連載小説
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『俺』
―1―

「お兄様は、きっと馬鹿なのですね」

 仁見(ひとみ)はノートに書かれた俺の答えを見て、事も無げにそう言った。その表情はお嬢様のような王子様のような、中性的かつ優雅な微笑みを湛えたままである。
 〇〇高校の校舎内、テスト期間に入ったことで少しだけ人の多い放課後の図書室。その中の、騒がしくしない程度の私語が許される自習スペースに、俺たちはいた。

「シンプルに傷つくな」

 面子を保つために感情を込めない声で俺がそう言うと、彼女はくすり、とまた小さく笑う。

「どうもボクは、お兄様のその顔を見るのが好きみたいです」

 落ち着いて澄んだ声色だったし、その灰色の瞳には侮蔑や罵倒の意こそ感じなかった。が、妹に言われるのはどうであれ堪える言葉だ。
 少なくとも俺は”お兄様”だなんて呼ばれるほどの兄でも、よく出来た人間でもない。ただ、仁見は妹ではあるが『義理の妹』である。だから俺と同じ学年で、同じ課だ。クラスまで同じなのは教師側の怠慢と言えなくもないが。
 仁見の背は俺と同じくらいで、痩せ型だと自称しているが、不健康という程の体形でもない。肩まである黒髪はいつも二つ結びにしていて、指定制服の紺のブレザーとよく似合っていた。肌が色白く、灰色の瞳と合わせると珍しいのだろうが、あまりその点で特別だとは意識したことがない。

「さて、俺を罵倒した詫びはあるのか」
「ええと、確か、」

 真白く細い仁見の指がゆっくりと教科書をめくり、公式の一つを指さす。

「先ほどの問題ではこの公式を使うべきでしょうね。
 お兄様の使っていたものでも可能でしょうが、速さも効率も劣ります」
「ふむ」
「それに次の応用問題では――」

 義理であれ兄妹というのは反転する定めなのか、仁見は俺と違って数学が得意だ。
 反対に苦手な俺は、こうして恥を忍んで妹である仁見に勉強を教えてもらう機会がとても多かった。教え方は丁寧で卒がなく、はっきり言ってそこらの教師より上手いと思える。
 
「さて、分かりましたか、お兄様?」
「ああ、大体わかった」
「なるほど、分かってませんね」
「……傷つく」

 そうして俺の方の復習が一段落すると、仁見は俺に質問をする。

「お兄様、この英文法の使い方は合っていますか?」
「ん……これはどっちかというと固い言い回しだから、友人関係ならこっちの方かな」
「ああ、なるほど……流石ですね、お兄様」
「覚えるのだけは慣れてるからな」
「そうだといいですね」
「そこはちゃんと褒めてくれ」
「ふふっ」

 俺はそれなりに得意、という程度には英語の成績がいいが、仁見は苦手である。とはいっても彼女だって平均点は取れているし、言われたことは驚くぐらいにすっと理解する。つまり単にやる気がないだけだろう。

「おっと……悪いが仁見、シャープペンの芯あるか?Bで」
「ええ、もちろん。はい」
「助かる」

 素っ気ない黒のペンケースから出された芯入れを受け取ると、仁見の白い指が俺の手に触れる。少しひやっとしていて、女性らしい丸さがあった。




「――ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ帰り支度をしましょう、お兄様」
「おっと、そうか」

 勉強に没頭していたところを仁見に促され、勉強道具を片しながら話す。
 周りが見えなくなって何かに没頭してしまうことがたまにあるので、こうやって誰かが傍に居て、俺を促してくれるのは有難い。
 高校に入ってまだ半年程度だが、俺はその以前から小中高と部活にも入らず、クラスにも友達と言える存在がほとんどいない。教師も教え子の成績は見ていても、交友関係には熱心ではない。
 そんな中、仁見は学校での俺の支えであると言っても過言ではなかった。

「帰り道には喫茶店でもどうですか?」
「帰るも何も、俺はともかくお前はここの女子寮住まいだろ。
 だいたい、不良生徒の考えだなそれは」
「勝手に品行方正だと勘違いしてるのは周りですからね」
「その勘違いは……俺のことも含めてか?」
「そっちの方が都合がいいので、否定をしていないだけです、ふふっ。
 ああそうだ、今日は苺の酸味が欲しい気分ですね」
「やれやれ、恐喝にまで手を出されるのか。兄ちゃんは悲しいな」

 俺は財布の中身を確かめ、隠し切れない溜息をついた後、仁見と手を繋ぐ。
 やはりその手は変わらずひやっとしていて少し気になった。

「なんでいつもこんなに冷たい手なんだ」
「それは多分、お兄様に手を繋いで温められたいからでしょうね」
「ロマンチックな答えだ。会いたくて震えてそうだな」
「まさか。震えて待つぐらいなら、こちらから会いに行きますよ」

 仁見は会話によく冗句を交えてくるが、虚勢として強がる様はあまり隠せていない。
 彼女は末妹である藍(あい)と同じで、昔から病弱で基礎体温も低く、また上がりにくいのも知っている。もうすぐ冬の季節が来るし、仁見にはプレゼントになるような暖かい上着を見繕いに行くべきだろう。

「次の休み、羽織る服でも買いに行くか。一緒に」 
「それは重畳……ああいえ、お待ちください。
 たしかその日は、お姉さまとのお約束がお有りですよね?」
「まあそうだが、街に行く用なのは一緒だしな。
 どうせ車だし、三人で行っても荷物ぐらいは何とかなるだろ」

 すると仁見はわずかに首を反らして俺の顔を見つめ、少し強い口調で言う。

『それはいけませんよ、お兄様。無下にしてはなりません。
 風夏(ふうか)お姉さまは、二人きりで出掛けるのを、楽しみにしていたのですから』

 そう言われると、跳ねるように、いや実際に跳ねて、うきうきしていた姉さんの姿を思い出す。他の友人や女性ならいざ知らず、末妹が同伴したぐらいで文句を言うほど器量の狭い女性ではないと思うが――まあ本人が申し出るなら、無理に誘う道理もない。
 顎に手を当て、どこともなく宙を見て考えた後、俺は言った。

「んむ……そうだな、お前の服は再来週にしよう」
「ええ。有難き幸せです、お兄様――んっ」

 そうして視線を外した隙に、頬に温かくて柔らかいものが触れる感触がした。
 さっき触れた指とは違う、暖かいそれは、仁見の薄い唇で間違いなかっただろう。

「とはいえボクの為に、生まれ持ったその鈍いセンスを磨きすぎて粉にしないでくださいね」
「……仁見、やっぱり傷つくんだが」
「くすっ。そのお顔が見たいから、ついまた。申し訳ございません」







―2―

 そして次の休みの日曜。今は朝の九時だ。
 長女である姉と出掛ける予定なわけだが、俺は特に面倒な用意も準備もない。
 ウチはそれなりに大きい家で、一人一部屋ずつ個人用の部屋がある。そして俺を含めた家族みんなが、プライベートをきっちり分けるタイプだ。外から声ぐらいは掛けても、無断で相手の部屋に立ち入ったり覗いたりする事は決してしない。
 なので、さっと準備を終えた俺はリビングにあるソファに座り、テレビを付けて姉さんを待った。

「まあ、いつも通りならまだ掛かるか」

 特に見たいモノもないのでぼーっと番組を眺めていたが、相変わらずニュースは陰鬱な報道ばかり流し続ける。「一家の無理心中」だとか「虐待事件、迷宮入りの真相を探る」だとか。
 ここは地方の田舎ゆえにローカル局がメインなので仕方がないが、ご近所の悪いニュースなど聞かされても特に良いことがない。不安を無理に煽られるだけだ。明日は我が身と思え、という啓蒙だとしても、大抵の人間はそれなりに警戒しているし、また他の大抵はどうしようもない事ばかりだろう。

「……はあ」

 そんな事を思い始めた瞬間、チャンネルがパッと変わって料理番組になった。

「お〜、美味しそうなデザートじゃん。今日の締めはケーキ屋で決まりだな」

 長女である風夏(ふうか)姉さんの低めの声が、俺の後ろから聞こえた。いつの間にかソファの後ろに立っていたらしい。
 姉さんは社会人で、大体いつも母さんと同じ職場で忙しなく働いているそうだ。なので、家族なのに顔を合わせる事はかなり少ない。

「姉さん、準備できたの?」

 座ったまま俺は振り返り、姉さんの姿を見つける。
 風夏姉さんは――いやウチの家族の女性は、母まで含めてみんな外見がよく似ている。性格を除けば、だが。
 背丈は俺と近いし、体形もパッと見た感じでは他の姉妹とだいたい同じである。はっきり違うと分かるのは、声色や髪型に瞳の色、それに諸々の仕草があってこそだ。
 特に姉さんはいつも明るい声色と口調で話すし、お洒落に疎い俺にはよく分かってないが、色んなファッションを好み、今日は白のニットワンピースを着ていた。
 雲のない青空のように青い瞳と、ざっくばらんなポニーテールが、姉さんの快活さにはピッタリだった。

「おうよ、服も化粧もばっちり決まってるだろ」
「あーうん」
「おいっ、そこはしっかりワタシの顔見てから言えよ!」
「いや、弟と買い物行くだけでそんな気合入れられてもな……」
「はー、そんなんじゃカノジョの一人もできねえわー」
「お互い様でしょ」

 と無造作に言うと背後から首をチョークスリーパーされかけたので、女心というのは俺の手に負えない物だと悟る。まあ風夏姉さんは女性としてもウチの姉妹としても、まだ分かりやすいほうだから助かるのだが。
 俺はギブアップを宣言してチョークを外してもらった後、テレビを消してソファから立ち上がる。

「そういや何買いに行くんだっけ」
「えーっと、ファッション誌と美容の本とその他色々の雑誌と、新しい服と、期間限定のケーキと……あ、あと新作ゲームと〜」
「流石に買いすぎでしょ……カネ出せないからね、俺」
「こちとら社畜社会人だぞ?これでもカネ使うタイミングなくて困ってんだよ」
「だからって無理やり美容にお金掛けても効果な――」

 その一瞬後には俺の身体がソファに沈んでいた。


 
 家ではいつも通りに一悶着を起こしながらも、俺たちは街の方へ出かける。
 姉さんが自動車免許を取って、車も勢いで買って、それからは楽になるかと思いきや、そのぶん行く店が増えるだけで疲れる量には変わりがなく。
 車まで運ぶだけとはいえ、荷物を持つ役はほぼ俺なので骨が折れた。

「は〜……歩き回って疲れた疲れた。そろそろケーキ食いに行くぞ」
「それはいいけど、姉さんってこういうゲーム……いや、ゲーム自体好きだったっけ?」

 助手席の俺は後部座席に積まれた、新機種のゲーム本体と何本かのソフトを眺めた。どれも二人以上で遊ぶタイプのゲームソフトと、それ用のコントローラーが袋に入っている。

「ん?ああ……そりゃお前、アイツの為だよ。分かるだろ」

 赤信号で車が止まる。
 詩的な歌詞で綴られた、幻想的な歌声のラブソングがやんわりと聞こえる。音量は小さいので雰囲気でしか掴めないが、それは藍の声に少し似ていて、どこか不思議な感じがした。
 そんな静かな車内で、姉さんは神妙な声で話す。

「ご褒美ってわけじゃないが……ここ最近はたまにだけど、外にも出るようになったしな。
 そうじゃなくたって、あんな古くさいゲームしか娯楽がないのも良くないだろ」
「……」
 身体動かす系のゲームも買ったし、少しくらい食いつくかなって思ったんだ」
「……そうだな、藍(あい)も喜ぶと思うよ」

 運転席にいる風夏姉さんが、青い瞳がくっきり見える程度に首を傾け、俺を見て言った。

『悪いけど、ワタシが買ったことは伏せて、オマエから渡してやってくれるか?
 アイツが懐いてるの、オマエぐらいしかいないから』

 ああ、と返事をしながら俺は頷く。
 姉さんに念を押されなくても、そうするつもりではいたけれど。
 そうしたら、姉さんの手が俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。少し冷たい掌だった。

「じゃ、次の休みも付き合えよ」
「いつもだけど、弟遣いが荒いな」
「ケーキバイキングの奢りで勘弁しろ」
「……姉さんが食べたいだけでしょ」

 バイキングだといつも俺の倍くらい食べるもんな、というセリフは辛うじて飲み込んだ。







―3―

 家に着くころにはもう午後六時半で、夕方になっていた。
 荷物の運搬は完全に姉さんに丸投げされたので、分けて少しずつ運んでいく。

「ふー……甘いもの食べすぎたから苦しいな、家の中に運ぶのも大変だ」

 何だかんだで俺も甘党なので、太ってしまわないかが心配だ。
 買った品物を全部運び終え、リビングのソファで一息つく俺の両肩に、なにか柔らかいものが載せられた。

「うふふ、おつかれさま〜」

 透き通るような柔らかい声。
 つまり俺の肩に乗っているのは、後ろに立った母さんの手だ。

「ああ、母さんか……久しぶりだね」

 母は亜麻名(あまな)という名前で、風夏姉さんと同じくあまり家には居ない。いつもは家事だけして、仕事に行ってしまう。まともに顔を合わせるのは週に二日あれば多い方だ。
 そこまで働かせてしまって申し訳ない気分もあるし、そのせいで一緒にいる時間が少ないことがどこか、寂しい思いもある。


 たとえ俺が『亜麻名という母の実子』ではなく。
 『今はもう亡くなった、父の連れ子』だとしても。


 とはいえ、それを自分の口からはっきり言えるほど、俺はよくできた息子でもなかった。

「そうなのよぉ、風夏が『甘やかしすぎも良くない』とか言うから、会うのも大変なの〜。
 いくらもう高校生だからって、お母さんに甘えたくない息子なんていないわよねぇ」
「……面と向かって言われると、難しい」
「だって去年までは中学生よぉ?まだまだ甘えたい年頃でしょう〜?」
「……」

 否定も、また肯定もできず、俺は口をつぐむ。
 ほんの少しの沈黙の後、母さんはソファに座る俺の前に立ち、向かい合ってくる。
 母の黄色い瞳が俺を見つめると、思わず目を逸らしそうになる。
 しかし俺の両頬にそっと手を添えられ、他所を向くことを防いだまま、母さんが言った。

『いいのよ。甘えたいという気持ちは何ひとつ恥ずかしいことじゃない。
 あなたは優しい子。誰かの愛を信じられる子だって、私は分かっているから』

 その言葉が終わると、母さんは俺の両頬に添えた手を滑らせ、優しく俺の身体を肩の上から抱きしめる。パーマの掛かったふわりとした黒髪が肌をくすぐる。
 仁見や風夏姉さんと同じように痩せた身体でも、そしてぶかぶかの赤いセーターの上からでも、女性らしい柔らかさは確かに感じられた。
 しかしその感触を深く味わう暇は無いまま、すっと母さんは俺から離れた。

「……な〜んて言っちゃって、私が甘やかしたいだけなのよねえ。
 だって子離れだなんて、寂しすぎるじゃない〜」
「……子離れ、か……そうだ、藍は今、部屋にいる?」
「そうねえ……居ると思うけど、その前にお風呂掃除をしてもらってもいいかしら?
 私と風夏はまた仕事で呼ばれちゃったから、おゆはんの準備だけで手一杯なのよ〜」
「ああ、分かった」

 そうか、じゃあ……今日は、二人になるのか。
 藍と、二人きりに。






―4―

 風呂の掃除を済ませた後、俺は今日買ってきたゲームの入った袋を持って、藍の部屋の扉をノックする。
 藍の部屋は閉まった扉越しでもわかる程度に、ほんのりと甘い香りが漂っていた。

「藍。俺だ」

 そう声を掛けて数秒ほど経った後、ほんの少しずつドアが動いていく。

「……お兄、ちゃん?」
「ああ、俺だ。姉さんと母さんは仕事、仁見も女子寮だから……今日は家で二人だ。
 後で夕飯も食べよう。……一緒に」
「う……ん」
「それと、ちょっと入ってもいいか」

 その隙間から覗く赤い瞳――それも大きく一つしかない目が――俺を捉えた瞬間、ぐいっと大きく扉が開いた。

「……うん」

 藍の部屋に入ると、いつものように籠もった空気の匂いを感じた。しかも埃っぽいそればかりではなく、むしろどこか、甘ったるい。それだけでも意識が揺らぎそうになる。他の姉妹も含め、女性の部屋に入るのは慣れていないが、こうも匂いが違うものなのだろうか。
 本やぬいぐるみがいくつか床に散らばっていたものの、腰を据える場所がないほどではなく、最低限の掃除はされているようだった。
 部屋から殆ど出てこれなかった一年前と比べれば、これでも随分良くなった方だろう。

「それで、藍――うわっ!」

 部屋の扉がばたん、と閉まった音とほぼ同時に、藍が俺の身体に飛びついてくる。黒くて長い、所々が乱雑な癖っ毛を揺らして。
 末妹で、病弱で痩せているとはいえ、背は同じくらいだ。心も身体も、おしなべて子供というほど幼くはない。身体に感じる重みと勢いで俺は思わず手に持っていたゲーム機入りの袋を落としそうになったが、なんとかそれは堪えた。

「はあ……はぁっ……」

 ひやりとした藍の身体の感触と、相反するように熱を帯びた吐息が肌に掛かる。
 それからまるで猫が甘えるように全身を擦り寄せて、強い力でぎゅうっと俺を抱きしめ始める。
 最近、藍とはちゃんと会っていなかったせいか。
 いつもよりもひどく――乱れている。

「えへ、えへへ……お兄ちゃん、お兄ちゃんだあ……待ってた、ずっと……待ってたぁ」

 俺を抱き締めるのは藍の身体だけではない。
 彼女の背中から延びる、十本ある黒い触手のようなもの――先端に目玉が付いた、おおよそニンゲンとはかけ離れたそれらが、俺の足や手にぐるぐると絡みついてくる。
 シャツやショーツといった下着程度は履いているものの、いつも藍は裸同然だ。その代わりのように藍の手足や体のあちこちがゲルのような黒いなにかで覆われていて、その下にある肌色は真白い。
 そして時折俺の表情を窺う、顔にある赤色の大きな一つ目。
 ヒトとは思えないその姿をした少女が、義理ではあるが俺の末妹の、『藍』だった。

「お、おい、藍っ……」
「汗の匂いするね……あっ、息も甘い匂い、する。
 ……クリームと、いちごの匂い……すんすん……。
 お兄ちゃんの味と混ざって、すごく……おいしそう……」

 風夏姉さんには藍が俺に「懐いている」程度だと思っていたので誤魔化したが、本当はそんなものではない。誇張ではなく、二人きりで、人目のない場所と分かればどこでもすり寄ってくるぐらいの勢いだ。
 無口で無表情のままふさぎ込んでいた頃よりはずっと良いのだが――。
 対処に困るだなんて、そんな生易しいものでさえない。

「藍、ちょ、ちょっと――んむっ!」

 とにかく落ち着かせようと、顔を見て声を掛けようとした瞬間、唇に唇を重ねられる。
 これが初めてではない。でも何度味わっても慣れない口付けの感触と、俺をじいっと見つめる大きな赤い瞳の色が、強く強く頭に焼き付く。思考をそれだけに染めようとしてくる。
 どさり、と何かが床に落ちる音がした。たぶん俺が持っていた、ゲーム機の入った袋の落ちる音だろう。

「おにぃ、ひゃあっ……すごひっ、あまふへ……おいひぃ……」

 藍の長く柔い舌が唇をこじ開けて、にゅるりと口内に入り込んでくる。蜂蜜よりも甘い唾液に塗れたそれは、俺の頭を痺れさせるのに十分すぎた。

「んんっ、んむぅっ、あ、あひっ、ひゃめっ、ろっ……」
「やら、やらよお……まはたりなひ……おにいちゃんの、におい、あじっ……もっとっ」

 柔らかい舌が俺の口内をくまなくなぞり、れろれろと舐め回していく。ヒトでは届かないような場所まで念入りに、時にチロチロゆっくりと、時にざらりと激しく。
 それだけではなく今度は、触手に絡め捕られてまともに動けない俺の身体を、藍の両手がさわさわと撫でる。
 頭、髪の毛、耳、頬、首筋、胸元、肩、背中、尻、太腿、股間。
 ありとあらゆる場所をなぞるように、感触を確かめるように、手が指が這いまわる。

「あはぁっ……お兄ちゃんの、そのかお、すきぃっ……だいすきぃっ……♡
 もっと……もっと、よく見せてっ……♡」

 それは、そっと手を繋ぐ仁見との触れ合いとも違う。
 風夏姉さんのやや乱暴なスキンシップとも違う。
 当然くすぐりあいのような、子供の遊びのそれとも違う。
 恋焦がれた相手への愛撫のような、ただひたすらな熱情を見せるような動きだった。

「ほらっ……おくち、はなしたよぉ。これでこえ、だせるよね……。
 ね……わたしのこと……愛してるって、言ってっ……♡」
「あ、ああ……あい、してるよっ……」
「はぁっ……♡ もっと……それ以外聞こえなくなるくらい、ずっと……わたし、だけに。
 お兄ちゃんに……あなたに、いっぱいにされたいのっ……」

 俺と藍は兄妹だ。いくら義理の関係だからと言って、こんな事はするべきじゃない。
 何度も彼女にそう言った。
 だが、そんな心にもない拒否では何ひとつ変わらなかった。
 それどころか、藍が俺の妹であるその事実が――余計に一線を越えさせようとする。

「好き……すきだよ、愛してるよ、お兄ちゃん……。
 わたしのこと……はじめて、受け入れてくれたひと……わたしを見てくれたひと。
 わたしが大嫌いだったわたしを、優しく愛してくれて、わたしを大好きにしてくれたひと」

 藍と話し、触れ合い、打ち解けていく度に――藍は俺を求めてきた。
 彼女が愛に飢えていたのは明白だった。そう成るのも分からない事ではなかった。
 だが、どうして俺だけにそれを求めたのか?
 他人ならいざ知らず、母では駄目だったのか。風夏姉さんや仁見では駄目だったのか。

「あ……ああぁ……」

 それを聞くことは出来なかった。俺自身もまた、藍に求められることを拒めなかった。
 ヒトとかけ離れたその姿が神秘的で、見惚れるほど惹かれていて。
 彼女の事を、藍の事を知るたびに、一人の異性としてどうしようもなく、好きになっていた自分がいた。
 だって俺は、家族になるずっと前から、藍を知っていたから。

「ほんとはね、ほんとはね、今すぐにでもお兄ちゃんと、あなたと一つに繋がりたいよ。キスだけじゃ足りない。身体を触るだけじゃ足りない。抱き締めるだけじゃ足りない。
 お兄ちゃんの前だけでは女の子になりたい。それがわたしだから。
 わたしのことを見てくれるならそれだけでもいい。好きになってくれるなら心から幸せ。だから今はとっても幸せ。
 でも、わたしはわがままだから、もっと――もっと欲しくなるんだ」

 俺の目と藍の目が、磁石のようにぴったりと合う。
 同時に身体の端から、熱で炙られ溶かされていくような感覚に襲われる。
 熱く火照る身体に押し当てられる、少しひんやりした藍の体温が心地よくてたまらない。

「あ……あいっ……うああ……っ」

 もっと触れたい。藍が藍だと分かる全てのモノでいっぱいにされたい。
 少し痩せた身体も、真白い肌も、黒く長い癖っ毛も、尖った歯も、触手たちも、赤い瞳も。
 藍が欲しい。藍の持つ途方もない感情を受け入れてあげたい。愛したい。


 犯したい。


 でも駄目だ、大事な妹なんだ。
 妹に劣情をぶつける最低の兄になんかなりたくない。
 藍に幻滅されたくない。失望されたくない。藍にもっと好きで居られたい。どうやって愛したらいいか分からない。どうやったら愛してもらえるのか分からない。愛されたい。愛したい。俺を愛する人なんていない。愛してもらえない。
 そんな俺の耳元で、藍は心から優しく、残酷に、ささやく。

『あは……ガマンなんて、しなくていいんだよ、お兄ちゃん。
 余計な心配しないように――全部――書き換えるんだから、

 心配しなくていいんだよ、

 おにい、ちゃん。

 だいじな、

 わたしの、    、だもん』

 その言葉で、僅かに残った理性が焼き切れるのが分かった。
19/02/06 20:07更新 / しおやき
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