第八話「いらない」
高校側のそれは、要求というより懇願だった。
博人の一件が世間に知られて以降、クレームの数が増大した。中には脅迫めいたものまであり、おかげで教師陣は二十四時間対応に追われている。
もう限界だ。この状況をなんとかしたい。事態改善の第一歩として、博人を復学させたい。我々はもう「平和」であると、内外にアピールしたい。
高校側は必死だった。祖母は彼らの必死のアピールを、電話越しに聞いていた。
玄関口に置かれた電話機の前に立ち、受話器を耳に当てて先方の叫びを聞いていた。
「そんなこと知りません」
その上で、祖母はそう言い切った。快刀乱麻を断つ。まさにその通りの返答だった。
受話器越しに相手が息を呑むのを感じる。祖母は動じず、ただ向こうの反応を待つ。
「……そこをなんとか」
数秒後、ようやく向こうが言葉を返す。明らかに弱っていた。額から脂汗を流し、恐怖と焦燥に駆られながら発したのだろう。祖母は先方のコンディションをそう推測した。
推測した上で、祖母は己を曲げなかった。
「嫌です」
うっ。今度は確実に息を呑む音が聞こえてきた。祖母は表情一つ変えなかった。蔑むことも嘲笑うこともしなかった。
本当にどうでも良かったからだ。
「なんと言われようと、あの子をそちらに返すつもりはありません」
不動の心で祖母が言い放つ。高校側がそれにリアクションするまで、たっぷり十秒要した。
「お願いします。そこをなんとか」
「駄目なものは駄目です!」
さらに弱りきった声が受話器越しに聞こえる。腹に銃弾を浴び、出血多量で死にかけている者の声。半死人の呻き声だ。
実際、向こうは本当に死にかけているのだろう。通常の業務だけで手一杯というのに、その上さらにクレーム処理までしなければならないのだから。彼らの心労は容易に想像できる。
知ったことか。お前らの都合で博人を振り回されてたまるか。
「何度お願いされようと、答えは同じです。博人の問題を放置したあなた方は、もう信用出来ません」
「それは……」
「お話は終わりですか? では切らせていただきますね」
「待って――」
受話器を耳から離し、元の位置に戻す。静寂が訪れ、その静けさの中で祖母の心に充実感が漲っていく。
言ってやった。ばっさり言い切ってやった。溜飲が下がる思いを味わい、祖母は自然と笑みを浮かべた。
「ふう……」
ため息をつく。張り詰めていた神経が弛緩し、心地よい疲れが全身を駆け巡る。博人とマギウスを守ることが出来たと実感し、祖母は勝利の余韻に酔いしれた。
「あっちは今大事な時期なんだから、邪魔が入らないようにしないとね」
満足した顔で祖母が呟く。「あの夜」の散歩以降、二人の関係が大きく変わったことは、祖母もとうに気づいていた。一線を越えた人間と魔物娘が何をするのか、知らないほど無知でも無かった。
「あの子なら安心だわね」
しかし祖母は全てを許した。彼らの関係に理解を示し、それを喜ばしいことであるとさえ思っていた。博人は悪い子ではないし、マギウスも真面目で優しい子だ。あの二人ならきっと上手くやっていける。祖母は確信していた。
「――さて、そろそろお昼の準備しないと」
そこまで行ったところで思考を切り替え、祖母が厨房へ歩き出す。彼女の言う通り、時計の針は既に十二時を指そうとしていた。なおこの時、博人たちは山に散策に出かけており、家にはいなかった。
特にすることもないのなら、暇潰しに近くの山にでも行ってみたらどうだ。早朝七時、祖母が朝食を作りながら二人に提案したのだ。祖母と共に起きていた博人たち――マギウスは元より、博人もすっかり田舎の生活サイクルに順応していた――はそれを聞き入れ、食事を済ませてから二人仲良く出発したのである。
祖母がそんなことを言ったのは、ひとえに彼らの関係の進展を願ってのことだ。老婆心と言うやつである。
「せっかくだから、何か精のつくものでも作ろうかね」
厨房に向かう道中、祖母がそう言ってニヤニヤ笑う。これも老婆心だ。お節介とも言える。恋路に首を突っ込みたいだけなんじゃないかと言うのは禁止。
そしてその数分後、肝心の博人とマギウスが仲良く帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「ただいまー」
「ああ、お帰り。今作ってるから、もうちょっと待っててね」
玄関で靴を脱ぎ、手を繋いでやって来た二人を、祖母は調理しながら歓迎した。対して祖母の姿を見た二人はすぐに彼女の手伝いに向かい、そこからは三人で昼食の準備を進めた。
十二時四十分。昼食が完成する。二分かけて配膳を終わらせ、三十分ほどで食事を済ませる。
「食器は置いといていいからね」
「いえ、片づけは私がやります。お祖母様とヒロト様はどうぞおくつろぎください」
「それは駄目。マギウスがやるなら僕もやる」
「えっ、ヒロト様――」
三十分後、一人で後片付けをやろうとするマギウスに博人が反論する。主からそう言われたマギウスは一瞬困惑したが、すぐに表情を緩めて彼に言った。
「……それではヒロト様、私の補助をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「うん。任せて」
マギウスの言葉に博人が頷く。そして二人の視線が絡み合い、二人の間に暖かな空気が流れていく。互いの頬が赤らみ、しかし目線だけは微塵も逸らさない。
その光景を見た祖母は、喜びと気まずさと肩身の狭さを同時に味わった。
「若いっていいねえ……」
そう呟くのが精一杯だった。だが悪くない。これぞ青春だ。
そしてそれを守るのが私の仕事だ。二人だけの世界に入る博人たちを尻目に、祖母は決意を新たにした。
一応、祖母は高校から電話が来たことを博人たちに報せた。夕方六時、彼らが山から戻ってきて一緒にシャワーを浴びた後のことである。
全部聞いた後、博人は戻りたくないと答えた。マギウスは博人を戻したくないと答えた。祖母も二人に同意した。
結論はすぐに出た。絶対に博人を「向こう」には渡さない。高校からの要請はその後も何度か来たが、その度に電話の応対には祖母とマギウスが出て、博人との接触は徹底的に遮断された。
だが高校からの催促が七回を越えた辺りで、今度は違う方面から懇願の電話がやって来るようになった。それは加害者の両親――博人を虐めていた者の両親からの電話であった。
「お願いします! 助けてください! 一度だけでいいんで、うちの子に謝らせてください!」
最初に彼らが電話をかけてきたのは夕暮れ時だった。博人はシバの店で働き、マギウスは買い出しに出てもらっている。家に残った祖母は一人の時間をのんびり楽しんでおり、そんな時に連中が横槍を入れてきたのだ。
受話器から聞こえる彼らの言葉は、高校のそれよりも悲痛で焦りに満ちていた。最初にそれを聞いた時、何故彼らがそこまで恐怖しているのか、祖母は理解できなかった。
しかしその理由は、すぐに向こうから告げられてきた。
「お願いします! 苦情が止まらないんです! どうかお願いします!」
呆れるほどに至極単純なものだった。祖母はこの時、博人とマギウスが家にいないことに安堵した。彼らは今日、川に行ってくると言って外出している。きっと「仲良く」やっているのだろう。
好都合だ。気兼ねなく本音をぶちまけられる。
「――やかましい! なんであんた達の都合のためにあの子を引っ張り出さなきゃいけないんだ! いい加減にしろ!」
声を荒げて激昂する。これまでの高校とのやり取りで溜め込んだ鬱憤も含めて、一気に本音を爆発させる。こんな姿、とても孫や知り合いには見せられない。
受話器の向こうで息を呑む音が聞こえる。反応がワンパターンだ。祖母は心中呆れた。怒りすら急速に萎えていった。
「もう電話しないでちょうだい!」
「あっ、まって」
受話器を本体に叩き付ける。相手の言い分も聞かず、一方的に通話を終わらせる。だが「高校の時」とは終了時のテンションが大きく違った。
達成感も勝利感もない。あるのは徒労感だけだ。祖母は腹の底に溜まった疲れを吐き出すかのように、大きくため息をついた。
「ああ……」
全然身軽にならない。しんどい。祖母は疲れきった表情を見せた。
だからこそ。気怠さの中、祖母は改めて覚悟を決めた。こんな辛い役目をマギウスに押しつけるわけにはいかない。博人になど以ての外だ。若い子達にやらせるべきではない。
「さて、そろそろ帰ってくる頃かね」
体に喝を入れ、祖母が電話から離れる。予測通り、何分か経った後に博人とマギウスが帰宅する。そして夕食を済ませた後、祖母は今日の件をマギウスだけに報告した。
「このこと、博人には教えちゃ駄目だからね?」
「わかりました」
神妙な顔つきでマギウスが頷く。今の博人はまだまだデリケートだ。必要以上に刺激するべきではない。
「ヒロト様は、何があっても私がお守りいたします」
「その意気だよ。でも気を張りすぎて、あんたが壊れるのも駄目だからね?」
「大丈夫です。魔物娘は頑丈ですから」
相手を安心させようと、マギウスが笑って言う。祖母はそれに流されず、「本当に無理しちゃ駄目だよ」と返しながらマギウスの手を握る。それが却ってマギウスの信念を一層強固にさせる。
マギウスも祖母と同類だった。博人を大切に想っているところまで、全く同じだった。
後日、更に別の問題が発生した。祖母が加害者から電話をもらった四日後に、博人の両親が祖母の家に来ることになったのだ。
「大丈夫? 一緒に会える?」
「ヒロト様、ご無理は禁物ですからね」
そちらに向かうと両親から連絡を受けた直後、マギウスと祖母は真っ先に博人のコンディションを心配した。流石に両親には遭わねばならないが、前にも言ったように今の博人の精神は非常に不安定だ。当初に比べて笑顔を見せる機会こそ増えたが、完全に立ち直ったわけではない。何が切欠で崩壊するか、わかったものではないのだ。
故に二人は、博人の精神を案じた。最悪、博人と両親は会わせないようにしようかとも思っていた。
「僕は平気。ちゃんと顔出すよ」
だが博人はそう言った。断言した。マギウスと祖母は同時に目を丸くし、揃って不安な眼差しを博人に向けた。
「よろしいのですか?」
「うん」
「本当に?」
「挨拶するくらいなら出来るよ。安心して」
困惑するマギウスに博人が答える。魔物娘の瞳を正面から見据え、きっぱりと言ってのける。それを聞いた祖母は困ったように顔をしかめ、マギウスは真剣な顔で博人を見返した。
「……わかりました」
数秒後、マギウスは折れた。続いて祖母も観念したように肩を落とした。二人の様子を見た博人は、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と呟いた。マギウス達が自分のことを思って動いていることは、博人もちゃんと理解していた。二人が不安に思う理由も十分わかる。
それでも、ここは譲れなかった。博人は特に両親に対して、自分から言わなければならないことがあると考えていたからだ。
「お願い。僕も一緒に会わせて」
博人が改めて言う。声にも表情にも、並々ならぬ決意が溢れていた。それを見たマギウスと祖母は、もう観念するしかなかった。
「……わかりました。ヒロト様の望む通りに」
「ありがとう」
マギウスが言い、博人が返す。すぐにマギウスが反応し、博人の手を取って慈愛の眼差しを向ける。場の空気を読んだ祖母が、音を立てずに退散する。
四日後、連絡通りに博人の両親がやって来た。博人とマギウスと祖母は、揃って家の外でそれを迎え入れた。
久しぶりに会う父と母は、目に見えて憔悴していた。何があってそうなったのか、わからないほど博人は愚鈍ではなかった。
それでも、言わなければならないことがある。
「うちに戻ってきてくれないか」
全員で居間に向かい、一服した後、両親がここに来た理由を端的に告げてきた。要は博人を引き取りにきたのである。
予想通りの展開に、マギウスと祖母は顔を見合わせた。博人は顔を俯かせてテーブルをじっと見つめるだけで、反対側に座っている両親を見ようとしなかった。
「お願いだ。うちに戻って来てくれ。頼む」
そんな博人に向かって、父が座ったまま頭を下げる。隣にいた母も同じように頭を下げる。それからマギウスが心配そうに博人を見やり、最後に祖母が博人に不安げな眼差しを向ける。
四人の意識が博人に集中する。そしてそれに促されたかのように、博人がゆっくりと顔を上げる。
「僕は」
まっすぐ両親を見据えながら、博人が口を開く。全員が彼に注目する。
博人が言う。
「僕はここにいたい」
一瞬、場の空気が固まる。やや間を置いてマギウスが暖かな笑みを見せ、小さく息を吐く。
両親の表情が凍りつく。
構わず博人が続ける。
「僕はマギウスといる」
テーブルの下、両親に見えない所で、博人が隣のマギウスへ手を差し伸べる。マギウスの指と博人の指が触れあい、それに気づいたマギウスが自分から博人の手を握る。
指が絡み合い、二人の手が固く結ばれる。それが博人に、さらに勇気を与える。
「死ぬまでずっと、ここでマギウスと暮らしたいんだ」
博人が言い放つ。
それは明確な訣別の宣言だった。
「……っ」
もうどうしようもない。両親は悟った。仕事を言い訳にせず、もっと彼の身を案じるべきだったと後悔もした。
今更手遅れだった。博人は自分を放置した学校や両親よりも、自分に親身に接してくれた魔物娘を選んだのだ。ある意味では当然の帰結だ。
博人はもう、外の世界に未練はなかった。
博人の一件が世間に知られて以降、クレームの数が増大した。中には脅迫めいたものまであり、おかげで教師陣は二十四時間対応に追われている。
もう限界だ。この状況をなんとかしたい。事態改善の第一歩として、博人を復学させたい。我々はもう「平和」であると、内外にアピールしたい。
高校側は必死だった。祖母は彼らの必死のアピールを、電話越しに聞いていた。
玄関口に置かれた電話機の前に立ち、受話器を耳に当てて先方の叫びを聞いていた。
「そんなこと知りません」
その上で、祖母はそう言い切った。快刀乱麻を断つ。まさにその通りの返答だった。
受話器越しに相手が息を呑むのを感じる。祖母は動じず、ただ向こうの反応を待つ。
「……そこをなんとか」
数秒後、ようやく向こうが言葉を返す。明らかに弱っていた。額から脂汗を流し、恐怖と焦燥に駆られながら発したのだろう。祖母は先方のコンディションをそう推測した。
推測した上で、祖母は己を曲げなかった。
「嫌です」
うっ。今度は確実に息を呑む音が聞こえてきた。祖母は表情一つ変えなかった。蔑むことも嘲笑うこともしなかった。
本当にどうでも良かったからだ。
「なんと言われようと、あの子をそちらに返すつもりはありません」
不動の心で祖母が言い放つ。高校側がそれにリアクションするまで、たっぷり十秒要した。
「お願いします。そこをなんとか」
「駄目なものは駄目です!」
さらに弱りきった声が受話器越しに聞こえる。腹に銃弾を浴び、出血多量で死にかけている者の声。半死人の呻き声だ。
実際、向こうは本当に死にかけているのだろう。通常の業務だけで手一杯というのに、その上さらにクレーム処理までしなければならないのだから。彼らの心労は容易に想像できる。
知ったことか。お前らの都合で博人を振り回されてたまるか。
「何度お願いされようと、答えは同じです。博人の問題を放置したあなた方は、もう信用出来ません」
「それは……」
「お話は終わりですか? では切らせていただきますね」
「待って――」
受話器を耳から離し、元の位置に戻す。静寂が訪れ、その静けさの中で祖母の心に充実感が漲っていく。
言ってやった。ばっさり言い切ってやった。溜飲が下がる思いを味わい、祖母は自然と笑みを浮かべた。
「ふう……」
ため息をつく。張り詰めていた神経が弛緩し、心地よい疲れが全身を駆け巡る。博人とマギウスを守ることが出来たと実感し、祖母は勝利の余韻に酔いしれた。
「あっちは今大事な時期なんだから、邪魔が入らないようにしないとね」
満足した顔で祖母が呟く。「あの夜」の散歩以降、二人の関係が大きく変わったことは、祖母もとうに気づいていた。一線を越えた人間と魔物娘が何をするのか、知らないほど無知でも無かった。
「あの子なら安心だわね」
しかし祖母は全てを許した。彼らの関係に理解を示し、それを喜ばしいことであるとさえ思っていた。博人は悪い子ではないし、マギウスも真面目で優しい子だ。あの二人ならきっと上手くやっていける。祖母は確信していた。
「――さて、そろそろお昼の準備しないと」
そこまで行ったところで思考を切り替え、祖母が厨房へ歩き出す。彼女の言う通り、時計の針は既に十二時を指そうとしていた。なおこの時、博人たちは山に散策に出かけており、家にはいなかった。
特にすることもないのなら、暇潰しに近くの山にでも行ってみたらどうだ。早朝七時、祖母が朝食を作りながら二人に提案したのだ。祖母と共に起きていた博人たち――マギウスは元より、博人もすっかり田舎の生活サイクルに順応していた――はそれを聞き入れ、食事を済ませてから二人仲良く出発したのである。
祖母がそんなことを言ったのは、ひとえに彼らの関係の進展を願ってのことだ。老婆心と言うやつである。
「せっかくだから、何か精のつくものでも作ろうかね」
厨房に向かう道中、祖母がそう言ってニヤニヤ笑う。これも老婆心だ。お節介とも言える。恋路に首を突っ込みたいだけなんじゃないかと言うのは禁止。
そしてその数分後、肝心の博人とマギウスが仲良く帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「ただいまー」
「ああ、お帰り。今作ってるから、もうちょっと待っててね」
玄関で靴を脱ぎ、手を繋いでやって来た二人を、祖母は調理しながら歓迎した。対して祖母の姿を見た二人はすぐに彼女の手伝いに向かい、そこからは三人で昼食の準備を進めた。
十二時四十分。昼食が完成する。二分かけて配膳を終わらせ、三十分ほどで食事を済ませる。
「食器は置いといていいからね」
「いえ、片づけは私がやります。お祖母様とヒロト様はどうぞおくつろぎください」
「それは駄目。マギウスがやるなら僕もやる」
「えっ、ヒロト様――」
三十分後、一人で後片付けをやろうとするマギウスに博人が反論する。主からそう言われたマギウスは一瞬困惑したが、すぐに表情を緩めて彼に言った。
「……それではヒロト様、私の補助をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「うん。任せて」
マギウスの言葉に博人が頷く。そして二人の視線が絡み合い、二人の間に暖かな空気が流れていく。互いの頬が赤らみ、しかし目線だけは微塵も逸らさない。
その光景を見た祖母は、喜びと気まずさと肩身の狭さを同時に味わった。
「若いっていいねえ……」
そう呟くのが精一杯だった。だが悪くない。これぞ青春だ。
そしてそれを守るのが私の仕事だ。二人だけの世界に入る博人たちを尻目に、祖母は決意を新たにした。
一応、祖母は高校から電話が来たことを博人たちに報せた。夕方六時、彼らが山から戻ってきて一緒にシャワーを浴びた後のことである。
全部聞いた後、博人は戻りたくないと答えた。マギウスは博人を戻したくないと答えた。祖母も二人に同意した。
結論はすぐに出た。絶対に博人を「向こう」には渡さない。高校からの要請はその後も何度か来たが、その度に電話の応対には祖母とマギウスが出て、博人との接触は徹底的に遮断された。
だが高校からの催促が七回を越えた辺りで、今度は違う方面から懇願の電話がやって来るようになった。それは加害者の両親――博人を虐めていた者の両親からの電話であった。
「お願いします! 助けてください! 一度だけでいいんで、うちの子に謝らせてください!」
最初に彼らが電話をかけてきたのは夕暮れ時だった。博人はシバの店で働き、マギウスは買い出しに出てもらっている。家に残った祖母は一人の時間をのんびり楽しんでおり、そんな時に連中が横槍を入れてきたのだ。
受話器から聞こえる彼らの言葉は、高校のそれよりも悲痛で焦りに満ちていた。最初にそれを聞いた時、何故彼らがそこまで恐怖しているのか、祖母は理解できなかった。
しかしその理由は、すぐに向こうから告げられてきた。
「お願いします! 苦情が止まらないんです! どうかお願いします!」
呆れるほどに至極単純なものだった。祖母はこの時、博人とマギウスが家にいないことに安堵した。彼らは今日、川に行ってくると言って外出している。きっと「仲良く」やっているのだろう。
好都合だ。気兼ねなく本音をぶちまけられる。
「――やかましい! なんであんた達の都合のためにあの子を引っ張り出さなきゃいけないんだ! いい加減にしろ!」
声を荒げて激昂する。これまでの高校とのやり取りで溜め込んだ鬱憤も含めて、一気に本音を爆発させる。こんな姿、とても孫や知り合いには見せられない。
受話器の向こうで息を呑む音が聞こえる。反応がワンパターンだ。祖母は心中呆れた。怒りすら急速に萎えていった。
「もう電話しないでちょうだい!」
「あっ、まって」
受話器を本体に叩き付ける。相手の言い分も聞かず、一方的に通話を終わらせる。だが「高校の時」とは終了時のテンションが大きく違った。
達成感も勝利感もない。あるのは徒労感だけだ。祖母は腹の底に溜まった疲れを吐き出すかのように、大きくため息をついた。
「ああ……」
全然身軽にならない。しんどい。祖母は疲れきった表情を見せた。
だからこそ。気怠さの中、祖母は改めて覚悟を決めた。こんな辛い役目をマギウスに押しつけるわけにはいかない。博人になど以ての外だ。若い子達にやらせるべきではない。
「さて、そろそろ帰ってくる頃かね」
体に喝を入れ、祖母が電話から離れる。予測通り、何分か経った後に博人とマギウスが帰宅する。そして夕食を済ませた後、祖母は今日の件をマギウスだけに報告した。
「このこと、博人には教えちゃ駄目だからね?」
「わかりました」
神妙な顔つきでマギウスが頷く。今の博人はまだまだデリケートだ。必要以上に刺激するべきではない。
「ヒロト様は、何があっても私がお守りいたします」
「その意気だよ。でも気を張りすぎて、あんたが壊れるのも駄目だからね?」
「大丈夫です。魔物娘は頑丈ですから」
相手を安心させようと、マギウスが笑って言う。祖母はそれに流されず、「本当に無理しちゃ駄目だよ」と返しながらマギウスの手を握る。それが却ってマギウスの信念を一層強固にさせる。
マギウスも祖母と同類だった。博人を大切に想っているところまで、全く同じだった。
後日、更に別の問題が発生した。祖母が加害者から電話をもらった四日後に、博人の両親が祖母の家に来ることになったのだ。
「大丈夫? 一緒に会える?」
「ヒロト様、ご無理は禁物ですからね」
そちらに向かうと両親から連絡を受けた直後、マギウスと祖母は真っ先に博人のコンディションを心配した。流石に両親には遭わねばならないが、前にも言ったように今の博人の精神は非常に不安定だ。当初に比べて笑顔を見せる機会こそ増えたが、完全に立ち直ったわけではない。何が切欠で崩壊するか、わかったものではないのだ。
故に二人は、博人の精神を案じた。最悪、博人と両親は会わせないようにしようかとも思っていた。
「僕は平気。ちゃんと顔出すよ」
だが博人はそう言った。断言した。マギウスと祖母は同時に目を丸くし、揃って不安な眼差しを博人に向けた。
「よろしいのですか?」
「うん」
「本当に?」
「挨拶するくらいなら出来るよ。安心して」
困惑するマギウスに博人が答える。魔物娘の瞳を正面から見据え、きっぱりと言ってのける。それを聞いた祖母は困ったように顔をしかめ、マギウスは真剣な顔で博人を見返した。
「……わかりました」
数秒後、マギウスは折れた。続いて祖母も観念したように肩を落とした。二人の様子を見た博人は、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と呟いた。マギウス達が自分のことを思って動いていることは、博人もちゃんと理解していた。二人が不安に思う理由も十分わかる。
それでも、ここは譲れなかった。博人は特に両親に対して、自分から言わなければならないことがあると考えていたからだ。
「お願い。僕も一緒に会わせて」
博人が改めて言う。声にも表情にも、並々ならぬ決意が溢れていた。それを見たマギウスと祖母は、もう観念するしかなかった。
「……わかりました。ヒロト様の望む通りに」
「ありがとう」
マギウスが言い、博人が返す。すぐにマギウスが反応し、博人の手を取って慈愛の眼差しを向ける。場の空気を読んだ祖母が、音を立てずに退散する。
四日後、連絡通りに博人の両親がやって来た。博人とマギウスと祖母は、揃って家の外でそれを迎え入れた。
久しぶりに会う父と母は、目に見えて憔悴していた。何があってそうなったのか、わからないほど博人は愚鈍ではなかった。
それでも、言わなければならないことがある。
「うちに戻ってきてくれないか」
全員で居間に向かい、一服した後、両親がここに来た理由を端的に告げてきた。要は博人を引き取りにきたのである。
予想通りの展開に、マギウスと祖母は顔を見合わせた。博人は顔を俯かせてテーブルをじっと見つめるだけで、反対側に座っている両親を見ようとしなかった。
「お願いだ。うちに戻って来てくれ。頼む」
そんな博人に向かって、父が座ったまま頭を下げる。隣にいた母も同じように頭を下げる。それからマギウスが心配そうに博人を見やり、最後に祖母が博人に不安げな眼差しを向ける。
四人の意識が博人に集中する。そしてそれに促されたかのように、博人がゆっくりと顔を上げる。
「僕は」
まっすぐ両親を見据えながら、博人が口を開く。全員が彼に注目する。
博人が言う。
「僕はここにいたい」
一瞬、場の空気が固まる。やや間を置いてマギウスが暖かな笑みを見せ、小さく息を吐く。
両親の表情が凍りつく。
構わず博人が続ける。
「僕はマギウスといる」
テーブルの下、両親に見えない所で、博人が隣のマギウスへ手を差し伸べる。マギウスの指と博人の指が触れあい、それに気づいたマギウスが自分から博人の手を握る。
指が絡み合い、二人の手が固く結ばれる。それが博人に、さらに勇気を与える。
「死ぬまでずっと、ここでマギウスと暮らしたいんだ」
博人が言い放つ。
それは明確な訣別の宣言だった。
「……っ」
もうどうしようもない。両親は悟った。仕事を言い訳にせず、もっと彼の身を案じるべきだったと後悔もした。
今更手遅れだった。博人は自分を放置した学校や両親よりも、自分に親身に接してくれた魔物娘を選んだのだ。ある意味では当然の帰結だ。
博人はもう、外の世界に未練はなかった。
18/10/09 19:38更新 / 黒尻尾
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