出会いと拾われた命
「くそっ、寒い……それに眠い……」
巨大な両手剣、クレイモアを背負った男は吹雪で荒れた雪山をぶつくさとつぶやきながら歩いていた。しかし彼の格好は革鎧にマントというだけの格好。お世辞にも雪山を越えるとめの服装とは言えない。はっきりと言ってしまえば、この格好で雪山に来るとは、愚の骨頂だ。だが、この男がこの格好で雪山に来たのは、止むに止まれぬ理由があった。
先日、とある場所で戦争があった。この男、傭兵稼業のクリスもその戦争に参加した。傭兵とはケチ商売なもので、実際にはあまり戦わない。傭兵同士で小競り合いを演じて見せて、キリのいいところではける。本当に働く場面は、村への攻撃と略奪だろう。クリスもその戦争でとある村の略奪を命じられた。しかし、相手の国の王はそのように略奪をされ、戦争に参加していない人間まで被害に会うのを許さない人物だった。クリス達が行こうとしていた村の途中に伏兵が用意されていた。傭兵部隊は壊滅。クリスも命からがら逃げて、そして逃げた先がこの雪山だったというわけである。
★
「……ちくしょう、このままだと凍え死んでしまうぜ……」
一歩一歩、足を進めながらクリスはつぶやく。しかしその足つきは頼りなく、彼の頭もたれていた。この雪山なら、敵の追撃を受ける心配はない。しかし、このまま雪山で倒れてしまうことも十分に考えられた。
「いやだっ、死にたくない! まだまだ美味いもん食いたいし、女も抱きたい……!」
弾かれたように彼の頭が上がる。生への執着心が彼の足を、身体を突き動かしていた。歩き続けても助かるあてはないが、このまま倒れるよりは何倍もマシだ。
「もしかしたら、イエティが助けてくれるかもしれないしな……」
そんな非建設的なことを考えながら、クリスは吹雪の中を歩き続けた。
どのくらい歩き続けただろうか。一度立て直したクリスの心が再び折れようとしていた。それをさらに煽るかのように、急に風がさらに強くなった。
「くっ……やっぱり、ダメなのかな……ここで俺は……」
そう思った時、彼はふと目の前に人影がある気がした。飢えと寒さと疲れで見えた幻覚か……いや、そうではなさそうだ。その影はこちらに近づいてきているようだ。
影の形からして、女のように見える。この吹雪の中、平然と歩けるのはイエティくらいなものだろう。助かった! クリスはそう思った。
「おーい!」
クリスが手を振った。速度を変えずに、影は近づいてくる。手を振る前から向こうはこちらを認識していたようだ。
『しかしなんだ……どんどん寒くなっている気が……』
マントをさらに身体に巻きつけながら男は考える。
やがて女は、はっきりと姿形まで認識できるところまで近づいてきた。魔物娘ではあったが、その女はイエティではなかった。かと言って、ジパングに住む雪女でもなかった。
この吹雪の中、女はほとんど服らしい服を身につけていない。胸はメタリックな胸当てのようなもので包んでおり、腕や脇腹、脚には雪や氷をモチーフにした装飾品やをつけている。それ以外は何も身につけていない。むき出しになっている肌は水晶細工のように青く、透き通るような美しさだ。そして髪はオーロラのように、幻想的なグラデーションをした色だった。
氷の化身。
そんな言葉が似合う、美しい魔物娘だった。
「私は氷の女王・フロワアイル様の下僕、グラキエスのアイシクル。人間の子よ。このようなところで何をしている?」
アイシクルと名乗った魔物娘はふわふわと浮かんで男を高い位置から訊ねる。その口調は氷の化身の姿どおりに冷たく、見下ろす目も冷ややかだった。
「俺は……」
クリスは口を開いた。だが、それより先に助かったという気持ちが先に来た。そのままドサリとクリスは雪に突っ伏す。
「ちっ……面倒な人ね。正直、この男がどうなろうと私の知ったことではないのだけど……仕方がない……」
アイシクルがそう言っているのを遠くで聞きながら、クリスの意識は闇に飲まれた。
★
「うぅう……」
クリスは呻き声を上げた。どのくらい眠っていたのだろうか? あるいはすでに自分は死んでいて、ここは死後の世界なのかもしれない。しかし、今の自分の呻き声は現世の空気を震わせていると思う。
「気がついたかしら」
クリスの呻き声に応える者がいた。意識を失う直前に聞いた、あの冷たい声。確か……
「アイシ……クル?」
「気安く呼ばないで、人の子」
果たしてグラキエスのアイシクルがクリスを見下ろしていた。
クリスは身体を起こしてみた。自分は木造りの部屋にいて、そこのベッドに寝かされていた。部屋の隅では小さな暖炉があり、部屋を暖かくしている。窓からはキラキラと太陽の日差しが差し込んでいた。そしてその外からは人の声がガヤガヤと聞こえる。つまり、ここは山小屋とかではなく、村ということだ。
「こ、ここは……」
「ここは常冬の村、イヴェール。私たちが住む氷の宮殿に一番近い人間の村よ。その宿屋ね、ここは」
アイシクルは説明した。つまり
「俺は……助かったのか!?」
「……そうね、あなたはね」
目を合わせず、アイシクルはクリスの言葉を肯定した。そう、クリスは助かったのだ。ここは天国でも地獄でもない、生のための現世だ。クリスはグッと両拳を握りしめてその喜びを噛み締める。だが、ふとアイシクルの言葉が引っかかってその気持ちがスッと冷めた。
「あなたはね、ってどういうことだ?」
「……血の臭いがする……鎧からも、剣からも、あなたからも……」
クリスの問いには答えず、アイシクルは感情のない声でつぶやく。そしてそこでクリスの方に顔を向け、ジッと見ながら言った。
「どれだけ殺したの、あなたは……」
「知るかよ……人間なんて獣と一緒だ。食うか食われるか、それだけだろうが」
アイシクルの言葉に少なからずクリスは動揺したが、すぐに吐き捨てるように答えた。これまで食べたパンの数と同様に、殺めた人の人数など数え切れない。村を襲撃して家をどれだけ焼き払ったか、抵抗する男をどれだけ刺し殺したか。殺さないまでも、どれだけ人を傷つけ、どれだけ血を流したか。この雪山に逃げる前も、何人の敵国の兵士を切り伏せた。むしろ彼のような傭兵にとって、人を殺めたり傷つけたり、あるいは家などを壊すことが、パンを食べるための行為なのだ。
「だが、あなたがそいつらを食らってでも生きたいと思っていたのと同様、彼らも生き延びたいと思っていたはず……」
「んなもん知ったこっちゃねぇ。そいつらが弱かった。俺はそいつらから奪って食った。それだけだ」
「くっ……これまで遠巻きに何人か人間は見てきたが、ここまでクズのような人間は初めて見たわ」
端整な顔をしかめながら、アイシクルはつぶやく。自分を見る目がもっと冷たくなったようにクリスは感じた。その目をクリスは睨み返す。傭兵として培われた経験が、戦闘を抜きにしても目をそらすのは負けだと彼に囁いていた。
しかし、クリスは先ほどから不快感を覚えていた。部屋は暖房が効いて暖かいはずなのに、なぜか寒気を感じる。それと同時に恐怖のような物を彼は感じていた。アイシクルに言われた事に少なからずショックを受けたこともある。しかし、それだけでは説明がつかないくらい、言いようのない不安感が彼を苦しめていた。まるで、自分が立っている足場が徐々に崩れて奈落に落ちて行っているような、そんな不安感だ。
「……これでも人の子だからね。フロワアイル様から人間を殺さぬよう厳命を受けているし、私も命を奪って面白いとは思えない」
先に目をそらしたのはアイシクルの方だった。ふいっと横を向き、そして首を左右に振る。そのまま彼女は部屋から出ていこうと出口へと向かった。
「フロワアイル様への報告のため、席を外す。またしばらくしたら、様子を見に来てあげるわ」
そう言って彼女は部屋を出て行った。がちゃんと、木製のはずの扉が、嫌に冷たい音を立てた。あとには一人、クリスが残された。
★
「う、うぅうう……」
毛布にくるまり、クリスは自分の身体を掻き抱いていた。アイシクルは出て行ったため、寒気はもうない。だがどこか身体が冷えている気がした。それを温めようとクリスは自分の身体に腕を回す。そんなことをしても身体は温まらない。それはクリスも分かっていた。本当に冷えているのなら、暖炉の前に行けばいいだけだ。
『くそっ、情けない……あの女、俺に何かをしたか……寒さで、気持ちが参っちまったようだ……』
口に出さずに、呻きながらクリスは考える。傭兵一筋で生きてきていた彼は学問を修めていない。それでも聞いたことはある。寒いと人の心は落ち込みやすい。ゆえに寒冷地での戦闘は敵味方ともに気を付けよ。今、その寒さに苦しめられているのだとクリスは考えた。普段はあまり気にしないことが、急に恐怖となって目の前をちらついている。その恐怖によりフラッシュバックする記憶。泣き叫ぶ子ども達、苦痛の声を上げる男、死んだ魚のような目をしている村娘、飛沫く血……
怖い……普段、戦闘のときは押さえ込まれている感情が、弱った心のせいで表に出ている。もう少し別の感情が恐怖の形で出ているようにも思えたが、とにかくクリスは怖かった。こんな気持ちになることが、今以外でも時々クリスにはあった。そんな時は強い酒を飲んだり、女でも抱いたりして忘れるのがいつもの彼だ。だが、今はそのために必要な金はないし、そもそもそばに誰もいない。
「あ、あの……スープを飲まれますか?」
そのとき、扉が開き、少女が一人入ってきた。おそらく、この宿屋の娘なのだろう。赤毛の髪を二つに分けて三つ編みにしている。そばかすが少し散っているのが、庶民的だ。手には湯気が立ち上っている暖かそうなスープの皿があった。それをテーブルの横に彼女は置いた。
「ここに置いておきますね……きゃっ!?」
突然、彼女は悲鳴を上げた。クリスが襲いかかったからだ。さっきから彼を苦しめていた恐怖のような物が、彼を暴走させた。強引にクリスは娘をベッドに押し倒し、両手を挙げさせて、片方の手で娘の両方手首を押さえつける。華奢な体つきをしている娘だが、その手は温かかった。クリスもう一方の手が娘の胸元にかかろうとする。
「きゃー!? 誰か助けてーっ!」
娘の悲鳴の次に、鈍い音が響いた。その次の瞬間、クリスの身体がぐにゃりと崩れ落ちる。意識が遠のいているあいだに聞こえてきたのは、あの冷たい声だった。
「ちょっと目を離したらこれか……油断も隙もあったものじゃない……」
★
「うぅ……」
「目を覚ましたかしら? まったく……最低ね、あなた」
頭に響く鈍い痛みに眉を寄せながら目を開くと、自分を見下ろしているアイシクルの姿が映った。見下ろしている目は相変わらず冷たい。いや、ここを出て行く時以上だ。
「くっ……」
まただ、とクリスは呻く。また、先ほどの恐怖のような物が掻き立てられていた。もはや、目の前にいる魔性の者、アイシクルが何かしているとしか思えない。そう疑っているクリスにさらに裏付けをするかのような言葉がアイシクルから告げられる。
「宿屋の主人には私から事情を説明しておいた。私が原因でもあるし……」
「……あっ? やっぱりお前、何か俺にしやがったな!?」
寒気や恐怖とともに、怒りがクリスの中で膨れ上がる。考えるより先に身体が動いた。上半身を起こし、右手を振りかぶる。アイシクルの頬を殴り、ひるんだところを押し倒すつもりだった。だが
「私たちグラキエスが放つ魔力は、人や魔物の心を凍えさせる」
「ぐっ……」
アイシクルは淡々と自分の種族の特徴の説明をしていた。呻き声を上げたのはクリスだ。彼の右拳はアイシクルの頬から数センチ離れたところで氷漬けにされて固定されていた。アイシクルの魔力によるものだ。
クリスの動きを止めたアイシクルの説明は続く。心を凍えさせられた人間や魔物は耐え難いほどの人恋しさを覚える。そしてその寂しさを埋めるかのように愛情とぬくもりを求め、異性にすがりつくのだと言う。
『そういうことだったのか、くそっ……』
アイシクルの説明を聞いて、クリスは納得した。なるほど、道理でアイシクルと一緒にいた時に、寒気や恐怖のようなを感じたわけである。その恐怖の大元の原因が何か分かった。孤独感だ。それも、クリスの場合は彼の生き方がその孤独感をさらに質の悪いものにしていた。自分はこれまで何人もの人を殺め、傷つけた。そのせいで全ての人間から見放されている……そんな気持ちが、掻き立てられていたのだろう。
「ともかく」
アイシクルの言葉でクリスは我に返った。
「あなたのあの行動は私にも責任がある。とは言え、あなたの行為は最低だった。まったく……なんで私がこんな者の面倒を見なければならないんだ……」
「えっ?」
アイシクルの言葉にクリスは驚いた。今、彼女は何と言ったか。
「フロワアイル様により、私は雪山で助けた者、すなわちあなたの面倒を最後まで責任を持って見ろと命じられた。別に、人間とそう関わりたくないのに、なぜこのようなことを……」
うんざりしたように、アイシクルはつぶやいた。クリスも愉快な気持ちではない。彼女に近づかれるだけで寒気と寂寥感が掻き立てられ、気分が悪くなる。助かって生きていることは嬉しいとは思ったが、今までの戦いよりさらに面倒なこと降りかかったと思った。
こうして、雪山で命拾いした傭兵のクリスは、アイシクルに見られた状態でイヴェールで暮らしていくこととなったのだった。
巨大な両手剣、クレイモアを背負った男は吹雪で荒れた雪山をぶつくさとつぶやきながら歩いていた。しかし彼の格好は革鎧にマントというだけの格好。お世辞にも雪山を越えるとめの服装とは言えない。はっきりと言ってしまえば、この格好で雪山に来るとは、愚の骨頂だ。だが、この男がこの格好で雪山に来たのは、止むに止まれぬ理由があった。
先日、とある場所で戦争があった。この男、傭兵稼業のクリスもその戦争に参加した。傭兵とはケチ商売なもので、実際にはあまり戦わない。傭兵同士で小競り合いを演じて見せて、キリのいいところではける。本当に働く場面は、村への攻撃と略奪だろう。クリスもその戦争でとある村の略奪を命じられた。しかし、相手の国の王はそのように略奪をされ、戦争に参加していない人間まで被害に会うのを許さない人物だった。クリス達が行こうとしていた村の途中に伏兵が用意されていた。傭兵部隊は壊滅。クリスも命からがら逃げて、そして逃げた先がこの雪山だったというわけである。
★
「……ちくしょう、このままだと凍え死んでしまうぜ……」
一歩一歩、足を進めながらクリスはつぶやく。しかしその足つきは頼りなく、彼の頭もたれていた。この雪山なら、敵の追撃を受ける心配はない。しかし、このまま雪山で倒れてしまうことも十分に考えられた。
「いやだっ、死にたくない! まだまだ美味いもん食いたいし、女も抱きたい……!」
弾かれたように彼の頭が上がる。生への執着心が彼の足を、身体を突き動かしていた。歩き続けても助かるあてはないが、このまま倒れるよりは何倍もマシだ。
「もしかしたら、イエティが助けてくれるかもしれないしな……」
そんな非建設的なことを考えながら、クリスは吹雪の中を歩き続けた。
どのくらい歩き続けただろうか。一度立て直したクリスの心が再び折れようとしていた。それをさらに煽るかのように、急に風がさらに強くなった。
「くっ……やっぱり、ダメなのかな……ここで俺は……」
そう思った時、彼はふと目の前に人影がある気がした。飢えと寒さと疲れで見えた幻覚か……いや、そうではなさそうだ。その影はこちらに近づいてきているようだ。
影の形からして、女のように見える。この吹雪の中、平然と歩けるのはイエティくらいなものだろう。助かった! クリスはそう思った。
「おーい!」
クリスが手を振った。速度を変えずに、影は近づいてくる。手を振る前から向こうはこちらを認識していたようだ。
『しかしなんだ……どんどん寒くなっている気が……』
マントをさらに身体に巻きつけながら男は考える。
やがて女は、はっきりと姿形まで認識できるところまで近づいてきた。魔物娘ではあったが、その女はイエティではなかった。かと言って、ジパングに住む雪女でもなかった。
この吹雪の中、女はほとんど服らしい服を身につけていない。胸はメタリックな胸当てのようなもので包んでおり、腕や脇腹、脚には雪や氷をモチーフにした装飾品やをつけている。それ以外は何も身につけていない。むき出しになっている肌は水晶細工のように青く、透き通るような美しさだ。そして髪はオーロラのように、幻想的なグラデーションをした色だった。
氷の化身。
そんな言葉が似合う、美しい魔物娘だった。
「私は氷の女王・フロワアイル様の下僕、グラキエスのアイシクル。人間の子よ。このようなところで何をしている?」
アイシクルと名乗った魔物娘はふわふわと浮かんで男を高い位置から訊ねる。その口調は氷の化身の姿どおりに冷たく、見下ろす目も冷ややかだった。
「俺は……」
クリスは口を開いた。だが、それより先に助かったという気持ちが先に来た。そのままドサリとクリスは雪に突っ伏す。
「ちっ……面倒な人ね。正直、この男がどうなろうと私の知ったことではないのだけど……仕方がない……」
アイシクルがそう言っているのを遠くで聞きながら、クリスの意識は闇に飲まれた。
★
「うぅう……」
クリスは呻き声を上げた。どのくらい眠っていたのだろうか? あるいはすでに自分は死んでいて、ここは死後の世界なのかもしれない。しかし、今の自分の呻き声は現世の空気を震わせていると思う。
「気がついたかしら」
クリスの呻き声に応える者がいた。意識を失う直前に聞いた、あの冷たい声。確か……
「アイシ……クル?」
「気安く呼ばないで、人の子」
果たしてグラキエスのアイシクルがクリスを見下ろしていた。
クリスは身体を起こしてみた。自分は木造りの部屋にいて、そこのベッドに寝かされていた。部屋の隅では小さな暖炉があり、部屋を暖かくしている。窓からはキラキラと太陽の日差しが差し込んでいた。そしてその外からは人の声がガヤガヤと聞こえる。つまり、ここは山小屋とかではなく、村ということだ。
「こ、ここは……」
「ここは常冬の村、イヴェール。私たちが住む氷の宮殿に一番近い人間の村よ。その宿屋ね、ここは」
アイシクルは説明した。つまり
「俺は……助かったのか!?」
「……そうね、あなたはね」
目を合わせず、アイシクルはクリスの言葉を肯定した。そう、クリスは助かったのだ。ここは天国でも地獄でもない、生のための現世だ。クリスはグッと両拳を握りしめてその喜びを噛み締める。だが、ふとアイシクルの言葉が引っかかってその気持ちがスッと冷めた。
「あなたはね、ってどういうことだ?」
「……血の臭いがする……鎧からも、剣からも、あなたからも……」
クリスの問いには答えず、アイシクルは感情のない声でつぶやく。そしてそこでクリスの方に顔を向け、ジッと見ながら言った。
「どれだけ殺したの、あなたは……」
「知るかよ……人間なんて獣と一緒だ。食うか食われるか、それだけだろうが」
アイシクルの言葉に少なからずクリスは動揺したが、すぐに吐き捨てるように答えた。これまで食べたパンの数と同様に、殺めた人の人数など数え切れない。村を襲撃して家をどれだけ焼き払ったか、抵抗する男をどれだけ刺し殺したか。殺さないまでも、どれだけ人を傷つけ、どれだけ血を流したか。この雪山に逃げる前も、何人の敵国の兵士を切り伏せた。むしろ彼のような傭兵にとって、人を殺めたり傷つけたり、あるいは家などを壊すことが、パンを食べるための行為なのだ。
「だが、あなたがそいつらを食らってでも生きたいと思っていたのと同様、彼らも生き延びたいと思っていたはず……」
「んなもん知ったこっちゃねぇ。そいつらが弱かった。俺はそいつらから奪って食った。それだけだ」
「くっ……これまで遠巻きに何人か人間は見てきたが、ここまでクズのような人間は初めて見たわ」
端整な顔をしかめながら、アイシクルはつぶやく。自分を見る目がもっと冷たくなったようにクリスは感じた。その目をクリスは睨み返す。傭兵として培われた経験が、戦闘を抜きにしても目をそらすのは負けだと彼に囁いていた。
しかし、クリスは先ほどから不快感を覚えていた。部屋は暖房が効いて暖かいはずなのに、なぜか寒気を感じる。それと同時に恐怖のような物を彼は感じていた。アイシクルに言われた事に少なからずショックを受けたこともある。しかし、それだけでは説明がつかないくらい、言いようのない不安感が彼を苦しめていた。まるで、自分が立っている足場が徐々に崩れて奈落に落ちて行っているような、そんな不安感だ。
「……これでも人の子だからね。フロワアイル様から人間を殺さぬよう厳命を受けているし、私も命を奪って面白いとは思えない」
先に目をそらしたのはアイシクルの方だった。ふいっと横を向き、そして首を左右に振る。そのまま彼女は部屋から出ていこうと出口へと向かった。
「フロワアイル様への報告のため、席を外す。またしばらくしたら、様子を見に来てあげるわ」
そう言って彼女は部屋を出て行った。がちゃんと、木製のはずの扉が、嫌に冷たい音を立てた。あとには一人、クリスが残された。
★
「う、うぅうう……」
毛布にくるまり、クリスは自分の身体を掻き抱いていた。アイシクルは出て行ったため、寒気はもうない。だがどこか身体が冷えている気がした。それを温めようとクリスは自分の身体に腕を回す。そんなことをしても身体は温まらない。それはクリスも分かっていた。本当に冷えているのなら、暖炉の前に行けばいいだけだ。
『くそっ、情けない……あの女、俺に何かをしたか……寒さで、気持ちが参っちまったようだ……』
口に出さずに、呻きながらクリスは考える。傭兵一筋で生きてきていた彼は学問を修めていない。それでも聞いたことはある。寒いと人の心は落ち込みやすい。ゆえに寒冷地での戦闘は敵味方ともに気を付けよ。今、その寒さに苦しめられているのだとクリスは考えた。普段はあまり気にしないことが、急に恐怖となって目の前をちらついている。その恐怖によりフラッシュバックする記憶。泣き叫ぶ子ども達、苦痛の声を上げる男、死んだ魚のような目をしている村娘、飛沫く血……
怖い……普段、戦闘のときは押さえ込まれている感情が、弱った心のせいで表に出ている。もう少し別の感情が恐怖の形で出ているようにも思えたが、とにかくクリスは怖かった。こんな気持ちになることが、今以外でも時々クリスにはあった。そんな時は強い酒を飲んだり、女でも抱いたりして忘れるのがいつもの彼だ。だが、今はそのために必要な金はないし、そもそもそばに誰もいない。
「あ、あの……スープを飲まれますか?」
そのとき、扉が開き、少女が一人入ってきた。おそらく、この宿屋の娘なのだろう。赤毛の髪を二つに分けて三つ編みにしている。そばかすが少し散っているのが、庶民的だ。手には湯気が立ち上っている暖かそうなスープの皿があった。それをテーブルの横に彼女は置いた。
「ここに置いておきますね……きゃっ!?」
突然、彼女は悲鳴を上げた。クリスが襲いかかったからだ。さっきから彼を苦しめていた恐怖のような物が、彼を暴走させた。強引にクリスは娘をベッドに押し倒し、両手を挙げさせて、片方の手で娘の両方手首を押さえつける。華奢な体つきをしている娘だが、その手は温かかった。クリスもう一方の手が娘の胸元にかかろうとする。
「きゃー!? 誰か助けてーっ!」
娘の悲鳴の次に、鈍い音が響いた。その次の瞬間、クリスの身体がぐにゃりと崩れ落ちる。意識が遠のいているあいだに聞こえてきたのは、あの冷たい声だった。
「ちょっと目を離したらこれか……油断も隙もあったものじゃない……」
★
「うぅ……」
「目を覚ましたかしら? まったく……最低ね、あなた」
頭に響く鈍い痛みに眉を寄せながら目を開くと、自分を見下ろしているアイシクルの姿が映った。見下ろしている目は相変わらず冷たい。いや、ここを出て行く時以上だ。
「くっ……」
まただ、とクリスは呻く。また、先ほどの恐怖のような物が掻き立てられていた。もはや、目の前にいる魔性の者、アイシクルが何かしているとしか思えない。そう疑っているクリスにさらに裏付けをするかのような言葉がアイシクルから告げられる。
「宿屋の主人には私から事情を説明しておいた。私が原因でもあるし……」
「……あっ? やっぱりお前、何か俺にしやがったな!?」
寒気や恐怖とともに、怒りがクリスの中で膨れ上がる。考えるより先に身体が動いた。上半身を起こし、右手を振りかぶる。アイシクルの頬を殴り、ひるんだところを押し倒すつもりだった。だが
「私たちグラキエスが放つ魔力は、人や魔物の心を凍えさせる」
「ぐっ……」
アイシクルは淡々と自分の種族の特徴の説明をしていた。呻き声を上げたのはクリスだ。彼の右拳はアイシクルの頬から数センチ離れたところで氷漬けにされて固定されていた。アイシクルの魔力によるものだ。
クリスの動きを止めたアイシクルの説明は続く。心を凍えさせられた人間や魔物は耐え難いほどの人恋しさを覚える。そしてその寂しさを埋めるかのように愛情とぬくもりを求め、異性にすがりつくのだと言う。
『そういうことだったのか、くそっ……』
アイシクルの説明を聞いて、クリスは納得した。なるほど、道理でアイシクルと一緒にいた時に、寒気や恐怖のようなを感じたわけである。その恐怖の大元の原因が何か分かった。孤独感だ。それも、クリスの場合は彼の生き方がその孤独感をさらに質の悪いものにしていた。自分はこれまで何人もの人を殺め、傷つけた。そのせいで全ての人間から見放されている……そんな気持ちが、掻き立てられていたのだろう。
「ともかく」
アイシクルの言葉でクリスは我に返った。
「あなたのあの行動は私にも責任がある。とは言え、あなたの行為は最低だった。まったく……なんで私がこんな者の面倒を見なければならないんだ……」
「えっ?」
アイシクルの言葉にクリスは驚いた。今、彼女は何と言ったか。
「フロワアイル様により、私は雪山で助けた者、すなわちあなたの面倒を最後まで責任を持って見ろと命じられた。別に、人間とそう関わりたくないのに、なぜこのようなことを……」
うんざりしたように、アイシクルはつぶやいた。クリスも愉快な気持ちではない。彼女に近づかれるだけで寒気と寂寥感が掻き立てられ、気分が悪くなる。助かって生きていることは嬉しいとは思ったが、今までの戦いよりさらに面倒なこと降りかかったと思った。
こうして、雪山で命拾いした傭兵のクリスは、アイシクルに見られた状態でイヴェールで暮らしていくこととなったのだった。
13/01/03 22:01更新 / 三鯖アキラ(旧:沈黙の天使)
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