私がオルドリシュカと出会って、ひと月。
私の生活は変わっていた。

　まず、第一、オルドリシュカが正式に私の部屋に住み始めた。
彼女が大家に直談判すると言って、一時間ほど経った後、大家から呼び出された時、突然許可を出してくれたのだ。

　大家はまるで人が変わった様に優しくなっており、オルドリシュカに対して、何故か敬語を使って話していた。
普段は絶対にそんなことをしない人物である。
私など常にブタを見るような目で見られていたくらいだ。

　それがまるで、生まれてこの方、そういう生き方であったとでもいう感じである。

　……拍子抜けも良いとこだ。こちとら、罵詈雑言を浴びせかけられる覚悟を抱いていたというに。
だが、まぁトントン拍子に事が運ぶのは良いことだ。

　そして第二は、毎日ランニングを続けていることだ。
これもオルドリシュカが来る前には考えられなかった事である。
仮に私一人なら、続いても十日程度で終わっていたはずだ。
そう考えると劇的な変化である。

　さて、そんな私はたった今、深夜ランニングの真っ最中である。
背中にはオルドリシュカがしがみ付き、私のくじけそうな心に発破をかけている。

「ゆくのだ、カネダ！地平線の彼方まで！」
「地平線は無理だ〜」
「わはははは」

　これは最近の私のランニング風景を簡潔に表したものである。
実ににぎやかになったモノだ。

　特に嫌という訳ではないが、少し煩すぎる気がする。
ご近所迷惑等を考慮すると、相応しくないが、悪い気分ではない。

　しかしながら、誰かの視線を感じる事もある。
そういう時はオルドリシュカに一応注意するが、それが聞き入れられた事はない。

　そんな感じで私の毎日はオルドリシュカの登場で程よく充実しているのだった。
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　そんな日常が脆くも崩れ去ったのは、とある日の日曜日の事だ。

　私は日用品を購入するため、近所のスーパーに行っていた。
オルドリシュカは太陽を嫌がり、遮光材で窓が覆われたリビングに籠城。
私にプリンを買ってくるようにだけ言って、私の万年床に潜り込んだのだ。

　私は降り注ぐ凶悪な太陽光線に体を焼かれながら、トボトボと歩き回っていた。
両腕には、いつ爆発するか分からない爆弾の様なビニール袋が垂れ下がっている。

　私の体力はかなり消耗していた。
そして私の視界の端っこにはベンチがあった。
休息したいという欲望が私の中で風船のように膨らみ始めた。

　そうなるともう仕方がない。
私はベンチにどっかりと座り込み、ビニール袋の中からお茶を取り出した。
バキュームカーの如く、一気に飲み干す。

　いやしかし、全く地獄の様な暑さである。
私のふとましい肉体もドンドン汗臭くなっていく。
帰ったらオルドリシュカに文句を言われるのは想像に難くない。

　そこで私はふと気づいた。
視界の端からミサイルの様に高速で接近してくる黒い影に……

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　午後三時、カネダの奴はまだ帰ってこぬ。
ワシを待ちぼうけさせるとは、とんでもない不届き者じゃ。
せっかく、やつ時になったというに甘味の一つもありはせん。

　とりあえず、あやつが戻って来たら、血を吸ってやろう。
そろそろ腹いっぱいまで吸ってやるか？
……いやいや、そんな事をすればカネダがインキュバスになって、アヤツに目を付けられるに違いない。

　せっかくの獲物じゃ。ここは慎重に行くとしよう。
猪口才な勇者のせいでカネダが怪我でもしたら……

　玄関に誰か来たらしいのぅ。
もしや、カネダがよく使うママゾンとかいう宅配屋か？
カネダめ、ワシは応対なぞせんぞ。
クン、クン……それにしてもこの宅配屋、ほんのりと血の匂いがするのう……？

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　さて、此処は何処だろうか？

　先ほどまではベンチで休んでいたはずであるが、現在の私はそんな状態とは程遠い。

　安物の椅子にロープで縛りつけられ、口元にガムテープまでされているのだ。
幸いな事があるとすれば視界だけは確保されている事だ。
誘拐犯の慈悲だろうか？

　少しだけもがいてみるが、一切身動きが出来ない。
……せめて、周囲の確認くらいはしてやろう。

　視界に映るのは、錆の中で苔むした墓石の様に朽ち果てている重機、蛇の死体と見まごう錆びたワイヤー、首吊り死体の如き照明器具。
どうやら此処は廃工場か何かの様だ。それもかなりの間、人の手が入っていないらしい。

　はっきりいって、不気味である。
こんなところに人を放置する輩だ。ろくでもない奴に違いない。
身体が自由になったなら一発かましてやろう。

　身体を大きく動かしても、椅子がギコギコと、今にも壊れるぞと言わんばかりに音を立てて揺れるばかりだ。

「逃げようとしても無駄ですよ」

　目の前の暗がりから突然、声が聞こえてきた。
……この声、どこかで聞いたような？

　答え合わせ、とでも言わんばかりのタイミングで声の主が私の前に立った。
オルドリシュカと出会う直前に出会っていた人物。
自称、勇者アヒム。その人である。

　彼の表情はあの深夜に出会った時と同じく、真剣そのものと言った感じだ。
……それ故、彼が右腕に掴んでいる杭が、実に恐ろしく感じる。
まるで、死神が持つ鎌か何かの様だ。

　その杭はどうやら白木で出来た杭の様である。
しかし白木とは名前だけと言わんばかりに深紅に染まっている。
まるで誰かの血を吸ったかのようだ。

　……そういえば昔読んだ本に書いてあった。
吸血鬼は心臓を白木の杭で打たれると死ぬらしい。
コイツ、まさか……！？

「カネダさん、もしかして……私がオルドリシュカを滅ぼしたとか思ってます？」

　私は首をコクコクと揺らし、意思を伝えてみた。
するとアヒムは深く息を吐き、言った。

「そうしたかったのですがね、すんでの所で逃げられました。ザンネンな事この上ない」

　アヒムは私の目の前で血の付いた杭をじっと見つめている。
まるで人形か何かだ。不気味すぎる。

「ちなみに言っておきますと、この血はあのクソ吸血鬼のモノではなく、カネダさん、貴方のですよ。気づきませんでしたか？」

　そう言われて私は自分の肩が赤く染まっていることに気づいた。
脳内麻薬の為せる業か、ただ鈍感なだけかは分からないが、痛みは一切感じなかった。
しかし、アヒムの余計な一言で私の傷口は駆け付けの三杯の如く、少し遅めの痛みのビッグウェーブが来たのである。

　私が痛みで悶えているのを尻目にアヒムは暗がりに消えていく。
私の心の中身はとてもとても汚らしい罵倒の言葉で溢れかえったのであった。

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さて、私の心の中で悪態を吐き始めてから十分。
私は未だに簀巻き状態であった。
少し変化があったとすれば、私がもがき過ぎたせいで、椅子が粉砕したことである。
しかしながら、縄は緩まず、体勢がかなり厳しい状態だ。

　恨めしい事この上ないが、何も出来そうにない。
一応痛みの波は引いたものの、希望が見えない。
誰かが助けてくれないものか？
無論、あの勇者には期待していない。
私が微かに期待しているのは家の居候だ。

　あのクソ勇者はオルドリシュカを逃がしたと言っていた。
ならば、吸血鬼の独特のパワーとかで私を見つけ、助け出してくれることも可能ではないか？
だがしかし、屋根の木漏れ日を見るに、まだ日中だ。
これは夜になるまで待つ流れか。

「おぅ、カネダ。えすえむプレイの真似事か？」

　不意に暗闇から聞きなれた声が響いた。
声の方向に顔を何とか向けてみると、オルドリシュカがニヤニヤとした笑みを浮かべ立っている。
一切の気配を感じなかったのは、流石、吸血鬼といった所か。

　彼女は縛っている縄を紙でも破くように引き千切り、口を覆うガムテープも剥ぎ取った。

「うげぇ……痛、い」
「おぉ、スマンスマン。勢いを付け過ぎてしまったわい」
「もっと慎重に頼むよ……一つ聞きたいんだが、アヒムって奴、知ってるかい？」
「……知っておるかじゃと？さっき襲われたわい」

　オルドリシュカは鋭い目つきで遠くを見つめている。

「アヤツとはそこそこの付き合いでの、かれこれ十年ほどになる」
「そんなにかい」
「そんな話は良い、アヒムが来る。お主は逃げるがよい」
「君は？」
「ちと考えがある」

　なるほど、と相槌を打とうとした瞬間、オルドリシュカの顔つきが変わった。
まるで歴戦の修羅の如き形相である。

「長話が過ぎた様じゃ」
「……ごめん」
「気にするな……それよりもヤツはお主も逃がさぬつもりらしい。」
「殺す気ってこと？」
「かもしれん。ワシから離れれば逆に危険じゃの……仕方ない」

　そう言ってオルドリシュカは私を掴み、飛び上がった。
目算で十メートルと言った所か？
少しばかり平均より体重の思い男を抱えてコレである。

「高い高い！！！」
「騒ぐでない！」

　騒ぐ私を制し、オルドリシュカは廃工場の出口に向かって、疾風の様に進んでいった。

　……その時である！
我々の前方から白い刃の様なモノが飛んできた。
オルドリシュカは私を地面に放り投げ、すんでの所で身を捩り、躱した。

　放り投げられた私は汚れたブルーシートの上に落ち、ケガはない。
私は急いで体制を整え、刃を放ってきたであろうアヒムの位置を確認する。

　アヒムは廃工場の壊れた天井から注ぐ陽光の中に立っていた。

「フフ、ようやく貴方を滅ぼせそうです」
「のぅ、いい加減止めにせぬか？お主が手を引くのならば……」
「魔物の声に耳を傾けるつもりはないですよ！！！」

　アヒムは怒涛の勢いでオルドリシュカに飛び掛かった。
オルドリシュカは何処から取り出したのか分からない黒マントを羽織る。
そんなもので果たして何が出来るのか？

　だが私の疑問は一瞬で消えた。
黒マントが獰猛な蛇の如く動き出したのだ。
それはアヒムの一撃をいなし、その身体を捕らえようと食いかかる。

　アヒムはソレを鼻で笑い、手にした数本の杭で地面に縫い留めてしまった。
そして懐から別の杭を取り出し、オルドリシュカの心臓を目掛け突き出す。

　オルドリシュカは黒マントを素早く脱ぎ、ムーンサルトキックで逆にアヒムに一撃加える。

「グッ！？」

　オルドリシュカは後方で体制を整える。アヒムは其処に再び迫った。

　私はブルーシートから抜け出し、物陰を移動してオルドリシュカの近くまで移動した。
その間にも二人の常人離れした戦いは続いていた。

「毎回思いますが、貴方ホントに吸血鬼ですかぁ！？今、真昼でしょう！？」
「これでも弱体化しておるぞ？能力はからきし使えんでなぁ！」

　オルドリシュカの鋭い拳撃がアヒムの脇腹に突き刺さる。

「うぐ…クククク！取ったぁ！！！」
「！？」

　アヒムは右手でオルドリシュカの腕を掴み、そのまま押し倒した。
絶好のタイミングを逃がすまいと、アヒムは杭を逆手に持ち、馬乗りになる。
間髪入れず、杭を心臓目掛け振り下ろす。
オルドリシュカはそれを腕を身代わりに防いだ。

「ハハッ！良い顔ですねぇ！！」

　ジワジワと杭の切っ先がオルドリシュカの心臓に近づいていく。
オルドリシュカは貫かれた腕を必死に支え、反撃のチャンスを伺っている。

「このまま滅びるがいい！！」

　私は超人的な戦闘に圧倒されていたが、そこで我に帰った。
じっと見ている場合では無い。とりあえずアヒムの野郎を何とかしなければ。

　私は如何すべきか考えた。
私の若干ソフトなビッグボディで体当たりするか？いや、ダメだ。
吸血鬼の筋力が強いのは毎日抱き着かれているので、よぉく知っている。
それに対して、アヒムは互角かと言うほどの活躍だ。
私など紙切れの様に吹っ飛ばされるであろう。

　その時、視界の端で何かが暴れている事に気づいた。
……アレはオルドリシュカが脱ぎ捨てた黒マントだ。
哀れにも床に縫い付けられ、主人を助けることも出来ない。

　私は思いついたまま飛び出し、黒マントから杭を引き抜いた。
その瞬間、黒マントは荒ぶる稲妻の様な勢いで、アヒムに向かって飛び出す。

「この……！？」

　マントは瞬く間にアヒムに纏わりつき、その動きを封じた。

「……カネダさん、ご自分が何をやっているかお分かりですか？人間の敵を助けているんですよ？」
「人間の敵ぃ？知らんな。俺は友人を暴漢から助けただけだ」

　私は未だに馬乗りになっているアヒムをどかし、オルドリシュカを立たせた。

「カネダ、感謝するぞ」
「当然の事をしただけだよ……それよりもコイツどうする？」

　私は刺された肩を押さえながら、アヒムを睨みつけた。
睨みつけられた本人はというとマントを引き裂こうと四苦八苦している。

「無駄な足掻きじゃぞ！……今まで散々お主の悪行に手古摺らされたが、此処までじゃな！」
「ほざくがいい、吸血鬼！今に貴様の心臓を磨り潰してやる！」
「……これだけ雁字搦めになってても元気とは……そのやる気が少し羨ましいよ」

　オルドリシュカはアヒムを掴んで起こそうとしている。
しかしながら、無様に暴れまわる簀巻き勇者は強敵らしく、中々上手くいっていない。
普段は百キロ近い私のボデーを、平然と持ち上げたりするのだが、疲弊している今はまるで華奢なお嬢様である。

　私はふと思い立ち、ボディプレスをかました。

「……何をするんです！？」
「肩のお返しだ……オマケも付けようか？」

　私は下に落ちていた錆だらけの鉄くずを見せつけながら啖呵を切った。
若干湿っている錆が手の中で擦れて気持ちが悪い。
アヒルは鋭い目で私を睨みながらも、大人しくなった。

「なかなかやるもんじゃな。ワシにはとてもそんな錆の塊は触れぬわ」

　オルドリシュカは少しだけ大人しくなったアヒムを正座の形で座らせる。
一体何をするつもりなのか？

「さて、アヒムよ。
さっそくじゃが、かつてワシの領民に対して襲撃を行った事は許そう……幸い大きな怪我をしたものは居らんかったし、結構な連中が吊り橋効果でくっついたでな。」

　いい笑顔でオルドリシュカは話を続けていたが、いきなり冷酷な魔物の様な目つきをアヒムに向けた。

「じゃが……ワシの獲物に手を出したのは許せぬ。
あまつさえ体を傷物にするとはのぅ。前魔王時代であれば、ワシはお主を八つ裂き……いや、それだけでは済ませぬ」

　凄むオルドリシュカの眼光は私を震え上がらせるには大変効果的であった。
一方、アヒムはソレに並々ならぬ目力をもってして対抗している様子だ。

「じゃが、今のワシにそんな気は毛頭ない。
そこで……お主の信仰やら所属やらを考慮し、そこから更に我々魔物の利を生み出そうと考えた結果、一つの案で纏まった」

　その時、オルドリシュカは右手をパチンと鳴らした。
するとどうだろう？
我々以外の存在は全く感じられなかった筈なのに、まるで初めからそこに居たかのように何者かが現れたのだ。

　獣を思わせる尻尾や耳を持つ者、下半身がまるで蜘蛛のような者、大きな翼を持つ者、その他大勢。
実にバラエティに富んだ面子だ。
十人くらいだろうか？

「アヒム、途轍もない幸せ者じゃのう。お主が実行した襲撃事件で標的になった独り身達じゃ。お主の事が忘れられんかったそうな」

　よくよく見てみれば今現れた連中は全員がハァハァ、と荒い息をしており、実に危険である。

「大いに楽しむがいい」

　オルドリシュカはそこで大きく一回手を叩いた。それがスタートの合図だったらしい。
暴走した機関車の如き魔物達にアヒムは攫われ、甲高い悲鳴が遠ざかっていくのを私とオルドリシュカは感慨深げに見守った。

　
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　それからしばらくして、私とオルドリシュカは家路についていた。

　廃工場を抜け出した我々はお互いが激しく汚れていることに気づいた。
私はとりあえず近くに在った公園で手を洗い、古着屋で二人分の服を買った。

　適当に見繕った服であったが、オルドリシュカは大変な喜びようであった。
胸にプリントされた単四電池という文字が気に入ったのかもしれない。

「一つ聞きたいんだけどいいかい？」
「なんじゃ？」
「いつの間にあんなに仲間を呼んでたんだい？」
「そんな事か……よし、ワシをおぶってくれたら教えてやろう」

　私は立ち止り、しゃがんだ。
するり、と私の背中にオルドリシュカはしがみ付いた。
その体重を私はほとんど感じなかった。

「うむ、広くて程よく柔らかい良き背中じゃ……さて、連中については、簡単な話じゃ。
お主が働いておる間に連中をこっちの世界に案内して、アヒムを捕まえる作戦を話し合っておったんじゃ」
「部屋で食っちゃ寝してるだけではなかったのか」
「こう見えてもワシは広大な領土を持つ貴族じゃぞ。やるときはやるのじゃ」
「とてもそうは見えないねぇ」

　そこで私はふと思った。

「……もしかして帰るのかい？君の故郷に」

　オルドリシュカの返答は速かった。

「帰らぬ」
「あれ？そうなの？てっきりアヒムを捕まえるために此処に来たもんだと思ったんだけど」
「あれはオマケじゃ。本来の目的は……」

　そう言って私の肩の傷をペロリと舐める。

「お前じゃよ。カネダ」

　ガブリとオルドリシュカが傷口に噛みつく。
痛みは無い。だがしかし……

「ちょっと待って！？こんな道路の真ん中ではやめて。結構気持ちいいけど、此処では不味い。世間の目とかが……」
「注文の多い奴じゃのう……いい雰囲気じゃったのにぃ」
「家に帰ったら幾らでも吸っていいから！？ね！」
「よし、それならば家までランニングじゃ。ソレユケー！」

　私とオルドリシュカはそんな風にじゃれ合いながら家路についたのであった。