毛糸と弓矢のその後のお話
学生の本分は勉強、とは言うけれど、期末のレポートと試験を乗り越えた後は、どうしても気が抜けてしまう。来年には卒論やら就活やらで余裕もなくなるのだと思うと、今のうちに楽しんでおこうという気持ちは膨らむ一方だ。
解放感に浮かれる学生たちがまだたむろしている大学の構内で、ベンチに座り、深呼吸を一つ。
少し前ならば、このまま帰ってゲームを、と思っていたところだが、今は違う。
携帯電話を取り出し、立ち上げたメッセージアプリでシラハさんとの会話記録を呼び出す。
二週間ほど前に送った「大学が期末で忙しくなるので、しばらく会えないです」というメッセージに既読マークは付いているが、返事は未だに来ていない。
シラハさんが口下手なことは、一月とすこし付き合ってよく分かった。だから返事が来ないのも文面が思いつかないだけなのかもしれないとは思うが、それはそれとして、機嫌を損ねているかもしれないという不安もある。
何度も仮想キーで文章を叩いては消してを繰り返しているうちに、知らず知らずため息が漏れる。
やはりこういう時は、清水の舞台から飛び降りるに限る。
意を決してアプリを閉じて、探すのは、通話履歴に残るシラハさんの電話番号。
いつもと変わらないはずの呼び出し音が、やけに長く聞こえる。学生は春休みに入っても社会人であるシラハさんは仕事中じゃないだろうか、と電話をかけてから気付いたが、だからと言って切る気は起きない。
ケータイを持つ右手が汗ばみ、手持ち無沙汰な左手は意味もなく呼び出し音に合わせて膝を叩く。
そんな永遠にも感じられる時間は唐突に終わり、ついに、恋い焦がれていた声が電話から響いてきた。
「……もしもし」
静かで淡々とした、聞き慣れたシラハさんの声。
にも関わらず、心なしかその声が怒っているように聞こえるのは、僕の不安が勝手にフィルタをかけてしまっているからだろうか。
「シラハさん、その、僕だけど……」
「…………うん」
「えっと、試験とか終わったから……久しぶりに、会えないかなって……」
「今どこ?」
「え?あ、大学」
「迎えに行くね。そこで待ってて」
謝ろうとか色々考えていたのに、シラハさんは一方的に言い切って電話を切ってしまった。
会いに来てくれるのは嬉しいが、仕事はどうしたのだろう。そもそも大学の場所を知っているのか、などと不安はたくさんあったけど、雑多な考え事は、にわかにざわつきはじめた学生たちの声に中断させられる。
何事かとみんなの視線が向いてる先を見上げると、大学図書館の屋上から誰かが飛び降りてきていた。
はっきり言って、ぎょっとした。見間違えようがない。飛び降りてきたのは、ここしばらくずっと想い続けていた恋人、シラハさんだったから。
キューピッドたちの正装らしい綺麗な羽衣をたなびかせながら、ふわり、と僕の目の前に着地したシラハさんの背には、透き通る淡い桃色の翼。シラハさん飛べたんだ、と思ったのも束の間、綺麗な翼は冬の風にさらわれると、光の粒子となって消えてしまった。
あんぐりと、ベンチに座ったまま固まっていた僕を見下ろして、シラハさんは言う。
「タクシー拾えなかったから。飛んできた」
「飛んできた」
「仕事で近くにいたから、すぐ来られた」
飛べない人間からするととても驚きの行動なのだが、シラハさんは意に介さず続けた。
「……会いたかった。私も」
「その、ごめんなさい。留年はさすがに怖いので……」
「ううん。勉強は大事だから。でも……寂しかった」
少し前の僕ならば、シラハさんの顔に寂しさと嬉しさの入り混じった表情が浮かんでいることにも気づかなかっただろう。それくらい、この素敵な恋人は表情の動きが小さい。
「お仕事途中だったんですよね。その……大丈夫なんですか?」
「有給貰った。好きな人に会いに行きたいって言ったら、今すぐ行けって言われた」
「いい上司さんですね」
顔も見たことのないシラハさんの上司さんに感謝しつつ、ベンチから立ち上がる。突然飛び降りてきた美女には学生たちも少し驚いていたけれど、人に会いに来ただけだと分かると、好奇心も霧散したらしい。
だから、と言うのは少し間違っているかもしれないが、シラハさんに抱きしめられた僕も、そこまでは動揺しなかった。
コートの中に溜まっていたシラハさんの良い匂いに、頭がくらくらする。今すぐにでもこの人と愛し合いたいと欲望が顔を出したけど、理性で押さえつける。
「どうしたんですか、シラハさん」
「ごめん。外でこういうのはあんまり良くないかもしれない。でも、本当に会いたかったのを、我慢してたから……せめて電話とかはしたかったんだけど、勉強の邪魔したら駄目かなって思って」
「そんな、気を使ってくれなくていいですよ。むしろ、わがままを言ってくれるくらいの方が嬉しいです」
「……じゃあ、今度からは我慢しないから。講義中に電話鳴らしちゃうかもしれない」
「マナーモードにしとくから大丈夫ですよ」
淡々と冗談を言ってくれるシラハさんが愛おしくて、安心する。
同時に、こんな優しい人に気を使わせてしまったことがどうにも申し訳ない。
「その……せっかくのお休みになったんですし、どこか行きませんか?お詫びのデート、ってのはおかしいかもしれないですけど。というか、そのつもりで電話したんです。久しぶりに、一緒にいたいなと思って」
電話した後の時間で、言う事は考えておいたはずなのに、実際に口にしてみるとどうにもしどろもどろになってしまった。
それに、まだ人の残っている大学構内でシラハさんに抱きしめられているのは、とても恥ずかしい。恋人と寄り添う姿自体はそこまで珍しい光景でもないとは言え、自分たちが当事者になるのは慣れていない。生暖かい笑顔を向けながら通り過ぎていく学生たちに、違うんですと弁解したくなってしまう。何も違いはしないのだけれども。
そのせいか、関係ないのか、どくんどくんと、シラハさんの胸の奥で鼓動が早まっている音が聞こえてくる。多分、僕の鼓動の音も、シラハさんには伝わってしまっている。
絡み合う二人分の鼓動の隙間に、シラハさんは言葉を差し込む。
「さっそく、わがまま言ってもいい?」
「もちろんです」
「どこかデート行くよりも、うちに来てほしい。泊まりで」
「……分かりました。じゃあ行きましょう」
わざわざ「泊まりで」と強調したということは、つまりそういうことなのだろう。
求める気持ちはどちらも同じだと分かるのが、こんなにも嬉しいなんて。
「あのね、話したいことがいっぱいあるの」
「僕もです。ああ、そういえば、試験で面白い問題があったんですよ」
話しながら、どちらからともなく歩き出す。
小さく、しかし饒舌に会えなかった間の事を語るシラハさんは、いつも通り、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべていた。
解放感に浮かれる学生たちがまだたむろしている大学の構内で、ベンチに座り、深呼吸を一つ。
少し前ならば、このまま帰ってゲームを、と思っていたところだが、今は違う。
携帯電話を取り出し、立ち上げたメッセージアプリでシラハさんとの会話記録を呼び出す。
二週間ほど前に送った「大学が期末で忙しくなるので、しばらく会えないです」というメッセージに既読マークは付いているが、返事は未だに来ていない。
シラハさんが口下手なことは、一月とすこし付き合ってよく分かった。だから返事が来ないのも文面が思いつかないだけなのかもしれないとは思うが、それはそれとして、機嫌を損ねているかもしれないという不安もある。
何度も仮想キーで文章を叩いては消してを繰り返しているうちに、知らず知らずため息が漏れる。
やはりこういう時は、清水の舞台から飛び降りるに限る。
意を決してアプリを閉じて、探すのは、通話履歴に残るシラハさんの電話番号。
いつもと変わらないはずの呼び出し音が、やけに長く聞こえる。学生は春休みに入っても社会人であるシラハさんは仕事中じゃないだろうか、と電話をかけてから気付いたが、だからと言って切る気は起きない。
ケータイを持つ右手が汗ばみ、手持ち無沙汰な左手は意味もなく呼び出し音に合わせて膝を叩く。
そんな永遠にも感じられる時間は唐突に終わり、ついに、恋い焦がれていた声が電話から響いてきた。
「……もしもし」
静かで淡々とした、聞き慣れたシラハさんの声。
にも関わらず、心なしかその声が怒っているように聞こえるのは、僕の不安が勝手にフィルタをかけてしまっているからだろうか。
「シラハさん、その、僕だけど……」
「…………うん」
「えっと、試験とか終わったから……久しぶりに、会えないかなって……」
「今どこ?」
「え?あ、大学」
「迎えに行くね。そこで待ってて」
謝ろうとか色々考えていたのに、シラハさんは一方的に言い切って電話を切ってしまった。
会いに来てくれるのは嬉しいが、仕事はどうしたのだろう。そもそも大学の場所を知っているのか、などと不安はたくさんあったけど、雑多な考え事は、にわかにざわつきはじめた学生たちの声に中断させられる。
何事かとみんなの視線が向いてる先を見上げると、大学図書館の屋上から誰かが飛び降りてきていた。
はっきり言って、ぎょっとした。見間違えようがない。飛び降りてきたのは、ここしばらくずっと想い続けていた恋人、シラハさんだったから。
キューピッドたちの正装らしい綺麗な羽衣をたなびかせながら、ふわり、と僕の目の前に着地したシラハさんの背には、透き通る淡い桃色の翼。シラハさん飛べたんだ、と思ったのも束の間、綺麗な翼は冬の風にさらわれると、光の粒子となって消えてしまった。
あんぐりと、ベンチに座ったまま固まっていた僕を見下ろして、シラハさんは言う。
「タクシー拾えなかったから。飛んできた」
「飛んできた」
「仕事で近くにいたから、すぐ来られた」
飛べない人間からするととても驚きの行動なのだが、シラハさんは意に介さず続けた。
「……会いたかった。私も」
「その、ごめんなさい。留年はさすがに怖いので……」
「ううん。勉強は大事だから。でも……寂しかった」
少し前の僕ならば、シラハさんの顔に寂しさと嬉しさの入り混じった表情が浮かんでいることにも気づかなかっただろう。それくらい、この素敵な恋人は表情の動きが小さい。
「お仕事途中だったんですよね。その……大丈夫なんですか?」
「有給貰った。好きな人に会いに行きたいって言ったら、今すぐ行けって言われた」
「いい上司さんですね」
顔も見たことのないシラハさんの上司さんに感謝しつつ、ベンチから立ち上がる。突然飛び降りてきた美女には学生たちも少し驚いていたけれど、人に会いに来ただけだと分かると、好奇心も霧散したらしい。
だから、と言うのは少し間違っているかもしれないが、シラハさんに抱きしめられた僕も、そこまでは動揺しなかった。
コートの中に溜まっていたシラハさんの良い匂いに、頭がくらくらする。今すぐにでもこの人と愛し合いたいと欲望が顔を出したけど、理性で押さえつける。
「どうしたんですか、シラハさん」
「ごめん。外でこういうのはあんまり良くないかもしれない。でも、本当に会いたかったのを、我慢してたから……せめて電話とかはしたかったんだけど、勉強の邪魔したら駄目かなって思って」
「そんな、気を使ってくれなくていいですよ。むしろ、わがままを言ってくれるくらいの方が嬉しいです」
「……じゃあ、今度からは我慢しないから。講義中に電話鳴らしちゃうかもしれない」
「マナーモードにしとくから大丈夫ですよ」
淡々と冗談を言ってくれるシラハさんが愛おしくて、安心する。
同時に、こんな優しい人に気を使わせてしまったことがどうにも申し訳ない。
「その……せっかくのお休みになったんですし、どこか行きませんか?お詫びのデート、ってのはおかしいかもしれないですけど。というか、そのつもりで電話したんです。久しぶりに、一緒にいたいなと思って」
電話した後の時間で、言う事は考えておいたはずなのに、実際に口にしてみるとどうにもしどろもどろになってしまった。
それに、まだ人の残っている大学構内でシラハさんに抱きしめられているのは、とても恥ずかしい。恋人と寄り添う姿自体はそこまで珍しい光景でもないとは言え、自分たちが当事者になるのは慣れていない。生暖かい笑顔を向けながら通り過ぎていく学生たちに、違うんですと弁解したくなってしまう。何も違いはしないのだけれども。
そのせいか、関係ないのか、どくんどくんと、シラハさんの胸の奥で鼓動が早まっている音が聞こえてくる。多分、僕の鼓動の音も、シラハさんには伝わってしまっている。
絡み合う二人分の鼓動の隙間に、シラハさんは言葉を差し込む。
「さっそく、わがまま言ってもいい?」
「もちろんです」
「どこかデート行くよりも、うちに来てほしい。泊まりで」
「……分かりました。じゃあ行きましょう」
わざわざ「泊まりで」と強調したということは、つまりそういうことなのだろう。
求める気持ちはどちらも同じだと分かるのが、こんなにも嬉しいなんて。
「あのね、話したいことがいっぱいあるの」
「僕もです。ああ、そういえば、試験で面白い問題があったんですよ」
話しながら、どちらからともなく歩き出す。
小さく、しかし饒舌に会えなかった間の事を語るシラハさんは、いつも通り、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべていた。
23/09/10 20:05更新 / みなと
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