも逃がせない痛み。
ただの幻痛なのに、身体からは血の気が引いて意識が薄れかける。
だけどそんなもの、構っていられるものか。
僕なんかどうなったっていい。
早く。早くこの人を助けないと――、
「そうだよ、お母さん」
昨日からずっとのように聞いていた、落ち着いた声。
「――あ、 つゆ、り……?」
つゆりの母、いや梨由さんの瞳が、僕の後ろを、確かな力強さを持って見つめる。
僕が聞き馴染んだその声を聞いて僕は振り向いた。
そこにいたのは青白い少女の形で、まぎれもなくつゆりの姿。
「恥ずかしいから言えなかったけど、わたし、お母さんにすごく感謝してる。
女の子だ、って一度も言ってくれなかったのは、ちょっとやだったけど……。
お母さんみたいな優しくて綺麗な人になりたいって、ずっと思ってたから。
でも、私の方こそごめんね。
そのせいで、お母さんに迷惑、掛けちゃった」
つゆりを囲んでいた檻は靄のようにどこかへと消え、ただその密やかな声が伝わってくる。
いつも彼女が着ている服もそこに無く、その青白い肌だけが艶っぽく煌いていた。
「それでねお母さん、とっても嬉しいお知らせがあるんだ。
私、ほんとの女の子になれたの。
ほら、見て。小っちゃいけど、胸も、赤ちゃんの入り口も、ちゃんとある。
お母さんはどうなのか、分かんないけど――、わたし、女の子になれて、お母さんの子になって。
つゆり、とっても幸せだから」
彼女の青白い姿はまるで、海の上で燃える火のように大きく一度、揺らめいて。
「つゆ、り。わたし、も。つゆりの、こと――好き よ。
さいごに、 あなたに……つたえ、られて。よかった――」
つゆりの姿はぼうっと溶けるように火になったかと思うと、それが燃え移るように梨由さんの身体へ纏わりつく。僕は梨由さんの身体を抱いているが炎のような痛い熱さは一切感じない。
ただ、つゆりを昨日抱きしめた時のような、心から安心する温もりがそこにあった。
「お母さん、最後じゃないよ。
わたし、まだ。お母さんのそばにいられるよ。こんどは、ほんとに、女の子で。
だから――泣かないで、お母さん」
その炎に包まれる梨由さんの表情は少しずつ安らかになり、若さのような潤いが戻っていく。
「……つ、ゆり? ほんと? ほんとに……?」
「大丈夫、お母さん。大丈夫だよ……」
青白い炎が消え、梨由さんの身体は何もなかったかのように僕の腕の中にある。
梨由さんは、ぐっすり眠るように目を瞑りながら、ゆっくりと息をしていた。
――梨由さんをソファに寝かせ、彼女が目を覚ますその時まで待っているときのこと。
「ねえ、つゆり。……どうして、僕の行き先が分かったの?」
「えっ。 ……えーっと、あのね。
きみが出かけてから、ノートパソコン……で、いろいろ、勉強しようと思って。
パスワードがなかったから、いいかなって……それで、前に見た履歴とかも見てたら、」
「……あの事故のページを見た、と」
「うん。 それで気づいて、すぐに追いかけた。
あなたのいる大体の場所ならわたし、”におい”みたいなので分かっちゃうから」
「……。えっと、僕のページの履歴って、どれくらい見たの?」
「ちょ、ちょっとだけだよ。えっちなとこも……;ちょびっとだけ?」
「みっ、未成年は見ちゃだめって書いてあったはずだよ!」
「え、あ、あー……でもわたしほら、幽霊だからなー。
でもまだ心は子供だから操作が分からなくて、うっかり消しちゃったかもしれない、かなー」
「えっ」
「変な名前のフォルダも、もしかしたら消えてるかも」
「えっ」
「だいじょうぶ、わたしがこれから、代わり、するから」
つゆりを囲む檻は、最初に見た時よりたしかに小さくなっている。
最初は半径三メートルはあったのに、今はもう僕とつゆり二人だけでちょうどすっぽりなサイズだ。
その檻は、僕を遮るわけではなく、閉じ込める訳でなく、ただ包み込んでいるのだ。
「んへへ。もうわたしに、捕まっちゃったね」
青白いつゆりの微笑みはどこまでも優しく、期待するような目つきでじっと、僕だけを見ていた。
父親は私が生まれてすぐに事故で亡くなり、母子家庭で育った私は、母よりもおじいちゃんが好きなおじいちゃんっ子だった。
おじいちゃんは「つゆりは母さんに似てるな」というのが口癖で、頑固なところはあったけど、父のいない私たち家族の事を、私のことを心配してくれて、よく家に遊びに来てくれた。
おばあちゃんが父よりも大分前に亡くなっていたことも、きっと関係あるとは思うけれど。
「つゆりは、どうしてお前の名前がつゆりだか知ってるか?」
「どうして?」
「ツユクサっていう、青い花を咲かせる花があるんだ。素朴な花で、あんまり見栄えはしないが。
うちの畑にも生えてる」
「お花なら、もっと大きいアサガオがよかったなぁ」
「たしかにツユクサは地味な花かもな。
ただ、お前の母さんの名前が梨由(りゆ)だから、そこから取ったとも言ってたよ。
それともうひとつ。ツユクサの花言葉、知ってるか」
「しらなーい」
溺愛されていたとは思うけれど、おじいちゃんは決して私を甘やかすわけではなく、悪い事は悪いとはっきり分別をつけて私を叱っていたと思う。
私は昔からいたずら好きな子だったけれど、おじいちゃんだけにはそんな事しなかった。
おじいちゃんが私に怒るのが、悲しむのが、心の底から怖くて。
だから、おじいちゃんがいつかはいなくなる事なんて、その時は知らなかったのだ。
幼稚園の頃は人見知りしない子だと言われて、どちらかといえばお転婆だった私。
小学生になってからも色んな友達ができていたし、外で遊ぶのも嫌いじゃなかった。砂遊びで男の子を泣かせたこともあった。
おじいちゃんに自分の考えたいたずらを話すのが、とても楽しかった。
少しずつ変わり出したのは中学校に入ってからだった。
私は勉強をそれなりにがんばって、家から遠い私立の中学校まで電車で通うことになった。
ただ夜まで頑張ったせいか目が悪くなって眼鏡を掛けるようになり、何度も眼鏡を踏んで割ってしまったのがきっかけで、激しいスポーツもしなくなった。
しかも小学校の頃にクラスで仲の良かった子が皆近くの公立中に行ってしまい、私は友達作りをまた一から始めなければならなかった。
人見知りじゃなかったはずの私はどこにも居なくて、クラスの子達と仲良くなれない。
電車で通わないといけないから放課後も一緒に遊びに行けない。
クラブ活動も、電車のせいで時間の縛られない文化系のものに入った。
おじいちゃんは手先が器用で、おばあちゃんより手芸が得意だった。それでよく私にそれを教えてくれたせいか、私もそれが趣味みたいになっていたので、結局私は手芸部に決めた。
でも母は、「それなら大丈夫そうね」と言うばかりで、またすぐに大きなノートパソコンへ目線を戻した。
ちょうどその一週間後。
学校まで母が迎えに来て「おじいちゃんの所へ行きましょうか」と、母さんに言われた。
母さんもその時だけは仕事を休んだらしく、病院へ私をそのまま運んで行ってくれた。
信号待ちをしていた車の中で私は、
「どうしてこんな急に会いに行くの?」
と、母さんに聞く。
車の中ではお母さんは答えてくれなかった。
病院に着いて、病室の前で初めて私に話しかけた。
「おじいちゃんに、甘えてあげて」
おじいちゃんは病室でずっと寝ていた。
私達が来ても起きず、病院にいた他の親戚のおじさんと話をしていても起きなかった。
その日の夜。
もうおじいちゃんはずっと起きないのだと、ようやく理解した。
「英語の小テストぜったいここ出るってー」
「範囲ここでしょ?それ昨日のだよ」
「うえーマジかー! やっちゃったわーははは」
中学校の教室の中、私はお弁当を食べ終わって一人静かに本を読んでいた。
周りは騒いでいるけれど、私に話しかける人はいない。あったとしても必要な用事だけ。
小学校で仲の良かった子達同士がグループを組んだり離れたりするのを、ただ黙って見ていた。
幸いと言っていいのか、誰かが学校に来れなくなるような、誰かが登校しなくなるような、そんないじめは私たちのクラスにないように思えた。少なくともわたしの見える範囲では。
友達と言えるような存在は私には無かったけれど、声を掛けて無視されたりすることもなかった。
ただ、それが無性に悲しいこともあった。
嫌悪されることはない、けれど意識されることもない。
いじめの気配には先生も敏感だったけれど、生徒の友人の有無には無関心だった。
私はスクールカーストの何処かも分からない場所で、ぼうっと立ちすくんでいたのだ。
家に帰っても、母さんはいつも夜遅くにようやく帰ってくる。
私は精一杯母さんが楽になるように、自分から家事のお手伝いもがんばっていたつもりだ。
洗濯だって掃除だって一人でできる、料理だって簡単なものなら作れる。
おじいちゃんが聞いたらきっと「わしの母さんみたいだな」と言ってくれた。頭を撫でてくれた。
家でさえ会う事が少なくて、”私のお母さん”に褒めてもらった記憶は、思い出せなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――私が覚えてることは、それぐらいかな」
僕の目前にたたずむ白髪の少女はそう言って、ゆっくり目を閉じた。彼女は大学生の僕より頭一つは小さく、話しぶりからしてまだ子供だろう。
僕とその少女は半径三メートルはあろうかという球状の大きな檻に囲まれ、その中で宙を浮くようにして向かい合っている。檻の中には灯火のような青い炎が入ったランプが吊るされていた。
昼のはずなのに薄暗い、大小たくさんの墓石が並んだ墓地の上空。
地面にも周囲をぐるりと囲む檻にも足は触れておらず、僕も少女もふわふわと浮いている。
まるで二人とも重力を持たなくなったみたいに。
「ね。そろそろ、落ち着いた?」
女の子は問いかけるように青い瞳で僕をじっと睨んだ。半眼でじとっとした目つきだったけれど口元は微笑んでいて、険悪な雰囲気は彼女から感じない。声色は暗いようにも、落ち着いているようにも聞き取れる。
黒いブラウスのような服(実体を持っているかどうかは分からないが)はスカートの部分が扇のように開いていて、そこからまた彼女の地肌が覗いている。
風が吹いたみたいに、腰まで伸びた長く真っ白い髪がふわりと揺れて、彼女の青白い肌が顔から覗く。それは幽霊のようにぼんやりとした色味だった。
そう、幽霊。
僕が彼女を見た時、最初に感じた印象がそれだ。
「ごめんなさいね、驚かせて」
この少女と僕はたぶん、会った事がない。もちろん顔つきや声から察した事で、つまり人外を際立たせる特徴を除いて判断してのことである。
僕がこの墓地にやってきた理由は、三年前に亡くなった母の墓参りだ。
しかしそれは少女も知っていたらしい、僕が言わずとも分かる、と言いたげな喋り方だったから。
ちょうど言葉が途切れた今、思い切って僕は口を開いてみる。
「ところで、君は、」
白髪の少女は驚くことなく、余裕をもって舐めるように僕を見た。
「どうして僕の前に現れたんだ?」
口元へ手をやって、ふふ、と少女が微笑む。切れ長なその唇は肌と同じで青白く光っている。
「もちろん。あなたに、会いたかったから」
「……でも悪いけど、僕は君を知らない。
君が言った蒼井 露理(あおい つゆり)っていう名前だって、聞き覚えがなくて」
「うん。私も、名乗ったことなんてなかったと思う」
少女はあっさりそう言って続ける。
「でもね私、あなたのお母さんと会った事あるの。名前だって知ってるよ」
「母さんと?」
「私のおじいちゃんとあなたのおかあさんとね、仲が良かったの。
どっちが手芸サークルで人気の作品を作れるかって、いっつも競ってたんだから。
だから……お葬式にも、行ってたよ。
おじいちゃん……『人前で泣くか』って言ってたのに、わんわん泣いちゃって」
おじいさん……おじいさん。もしかしたら会った事はあるかもしれない。
母さんに連れられて、僕もそのサークルというのは見たことがあるから。
でもそんなの二、三回程度のことで、そこでは彼女のような子と会ったことは覚えていない。
お葬式でも、おじいさんの事は思い出せそうでも、その孫は分からなかった。
「でも僕と君は、つまり直接的に会った事はないんだね?」
「ううん、」
そう言って彼女はちょっとだけ、そのべったりとした目線を他所にやった。
「電車だよ。電車で、何回も見てた。
いいや、見てただけじゃない。助けてもらったことだってある。
きっと覚えてないと思うけど」
言うとおり、僕には覚えがない。
「私ね、たまにだけど、街のほうに一人だけで遊びに行ってたの。
でも計算間違えて、帰りの分の電車代まで使っちゃったことがあって。
その日は母さんが仕事で帰れないのが分かってたから、迎えに来てもらう事もできなくて。
お金を借りられる友達もいなくて、歩いてなんてとても帰れる場所じゃなくて――、」
もしかして、と僕は言う。
「そう。そのとき、あなたが助けてくれたの」
なるほど――と納得しかけたけれど、やはりそんな記憶が僕には無い。
彼女のような女の子にお金を貸してあげたことも、車で送ったりしたこともない。
するとまた彼女は嬉しそうに、たっぷりと微笑んだ。
「もう、男のヒトっていっつもそう。ベツに隠さなくってもいいのに。
あの時あなたは走りながら――それもわざわざ誰もいない場所で、お金を落とす”フリ”をして。
私の目の前でお札を落としたから」
お金を、落とした?
「もちろん私だって、その時はあなたがホントに落としたって思ったの。
だからすぐに大声で呼びかけたけど返事がなくて、急いで走り去っちゃった」
お金を落とすフリをした? ……違う。
声が聞こえなかったのは、きっとその時イヤホンを着けていたからだ。
僕は、ポケットのお札を落したことはある。でもお金を渡すために嘘をついた事なんて一度もない。
「私のおじいちゃん、とぼけてよくやってたもん。お年玉をくれる時なんて、いっつもだった。
でも、すごく、すっごく嬉しかった。ずっと覚えてた。あなたの顔も、その服も。
いつかちゃんと、お礼を言わなきゃって」
それは違う。
その一言が、僕の口から出ない。出せない。
「けどごめんね、あの時のお金……返せないや。
わたし……もう、ほら。死んじゃった……から、」
僕の口はからりと渇いて動かない。言えない。
結果的には君へお金を渡すことになったのかもしれない。
でも。
お金を落としたのに僕が気付いていたら、きっと君には渡していなかっただろうって。
たとえ君から事情を話されても、そんな事は無視しただろうって。
そこまで僕は人のできた人間なんかじゃないって。
言えるわけがない。
「だから、この世界のヒトってみんな、私のこと見えてないみたいなの。
がんばったらモノにはさわれたから、最初はそれで……ちょっとだけ、いたずらもしちゃったけど。
それでも、なんか変な格好の綺麗な女の人だけは、私に話しかけてくれて……。
私が会いたいその人があなただって、わざわざ探して教えてくれた」
女の子は照れくさそうに自分の長い髪を撫で、
「それと、その女の人ね。
『あなたが強く会いたいって思ったら、きっとその人にも見えるわ』って、言ってくれたの」
僕たちを囲む檻から吊り下がったランプの、その中にある青い炎のように、ゆらりと髪が揺れた。
「だから、私は待ってた。
きっとこの日、ここに来てくれるって、思ってたから。
それであなたに、お返しがしたくて」
「お返し、って?」
僕の口はようやく動いて、ただ喉の渇きを強く感じた。
「あなたの暮らしを助けてあげたいの、わたし。 それしかできることって、ないと思うから」
「呼びかた? つゆりでもなんでもいいよ。
私の友だちだと、つゆちゃん、って呼ぶ子が多かったかな」
僕は――いや僕とつゆりは、僕の住むアパートに帰ってきた。
彼女の言うとおり、彼女の姿は誰にも見えていないらしく、道行く人々はふわふわと浮かぶ僕たちに目もくれなかった。
僕たちを囲んでいるはずの檻も、まるでただの映像みたいに物をすりぬけていく。
そして驚いた事に、この檻の中にいる僕さえも、人々は認識していないように見えた。
しかし檻から身体ごと全部出してしまうと、僕の姿は見えるようになるらしい。
「お、おじゃましまーす。へへ、なんか緊張するね」
玄関を開けた僕に続いてつゆりが入り、はにかんだ少女につられて僕も笑う。
まったく整理の付かない状況ではあるが、何とかこの不可思議な現実を僕は受け入れていた。
とりあえずは二人とも、座布団を敷いてテーブルに着く。
僕と目が合うと、えへ、とまた彼女が笑った。
「それで君は……その、どうしたら成仏……いや、満足してくれるのかな」
「満足、かあ」
「僕にお礼ができたら、つゆりさん……えーと、つゆちゃん……つゆりは、満足するの?」
「うん。 あ、でもわたし、簡単な家事を手伝うぐらいしかできないかも。
私の姿って、一度にたくさんの人には見えないみたいだから。
そうだ、晩ご飯作る用意するね。調理器具とか調味料とかって揃ってる?」
「たぶん、一応は」
少しは自炊していたから、と僕が言うと、つゆりはキッチンにあるものを確かめはじめた。
どうやら本気らしい。
戸棚や器具をそのおぼろげな色の手でも動かせているので、モノに触れられる幽霊であるというのは間違いないようだ。
「んー、包丁がちょっと悪くなってるね。フライパンも小さいのしかないし」
そういいながら、今度はつゆりが冷蔵庫の中身を開く。
「……あんまり入ってないね。お野菜ちゃんと取ってる?
戸棚にもインスタント食品がいっぱいあったけど」
そう言われると、あまり健康的な食生活をしていたとはいえない。
「ね。これから一緒に買い物、どうかな。
好きな食べ物とか、苦手なものとか、聞いておきたいの」
そういうわけで、僕たちは近所のスーパーまで一緒にやってきた。
いつも僕が買い物する場所だけれど、利用するのは惣菜コーナーやインスタントの商品の方が圧倒的に多い。
カートを押す僕の横でふわふわ浮いて、「実はあんまり料理得意じゃないんだけど、がんばるね」とはにかむつゆりは、色々考え事をしながらカゴへ食材を入れていく。つゆり自身の姿は周りに見えていないにしても、周りの人にはこの光景がどう見えているんだろうか。
案の定、近くにいた主婦のような若い女性が目を丸くして、売場にあるレタスと僕のカゴに入ったレタスを交互に見合わせていた。
「今日はお魚とお肉、どっちがいい?」
「じゃあ、魚で」
生鮮食品のコーナーに来ると、つゆりはまた色んな場所を見渡していた。商品の品定めだろうか、それとも値段の大小を計っているのだろうか。
消費期限の切れかけで安くなったものを少しと、特売のセール品を何パックかつゆりがカゴに入れる。
彼女の外見はまだ中学生ぐらいにしか見えないけれど、僕にはその手際はかなりのものに見えた。
黒のドレスとブラウスを組み合わせたような服装であるつゆりの外見は、もし現実に彼女がいたとしてもとにかく(物理的にでなく)浮くだろう。
それを考えると、幽霊という誰にも見えない姿だからこそ、彼女はこんな派手な装いをしているのかもしれない。
僕は彼女の生前をほとんど知らないけれど、なぜかそう思った。
「あ」
「どうしたの?」
「苦手なものとか、アレルギーとか、ある?」
「強いて言えば、野菜はあんまり」
「そっか。じゃあ好きな野菜は?」
「んー、キャベツとか、白菜とか」
彼女の姿はお嬢様のようであって、けれど幼馴染のような素朴さがあって。
年の離れた親戚のような会話をしながら、僕らはゆったりと買い物を続ける。
僕たちの会話もきっと、周りには僕の独り言に聞こえてしまうのだろうけど。
「はーい、おまちどうさま」
晩ご飯のメニューはサバの塩焼きと、卵の入った野菜サラダに、白菜入りのお味噌汁だ。特にインスタントでないお味噌汁は久しぶりかもしれない。
お皿やお茶を運ぶのを手伝って、僕とつゆりは一緒にテーブルに着く。
僕だけがその料理を食べる事に若干の気まずさを感じながらも、二人そろっていただきますをしてから、僕は早速手を付けた。
「うん、おいしいよ」
「ほんと?」
サバはよく焼けてパリッとしているし、サラダは僕がさっき話していたキャベツがメインに作ってある。お味噌汁も具材がごま油で炒めてあるらしく良い味をしている。
「嬉しいなぁ、誰かに作ってもらうのなんて久しぶりだから。
それもこんなにしっかりしておいしいのは」
キッチンで待っててねとつゆりが言うので、僕は少しだけ不安になりながら部屋で待っていたけれど、完全に杞憂だった。
ちょっと赤い頬を手で少し触りながら、つゆりが呟く。
「んへへ……照れちゃうよもう。
これから毎日、がんばって作るからね。
もし好みじゃなかったらすぐ言ってね、作り直すから」
「はは、どれもおいしいから、大丈夫だよ」
全部ご飯を食べ終えると、つゆりは洗い物を始めた。
「それぐらい僕がやるから」と言っても、
「大丈夫、ゆっくりしてて」
と、変に頑固になって断られてしまう。
嬉しいような、居た堪れないような気分で、僕は静かにテレビを見て待っていた。
キッチンから戻ってきたつゆりに僕が「ありがとう」と言うと、また照れくさそうに「んへへ」と笑った。
「じゃあ、僕はそろそろお風呂に」
「お風呂……あっごめんなさい、掃除してなかった!
すぐに掃除するから待っててね!」
「え? いやいや、そこまでしてもらわなくても――」
「大丈夫、洗剤と掃除用具のある場所はさっき見たから」
僕が止める間もなく、つゆりはふわっと浮いて行ってしまう。
そういえば霊体(?)のような身体のつゆりは、お風呂などは入る必要があるのだろうか。
二十分ほどかけて、つゆりが戻ってくる。
扉を開けた時の音からして、今から湯船を張るのだろう。
「ごめんなさい、ふだん簡単に届かないとこまで掃除できるって思うと、なんか熱が入っちゃって。
今からお湯入れるから、もうちょっとだけ待ってて」
それにしても、どれくらいしっかり掃除してくれたのだろう。
こうなると、どんどん罪悪感のほうが湧いて出てきてしまう。
いくら彼女が、偶然にでも僕の落したお金で助かったとはいえ、ここまで尽くしてもらう義理など本来、ないのだから。
そして彼女は敏感に、かつ迅速に、僕の表情の変化に気付いたらしい。
「……あ……ごめん、なさい。なんだか、逆に気を遣わせてるみたいで……」
「そ、そんなことないよ。
でも、やっぱり君にばかり家事をしてもらうのは、ちょっと気が引けちゃうから――」
「ううん、そんな事気にしなくていいの。 だって私はもう、あなたのもの。
あなたがして欲しいコト、なんだってするからね。
でもして欲しくないコトは、ゼッタイしないから、ちゃんと言ってね。
私、頭よくないから。 言ってくれないと分からないんだ……」
「う、うん」
その言葉には、彼女の纏う檻よりも堅そうな意思が見て取れた。
「ふー……」
僕はイスに座ってシャワーを浴びながら、彼女のことについて考えていた。
バスルームは僕が初めて入居した時と同じくらい綺麗になっていて、汚れのひとつもない。
彼女が幽霊なのはもう疑いようもない。
僕に何を要求しているのか、それは分からないけれど。
あんなに端正な料理を作ってくれて、丹念に掃除してくれているのだから敵意がないのも分かる。
しかしなぜあそこまで、親身になってくれるのだろう。
そしてそれは、彼女の勘違いによる僕の善意から始まっている。
言いださなければ。できるだけ早いうちにでも、
僕がシャンプーのために一度シャワーを止めたところで、こんこん、と後ろからノック音が聞こえた。
「ね。背中、流してもいいかな」
「……え、」
予想外の事に思わず言葉が詰まった。
まだ彼女が入ってきたわけじゃないはずなのに、僕はとっさにハンドタオルを引っ掴んで自分の前を隠してしまう。
一瞬の間に僕の頭の中では色々な想いが駆け巡る。
「……イヤなら、無理しなくてもいいよ?」
「あ……、いや、その……」
そんなわけない。
そんなわけないけれど、じゃあ頼むよ、なんて気軽に言えるはずもない。
でも、「別にいい」なんて、もっと言えるはずがなかった。
「……じゃ、じゃあ。悪いけど、お願いしても……いいかな」
「うんっ」
楽しそうな声とほぼ同時に、すぐにバスルームの扉がガラッと開いた。
服はもう脱いでいたんだろうか。いや霊体だから、すぐに姿も変わるのか?
そんな事を考えると彼女の裸体がぽうっと頭の中に浮かび上がってきて、顔が焼けそうに熱くなった。
後ろはもう振り向けない。
「じゃ、後ろからごめんね」
彼女がそう言って、僕の後ろから青白い肌をした手がにゅっと伸び、シャワーを手に取った。
アパートなので狭いバスルームではあるけど、幽霊である彼女なら何も問題はないのだろう。
「お湯、かけるよ」
「う、うん」
僕が目を瞑ると、温かいお湯とともに、細い指が僕の髪を根元から撫でていく。
自分とは違うその指の動きが、感触がくすぐったくて、声が出てしまいそうになった。
ゆっくりと頭を揉み解された後、シャンプーの付いた手がわさわさと髪をかき混ぜていく。
「かゆいところはございませんか? んへへ、なんちゃって」
気持ちいいよ、とだけ僕は答えたけど、それは変な意味に取られてしまっただろうか。
そんな想いがくすぶる羞恥に火をつけて、ますます顔が熱くなった。
「はい、流しますよー」
勢いよくお湯が頭を刺激し、一緒にまた彼女の指で髪をきめ細やかに濯がれていく。女の子であのロングヘアなのだから、髪の扱いは手馴れた物だ。
泡を落としたその後のコンディショナーも終わり、自分で洗うよりも数段すっきりした感じになった。
「じゃあ次は、お体の方を、だね」
「え、」
勿論そうなるのは当然だし、別に変な事ではないはずだけど、意識しないわけがない。
中学生ぐらいの女の子に身体を洗って、平然としろなんてほうが無茶だ。
「……ね。大丈夫だよ……ちゃんと、綺麗に、してみせる。
わたしまだお子さまだし、勉強も足りないと思うけど……ちょっとずつ、おぼえてく、から……」
僕の耳のそばで、つゆりがどこか色めいた声でささやく。
男の後ろめたい欲望を見透かすような、天使と小悪魔を併せ持つ音色。、
それでも、わずかに残った罪悪感のような何かが僕を頷かせなかった。
「つっ、つゆり。前は、僕が自分でやるよ。
つゆりは、背中を頼むね」
「……うん。わかった」
その声は、どう聞いてもさっきより元気のない返事だった。
「あっ、そうだ。つゆりの髪も綺麗にしたほうがいいのかな」
「うんとー……そーだね、たまには洗ってみたいかも」
「それじゃあ、後で手伝うよ」
「ほんと? じゃ、ますます気合い入れて洗ってあげないとっ」
もちろんつゆりの髪を洗う時も、ものすごく緊張したのは言うまでもない。
水を吸いコンディショナーで潤ったつゆりの長く白い髪は、木綿糸のように美しく、とても柔らかかった。
お互いの髪をドライヤーで乾かしあって、その後は二人でテレビを見たり、ノートパソコンで大学の課題に手を付けたりしていた。
そうしている間に夜は更け、寝る時間がやってくる。
つゆりの服はお風呂から僕が上がると、いつのまにかパジャマのような、モノトーンカラーの猫柄で子供っぽさのあるかわいらしい寝間着になっていた。ネグリジェのような大人の雰囲気を漂わせる服でも着ていたらどうしようと思ったけれど、これなら少しは緊張も緩められる。
「……そういえば、つゆりはどうやってその姿になってから、どうやって寝てたの?」
「わたし? ……わたし、寝るっていうの、ちょっとよく分からなくなってて。
暇なときは、ぽーっと、考え事してた、かな」
「うーん……と?」
「えっとね、寝なくても、いいけど……。
わたし幽霊だから、必要以上に場所もとらないし、寝返りの邪魔になったりしないし……。
せっかくだから、同じベッドに……いい、かな?」
「そう、だね。一緒に寝ようか」
僕とつゆりは同じベッドに並んで寝ることにした。
布団の中に二人で入ると、彼女からは僕と同じシャンプーのいい匂いがする。彼女と身体をくっつける事自体はやっぱり気恥ずかしいけれど、お風呂の出来事と比べればそれほどでもない。
青白い肌は見た目に反して、とても暖かい温もりを持っていた。
「……んへへ。わたしはベッドから落ちないから、真ん中に寝てもいいのに」
「あ、そっか……でも、こっちのほうが、いいかな」
「うん。わたしも」
その温さに触れていると溶けるように心地が良くて、勘違いで恩返しさせている彼女に対しての罪悪感さえ、どこか許されていける気がした。
目を瞑りながら、ぼくはゆっくりと眠りに落ちていく。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
……あのね。わたし、背も小さいし胸も大きくなくて、かわいくない目つきしてるけど。他の女の子よりも足りない所は、いっぱい、いっぱいあると思うけど。
きみが言ってくれるならどんなことだってするよ。
えっちなことにはやっぱり興味あるんだよね?ううん、責めてるわけじゃなくて、いちおうの確認と、それが私で満たせるかなって心配になっちゃっただけなのごめんね。わ、わたしもちろんはじめて、なんだけど、取り返しがつかなくなっちゃってもいいから。あっでも幽霊だからあんまり関係ないかもしれないね。んへへ。でもはじめてなのはほんとだよ。
きみが私を見てくれるなら、いくらでも君の好みに合わせられるからね。
体型だってもっとぽっちゃりして柔らかくしてあげられるし、もっとスレンダーにもなれるし。
髪もショートの方がいいかな。でも今のロングヘアは私も気に入ってるんだ。あ、きみに洗ってもらえる時間が長くなるからなんだけどね。
できるかぎり君の好きな性格になれるようにしたいし、きみが好きな仕草も覚えるよ。普通なら良心が咎めちゃうようなひどい事も人前だと恥ずかしくて出来ないような事も、私は全部してあげるから。
もしすぐにきみの望むように私ができなくても、ちょっとずつ覚えていくから。物覚えはよくないけどがんばるよ。優しくしてくれるなら私もその方がとっても嬉しいけど、きみが好きなコトしてくれたほうがきっと私も嬉しくなれるから。
他の誰かにきみが向ける笑顔以外なら、全部それは私の素敵な景色になるの。
わたしはあなたが喜ぶ顔が見たい。私に嬉しいって言ってくれるのが嬉しい。
心の底からそんな想いが湧いてきてずっと止まらない。
愛したい。
あなたが私だけを考えちゃうようにしたい。
でもそんなのあなたはイヤだよね。
私のことばかり考えて、だなんてできるわけがないもん。
だからもし他の誰かに気が移っちゃっても怒ったりしないよ。きみを振り向かせられなかった私が悪いの。
でも私はずっとあなたを見てるよ。きみに嘘をつかれても人が変わっちゃったようにきみがなってもきみに殺されても、あ、わたし幽霊だから、えっと除霊とかされちゃっても、ずっと想ってるから。
……。
ねえ。
昨日スーパーで見たカップル、すごく仲良さそうだったね。
私達もあんなふうになりたいなって、ちょっと思っちゃった。
でもきみは人前でああやって愛を見せつけるのって嫌いかな。嫌だったら私も我慢するから。でも私は見せつけてみたいな。私達もぜったい負けてないぞ、って。比べられる物じゃないし比べるものじゃないかもだけど、私はぜったいぜったい誰よりも勝ってると思ってるから。もちろん一番私の愛を見せたいのはあなたにだけどね。見せつけたいのはあなたへの愛だもん。
……。
ねえ。
愛したいよ。
あなたを愛したい。
きみが欲しい。
わたしのものにしたい。
わたしだけのものにしたい。
――トジコメタイ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝起きると、こんがりとパンの焼けるいい匂いがした。
「おはよう。昨日聞き忘れてたんだけど、コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
僕が寝間着を着替えると、彼女も少し目を放したとたんに白のエプロンドレスと黒のブラウスで、いわゆるメイドさんみたいな姿になっていた。昨日のパジャマもそうだったけど、どうやら服の色は白と黒だけが基調になるらしい。
「じゃ、コーヒーで」
「うん」
僕と彼女の生活はこうやって、僕が戸惑いを持ちながらもゆっくりと、ゆるやかに進んでいく。
なんとなくだけれど、そう思っていた。
僕は何気なく今日のニュースをノートパソコンで見ていた。
そこの『電車脱線事故から一ヶ月、その杜撰な体制を明らかに』というタイトルをクリックしてページを開く。
痛ましい現場写真とともに、事故の概要がつらつらと書き連ねてあるようだ。
■■駅という看板が写真の一つにあり、そこには見覚えがあった。僕の実家の近くだ。
「あ、この駅ってあれだよ。わたしがよく家から街まで行くときに通ってたとこ」
テレビと交互にしてたまにパソコンの画面を覗いていたらしく、つゆりも気づいたようだ。
「脱線事故かぁ。意外と電車も怖いねー」
そう言ってつゆりはまたテレビの方を見た。朝のニュースに番組に挟まれる簡単デザートの手作りレシピに興味を示したらしい。
僕は嫌な胸騒ぎを覚えながら記事を読み込んでいく。
――電車が土砂崩れに巻き込まれ脱線、死者数が三人。内訳は男性一人女性二人。軽傷者が男性一人。
これらの乗客は脱線による車体の揺れで、強く頭を打ちつけたのが外傷とみられ――。
ちょうど一ヶ月前、僕は実家に帰っていて、そこから街まで電車に乗って出掛けていた。
僕がお金を落としたのも、街から電車に乗って帰るその時。
つまり、ちょうど一か月前。
電車事故。
まさか。
そんなわけがない。
「んー、デザートもがんばって覚えないとね。
一人暮らしだと自分で作ったりってしないでしょ、手作りデザートはきっと新鮮だよ。んへへっ」
つゆりがまたパソコンの画面を見ないうちに、僕は素早くページを閉じる。
そんなわけがない――けど、確かめなければ。
「ごめん、つゆり。ちょっと出かけないといけない」
「あ、そうなの? じゃあ、着いてっても――」
「ごめん。つゆりは、ここで留守番しておいて。僕が帰ってくるまで、絶対にここを出ないで。
夜までには帰ってくるから……わかった?」
「ん……うん。じゃ、デザート作って待ってるね」
つゆりは残念そうな顔をしたけれど、それ以上は詰問してこなかった。
僕は財布と携帯だけ引っ掴んで、逃げ出すように部屋の外へ飛び出す。
ただやみくもに僕が向かおうとしたのは、つゆりの家。
つゆりの母親に会って、話を聞くためだった。
親戚に聞けば、つゆりの母が住む家の住所はすぐに突きとめられた。
僕は、ぐるぐると廻る胸中の嫌なもやもやが固まっていくような、そんな予感ばかりを感じている。
「……」
つゆり家の玄関前まではなんとか来れた。
しかしその後一歩が、インターホンを押す勇気がどこからも湧いてこない。
押せない。ただのスイッチのはずなのに、絞首刑を行うボタンのようなどす黒い何かに見える。
それでも、押さなければならない。
インターホンの音がエコーして、玄関からドアを通して僕の耳にも微かに聞こえる。
それ以外の物音はしない。
何分か待って、もう一度鳴らしてみる。
やはり、チャイム以外の音はなかった。
「留守……」
水面からずっと付けていた顔を上げるように、僕は安堵した。
そのとき、降ろそうとした僕の手が偶然レバータイプのドアノブに引っかかり、ノブが下に倒れ、
「――あ、」
鍵の掛かっていなかった玄関扉は、がたんと音を立てて開いた。
「……すみません、蒼井さん?」
僕は一歩だけ玄関に踏み込んで、家の中に向けて声を掛ける。
静まり返った廊下の中、返答はない。
嫌な予感が頂点に達して、僕はかまわず家の中へ飛んで入った。
どこがどの部屋かは分からない、けれどただがむしゃらに、扉を開けて中を確かめていく。
やめてくれ。これ以上、何も起こらないでくれ。
そう願いながら、扉を次々と乱暴に開け放ち。
四つ目の扉を開けた瞬間、そこには暗い部屋の中、フローリングの上にうずくまる女性の姿があった。
「蒼井さん!」
駆け寄って身体を起こさせる。長い黒髪はぼさぼさで、瞳にはまったく力がない。それでもつゆりの面影は残していて、つゆりの母であるという事は見て分かった。
ピクリとも身動きをしていないけれど、幸い息だけはしている。
「大丈夫ですか、蒼井さん、大丈夫ですか?」
泣きそうになる声を僕は押さえながら、必至で彼女を揺り起そうとする。
動かない。どこも見ていないかのように、目は半開きのまま動かない。
それでも刺激は与えられたのか、瞬きを数回、何度か繰り返す。
「……り、」
小さく開いた彼女の唇は乾ききっていて、空気とともにわずかな音が漏れ出た。
「り、 ごめん、ね。 あなた、は、 おんなのこ、だって」
ゆっくり、けれど、必死に。
「あ、なたに、 い、って、 あげられ、なく て、」
一つずつ、一つずつ言葉をその色を失った唇が、紡いでいく。
「 つゆ、 り、」
ほんの僅かな僕の安堵に応えるように、声は短く、拙く。
「 ごめ ん ね、」
耳をそばだてないと聞こえない、人間とは思えないほどの弱い声。
「――つゆ、り、」
「違うんだ……蒼井さん、あなたが謝る事なんて、なにひとつないんだ。
僕のせいなんだ。
僕があの時、お金を落とさなかったら。
僕が強引にでも奪い返していたら。
あの電車にさえ乗らなかったら、つゆりは、つゆりは――!!」
こみ上げる罪悪感はどうしようもない吐き気と頭痛に変わり、僕を襲う。
頭が痛い。胸が痛い。刃物で体内を抉りまわされるような、どこにも逃がせない痛み。
ただの幻痛なのに、身体からは血の気が引いて意識が薄れかける。
だけどそんなもの、構っていられるものか。
僕なんかどうなったっていい。
早く。早くこの人を助けないと――、
「そうだよ、お母さん」
昨日からずっとのように聞いていた、落ち着いた声。
「――あ、 つゆ、り……?」
つゆりの母、いや梨由さんの瞳が、僕の後ろを、確かな力強さを持って見つめる。
僕が聞き馴染んだその声を聞いて僕は振り向いた。
そこにいたのは青白い少女の形で、まぎれもなくつゆりの姿。
「恥ずかしいから言えなかったけど、わたし、お母さんにすごく感謝してる。
女の子だ、って一度も言ってくれなかったのは、ちょっとやだったけど……。
お母さんみたいな優しくて綺麗な人になりたいって、ずっと思ってたから。
でも、私の方こそごめんね。
そのせいで、お母さんに迷惑、掛けちゃった」
つゆりを囲んでいた檻は靄のようにどこかへと消え、ただその密やかな声が伝わってくる。
いつも彼女が着ている服もそこに無く、その青白い肌だけが艶っぽく煌いていた。
「それでねお母さん、とっても嬉しいお知らせがあるんだ。
私、ほんとの女の子になれたの。
ほら、見て。小っちゃいけど、胸も、赤ちゃんの入り口も、ちゃんとある。
お母さんはどうなのか、分かんないけど――、わたし、女の子になれて、お母さんの子になって。
つゆり、とっても幸せだから」
彼女の青白い姿はまるで、海の上で燃える火のように大きく一度、揺らめいて。
「つゆ、り。わたし、も。つゆりの、こと――好き よ。
さいごに、 あなたに……つたえ、られて。よかった――」
つゆりの姿はぼうっと溶けるように火になったかと思うと、それが燃え移るように梨由さんの身体へ纏わりつく。僕は梨由さんの身体を抱いているが炎のような痛い熱さは一切感じない。
ただ、つゆりを昨日抱きしめた時のような、心から安心する温もりがそこにあった。
「お母さん、最後じゃないよ。
わたし、まだ。お母さんのそばにいられるよ。こんどは、ほんとに、女の子で。
だから――泣かないで、お母さん」
その炎に包まれる梨由さんの表情は少しずつ安らかになり、若さのような潤いが戻っていく。
「……つ、ゆり? ほんと? ほんとに……?」
「大丈夫、お母さん。大丈夫だよ……」
青白い炎が消え、梨由さんの身体は何もなかったかのように僕の腕の中にある。
梨由さんは、ぐっすり眠るように目を瞑りながら、ゆっくりと息をしていた。
――梨由さんをソファに寝かせ、彼女が目を覚ますその時まで待っているときのこと。
「ねえ、つゆり。……どうして、僕の行き先が分かったの?」
「えっ。 ……えーっと、あのね。
きみが出かけてから、ノートパソコン……で、いろいろ、勉強しようと思って。
パスワードがなかったから、いいかなって……それで、前に見た履歴とかも見てたら、」
「……あの事故のページを見た、と」
「うん。 それで気づいて、すぐに追いかけた。
あなたのいる大体の場所ならわたし、”におい”みたいなので分かっちゃうから」
「……。えっと、僕のページの履歴って、どれくらい見たの?」
「ちょ、ちょっとだけだよ。えっちなとこも……;ちょびっとだけ?」
「みっ、未成年は見ちゃだめって書いてあったはずだよ!」
「え、あ、あー……でもわたしほら、幽霊だからなー。
でもまだ心は子供だから操作が分からなくて、うっかり消しちゃったかもしれない、かなー」
「えっ」
「変な名前のフォルダも、もしかしたら消えてるかも」
「えっ」
「だいじょうぶ、わたしがこれから、代わり、するから」
つゆりを囲む檻は、最初に見た時よりたしかに小さくなっている。
最初は半径三メートルはあったのに、今はもう僕とつゆり二人だけでちょうどすっぽりなサイズだ。
その檻は、僕を遮るわけではなく、閉じ込める訳でなく、ただ包み込んでいるのだ。
「んへへ。もうわたしに、捕まっちゃったね」
青白いつゆりの微笑みはどこまでも優しく、期待するような目つきでじっと、僕だけを見ていた。
15/03/31 12:18更新 / しおやき