一家団欒
「――っ、」
夢から覚めたような心地で、かっと目が開いた。
視界にあるのはやや散らかった藍の部屋と、おずおずとした仕草で俺の顔をのぞき込む藍。
「……だいじょうぶ?お兄ちゃん」
「あ、ああ……」
「疲れてたみたいだから、起こすのもわるいと思って……起こせなかったの」
クッションを枕に寝転んでいた俺が身体を起こすと、傍らに何か入った袋があるのに気が付いた。
――ああそうだ、俺は、藍に新しいゲーム機を渡しに来たんだっけ。
さっきよりやけに気怠く感じる身体の疲れを、乱れた衣服の違和感を振り払うように、俺は顔をぶんぶんと震わせた。
急に眠りこけるなんてどうにも弛んでいるな。こんなじゃ、また仁見に笑われてしまう。
「そうか……余計な心配、かけたな」
「そんなこと、ないよ」
「ええと、実はその……あー、懸賞で良い物が当たってな。
部屋に来た理由はそれなんだ」
流石に自費で買ってきたには不自然なので、俺は咄嗟に適当な言い訳をしながら袋を渡した。
藍はきょろきょろと、俺と袋を交互に見て様子を窺っている。
「見ても……いいの?」
「もちろんだ。気に入ってもらえるかは分からないが……」
その言葉を引き金に、ゆっくりと藍は袋の中にあるゲームの箱を取り出した。
「あ……これ、テレビで見たことある……げーむ」
「そう、今出てるので一番新しいやつだ。
一緒に遊べるように、コントローラーも何個か買ってきたぞ」
「う……うん」
藍はゲーム機の箱を眺めているが、俺が思っていたよりは期待した反応がない。
部屋の前を通るとたまにそのゲームの音楽が聞こえるので、てっきり興味は強いと思っていたのだが。
「藍、ずっと同じゲームばっかりやってただろ?」
「う、うん……お兄ちゃんと、一緒に遊びたかったから」
「え?」
「お兄ちゃんが、くれた物だから」
「……あ、」
その言葉で、俺はその事を思い出した。
確かにこの古いゲーム機は、俺が藍にあげた物だった。
いや、そうでなくても、俺にとってこのゲーム機は、とても特別な物だった、はずだ。
「そう……そうだよな、忘れてた……のかな」
「……どう、したの?」
出会った当初から誰も彼もを避けていた藍と、どうにか仲良くなりたくて、このゲーム機と持っていたソフトをあげるつもりで貸した。
とても大事なものだけど、大事なものだから、一緒に楽しみたい。
俺はそう言って、ようやく藍と言葉を交わし始めることができた。
覚えている。
でも、どうしてそんなに大事なものだったんだ?
「あれ、は……」
そうだ、俺が買ってきたものじゃない。そんなものに使うお金は貰えなかった。
だから大事だったのか?違う。
もっと、もっと何か強いモノがあったはずだ。
「お兄ちゃ―、どうし――の――? 顔色――よくな――よ」
ほんの僅かに聞こえる藍の声が、何千キロも遠くに感じる。
どうしようもない衝動で思わず目を閉じると、映像が脳裏に、瞼の裏に、心の中にぶわっと浮かび上がってくる。
「……あ、……ぐ、」
誰かがあのゲーム機の入った箱を俺に渡してくれて、俺を見て笑っている。
その人物が近づくと、慣れない酒の匂いを感じる。好きなのに、好きじゃない匂い。
その誰かが俺と一緒にゲームをしている。
その時の事を覚えている。
たのしい、おもいで。
「あ――おに――ちゃ、 ま――あいつが――じゃまを――」
その日は、二人きりの家族になってから、たぶん初めて怒られずに済んだ。叩かれずに済んだ。殴られずに済んだ。
だめだ。思い出しちゃだめだ。でも止められない。
残っていた怪我の跡以外では、痛い思いをしなくて済んだ。
それだけじゃない。
初めて褒めてもらえた。
「――」
一緒に遊んでくれた。
俺の事を見て笑ってくれた。
止まらない。
俺が遊ぶ姿を見て笑ってくれた。褒めてくれた。
いっぱいお菓子も持って帰ってきてくれた。俺にも分けてくれた。頭をなでてくれた。
よく分からない味だったけれどごはんも作ってくれた。ちゃんと話をしてくれた。叩かれずに済んだ。怖い思いをしなかった。おなかが空くこともなかった。
あたたかい部屋にいられた。ひさしぶりにベッドの上でねむれた。学校のはなしも聞いてくれた。受ぎょうさんかんにも来てくれるって言った。先生とお話をしてくれるって言った。これ以上おさけをのんだりしないって言った。やさしくしてくれるって言った。おかあさんの話をしてくれた。ぼくがあんまりしらないおかあさんのことをおしえてくれた。叩かれずにすんだ。こわい思いをしなかった。おなかが空かなかった。あたたかいものが食べられた。いっしょにゲームをしてくれた。あそんでくれた。話をしてくれた。けがの手当てもちょっとだけしてくれた。きずあともなでてくれた。ごめんねって言ってくれた。ぎゅってしてくれた。おかあさんの話をしてくれた。ぼくがあんまりしらないおかあさんのことをおしえてくれた。おかあさんのことがすきだったっていった。うれしいって言ってくれた。だきしめてくれた。これからはいっしょにいるっていってくれた。たたかれずにすんだ。いたいことをされなかった。ゆるしてあげるっていった。あたまをなでてくれた。ちかいうちにいっしょにおかあさんのところに行こうっていってくれた。べっどのうえでねむれた。あたたかいところでよこになれた。ふとんがやわらかかった。いたくなかった。ちかいうちにおかあさんにあいにいこうっていった。おかあさんのことが大すきだったっていった。ぼくのこともすきだっていってくれたたたかないでくれたやさしくしてくれたあまえさせてくれたあいしてるっていってくれたなぐさめてくれたあたまをなでてくれたぎゅっとしてくれたそばでねてくれたいっしょにあそんでくれたいいこだっていってくれたそうだよねやさしくしてくれるんだよね いままでのことはぜんぶうそだ
たじょうだんだよね ぼくはわかてたよ ずとしんじてた ほんとうはとってもやさしいんだてしてた
おかあさんの ところ に いっしょ に いこうって いって
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ああ、憎い。
彼の心に巣食うあの男の断片が憎い、心から憎い。
分かってる、あの唾棄すべき男にだってそれなりの事情があったんだろう。辛い事もあっただろう。耐えきれない事もあっただろう。追い打ちのように妻に先立たれた辛さは耐え難かったのだろう。どうせ酒ぐらいにしか逃げるものがなかったんだろう。
分かってる。
でもそんなの、わたしが許す理由の一片にもならない。
彼を苦しめたのは誰だ?あの子を苦しめたのは誰だ?求められているのに何ひとつ返そうともしなかったのは誰だ?他に誰も頼る人のいないあの子を見てあげなかったのは誰だ?それどころか憂さ晴らしに利用していたのは誰だ?
むしろそのまま最低でいてくれた方がよかったのに、無駄に親の真似事をほんの一度だけ、一瞬だけして。それを今になって甦らせてしまって。迂闊なわたし自身にも腹が立つ。
邪魔だ。無責任だ。本当の意味で最低だ。許さない。絶対に許さない。
だから利用する。
あの男を生かしたのはそのためだ。
更生施設で変わることなんて一切期待していない。ホントは暗示の一つさえ掛けたくない。視界にも入れたくない。見ているだけで虫唾が走る。嫌っていることに使う労力さえ疎ましい。存在ごと消してやりたくなる。
だけど、親のフリだけはしてもらう。
親とも家族とも絶対に認めないが、形だけとして役に立ってもらう。
このゲーム機も、他の全部も、そこに染みついた思い出も全部、書き換える。
彼の心が安定したら、あくまで彼の為に、必要最低限にだけ関わらせる。できれば関わらせない。あの男が万事において関わらなくてよくなるように、わたしが介入する。
先立たれた妻とやらも、もうそろそろ魔物に成る頃合いだ。好きなように仲良くしていろ。
その後は知らないし興味もない。永遠に許すこともない。わたしたちの視界に映らない限りはどこへなりと行け。
彼の前からも、彼の心の中からも残さない。塵一つ残さず消えてしまえ。
彼は私たちのものだ。わたしのものだ。
他の誰にも絶対に渡さない。
どうして。
どうしてそんな奴のことを思い出すの。
そんなものに囚われるあなたを見るのが、
どうしようもなく、辛くて、悲しいのに。
あなたをまだそこから救えないわたしを、
どうしようもなく、嫌いになりそうのに。
そうだよね、まだ足りないんだよね。
もっと、もっと、あなたのことを満たさないと。
そのためなら、わたしはあなたの何にでも成る。
だから、弱くて、脆くて、嘘つきなわたしのことを。
あなたにだけは許されたい。
あなたにだけは好きでいられたい。
どうか、赦してください。
わたしの心の中だけでいい。
あなたを、わたしの神様にさせてください。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……大丈夫?」
身体が揺らされる感覚でゆっくり目が覚める。
藍の、赤い瞳が俺をとても心配そうに見つめていた。
「あ、ああ……ごめん。急に眠くなって……今、何時だ?」
「えと……お兄ちゃんが急に寝てから、まだ二十分ぐらいしか経ってないよ」
「ん、そうか……」
流石に歩き回って疲れた上に、甘いものを食べすぎたのだろうか。
急に睡魔に襲われる事は極たまにあるが、場合によっては洒落にならない。
「……おにいちゃん。わたしなんかのために、無理しちゃだめだよ」
「え?」
「分かってるよ。きっと、わたしなんかに好かれても、懐かれても、迷惑だよね。
こんな醜いわたしのことを、異常なわたしのことを、無理して受け入れなくていいんだよ。
お兄ちゃんが傍に居てくれるだけで、わたしは……十分なの」
俯いたままの藍は、いつも低い声のトーンが輪を掛けて下がっている。
こんな余計な心配をさせるようじゃ、兄として失格だ。
俺はどうしようもない照れを抑えつけながらも、いつか亜麻名――母さんがそうしてくれたように、藍の頭をそっと胸に抱いた。
「……そんなわけ、ないだろ。俺だってお前の事が好きだよ。
妹だからとか、家族だからとか、そんな理由だけじゃない。
気にしてる外見の事を、お前の悲しみを、慰めたいだけでも、ない」
「……じゃあ……どうして?」
「それ、は……」
言葉に詰まりつつも、俺は言った。
「きっと、俺たちは――似てるんだ」
「似てる……」
本当は、藍と初めて会ったのは、亜麻名さんが再婚してからではなかった。
「ああ。足りないものを、埋めようとして。
それでも埋まらなかった何かを、がむしゃらに、ずっと求めてた――そんな気がする」
藍はもう覚えていなさそうだが、そのずっと前の昔に、俺は彼女と話したことがあった。
今よりもずっと幼かった藍は、やはり誰もを怖がっていて。誰からも怖がられていて。
そんな彼女と一緒に遊びたくて――家にあるゲームで遊ぶ約束もした。
そうだ、それがあの『楽しい思い出』だった、のかな。
俺と一緒にゲームで遊んでいた誰かは、藍だった。
確信はまだ持てないけど、そうかもしれない。
俺の頭がそうやって記憶の点と点を、かすれて消えかけた線を、おぼろげに繋いていく。
――いつかあなたと、ずっといっしょに居られるように、がんばるね。
微笑みながら、頬を染めながらそう呟いて、宝石のように赤い一つ目をごろりと転がし、そわそわしていた少女。
そんな藍の姿だけは、確かに俺の記憶に残っていた。
それだけは真実だという確信があった。
「そうだな……とりあえず夕飯を食べたら、この買ってきたゲーム、一緒にやってみないか?」
「う、うん……!すごく、楽しみ……!」
藍の不安そうな表情は、花が咲いたようにぱあっと笑う。とても可愛らしい笑顔だった。
この笑顔を守ってやりたい、素直にそう思った。
たとえ俺が、どんなに歪で、弱い人間だったとしても。
俺が今まで何をしてきて、どんな人間だったか、全部は思い出せなくても。
ただ、藍の家族でいたい。
彼女の兄であり、信頼できる誰かでいたい。
それから俺たちは手を繋ぎ、二人で部屋を出た。
窓から覗くと家の車は二台ともなかったので、もう母と姉さんは仕事に出かけたのだろう。
だから二人きりで、母さんたちの用意してくれていた夕食を食べる。
献立は具材が四つ入ったクリームシチューだ。
「……ん?」
クッキングヒーターの上の、シチューの入った鍋の横に、小さな書置きがある。
印刷のように整ったそれは、よく見覚えた仁見の字で、こう書かれていた。
『どうしても読みたくなった本を取りに来たついでに、こっそり夕飯の準備を手伝わせていただきました。
差し出がましい願いですが、藍のことを、よろしくお願いします』
仁見は、”良い子”だと評される自分の存在が、余計に藍を苦しめているのではないか――と、俺に悩みを打ち明けてくれたことがある。
それでも、彼女なりに藍の事を考えていた。
家にある藍が好きそうな本やぬいぐるみを教えてくれた。
寮は家から近いという距離でもないのに、こうやってたまに家事を手伝いに来てくれることもある。
「うん……そう思ってくれているんだよな、お前も」
「? お兄ちゃん、どうかした?」
「いや、なんでもない。ちょっとだけ温め直して持っていくから、鍋敷きを用意してくれ」
「うん、分かった、よ」
俺はその書置きが藍に見つからないよう、ポケットにそっとしまった。
藍と俺の二人きりで食べる、豪華でも貧相でもない、いつもの素朴な料理だけれど。
その味はいつだって変わらない。
「いただきます」
「いただき、ます」
家族みんなが俺たちを想う気持ちが伝わるような、具材の一つ一つが活きた味。
それは、とても優しい味がした。
夢から覚めたような心地で、かっと目が開いた。
視界にあるのはやや散らかった藍の部屋と、おずおずとした仕草で俺の顔をのぞき込む藍。
「……だいじょうぶ?お兄ちゃん」
「あ、ああ……」
「疲れてたみたいだから、起こすのもわるいと思って……起こせなかったの」
クッションを枕に寝転んでいた俺が身体を起こすと、傍らに何か入った袋があるのに気が付いた。
――ああそうだ、俺は、藍に新しいゲーム機を渡しに来たんだっけ。
さっきよりやけに気怠く感じる身体の疲れを、乱れた衣服の違和感を振り払うように、俺は顔をぶんぶんと震わせた。
急に眠りこけるなんてどうにも弛んでいるな。こんなじゃ、また仁見に笑われてしまう。
「そうか……余計な心配、かけたな」
「そんなこと、ないよ」
「ええと、実はその……あー、懸賞で良い物が当たってな。
部屋に来た理由はそれなんだ」
流石に自費で買ってきたには不自然なので、俺は咄嗟に適当な言い訳をしながら袋を渡した。
藍はきょろきょろと、俺と袋を交互に見て様子を窺っている。
「見ても……いいの?」
「もちろんだ。気に入ってもらえるかは分からないが……」
その言葉を引き金に、ゆっくりと藍は袋の中にあるゲームの箱を取り出した。
「あ……これ、テレビで見たことある……げーむ」
「そう、今出てるので一番新しいやつだ。
一緒に遊べるように、コントローラーも何個か買ってきたぞ」
「う……うん」
藍はゲーム機の箱を眺めているが、俺が思っていたよりは期待した反応がない。
部屋の前を通るとたまにそのゲームの音楽が聞こえるので、てっきり興味は強いと思っていたのだが。
「藍、ずっと同じゲームばっかりやってただろ?」
「う、うん……お兄ちゃんと、一緒に遊びたかったから」
「え?」
「お兄ちゃんが、くれた物だから」
「……あ、」
その言葉で、俺はその事を思い出した。
確かにこの古いゲーム機は、俺が藍にあげた物だった。
いや、そうでなくても、俺にとってこのゲーム機は、とても特別な物だった、はずだ。
「そう……そうだよな、忘れてた……のかな」
「……どう、したの?」
出会った当初から誰も彼もを避けていた藍と、どうにか仲良くなりたくて、このゲーム機と持っていたソフトをあげるつもりで貸した。
とても大事なものだけど、大事なものだから、一緒に楽しみたい。
俺はそう言って、ようやく藍と言葉を交わし始めることができた。
覚えている。
でも、どうしてそんなに大事なものだったんだ?
「あれ、は……」
そうだ、俺が買ってきたものじゃない。そんなものに使うお金は貰えなかった。
だから大事だったのか?違う。
もっと、もっと何か強いモノがあったはずだ。
「お兄ちゃ―、どうし――の――? 顔色――よくな――よ」
ほんの僅かに聞こえる藍の声が、何千キロも遠くに感じる。
どうしようもない衝動で思わず目を閉じると、映像が脳裏に、瞼の裏に、心の中にぶわっと浮かび上がってくる。
「……あ、……ぐ、」
誰かがあのゲーム機の入った箱を俺に渡してくれて、俺を見て笑っている。
その人物が近づくと、慣れない酒の匂いを感じる。好きなのに、好きじゃない匂い。
その誰かが俺と一緒にゲームをしている。
その時の事を覚えている。
たのしい、おもいで。
「あ――おに――ちゃ、 ま――あいつが――じゃまを――」
その日は、二人きりの家族になってから、たぶん初めて怒られずに済んだ。叩かれずに済んだ。殴られずに済んだ。
だめだ。思い出しちゃだめだ。でも止められない。
残っていた怪我の跡以外では、痛い思いをしなくて済んだ。
それだけじゃない。
初めて褒めてもらえた。
「――」
一緒に遊んでくれた。
俺の事を見て笑ってくれた。
止まらない。
俺が遊ぶ姿を見て笑ってくれた。褒めてくれた。
いっぱいお菓子も持って帰ってきてくれた。俺にも分けてくれた。頭をなでてくれた。
よく分からない味だったけれどごはんも作ってくれた。ちゃんと話をしてくれた。叩かれずに済んだ。怖い思いをしなかった。おなかが空くこともなかった。
あたたかい部屋にいられた。ひさしぶりにベッドの上でねむれた。学校のはなしも聞いてくれた。受ぎょうさんかんにも来てくれるって言った。先生とお話をしてくれるって言った。これ以上おさけをのんだりしないって言った。やさしくしてくれるって言った。おかあさんの話をしてくれた。ぼくがあんまりしらないおかあさんのことをおしえてくれた。叩かれずにすんだ。こわい思いをしなかった。おなかが空かなかった。あたたかいものが食べられた。いっしょにゲームをしてくれた。あそんでくれた。話をしてくれた。けがの手当てもちょっとだけしてくれた。きずあともなでてくれた。ごめんねって言ってくれた。ぎゅってしてくれた。おかあさんの話をしてくれた。ぼくがあんまりしらないおかあさんのことをおしえてくれた。おかあさんのことがすきだったっていった。うれしいって言ってくれた。だきしめてくれた。これからはいっしょにいるっていってくれた。たたかれずにすんだ。いたいことをされなかった。ゆるしてあげるっていった。あたまをなでてくれた。ちかいうちにいっしょにおかあさんのところに行こうっていってくれた。べっどのうえでねむれた。あたたかいところでよこになれた。ふとんがやわらかかった。いたくなかった。ちかいうちにおかあさんにあいにいこうっていった。おかあさんのことが大すきだったっていった。ぼくのこともすきだっていってくれたたたかないでくれたやさしくしてくれたあまえさせてくれたあいしてるっていってくれたなぐさめてくれたあたまをなでてくれたぎゅっとしてくれたそばでねてくれたいっしょにあそんでくれたいいこだっていってくれたそうだよねやさしくしてくれるんだよね いままでのことはぜんぶうそだ
たじょうだんだよね ぼくはわかてたよ ずとしんじてた ほんとうはとってもやさしいんだてしてた
おかあさんの ところ に いっしょ に いこうって いって
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ああ、憎い。
彼の心に巣食うあの男の断片が憎い、心から憎い。
分かってる、あの唾棄すべき男にだってそれなりの事情があったんだろう。辛い事もあっただろう。耐えきれない事もあっただろう。追い打ちのように妻に先立たれた辛さは耐え難かったのだろう。どうせ酒ぐらいにしか逃げるものがなかったんだろう。
分かってる。
でもそんなの、わたしが許す理由の一片にもならない。
彼を苦しめたのは誰だ?あの子を苦しめたのは誰だ?求められているのに何ひとつ返そうともしなかったのは誰だ?他に誰も頼る人のいないあの子を見てあげなかったのは誰だ?それどころか憂さ晴らしに利用していたのは誰だ?
むしろそのまま最低でいてくれた方がよかったのに、無駄に親の真似事をほんの一度だけ、一瞬だけして。それを今になって甦らせてしまって。迂闊なわたし自身にも腹が立つ。
邪魔だ。無責任だ。本当の意味で最低だ。許さない。絶対に許さない。
だから利用する。
あの男を生かしたのはそのためだ。
更生施設で変わることなんて一切期待していない。ホントは暗示の一つさえ掛けたくない。視界にも入れたくない。見ているだけで虫唾が走る。嫌っていることに使う労力さえ疎ましい。存在ごと消してやりたくなる。
だけど、親のフリだけはしてもらう。
親とも家族とも絶対に認めないが、形だけとして役に立ってもらう。
このゲーム機も、他の全部も、そこに染みついた思い出も全部、書き換える。
彼の心が安定したら、あくまで彼の為に、必要最低限にだけ関わらせる。できれば関わらせない。あの男が万事において関わらなくてよくなるように、わたしが介入する。
先立たれた妻とやらも、もうそろそろ魔物に成る頃合いだ。好きなように仲良くしていろ。
その後は知らないし興味もない。永遠に許すこともない。わたしたちの視界に映らない限りはどこへなりと行け。
彼の前からも、彼の心の中からも残さない。塵一つ残さず消えてしまえ。
彼は私たちのものだ。わたしのものだ。
他の誰にも絶対に渡さない。
どうして。
どうしてそんな奴のことを思い出すの。
そんなものに囚われるあなたを見るのが、
どうしようもなく、辛くて、悲しいのに。
あなたをまだそこから救えないわたしを、
どうしようもなく、嫌いになりそうのに。
そうだよね、まだ足りないんだよね。
もっと、もっと、あなたのことを満たさないと。
そのためなら、わたしはあなたの何にでも成る。
だから、弱くて、脆くて、嘘つきなわたしのことを。
あなたにだけは許されたい。
あなたにだけは好きでいられたい。
どうか、赦してください。
わたしの心の中だけでいい。
あなたを、わたしの神様にさせてください。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……大丈夫?」
身体が揺らされる感覚でゆっくり目が覚める。
藍の、赤い瞳が俺をとても心配そうに見つめていた。
「あ、ああ……ごめん。急に眠くなって……今、何時だ?」
「えと……お兄ちゃんが急に寝てから、まだ二十分ぐらいしか経ってないよ」
「ん、そうか……」
流石に歩き回って疲れた上に、甘いものを食べすぎたのだろうか。
急に睡魔に襲われる事は極たまにあるが、場合によっては洒落にならない。
「……おにいちゃん。わたしなんかのために、無理しちゃだめだよ」
「え?」
「分かってるよ。きっと、わたしなんかに好かれても、懐かれても、迷惑だよね。
こんな醜いわたしのことを、異常なわたしのことを、無理して受け入れなくていいんだよ。
お兄ちゃんが傍に居てくれるだけで、わたしは……十分なの」
俯いたままの藍は、いつも低い声のトーンが輪を掛けて下がっている。
こんな余計な心配をさせるようじゃ、兄として失格だ。
俺はどうしようもない照れを抑えつけながらも、いつか亜麻名――母さんがそうしてくれたように、藍の頭をそっと胸に抱いた。
「……そんなわけ、ないだろ。俺だってお前の事が好きだよ。
妹だからとか、家族だからとか、そんな理由だけじゃない。
気にしてる外見の事を、お前の悲しみを、慰めたいだけでも、ない」
「……じゃあ……どうして?」
「それ、は……」
言葉に詰まりつつも、俺は言った。
「きっと、俺たちは――似てるんだ」
「似てる……」
本当は、藍と初めて会ったのは、亜麻名さんが再婚してからではなかった。
「ああ。足りないものを、埋めようとして。
それでも埋まらなかった何かを、がむしゃらに、ずっと求めてた――そんな気がする」
藍はもう覚えていなさそうだが、そのずっと前の昔に、俺は彼女と話したことがあった。
今よりもずっと幼かった藍は、やはり誰もを怖がっていて。誰からも怖がられていて。
そんな彼女と一緒に遊びたくて――家にあるゲームで遊ぶ約束もした。
そうだ、それがあの『楽しい思い出』だった、のかな。
俺と一緒にゲームで遊んでいた誰かは、藍だった。
確信はまだ持てないけど、そうかもしれない。
俺の頭がそうやって記憶の点と点を、かすれて消えかけた線を、おぼろげに繋いていく。
――いつかあなたと、ずっといっしょに居られるように、がんばるね。
微笑みながら、頬を染めながらそう呟いて、宝石のように赤い一つ目をごろりと転がし、そわそわしていた少女。
そんな藍の姿だけは、確かに俺の記憶に残っていた。
それだけは真実だという確信があった。
「そうだな……とりあえず夕飯を食べたら、この買ってきたゲーム、一緒にやってみないか?」
「う、うん……!すごく、楽しみ……!」
藍の不安そうな表情は、花が咲いたようにぱあっと笑う。とても可愛らしい笑顔だった。
この笑顔を守ってやりたい、素直にそう思った。
たとえ俺が、どんなに歪で、弱い人間だったとしても。
俺が今まで何をしてきて、どんな人間だったか、全部は思い出せなくても。
ただ、藍の家族でいたい。
彼女の兄であり、信頼できる誰かでいたい。
それから俺たちは手を繋ぎ、二人で部屋を出た。
窓から覗くと家の車は二台ともなかったので、もう母と姉さんは仕事に出かけたのだろう。
だから二人きりで、母さんたちの用意してくれていた夕食を食べる。
献立は具材が四つ入ったクリームシチューだ。
「……ん?」
クッキングヒーターの上の、シチューの入った鍋の横に、小さな書置きがある。
印刷のように整ったそれは、よく見覚えた仁見の字で、こう書かれていた。
『どうしても読みたくなった本を取りに来たついでに、こっそり夕飯の準備を手伝わせていただきました。
差し出がましい願いですが、藍のことを、よろしくお願いします』
仁見は、”良い子”だと評される自分の存在が、余計に藍を苦しめているのではないか――と、俺に悩みを打ち明けてくれたことがある。
それでも、彼女なりに藍の事を考えていた。
家にある藍が好きそうな本やぬいぐるみを教えてくれた。
寮は家から近いという距離でもないのに、こうやってたまに家事を手伝いに来てくれることもある。
「うん……そう思ってくれているんだよな、お前も」
「? お兄ちゃん、どうかした?」
「いや、なんでもない。ちょっとだけ温め直して持っていくから、鍋敷きを用意してくれ」
「うん、分かった、よ」
俺はその書置きが藍に見つからないよう、ポケットにそっとしまった。
藍と俺の二人きりで食べる、豪華でも貧相でもない、いつもの素朴な料理だけれど。
その味はいつだって変わらない。
「いただきます」
「いただき、ます」
家族みんなが俺たちを想う気持ちが伝わるような、具材の一つ一つが活きた味。
それは、とても優しい味がした。
19/02/07 05:21更新 / しおやき
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