【外伝】その石の名は
薄暗い山の中。
陽の差し込まない中で、男は足を止め額の汗を拭う。
『ふぅ、だいぶ奥まで来たな・・・』
旅の商人である男は次の目的地である街を目指して、途中にある山を突っ切ろうと道なき道を歩いていた。
普段なら大きな街道を行くのだが、前の街での商売が長引き、当初の予定よりもだいぶ遅れていたからだ。
その遅れを取り戻すべく、無茶をした結果・・・
『これは、完全に迷っちまったな・・・』
そんな時、男は前の街で耳にしたとある話を思い出す。
「この山には昔、人喰いの百足が住んでいたらしい」
何でも、近くにあった村の娘を喰い、嘆き悲しむ村にたまたま通りかかった行者によって退治されたとか。
無事に退治されたのならばと安心して山に入ったは良いが、遭難しては意味がないのは明らかだった。
途方に暮れている内に陽はどんどん傾き、あっという間に暗くなってきた。
しかも、季節は冬。
この地方は何年かに一度、大雪が降るらしく、間隔的に言うと今年が正にそれだった。
山というのは夜になると非常に冷え込む。例え真夏であったとしても、夜には霜が降りるほどだ。
男はここに来て、自分が生命の危機に立たされているという現実を目の当たりにする。
何か暖を取るものは無いかと売り物の品を見るが、生憎と火を起こす事の出来る物は持ち合わせていなかった。
だからと言って簡単に生きることを放棄するわけも無く、一先ず体力を温存すべく手持ちの干し肉を口に入れつつ体を休める。
時間は無常にも過ぎていき、太陽は完全に沈み夜になった。
それに従い、気温はどんどん下がり吐く息も白くなる。
遭難した場合の最善策は無闇矢鱈と歩き回るのではなく、体力を使わないようにじっと待つこと。
だが、それは自分を探している者がいる場合に限る。
当然ながら、旅の商人である男がこの場所で遭難しているなど誰も知らない。
つまり、ここでじっとしていたところで助けは来ないのだ。
追い討ちを掛けるようだが、この山は街道から外れているため殆ど人も近寄らず、故に運よく人に出会う可能性も絶望的。
岩肌の覗く地に腰を下ろし、膝を抱えるような体勢で体を丸める。
『自分の責任とは言え・・・』
このまま寒さに震え、出口も分からぬまま彷徨い続け、いずれ食料も水も無くなり・・・
『せめて、今が春や秋であればな・・・』
悔やんだところで状況は変わらず、夜の寒さで体が震える。
山に入ってから夕方まで、ほぼ一日歩き続けた肉体は疲労を溜め込み食べ物と水、それに温かい寝床を求めている。
暗闇に慣れた目で辺りを見回すと周りは羊歯植物が生い茂り、水の流れる気配は感じられない。
しかし、手持ちの水は残り僅か。
明日の朝になれば出口を探して歩かなくてはいけない以上、早く寝て少しでも体力を回復しようと寒さを堪え目を閉じた。
しかし、現実は時に冷酷である。
男はあれから三日間、山の中をさ迷い歩いた。
空を覆う程の山の中では方向感覚は期待できず、手持ちの少ない水と食料はすぐに底をついた。
それでも諦めずに山の中を進んだが、より深く迷い込んだだけだった。
だが、自分を探している人間が居ない以上、自分の力だけで山を抜けなくてはならず、足を止める訳にはいかなかった。
風がざわざわと木々を揺らす。
男は上を見上げ、星の浮かぶ空を見ていた。
しかし、すぐにその目は閉じられ横たわる体から力が抜けていく。
「死ぬ前に、誰かに心から喜んでもらえるような商いがしたかった」
心に浮かんだ願い。
親を亡くした男を育ててくれた親代わりの商人が、口癖のように言っていた言葉。
「この仕事は、人に感謝されて初めて一人前」
商品を売る時に、客から「ありがとう」とか「どうも」と礼を言われることはある。
しかしそれは形式的なものであり、本当に心から感謝される事は殆どない。
育ての親であった商人も五十年以上商いを続けて、それでも片手で数えられるほどしかなかったと言っていた。
だが、その時の事は何十年経っても忘れる事が出来ず、その話をする時はとても誇らしげな顔をしていた。
成人した男は育ての親の元を離れ、旅の商人となった。
「次に会うのは自分も一人前の商人になった時」
そう胸に誓い、旅に出た。
『おやっさん、すまねぇ・・・』
意識は遠のき、目蓋が落ちる。
深い深い闇の中に飲まれながら男は、最期を迎えた。
暖かい・・・
どれだけそれを求めた事だろうか。
旅をしている時は拠点とする街の宿を使っていたため、寒さに震えることなど殆ど無かった。
一人前になれなかった俺でも、仏様は引き上げてくれたんだなと思うと自然と笑みが出た。
『お母様!この方、笑っています!』
『あらまぁ、きっと良い夢を見ているのですね。もう少し寝かせてあげなさい』
しかし、あの世で死んだ両親に挨拶にでも行こうと考えていた俺の耳に入ったのは、初めて耳にする二つの声。
一つは幼い子ども。声の感じから言って女の子。
声から天真爛漫という印象が伝わり、「この方」と言うのは笑みを浮かべた俺の事を指しているのだろう。
そして、もう一つの声。
少女から「お母様」と言われているからには母親なのであろう。
少女に語り掛ける声からは優しさや愛情、慈しみなど全てを包み込むような包容力を感じた。
しかし、遭難して死に掛けている人間を捕まえて「良い夢を見ている」と言う辺り、いささか緊張感が無いように感じる。
『ぅ・・・ここは・・・』
俺は何とか声の主を確かめるべく目を開く。
『あ、お母様!今度は目を開きました!』
『あらあら、起こしてしまいましたね』
二人の人物は目を開けた俺の顔を覗きこんでくる。
しかし焚き火の火が逆行となり、寝転ぶ俺を覗き込んだその顔は良く見えなかった。
『あ、あんた達は・・・?』
しばらく水も飲んでいない俺の口はからからに渇いており、声を出すのも辛い。
『私達はこの山に住む百足の親子。貴方こそ、どうしてこのような所に?』
百足の親子?
その言葉に俺は訳が分からず、その後に続いた質問に答えることが出来ない。
それを確かめるべく力の入らない体に鞭打って上体を起こす。
『ま、魔物・・・!』
俺の目の前に居たのは、二匹の百足の魔物だった。
これが噂に聞いた人喰い百足!
し、しかし行者に退治されたはずではなかったのか!?
そんな疑問が頭に浮かんだが、それどころではない。
相手は人喰いの魔物。
恐らく先ほどの「もう少し寝かせて」というのも、寝ている間に俺を喰い殺す気だったのだろう。
俺は売り物から武器になる刃物を取り出すべく辺りを見回したが、肝心の荷物が見当たらない。
『貴方の持っていらっしゃった荷物はあちらに・・・』
俺の様子から荷物を探していると察した母親の方が洞窟の入り口を指差す。
どうやらここは百足が住処としている洞窟のようだった。
荷物を取りに行こうにも間には二匹の百足。
その二匹をどうにかして荷物を取りに行くのは不可能。
俺は目の前の母親を睨み、どうしたものかと思案する。
『・・・私達は、人は喰いません』
しかし、百足の口から聞こえたのは全く予想もしていない事だった。
『う、嘘を付くな!前の街で聞いたのだ!この山には以前、人喰いの百足がいて、近くの村の娘を喰ったと!』
「行者に退治された」という部分は誤りだったようだが・・・
百足の言葉に反論する俺を見て、母親は顔を伏せる。子どもの方はおろおろと母親と俺の顔を交互に見ていた。
『ぐっ・・・』
そんな時、俺の腹に痛みが走り起こしていた体が倒れる。
『お、おじさん大丈夫!?』
そんな俺を心配してか子どもの百足が俺に近寄る。
しかし・・・おじさん、か・・・
まだ二十を少し過ぎただけなんだが、商人なんて仕事しているからか実際の年齢より上に見られる事が多々あった。
だが、やはり面と向かってそう言われるといささか心が痛む。
『く、来るんじゃ、ねぇ・・・!』
近付く百足を威嚇するように睨み付けるが、そんなもので怯むわけが無い。
そもそも人と魔物ではその力は圧倒的な差がある。
相手は子どもの百足とは言え、俺はここ三日間、山の中をさ迷い歩いてまともな食事も摂っていない体だ。
近付き、俺に手を伸ばす百足。
俺にそれを止める力も逃げる体力も無く、今度こそ終わりだと目を堅く瞑る。
『止めなさい、椛。その方に触れてはなりません』
しかし、それを止めたのは母親の百足だった。
『旅のお方、貴方がこの山で何をしていたのかは聞きません。ですが、死にたいわけでないのならどうか、私達を信じてください』
目を開けると凛とした顔で俺を見る百足と目が合った。
『・・・俺は、旅の商人だ。次の街まで近道しようと思い、この山に入った』
商人の勘だが、目の前の百足から悪意を感じなかった俺はそう答える、
百足はその言葉に「そうでしたか」と言うと、俺の荷物を取り、俺のところに持ってくる。
『では、これは貴方にとって大切な品なのですね』
荷物を俺に手渡すと、百足は再び俺から離れる。
子どもの方も俺から離れると母親の隣に行き、俺の顔色を伺ってくる。
『・・・疑ったりして、すまなかった』
その視線に罪悪感を感じ、俺は頭を下げる。
考えてもみれば、俺を喰う気であれば俺が目を覚ます前に、それこそ行き倒れている間にそうしているだろう。
『いえ、人間から見れば私達は人喰いの魔物です。貴方が謝る必要はございません』
百足は頭を下げる俺を気遣ったのか、自分達の事を「人喰いの魔物」と言った。
『いや、話に聞いたことがある・・・この国の魔物が、ある時を境に人を襲わなくなったと』
それは旅をしている最中に耳にした噂だった。
数年前、この国に住む全ての魔物が皆、姿を変え人を喰わなくなったと。
ただの噂だと思っていた。
しかし、どうやらそれは本当の事だったらしい。
『仰る通りです。今から十年近く前の事になります。・・・この子は、この姿になってから出来た娘です』
そう言うと、百足は横に居る子どもの頭を撫でると愛おしそうに見つめる。
まるで人間の親子だなと俺は思った。
『番は・・・旦那の方はどこにいるのだ?見当たらないようだが・・・』
俺は辺りを見回すが、この洞窟には目の前の二匹の百足しか居ないようだ。
『夫は・・・おりません。この子は私が一人で育てています』
その答えに言葉が出ない。
夫はいないと言った百足だが、その様子から察するに「死んだ」というのが正解だろう。
『・・・余計な事を聞いてしまった』
そう答えた俺に、百足は「いいえ」と言うと俺に何か手渡してきた。
『・・・これは?』
手に渡されたのは湯飲み。
中身は透明の液体・・・水だろうか?
『ただの水です。信用できないのでしたら、私が飲んで・・・』
百足の言葉が言い切る前に、俺はそれを全て飲み干す。
大方、「毒が入ってないことを先に飲んで証明する」とでも言うつもりだったのだろう。
『少なくとも、あんたとそこの、「ちび」の事なら信用するさ。俺の命の恩人だからな』
そう言った俺の顔を見ると、「ありがとうございます」と百足は頭を下げた。
むしろ、礼を言うのは助けてもらった俺の方だと言うのに。
『おじさん!私は「ちび」じゃないよ!「もみじ」って名前があるんだから!』
敵意が無い事を信じてもらえた事が分かった子どもの百足は俺に近付くと、触覚を動かしながら胸を張ってそう答える。
頬を膨らませているところを見ると、「ちび」と言われたことが引っかかっているようだ。
『なら言わせて貰うが、俺もまだ二十と三になったばかりだ。「おじさん」じゃない』
そんな百足に俺は反論し、さっきから気になっていたことを指摘する。
『え、そうなの?難しい顔してるから、もっと・・・むぐっ!』
『こ、こら、椛!娘が失礼な事を・・・も、申し訳ありません!』
目の前の百足は素直に感想を述べようするが、母親が慌てて娘の口を手で塞ぐと、深々と頭を下げてくる。
本当に見れば見るほど人間の親子のようだった。
顔もよく見ればかなりの器量良し。
母親の方は陰があるが、逆にそれが魅力に見えた。
子どもの方は幼さが残るが、それでも母親に似ており、将来はかなりの美人になるだろう。
『では、お兄さん?お兄さんのお名前を教えてください!』
すっかり懐かれてしまった百足に、俺も毒気を抜かれてしまう。
やれやれと言った感じではあるが、俺の目の前で目を輝かせて待っている百足を前にして「断る」とは言えなかった。
『俺の名は「宗弘」だ』
俺の名を聞いた百足は嬉しそうに笑い体を寄せてくる。
良く見ると腹から上は殆ど人間だった。
よく分からん刺青のような模様が浮かんでいるが、母親も同じだった。
しかし、顔だけではなく、身体つきもなかなか魅力的だな。
目の前の子どもはどう考えても十を少し越えたくらい。
恐らくは俺と一回りくらい歳が違うだろう。
急に黙り込んだ俺が気になったのか、椛は俺の顔を下から覗き込んでくる。
着物の隙間から見える微かに膨らみ始めた胸に視線が移り、まずいと思った瞬間。
『椛ったら、宗弘さんは疲れているのですよ?話をするのは夕餉の後にしなさい』
母親のその言葉で椛は「はーい!」と元気良く返事をすると、俺から離れ母親のところへ行くと夕餉の準備を手伝い始めた。
『・・・何を考えているだ俺は・・・』
命の恩人相手に邪な事を考えるとは、自分の浅はかさに眩暈がする。
罪悪感に頭を抱えていると夕餉の準備は終わってしまったらしく、目の前に美味そうな料理が並べられた。
『宗弘様はしばらく食事を摂っていなかったようですし、消化に良いものを用意しました』
そう言って差し出されたのは鳥の卵と米で作られた粥だった。
『行商をしている知り合いの魔物から買った物です。お口に合えば良いのですが・・・』
それを一口、口に運び舌に乗せる。
塩と卵で味付けされただけのものであったが、今はむしろその素朴な味付けが心地良かった。
『・・・どうでしょうか?』
黙って粥を口に運ぶ俺を心配そうに見つめる百足が声を掛ける。
俺としたことが食べるのに夢中で礼も何も言わないとは。
『悪い、食うのに夢中になっていた。とても美味いよ』
俺の言葉を聞いた百足は安心したように胸を撫で下ろし、自分達も食事を始める。
美味い食事と水、それに焚き火の火で体も温まり、俺の体はかなり回復した。
食事の後、椛は俺に旅の話を聞かせてほしいとせがんだ。
生まれてからずっとこの地で暮らしているからか、外の世界への憧れが強いようだった。
旅をするにはまだ幼すぎる。
いくら魔物が人を襲わなくなったといっても、それはまだ噂程度の話。
世間に知れ渡り、世の中が変わるにはまだ時間が掛かるだろう。
そんな状況で子ども一人を出歩かせるのは、はっきり言って無茶だ。
・・・俺が言えた立場ではないが。
今までに旅した街や都の話をすると、椛は目を輝かせていた。
その素直な姿に俺も気分が良くなり、売り物の品を広げると一つ一つ説明してやった。
そんな俺と椛の様子を、母親は嬉しそうに見つめていた。
最初は熱心に話を聞いていた椛だったが、今では母親の膝・・・
いや、膝かは分からんが、百足の体に膝枕されるような体勢で穏やかな寝息を立てていた。
『この、綺麗な石は何ですか?』
説明するために広げた売り物の品を仕舞っている時に、母親の方が手元にあった品を指差しながら聞いてくる。
『ん?ああ、これは翡翠の首飾りさ。俺が抱えている品では一番の高値でな、なかなか買い手が付かないんだ』
そう言って自慢の一品を手に取り、百足に見せる。
しかし、百足は俺の発した言葉が耳に入っていない様子で、ただその首飾りを見ていた。
『ひ、すい・・・』
『あ、ああ、翡翠だ。何だったら見てみるかい?』
俺はそういうと、手に持つ品を百足に差し出す。
百足は震える手でそれを受け取り、大事そうに手に乗せる。
『ああ、これが・・・』
そう言うと、突然、百足は翡翠の石を大事そうに抱え、声を上げて泣き始めた。
予想外の反応に俺は頭がついていかない。
『小吉様の、仰った通りです。石なのに触ると柔らかさを感じて、まるで小吉様の手に触れているよう・・・』
「小吉」
百足の発した言葉。
もしかして、死んだ夫の名だろうか。
百足は手に乗せている翡翠を見つめ、頬を寄せている。
どうやらこの百足にとって、翡翠はただの石ではなく、何か深い意味を持った物なのだろう。
『・・・それは、あんたにやるよ』
しばらく母親を見ていた俺は、他の品を仕舞いながら小さな声で零した。
『私は、こんな高価な物を買う金子は持っておりません・・・』
突然の俺の提案に、百足は悲しそうな笑みを浮かべる。
とてもじゃないが見ていられなかった。
『・・・命の恩人から金を取ったんじゃ、商人の名折れだ』
だから、俺はぶっきら棒にそう言った。
『え・・・』
『金はいらねぇって言ってんだ』
『で、ですが・・・』
『俺がいいって言ってんだからいいんだ』
しかし、「金はいらない」と言っても百足は素直に受け取ろうとしない。
目の前であんなのを見せられて、返せと取り上げられるわけが無い。
それに、目の前の百足が命の恩人というのは本当だ。
そんな相手から金を取るほど、落ちぶれてもいないつもりだった。
『きっと、そいつは最初からあんたの手に渡る品だったんだろうさ。だから、他の買い手が見付からなかった』
我ながら青臭い台詞を言っていると思う。
だが、どうしてもそれを百足に受け取ってもらいたかった。
男としての意地もあったが、それ以上に商人としての勘が、この百足と翡翠の「縁」みたいなのを感じていた。
『どうしても受け取れねぇってんなら、金の変わりに聞かせてくれねぇか。あんたと、その小吉ってやつの話をさ』
そう言う俺の言葉を聞いた百足は、寝返りをうった椛の髪を撫でながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
一匹の魔物と、一人の男の話を。
それは俺が聞いていた話と全く異なる内容だった。
『とんだ嘘を掴まされたみてぇだな。あの野郎・・・次に会った時はとっちめてやる』
俺は前の街でこの話を自慢げに話して来た小料理屋の店主を思い出した。
商人として品と人を見る目にはそれなりに自信があったが、俺もまだまだらしい。
『・・・すっかり話が長くなっちまった。明日には出発しなきゃなんねぇし、俺はもう寝るぜ』
遅れを取り戻すために山に入ったのに、遭難したことで余計に遅れてしまった。
明日からはまた旅を続けなくてはいけない以上、さっさと寝てしまうのが一番だ。
『はい、ではせめてものお礼に水と食べ物を用意させてください』
昔話だけでは納得しなかった様子の百足は、水と食料をくれるという。
まぁ、それくらいなら受け取っても良いかと思い「分かった」と短く答え、俺は眠るために目を閉じた。
水に食料、暖かい寝床で休んだことで幾分か回復したが、それでも俺の体を休息を欲していたのか、すぐに意識はなくなった。
『う・・ん・・』
顔に当たる陽の光に目が覚める。どうやら朝になったようだ。
目を開けると百足が入り口から外へ出て行く姿が見えた。
何となく気になった俺は、体の具合を確かめるのを理由に後をつけた。
木々の間を進み、開けた場所に出る。
そこには一本の大きな木が立っていた。
百足はその根元に歩いていくと屈み、手を合わせているようだった。
『そいつが、死んだ旦那の墓か?』
後ろから掛けられて声に顔を上げ、こちらを振り向く百足と目があった。
「後をつけて悪かった」と謝る俺に、百足は気にしていない様子で「良く眠れましたか」と聞いてきた。
俺は百足に歩み寄り、下から木を見上げる。
『・・・立派な木だな』
その木はこの山の中でもかなり立派な木だった。
自然と俺の口から出た言葉に、百足は「はい」と答えた。
『毎日こうやって参ってるのか?』
『そうですね、百足は執着深いですから・・・忘れる事が出来ないのです。番を亡くし、片百足となっても・・・』
たった一時、お世辞にも長い時間一緒に居たわけでもない男の事をここまで想い続けている百足に頭が下がる。
『それに・・・宗弘様にいただいた品を小吉様に見せたくて・・・』
そう言うと、百足は首から提げていたあの品を木に掲げた。
『小吉様、こちらの方がこの品を私にくださいました。翡翠の首飾りだそうです。小吉様の仰った通り、とても綺麗な石ですね』
百足は笑顔で木に話しかけ、手元の首飾りを見つめる。
この百足は毎日こうして死んだ旦那に語りかけているのだろう。
決して返ってこない返事を期待するでもなく、ただただ想いを伝えるために。
『そういや、あんたの名前、聞いてなかったな』
自分で命の恩人と言っておきながら、その名前すら知らないとは笑い話にもならないと思い、俺は百足に尋ねる。
『私は・・・翡翠と、申します』
目の前の百足は静かにそう答えた。
『・・・翡翠?』
『はい、私のこの百足の体がまるで翡翠の様だと、小吉様が名を付けて下さいました』
その言葉で、全て合点がいった。
昨日感じた「縁」みたいなものはこれだったのだ。
黙り込む俺を他所に、百足は「私と一緒にしては、この品に失礼ですね」と笑いながら言った。
『いや、あんたの旦那の言う通りだよ』
人と魔物。
本来であれば喰う側と喰われる側。
決して相容れない関係の男女が夫婦となり、子を成した。
しかし、夫は自分の子の顔を見る前に死に、残された妻はたった一人で夫婦の証でもある最愛の娘を守り育てる。
『え・・・?』
俺の言葉はあまりにも小さすぎて、百足の耳には入らなかった。
そんな百足に俺は「気にするな、何でもない」と答えるのがやっとだった。
『俺も手を合わせていいか?』
俺はしばらく手を合わせた後、目を開き右手でその木を触る。
『小吉さん、あんたの奥さんは立派な人だな。あんたが死んだ後もたった一人で娘を育ててる。
娘も母親に似て器量良しな子だ。・・・まぁ、少し素直すぎるがな。だから、これからもずっと見ててやんな』
荷物を取りに巣穴に戻った後、俺は美味い朝飯をご馳走になった。
それから出発する準備をして、荷物を背に担いだ。
『んじゃ、俺は行くぜ。すっかり世話になったな』
『宗弘さん、気をつけてくださいね!次はこんな無茶なことしたら駄目ですよ?』
椛は下から俺を見上げ、まるで姉のような口ぶりで釘を刺してくる。
俺はそんな椛の頭を触覚ごと揉みくちゃに撫でながら「生意気言ってろ」と笑った。
『また、いつか寄らせてもらうよ。そん時はもっと面白い話を聞かせてやるから、楽しみにしてろ』
『はい!楽しみにお待ちしております!』
そう言って椛は俺に小指を突き出してくる。俺は椛と指きりしてから、それを嬉しそうに見ている母親に声を掛けた。
『翡翠さん、あんたも達者でな』
『はい、宗弘様もお気をつけて』
俺は命の恩人である二匹の百足に背を向けると、教えてもらった道を進む。
数歩進んだところで、立ち止まり後ろを振り向く。
俺を見送る母親の顔を見て、俺は声を上げた。
『翡翠さん、あんたは番のいない片百足なんかじゃねぇよ。あんたの旦那は、あそこであんたと椛のことを見てるんだからな』
その言葉に母親は目から涙を流す。
自分の事を「執着深い、番を亡くした片百足だ」と言った百足は、その実、誰よりも心優しく恐らく夫を殺したであろう人間のことを怨む事無く静かに暮らしていた。
『宗弘様!この、翡翠の首飾り、本当にありがとうございます!』
母親はそう言って、深々と頭を下げる。
椛は俺の姿が見えなくなるまで、大きく手を振っていた。
念願の街道に辿り着き、次の街へ向けて歩を進める。
『ああ、これか・・・』
手の指が振るえ、きつく握っても尚、その震えは収まらない。
たったあれだけの言葉なのに、体の芯が震える。
『おやっさん、どんな顔するかな』
「生意気言ってんじゃねぇ」と豪快に笑い、俺に酒を勧めてくる姿が頭に浮かんだ。
その目に溢れんばかりの涙を浮かべて。
達成感・・・いや、何て言ったら良いのか分かんねぇが、これこそが自分の求めていたものだ。
俺は震える手を強く握り、背にある荷物を背負いなおす。
『んじゃ、次の街でも頑張って商売すっか!』
次の街に続く街道を歩く旅の商人は、右手を挙げて声高々にそう言った。
その顔は以前とは違い、自信に満ち溢れた一人前の商人の顔をしていた。
陽の差し込まない中で、男は足を止め額の汗を拭う。
『ふぅ、だいぶ奥まで来たな・・・』
旅の商人である男は次の目的地である街を目指して、途中にある山を突っ切ろうと道なき道を歩いていた。
普段なら大きな街道を行くのだが、前の街での商売が長引き、当初の予定よりもだいぶ遅れていたからだ。
その遅れを取り戻すべく、無茶をした結果・・・
『これは、完全に迷っちまったな・・・』
そんな時、男は前の街で耳にしたとある話を思い出す。
「この山には昔、人喰いの百足が住んでいたらしい」
何でも、近くにあった村の娘を喰い、嘆き悲しむ村にたまたま通りかかった行者によって退治されたとか。
無事に退治されたのならばと安心して山に入ったは良いが、遭難しては意味がないのは明らかだった。
途方に暮れている内に陽はどんどん傾き、あっという間に暗くなってきた。
しかも、季節は冬。
この地方は何年かに一度、大雪が降るらしく、間隔的に言うと今年が正にそれだった。
山というのは夜になると非常に冷え込む。例え真夏であったとしても、夜には霜が降りるほどだ。
男はここに来て、自分が生命の危機に立たされているという現実を目の当たりにする。
何か暖を取るものは無いかと売り物の品を見るが、生憎と火を起こす事の出来る物は持ち合わせていなかった。
だからと言って簡単に生きることを放棄するわけも無く、一先ず体力を温存すべく手持ちの干し肉を口に入れつつ体を休める。
時間は無常にも過ぎていき、太陽は完全に沈み夜になった。
それに従い、気温はどんどん下がり吐く息も白くなる。
遭難した場合の最善策は無闇矢鱈と歩き回るのではなく、体力を使わないようにじっと待つこと。
だが、それは自分を探している者がいる場合に限る。
当然ながら、旅の商人である男がこの場所で遭難しているなど誰も知らない。
つまり、ここでじっとしていたところで助けは来ないのだ。
追い討ちを掛けるようだが、この山は街道から外れているため殆ど人も近寄らず、故に運よく人に出会う可能性も絶望的。
岩肌の覗く地に腰を下ろし、膝を抱えるような体勢で体を丸める。
『自分の責任とは言え・・・』
このまま寒さに震え、出口も分からぬまま彷徨い続け、いずれ食料も水も無くなり・・・
『せめて、今が春や秋であればな・・・』
悔やんだところで状況は変わらず、夜の寒さで体が震える。
山に入ってから夕方まで、ほぼ一日歩き続けた肉体は疲労を溜め込み食べ物と水、それに温かい寝床を求めている。
暗闇に慣れた目で辺りを見回すと周りは羊歯植物が生い茂り、水の流れる気配は感じられない。
しかし、手持ちの水は残り僅か。
明日の朝になれば出口を探して歩かなくてはいけない以上、早く寝て少しでも体力を回復しようと寒さを堪え目を閉じた。
しかし、現実は時に冷酷である。
男はあれから三日間、山の中をさ迷い歩いた。
空を覆う程の山の中では方向感覚は期待できず、手持ちの少ない水と食料はすぐに底をついた。
それでも諦めずに山の中を進んだが、より深く迷い込んだだけだった。
だが、自分を探している人間が居ない以上、自分の力だけで山を抜けなくてはならず、足を止める訳にはいかなかった。
風がざわざわと木々を揺らす。
男は上を見上げ、星の浮かぶ空を見ていた。
しかし、すぐにその目は閉じられ横たわる体から力が抜けていく。
「死ぬ前に、誰かに心から喜んでもらえるような商いがしたかった」
心に浮かんだ願い。
親を亡くした男を育ててくれた親代わりの商人が、口癖のように言っていた言葉。
「この仕事は、人に感謝されて初めて一人前」
商品を売る時に、客から「ありがとう」とか「どうも」と礼を言われることはある。
しかしそれは形式的なものであり、本当に心から感謝される事は殆どない。
育ての親であった商人も五十年以上商いを続けて、それでも片手で数えられるほどしかなかったと言っていた。
だが、その時の事は何十年経っても忘れる事が出来ず、その話をする時はとても誇らしげな顔をしていた。
成人した男は育ての親の元を離れ、旅の商人となった。
「次に会うのは自分も一人前の商人になった時」
そう胸に誓い、旅に出た。
『おやっさん、すまねぇ・・・』
意識は遠のき、目蓋が落ちる。
深い深い闇の中に飲まれながら男は、最期を迎えた。
暖かい・・・
どれだけそれを求めた事だろうか。
旅をしている時は拠点とする街の宿を使っていたため、寒さに震えることなど殆ど無かった。
一人前になれなかった俺でも、仏様は引き上げてくれたんだなと思うと自然と笑みが出た。
『お母様!この方、笑っています!』
『あらまぁ、きっと良い夢を見ているのですね。もう少し寝かせてあげなさい』
しかし、あの世で死んだ両親に挨拶にでも行こうと考えていた俺の耳に入ったのは、初めて耳にする二つの声。
一つは幼い子ども。声の感じから言って女の子。
声から天真爛漫という印象が伝わり、「この方」と言うのは笑みを浮かべた俺の事を指しているのだろう。
そして、もう一つの声。
少女から「お母様」と言われているからには母親なのであろう。
少女に語り掛ける声からは優しさや愛情、慈しみなど全てを包み込むような包容力を感じた。
しかし、遭難して死に掛けている人間を捕まえて「良い夢を見ている」と言う辺り、いささか緊張感が無いように感じる。
『ぅ・・・ここは・・・』
俺は何とか声の主を確かめるべく目を開く。
『あ、お母様!今度は目を開きました!』
『あらあら、起こしてしまいましたね』
二人の人物は目を開けた俺の顔を覗きこんでくる。
しかし焚き火の火が逆行となり、寝転ぶ俺を覗き込んだその顔は良く見えなかった。
『あ、あんた達は・・・?』
しばらく水も飲んでいない俺の口はからからに渇いており、声を出すのも辛い。
『私達はこの山に住む百足の親子。貴方こそ、どうしてこのような所に?』
百足の親子?
その言葉に俺は訳が分からず、その後に続いた質問に答えることが出来ない。
それを確かめるべく力の入らない体に鞭打って上体を起こす。
『ま、魔物・・・!』
俺の目の前に居たのは、二匹の百足の魔物だった。
これが噂に聞いた人喰い百足!
し、しかし行者に退治されたはずではなかったのか!?
そんな疑問が頭に浮かんだが、それどころではない。
相手は人喰いの魔物。
恐らく先ほどの「もう少し寝かせて」というのも、寝ている間に俺を喰い殺す気だったのだろう。
俺は売り物から武器になる刃物を取り出すべく辺りを見回したが、肝心の荷物が見当たらない。
『貴方の持っていらっしゃった荷物はあちらに・・・』
俺の様子から荷物を探していると察した母親の方が洞窟の入り口を指差す。
どうやらここは百足が住処としている洞窟のようだった。
荷物を取りに行こうにも間には二匹の百足。
その二匹をどうにかして荷物を取りに行くのは不可能。
俺は目の前の母親を睨み、どうしたものかと思案する。
『・・・私達は、人は喰いません』
しかし、百足の口から聞こえたのは全く予想もしていない事だった。
『う、嘘を付くな!前の街で聞いたのだ!この山には以前、人喰いの百足がいて、近くの村の娘を喰ったと!』
「行者に退治された」という部分は誤りだったようだが・・・
百足の言葉に反論する俺を見て、母親は顔を伏せる。子どもの方はおろおろと母親と俺の顔を交互に見ていた。
『ぐっ・・・』
そんな時、俺の腹に痛みが走り起こしていた体が倒れる。
『お、おじさん大丈夫!?』
そんな俺を心配してか子どもの百足が俺に近寄る。
しかし・・・おじさん、か・・・
まだ二十を少し過ぎただけなんだが、商人なんて仕事しているからか実際の年齢より上に見られる事が多々あった。
だが、やはり面と向かってそう言われるといささか心が痛む。
『く、来るんじゃ、ねぇ・・・!』
近付く百足を威嚇するように睨み付けるが、そんなもので怯むわけが無い。
そもそも人と魔物ではその力は圧倒的な差がある。
相手は子どもの百足とは言え、俺はここ三日間、山の中をさ迷い歩いてまともな食事も摂っていない体だ。
近付き、俺に手を伸ばす百足。
俺にそれを止める力も逃げる体力も無く、今度こそ終わりだと目を堅く瞑る。
『止めなさい、椛。その方に触れてはなりません』
しかし、それを止めたのは母親の百足だった。
『旅のお方、貴方がこの山で何をしていたのかは聞きません。ですが、死にたいわけでないのならどうか、私達を信じてください』
目を開けると凛とした顔で俺を見る百足と目が合った。
『・・・俺は、旅の商人だ。次の街まで近道しようと思い、この山に入った』
商人の勘だが、目の前の百足から悪意を感じなかった俺はそう答える、
百足はその言葉に「そうでしたか」と言うと、俺の荷物を取り、俺のところに持ってくる。
『では、これは貴方にとって大切な品なのですね』
荷物を俺に手渡すと、百足は再び俺から離れる。
子どもの方も俺から離れると母親の隣に行き、俺の顔色を伺ってくる。
『・・・疑ったりして、すまなかった』
その視線に罪悪感を感じ、俺は頭を下げる。
考えてもみれば、俺を喰う気であれば俺が目を覚ます前に、それこそ行き倒れている間にそうしているだろう。
『いえ、人間から見れば私達は人喰いの魔物です。貴方が謝る必要はございません』
百足は頭を下げる俺を気遣ったのか、自分達の事を「人喰いの魔物」と言った。
『いや、話に聞いたことがある・・・この国の魔物が、ある時を境に人を襲わなくなったと』
それは旅をしている最中に耳にした噂だった。
数年前、この国に住む全ての魔物が皆、姿を変え人を喰わなくなったと。
ただの噂だと思っていた。
しかし、どうやらそれは本当の事だったらしい。
『仰る通りです。今から十年近く前の事になります。・・・この子は、この姿になってから出来た娘です』
そう言うと、百足は横に居る子どもの頭を撫でると愛おしそうに見つめる。
まるで人間の親子だなと俺は思った。
『番は・・・旦那の方はどこにいるのだ?見当たらないようだが・・・』
俺は辺りを見回すが、この洞窟には目の前の二匹の百足しか居ないようだ。
『夫は・・・おりません。この子は私が一人で育てています』
その答えに言葉が出ない。
夫はいないと言った百足だが、その様子から察するに「死んだ」というのが正解だろう。
『・・・余計な事を聞いてしまった』
そう答えた俺に、百足は「いいえ」と言うと俺に何か手渡してきた。
『・・・これは?』
手に渡されたのは湯飲み。
中身は透明の液体・・・水だろうか?
『ただの水です。信用できないのでしたら、私が飲んで・・・』
百足の言葉が言い切る前に、俺はそれを全て飲み干す。
大方、「毒が入ってないことを先に飲んで証明する」とでも言うつもりだったのだろう。
『少なくとも、あんたとそこの、「ちび」の事なら信用するさ。俺の命の恩人だからな』
そう言った俺の顔を見ると、「ありがとうございます」と百足は頭を下げた。
むしろ、礼を言うのは助けてもらった俺の方だと言うのに。
『おじさん!私は「ちび」じゃないよ!「もみじ」って名前があるんだから!』
敵意が無い事を信じてもらえた事が分かった子どもの百足は俺に近付くと、触覚を動かしながら胸を張ってそう答える。
頬を膨らませているところを見ると、「ちび」と言われたことが引っかかっているようだ。
『なら言わせて貰うが、俺もまだ二十と三になったばかりだ。「おじさん」じゃない』
そんな百足に俺は反論し、さっきから気になっていたことを指摘する。
『え、そうなの?難しい顔してるから、もっと・・・むぐっ!』
『こ、こら、椛!娘が失礼な事を・・・も、申し訳ありません!』
目の前の百足は素直に感想を述べようするが、母親が慌てて娘の口を手で塞ぐと、深々と頭を下げてくる。
本当に見れば見るほど人間の親子のようだった。
顔もよく見ればかなりの器量良し。
母親の方は陰があるが、逆にそれが魅力に見えた。
子どもの方は幼さが残るが、それでも母親に似ており、将来はかなりの美人になるだろう。
『では、お兄さん?お兄さんのお名前を教えてください!』
すっかり懐かれてしまった百足に、俺も毒気を抜かれてしまう。
やれやれと言った感じではあるが、俺の目の前で目を輝かせて待っている百足を前にして「断る」とは言えなかった。
『俺の名は「宗弘」だ』
俺の名を聞いた百足は嬉しそうに笑い体を寄せてくる。
良く見ると腹から上は殆ど人間だった。
よく分からん刺青のような模様が浮かんでいるが、母親も同じだった。
しかし、顔だけではなく、身体つきもなかなか魅力的だな。
目の前の子どもはどう考えても十を少し越えたくらい。
恐らくは俺と一回りくらい歳が違うだろう。
急に黙り込んだ俺が気になったのか、椛は俺の顔を下から覗き込んでくる。
着物の隙間から見える微かに膨らみ始めた胸に視線が移り、まずいと思った瞬間。
『椛ったら、宗弘さんは疲れているのですよ?話をするのは夕餉の後にしなさい』
母親のその言葉で椛は「はーい!」と元気良く返事をすると、俺から離れ母親のところへ行くと夕餉の準備を手伝い始めた。
『・・・何を考えているだ俺は・・・』
命の恩人相手に邪な事を考えるとは、自分の浅はかさに眩暈がする。
罪悪感に頭を抱えていると夕餉の準備は終わってしまったらしく、目の前に美味そうな料理が並べられた。
『宗弘様はしばらく食事を摂っていなかったようですし、消化に良いものを用意しました』
そう言って差し出されたのは鳥の卵と米で作られた粥だった。
『行商をしている知り合いの魔物から買った物です。お口に合えば良いのですが・・・』
それを一口、口に運び舌に乗せる。
塩と卵で味付けされただけのものであったが、今はむしろその素朴な味付けが心地良かった。
『・・・どうでしょうか?』
黙って粥を口に運ぶ俺を心配そうに見つめる百足が声を掛ける。
俺としたことが食べるのに夢中で礼も何も言わないとは。
『悪い、食うのに夢中になっていた。とても美味いよ』
俺の言葉を聞いた百足は安心したように胸を撫で下ろし、自分達も食事を始める。
美味い食事と水、それに焚き火の火で体も温まり、俺の体はかなり回復した。
食事の後、椛は俺に旅の話を聞かせてほしいとせがんだ。
生まれてからずっとこの地で暮らしているからか、外の世界への憧れが強いようだった。
旅をするにはまだ幼すぎる。
いくら魔物が人を襲わなくなったといっても、それはまだ噂程度の話。
世間に知れ渡り、世の中が変わるにはまだ時間が掛かるだろう。
そんな状況で子ども一人を出歩かせるのは、はっきり言って無茶だ。
・・・俺が言えた立場ではないが。
今までに旅した街や都の話をすると、椛は目を輝かせていた。
その素直な姿に俺も気分が良くなり、売り物の品を広げると一つ一つ説明してやった。
そんな俺と椛の様子を、母親は嬉しそうに見つめていた。
最初は熱心に話を聞いていた椛だったが、今では母親の膝・・・
いや、膝かは分からんが、百足の体に膝枕されるような体勢で穏やかな寝息を立てていた。
『この、綺麗な石は何ですか?』
説明するために広げた売り物の品を仕舞っている時に、母親の方が手元にあった品を指差しながら聞いてくる。
『ん?ああ、これは翡翠の首飾りさ。俺が抱えている品では一番の高値でな、なかなか買い手が付かないんだ』
そう言って自慢の一品を手に取り、百足に見せる。
しかし、百足は俺の発した言葉が耳に入っていない様子で、ただその首飾りを見ていた。
『ひ、すい・・・』
『あ、ああ、翡翠だ。何だったら見てみるかい?』
俺はそういうと、手に持つ品を百足に差し出す。
百足は震える手でそれを受け取り、大事そうに手に乗せる。
『ああ、これが・・・』
そう言うと、突然、百足は翡翠の石を大事そうに抱え、声を上げて泣き始めた。
予想外の反応に俺は頭がついていかない。
『小吉様の、仰った通りです。石なのに触ると柔らかさを感じて、まるで小吉様の手に触れているよう・・・』
「小吉」
百足の発した言葉。
もしかして、死んだ夫の名だろうか。
百足は手に乗せている翡翠を見つめ、頬を寄せている。
どうやらこの百足にとって、翡翠はただの石ではなく、何か深い意味を持った物なのだろう。
『・・・それは、あんたにやるよ』
しばらく母親を見ていた俺は、他の品を仕舞いながら小さな声で零した。
『私は、こんな高価な物を買う金子は持っておりません・・・』
突然の俺の提案に、百足は悲しそうな笑みを浮かべる。
とてもじゃないが見ていられなかった。
『・・・命の恩人から金を取ったんじゃ、商人の名折れだ』
だから、俺はぶっきら棒にそう言った。
『え・・・』
『金はいらねぇって言ってんだ』
『で、ですが・・・』
『俺がいいって言ってんだからいいんだ』
しかし、「金はいらない」と言っても百足は素直に受け取ろうとしない。
目の前であんなのを見せられて、返せと取り上げられるわけが無い。
それに、目の前の百足が命の恩人というのは本当だ。
そんな相手から金を取るほど、落ちぶれてもいないつもりだった。
『きっと、そいつは最初からあんたの手に渡る品だったんだろうさ。だから、他の買い手が見付からなかった』
我ながら青臭い台詞を言っていると思う。
だが、どうしてもそれを百足に受け取ってもらいたかった。
男としての意地もあったが、それ以上に商人としての勘が、この百足と翡翠の「縁」みたいなのを感じていた。
『どうしても受け取れねぇってんなら、金の変わりに聞かせてくれねぇか。あんたと、その小吉ってやつの話をさ』
そう言う俺の言葉を聞いた百足は、寝返りをうった椛の髪を撫でながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
一匹の魔物と、一人の男の話を。
それは俺が聞いていた話と全く異なる内容だった。
『とんだ嘘を掴まされたみてぇだな。あの野郎・・・次に会った時はとっちめてやる』
俺は前の街でこの話を自慢げに話して来た小料理屋の店主を思い出した。
商人として品と人を見る目にはそれなりに自信があったが、俺もまだまだらしい。
『・・・すっかり話が長くなっちまった。明日には出発しなきゃなんねぇし、俺はもう寝るぜ』
遅れを取り戻すために山に入ったのに、遭難したことで余計に遅れてしまった。
明日からはまた旅を続けなくてはいけない以上、さっさと寝てしまうのが一番だ。
『はい、ではせめてものお礼に水と食べ物を用意させてください』
昔話だけでは納得しなかった様子の百足は、水と食料をくれるという。
まぁ、それくらいなら受け取っても良いかと思い「分かった」と短く答え、俺は眠るために目を閉じた。
水に食料、暖かい寝床で休んだことで幾分か回復したが、それでも俺の体を休息を欲していたのか、すぐに意識はなくなった。
『う・・ん・・』
顔に当たる陽の光に目が覚める。どうやら朝になったようだ。
目を開けると百足が入り口から外へ出て行く姿が見えた。
何となく気になった俺は、体の具合を確かめるのを理由に後をつけた。
木々の間を進み、開けた場所に出る。
そこには一本の大きな木が立っていた。
百足はその根元に歩いていくと屈み、手を合わせているようだった。
『そいつが、死んだ旦那の墓か?』
後ろから掛けられて声に顔を上げ、こちらを振り向く百足と目があった。
「後をつけて悪かった」と謝る俺に、百足は気にしていない様子で「良く眠れましたか」と聞いてきた。
俺は百足に歩み寄り、下から木を見上げる。
『・・・立派な木だな』
その木はこの山の中でもかなり立派な木だった。
自然と俺の口から出た言葉に、百足は「はい」と答えた。
『毎日こうやって参ってるのか?』
『そうですね、百足は執着深いですから・・・忘れる事が出来ないのです。番を亡くし、片百足となっても・・・』
たった一時、お世辞にも長い時間一緒に居たわけでもない男の事をここまで想い続けている百足に頭が下がる。
『それに・・・宗弘様にいただいた品を小吉様に見せたくて・・・』
そう言うと、百足は首から提げていたあの品を木に掲げた。
『小吉様、こちらの方がこの品を私にくださいました。翡翠の首飾りだそうです。小吉様の仰った通り、とても綺麗な石ですね』
百足は笑顔で木に話しかけ、手元の首飾りを見つめる。
この百足は毎日こうして死んだ旦那に語りかけているのだろう。
決して返ってこない返事を期待するでもなく、ただただ想いを伝えるために。
『そういや、あんたの名前、聞いてなかったな』
自分で命の恩人と言っておきながら、その名前すら知らないとは笑い話にもならないと思い、俺は百足に尋ねる。
『私は・・・翡翠と、申します』
目の前の百足は静かにそう答えた。
『・・・翡翠?』
『はい、私のこの百足の体がまるで翡翠の様だと、小吉様が名を付けて下さいました』
その言葉で、全て合点がいった。
昨日感じた「縁」みたいなものはこれだったのだ。
黙り込む俺を他所に、百足は「私と一緒にしては、この品に失礼ですね」と笑いながら言った。
『いや、あんたの旦那の言う通りだよ』
人と魔物。
本来であれば喰う側と喰われる側。
決して相容れない関係の男女が夫婦となり、子を成した。
しかし、夫は自分の子の顔を見る前に死に、残された妻はたった一人で夫婦の証でもある最愛の娘を守り育てる。
『え・・・?』
俺の言葉はあまりにも小さすぎて、百足の耳には入らなかった。
そんな百足に俺は「気にするな、何でもない」と答えるのがやっとだった。
『俺も手を合わせていいか?』
俺はしばらく手を合わせた後、目を開き右手でその木を触る。
『小吉さん、あんたの奥さんは立派な人だな。あんたが死んだ後もたった一人で娘を育ててる。
娘も母親に似て器量良しな子だ。・・・まぁ、少し素直すぎるがな。だから、これからもずっと見ててやんな』
荷物を取りに巣穴に戻った後、俺は美味い朝飯をご馳走になった。
それから出発する準備をして、荷物を背に担いだ。
『んじゃ、俺は行くぜ。すっかり世話になったな』
『宗弘さん、気をつけてくださいね!次はこんな無茶なことしたら駄目ですよ?』
椛は下から俺を見上げ、まるで姉のような口ぶりで釘を刺してくる。
俺はそんな椛の頭を触覚ごと揉みくちゃに撫でながら「生意気言ってろ」と笑った。
『また、いつか寄らせてもらうよ。そん時はもっと面白い話を聞かせてやるから、楽しみにしてろ』
『はい!楽しみにお待ちしております!』
そう言って椛は俺に小指を突き出してくる。俺は椛と指きりしてから、それを嬉しそうに見ている母親に声を掛けた。
『翡翠さん、あんたも達者でな』
『はい、宗弘様もお気をつけて』
俺は命の恩人である二匹の百足に背を向けると、教えてもらった道を進む。
数歩進んだところで、立ち止まり後ろを振り向く。
俺を見送る母親の顔を見て、俺は声を上げた。
『翡翠さん、あんたは番のいない片百足なんかじゃねぇよ。あんたの旦那は、あそこであんたと椛のことを見てるんだからな』
その言葉に母親は目から涙を流す。
自分の事を「執着深い、番を亡くした片百足だ」と言った百足は、その実、誰よりも心優しく恐らく夫を殺したであろう人間のことを怨む事無く静かに暮らしていた。
『宗弘様!この、翡翠の首飾り、本当にありがとうございます!』
母親はそう言って、深々と頭を下げる。
椛は俺の姿が見えなくなるまで、大きく手を振っていた。
念願の街道に辿り着き、次の街へ向けて歩を進める。
『ああ、これか・・・』
手の指が振るえ、きつく握っても尚、その震えは収まらない。
たったあれだけの言葉なのに、体の芯が震える。
『おやっさん、どんな顔するかな』
「生意気言ってんじゃねぇ」と豪快に笑い、俺に酒を勧めてくる姿が頭に浮かんだ。
その目に溢れんばかりの涙を浮かべて。
達成感・・・いや、何て言ったら良いのか分かんねぇが、これこそが自分の求めていたものだ。
俺は震える手を強く握り、背にある荷物を背負いなおす。
『んじゃ、次の街でも頑張って商売すっか!』
次の街に続く街道を歩く旅の商人は、右手を挙げて声高々にそう言った。
その顔は以前とは違い、自信に満ち溢れた一人前の商人の顔をしていた。
14/05/05 02:19更新 / みな犬
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