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第七話「あなたと」
 午後九時。
 博人とマギウスが、共に懐中電灯を持って道を進む。
 デートと言うには物寂しい、二人きりの夜の散歩である。

「……」
「……」

 沈黙が場を包む。
 田畑に囲まれた細道を、二人並んで無言で歩く。
 青年も、魔物も、共に口を開こうとしない。
 正確に言うと、話す意志はあった。ただどちらも、どうやって話を切り出したらいいのかわからなかったのだ。
 
「……」

 鈴虫の鳴く声。蛙の鳴く声。風がそよぐ微かな音。それが彼らの周りに漂う音の全てだった。
 気まずい。どうにかして空気を和らげないと。
 二人の気持ちは同じだった。一歩前に進まなければ。
 そして停滞が破られる。
 
「あの」
「あの」

 声が被る。示し合わせたように、全く同じタイミングで二人が言葉を放つ。
 奇跡だ。嬉しくない。恥ずかしさだけが残る。
 
「――ッ」

 共に顔を赤くし、急いで口を閉じる。マギウスが小さく咳払いをし、博人が指で頬を掻く。
 蛙の鳴き声が聞こえる。激しく脈打つ心臓の鼓動が、それをかき消す。
 体が熱い。喉が渇く。緊張で押し潰されそうになる。
 
「あ、あのっ、ヒロト様っ」

 そこにマギウスの声がかかる。羞恥を先に脱したのは彼女の方だった。
 一方の博人は、それを聞いて救われた気分になった。同時に彼女より先に動けなかった自分が情けなく思えた。
 ちゃんと自分がリードしなければ。決意を固め、眉間に皺を刻む博人に向かって、マギウスが言葉を続ける。
 
「きょ、今日はその……お誘いいただき、ありがとうございます。ヒロト様の方から誘っていただけて、本当に感激です」
「そ、そんな、言い過ぎですよ。僕はただ……」

 そこまで言い返して、博人が渋る。本音を伝えるのが怖かった。
 マギウスは本心から言っている。それは何となくわかる。ここまで言わせておいて、自分だけ本音を吐かないのは卑怯であるということも、同じく理解している。
 それでも。博人はまだ一歩先に行けずにいた。情けない。弱虫。鬱屈した想いが心を締め上げ、感情が悲鳴を上げる。せめて顔には出すまいと、必死に眉間に力を込める。
 
「ヒロト様」

 マギウスの声。一瞬、博人の心が軽くなる。
 その直後、マギウスが自分から博人の手を握る。そっと博人の手を握りしめ、優しく包み込む。
 突然の行為に動揺する博人に、マギウスが微笑みながら告げる。
 
「もう少し、このまま歩きましょうか」

 マギウスは全て知っていた。隠しているつもりでも、博人の葛藤はマギウスには筒抜けだった。
 そしてそれを知ったマギウスは、まず彼の心を落ち着かせようと考えた。彼の手を握り、そっと声をかける。私はいつでもここにいると、強く相手に想起させる。
 結果から言うと、彼女の試みは成功した。
 
「……はい」

 幾分か軽くなった声で肯定しながら、博人が頷く。同時に博人の方からも、マギウスの手を握り返す。
 自分に応えてくれた。マギウスは嬉しくなった。そして彼女はにこやかに微笑み、リラックスした声で博人に言った。
 
「今日は風が涼しいですね。絶好の散歩日和です」
「そ、そうです、ね」

 ぎこちない調子で博人が答える。彼はまだ緊張していた。しかし心の枷は外れていた。
 傍にこの人がいてくれる。それが何より頼もしく、嬉しかった。マギウスの存在が博人を支えていたと言っても、過言ではなかった。
 
「もう少し、歩きましょうか」
「はい」

 そうして青年とキキーモラは、誰もいない夜道を隣合って進み続けた。
 ただ歩くだけでも、二人の心は満たされていった。
 
 
 
 
 博人が「散歩」を提案した後、二人は揃って祖母の元へ向かった。一応報告して、許可を取っておこうと考えたからである。
 
「ああ、いいよ。行っておいで」

 祖母は二つ返事でそれを了承した。想定通りの展開である。「この人はこう言うだろうな」と思っていた二人は却って安心したが、一方で表情は硬いままだった。
 博人もマギウスも緊張していた。この人と二人きりで出歩くのだから、下手なことは出来ない。互いが互いを慮るあまり、必要以上に気負っていた。
 揃って糞真面目だった。
 時間を今に戻す。
 
「今日はす、涼しいですね」
「そうですね、はい、涼しいです……っ」

 二人はまだ緊張していた。既に十数分経過していたが、全く場慣れしていなかった。言いだしっぺの博人ですらそんな有様だった。
 しかし当然ながら、二人ともこのままではいけないと思っていた。せっかくのチャンス、モノにしなければ。博人もマギウスも同じことを考えていた。
 
「あの」
「あの」
 
 そして同じタイミングで口を開く。いつぞやと同じように台詞が被り、共に赤面して目を逸らす。
 どこまでもお似合いのカップルだった。
 
「も、申し訳ありません。お先にお願いします……」

 ただし二の轍は踏まない。マギウスが機先を制し、博人に発言権を渡す。譲り合い合戦に競り負けた博人は一瞬言葉に詰まるも、すぐに腹を括ってマギウスに言った。
 
「あの、僕、マギウスさんと一緒にしたいことがあるんです」
「えっ?」

 反射的にマギウスが声を出す。一瞬、いかがわしいイメージが脳裏をよぎる。
 はしたない。自制しなければ。心中で強く自分を戒めるマギウスに、博人が続けて言う。
 
「その、せっかく二人だけになれたんで、その……」
「その……?」

 隠しきれない期待を胸にマギウスが問う。直後、博人が手に持っていたバケツを唐突にマギウスに差し出す。
 そんなもの持ってきていたのか。ここで初めてマギウスがバケツの存在に気づく。もっと言うと、バケツの中に紙袋と水の入ったペットボトルが突っ込まれていたことにも気づいた。緊張と期待ですっかり見落としてしまっていた。今更である。
 そうして今更ながら驚くマギウスに、バケツを見せたまま博人が言う。
 
「は、花火っ」
「は――」
「花火を、一緒に、しませんか……?」

 震える声で博人が言う。いきなり言われたマギウスが目を点にする。
 
「――ああ」
 
 だがマギウスは利発だった。彼女はすぐに博人の意図を察した。従者たるもの、主の心の機微には聡くなければならない。
 そして彼の気持ちに気づいたマギウスは、彼の勇気を称えるように柔和に微笑んだ。
 
「……私でよければ、喜んでご一緒いたします」
 
 博人の表情が目に見えて明るくなる。自分の気持ちが伝わったことが純粋に嬉しかった。
 それは今の博人に出来る、最大級の口説き文句だった。
 
 
 
 
 彼らが今いる所からさらに数分歩いた場所に――都合の良いことに、小さな空き地があった。そこは田畑からは離れた場所にあり、滅多に人の近づかない場所であった。と言っても別に呪われているとかではなく、単純にそこを利用する必要がないから放置されていただけである。
 
「ここでやりましょうか」
「はい。ここなら問題なさそうですね」

 手持ち花火くらいなら祖母の家でも出来る。わざわざこんな遠い所まで来る必要は無い。
 なら何故。
 
「私がバケツに水を入れます。ヒロト様は――」
「じゃあ僕が袋開けます。マギウスさんは水の方お願いします」
「――わかりました」

 マギウスはとうに気づいていた。気づいていたが、その場で詰問することはしなかった。
 博人が勇気を出そうとしている。そこに水を差すのは無粋だ。
 だからマギウスは受けに回った。最後まで博人に任せようと思った。何があっても彼を支えようという忠義心が、今の彼女を動かしていた。
 
「じゃ、じゃあ、始めましょうか……」

 緊張したようにかすれた声で、博人がマギウスに告げる。マギウスが頷き、そんな彼女に博人が花火の束を差し出す。
 先端に長方形の紙片がついた、細長い紙の棒。その束をマギウスが受け取る。
 直後、マギウスは震えを感じた。博人の手が僅かに震えていた。
 健気だ。なんて愛おしい。マギウスの慕情が否応なしに膨れ上がる。
 キキーモラの体から魔力が滲み出す。博人の背筋がぞくりと震える。
 努めて無視する。
 
「火つけますから、こっちに先っぽ向けてください」
「はい。わかりました」

 バケツに近い所で二人して腰を降ろす。足元が見える位置に懐中電灯を置く。
 マギウスが受け取った花火の束の中から、一本抜き出す。それを反対側の手に持ち、先端にある紙片を博人に向ける。博人がポケットからライターを取り、その先端に火を向ける。
 紙片に火が点く。紙片はあっという間に燃え尽き、赤い火が棒の中に吸い込まれる。そこまで見届けてから、博人もまた自分の花火に火を点ける。
 数秒後。先にマギウスの、遅れて博人のそれが花を咲かせる。先端から勢いよく火花が噴き出し、バチバチと小気味良い音を立てながら二人の手元を明るく照らす。
 
「綺麗……」

 橙色に咲く火の華を見ながら、マギウスがぽつりと呟く。それを聞いた博人が何か言おうとして、結局何も言えずに口を閉ざす。
 マギウスはそれに気づかなかった。先方が気づく素振りを見せなかったことに、博人は逆に安堵した。
 やがて最初の一本が燃え尽きる。花が枯れ、煙を吐くだけになった棒を水の入ったバケツに突っ込む。
 どちらともなく、二人して次を用意する。
 
「マギウスさん」
「はい」

 それで十分だった。マギウスが二本目を差し出し、博人がそれに火を点ける。マギウスの持つ花火が火花を噴いた後、博人が遅れて自分の分に火を点ける。
 二つの花が仲良く咲く。それを二人が仲良く見守る。
 
「……」

 どちらも無言だった。博人もマギウスも何も言わず、ただぼうっと花火の輝きを見つめていた。
 遠くから蛙の鳴き声が聞こえる。鈴虫の鳴き声も聞こえる。手元で火花の弾ける音が聞こえる。耳元で風がそよぐ。心臓の鼓動が高鳴りを増す。
 彼らの周りは音で満ちていた。だがそこに彼らの声は無かった。
 それで十分だった。むしろそれが良かった。
 
「ああ……」
 
 この空気を二人だけで味わえる。この雰囲気を二人だけで独占――寡占と言うべきか――している。
 なんて素敵なことだろう。マギウスは恍惚とした気持ちを抱いた。自然とため息が漏れ、感情が言葉になって口から飛び出す。
 
「素敵ですね」
「……」

 博人の顔が赤くなる。火花に照らされたからだけではない。
 
「……はい」

 遅れて博人が答える。短い返答の後、二人の花火が燃え尽きる。
 最初にマギウス。次に博人。
 
「す、素敵だと思います」

 暗闇の中で博人の声が響く。足元を照らす懐中電灯の光が、互いの顔を薄く照らす。
 どちらも赤い。言い訳は出来ない。
 揃って目を逸らす。何も言えない。
 
「次を」

 急かすように博人が言う。
 
「次をやりましょう。花火はまだいっぱいありますから」
「――あ、はい」

 ワンテンポ遅れてマギウスが答える。懐中電灯の光を頼りに、博人がいそいそと次を準備する。
 恥ずかしい。でも暖かい。
 なんて素敵な世界だろう。
 素敵すぎて泣きそうになる。
 
「じゃあマギウスさん、次をお願いします」
「わかりました、ヒロト様」

 二人の静かな花火大会は、この後しばらく続いた。
 
 
 
 
 やがて最後の一本が尽きる。
 二人きりの花火大会が終わる。
 
「無くなっちゃいましたね……」

 別れを惜しむようにマギウスが言う。最後の一本を持った博人も、同意するように小さく頷く。
 しかし終わらせなければ。意を決して博人が手にあるそれをバケツに入れる。ジュウっと音がして、そして消える。
 余韻も何もない。無情だ。
 
「……」

 何も言えない。博人もマギウスも口を閉ざす。周りで鳴り響く音たちが、途端に鬱陶しく感じる。
 このままではいけない。言いようのない使命感が体を突き動かす。
 
「僕、楽しかったです」

 唐突に博人が言う。マギウスは何も答えず、無言で待つ。
 やや遅れて博人が続ける。
 
「マギウスさんと、その、一緒に花火が出来て」

 ぽつぽつと、自分の気持ちを伝えていく。足取りは遅く、しかし確実に。
 
「一度でいいから、マギウスさんとこういうことがしたいなって、思ってたんです」

 不思議だ。一度声に出すと、後から次々言葉が出てくる。
 普段なら絶対に出せない本心が、今はどんどん吐き出せる。
 
「……僕、ここに来てからずっと、マギウスさんに頼りっぱなしでした」
 
 博人はそれに逆らわなかった。流れるままに想いを伝える。
 
「何もする気が起きなくて、だからマギウスさんに甘えっぱなしだった。でもマギウスさんは、何も言わずに受け入れてくれた」

 マギウスは何も言わない。無言で博人を見つめる。
 彼女を見つめながら博人が言う。

「文句も言わずに、ずっと僕を守ってくれた。だから僕は――」

 そこで言葉を詰まらせる。一度口を閉ざし、少し目を泳がせ、再び言葉を紡ぐ。
 
「僕は、あなたともっと色んなことがしたい」

 本音が出る。意識してやったことではない。つい反射的に、流れのままに飛び出した語句である。
 それでも構わない。本心なのは確かだ。
 そして一度飛び出すと、抑えが効かなくなる。
 
「あなたと離れたくない。もっとあなたと一緒にいたい」

 心の中で欲望が鎌首をもたげる。落ちた時には死んでいた暗い感情が、ここぞとばかりに息を吹き返す。
 
「誰にも渡したくない。マギウスさんの隣にいていいのは、僕だけでいい」

 言葉がもつれる。本能に思考が追いつかない。
 ついに終わりが来る。
 
「だから僕は、僕は」

 語彙が尽きる。一息に吐き出した反動で、息が荒くなる。肩を激しく上下させ、目を大きく見開いて何度も深呼吸する。
 誰が見てもそれとわかる程に必死だった。マギウスに、マギウスだけに自分の気持ちを伝えたくて、博人は必死だった。
 花火なんて口実に過ぎない。それはマギウスも知っていた。
 
「ヒロト様」

 マギウスが動く。博人が息を止め、硬直する。あからさまに緊張している。
 そうして畏まる博人の手を、マギウスが優しく握りしめる。
 
「そこまで言ってくださって、感激でございます」

 博人の目をまっすぐ見つめながらマギウスが言う。彼女の顔は優しく微笑んでいた。
 最初に祖母の家で会った時と同じ、柔和な笑み。それから博人の陰を暖かく包み込んだ、女神の微笑み。
 
「私も許されるならば、これからもヒロト様に仕えたいと思っております」

 博人の神が微笑みながら、粛々と想いの丈を告げる。手は握ったまま、柔らかな声で耳を撫でる。
 マギウスは落ち着いていた。博人とは対照的であったが、その実彼女も緊張していた。
 
「今後もあなたのお傍にいることを、どうか――」

 言葉が止まる。少し待って、口を開く。
 
「どうか、許してくださいますか?」

 渾身の懇願。それを聞いた博人の心臓が大きく飛び跳ねる。
 視界に映るマギウスの輪郭がぼやけていく。黒いもやのようなものが、彼女の体を包んでいくように見える。
 体が熱くなる。心臓の鼓動が速さを増す。額から汗が流れ落ち、再び息が荒くなる。
 
「マギウスさん」

 相手の名を呼ぶ。
 
「許します」
 
 主の威を以て、従僕に許可を出す。
 
「ずっと僕の、傍にいてください」
 
 号令が下った。
 視界の中のキキーモラが、小さく頷く。
 
「ヒロト様――」

 マギウスが呼び返す。灯に惹かれる蛾のように、博人がマギウスの方へゆっくり近づく。
 
「マギウスさん」
 
 マギウスも近づいていく。
 互いの距離が詰まっていく。
 ぼんやりとした思考の中で、博人が再び相手の名を呼ぶ。
 
「マギウス」




 声が途切れる。
 二つの影が重なる。
 周囲の音が消え、心臓の鼓動だけが聞こえる。
 唇に柔らかな感触が広がる。
 
 
 
 
 ぴったり十秒後、二人の顔が離れる。
 別れを惜しむように、互いの唇から糸が引かれる。
 
「あ」

 気の抜けた声が出る。誰が出したものか。
 思考が停止したまま、互いに呆けた顔を見合わせる。
 時が止まる。無音の世界に二人、ただ取り残される。
 
「もっと」

 どちらかが呟く。どちらでも構わない。
 気持ちは一緒だ。
 
「もっと――」

 うわ言のように呟く。それ以外耳に入らない。
 二人が再び顔を近づける。口をほんの少し開け、中で舌を物欲しげに動かす。
 
「ん」

 再び影が重なる。今回は以前よりも長い。
 淫らで柔らかな空気が二人を包む。精神がゆっくりと飛翔し、互いの心が一つになる。
 
「ん……」
「ふう、う、んむ……」
 
 魔と人のセカンドキス。舌がうねり、唾液が交わる。
 博人とマギウスは、この日――ようやく最初の一線を越えた。
 
 
 
 
 かつて博人が通学していた高校から復学の誘いが来たのは、その翌日のことだった。
18/09/27 19:18更新 / 黒尻尾
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