俺が拾ったのはちょっと変な百足でした
その日もいつもと同じように定時から2時間くらい残業して、会社を出たのが1時間前。
今ではすっかり慣れた満員電車で自宅の最寄り駅まで帰り、駅前の弁当屋で夕飯を買う。
夜空を見上げると田舎とは違い、ほとんど星の光を見ることはできない。
初めて見た時はあまりにも黒々しい空に言葉を失ったのを今でも覚えている。
マンションに着くと、ロビーのオートロックを解除してエレベーターに乗り込み、4階と記された丸いボタンを押す。
上の階に向かう独特の浮遊感を感じるが、あっという間に目的の階に到着し自動ドアが開いた。
さっさとエレベーターから降り、自宅である一室に向かおうとした瞬間、何やら見慣れぬものが視界に入りその足が止まった。
『・・・ん?何だ、あれ?』
目を凝らしてみると、各部屋の玄関が並ぶ通路に何やら黒いモノが見える。
『あそこ・・・うちの玄関前だよな。朝、出た時は何も落ちてなかったし、風でゴミでも飛んできたのか?』
「う〜ん」とうなりながら十数時間前の記憶を遡って思い出すが、やはりそれらしいものは見かけなかったと思う。
それに、季節はそろそろ冬に移ろうとしているのか、最近は朝晩もすっかり冷えるようになった。
そんな寒空の下、いつまでも突っ立っているわけにもいかず「ま、いいか」と気にせず歩み始める。
そして、玄関前まで来てようやくそれが何なのか俺は理解した。
『これ、ムカデ・・・か』
それは、大きさにして10cm以上はありそうな「ムカデ」だった。
女や子どもなら「わーきゃー」言って騒ぐのだろうが、田舎出身の俺はムカデくらいで驚くことはなく、むしろその姿に懐かしさを感じていた。
『田舎に居たころはたまに見かけたけど、東京にもいるんだな』
そんなことを呟きながらもっと近くで見てみようとしゃがんで覗き込んだところで、俺は「あ・・・」と小さな声を上げた。
『こいつ、傷だらけじゃんか』
考えれば分かることだった。
普通であれば人間が近づいたら逃げるのが当たり前なのに、こいつは逃げるどころか微動だにしなかった。
こいつからしたら、動こうにも動けないのだろう。
本来なら一対2本あるはずの触覚は片方しかなく、嫌悪の対象になるはずの多数の脚もいくつか欠けていた。
ほかの動物にやられたのかどうかは分からないが、そうやって見ていても動く気配はなかった。
死んでいるのかと思い、部屋の鍵で突いてみるとかなり鈍くではあるが動いた。
『お、生きてる』
俺はそれだけ確認するとすっと立ち上がり、今しがたムカデを突いた鍵で玄関の鍵を開ける。
弱肉強食は自然界の法則。
こうやってムカデが死に掛けているのも、ただ単にもっと強い生き物がいたからなだけだ。
このままここで死んでも、いずれ蟻の餌になるだろう。
犬猫じゃあるまいし、ダンボールに詰め込まれて人間の身勝手で捨てられたわけじゃないのならと思い、無視して部屋に入る。
しかし、数分後には閉じたはずの玄関を開け、俺はインスタントラーメンの空容器を手に持ちつつムカデに話しかけた。
『どうせ死ぬなら、最期は温かい部屋の中がいいよな』
弱っているとは言え、さすがに素手で掴む気にはなれず、割り箸で挟んで容器に入れる。
容器の深さ的にムカデが這い出すこともできそうだったのでラップを貼り付けてフタをし、爪楊枝で小さな穴を無数に開けて空気の通り道を作った。
それをリビングのテーブルに置くとさっさと夕飯を済ませてシャワーを浴びる。
シャワーで汗を流しながら、一人暮らしでよかったなと実感する。
普通の人間ならムカデなんて生き物を拾って保護しようなんて考えないだろうし、そもそも家の中に入れるなんて以ての外だろう。
風呂から上がり、寝巻きにしているスウェットに着替えながら容器を覗くと、その中でムカデは丸まってじっとしていた。
「朝には死んでるだろうし、穴掘って埋めなきゃな」と、そんなことを考えながら明日は仕事も休みだというのに暗い気持ちのままベッドに横になった。
しかし、そんな俺の予想に反して次の日もムカデは生きていた。
容器を軽く突くと、その振動を感じたムカデは1本だけになった触覚を動かし周囲の様子を探っているようだった。
『さすがにこのままってわけにもいかないか・・・』
死ぬまでラーメンの空容器に入れっぱなしなのも後ろめたく感じ、多少はこいつの環境を整えてやろうと思った。
かといって、今までムカデを飼ったこともムカデを飼った経験のある人間に出会ったこともない。
つまり何が言いたいかというと、ムカデにとって何が良くて駄目なのか検討もつかないということだ。
しかし、世の中には今まで出会ったこともない変な人間で溢れている。
ムカデをペットとして飼育している輩もいるはずなのだ。
なら話は早い、ネットでいくらでも情報を集められる。
そう思った俺は早速、ノートパソコンを起動して「ムカデ 飼育」で検索をかけるとすぐさま20万件のページがヒットした。
まさか、これほどまでとは思っておらず、世の中には俺の想像以上に変人が溢れかえっていることへの驚きと、自分もその中の一人になることに対して溜息が出る。
少しの後悔を感じつつムカデに視線を向けると、当のムカデはそんな人間の気持ちを知るはずもなく、ただじっとしたままだった。
その後、夕方までかけて必要なものを買い揃えた俺は家に戻るとムカデの引越し作業を開始した。
引越しとは言っても、そんなに大層なことはなく買ってきたプラスチック製の飼育ケースに移すだけ。
ムカデは抵抗する様子もなく・・・いや、単に弱っているだけなのかもしれないが、とにかくすんなりと割り箸に捕まる。
先駆者達の助言通りの環境が気に入るかは分からないが、少なくとも今までいたラーメンの空容器よりはマシだろう。
水飲み用にはペットボトルの蓋を活用し、餌にはお湯で塩抜きしたビーフジャーキーの切れ端を用意した。
本来は生餌がいいらしいのだが、さすがに気が引けてしまい色々調べたところ動物性のたんぱく質なら代用できるらしいことを知った。
『いつまで生きるかは分からないけど、今日使った金額の分くらいは生きてくれよ』
そんなことを言いながらケース越しにムカデを見つめると、そいつと目があった気がした。
そして、俺と1匹のムカデの生活が始まったのだった。
結論から言って、俺はこのムカデとの生活を結構気にいっていた。
最初は瀕死に見えたムカデだったが、2〜3日もするとケースの中をノロノロとではあるが動き回るようになり、1週間もするころには餌を食べるようになった。
餌として与えたビーフジャーキーを食べたことに声を出して喜び、またある時はちょっかいを出そうとした指を噛まれかけて悲鳴を上げた。
生き物の生命力の強さに驚きつつ、自分の行動が無駄にならなかったことに少しだけ嬉しくなった。
『何が「弱肉強食」だよ、でも・・・』
その夜も餌を抱え込むようにして食べているムカデを眺めながらベッドに横になる。
ムカデの体の傷は相変わらずだったが、少なくとも体力は回復したようだった。
そのままぼーっとしていると枕元で携帯が振動し始める。
携帯を手にとって画面を確認すると、会社の上司からの着信だった。
俺はベッドの上で上体だけを起こし通話ボタンを押して着信に応える。
上司からの用件は前に休日出勤した分の振休を明日取ってはどうかという提案だった。
手帳を確認すると、確かに明日は会議も打ち合わせも入っておらず、抱えている業務で急ぎのものもなかった。
自分はこんな時間まで残業しつつ、部下に振休の提案をしてくれる上司に感謝しつつ、お言葉に甘えてそうさせてもらう事にした。
予期せず休みになったことに一気に気が抜け、意識が遠のいていく。
つけっ放しになっているテレビの情報番組では、今日は満月だとか何とか言っているが知ったことではなかった。
いつもであれば携帯のアラームで起こされ、眠い目を擦りながら会社に行くはずの時間だが今日は違った。
前の日の夜に上司から電話を受け、休日出勤の振休をもらった俺は昼過ぎまでは寝ている。
・・・はずだった。
『ん、うぅぅ・・・』
おかしい、体が異常に重い。
いや、正確には俺の体の上に何かが乗っかっている。
さっきまで寝ていた頭もだんだん覚醒してきて、この事態をどうにかしようとまずは薄目を開けて状況を確認する。
『ん〜、むにゃらむにゃら・・・』
そこには「女」がいた。
しかも、かなりの美女。そして全裸。
実際には首を起こして見ただけで上半身しか見えなかったが、少なくとも上は裸だった。
俺には彼女はいない・・・もちろん、嫁もいない。
だから俺の部屋に女がいるはずがない。
でも、いる。
俺の胸を枕にして気持ち良さそうに眠る美女。
朝起きると知らない女が一緒のベッドで寝ているという状況はまるで海外映画のワンシーンだが、我が身に降りかかると全く興奮しないことを俺は初めて知った。
見とれるほどの整った顔立ちの女と、なぜか冷たい俺の胸元。
後者の違和感にもう一度首を起こして女を見やると、女は口からよだれを盛大に垂らし、俺の胸元をびちゃびちゃに濡らしていた。
き、きたねぇ・・・
興奮する以前にふつふつと怒りが込み上げてきた俺は、気持ち良さそうに寝ている女をベッドから蹴り落とす。
「うぎゃ」っと変な声を出してベッドから転げ落ちた女に「誰だお前!どこから入った!警察呼ぶぞ!」と問いただそうと、ベッドから飛び降りた瞬間に俺は言葉を失う。
おかしい、なんだこいつ!?
首だけ起こした時は見えなかったこいつの体・・・
下半身を見た瞬間に俺は呼吸することを忘れてしまった。
そこにあったのは人間なら当たり前の二本足ではなく、蛇のように長い胴体だった。
『おま、なっ・・・』
言いたい事、聞きたい事を言葉にできず呼吸もまともにできずにいる俺を尻目に、女は蹴られた箇所を手で摩りながら起き上がると俺に近づく。
明らかに人ではない、まるで作り話の中に出てくる人喰いの怪物のような姿をしたそいつから目を離すことができない。
その間に頭に浮かんだのは考えたくもない未来。
そしてついに女は俺の目の前までくると、不満そうな顔で俺を睨みつけながら一言こう言った。
『もぉ、ひどいですよぉ・・・』
『・・・・・・・・え』
こいつ、今、何て言った?
状況についていく事ができずフリーズしたままの俺を他所に、女はぶつぶつと不満を口にしながらノロノロとした動きで俺の横を通り過ぎるとベッドに横になる。
『お、おい!ちょっと待て!俺の話を聞けよ!』
そこまできてようやく言葉が出てきた俺だったが、女は布団を頭までかぶると布団の中でもぞもぞとしている。
どうしたらいいか分からず頭を抱えていると、ばっと布団がめくられて女と目が合った。
その瞬間、女はにんまりと笑うと目にも留まらぬ速さで俺の腕を掴むとベッドに引きずり込む。
抵抗する間もなく引きずり込まれた布団の中の暗闇で、喰われるかも知れない恐怖を感じて体が縮こまってしまう。
対面に向き合った体勢で紫色の瞳と目が合い息が止まる。
そんな俺を気遣う素振りもなく女の手が動き、俺の背中側に回るとぐっと自分に引き寄せようとする。
ああ、大して面白みもない人生だったがこんな最期を迎えるのかと諦めた俺だったが、ある事を思い出してそいつの動きに抵抗する。
『ま、待ってくれ!ちょ、ちょっと俺の話を聞いてくれ!』
そう言いながら女の肩を手で押して何とか距離を保とうとする俺に女の動きが止まった。
『お、俺を喰う前に少しだけ時間をくれないか・・・?』
そう言った俺に女の体がぴくりと反応する。
さっきもそうだったが、こいつは人間の言葉を理解して話すことができる。
それなら望みはある!
『ケースの中に、ム・・・ムカデが、いるんだ。そいつを逃がしてやりたい・・・』
女は無理やり俺を引き寄せるようなことはせず、黙って話を聞いてくれているようだった。
『そいつは、傷だらけですごく弱ってて・・・やっと元気になってきたんだ。。。でも、俺が死んだらケースの中で飢え死にしちまう!・・・だから!!!』
だから何とかそいつだけでも外に出してやらないと、せっかく助けた命なんだ!
『ふ〜ん・・・』
そこまで聞いた女は興味があるのかないのか分からない適当な相槌のあと、厭らしい声で囁くように聞いてきた。
『そんなに大事なんですかぁ?ムカデなんて、気持ち悪くて誰からも嫌われてるのに?』
確かに、インパクトのありすぎる外見や人にも害をなす凶暴性からムカデは嫌われている。
でも、一つの命には変わりないし、何より飼えば愛着も沸いてくる。
『頼む・・・俺にとっては大事なやつなんだ。。。』
俺は女の目を正面から見て頼み込む。
体の震えはいつの間にか止まっていた。
『なら、目を閉じてジッとしててね?そうしたら、あなたの頼みを聞いてあげる』
俺の頼みに女は目を細めると、そう言って冷たい笑顔を向けてくる。
『・・・分かった』
女の言葉を信じるしかない俺は目を閉じる。
次の瞬間に起きる事態を想像すると心臓がうるさい位に音を立てていた。
「・・・・・ちゅう」
そして、何かが俺の口に触れる。
何かよく分からない状況に俺は恐る恐る目を開けると、睫があたるくらいの距離に女の綺麗な顔があった。
『!?!??!?!?!?』
俺と目が合った女はさっきの冷たい笑顔とは違う、何というか不覚にも見とれてしまうような笑顔をしてゆっくり離れていった。
状況が掴めない俺は放心状態のまま離れていく女の顔を見つめていることしかできない。
『ふっ、ふふふ、あはははは!』
すると突然、女が声を出して笑い始めた。
さらに中断していた行為を再開し、俺を一気に引き寄せると自分の体に抱き寄せ顔を俺の頭にこすり付けている。
予想の斜め上どころか、予期せぬ行動に抵抗することも忘れてされるがままの俺を他所に、女は異常に上機嫌だった。
『んもぉ、本当にかわいいなぁ!ご主人ったら、そんなにわたしの事を大事に思ってくれていたんですねぇ!』
そう言う女は俺の頭に顔を寄せてちゅっちゅ、ちゅっちゅとキスをしながら「ご主人、ご主人」とまるで人間が甘えるような声を出している。
キス・・・?
『え、ちょま、ちょっと・・・お、おい!おま、ちょ、待っ!・・・待ってって言ってんだろ!!!』
もうパニックを超え、むしろ恐怖とかそんなことも感じなくなってしまった俺は、全く話を聞かずにすき放題してくれる女の顔面に頭突きをかます。
『いだぁぁぁーーー!!!』
頭突きを食らった女は俺を抱きしめている手を離し、鼻を押さえながら布団の中でゴロゴロとのたうちまわっている。
女の魔の手から逃れた俺は布団からすばやく脱出すると、掛け布団を一気に剥ぎ取り部屋の隅に放り投げる。
未だに痛みに苦しんでいる女を他所に、ようやく俺はそいつの姿を確認することができた。
手首から肩、肩から臍の辺りまで模様のようなものがあるが上半身は普通の人間と遜色ない姿。
しかし、下半身は異常だった。
さっきは蛇のように見えたが鱗はなく、いくつもの節が繋がっているそこからは短い虫の脚のようなものがずらっと並んでいた。
その姿はまるで、まるで・・・
『む、むかで・・・?』
無意識に俺が口にした言葉に女の動きが止まったのが視界に映った。
『やっと気づいたんですかぁ?そうですよー、ご主人の大事な大事なムカデちゃんですよぉ?』
女はいたずらの成功した子どものような顔をすると少し赤くなった鼻を摩りながら俺を見ると、憎らしいほどの笑顔でVサインをしてきた。
俺の頭は今日、何度目か分からない機能停止に陥り、しばらく女の顔を見ていることしかできなかった。
『あれ?ご主人?また固まってる・・・しょうがないなぁ、愛のキッスで正気を取り戻してあげないと、ですね?ね?』
俺の様子に気付いた女は自分勝手に話を進めると俺の腰に手を回して体を引き寄せ一方的に口付けしようとしてくる。
あと数ミリで唇同士が触れるというところで、俺の脳みそが動き出しとっさに女を突き飛ばすことに成功した。
『きゃん!』
女はワザとらしい可愛い悲鳴を上げるとベッドに倒れこみ、少し涙目になって俺を見上げる。
誘っているのか何なのか分からないが、そのあざとさに若干イラっとする。
『お前、ほんとにあのムカデなのか?』
女の挑発を無視した俺の質問に女は少し不満顔だったが、俺の真面目な顔に空気を読んだのか体を起こすと「そうですよぉー」と気だるげに答えた。
当たり前の事だが、その言葉が信じられない俺はベッドサイドのテーブルに置いてあるケースを覗き込む。
だが、なぜかケースの蓋は外れておりいるはずのムカデが見当たらない。
『だから、私がそのムカデちゃんだって言ってるじゃないですかぁ!』
ムカデが逃げ出してしまったと思い周囲を見回す俺を尻目に、女は呆れた声でため息混じりに話しかけてきた。
『そんな話、信じられるわけないだろ!証拠だって・・・
『証拠なら・・・ほら、これ』
聞く耳持たない俺の言葉を遮って女が指差したのは自分の頭の少し上。
そこにはひょこひょこと左右に動く触角が、「一本」だけあった。
それは紛れもなく、俺が玄関前で拾って昨日まで世話していたムカデと同じ。
『いや〜、昼間に出歩いていたら野良猫に食べられそうになってしまって。何とか逃げたんですが、見ての通り傷だらけで・・・』
へらへらしながら軽口叩くくせに、体の傷はムカデの時のままだった。
そんな女を見下ろす俺の顔を、女は照れくさそうに頭を掻きながら「えへへ」と笑って見上げていた。
『お前、そんな体でどうすんだよ・・・』
自分の事をムカデと言い張るそいつの体は、俺がこの数週間世話していたムカデと同じような状態だった。
頭の触覚は1本しか見当たらず、本来なら1節に1対揃っている筈の脚も疎らにしか並んでいない。
ムカデの体の部分にもいくつもひび割れがあり、人と同じ姿の上半身も擦り傷や切り傷が痛いほど目に入った。
『そうですねぇ・・・せっかくこんな体になったんですし、第二の人生を歩んでみようかなーと。やりたいこともできましたし!』
それなのに、目の前のこいつは自分事だというのに、どこまでも明るい調子のままだった。
こんなにも体中傷だらけで、俺が拾ってなければあのまま死んでいても不思議じゃなかったはずなのに。
とうとう俺はそいつの顔を見ていることができなくなって下を向いてしまった。
俺の態度に気付かない女はあっけらかんとした声で腕組みなんてしながらおちゃらけた態度をとっている。
『傷のことだよ!!!』
ついに大声を出してしまった俺に驚いたそいつはビクッと反応したあと、きょとんとした顔で何で俺が大声を出したのかを理解していないようだった。
だが、俺の視線が体の傷を目で追っているのに気付くと、不意打ちでキスしてきた時と同じ顔をするとベッドから降りる。
『別にこのくらい・・・やだなぁ、そんな顔しないでくださいよぉ』
そう言って、まるで泣きそうな子どもあやすかのように俺をぎゅっと抱きしめてきた。
そんな顔ってどんな顔だよと問いただそうと思ったが、鼻の奥がツンとしていることに気付き黙っていることにした。
『なら、・・・これからも私を飼ってくれますか?』
そいつは俺を抱きしめたそのままの体勢で呟くと、「なーんてね」なんて言って、またへらへらくすくす笑っている。
こいつなりに俺の事を気遣って、冗談ぽくなるべく明るい調子でいるのだろうがその態度が少し癪だった。
俺が拾ってなかったらとっくに死んでたくせに、さっきから口では「ご主人」なんて言ってはいるが明らかにあちらが主導権を握っている。
『・・・飼う』
だから言ってやった。
俺はこいつの命の恩人で、飼い主で、ご主人なんだから。
『・・・へ?』
それに対して当の本人はさっきまでの俺みたいに思考停止しているようで間抜けな顔してぼけっとしていた。
『だから、お前のことを飼うって言ってるんだ!』
いつまでもアホ面しているそいつに理解させるように再度宣言する。
すると意外なことにそいつの顔が首のほうから段々と赤く染まってきた。
さっきまでは主導権を握ってすき放題に人の事をからかっていたくせに、いざ自分が責められると意外にも弱いようだ。
『え、や、やだなぁ・・・冗談に決まってるじゃないですかぁ!』
そんな変化に気付いた俺には気付かず、こいつは軽口叩いてごまかそうとしていた。
その証拠にさっきまでと違って俺と目を合わさず、視線があっちへこっちへ泳いでいる。
冷静になって観察してみると、こんな風に焦っている態度はあのムカデに似ているかもしれない。
『ほ、ほんきですか?』
俺はそれ以上無駄口は叩かず、黙ってムカデの目をじっと見つめる。
最初は俺の目を見ていたムカデだったが、「うぅっ」と唸って顔を下に向けてしまう。
じれったくなった俺はそいつをベッドに押し倒して上に覆いかぶさる。
『これでうやむやにはさせないからな』
傍から見たら明らかに異常な光景ではあるが、見ようによっては男が嫌がる女を押し倒しているようにも見えて、少しだけ後ろめたい気分になった。
だが、このまま有耶無耶に終わらせるつもりはない俺は強気に出たのだ。
『ちょ、ちょっと!乱暴ですよ!』
焦ったそいつは手で俺の胸を押して抵抗の意思を見せる。
だが、その手には俺をベッドに引きずり込んだ時のような本気の力は感じられなかった。
『お前がごまかそうとするからだろ』
追い討ちをかけるようにそいつの行動や言動の意味を指摘する。
『か、顔近いですって!わ、分かった!分かりましたよぉ!』
どうやら無意識のうちに顔を近づけていたらしい・・
キスまでとは言わないが、お互いの鼻息が当たるくらいには接近していた。
『飼われますから!は、恥ずかしいですって、もう・・・』
そいつは急に大人しくなるとさっきまで俺の胸を押していた手できゅっと服を掴むと、顔を真っ赤にして俺の宣言を受け入れた。
最後の方はかなり小声になっていて聞き取りづらかった。
『うぅ・・・やさしいくせに、けっこう強引なんですね』
降伏宣言したそいつの上から退いた俺はベッドに腰掛け、そいつには背を向けていた。
冷静になってみると、かなり恥ずかしい。
自分でもどうしてあんなに熱くなっていたのか分からないが、20代半ばだというのに年甲斐もなく大声まで出してしまった。
『あれぇ?もしかして、いまさら恥ずかしくなっちゃいましたぁ?』
そんな俺の態度を目敏く察したそいつは俺の肩に手を置くとワザとらしく言葉に抑揚をつけて痛いところをついてくる。
ったく、さっきまでのしおらしい態度の時は不覚にもかわいいなんて思ってしまった自分の浅はかさが憎い・・・
『そりゃそうですよねぇ・・・か弱い女性をベッドに押し倒して、「俺のペットになれ!」なんて!』
俺のマネをしているつもりなのか、そいつは仰々しく芝居がかった口調で俺の言った言葉を繰り返す。
しかし、そのセリフは脚色がかかっており明らかに悪意を持って捏造されたものだった。
『そ、そこまで言ってないだろ!』
黙って聞いていたらとんでもない事を口走るそいつに反論するが、その時に俺が考えていたのはほとんどその通りなのであまり強くは言えなかった。
『いいえ、言いました!・・・言ったんですよ』
そいつにしては珍しい強い口調で俺の反論を否定したのが以外で、後ろを振り向くと、そいつはすごくうれしそうな顔で人が膝を抱えるみたいに自分の体を引き寄せていた。
・・・なんだよ、そのうれしそうな顔。
ムキになってたこっちが馬鹿みたいじゃないか。
『じゃあ、これからもお世話に、なります?』
俺が見ていることに気付いたそいつは俺の方を向くとにこりと笑い、俺に対して頭を下げてくる。
『ん、こっちこそ』
まさかそんな殊勝な態度を取られると思っていなかった俺の方が恐縮してしまい、ぶっきら棒な返答をしてしまった。
そんな俺の素直じゃない態度に気付いてかどうかは分からないが、そいつは脚の欠けた体で少しだけぎこちない動きでソロソロと俺に近づく。
そのまま長い体を巻き尽かさせて俺の頭を胸に抱くとベッドに横になり、またゆったりと寝息を立て始めた。
ったく、俺は抱き枕じゃないっての。
でも、少しだけ上を向くと幸せそうな寝顔とご機嫌な触覚が目に入って俺の顔もふにゃっとふやけてしまう様だった。
季節はもう冬。
外は寒い風が吹いているようだ。
そんな外の世界とはガラス一枚で隔てられた部屋の中が温かいのは、さっきから平常運転しているエアコンのおかげだけではないと思う。
起きたらこいつに聞かなきゃいけないことと明日からの生活を頭の中で整理しながら、もう少しだけ休日のこのだらけた時間に浸ろうと目を瞑った。
今ではすっかり慣れた満員電車で自宅の最寄り駅まで帰り、駅前の弁当屋で夕飯を買う。
夜空を見上げると田舎とは違い、ほとんど星の光を見ることはできない。
初めて見た時はあまりにも黒々しい空に言葉を失ったのを今でも覚えている。
マンションに着くと、ロビーのオートロックを解除してエレベーターに乗り込み、4階と記された丸いボタンを押す。
上の階に向かう独特の浮遊感を感じるが、あっという間に目的の階に到着し自動ドアが開いた。
さっさとエレベーターから降り、自宅である一室に向かおうとした瞬間、何やら見慣れぬものが視界に入りその足が止まった。
『・・・ん?何だ、あれ?』
目を凝らしてみると、各部屋の玄関が並ぶ通路に何やら黒いモノが見える。
『あそこ・・・うちの玄関前だよな。朝、出た時は何も落ちてなかったし、風でゴミでも飛んできたのか?』
「う〜ん」とうなりながら十数時間前の記憶を遡って思い出すが、やはりそれらしいものは見かけなかったと思う。
それに、季節はそろそろ冬に移ろうとしているのか、最近は朝晩もすっかり冷えるようになった。
そんな寒空の下、いつまでも突っ立っているわけにもいかず「ま、いいか」と気にせず歩み始める。
そして、玄関前まで来てようやくそれが何なのか俺は理解した。
『これ、ムカデ・・・か』
それは、大きさにして10cm以上はありそうな「ムカデ」だった。
女や子どもなら「わーきゃー」言って騒ぐのだろうが、田舎出身の俺はムカデくらいで驚くことはなく、むしろその姿に懐かしさを感じていた。
『田舎に居たころはたまに見かけたけど、東京にもいるんだな』
そんなことを呟きながらもっと近くで見てみようとしゃがんで覗き込んだところで、俺は「あ・・・」と小さな声を上げた。
『こいつ、傷だらけじゃんか』
考えれば分かることだった。
普通であれば人間が近づいたら逃げるのが当たり前なのに、こいつは逃げるどころか微動だにしなかった。
こいつからしたら、動こうにも動けないのだろう。
本来なら一対2本あるはずの触覚は片方しかなく、嫌悪の対象になるはずの多数の脚もいくつか欠けていた。
ほかの動物にやられたのかどうかは分からないが、そうやって見ていても動く気配はなかった。
死んでいるのかと思い、部屋の鍵で突いてみるとかなり鈍くではあるが動いた。
『お、生きてる』
俺はそれだけ確認するとすっと立ち上がり、今しがたムカデを突いた鍵で玄関の鍵を開ける。
弱肉強食は自然界の法則。
こうやってムカデが死に掛けているのも、ただ単にもっと強い生き物がいたからなだけだ。
このままここで死んでも、いずれ蟻の餌になるだろう。
犬猫じゃあるまいし、ダンボールに詰め込まれて人間の身勝手で捨てられたわけじゃないのならと思い、無視して部屋に入る。
しかし、数分後には閉じたはずの玄関を開け、俺はインスタントラーメンの空容器を手に持ちつつムカデに話しかけた。
『どうせ死ぬなら、最期は温かい部屋の中がいいよな』
弱っているとは言え、さすがに素手で掴む気にはなれず、割り箸で挟んで容器に入れる。
容器の深さ的にムカデが這い出すこともできそうだったのでラップを貼り付けてフタをし、爪楊枝で小さな穴を無数に開けて空気の通り道を作った。
それをリビングのテーブルに置くとさっさと夕飯を済ませてシャワーを浴びる。
シャワーで汗を流しながら、一人暮らしでよかったなと実感する。
普通の人間ならムカデなんて生き物を拾って保護しようなんて考えないだろうし、そもそも家の中に入れるなんて以ての外だろう。
風呂から上がり、寝巻きにしているスウェットに着替えながら容器を覗くと、その中でムカデは丸まってじっとしていた。
「朝には死んでるだろうし、穴掘って埋めなきゃな」と、そんなことを考えながら明日は仕事も休みだというのに暗い気持ちのままベッドに横になった。
しかし、そんな俺の予想に反して次の日もムカデは生きていた。
容器を軽く突くと、その振動を感じたムカデは1本だけになった触覚を動かし周囲の様子を探っているようだった。
『さすがにこのままってわけにもいかないか・・・』
死ぬまでラーメンの空容器に入れっぱなしなのも後ろめたく感じ、多少はこいつの環境を整えてやろうと思った。
かといって、今までムカデを飼ったこともムカデを飼った経験のある人間に出会ったこともない。
つまり何が言いたいかというと、ムカデにとって何が良くて駄目なのか検討もつかないということだ。
しかし、世の中には今まで出会ったこともない変な人間で溢れている。
ムカデをペットとして飼育している輩もいるはずなのだ。
なら話は早い、ネットでいくらでも情報を集められる。
そう思った俺は早速、ノートパソコンを起動して「ムカデ 飼育」で検索をかけるとすぐさま20万件のページがヒットした。
まさか、これほどまでとは思っておらず、世の中には俺の想像以上に変人が溢れかえっていることへの驚きと、自分もその中の一人になることに対して溜息が出る。
少しの後悔を感じつつムカデに視線を向けると、当のムカデはそんな人間の気持ちを知るはずもなく、ただじっとしたままだった。
その後、夕方までかけて必要なものを買い揃えた俺は家に戻るとムカデの引越し作業を開始した。
引越しとは言っても、そんなに大層なことはなく買ってきたプラスチック製の飼育ケースに移すだけ。
ムカデは抵抗する様子もなく・・・いや、単に弱っているだけなのかもしれないが、とにかくすんなりと割り箸に捕まる。
先駆者達の助言通りの環境が気に入るかは分からないが、少なくとも今までいたラーメンの空容器よりはマシだろう。
水飲み用にはペットボトルの蓋を活用し、餌にはお湯で塩抜きしたビーフジャーキーの切れ端を用意した。
本来は生餌がいいらしいのだが、さすがに気が引けてしまい色々調べたところ動物性のたんぱく質なら代用できるらしいことを知った。
『いつまで生きるかは分からないけど、今日使った金額の分くらいは生きてくれよ』
そんなことを言いながらケース越しにムカデを見つめると、そいつと目があった気がした。
そして、俺と1匹のムカデの生活が始まったのだった。
結論から言って、俺はこのムカデとの生活を結構気にいっていた。
最初は瀕死に見えたムカデだったが、2〜3日もするとケースの中をノロノロとではあるが動き回るようになり、1週間もするころには餌を食べるようになった。
餌として与えたビーフジャーキーを食べたことに声を出して喜び、またある時はちょっかいを出そうとした指を噛まれかけて悲鳴を上げた。
生き物の生命力の強さに驚きつつ、自分の行動が無駄にならなかったことに少しだけ嬉しくなった。
『何が「弱肉強食」だよ、でも・・・』
その夜も餌を抱え込むようにして食べているムカデを眺めながらベッドに横になる。
ムカデの体の傷は相変わらずだったが、少なくとも体力は回復したようだった。
そのままぼーっとしていると枕元で携帯が振動し始める。
携帯を手にとって画面を確認すると、会社の上司からの着信だった。
俺はベッドの上で上体だけを起こし通話ボタンを押して着信に応える。
上司からの用件は前に休日出勤した分の振休を明日取ってはどうかという提案だった。
手帳を確認すると、確かに明日は会議も打ち合わせも入っておらず、抱えている業務で急ぎのものもなかった。
自分はこんな時間まで残業しつつ、部下に振休の提案をしてくれる上司に感謝しつつ、お言葉に甘えてそうさせてもらう事にした。
予期せず休みになったことに一気に気が抜け、意識が遠のいていく。
つけっ放しになっているテレビの情報番組では、今日は満月だとか何とか言っているが知ったことではなかった。
いつもであれば携帯のアラームで起こされ、眠い目を擦りながら会社に行くはずの時間だが今日は違った。
前の日の夜に上司から電話を受け、休日出勤の振休をもらった俺は昼過ぎまでは寝ている。
・・・はずだった。
『ん、うぅぅ・・・』
おかしい、体が異常に重い。
いや、正確には俺の体の上に何かが乗っかっている。
さっきまで寝ていた頭もだんだん覚醒してきて、この事態をどうにかしようとまずは薄目を開けて状況を確認する。
『ん〜、むにゃらむにゃら・・・』
そこには「女」がいた。
しかも、かなりの美女。そして全裸。
実際には首を起こして見ただけで上半身しか見えなかったが、少なくとも上は裸だった。
俺には彼女はいない・・・もちろん、嫁もいない。
だから俺の部屋に女がいるはずがない。
でも、いる。
俺の胸を枕にして気持ち良さそうに眠る美女。
朝起きると知らない女が一緒のベッドで寝ているという状況はまるで海外映画のワンシーンだが、我が身に降りかかると全く興奮しないことを俺は初めて知った。
見とれるほどの整った顔立ちの女と、なぜか冷たい俺の胸元。
後者の違和感にもう一度首を起こして女を見やると、女は口からよだれを盛大に垂らし、俺の胸元をびちゃびちゃに濡らしていた。
き、きたねぇ・・・
興奮する以前にふつふつと怒りが込み上げてきた俺は、気持ち良さそうに寝ている女をベッドから蹴り落とす。
「うぎゃ」っと変な声を出してベッドから転げ落ちた女に「誰だお前!どこから入った!警察呼ぶぞ!」と問いただそうと、ベッドから飛び降りた瞬間に俺は言葉を失う。
おかしい、なんだこいつ!?
首だけ起こした時は見えなかったこいつの体・・・
下半身を見た瞬間に俺は呼吸することを忘れてしまった。
そこにあったのは人間なら当たり前の二本足ではなく、蛇のように長い胴体だった。
『おま、なっ・・・』
言いたい事、聞きたい事を言葉にできず呼吸もまともにできずにいる俺を尻目に、女は蹴られた箇所を手で摩りながら起き上がると俺に近づく。
明らかに人ではない、まるで作り話の中に出てくる人喰いの怪物のような姿をしたそいつから目を離すことができない。
その間に頭に浮かんだのは考えたくもない未来。
そしてついに女は俺の目の前までくると、不満そうな顔で俺を睨みつけながら一言こう言った。
『もぉ、ひどいですよぉ・・・』
『・・・・・・・・え』
こいつ、今、何て言った?
状況についていく事ができずフリーズしたままの俺を他所に、女はぶつぶつと不満を口にしながらノロノロとした動きで俺の横を通り過ぎるとベッドに横になる。
『お、おい!ちょっと待て!俺の話を聞けよ!』
そこまできてようやく言葉が出てきた俺だったが、女は布団を頭までかぶると布団の中でもぞもぞとしている。
どうしたらいいか分からず頭を抱えていると、ばっと布団がめくられて女と目が合った。
その瞬間、女はにんまりと笑うと目にも留まらぬ速さで俺の腕を掴むとベッドに引きずり込む。
抵抗する間もなく引きずり込まれた布団の中の暗闇で、喰われるかも知れない恐怖を感じて体が縮こまってしまう。
対面に向き合った体勢で紫色の瞳と目が合い息が止まる。
そんな俺を気遣う素振りもなく女の手が動き、俺の背中側に回るとぐっと自分に引き寄せようとする。
ああ、大して面白みもない人生だったがこんな最期を迎えるのかと諦めた俺だったが、ある事を思い出してそいつの動きに抵抗する。
『ま、待ってくれ!ちょ、ちょっと俺の話を聞いてくれ!』
そう言いながら女の肩を手で押して何とか距離を保とうとする俺に女の動きが止まった。
『お、俺を喰う前に少しだけ時間をくれないか・・・?』
そう言った俺に女の体がぴくりと反応する。
さっきもそうだったが、こいつは人間の言葉を理解して話すことができる。
それなら望みはある!
『ケースの中に、ム・・・ムカデが、いるんだ。そいつを逃がしてやりたい・・・』
女は無理やり俺を引き寄せるようなことはせず、黙って話を聞いてくれているようだった。
『そいつは、傷だらけですごく弱ってて・・・やっと元気になってきたんだ。。。でも、俺が死んだらケースの中で飢え死にしちまう!・・・だから!!!』
だから何とかそいつだけでも外に出してやらないと、せっかく助けた命なんだ!
『ふ〜ん・・・』
そこまで聞いた女は興味があるのかないのか分からない適当な相槌のあと、厭らしい声で囁くように聞いてきた。
『そんなに大事なんですかぁ?ムカデなんて、気持ち悪くて誰からも嫌われてるのに?』
確かに、インパクトのありすぎる外見や人にも害をなす凶暴性からムカデは嫌われている。
でも、一つの命には変わりないし、何より飼えば愛着も沸いてくる。
『頼む・・・俺にとっては大事なやつなんだ。。。』
俺は女の目を正面から見て頼み込む。
体の震えはいつの間にか止まっていた。
『なら、目を閉じてジッとしててね?そうしたら、あなたの頼みを聞いてあげる』
俺の頼みに女は目を細めると、そう言って冷たい笑顔を向けてくる。
『・・・分かった』
女の言葉を信じるしかない俺は目を閉じる。
次の瞬間に起きる事態を想像すると心臓がうるさい位に音を立てていた。
「・・・・・ちゅう」
そして、何かが俺の口に触れる。
何かよく分からない状況に俺は恐る恐る目を開けると、睫があたるくらいの距離に女の綺麗な顔があった。
『!?!??!?!?!?』
俺と目が合った女はさっきの冷たい笑顔とは違う、何というか不覚にも見とれてしまうような笑顔をしてゆっくり離れていった。
状況が掴めない俺は放心状態のまま離れていく女の顔を見つめていることしかできない。
『ふっ、ふふふ、あはははは!』
すると突然、女が声を出して笑い始めた。
さらに中断していた行為を再開し、俺を一気に引き寄せると自分の体に抱き寄せ顔を俺の頭にこすり付けている。
予想の斜め上どころか、予期せぬ行動に抵抗することも忘れてされるがままの俺を他所に、女は異常に上機嫌だった。
『んもぉ、本当にかわいいなぁ!ご主人ったら、そんなにわたしの事を大事に思ってくれていたんですねぇ!』
そう言う女は俺の頭に顔を寄せてちゅっちゅ、ちゅっちゅとキスをしながら「ご主人、ご主人」とまるで人間が甘えるような声を出している。
キス・・・?
『え、ちょま、ちょっと・・・お、おい!おま、ちょ、待っ!・・・待ってって言ってんだろ!!!』
もうパニックを超え、むしろ恐怖とかそんなことも感じなくなってしまった俺は、全く話を聞かずにすき放題してくれる女の顔面に頭突きをかます。
『いだぁぁぁーーー!!!』
頭突きを食らった女は俺を抱きしめている手を離し、鼻を押さえながら布団の中でゴロゴロとのたうちまわっている。
女の魔の手から逃れた俺は布団からすばやく脱出すると、掛け布団を一気に剥ぎ取り部屋の隅に放り投げる。
未だに痛みに苦しんでいる女を他所に、ようやく俺はそいつの姿を確認することができた。
手首から肩、肩から臍の辺りまで模様のようなものがあるが上半身は普通の人間と遜色ない姿。
しかし、下半身は異常だった。
さっきは蛇のように見えたが鱗はなく、いくつもの節が繋がっているそこからは短い虫の脚のようなものがずらっと並んでいた。
その姿はまるで、まるで・・・
『む、むかで・・・?』
無意識に俺が口にした言葉に女の動きが止まったのが視界に映った。
『やっと気づいたんですかぁ?そうですよー、ご主人の大事な大事なムカデちゃんですよぉ?』
女はいたずらの成功した子どものような顔をすると少し赤くなった鼻を摩りながら俺を見ると、憎らしいほどの笑顔でVサインをしてきた。
俺の頭は今日、何度目か分からない機能停止に陥り、しばらく女の顔を見ていることしかできなかった。
『あれ?ご主人?また固まってる・・・しょうがないなぁ、愛のキッスで正気を取り戻してあげないと、ですね?ね?』
俺の様子に気付いた女は自分勝手に話を進めると俺の腰に手を回して体を引き寄せ一方的に口付けしようとしてくる。
あと数ミリで唇同士が触れるというところで、俺の脳みそが動き出しとっさに女を突き飛ばすことに成功した。
『きゃん!』
女はワザとらしい可愛い悲鳴を上げるとベッドに倒れこみ、少し涙目になって俺を見上げる。
誘っているのか何なのか分からないが、そのあざとさに若干イラっとする。
『お前、ほんとにあのムカデなのか?』
女の挑発を無視した俺の質問に女は少し不満顔だったが、俺の真面目な顔に空気を読んだのか体を起こすと「そうですよぉー」と気だるげに答えた。
当たり前の事だが、その言葉が信じられない俺はベッドサイドのテーブルに置いてあるケースを覗き込む。
だが、なぜかケースの蓋は外れておりいるはずのムカデが見当たらない。
『だから、私がそのムカデちゃんだって言ってるじゃないですかぁ!』
ムカデが逃げ出してしまったと思い周囲を見回す俺を尻目に、女は呆れた声でため息混じりに話しかけてきた。
『そんな話、信じられるわけないだろ!証拠だって・・・
『証拠なら・・・ほら、これ』
聞く耳持たない俺の言葉を遮って女が指差したのは自分の頭の少し上。
そこにはひょこひょこと左右に動く触角が、「一本」だけあった。
それは紛れもなく、俺が玄関前で拾って昨日まで世話していたムカデと同じ。
『いや〜、昼間に出歩いていたら野良猫に食べられそうになってしまって。何とか逃げたんですが、見ての通り傷だらけで・・・』
へらへらしながら軽口叩くくせに、体の傷はムカデの時のままだった。
そんな女を見下ろす俺の顔を、女は照れくさそうに頭を掻きながら「えへへ」と笑って見上げていた。
『お前、そんな体でどうすんだよ・・・』
自分の事をムカデと言い張るそいつの体は、俺がこの数週間世話していたムカデと同じような状態だった。
頭の触覚は1本しか見当たらず、本来なら1節に1対揃っている筈の脚も疎らにしか並んでいない。
ムカデの体の部分にもいくつもひび割れがあり、人と同じ姿の上半身も擦り傷や切り傷が痛いほど目に入った。
『そうですねぇ・・・せっかくこんな体になったんですし、第二の人生を歩んでみようかなーと。やりたいこともできましたし!』
それなのに、目の前のこいつは自分事だというのに、どこまでも明るい調子のままだった。
こんなにも体中傷だらけで、俺が拾ってなければあのまま死んでいても不思議じゃなかったはずなのに。
とうとう俺はそいつの顔を見ていることができなくなって下を向いてしまった。
俺の態度に気付かない女はあっけらかんとした声で腕組みなんてしながらおちゃらけた態度をとっている。
『傷のことだよ!!!』
ついに大声を出してしまった俺に驚いたそいつはビクッと反応したあと、きょとんとした顔で何で俺が大声を出したのかを理解していないようだった。
だが、俺の視線が体の傷を目で追っているのに気付くと、不意打ちでキスしてきた時と同じ顔をするとベッドから降りる。
『別にこのくらい・・・やだなぁ、そんな顔しないでくださいよぉ』
そう言って、まるで泣きそうな子どもあやすかのように俺をぎゅっと抱きしめてきた。
そんな顔ってどんな顔だよと問いただそうと思ったが、鼻の奥がツンとしていることに気付き黙っていることにした。
『なら、・・・これからも私を飼ってくれますか?』
そいつは俺を抱きしめたそのままの体勢で呟くと、「なーんてね」なんて言って、またへらへらくすくす笑っている。
こいつなりに俺の事を気遣って、冗談ぽくなるべく明るい調子でいるのだろうがその態度が少し癪だった。
俺が拾ってなかったらとっくに死んでたくせに、さっきから口では「ご主人」なんて言ってはいるが明らかにあちらが主導権を握っている。
『・・・飼う』
だから言ってやった。
俺はこいつの命の恩人で、飼い主で、ご主人なんだから。
『・・・へ?』
それに対して当の本人はさっきまでの俺みたいに思考停止しているようで間抜けな顔してぼけっとしていた。
『だから、お前のことを飼うって言ってるんだ!』
いつまでもアホ面しているそいつに理解させるように再度宣言する。
すると意外なことにそいつの顔が首のほうから段々と赤く染まってきた。
さっきまでは主導権を握ってすき放題に人の事をからかっていたくせに、いざ自分が責められると意外にも弱いようだ。
『え、や、やだなぁ・・・冗談に決まってるじゃないですかぁ!』
そんな変化に気付いた俺には気付かず、こいつは軽口叩いてごまかそうとしていた。
その証拠にさっきまでと違って俺と目を合わさず、視線があっちへこっちへ泳いでいる。
冷静になって観察してみると、こんな風に焦っている態度はあのムカデに似ているかもしれない。
『ほ、ほんきですか?』
俺はそれ以上無駄口は叩かず、黙ってムカデの目をじっと見つめる。
最初は俺の目を見ていたムカデだったが、「うぅっ」と唸って顔を下に向けてしまう。
じれったくなった俺はそいつをベッドに押し倒して上に覆いかぶさる。
『これでうやむやにはさせないからな』
傍から見たら明らかに異常な光景ではあるが、見ようによっては男が嫌がる女を押し倒しているようにも見えて、少しだけ後ろめたい気分になった。
だが、このまま有耶無耶に終わらせるつもりはない俺は強気に出たのだ。
『ちょ、ちょっと!乱暴ですよ!』
焦ったそいつは手で俺の胸を押して抵抗の意思を見せる。
だが、その手には俺をベッドに引きずり込んだ時のような本気の力は感じられなかった。
『お前がごまかそうとするからだろ』
追い討ちをかけるようにそいつの行動や言動の意味を指摘する。
『か、顔近いですって!わ、分かった!分かりましたよぉ!』
どうやら無意識のうちに顔を近づけていたらしい・・
キスまでとは言わないが、お互いの鼻息が当たるくらいには接近していた。
『飼われますから!は、恥ずかしいですって、もう・・・』
そいつは急に大人しくなるとさっきまで俺の胸を押していた手できゅっと服を掴むと、顔を真っ赤にして俺の宣言を受け入れた。
最後の方はかなり小声になっていて聞き取りづらかった。
『うぅ・・・やさしいくせに、けっこう強引なんですね』
降伏宣言したそいつの上から退いた俺はベッドに腰掛け、そいつには背を向けていた。
冷静になってみると、かなり恥ずかしい。
自分でもどうしてあんなに熱くなっていたのか分からないが、20代半ばだというのに年甲斐もなく大声まで出してしまった。
『あれぇ?もしかして、いまさら恥ずかしくなっちゃいましたぁ?』
そんな俺の態度を目敏く察したそいつは俺の肩に手を置くとワザとらしく言葉に抑揚をつけて痛いところをついてくる。
ったく、さっきまでのしおらしい態度の時は不覚にもかわいいなんて思ってしまった自分の浅はかさが憎い・・・
『そりゃそうですよねぇ・・・か弱い女性をベッドに押し倒して、「俺のペットになれ!」なんて!』
俺のマネをしているつもりなのか、そいつは仰々しく芝居がかった口調で俺の言った言葉を繰り返す。
しかし、そのセリフは脚色がかかっており明らかに悪意を持って捏造されたものだった。
『そ、そこまで言ってないだろ!』
黙って聞いていたらとんでもない事を口走るそいつに反論するが、その時に俺が考えていたのはほとんどその通りなのであまり強くは言えなかった。
『いいえ、言いました!・・・言ったんですよ』
そいつにしては珍しい強い口調で俺の反論を否定したのが以外で、後ろを振り向くと、そいつはすごくうれしそうな顔で人が膝を抱えるみたいに自分の体を引き寄せていた。
・・・なんだよ、そのうれしそうな顔。
ムキになってたこっちが馬鹿みたいじゃないか。
『じゃあ、これからもお世話に、なります?』
俺が見ていることに気付いたそいつは俺の方を向くとにこりと笑い、俺に対して頭を下げてくる。
『ん、こっちこそ』
まさかそんな殊勝な態度を取られると思っていなかった俺の方が恐縮してしまい、ぶっきら棒な返答をしてしまった。
そんな俺の素直じゃない態度に気付いてかどうかは分からないが、そいつは脚の欠けた体で少しだけぎこちない動きでソロソロと俺に近づく。
そのまま長い体を巻き尽かさせて俺の頭を胸に抱くとベッドに横になり、またゆったりと寝息を立て始めた。
ったく、俺は抱き枕じゃないっての。
でも、少しだけ上を向くと幸せそうな寝顔とご機嫌な触覚が目に入って俺の顔もふにゃっとふやけてしまう様だった。
季節はもう冬。
外は寒い風が吹いているようだ。
そんな外の世界とはガラス一枚で隔てられた部屋の中が温かいのは、さっきから平常運転しているエアコンのおかげだけではないと思う。
起きたらこいつに聞かなきゃいけないことと明日からの生活を頭の中で整理しながら、もう少しだけ休日のこのだらけた時間に浸ろうと目を瞑った。
14/11/19 16:44更新 / みな犬