連載小説
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蜜柑と梅雨のその後のお話
 火鉢のぬくもりに微睡む男のすぐ後ろで、何かがべちゃり、と鳴った。
 続いて、ずるり、ずるり、と、畳の上を何かが這う音。
 明らかに異様な音だが、男は驚かない。それは、既に聞き慣れた音であるから。

 薄く目を開けて男は視線をめぐらせる。
 そして、斜め後ろにいたものに目を留めると、ため息をついた。

「こら、みかん。何をしているんだ」

 みかん、と呼ばれたそれは、箪笥を引き出して中を漁っていた手を止めると、ぐるりと真後ろを向いた。
 顔や手は人のそれだが、胸から下は溶け出して液体のようになっており、そのせいで歩く度にべちゃべちゃと鳴っていたのである。

「かさまが、おはし、さがしてきてって」
「箸なら、厨にあるだろう。箪笥には無い」
「……ん」

 男の――父親の言葉を理解したのか、していないのか。みかんは、やはりずるずると濡れた足音を引きずりながら、畳を降りて、台所へと向かう。
 すっかり眠気の覚めた男は、頬杖をついて、火鉢を眺める。
 台所から微かに漂ってくるのは、味噌汁の匂い。
 そういえば妻がみかんに料理を教えると言っていた。みかんは、母親の手伝いをするにはまだ幼いようにも思えるが、平気だろうか。
 男の不安を他所に、みかんと、その母親――おうめは、膳を持って男のもとへ揃ってやって来た。

 みかんの顔立ちは、おうめをそのまま幼くしたようなもので、見ようによっては、歳の離れた姉妹にも見える。
 ただし、足元まで人の体になっているおうめと違い、みかんは、まだ、胸から上までしか人の体を作れていない。
 妖怪にも成長というものがあるのだろう、と男は勝手に納得している。

「……これは、みかんが作ったのか」

 呟き、男は目の前に置かれた膳を見下ろす。
 焦げた魚と、ざっくりと切られた半煮えの具が入っている味噌汁。
 ひどく拙い料理は、どう見ても、良妻であるおうめが作ったものではない。

「がんばった」

 しかし、無い胸を張るみかんを見ていると、叱れない。
 決して家庭的とは言えない男にとっても、娘は可愛いものである。
 その娘が慣れぬ手つきで作った料理を、無下には出来ない。

「……いただきます」

 意を決し、手を合わせて、魚を摘む。
 苦味は、焦げによるものだろうか。
 逃れるように味噌汁に手を伸ばすと、ぬるく、薄い。
 が、「不味い」という言葉だけは決して口にしない。

 黙々と食い進める男を、みかんはじっと見つめる。
 男が内心でどう思っているかを知りながら、おうめは何も言わず、微笑んだまま見守る。

 やがて、米粒一つ残さず食べ終えた男は、おうめの淹れた茶を飲み、息をつく。
 ちらと見れば、みかんの目が、感想を求めていた。
 悩む。
 正直に言う事は出来ない。しかし、このままにしておくわけにも。

「……まあ、そうだな。嫁にやるのは、随分先になりそうだな」

 苦し紛れの迂遠な言い回しの意図は、みかんには通じなかったらしい。首を傾げている。
 一方で、おうめは口元に手を当て、くすくすと笑っていた。

「心配せずとも、お望みならば、嫁にやらぬということもできますよ」
「みかんは、とさまのよめがいい」

 からかい半分のおうめと無邪気に言ってのけるみかんに、男が口をへの字に曲げた。
 何か、言い返せないだろうか。
 しばらく考え、自分は妻子には敵わないだろうという結論に至り、お茶をすすって誤魔化す。
 湯呑みが空くと、すかさずみかんが急須から茶を注いだ。

「みかんは、とさまのよめがいい」

 繰り返すみかんに、男は眉間に皺を寄せる。
 そんな二人を、おうめはやはり、微笑みをたたえて見守っていた。
23/09/10 20:04更新 / みなと
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