連載小説
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『わたしたち』
―1―  <仁見>

「お兄様は、きっと馬鹿なのですね」

 『ボク』は、ノートに書かれたお兄様の答えを見て、出来る限り優しいトーンでそう言った。
 ボクたちが通う〇〇高校の校舎で、テスト期間に入った放課後の図書室、自習スペースでのことだ。

「シンプルに傷つくな」

 お兄様は棒読みのような口調でそう返事した。ボクはくすり、とまた小さく笑う。

「どうもボクは、お兄様のその顔を見るのが好きみたいです」

 それは嘘ではなかった。打算ではない、偽りない本心の言葉だ。
 しかし懐の広いお兄様とはいえ、妹に言われるのはどうであれ堪える言葉だろう。
 たとえ義理の妹であろうとも、ボクと同じ学年とクラスにいるのだとしても。

「さて、俺を罵倒した詫びはあるのか」
「ええと、確か、」

 ボクは教科書をめくり、公式の一つを指さす。兄より良い成績を取っているからとはいえ、あまり早く指し示しては不自然だと思ったので、やや時間を掛けた。

「先ほどの問題ではこの公式を使うべきでしょうね。
 お兄様の使っていたものでも可能でしょうが、速さも効率も劣ります」
「……ふむ」
「それに次の応用問題では――」

 お兄様は数学が苦手だ。なので私は特によく勉強をしておいている。
 こんな知識など入れるくらいならお兄様の黒子の位置、爪の長さや髪の毛の本数、特に性感帯の開発度合いでも覚えた方が何億倍も有意義だと思っていたけど、お兄様と一緒に居られるこの口実はどうしても必要だったし、実際それらとは趣の違う良さがあった。

「さて、分かりましたか、お兄様?」
「ああ、大体わかった」
「なるほど、分かってませんね」
「……傷つく」

 お兄様の復習が一段落したのを見計らい、ボクはお兄様に質問をする。
 さっきまで手元で開いていた英語の問題についてだ。

「お兄様、この英文法の使い方は合っていますか?」

 しかしはっきり言うと、こんな問題については質問したいほどの興味もないし、何なら答えとして求められる正答もだいたい分かっている。
 それはお兄様に『苦手な科目がある』と思わせる為の行動であり、一秒でも長く一緒に居る理由を作るための、お兄様に気を遣わせないための口実。
 それ以外の目的は何ひとつなかった。

「ん……これはどっちかというと固い言い回しだから、友人関係ならこっちの方かな」
「ああ、なるほど……流石ですね、お兄様」
「覚えるのだけは慣れてるからな」

 その言葉に、少しだけ心がちくりとした。
 そうだよ、お兄様。あなたが、余計なことを覚えてしまわなければ、もっと鈍く居てくれたら、もっと、もっと。
 あなたを、完全に一人占めできていたと思うのに。

「そうだと、いいですね」
「そこはちゃんと褒めてくれ」
「ふふ」

 ……ああ、そんな風に考えるのは良くない。こんな考えがよぎる自分が心底嫌になる。
 とにかく、この感情はまだ抑えてないと。
 それは今の『ボク』がすべきことじゃない、今の『ボク』は、ぱっと見だけは真面目な女子生徒。
 少しイジワルなことも言いつつ、心からお兄様を慕う、『模範的な妹』。
 そんな風にお兄様に、彼に見てもらえるのは、とっても嬉しくて気持ちがいい。これは藍では味わえないことだ。

「おっと……悪い仁見、シャープペンの芯あるか?Bで」
「ええ、もちろん。はい」
「さんくす」

 芯入れを渡す時に、ちょっとだけどお兄様と指が触れた。
 その切ない手触りと暖かな温度だけで濡れてしまいそうだ。
 でもまだまだ、我慢しないと。我慢できたぶんだけ、気持ちよくなれるんだから。
 あの芯入れも大事にしよう。部屋に置くと不自然だから、ペンケースのお守り替わりにしよう。



「――ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ帰り支度をしましょう、お兄様」
「おっと、そうか」
「帰りには喫茶店でもどうですか?」
「帰るも何も、俺はともかくお前はここの女子寮住まいだろ。
 だいたい、不良生徒の考えだなそれは」
「勝手に品行方正だと勘違いしてるのは周りですからね」
「それは……俺のことも含めてか?」
「そっちの方が都合がいいので、否定をしていないだけです、ふふっ。
 ああそうだ、今日は苺の酸味が欲しい気分ですね」
「やれやれ、恐喝にまで手を出されるのか。兄ちゃんは悲しいな」

 お兄様は財布の中身を確かめ、隠し切れない溜息をついていた。
 『亜麻名』から渡すお小遣いはもう少し増やしておこう。
 自然とお兄様が伸ばしてくれた手を、ボクが自然に掴む。
 ああ、やっぱりこの距離感も心地がいい。『仁見』は正解だった。

「なんでいつもこんなに冷たい手なんだ」
「それは多分、お兄様に手を繋いで温められたいからでしょうね」

 冗談ではなかったが、それも真実と言うべきかは怪しかった。
 体温の低さも変えられないわけではない。ただ、そうしていた方がお兄様にとってもボクにとっても、都合が良いと思ったからだ。
 特にこれから冬が来る。寒さは一人ぼっちだった昔を思い出させるから好きではなかったけど、温めあう心地よさはそんなものを掻き消してくれる。

「次の休み、羽織る服でも買いに行くか。一緒に」 
「それは重畳……ああいえ、お待ちください。
 たしかその日は、お姉さまとのお約束がお有りですよね?」

 最高の提案を貰えて有頂天に成りかけたボクだが、何とか冷静な思考が出来た。 

「まあそうだが、街に行く用なのは一緒だしな。
 三人で行っても、荷物ぐらい何とかなるだろ」

 ――それは良くない。
 『私たち』は、三人では居られないんだから。
 一度息を深く吸い、ボクはお兄様の顔を、二つの目を見つめた。
 この程度なら労せず”暗示”を掛けられる。

『それはいけませんよ、お兄様。無下にしてはなりません。
 風夏(ふうか)お姉さまは、二人きりで出掛けるのを、楽しみにしていたのですから』

 顎に手を当て、どこともなく宙を見て考えた後、お兄様は言った。

「んむ……そうだな、お前の服は再来週にしよう」
「ええ。有難き幸せです、お兄様――んっ」

 そうしてお兄様が視線を外した隙を狙い、ボクはお兄様の頬を唇で撫でた。
 唇で触れるお兄様の肌の感触は、筆舌に尽くしがたい。
 同時に、”暗示”の分で遣った以上のモノを産み出せた感覚があった。
 カラダもココロも満たされる、お兄様と一緒に居られる。
 これ以上に幸せなことは、この腐った世の中にはどこにもないだろう。

 さあ、再来週の休みまで『仁見』はお休み。
 『風夏』は、久しぶりだ。
 気の置けない友達感覚で会う彼女が、逆に一番気を遣うというのはまさに皮肉だろう。







―2―  <風夏>

 そして次の休みの日曜、朝の九時。
 『ワタシ』の着る服は事前に見繕っておいたので、彼を見ていられる時間に浸っていられる。
 彼はさっと準備を終えたらしく、リビングにあるソファに座り、テレビを見ようとしていた。

「まあ、いつも通りならまだ掛かるか」

 彼がぽつりと呟く。
 『風夏』は服や美容にこだわりがある。とはいえ他の子たちと変わるはずもないのだけど、その程度のごまかしは軽い暗示でも十分だった。
 ぼーっと番組を眺める彼に気を取られて、不快なニュースが流れていたのに気づくのが遅れた。
 昔に近所で起きた事件。
 我が子への虐待事件。
 一家の無理心中ではないかという予想。
 未だ詳細は闇の中。

「――」

 ああ、いけない。今すぐにでも書き換えた方がいいだろうか?
 でもこの程度でなら、彼もうろたえる事はなくなった。
 ワタシの行動がちゃんと功を奏しているのが再確認できた事だけは幸いだ。
 とはいえ、これ以上彼をあんなモノに触れさせたくない。

「……っ」

 ワタシは既に手に持っていたリモコンでチャンネルを切り替えて、料理番組を映す。
 そして彼の後ろで事も無げに言った。

「お〜、美味しそうなデザートじゃん。今日の締めはケーキ屋で決まりだな」

 ソファに座った彼がゆっくりと振り向き、ワタシの方を見る。

「姉さん、準備できたの?」
「おうよ、服も化粧もばっちり決まってるだろ」

 青くした瞳を見せつけるように、彼の顔をじっと睨む。
 しかし彼はほんの僅かに頬を染めて、すぐにぷいっと視線を背けた。

「あーうん」
「おいっ、そこはしっかりワタシの顔見て言えよ!傷つくだろ!」
「いや、弟と買い物行くだけで気合入れられてもな……」
「はー、そんなんじゃカノジョの一人もできねえわー」
「お互い様でしょ」

 ここはどうしよう、薄いリアクションは却って良くない。うん、背後からでも分かりやすい、多少息苦しい程度のバックチョークにしよう。ワタシだってホントは普通に抱き締めるほうがいいけど、そういうのは『風夏』でやりたい事じゃないし、風夏にさせるのも不自然だ。
 男性的な喉仏の感触にうっとりしそうになりながらも、彼がギブアップを宣言したところで我に返り、チョークを外した。

「そういや、何買いに行くんだっけ」
「えーっと、ファッションと美容とその他色々の週刊誌と、期間限定のケーキと……あ、新作ゲームと〜」

 そうだ、そろそろ新しいゲームも買おう。
 ワタシ自身はとんとそれらに興味ないけど、彼が楽しそうにゲームをする姿は覚えている。放っておくといつまでもやり続けそうなぐらいだったから、かなり好きなんだろう。
 だからこそ彼が『藍』にそのゲーム機をくれた時は、感動で心が溶けてしまいそうだった。
 ゲームなら誰でも一緒に遊ぶ口実が作りやすいし、ワタシとしても具合がいい。

「流石に買いすぎでしょ……カネ出せないからね俺?」
「こちとら社畜社会人だぞ?これでもカネ使うタイミングなくて困ってんだよ」

 前半は嘘だけど、後半は事実だ。
 彼と一緒に話す時間が一秒でも減るのは絶対に願い下げだから、寝顔を見れない事を惜しみつつも、彼が眠る深夜にワタシは”稼ぐ”。ワタシならお金だろうとその代わりだろうと、どこからでも持ってこれる。
 でもまあ持ってくるなら、彼を苦しめた奴らから、慰謝料として回収するべきだと思った。
 だから――

「だからって無理やり美容にお金掛けても――」

 おっと、リアクションリアクション。
 ちゃんとソファに落ちるようにしないと。
 うーん……お化粧やファッションに気を遣う風夏のほうがからかわれやすいのも、皮肉だな。
 でもそれだけ、君は『藍』を好きでいてくれるってことだよね。
 そうだとしたら、これ以上に嬉しい事なんかないよ。




 家ではいつも通りに一悶着を起こしながらも、ワタシたちは街の方へ出かける。
 車の運転を覚えるのは興味がなくてやっぱり面倒だったけど、車内という狭所で二人きりで居られる時間は至高だ。
 余計な雑音を聞かなくて済むし、一緒にラブソングも聴ける。
 彼以外には興味がほとんど出ないワタシには珍しく、歌を聞くのはけっこう好きだった。

「は〜……歩き回って疲れた疲れた。そろそろケーキ食いに行くぞ」
「それはいいけど……姉さんってこういうゲーム……いや、ゲーム自体好きだったっけ?」

 彼は後部座席に積まれた、新機種のゲーム本体と何本かのソフトを眺めて言った。

「ん? ああ……そりゃあお前、アイツの為だよ。
 ご褒美ってわけじゃないが……ここ最近はたまにだけど、外にも出るようになったしな。
 そうじゃなくたって、あんな古くさいゲームしか娯楽がないのも良くないだろ」

 赤信号で車が止まり、会話の邪魔にならない程度にラブソングが掛かる車内。
 とても風夏らしい時間だ。
 もちろん、掛かっている曲は全部『わたし』が歌ったものである。
 曲作りの趣味はないので借り物の歌詞ばかりだけど、共感するところは多い。『藍』が思い切り歌うことはほとんどないし、気づかれても適当に誤魔化すのは簡単だろう。

「……」
「身体動かす系のゲームも買ったし、少しくらい食いつくかなって思ったんだ」
「……そうだな、藍(あい)も喜ぶと思うよ」

 さて、このままだとワタシが渡す流れになりそうだ。
 そういう訳には行かないので、ここも軽い『暗示』で示そう。

『悪いけど、ワタシが買ったことは伏せて、オマエから渡してやってくれるか?
 アイツが懐いてるの、オマエぐらいしかいないから』

 ああ、と彼は頷く。
 意外そうな顔はしていなかったから、きっと彼も最初から自分が渡すつもりで居てくれたんだろう。
 つい感極まりそうになって、彼の頭をわしゃわしゃと撫でてしまった。
 ちょっと雑になったのも風夏らしい撫で方と言えるので、結果オーライにしておこう。

「じゃ、次の休みも付き合えよ」

 風夏は長女で社会人、だから、居ない時間は仕事ということで自然にできる。とても都合が合わせすい。
 彼は風夏以外には気を遣いすぎるきらいがあるから、彼女の存在もまたお互いにとっては良い緩衝材と言えた。
 でもワタシ、ちょっと甘いものは食べすぎかな。
 甘さだけはよく分かるからつい食べてしまうけど――彼はどんな甘さが好みなのかな?
 そういえばちゃんとは聞いてなかったな、誰が聞くべきだろう。
 そんな事を考えつつ、アクセルを踏んだ。






―3―  <亜麻名>

「ふー……甘いもの食べすぎたから苦しいな、家の中に運ぶのも大変だ」

 亜麻名の服――今はぶかっとした赤のセーターに着替えて、私は彼の肩にそっと手を置いた。

「うふふ、おつかれさま〜」

 柔らかい声、と、思ってくれてるかな。
 私にとって姿以外は変えやすいから、上手くいっている、と思うけど。

「ああ、母さんか……久しぶりだね」

 亜麻名も夏姉さんと同じく、あまり家には居ない事になっている。亜麻名がまともにこの子と顔を合わせるのは、週に二日あれば多い方だ。
 私の事はともかく、この子に気を遣わせたり、寂しい思いをさせてしまわなければいいのだけど。

 彼はきっと、『亜麻名という母の実子でない事』をずっと、気に掛け続けている。
 『あの男の子供』であることを、忘れられていない。
 彼を満たすには、その壁を取り払わないといけない。
 亜麻名はそのための、『母親』だ。

「そうなのよぉ、風夏が『甘やかしすぎも良くない』とか言うから、会うのも大変なの〜。
 いくらもう高校生だからって、お母さんに甘えたくない息子なんていないわよねぇ」
「……面と向かって言われると難しいな」
「だって去年までは中学生よぉ?まだまだ甘えたい年頃でしょう〜?」
「……」

 否定も、また肯定もできないのか、彼は黙り込む。
 ほんの少しの沈黙の後、私は彼の前に立って、二人で向かい合った。
 黄色くした瞳で彼を見つめると、思わず目を逸らそうとする。
 だから両頬にそっと手を添えることで、他所を向くことはさせないまま、私は『暗示』と共に言った。

『いいのよ。甘えたいという気持ちは何ひとつ恥ずかしいことじゃない。
 あなたは優しい子。誰かの愛を信じられる子だって、私は分かっているから』

 その言葉が終わると、私は優しく彼の身体を抱きしめる。
 痩せた身体なのは変わらないけど、多少なら女性らしい柔らかさは与えられる。
 しかし、亜麻名に心酔させてしまうのも私の望むところではない。
 だから名残惜しくも、私はすぐに彼から離れた。

「……な〜んて言っちゃって、私が甘やかしたいだけなのよねえ。
 だって子離れだなんて、寂しすぎるじゃない〜」
「……子離れ、か……そうだ、藍は今、部屋にいる?」


 藍。
 藍が、呼ばれた。

「そうねえ……居ると思うけど、その前にお風呂掃除をしてもらってもいいかしら?
 私と風夏はまた仕事で呼ばれちゃったから、おゆはんの準備だけで手一杯なのよ〜」

 心の中で眠る『藍』が、『わたし』が、ざわつく感情を必死で抑えながら、考えていた偽の予定を話す。
 彼が浴室に向かって行ったのを確認した後、わたしは大急ぎで準備を始めた。




 彼女たちは、私の心の中そのものだった。
 姉である『風夏』は、ざっくばらんに、彼が付き会える私の一人として。
 次女の妹である『仁見』は、彼を慕い敬う、私の一人として。
 母である『亜麻名』は、彼を甘えさせてあげられる私の、一人として。

 そして、末妹の『藍』。私の全てが剥き出しになった、『わたし』。
 心も、姿も、何も偽らない。
 ひたすらに彼を愛し、彼に甘えられ、彼の愛を一身全てで受けられる一人。

 だから、彼が決してどの部屋にも無断で立ち入ることのないように。
 かつ、招かれた部屋には違和感なく入れるように、幾重にも暗示を掛けた。
 寝ることも居る事も殆どない部屋の数々を整えた。繕った。
 
 彼の家族はわたし一人だけでいい。
 他の誰もいらない。
 彼を救わなかった他の愚物になんか、絶対に渡さない。
 見て見ぬふりと事なかれを貫いた、唾棄すべき奴等には一瞬だって関わらせない。
 だけど、彼を幸せな環境に、家庭に、居させたい。
 わたし独りでは、きっと彼を満たせない。
 でも彼のすべてを満たしたい。

 そんなどうしようもないわたしのエゴが『彼女たち』を造った。

 それは薄氷のように脆く、だけど綺麗な、私たちにとっての家族。

 






―4―  <藍>

 こんこん、と藍の部屋の扉がノックされる。

「藍。俺だ」

 藍は殆どに不信になっている。彼以外には一瞬も心を許さない。
 それが実体として居るはずのない姉妹だとしても。
 演技をする必要もない。わたしが『わたし』で居られる、今では何より素敵な時間。
 わたしがドアを少しずつ開けていって様子を窺う。

「……お兄、ちゃん?」
「ああ、俺だ。姉さんと母さんは仕事、仁見も女子寮だから……今日は家で二人だ。
 後で夕飯も食べよう。……一緒に」
「う……ん」
「それと、ちょっと入ってもいいか」

 そして、彼の姿が見えた瞬間に小躍りし、ドアを思い切り開く。
 演技するまでもなく、自然なわたしだった。

「……うん」

 藍の部屋はそれらしくするため、あまり換気や掃除はしていない。
 そのぶん彼の匂いが、彼の部屋の次に沁みついていく気がする。でもさすがに、彼の部屋をうろつきすぎると心が高鳴りすぎて、自然体でいられない。何か痕跡を残してしまいかねない。
 そのせいでこの藍の部屋では、わたしは暇があるとつい自慰に耽ってしまう。
 床に散らばる本やぬいぐるみはどれも、彼の私物であったり、彼が使っていたものであったりして、匂いを感じられるものだ。
 それぞれの内容や形はあまり気にしないが、彼が関わっていた触れていたという事実が残りやすいのは何より重要だった。
 そういった彼の私物は、彼の写真や衣服、タオル、特に洗濯する前の下着と併せて、自慰に使うことが多い。そうだ、髪と爪も風夏や亜麻名に切らせるようにしよう。とてもいい考えだ。なぜ今まで思いつかなかったんだろう。歯磨き用のブラシも一日ごとに回収したいけど、この部屋に置くのは無理か。後で良い案を練ろう。もうがまんができそうにない。

「それで、藍――うわっ!」

 部屋の扉が閉まった音と同時に、わたしは彼の身体に飛びつく。
 手に持っていたゲーム機入りの袋を落とさせないよう、床に押し倒すことは何とか堪えられた。そこに気を取らせたらせっかくの表情が台無しだ。

「はあ……はぁっ……」

 それから全身を擦り寄せて、強い力でぎゅうっと彼を抱きしめる。
 私物や下着の匂いでするマスターベーションなんかとは比べ物にならない、彼の生を感じられる至福のひと時。わたしの世界の中で最も効果のある昂揚薬。最初の一息は特にこれまで堪えていた欲望が溢れて決壊し、脳が痺れて生と精が充足を告げる。この香りを嗅いで彼の姿と顔を観て身体全部の感触を確かめて色んな声を聴かないと生きている気がしない。他の誰で味わう快楽も霞みそうなくらいに刺激が強い。

「えへ、えへへ……お兄ちゃん、お兄ちゃんだあ……待ってた、ずっと……待ってたぁ」

 『藍』は姿を偽らなくていいので、わたしの触手も自由に使える。他の誰以上にも彼を求めて感触を味わえる。彼の足や手にぐるぐると絡みつけると、彼をもっと近く感じられる。
 困惑しつつもわたしを振り払えない、彼の複雑で耽美な表情を赤い一つ目が窺いながら、触手の先端に付いた十の赤い瞳が全方位から見つめつつ、この時間に浸る。

「お、おい、藍っ……」
「汗の匂いするね……あっ、息も甘い匂い、する。
 ……クリームと、いちごの匂い……すんすん……。
 お兄ちゃんの味と混ざって、すごく……おいしそう……」

 人目のない場所と分かれば、いや”彼にそう思わせられた場所なら”、どこでだって彼にすり寄る。お兄ちゃんを、彼を求める。
 義理とはいえ妹に真っすぐな恋慕と求愛を向けられる事実は、彼にとっても背徳感を限りなく煽っているのだろう。そんなの――ただの恋人でいるより、ずっと滾るじゃないか。
 彼を助けなかった、虚像でしかない神や他の有象無象の生き物たちに言わせてやるなら、私たちは”罪深い”生き物なんだろう。特に、わたしは。
 まあ、そんなのはどうでもいい。
 ただその事実がわたしを、彼を、昂らせてくれるなら、それも利用すべきだと思った。

「藍、ちょっと――んむっ!」

 彼の顔がわたしを見た瞬間、唇を奪った。
 何度味わっても新鮮な口付けの感触と、彼が私を見ている瞳の形が、強く頭に焼き付く。
 どさり、と何かが床に落ちる音がした。彼が持っていた、ゲーム機の入った袋の落ちる音だ。彼にはもう気にする余裕もなさそうだったので放っておく。

「おにぃ、ひゃあっ……すごひっ、あまふへ……おいひぃ……。
 あはぁっ……お兄ちゃんの、そのかお、すきぃっ……だいすきぃっ……♡
 もっと……もっと、よく見せてっ……♡」
 
 一旦の気が済むまでは、彼を愛し続け。
 だけど彼を愛しすぎて、決して壊してしまわないように、丁寧に、ゆっくりと。

「あは……ガマンなんて、しなくていいんだよ、お兄ちゃん」

 わたしが彼の精を、子種を、純潔を。
 欲望を飲み込んだ記憶と事実を、うっすらとだけは残しつづけたまま。
 
「余計な心配しないように――全部――書き換えるんだから――――」

 わたしは、彼に溺れる。

19/02/06 23:10更新 / しおやき
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